健忘国民の「令和の米騒動」にみる絶望

スーパーから米が消えたのを、その言い訳の張り紙「昨年の天候不順」をみてすぐさま信じ込むのは、いかに日本人が劣化したかを示すいい例になっている。

もちろん、昼下がりのファミレスなどでタムロしている主婦たち全員が手にしているのは、スマートフォンという呼び名のコンピュータである。

話を中断して夢中になっているのが、おそらく個人情報がダダ漏れのLINEであろう。

しかしてこの人たちは、家庭に戻っても夫婦そろって情弱なので、なんでスーパーに米がないのか?について、アクティブに調べようとなんかしないし、天候不順のほかにテレビのワイドショーで垂れ流している「インバウンド」の外国人が食べているからを疑いもしない。

国家が統制している、学校教育の結果がこれである。

アメリカでは、フェースブック(社名は「メタ」)を創業したマーク・ザッカーバーグ氏が国会にて、ホワイトハウスからの検閲要請に従ったことを証言して大騒ぎになっている。

彼はまた、私財400億円を前回の大統領選挙に投じた結果、彼の意図した社会に役立つどころか歪めてしまったことにも言及し、今回は資金を投じないとも明言している。

なんでもアメリカ民主党の真似っこをする自民党が、日本政府をつかって検閲(情報操作)しているのではないか?との疑念は晴れていない。

さてそれで、米がスーパーからなくなって、どの店もおなじ「昨年の天候不順」を張り紙で主張しているが、とんでもない嘘である。
第一に、昨年に「米の不作を伝えた報道はなかった」のであるが、情弱たちの記憶力も今では痴呆症的なのである。

ちょっと調べれば、昨年の出来は、作況指数が「101」(平年並み)という発表がされていたのである。
ちなみに、平成の米騒動(1993年)のときの作況指数は、「74」という、江戸期なら飢饉並みだったのである。

ではなぜに米がないのか?には、理由が二つある。

一つは、米価が安すぎて物流側が出荷しないばかりか、農家自体が自分の家に保管して出荷しないのである。
安すぎるのは、政府が農協に買取価格を抑えるように命じたからである。

二つめは、政府による「減反政策」に困った農家が、飼料用の米にシフトしたことが挙げられている。

これは、米をつくる「たんぼ」の保持が最大の理由なのである。
麦は連作障害が出るが、米は連作しないといけない。
つまり、いったん米づくりを休む(休耕する)と、再開がやたらと困難になることを農家は知っているからだ。

ついぞ100年前の農業国だった日本なら、こんなことは国民の常識だったが、給料取りが多数になったら、米作りとはどんなことをやっているか?すらわからない国民にさせられたのである。

食べる場面だけが「グルメ」だなんだと強調されているのは、まさにGHQによる「3S政策」だけれども、それがとうとう、食料をつくることの興味を消し去ったのである。

この愚かな国民は、何年か後に来るだろう、「飢餓の危機」にもまったく無頓着なのである。
これを、世界は、「愚民の滅亡」としてただ呆れて眺めるだけになるだろう。

食料をつくることに興味がないばかりか、飢餓のリスクすら想像できないので、日本人を滅亡させようと躍起の日本政府を疑うこともなく、「減反」に応じない農家をわがままだとして糾弾するのは、もはや自分が食べているものが何か?すらわからない家畜同然に成り下がったのである。

宿泊税を業界が要請する怪

28日、沖縄県の、「沖縄ツーリズム産業団体協議会」が、宿泊税導入の「陳情書」を出したとの怪ニュースがあった。

突如、残暑の中で背筋も凍る「寒い」ニュースである。

なお、知事(役所)サイド、あるいは、県議会サイドからはもっと強力な原案提示があったとかが理由で、業界サイドがこれで勘弁して下さいという意味なのかもわからないのは、そうした背景情報がどこにも見当たらないからである。

わが国は、決定のプロセスが公開されないことがふつうになっている。

むかし京都で、有名な神社仏閣に「拝観税」を徴収するといいだしたら、寺院側が拝観停止という強硬手段に出たことがある。

京都における「白足袋族」の代表が、坊主なので、この話題は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の拡大がおきた。

ちなみに、「白足袋族」とは、ほかに、呉服屋(西陣)の主人とか、茶人、それに学者とか伝統芸能のひととか和服に白足袋を履いている集団で、地場に隠然たる力をもっているひとたちを指し、庶民から「逆らってはいけない」といわれるひとたちのことをいう。

それでもって、祇園やらの花街界隈でのお得意さん・常連という特徴もある。

とくに、京都の寺院は、たいがいが「大本山」とかの「名刹」ばかりなので、檀家の墓地はなくとも、末寺からの上納金で生きている。
こうした仕組みは、日本のヤクザ社会にも導入されているものだ。

はたして、「門跡」ともなれば、世が世なら庶民が直接口をきける相手ではない。

そんなわけで、京都人の「イケず」な性格が、「税」の議論に入り込んだので、感情論も含めてやたら面倒なはなしになったのである。

しかし、わが国には、中途半端な「法定外税」という仕組みがある。
これは、地方議会の議決による「条例」で定めることができる「税」なのだ。

なんのための地方議会なのか?を問うたとき、最大のポイントがこれだ。

しかし、日本人には、「幕藩体制」がDNAに仕込まれたのかしらないが、地方独自の「税」があることに抵抗感が低い。
その割に、「天領」の方が格が上だとするヘンな自慢があって、それを21世紀のいまでも滋賀県の大津だと徒歩でまわれば体感することができる。

よくアメリカが引き合いに出されるが、彼の国は「合州国」なので、「州」ごとに別の国といえるから、「税」からなにから違うのは当然だけど、明治から平安朝以来の「中央集権国家」になったはずの日本だと、「藩」で違っていたことの中途半端な名残なのである。

さてそれで、沖縄県の椿事は、形の上だろうが業界団体がすすんで新税(県税)の陳情をしたことだ。

県民には課税しないということの意味は、県外客からなら収奪してもよいという、まるで山賊のような思想がみてとれる。
どうやって、県民と他県民を認識するのか?は、よくわからない。
沖縄の友人から予約してもらって、「県民」を装えば、課税されないのかもしれない。

それに、税率の「3%」とは、あたかも消費税導入時を思い出すが、県外客が相手だからそのうちいくらにでもなるのだろう。

なんにせよ、結局、この目的税の配分が欲しい、という乞食根性の発露だというわけだ。

3%の利益をあげる方策をかんがえることを放棄して、社会主義による役所からの安易な分配に目がくらんだのか?
なんだか、いまはだれも読まなくなった、尾崎紅葉の『金色夜叉』の貫一・お宮のようなのだ。

おそらく、沖縄の観光振興は、ぜんぶ県庁主導になって民間活力は消失し、国営ならぬ「県営」の略奪的観光地になる最初の一歩になるのだろう。
その前に、「新税」を創設することの重大性を、当該県議会議員たちが理解しているのか?

「琉球独立運動」の、別の側面「ソ連化」がこれなのだと全国にしらしめたのである。

政策選択に「減税」がない

政府の赤字を補うのは、福田赳夫政権からの「赤字国債」になって、その赤字国債を購入しているのが日本国民だ。
国民ひとりひとりは、「国債」なんか持っていないのだけれども、預金している銀行が持っている(日銀から押しつけられて買わされた)から、なんのことはない話なのである。

これは、政府の借金は、国民の資産になっていることを表す。

「経済の福田」を自慢していた自称エリートの福田赳夫は、もちろん、「大蔵官僚」(主計局長)だった。
それに加えて、経済とはほど遠い、東京帝国大学法学部でしかもフランス法科の卒業である。

当時は高度成長していたので、その余裕から、「角福戦争」なる、ヤクザまがいの抗争もやっていた。
田中角栄と福田の総理・総裁の座を巡って、両陣営から現金がばらまかれた。

「金権政治」は、なにも田中角栄の専売特許ではなかったのだが、国民はあっさりと擦り込まれてしまった。

ロッキード事件という不可思議な「事件」は、アメリカ議会の公聴会が震源地だった。
これで、「田中角栄逮捕」の号外が配られて、それを友達といた横浜駅西口でもらったのが、わたしの人生で初の「号外」を手にした瞬間だった。

どうして友達と横浜駅西口にいたかといえば、昭和51年7月27日(火曜日)だから、学校が夏休みになったばかりだったからである。

もうとっくに、「派閥政治」がふつうだったけれど、ありえないほど極小派閥の領袖だった三木武夫が首相になった不可解がある。
似たような話では、中曽根康弘もおなじだった。

中曽根は自身を「青年将校」といって自慢していたが、この御仁は、軍本流ではない「主計」将校で、これがまたおおいに腐敗していたことは、会田雄次『アーロン収容所』に詳しい。

ようは、福田も中曽根も、あたかもおなじ群馬県でバチバチだったとはいうが、どちらも「主計」出身の腐敗臭がする共通がある。

「財界の広報紙」だった日経新聞の腐敗は、とうとう「政権与党広報紙」にまで昇格して、「歴代政権、減税に失敗の歴史」なる、プロパガンダを昨年10月13日にだしている。

一方で、アメリカでは共和党政権のなかでも歴史的になった、「レーガン減税」があって、これを「トランプ1.0」では、さらなる減税をやって空前の好景気にしたのだが、いまになってふつうのアメリカ人が思い出している。

ときに、減税の経済効果は、大学の授業で圧倒的に採用されていた、『サミュエルソン 経済学』にもあったから、いまどきの財界人はむかしに習ったことも思い出せないらしいし、「(政府)財政」でいえば、減税による消費刺激がかえって政府の法人税収入を増やすことは常識なのだ。

なぜならば、個人消費支出こそが経済循環の要だからである。

しかし、日本経済とドイツ経済の「刈り取り」を開始した、欧米の支配層たちは、ぜったいに日本で減税をやるなと、命じたから、命じられた政権与党と政府、それにプロパガンダ機関とが組んで、むりやり「増税」を推進し、国民生活の破壊からの社会不安を創造しようとしている。

まさに、全体主義体制への転換をすすめているのである。

なので、前回紹介した『裸の共産主義者』は、タイムリーなのだ。

いま、「減税」をいう政党は、中核派の「れいわ新選組」と、ナショナリズムの「参政党」という、対極にあるふたつの弱小政党しかない。

あとは、共通の「指令」を受けている、まさに「既存政党」だという特徴がある。

ちなみに、参政党設立時のメンバーだった、渡瀬裕哉氏は、「政府に使えるカネをなくす」と、国民生活が豊かになるメカニズムを明快に解説している、国内では珍しい論を張っているので参考になる。

最低でも、第二法人税たる消費税をやめさせることが喫緊の課題なのである。

これは、元自民党代議士だった、安藤裕(あんどうひろし)氏の主張が大いに参考になる。
ガス抜き議員のひとり、青山繁晴参議院議員が、廃止ではなく消費税減税をかかげて総裁選に挑もうとしているのも、やっぱりガス抜きなのか?

『裸の共産主義者』を読もう!

このブログでなんども引用・紹介している、「カナダ人ニュース」こと、「やまたつ」さんの最新(24日発売)アマゾン限定本である。

過去に何度か動画にして配信したのを、文字にされた。

原著は1958年のアメリカで出版された、『The Naked Communist』である。
わが国は1952年に主権を回復したとされているが、米ソ冷戦の真っ只中にあって、アメリカが自由圏の盟主として輝いていた時代のものである。

「反共」の古典としては、このブログで何度も引き合いに出しているハイエクの『隷従への道(『隷属への道』もある:The Road to Serfdom)』(1944年)が、世界で最も有名な一冊だろう。

戦時中にもかかわらず、リーダーズダイジェストに載ったら、記録的な部数がアメリカで売れたのである。
アメリカ人も活字を読んでいたのである。

なお、原著タイトルが、「slave」ではなく、「農奴:serf」なのにも注意してほしい。

日本では、慶應義塾の塾長にして文化勲章を授賞した小泉信三の『共産主義批判の常識』(1949年)があって、『資本論』の基礎をなす、「労働価値説」を単純明快に真っ向から批判しているのが痛快であったため圧倒的な反響があった一冊なのである。

当時の日本人は、ちゃんと本を読んでいた。

出版年の昭和24年は、まだわが国は「占領=征服」されていた時代の中での出版だったことは、ふつうに検閲をしていたGHQのなかにあって共産主義親派の「民政局」ではなく、ウィロビー少将率いる「参謀第二部」が許可したのだろうと推察するのである。

もちろん、当時は本の出版だって、まだ紙とインクが貴重だった時代だ。

何度も書くが、最初に「DS:ディープステート」を口にしたのは、退任時のアイゼンハワー大統領(共和党、陸軍元帥)であった。
おそらく、ダレス兄弟(兄は国務長官、弟はCIA長官)の行動が、この明るい人格のアイクをして気づかせたのではなかろうか?

もちろん、戦前から戦争を仕組んで日本を追いつめるのに成功した、フランクリン・ルーズベルト ⇒ トルーマン、という残忍で凶暴、しかも社会主義思想のひとたちがアメリカを仕切っていた。

アイゼンハワーだって、ルーズベルト政権下における「元帥」だったのである。

しかし、ルーズベルトの「ニュー・ディール政策」は、完全破綻していて、いまのバイデン政権の経済政策のようなひどい結果を誤魔化すために、戦時経済に移行したのである。
あたかも、ウクライナやイスラエルのようであるが、ウクライナは2014年の「マイダン革命」で親ロ政権が崩壊している。

これを仕掛けたのが、オバマ政権(バイデンは副大統領)で、現場指揮には国務省のヴィクトリア・ヌーランド(当時、ヨーロッパ担当次官補)があたったのは、もはや公開情報である。

そのオバマには、「出生の疑惑」があって、じつはアメリカ人なのか?を含めた何者なのか?がよくわからない人物なのである。
しかし、明らかに共産主義・全体主義が大好きなこのひとは、共産主義者らしく権力に関する執着が強く、バイデン政権は「オバマ3.0政権」といわれて、真の大統領はオバマだといわれてきた。

アメリカ大統領は、引退後にワシントンD.C.からも引くことが慣例であるのに、これを平然と破っていたのもオバマが初となっている。
彼の「箸の上げ下げ」指示に嫌気がさしたバイデンの心理は、あんがいと理解しやすい。

しかして、おなじく「院政」をやりたい、戦争屋の銭ゲバ亡者たるクリントン夫婦は、バイデン降ろしに加担してオバマと共同歩調をとったが、最後の引導はオバマが与え、頭に血が上ったバイデンはオバマへのいやがらせとして、カマラ・ハリスを直接後継指名するに及んだのである。

オバマは、その妻?とする、ミッシェル(マイケル)・オバマに差し替えたがっていたからだ。

そんなわけで、ぐちゃぐちゃな民主党は、ケネディ.Jrの揺さぶりに、今後、トランプ支持に回る有力者が出てくるだろうし、すでにRINOたちは我慢できなくなって、過去の共和党大統領を支えたひとたち200人あまりが、カマラ・ハリス支持を表明している。

トランプがいう、「ワシントンの沼の大掃除」が、あぶり出しとなっているのである。

こうしたダイナミックさがあるアメリカにはまだ希望がある。

この時期に、日本人の頭にこびりついた錆落としに、お薦めの一冊が出たのは幸いなことなのである。

日本人の75%がカマラ・ハリス支持?

25日付け、毎日新聞の世論調査として公表された数字である。
トランプ氏は、わずかに16%だという。

もちろん、調査元が「毎日新聞」だということから、ほとんど信用ならぬと切り捨てることも可能だが、この記事のマズイ点は、調査の基本中の基本にあたる、調査方法もサンプル数も有効回答数も公表していないことにある。

つまり、ぜんぜん「社会調査」に値しないものなのだ。

もっといえば、毎日新聞がてきとうに創った数字かもしれないが、それを読者に無条件で押しつけたともいえるのである。

世界のプロパガンダ機関に変貌した、BBCは、22日の民主党大会における「候補受諾」をおおきく伝えて、とにかく「ヨイショ」の口火切ったことの、追従だともとれる。

対して、すこしでもはやく、日本企業経営者たちにカマラ・ハリス有利を擦り込む努力をしているのが、20日付けJETRO(日本貿易振興機構)という、政府系機関という名の犬である。

何度も書くが、アメリカ大統領選挙は、「州ごとの勝敗」で決まるのであるから、それゆえに、「全米世論調査」は役に立たないのをしっていてこうした記事で誘導しようとするのは、もはや悪質としか評価のしようがない。

25日の、ケネディ.Jrとトランプ氏のコラボは、いまでは日本政府の情弱な役人たちをパニックにおとしめた痛快がある。

日本人は、「英国」とか、「BBC」とかと聞けば、なんとなく信用してしまうように訓練されている。
80年前までの「鬼畜米英」を、完全に消去されたのである。

わが国の萬世一系とちがって、ヨーロッパの王朝はどれもがいかがわしい歴史をもっている。

そもそもが3000家族程度の支配者たちが、あのエリアを分割統治していたのである。
英国とは、1066年に大陸のウィリアム征服王(W. the Conqueror)が上陸して、まさに征服された島である。

ようは、それ以前は、ケルト族、ローマ帝国(ラテン)、アングロ・サクソンといったひとたちが治めていたから、なんにせよ「いろいろ混じっている」国だ。

えらく長かったエリザベスⅡ女王の「ウィンザー朝4代目」が終わって、「マウントバッテン朝」に移行した初代王が、いまのチャールズⅢ国王である。
この人物は、若いときからいろいろあるが、あんがいと芸術家の側面があって、カメラではなく即興でスケッチを描くのを得意としている。

皇太子時代の1991年には、『英国の未来像: 建築に関する考察』という、なかなかに鋭い批判を展開した本を出版していて、日本語版もあると前に書いた。
ちなみに、「皇太子」といういい方は「皇帝の跡継ぎ」なので正しくなく、「王国」であれば「王太子」が正しい。

しかして、「チャールズ」という名前をどうしてつけたのかしらないが、Ⅰ世(清教徒革命で処刑)も、Ⅱ世(王政復古時代を築くが名誉革命で終わる)も、「吉兆」にはならない名前である。

なんにせよ、エリザベス女王時代の終わりから、BBCは偏向をはじめ、英国をかつての社会主義の国に変貌させるのに役立っているのである。

ネット時代の日本人は、スマホからのニュース受信をしているのだろうが、これらのソースがみな汚染されている。
いまや、世界最大のニュース源は、「X(旧ツイッター)」になっているのだけれども、相変わらず汚染されているニュースを読んで洗脳されているのは確かだろう。

「鬼畜米英」とは、うまいいい方だが、いまの日本人はこれをナンセンスと笑い飛ばすようにさせられたので、その真実を訴えても心に響かない。

まさに「鬼畜」による、日本人洗脳の成功がここにある。

数学は理系ではなく文系だった

数学が理系に分類されたのは、どうやらわが国の場合、明治になってから「洋算」を導入し、つまり、「和算」を捨てたときかららしい。

これはあんがい厄介なことで、「世界三大数学者」でいう三人とは、ニュートン、ライプニッツ、それに、関孝和だからである。

洋算派からは、困ったことに、和算の関がいる。

現代人には意外な場所かもしれない、神社には、「算額」とよばれる「額」にした絵馬が奉納されていることがあって、これは自分が考案した問題が解けたことの感謝を表しての奉納なのである。
いま、これらの問題を、高校生が留学生と一緒にワークショップで解くイベントもおこなわれている。

もちろん、その解き方は、「洋算」になるのではあるけれど。

明治政府をつくった薩長の「文系人」たちは、「文明開化」として、欧米の「科学」を日本に移入するのにセットで付いてきた「洋算」を一緒に採用して、これら全部を「理系」と分類した勘違いが始まりだという。

なぜなら、たとえばニュートンの英国では、数学は「論理学」の一部であるとして、いまだに位置づけられている。
もちろん、まだ「物理学」という学問がなかったので、ニュートンも自身を「哲学者」だと認識していた。

ようやく、「自然哲学」という、哲学のなかに「自然」を相手にする分野ができたころである。
それで、ここから、「自然科学」が生まれてくるのである。

ところが、数学は自然科学ではない。

いまだに「論理」のためのもので、それが「言語」としての意味を持っている。
つまり、「数学の作法」とは、言葉における「文法」のことなのである。

すると、いろんな記号を用いる数式やらは、ぜんぶが数学という言語を表記するための文字体系だということになる。
ようは、全世界共通言語としての数学であって、もしもあえて説明を要するときに、英語や日本語を捕捉的に使っているにすぎない。

逆に、母語が何語であろうがとにかく、「1+2=3」なのである。

だとすると、われわれは、少なくとも母語の日本語(国語)と、第二外国語としての英語やらの他に、世界共通言語しての数学を習っている。

残念ながら、日本人の多くは外国語が超苦手なのではあるが、数学という言語については、あんがいと強い民族なのである。
なので、外国からの留学生と一緒に「算額」の問題に挑戦できるのは、紙の上での「数式という共通語」があるために、あんがいと楽しく「筆談」ができるのだという。

そんなまさか?と思うだろうが、お釣りの計算を間違えない日本人は世界的に数字に強いと認識されていることは確かで、しかもたいてい「暗算」である。

もしも伝票を筆算で計算するとしても、日本人には難なくできる、ので世界から不思議がられるのである。

これはまたなぜかというと、江戸の関孝和をはじめとした「和算」の大家たちが、「筆算」の方法を考案してくれていたからである。
小学生で算盤塾に通っていたら、なおさらだ。

いま、算盤塾がブームなのは賢い親がいるからだし、国際化すればするほど算盤の驚異的な計算力が、おとなになって役に立つこと間違いなしだからである。

ためにこうした素地が、明治の転換期に、日本人は「洋算」にあっさり適合できたのだという説がある。

昨今の不況ではなくて、失われた30年だか40年の原因に、数字を忌避する文系人たちの支配がさせたのだとかんがえたら、なんだか納得がいく。

論理なき言語を使うとは、言葉遊びにすぎないが、その言葉が人間の思考を決定するのだから、たまたまの例ではあるが、「パリオリンピックの悲惨」な出来事も論理なき結果としての無残とは「無算」だともいえるだろう。

そんなわけで、わが国における数学(洋算)の授業の面倒は、論理を学ぶはずが、手計算による計算能力に重点が置かれた(受験のテスト)ために、えらく本末転倒の状態になっている。

世界では、「学習用グラフ電卓」を授業で用いるのが常識化しているのは、とにかく論理を生徒に学ばせたいためで、面倒な計算は機械にやらせることにある。

わが国の数学教育で、こうした文明の利器がほとんど一般的に普及しないのはなぜなのか?

その教師たちの論理はもしや、「人種差別」につながる?という過剰反応なのかもしれないとおもいついた。
自分に面倒なことは、奴隷にやらせればいい、というあの「肉食の思想」である。

たしかに、電卓を擬人化すれば、人間にとっての電卓は立派な奴隷である。
けれども、なぜに電卓を擬人化するのか?をかんがえると、八百万神が登場する。
そこには、計算方法ではなくて「和算」で解けたときの感謝を神社に奉納する思想がみえてくる。

なんのことはない、グルッと一周してもとにもどる。

だがしかし、いまや「肉食の思想」をもった世界の多数派による、弱肉強食の餌食にされているのが日本人なのだ。

神社の神様に奉納する文系の思想を、ここ一番で発揮させるために、いまは「教育用グラフ電卓」をもって、各種問題を解いてみることをやったらどうかとおもう。

なんと、そのシェア世界一の、テキサスインスツルメンツの製品『TI-Nspire CX II CAS』は、ざっと3万円するけれど、「ipad用の正規アプリ」は4500円でだしていた。

「つかいかた」も売っている。

おとなには、硬くなった頭をほぐすのにいいのだろう。
ただしき、おとなのおもちゃである。

日本企業買収の「のろし」があがった

「法螺貝」の音も聞こえるようだ。

きっちりと、岸田氏は「日本への直接投資」を外国、とくに、ロンドンのシティで呼びかけたことが記憶にあるように、じつは、「売国」をやりますよと予告してのことだったので、あわててはいけない。

しかし、19日に、カナダの企業から買収提案があった、「セブン&アイ・ホールディングス」の件ではBBCすら報じたように、衝撃が走ったのは事実だろう。

それで、買収額はいくらなのか?が先走っているが、6兆円とも15兆円ともいわれる超大型買収提案ており、そもそもセブン&アイ・ホールディングスが受けるかどうか?ということが先である。

はやくも、この買収によって「円高」を見込むひとがいるようだが、気がはやすぎるし、残念ながら円相場はこの程度で大きく動くことはないほどにでかいものだ。

さてそれで、穿った見方を書いておこうとおもう。

まず、このはなしのタイミングである。
そもそも、言いだしっぺといわれる岸田氏が事実上の首相退陣を表明し、自民党総裁選が混沌としている時期にあてている。

わたしは、自民党に興味がないので、総裁選にも興味がはないが、この巨大な日本企業の買収提案に対して、「絶対反対!」を口にする候補が皆無なことに注目したい。
つまり、「日本売国」は、岸田氏の個人的な政策ではなく、あきらかに自民党の「党是」になっているのである。

いい悪いの議論は差し置いても、日本製鉄(旧「新日鉄」)による、USスチールの買収(約2兆円規模)に、即座に「反対」を表明したのは、トランプ氏だったことと、まったくの逆をいくのが自民党なのである。

これはまた、アメリカ民主党と歩調をあわせているともいえる。

カマラ・ハリスがやっている中身の見えない「概念だけ」の演説会でも、アメリカ主流・左派マスコミさえもが批判した、経済政策は「コミュニズム」をもじって、「カミュニズム」という新語をつくりだしら。

「カマラの共産主義」という意味である。

このブログでなんども書いてきた、自民党の共産化をアメリカ左派マスコミが認めてくれたも同然なのである。

円相場の1ドル100時代から150円時代になったことの意味とは、円価の半額という意味とおなじだから、一般人の生活苦は深刻化している。
とっくに「デフレ時代」は終わって、「インフレ時代」になっているのに、すっかり「節約」が日本人の脳内に定着させられてしまった。

ここでまた何度も書くが、インフレとデフレの定義にとって重要なのは、物価を基準とする前に、「通貨価値」を基準にしないといけないことで、結果的にそれが「物価」になるという仁万なのである。

つまり、通貨の価値がモノやサービスの価値よりも上がるのが、「デフレ」で、この逆が「インフレ」である。
なお、ここでいう「サービス」には、人件費も含まれる。

さらにいえば、「銀行が儲からない」時代になったのは、経済の血液にあたる「おカネ=円という通貨」が、動かなくなったからである。
銀行から借りようにも、バブルのときよりも厳しい「土地担保」を、金融庁(政府)が確保しろと銀行に命じたからである。

そんな人為の政策(当然ながら与党の政策)によって、「メガバンク」すら、でくの坊にさせられたのである。

ようは、政権による日本経済(銀行を含めた企業)の、「雪隠詰め」がここにきて、あらたな局面の、外国への「流出」という形になって現れだしたのである。

さては大変!

いま、学校に通っている子供たちの修飾先が、ほとんど外国企業になるやもしれぬ。
「トヨタ」に至っては、自分から本社を外国にするかもしれないように、理不尽な攻撃を日本政府からされているのである。

ダイエーやら百貨店を買収してきたセブン&アイ・ホールディングスが、あたかも食物連鎖のなかで、自分より小さい肉食のものに飲み込まれようとしているのである。

もしも、この買収が失敗しても、安心はできないのは、それが「狼煙」だからである。
しっかり、「法螺貝」の音が聞こえて来るではないか。

純粋に日本企業=民族系なるものが、絶滅危惧種になった時代に大変化しているのである。
これより、中・小の企業は、音もなく買収されて行くにちがいない。

政府に追い込まれた地銀が、地元企業の買い手をさがすエージェントになるからである。

トランプとケネディの連携

第3軸で無所属のケネディ.Jr陣営が、どこよりもはやく最初(3月)に副大統領候補を発表した。

ニコール・シャナハン氏(38歳)で、彼女はグーグル創業者の元妻であることから、相当額の資産分配を受けた富豪でもある。
その素顔はあまり日本では詳しくはないが、環境活動に熱心ないわゆる「左翼系弁護士」でもある。

ゆえに、おなじ左翼系弁護士のケネディ.Jr氏が、仲間として選挙パートナーに選んだのであろう。

もちろん、二人共に根っからの「民主党員」であった。

しかし、民主党はケネディ.Jr氏を党内予備選挙に立候補させることも拒否して、バイデンを強引に推し、ぜんぜん民主主義とはいえないことをあからさまにした。
さらに、「ケネディ家の人びと」からも縁切りをいわせしめることまでやったのである。

たとえば、J・F・Kの娘で駐日大使もやった、キャロラインもこれに加担して、従兄弟を切り捨てたのである。

つまり、かつて「民主党そのもの」といわれたケネディ家を分断・血みどろにしても、バイデンでいくことを党幹部だけで決めて、予備選挙で1000万票以上とったそのバイデンをあっさりと降ろして、無能の極致カマラ・ハリスを立てることにしたのは、バイデンの名で集めた選挙資金を引き継ぐ者が、政治資金法で副大統領のハリスしかいないという事情による。

対するケネディ.Jr候補には、あらゆる妨害工作(まったく手法的にはトランプ氏に対してやった「司法の武器化」のこと)を各州で実行し、ケネディ.Jr氏の名前を選挙投票用紙に載せないための活動を活発化させたのである。

これにキレたのが、ニコール・シャナハン氏で、長年民主党への多額の寄付までしてきた彼女が、ようやくその全体主義体制を身をもって経験するや、とうとう呆れ果てたというわけである。

残念ながら、この点で同情することはなにもない。

現地の23日にも、選挙からの「撤退」を表明すると報道されているのは、民主党を無限に支持するマスコミによる「勝利宣言」でもあるけれど、一方で、「トランプ支持を打ち出す」ことの危機感も同時にあることはまちがいない。

日本の腐ったマスコミは、愚民化した日本人一般に、「全米世論調査」ばかりの数字をみせて、あたかもカマラ・ハリス陣営が有利だと擦り込んでいる。
アメリカ大統領選挙で問題なのは、「州ごと」の選挙人票を得ることだから、「全米支持率」は、じっさいには役に立たない。

いわゆる、「スィング・ステート」という、選挙のたびに民主党やら共和党に振れる州での勝敗が、決定的な意味をなすからである。
いま6州か7州あるという、これらのうち、トランプ氏は3州で有利な形勢にあるが、のこり4州の熾烈な取り合いになっている。

前回、有名な「バイデン・ジャンプ」があったのは記憶にあたらしいけれど、勝敗の分析をすると、トランプ氏はなんとたったの1万票あまりの僅差で負けたことがわかっている。
バイデンが8000万票という信じがたい得票だったということは、あまり意味がないことをしっているゆえ大々的に「過去最大得票」を報じた意味が、この僅差をかくす「目くらまし」なのだ。

さてそれで、ケネディ.Jr支持率は全米で「たった3%」しかないから、どうでもいい、ということにはならない。
問題は、のこり4州におけるケネディ.Jr&シャナハン票のゆくえなのである。

トランプ陣営とどんな「ディール:取引」をしたのか?は、これから明らかになるだろうけど、この典型的な左翼のケネディ陣営を取り込むことは、「トランプ2.0政権」にどんな影響を及ぼすのか?が注目される。

もしや、ケネディ.Jrの父で、J・F・Kの実弟にして、大統領選挙中に暗殺されたロバート・ケネディ「司法長官」の職を継ぐことになるかもしれない。

両陣営最大の一致ポイントは、「DSの排除」である。
そのまた一致点が、「J・F・K暗殺の機密解除」である。

すると、シャナハン氏のポストはなにか?
おなじく司法省で、「ネット検閲」の排除を担当するのなら、なかなかに粋なはからいとなるのだけれども。

さすれば、わが国の総理・総裁が、9月に決まっても、来年には「どんでん返し」だってあり得るのである。

期待はふくらむ。

上野千鶴子政策をやったベネズエラの悲惨

「みんな平等に(=自由をなくして)貧乏になりましょう!」とは、上野千鶴子東大名誉教授のお言葉である。

もちろん、ご本人様は、高級ドイツ車を乗りまわし、都内高級マンショにお住まいであるが、ついでにフェミニストの鏡として「結婚反対」が持論のはずだったのに、余命いくばくかの男性と結婚もしてしっかり遺産相続していたことが話題になった。

自分は別、の典型的な共産主義者である。

安芸高田市長として、旧態依然とした議会と対立し、この対立に民主主義を壊すのか?とかみついた中国新聞の次長様と記者との終わりのないバトルは、結局、見世物であったことが、都知事選に立候補してバレてしまった。

この御仁は、なんと、男性でありながら上野千鶴子の信奉者であることをカミングアウトしたからである。
この意味は、自身がフェミニストであることをいいたいのではなくて、共産主義(親派)だということのである。

ついでに、やはり共産主義者の橋下徹をも信奉していると明言して、完全にそのイカれた頭脳を披露した。
「維新」が保守だと信じる、イカれた頭脳の有権者がいるのも、異臭の戦後教育とセットになった大阪人の節操のなさを明らかにしている。

京都大学でのエリート銀行員だと喧伝されたが、河上肇門下の流れにからめ捕られてしまった田舎者だったのかもしれないし、ニューヨーク勤務で、バリバリの民主党全体主義に染められたのかもしれない。

逆に、ニューヨーク生まれのバリバリ・ヤンキーである、トランプ氏に影響されなかったのは一生の不覚か?

さて南米といえば、むかしは一色の左翼政権ばかりだったけれど、さいきんはエルサルバドルやアルゼンチンで右派政権ができて、これら二国の成功を日本には伝えない方策がとられているために、元来地球の裏側のはるか遠い地域だから興味の薄い日本人には、それで通しても話題にならない。

それでいて、政府が棄民した日系移民のことは、たまに思い出す悪い癖がある。

エルサルバドルは、治安が南米でも最悪といわれていたものだが、いまでは南米で最安全になり、アルゼンチンは経済破綻からのインフレが強烈であったのに、あれよといまは2%台に落ち着いて、わが国よりも低いのである。

わが国の悪政がハッキリするのは、これらの国をみれば容易だ。

バラマキができる石油がでるベネズエラでは、国民を乞食化することに成功して、あらゆる補助で国家経済がおかしくなった。
まさに、上野千鶴子がいう政策、「みんな平等で貧乏になりましょう!」をやったら、ほんとうに予定通り貧乏になったのである。

この状態から、社会主義政府が政権転覆されないように、国民監視システムを「便利だから」と国民を騙しながら導入した。

電子政府とあらゆる個人情報を組合せたのである。

サラリーマンなら月給の支給における銀行口座から、家族構成、買い物履歴、それに物不足によるインフレ対策としての「買い出し指定日」の設定などである。
これは、事実上の配給制に近い。

自分の一家がいつ買い物ができるかは、政府から指定されるメールで通知される。
スーパーへの入店時に、この許可を電子確認・認証しないと、そもそも入店できない。
あたかも、空港のパスポート・コントロール状態になっている。

それで、入店したら好きなものを好きなだけ買える、というものでもない。

たとえば、世帯に割り当てられた上限しか買えないのは、しっかりレジで拒否されるからである。
それで、一家五人家族でイワシの缶詰が2個まで、だという。
さらに、おむつを購入するのには、子供の出生証明をレジに示さないといけない。

転売を防ぐためという。

平日であろうがなかろうが、政府の指定日にしか買い物ができないので、この日は一家で休業する。
子供の学校を休ませるのは、登下校の送迎ができないと誘拐やらの事件に巻きこまれるかもしれないし、夫婦で休業するのは、買い物後に襲われて物品を強奪されるおそれがあるからだ。

もちろん、選挙をやっても、なにもかわらないのは、選挙も電子的な方法になったからである。

そんなベネズエラの治安が、「最悪」にならないのは、最悪の犯罪者たちがアメリカへ不法移民として移動したからだ。

つまり、バイデン・民主党全体主義政権は、そんな社会主義・全体主義体制を支えている。
ゆえに、いまのアメリカはベネズエラとの国交を回復させないで、犯罪者情報の交換をしないで済むようにしているのである。

しかし、スペイン語圏のなかにあって、エルサルバドルとアルゼンチンの変化を、ベネズエラ人もしらないはずがない。

いつか、爆発する火種を育てている。

しかして、自分の発言でどんな苦しみを世界のひとびとが受けようが、知ったことじゃないのが、上野千鶴子なのである。

女々しい恐怖を利用する商売

日本人は元来女々しい(正規には「女性」という)のだという民族特性は、「米を食らう」ことでの決定であったと、前に欧米人の「肉食」を引用して書いた。

この話の初出・出典は、会田雄次の目から鱗が落ちるにして名著、『アーロン収容所−西欧ヒューマニズムの限界』(中公新書、1962年)である。
いまでは絶滅危惧種となった、「(正統)保守派」の論客の一人であった。

高校生向けの参考書コーナーで、「各大学の教授と業績」に関する情報を見たことがないから、高校生はいったいなにをもって「志望校」を決めているのか?といえば、おそらく「偏差値」をもとにした、「入れる限界」を目指しているだけだと推察する。

それで、入学してからおもむろに「ゼミ」の教室を選んで、それがそのまま「恩師選び」という構図になっているのではないか?

つまるところ、なにを学びたくて、だからこの大学で、この教授なのだ、という落とし込みがまったくないのである。
その前提に、みな同じという無機的な思想があって、ちがうのは偏差値だけなのである。

では偏差値の高い大学は、よほど高度な授業をやっているかといえば、そうでもない。
むしろ、易しくわかり易い工夫がされている可能性が高く、ために、理解度が上がるということになるのだとおもわれる。

ときに、『ドラゴン桜』とか、『ビリギャル』のように、偏差値30から難関校に合格するレベルに1年足らずで実現するのは、ようはその程度のコップの中のちがいでしかないことを表している。

そんなわけで、無機質な知識がどれほどあるのか?を測定するのが「受験」になっているので、生徒の方が教師よりもはるかにクールで無機質であるから、専門学問分野の常識にそのままなんの疑念もなく染まる、という現象が発生するのは当然である。

この現象の逆をいくのが、いまどきの「専門学校」だと前に書いた。

大学ではこんな程度のことが毎年繰り返されて、半世紀以上の月日が経過すると、専門学問分野そのものが無機質化して、固定される。

これが、現在も絶えることなく、さらに強化されている「権威主義=象牙の塔」の正体なのである。

そして、偏差値で他校を圧倒する東京大学が、権威の巨塔に変換されて、各学問分野における筆頭教授が、そのまま学会の筆頭となり、異論を許さない全体主義が完成する。

すると、社会という外部からの攻撃に関しての防御が徐々に過剰になるのは、こうした権威を背負う一人のトップを守るための「忠義の行動」に変化するので、組織をあげて強力な過剰防衛をすることにためらいがなくなるのだ。

まったく、会田雄次がいう、日本陸軍の姿がそこにある。

よって、社会は損失を被ることになるが、これらの者のひとりとして責任を負うものはおらず、むしろそんな損失は大したことではないという、後付けの論理を考案して、鉄壁なる組織防衛への貢献をもって序列が決まる「犬の習性」そのものの共産党のような事態となる。

これが、わが国の東大が仕切る、「○○学会」という反社ともいえるような組織とその行動様式の原理なのである。

さらに、同じ大学の文系をでた政府の官僚たちは、無責任という行動様式が等しく刷り込まれているために、このような学会への補助金を「必要」として惜しむことなく投入し、強力な広報(プロパガンダ)をして、国民を恐怖におとしめれば、そんな補助金の無駄をいうものをも排除できることをしっている。

たとえば、大地震がくる「かも」と強力に情報操作して、結局はなにもなくても、なくてよかった、というだけの「保険」だと認定させればいいのだ。

ちなみに、わが国の国家機関が集中する霞ヶ関の官庁街で、どれひとつの建物も「火災保険」にすら加入していない。

どうせ「必要」だから、もしも倒壊しても建て替えるだけのことだからである。

すると、脅されて、真夏の稼ぎどきに海水浴場を閉鎖した南紀白浜の「5億円」の損害補償を後から国に請求する根性は、果たして二階氏の権力に頼っているのかなんなのか?が不明の、まさに12歳以下の知能レベルだといえる。

これが、ちょっとしたことだけの学会の女々しい自己防衛から今後も頻発して、全国に拡大すれば、誰がその損を補填するのか?という、巨大な乞食化した各地の観光協会などが国家予算を襲うことになる。

これを国民が「安全」のための負担だとして許すなら、いったいどこまでの税負担を許容するのかの議論になるが、そんな負担をするつもりははなからないのが女々しい国民なので、愚民国家の行き詰まりは行き着くところまで行くしかないが、それがまた全体主義ともなれば。半永久的に「檻の中の生活」を強いられるのはまちがいない。

不幸にも、ヨーロッパ最貧のモルドバが、女性大統領をして、EUへの憧れをやめないのは、「檻の中」にいすぎて、見倣うべき基準すらわからなくなったからで、隣国のウクライナと一緒に、EU・NATO(戦争屋)の餌食になるべく「飛んで火に入る夏の虫」のような行動する危険がある。

わたしはどうしてこんな女々しい愚民と同じ空気を吸っているのか、わからなくなってきている今日この頃なのである。

はたして、自民党総裁選において、ただのひとりも「ワクチン接種中止」をいわない。

マスコミは、この話題をいっさい投げかけもしないで、外国の製薬会社の利益のために、国民の生身を差し出して平然としていられるのも、東大の医学・薬学のボスたちが、推進することだからである。