もはや「哀愁のNHK」は解散を!

テレビを観なくなって久しいが、外食時に飲食店のテレビを観るとえらく新鮮に感じるのは、正気とは思えない内容をアナウンサーが真顔で、しっかりした日本語で伝えることをやっていることに、単純に呆れるからである。

原稿を読む、という作業を生身の人間がやるのは、あたかも知性ある者が言うのだから「真実だと演出」しているにすぎない。
A.I.にやらせたら、おなじ原稿でも信じる者が減って、プロパガンダ(政治的宣伝)の高価がなくなるとかんがえているからだろう。

民放の場合は、必ずしもNHKのような厳密さを追求しているわけでもなく、さりとて、放送内容の品質が悪いのは昔からだから、ニュースはNHKしか観ないと決めていた昔の自分をいまでも褒めてあげたい。

たとえば、先月28日の大雨に関するニュース報道で、とある民放は静岡県磐田市の河川が増水し、橋の直下まで水位が上がっている映像に、「欄干まで水が迫っている」とナレーションを入れて放送した。

「欄干」とは、橋などに設置する手すりのことで、足元の支えもこれに含まれるので、一概に「間違っている」とは言えないけれど、映像と言葉のイメージが違うことに、調整室にいるひとの誰も気づかなかったのだろうか?

それよりも、この橋を通行止めにするような要請を当局にすべきで、放送中にたまたま通行するものがいなかったのは幸いである。
もしや?ひとが橋ごと流される絵がほしかったわけではあるまい。

さて、「哀愁のNHK」とは、現職のバイデンと前職のトランプ氏の一回目討論会に関する、アメリカのマスコミ評価についての総括的なNHKのコメントをさす。

いまやネットを観る者なら気づく、アメリカの(左派)マスコミの論評は、バイデンを「絶望」とも表現するほどのショックに包まれていて、討論放送直後から始まったCNNの専門家たちのコメントであからさまな候補者(バイデンのこと)を交替させるべき、という発言に各社も同調していることである。

この「同調」が、はじめからこの討論会の目的(バイデン降ろし)だったのではないか?と疑われているのは、これまでのかれらの所業からの延長線における予測である。

ああそれなのに、それなのに、わがNHKは、「アメリカのメディアは、バイデン氏について力強さと安定感、それに精彩を欠いていたと伝えています」とのたまわっているのである。

なるほど、ものはいいようである、と言いたいところだが、これでは「候補者の適格性そのものが疑われている」ことと、こんなしどろもどな人物が、任期途中の現職にあることの重みがぜんぜん伝わってこない。

何度も書くが、アメリカ合衆国大統領は、核のボタンを押せるのである。

そんな中、29日、NHKの「お昼ニュース」には、ロシア外務省が7月19日から25日の間、北海道で航空自衛隊の戦闘機とドイツ、フランス、スペインの空軍との共同訓練実施に関し、容認できない旨の抗議をしたとあっさり伝えた。

まさに、実質的なN A T Oとの訓練といえるし、ロシアが言う「岸田政権の無責任な政策が北東アジアやアジア太平洋地域の緊張を拡大させる」とは、むかし、ソ連が言っていたのとは異なって、えらく説得力があるものだ。

いまや日本国民に敵対しているのが、岸田自公政権だから、我われ国民も重大な関心をもたないといけない。
自民党内で、あたかも「岸田降ろし」がはじまったかのような報道も、そのスピード感から、国民を欺く演技だとわかるものだ。

さらに、小林製薬の紅麹サプリについて、小林製薬を敵対視してはばからない厚労相の発言は、亡くなった被害者のワクチン接種歴については、「調査しない」とも明言している。

自民党は、共産主義のみならず科学を無視するカルト政党の様相も加わった、ナチスと化した。

さて、討論会で大きく揺らいだバイデン政権の生き残り策が、極東の安全を日本側からの挑発という形式で、またもやウクライナ・パターンをやることらしい。
もはや、ウクライナは身分不明なゼレンスキー氏も言いだした「敗北」で、戦争屋たちは場面を極東に切り替え、ついでに「同盟国の危機」として、大統領選挙の中止を狙うのか?

だとすると、ポスト岸田は、菅義偉前首相の返り咲きというシナリオが見えてくる。

なぜならば、このひとが「アイヌ新法」をやった立役者で、そのアイヌは樺太・ロシア系の「先住民族」ということになっている。
これをウクライナに当てはめれば、ロシア語の東ウクライナ人を守るためという、プーチン氏の論法がそのまま通るのである。

さすれば、機を見て沖縄・九州・西日本が中国に与えられ、維新の会がいう、「大阪都構想」は簡単に現実化する。

日本三分割の地獄は、なるほどバイデン・民主党政権の永久化ができるなら、どうでもいいことだと判断されている可能性もある。

その時、NHKはどうなるのか?

なにもかんがえていない人たちが、わが世の春を謳歌していることこそ、「哀愁」なのである。
それで、「解散」となっても、国がないのだ。

皇紀にして2684年のことしが、わが国の最後の年になる可能性が高まっている。