『マイティジャック』の勧善懲悪

1968年4月6日から6月29日までの短期間、フジテレビで全13話の放送がされた特撮番組である。

この番組は、あの「円谷プロ」が大人向けとしてこだわった、世界にまたをかける悪組織「Q(キュー)」との闘いを社会派的に描いた特別があったのだが、内部崩壊と視聴率低迷のダブルパンチで消えてしまったうらみが残る。

いまさらだが、音楽は巨匠、富田勲だ。
昭和一ケタ、7年生まれ、36歳のバリバリが採用されて、番組製作の意気込みがウソでないのはわかる。

さて、当初のターゲットがおとなであったことから、放送時間は毎週土曜日20時からであった。
すると、わたしの記憶にある『マイティジャック』は、その後子供向けになった『戦え!マイティジャック』の記憶にちがいない。

当時の子供は、8時には寝かしつけられていたからだ。
子供向けになった放送時間は、毎週土曜日の19:00から19:30だった。

ようは、当時のおとなは、世界最高峰の特撮のこだわりよりも、ありえない設定のドラマに「観る価値はない」という判断をしていたわけである。

たとえば、「Q」といえば、『007』における秘密兵器開発部隊の長のことだと連想するのは、第一作『ドクター・ノオ』の1962年から毎年のように制作れたことでの刷り込みがあるからだ。

それでも、戦争体験者が多数だったので、『007』すら「子供だまし」だと嗤っていたおとながたくさんいいた。
なお、おのオバケ番組、『8時だヨ!全員集合』は翌年からTBSでスタートした。

「お笑い」に日本人が逃避したのである。
なるほど、「エロ」「グロ」「ナンセンス」の自暴自棄が流行ったのもわかる。

さて突如、YouTubeでお勧めにでてきたので、わたしはおそらく初めて大人向けの初回から3話を一気に視聴した。

この物語の目玉は、なんといっても「マイティ号」なる、超音速で飛行できる潜水艦の活躍なのである。
どうやら、原点に東宝映画の『海底軍艦』(1963年12月)があるらしい。

しかし、おとなになったどころか、老齢になったわたしから観た、設定の妙が気になるのである。

それは、「マイティ号」とその運用組織「マイティジャック:MJ」を牛耳る人物が、どうやら民間人らしいのである。
この点で、『サンダーバード』と酷似している。

加えて、「マイティジャック」のメンバーたちの異様に高い能力がある。

いったいどうやって、若くしてかくも高い能力を個々人が習得できたのか?についてかんがえたら、絶対に義務教育では到達し得ないものだ。
すると、この組織は、メンバー候補者をどのタイミングでスカウトして教育したのか?

それは、技能にとどまらず、組織の設立者への忠誠も含まれる。

ならば、敵対する「Q」とても同じことがいえる。
たとえば、第3話では、世界各地で偽造紙幣を製造し、各国経済を混乱に貶めようと画策するのである。

これをマイティジャックの活躍で阻止する話は、まさに勧善懲悪そのものではあるけれど、隊長はロンドンに飛んでスターリングポンド防衛に成功する話も入っているのだ。

これは、微妙な問題で、1944年(まだ戦時中)の「ブレトン・ウッズ体制」を、敗戦国日本の民間団体が維持することに貢献した、ともとれるのである。
なにしろ、この体制は連合国の為替相場安定のメカニズムをアメリカ主導で決めたもので、ようは、弱体化した英国ポンドの救済にかこつけた、ドル支配を決定づけたものだったからである。

すると、連合国に対する皮肉を込めたおとな向けドラマだともいえるのだけれども、はたしてどれほどのおとなたちが気づいたものか?

逆に、ロンドンでの失敗が報告されたら、それはそれで痛快だったかもしれない。
「鬼畜米英」は、戦争プロパガンダではなくて、史実からの結論である。

ならば、「Q」は悪だと断定できるのか?
じつに悩ましい、一種のシミュレーション・ドラマともいえる。

「Q」のエージェントとして登場し、偽1万円札を使ったのは、なんと若かりし山東昭子の役で、これより半世紀後の2019年に参議院(上院)議長になろうとは誰が予想できたものか?

やはり、事実は小説よりも奇なのである。

不便な「ゆうちょ銀行」

自民党総裁選で、大手マスコミがなにかと話題にする候補者が信用ならないことは、あたかも民主党候補なら誰でもいいアメリカの大手マスコミとおなじ、まさに「相似形」にある。

日米の政治体制がぜんぜんちがうことを、アメリカ大統領選挙は4年に1回教えてくれているのに、まったく気がつかない日本人は、やっぱり脳(思考力)が破壊された奴隷以下の家畜になっている。

そもそもが、連合国軍(GHQ)の征服によってつくられた制度が戦後の日本、ドイツの政体なのだ。

とはいえ、これら「連合国(軍)」に世界経済フォーラムが上位に君臨しており、そのまた上位に「ビルダーバーグ倶楽部」が君臨している。
世界経済フォーラムの評議員に、日本人として唯一なっているのが、竹中平蔵だから、この一介の経済学者がわが国政界に睨みが利くのである。

しかしながら、ビルダーバーグ倶楽部に日本人会員はいない。

ようは、完全なる「肉食の思想」をもって世界に君臨しているから、堂々と毎年のサミットにあわせて、本当の支配者たる倶楽部の総会(内容不明の秘密会議)を開催しているのである。

つまるところ、竹中はビルダーバーグ倶楽部の「犬」だと解して差し支えないのである。

その竹中が仕切った、小泉純一郎政権の「郵政選挙」は、『B層』をターゲットにした戦略で歴史的大勝を自民党にもたらした。
これに貢献したのが、世耕弘成氏だったが、使い捨てにされたのは見てのとおりである。

郵政選挙こそ、日本人の8割、すなわち大半が、「B層=バカ」だとしれた瞬間であった。

「バカ」の習性として、まったく反省しない、という行動パターンがある。
だから、いまでもB層はわが国で幅をきかせ、マスコミのコントロールに盲従してはばからない。

ゆえに、何度でもおなじパターンで騙されるが、その理由が自分のせいだ、とはぜったいにかんがえないから「バカ」なのだし、これらのバカを利用して利益を得る者たちも彼ら彼女らに自覚を促すようなマネは絶対にしないのである。

それよりも「民主主義」という、魔語をもちいて、「バカ」をおだてるのである。

そんなわけで、めったに「金融機関」として利用しない「ゆうちょ銀行」に振込をしないといけない買い物をしたわたしは、おおいに驚いたのである。
なにせ、支払いのため、銀行で現金を払い戻して郵便局にいったら、通帳かキャッシュ・カードを入れろとメッセージがでた。

窓口で聞いたら、「現金での送金受付はできない!」と、21世紀にして想定外の「不可能」をしった。

地方のひとたちは、地元に銀行や信用金庫などがないから、おおむね「ゆうちょ銀行」を利用するしかない。
だから、通帳とキャッシュ・カードをもっていないのは、逆に「想定外」ということでのサービス設計がされたのだろう。

しかして、「郵便貯金(postal savings)」だったものが、「ゆうちょ銀行(Japan Post Bank)」に用語が変わっただけでなく、「全銀協システム」に加盟することになったのである。

日本語での表記変化よりも、英語表記の方がわかりやすい。

むかしは、「銀行協会」が毎年のように、「民業圧迫」をいって、巨大な郵便貯金(当時は、「世界最大」といわれた)にある資金が民間融資にまわらないことでの経済発展阻害要因だと非難していたものだが、この時代は、金融庁もなく大蔵省銀行局が郵政省と敵対していたというわかりやすさがあった。

いまは、その銀行も、融資先がなくて倒産しそうだから、統合して巨大化しての生き残りをはかる努力がされている。

なんだか、『進撃の巨人』のようだが、「地鳴らし」は外国の銀行にやらせるように、自民党が売国に集中している。

そんなわけで、「郵便貯金」のころは、独自の管理システムだったけど、銀行として「全銀ネット」に接続するために、「支店番号」やらの桁数一致が必要となった。
これに、「日銀ネット」という大問題もあるだろう?

銀行のビジネス・モデルとは、資金の貸し出しによる金利手数料の収入がなくてはならないが、「ゆうちょ銀行」のローン事業がこれまた中途半端なのである。

しかして、こんな郵貯にだれがした?

これをかんがえると、もう、夜も眠れなくなっちゃう、のであった。

日本の中高生がつくるブラウザを使う

Floorp:フループ』のことである。

これは、完全にオープンソースのブラウザ、『Firefox』をベースに作られている、純日本製(中高生でつくる『Ablaze』というコミュニティによる、やはりオープンソース)のブラウザだ。

オープンソースというのは、ソースコードが公開されている、という意味だから、悪意があろうがなかろうが、ヘンな悪さをするコードを書き加えてもだれかに発見されて直されてしまうから、安全だという意味もある。

わたしはこれまで、「Chrome」か、「Edge」をつかっていたが、移行にあたっては自動的に設定もコピーされるので、ぜんぜん遣い勝手にかわりなく利用できる。

「日本製」といえば、世界で利用されている「OS」で、じつは圧倒的なシェアを誇るのが「TRON」だ。
これは、「IoT」に欠かせないから、生活のなかに驚くほど普及している。

発明者の坂村健氏は、慶応ボーイから東大の教員になった。
そのTRONも、著作権フリーにしての「オープンソース」で自己発展させたのである。

今どきの若者は、と若い世代を嘆いてぼやくのは高齢者になった典型で、はるか以前からおなじことがいわれ続けてきたのも、「人類史」なのである。

しかしながら、よくよくかんがえると、生まれてから20年あまりで成人することをおもえば、先に生まれた世代による教育でしか跡から生まれたひとの育成はできないので、若者を嘆くのは、自分の人生の無責任を嘆くのとおなじことになると意識しないといけない。

それがまた企業などの組織でよくいう、人材不足の原因となっていて、ひとが育たない、のではなくて、育てていないから起きる、たんなる結果論である。

1980年から95年ぐらいまでの生まれを、「y世代」という。
「y」の意味は、「ゆとり教育」のローマ字頭文字である。

次の「Z世代」(1996年から2012年に生まれたひとたち)こそが、『Ablaze』のメンバーだ。

ついでに、「y世代の前」が、「X世代」で、「Z世代」の次が、「α世代」だという。
これらは、アメリカのマッキンゼーがいっていることだから、あまり信用はできないが、ひとつの指標として便利ないい訳ができるから普及しているのだろう。

当然だが、あたらしい世代ほど、世界経済フォーラムがいう、邪悪な思想、たとえば、SDGsとか、LGBTQとかの洗脳がすすんでいる。
これは、国家が独占する学校教育が、世界経済フォーラムの傘下にあることからの必然でもある。

ゆえに、家庭教育が重要なのだが、もう家庭がその機能性を失った。

性能がポンコツになった家庭を超越するのが、こうした『Ablaze』のような集団組織のなかで、自主的に育つことになったのである。

これは、ハンナ・アーレントがその主著、『全体主義の起源』で述べた現象と似ている。
個人としてバラバラの頼るところがないアトム化された人間は、誰かを頼って集団の一員になることを望む。

その集団が、望みどおりの目的があればいいけれど、目的自体が歪んでいたら、たちまちのうちに個人が「個」を失って「全体主義」の虜にされてしまうことだってあるのだ。

バカではないナチスの組織化担当者たちは、こうしたアトム化された個人を狙ったのだった。

すると、社会にある様々な団体がどんな素性なのか?をしることばかりか、その素性の適格性を見抜く力が個人に要求されるという、困難な時代になったのである。
途中で退会が簡単にできないような仕組みが用意されていると、個人が勝手に抜けることも困難になる。

これには、たいがい金銭的な縛りよりも、精神的・人間関係的な「情」による縛りの方がより強固で困難なのである。

さても、そうした組織が、バーチャル空間での存在だけともなれば、より一層、選択の難易度は高い。

一般に、「Z世代は優秀だ」という評価は、「ゆとり」の被害者たる「y世代」には気の毒な比較対照にされている。

そうやってかんがえると、「X世代」以前と、「y世代」との境界線である、70年代までが、いわば古き良き時代となるのだが、その後の責任という意味では、70年代までの意志決定が重かったともいえる。

いわゆる責任者としての「爺いたち」とは、政治でも企業でも、だいたい70歳代が実力者として君臨するのがわが国「年功序列」の特徴だ。
すると、1900年(明治33年)生まれ前後のひとたちが、もっとも現代(2000年代)の状況に無責任だったともいえる。

この世代で、人材が途絶えて枯渇するからだ。

前に書いた映画、『1900年』は、イタリア(ポー川流域の農村地帯)を舞台とするから、日本人には馴染みが薄いものの、主人公たちが1900年生まれという「偶然」は、おそらく現代をしるための「意図的」な設定のである。

そんなわけで、『Ablaze』の代表者はいま高校三年生で、名古屋大学を志望していると表明している。

志望がどこであれ「大学」だということに、ガッカリ感があるのは、社会に出てからのことを「志望」してほしいからだが、目先の大学を観ているのが子供らしいといえば子供らしい。

これも、周辺のおとなが、子供ままの発想でぜんぜん社会学習をしていないことの裏返しなのだろう。

となると、やっぱりこの優れたブラウザが、中高生によるものだとの確信になったのである。

どうしてもトランプが嫌なひとたち

15日、二度目の暗殺未遂が起きて、トランプ氏はSNSに「0-2」とだけ書いて挙げた。

現場は、フロリダのトランプ邸から近いトランプ氏が所有するゴルフ場敷地境界の外側フェンスから照準器付きのAK47自動小銃ライフルの銃身を編み目から中に入れているのが発見されたのだった。
この銃の有効射程は、300m~400mだが、照準器付きなので1000mまではいけるという。

じっさいに、トランプ氏との距離は400m~500mだった。

車で逃走した犯人はあっけなく逮捕されたが、決め手は近所の住人が撮影した逃走車とそのナンバーだった。
意外なところにカメラがある時代なのである。

だれでももっているスマホのカメラ性能が、コンパクト・カメラを駆逐してしまった。

犯人像が解明されるにつれ、民主党にとって都合の悪いことがでてくるからだろうか?
さっそく、「暴力は敵だ!」と、もっともなことを再び繰り返している。

銃規制に積極的な副大統領のカマラ・ハリスには、その発言の数々がデジタル・タトゥーになって残っているけど、なにも気にしないのはそれが本気の主張だからだとだれもがおもっていた。

しかし、初のトランプ氏との「討論会」で、彼女は「銃規制に反対する!」といいだして、アメリカ人の視聴者を唖然とさせた。

それで、「わたしの自宅にも銃がある」ともいったのは、ジョーク(いわゆる「カマラ構文」)なのだといいたかったのだろうが、ワシントンD.C.は銃の保持が禁止されているから、構文がすぐに理解できるひとはニヤリとしたろうが、言葉だけを聞くおおくのひとには意味不明にうつっただろう。

これを、主宰者ABCニュースのモデレーター(ラテン語の「moderare」が語源で、英語の「moderate」には、「適度の」「穏健な」という意味がある)のふたりは、まったくこの言葉に反応せず、つまりファクトチェックもなしで、視聴者の「疑問:?」の補助をしなかった。

「モデレーター」だと自己主張していたにすぎなかったのである。。

ところで、ABC(American Broadcasting Company)は、1996年に、極左企業ディズニーの傘下になってしまって、以来、偏向報道をもってアメリカ人を洗脳している。

歴史的な大統領候補者討論会の前に、ディズニー買収前の古き良き時代のABCをしっているとおもわれる局内の人物が、「宣誓供述書」をもって、この討論会の裏側にある狡猾な民主党とのやりとりを内部告発していたことがわかった。

また、この供述書は、連邦下院議長宛にも送付されたという。

その内容が、「事実」だったのは、視聴したひとならみな気づくことばかりなので、まったく事前に準備された「カマラ・ハリス応援番組」であったのだ。

もちろん、モデレーターのふたりには、トランプ氏をおとしめ、カマラ・ハリスを持ち上げる指令がでていた。

こんどの銃撃未遂犯は、ウクライナで「外国人兵士を募集する事業」をやっていた。
とにかく、ウクライナを勝利させるのに頑張ったひとではある。
しかし、どこから活動資金と応募したひとたちへの報酬が出ていたのか?

さらに、どうしてこの日のこの時間にトランプ氏がこのゴルフ場にあらわれる情報を得ていたのか?についてはわからない。
FBIやらシークレットサービスが、トランプ氏の行動予定情報を流したのだという「噂」の信憑性が問われている。

なにしろ、トランプ氏がその日ゴルフをひとりでプレーするのは、直前に決まるから、一般人にはしりようもない情報だからである。
しかも、犯人には重犯罪の履歴があるので、全米どこであれ自身の名で銃を購入することはできない。

いったい、誰が用意した銃と弾なのか?

国家機構の闇が深すぎるので、現場を管轄するフロリダ州デサンティス知事は、すぐさま州としての独自捜査を開始すると表明した。

単純に、ウクライナやらの戦争を終わらせたくないビジネスとしての戦争をやりたがるひとたちは、とくかく戦争が嫌いなトランプ氏を排除することに躍起だ。

わかりやすい構図である。

それでも民主党を支持する高額所得者がおおいのは、戦争屋事業には広い裾野があるためで、彼らの収入になるから、トランプが返り咲いたら大損をするような投資リターンを含めた経済構造ができているのである。

この構造に、わが国も加わっている。

それでもって、腐敗しきったNATOは、とうとう西側がウクライナに提供した武器で、ロシア領内への長距離攻撃を画策しだした。

ようは、バイデン民主党政権が、第三次世界大戦をやりたがっている。

まったく、第二次世界大戦における、日本に「ハル・ノート」を突きつけた、民主党フランクリン・ルーズベルト政権のようなワンパターンなのだ。
こうして、わが国は、先に手を出すように仕向けられて、「世界から悪の権化」にさせられた挙げ句、とうとう征服されたまま80年が過ぎようとしている。

近代史、とくに前半の昭和史を学校で絶対に教えない(ついでに戦後の昭和史も教えない)ことで、日本人のおおくが先に手を出したロシアが悪の権化だと信仰させられ、自らの奴隷化を進めたら、とうとう家畜化の段階にまできていることすら気づかない。

だれが自民党総裁になっても、ジョージ・オーウェルの『動物農場』が、そのまま日本の姿になることだけは既定路線なのである。

いまさらの「線形代数」

わたしが現役高校生だった、あらためて思い出すとえらく遠いむかし、「数ⅡB」という教科で悩まされたのは、「微分」と「行列」だった。
入学して早々には、「因数分解」をとにかくひたすら理由も訳もなく、暗算で解答させられたのがトラウマになっている。

いまの高校生は、「行列」を倣わないで卒業するというから、羨ましいような、それでいいのか?という気分になる。
とはいえ、「おっさん」から「爺い」になってしまって、偉そうに孫のような高校生に対して「ずいぶん楽してるじゃん」とはいえない。

「行列」やら「ベクトル」なんて、ぜんぜん覚えていない自分がいるからである。

なんだかんだと、会社員をやっていたときは、「数字」を扱わされた。
だいたい、宿泊業界を希望したのは、数字が嫌だったからだが、ビジネスとして捉えれば、どの業界に行こうと「数字」から逃れられるわけがない。

そうかんがえると、早くから覚悟を決めた方がよほど楽ができるし、周辺が苦手で逃げているばかりなら、えらくチャンスがふえる。

いまの「高等学校」の教育レベルが、かつての「中等レベル」だとしって驚くのは、残念ながら当人たちではなく、上の世代ばかりだろうし、もっといえば、「旧制高校」のレベルの底知れぬ高さに唖然とするのである。

そんなわけで、尋常高等小学校をでて進学した、かつての中学生が習うレベルが、いまでは大学での授業となっている。

この「間延び」は、人生50年からもっと間延びした人生100年なる、ただ生きている状態の間延びになったから、10代から徐々に間延びしていく加速度すら感じるのである。

むかしの悩める10代は、人生論を読みまくっておとなに成長したが、いまはどうやらぜんぜんちがう。

しかして大学では、高校で習ってくるはず、という一方的な教授陣の手抜きがあるので、30年前と換わらぬ講義ノートをもって教壇に立つ大教授がいるらしい。
わからないなら、それはぜんぶ学生のせいだという割り切りは、たしかに社会とはそんな感覚でできているといえなくもない。

もっともそれが、パワハラの原因たる発想だ。

それならば、という商品企画から、中学生向けをいいながら、文科省の指導要領からおおきく逸脱した、「線形代数」のテキストが生まれるのである。
たぶん、こうした本を手に取るのは、ちんぷんかんぷんの果てに追い込まれた、現役大学生にちがいない。

それでもって、「行列」の掛け算の方法を思い出した。

だからこれが一体なにをやっているのか?
高校のとき、それを習わなかったことが、とくに悔やまれる。

ようは、直線式たる方程式の解法でもあるのだが、こうした「直線」で表現できる事象が世の中にあふれかえっているのである。

たとえば、「売上の推移や予測」も、直線上にある、とかんがえれば、イメージがハッキリするだろう。
もし、曲がっていたら、そこは微分の出番なのだし、近似値の直線式を求めることだってできるのが線形代数というものだ。

そうなると、積み上げ計算による方法とあわせて、より明快な予測ができる可能性が高まる。

当然に、これにまた、確率・統計が加わるのである。

観光系では、人数や部屋数、あるいは席数といった「数」がでてくるのは当然だが、これはまた「離散数学」という分野の範囲にあって、ついには「グラフ論」にまでなる。
あたかも「離散家族」のようだが、一般の数学では数は連続していると前提するのとちがって、離散数学では、1個1個別の数として扱うから、人数とか席数と合致するのである。

「ビジネス・専門学校」でこれを教えるといいのに、とおもうのはわたしだけか?

ただし、それで新入社員が先輩に知識をひけらかすと、妙なパワハラを受けることにもなりかねないから、世の中は面倒なのである。

手塚治虫『奇子(あやこ)』とは

漫画界の「巨匠」といえば、誰にでも名前をいう必要もなく通じる。

しかし、彼への叙勲は、亡くなった1989年(平成元年)に贈られた、「勲三等瑞宝章」だけとなっている。
なお、生前、「紫綬褒章」や「国民栄誉賞」の授与に関して、「辞退」されている。

このひとには、「医学博士」の学位があった。

それで、「生命」をさまざまな角度から追求した名作を多く残したのだろうし、たとえば『鉄腕アトム』というロボットの話にさえ、「いのち」が基盤のテーマになっている。

神奈川県が有害図書に指定したのは、『アポロの歌』(1970年)だった。

1972年から翌年にかけて発表された『奇子(あやこ)』は、横溝正史よりもドロドロの家族関係と、GHQの日本支配(征服)の闇を「下山事件」に絡めて暴いた物語を、なんと「背景」にした特異な作品だ。

松本清張の『けものみち』(1962年〜63年連載)をも彷彿させる一大スキャンダルの物語なのに、一人の少女を柱に成しているところが巨匠の巨匠たるところなのである。

しかして、物語でいきなり「CIC」が登場するも、なんの説明もない。
あたかも、「CIA」の誤植かと思わせるが、そうではない。
Counter Intelligence Corps:(アメリカ陸軍)対敵諜報部隊のことで、GHQにあっては「参謀2部:G2」の傘下に当たる。

わが国の戦後史に不可欠な、GHQによる支配の実態がどんなものであったのか?は、じつはいまだによくわかっていない。
有名なのは、ものの一週間で「日本国憲法を起草」した民政局長のホイットニーと、G2部長のウィロビー少将との内部対立があったことだ。

このことも、本作ではサラッと描かれている。

さらに、「キャノン機関」についての闇だ。
この機関は、G2直轄の秘密情報機関で、東京上野池之端にある、「旧岩崎邸」(いまは、東京都公園協会が管理する「旧岩崎庭園」)を接収して、ここを本拠地にし政財界やら何やらの人物を招いての贅沢なパーティーも開催していたのである。

ちなみに、庭園の一角が狭くなっているのは、接収解除後、本館は裁判所職員の研修所となり、庭は最高裁判所職員の「官舎」になったからである。
ただ、元にあった庭木の多くが枯れてしまったのは、キャノン中佐の趣味がピストル射撃で撃ちまくった鉛によるという。

そのキャノン氏は、帰国して晩年、癌を宣告されると自宅で愛銃による自殺をしたというが、真相は不明である。

どこまでも、闇が深いのだ。

この機関の由来は、上に書いたジャック・キャノン中佐(当初は少佐)の名前からだというが、それは「日本での名称」で、GHQ内で正規にはなんと呼ばれていたのか?はわからない。

また、なぜに「日本名」があるかと言えば、この機関には日本人工作員組織を多数傘下に置いていたからである。
その工作員たちが、これまた元軍人や戦犯免除を条件として引き込まれたというから、そのリクルート方法も闇なのである。

なんの落ち度もないのに、題名となっている「奇子」は、20数年間も土蔵の地下の闇に放り込まれて奇跡的に生き残った設定になっている。

彼女の中にある「闇」の意味は、世間と隔離されたが故の安全地帯でもあり、孤独への耐性をもたらした「光明」でもあるというのは、現実世界で跳梁跋扈する闇の者どもとの悲しい対比なのである。

結局のところ、権力のために身を売るはめになる日本人を描きあげた。
大の男や女たちの生きざまを、利用するだけ利用する悪魔がいるのである。

ところで、4日、ベラルーシの国営放送が伝えた、日本人スパイ(ゴメリ国立大日本語教師)のことが気になるのである。
この方、質問に正直に答えているというがほんとうなのか?予定どおりなのか?収集した情報の提供先は、「国家公安委員会」だといっているのである。

その情報提供ルートに、在ベラルーシ日本大使館がある、とも。

気になるのは、国家公安委員会の先のことなのだが、闇が待っているのだろうなぁ。

なにがなんだかわからない。

「税」とは罰金のことである

前に、『「ばっきん」ガム宮殿』というタイトルで書いた。

さいきん、「観光税」が話題なのであらためて書いておこうとおもう。

どうやら、われわれは、「国家は税収で運営されている」と思いこまされている。
いったん、こうした常識をクリアして、白紙からかんがえるとどうなのか?は、都市開発シミュレーションゲームの元祖、『シムシティ』を参考にすればいいだろう。

このゲームは、プレイヤーに最初から「資金」が与えられている。

それは、「最小額」なので、プレイヤーは広大な更地をこの資金から「開発」し、とにかく住人を増やすことをしないといけない。
それで、増えた人口から「税」を取って、「街」を拡大するというゲームである。

人口しか税収計算されないので、「人頭税」一本のゲームなのだ。

しかし、もうひとつ重要な指標に、「満足度」があって、住民たちが満足ならどこかから人口流入して増加するけど、不満が蓄積しようものなら、人口流出してしまい、場合によってはゴーストタウン化し予算的に破綻したらゲームオーバーとなる。

まったくもって、アメリカ的なゲームなのである。

それに比べて、わが国の実態は、なにせ地方分権だった江戸時代の長期安定が、なんとなく記憶として残されている。
地方都市に未だ残る、かつての繁栄の跡は、あんがいと幕藩体制のなかでの「文化遺産」なのだ。

アメリカの州は相変わらず「独立国家」とおなじような権限があるので、善政競争をしないと人口が流出するから、まさに『シムシティ』のごとくである。
極左政策が実施されている、カリフォルニア州やニューヨーク州の人口が減って、テキサスなどの人口が増えている。

10年に一回の「国勢調査」で、厳密な人口を調べ、それが連邦下院議員の議席数割り当てとして機械的適用となるのが選挙制度の根幹にある。
ために、いまのままの状態が続くと、極左民主党はアメリカ大統領選挙で永久に共和党に勝てない状況にもなり得るのだ。

それで、不法移民を大量に流入させて、共和党が有利な州に送り込み、選挙権を与えることで、民主党の永久政権を目論んでいるのである。

「廃藩置県」で、強力な中央集権国家になったわが明治政府は、「文明開化」のアメをたっぷり国民にみせながら、きっちりと全国に「学制」を強いた。
江戸幕府が放置していたものに、手をつけたのは、国民教育による洗脳が目的である。

また、統治の手段として、納税者を限定したのは、庶民に優しかったのではなくて、特権階級をつくるためだった。
納税義務者しか、選挙権がないとは、被選挙権もなかったからである。

これが、まさに『シムシティ』でいう、国民の不満になったのである。

仕方なくシブシブ「普通選挙制」になったのは、今度は税が罰金と化したのだ。
選挙権を与える代わりに納税せよ、だけでなく、政府が広く国民から収奪する、という意味にかわった。

「日露戦争」の戦費負担で、国家破綻寸前まで追いつめられた政府は、高橋是清の個人人脈でロスチャイルドから借金できたが、完済したのは1986年のことである。
また、戦後、「赤字国債」を出したのは、「経済の福田」を自負していた福田赳夫政権のときである。

もちろん、通貨発行利益は、日銀が独占したままで、日銀の巨大利益は「国庫」に入る。

そんなわけで、現代は税収の比率は減って、政府財政は別の収入源にシスとしている。
つまり、「税」はいよいよ「罰金」の意味合いを深め、とうとう国民を貧困化させて、エリート層による全体主義体制を目指すようになったのである。

これが、何人出ようが歴史的候補者数といわれようが、自民党総裁候補の主張に変わりはなく、誰がなっても国民を奴隷化する「党の基本方針」に変更はないことの証左となっている。

やらせているのは、アメリカ民主党政権から派遣されている、日本総督=在日大使である。

つまり、カリフォルニア州やらと日本をおなじにしたいという意向の忠実な実行が、自民党総裁の職務なのである。

だから、カマラ・ハリスを一方的に持ち上げるのとおなじく、高市やら上川やら、小泉やら河野といった、指令に忠実な「犬」を総裁にさせるためのプロパガンダがさかんになっている。

そんなわけで、あからさまに税を罰金として強化した小泉純一郎・竹中平蔵政権を皮切りに、安倍晋三政権から現在まで、まったくもってアメリカのポチなのは、吉田茂のコードネームが「Pochi」だったからだけでなく、たとえば正力松太郎は「podam」(英:我、通報す)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」であったように、戦後史の要人たちの多くは「ポチ」だったのだ。

自民党員(約109万人)ではない一般日本人に、自民党総裁選への選挙権もないのは、まったく明治期とおなじだが、しかし、税が罰金なのはあまりにも一方的だ。
しかして、日本人にまったく選挙権がない、宗主国アメリカの大統領選挙をみれば、なんだか戦前・戦中の朝鮮や台湾から東京を眺めるのとおなじだ。

減税を基調として、一貫して各国ファーストをとなえるトランプ勝利に期待するのは、そんな被支配者からのわずかなる光明だからである。

トランプは「寸止め」したのか?

10日(日本時間だと11日)の、ABCニュース主催の「大統領候補者討論会」は、終わってみたら評価が真っ二つに割れる、微妙な放送だった。

日本の放送法で、わが国の潔癖症的な「公正・中立」を標榜するのとはちがって、人種とは関係なくアメリカ人は『肉食の思想』をするひとたちだから、論理的に困難を極める「中立」という立場を捨てて、ちゃんと事前に「カマラ・ハリス支持」を表明しているのが、ABCニュースである。

これをいうと、「トランプ支持」を事前に表明しているのは、大紀元メディアグループぐらいしかなく、2020年にFOXニュースが主催した、「大統領候補者討論会」では、バイデン寄りの司会で大ブーイングが起きて、その後「保守系だった」という枕が評価につくようになった。

その後、あの、タッカー・カールソンを解雇したので、いよいよFOXニュースのお里もしれたのである。

それでも、反トランプの代表は、なんといってもCNN(「クリントン・ニュース・ネットワーク」と揶揄されている)であるが、あまりの偏向ぶりで、視聴契約が激減し倒産の危機にまで発展した。

これに、ネット界隈のビッグテックも「反トランプ」で団結していて、「X(旧Twitter)」が一抜けした後、7月のトランプ氏暗殺未遂事件を受けて、フェースブックのオーナー、ザッカーバーグが、ホワイトハウスからの圧力に屈した経緯を連邦下院にて証言し、二抜け状態になった。

また、ザッカーバーグは、前回500億円!の私財を民主党に寄付していたが、今回は一切の寄付をしないと明言もしている。
もしや、トランプ氏がラリー(政治集会)で、「逮捕して監獄に入れてやる」と名指ししたからではないか?ともいわれているのは、トランプ氏支持になったのではなく、トランプ氏が優勢とみているからではないか?との疑いもある。

ただし、GAFAの中で、Google、Amazon、Appleは抜けていないばかりか、GoogleとAmazonは、音声認識A.I.やら、ネット検索において、カマラ・ハリス有利、トランプ不利のアルゴリズムを用いていることも発覚している。

しょせん、AIとは、人間が書くプログラムによって作動するだけのものだ。
だから、洗脳装置としてあるので、依存するとバカになるから利用にはよほどの注意がいる。

ちなみに、Google創業者の妻だったひとは、民主党への多額献金どころか自ら政治活動もして、とうとうケネディ.Jrの副大統領候補にもなった挙げ句に、「民主党の実態に失望した」と述べて、選挙戦から撤退したのだった。

とはいえ、この人物がケネディ.Jrとおなじく、トランプ支持を表明したとの情報はない。

そのケネディ.Jrは、この討論会を評して、「パフォーマンスではカマラ・ハリスの勝ち、内容ではトランプの勝ち」としたが、これぞ、「仕込み」ではないか?
案の定、メディアは前段だけを切り取って報じている。

ケネディ.Jrは、こうしたやり方を熟知しているから、あえて仕向けたと推察する。

さてそれで、10日の討論会は、事前の期待を裏切って、トランプ氏がカマラ・ハリスを完膚なきまでにやり込めることはなかった。

このことが、熱狂的トランプファンから「不調」との評価にもなっている。
つまり、不完全燃焼だ、と。

一回だけの討論会で、バイデンを撃沈させたのとは様子がちがう、というわけだ。

しかし、バイデンはこれ以来目立った姿を見せないでいて、「大統領はどこ?」状態になっているし、だからといって、現職副大統領のカマラ・ハリスが政権のフォローをしているのでもない。

かんたんにいうと、いま、誰がアメリカ国家を運営しているのか?責任者がわからない状態にあるのだ。

これをトランプ氏は、最後の2分間でみごとに指摘して終えた。
まったく、日本人(とくに関西人)なら、「ぼやき漫才」で人気を博した、人生幸朗・生恵幸子の決め台詞を思い出させてくれた。

ならば、この不完全燃焼の理由はなにか?

この後に及んで(投票日まであと2ヶ月もない)、カマラ・ハリスを完膚なきまでにノックアウトしたら、もしや面倒な「ミッシェル・オバマ」が担ぎ出されるやもしれぬ。

さすれば、こんなもんでやめとく、というのがアゥエーでのABCテレビ出演ということではないか?と推測するのだ。
それで、ケネディ.Jrも連携して発言したとかんがえるのである。

なにしろ、問題なのは6州しかない、スイング・ステートにおける勝敗なのだ。

いまや「全米」での得票は関係ない。

カマラ・ハリスには、しっかり党からの演出プロが指導にあたったというけれど、共和党側の演出とは、「適度なマイルドさ」にあったとおもわれる。

それがまた、ABCニュースの「偏向」をあぶり出して、アメリカ人の正義感に訴えたのなら、まっ先に大恥をかいたのはABCニュースで、二番にカマラ・ハリスのポンコツぶりだった。

技あり!といったところである。

そんなわけで、10日のロイターによれば、「この勝利」に気を良くしたカマラ・ハリス陣営は、10月にFOXニュースで2回目の討論会をやる意向を表明した。

これはもう、トラン陣営は笑いが止まらないだろう。
次回は、容赦ないことになるはずなのだ。

にもかかわらず、トランプ氏はポーカーフェイスで、カマラ・ハリス陣営からの誘いに、いまのところ、「応じない」と表明し、参加したくない風情をだしている「役者」なのだ。
笑いを押し殺して、だだをこねながら投票日直前のこのタイミングで、瞬殺・轟沈させることを狙うにちがいない。

だが、その前の10月1日に今度はCBSで、副大統領候補による討論会もある。

ここでJ.D.ヴァンス氏によるタンポン・ティムを「撃沈」させるのか?それとも「寸止め」とするのか?

いやいやヴァンス氏には、意図せざる結果として、タンポン・ティムが自爆・自沈するかもしれない。

なんだかもう、プロレスの「3本勝負」みたいになっていて、目が離せないのである。

「恐怖政治」の前提には人間の恐怖心がある

民主国家の国民必読書といえば、『1984年』がまっ先に挙げられる。

この恐怖小説は、全体主義の恐怖を描いたもので、残念ながら救いようがない世界となっている。

もちろん、作者のジョージ・オーウェルは英国人だから、「英国の未来」をイメージしながら書いたにちがいない。

わたしは、彼の発想の根底に、おなじ英国人のケインズが、いわゆる「ケインズ経済学」をもって、「ケインズ革命」とまで世間にいわしめたことの恐怖があったのではないか?と邪推している。

ケインズ経済学=社会主義、と真っ向から批判したのは、ハイエクだった。

有名な、ケインズとハイエクの論争は、あたかもケインズが勝利した、と喧伝されているが、はたしてほんとうか?

じっさい、ケインズに「ケインズ理論の政策における実践には、不景気下の経済に限る」との条件付けをいわしめたところでのハイエクの撤退は、「もういいでしょう」というハイエク的な論敵への配慮だと読めるのである。

こういう「寸止め」ができず、徹底的にぐうの音も出ないほど論破する態度が流行っていて、そこまでやらないと勝者がわからないのは、観客の眼力も落ちたということだ。
まさに、空手でいう名人技と、本当に相手の鼻骨やらを粉砕する暴力との次元のちがいであるが、現代人はおよそ暴力的になったのである。

さてハイエクが引いたのにケインズの敗北を意味するのは、いかなる政府も、「ケインズ政策を不景気下だけ採用すべきといったって、限定的運用なんてしっこない」ことを、ケインズ自身も熟知していたはずだからである。
なにせ、ケインズはもともと英国大蔵省の官僚だった。

つまるところ、どんな経済状況下でも(不景気でも好景気でも)、温度差こそ意図的に調整はしても、とにかくケインズ政策が実施され続ける。

その、「なんとかのひとつ覚え」で一切の政策変更をしない典型が、日本政府と日銀なのである。

こうして、その国家なり社会は、確実に社会主義(=全体主義体制)へと邁進し、国民から観たらそれが、ハイエクのいう『隷属への道』になる。

社会主義を肯定するはずのないアメリカで、なぜに社会主義が蔓延したのか?は、「本国」の英国が先行したとおり、社会正義の政策を政府がとり続け、国民が慣らされてしまったことにある。

しかし、その社会正義とは、考えぬかれた「革命思想」からの選択だったから、これを総じて「計画的=むかしなら「計画経済」と非難された」というのである。

いったん慣れされてしまったひとたちに、これらをやめる、ということは、そのまま「恐怖」になるのである。
そして、人間は自身への不利(補助金カットとか)を回避しようとする。

これがまた、政治運動として煽られれば、ひとびとの正義心に火がついて、おおいに利用されてしまうのである。

それが、100年前にドイツで起きたことであり、現代のアメリカや日本で起きている。

たとえば、自民党総裁選に立候補して、大手マスコミがイチオシしている、小泉進次郎(すんずろう・レジぶくろう)が、突如、年金は80歳から、といいだして話題にするがごとくである。

アメリカには、「ワードサラダ(意味不明)」の名手、カマラ・ハリスがやっとのことで10日、トランプ氏との討論会を乗り切ったが、まったく「すんずろう構文」なる用語でおなじタイプが日本に出現したのは偶然ではない。

乱れきった生活がある、アメリカ人には中絶の禁止が、一方で、とにかく個体の生命だけを伸ばしたい日本人には、流行病予防のはずの注射が、感染の恐怖を前提とした社会正義から強制されるのである。

乱れきった生活をやめるように道徳教育や性犯罪に対処することと、病原体からの免疫力をあげるための方策の両方ともが、目に見える結果(たとえば臨まない妊娠)だけを繕うための方策だけに議論が集中するのも、そういった「そもそも論」が、利権のカネにならないためである。

そうやって、多数の恐怖がある一定の思想や行動としてまとまると、味をしめた政府は、どんな理由であれ、なんでも強制をして、国民を圧する。

これが「圧政」の正体で、従わない者は個体としての恐怖(暴力)を味わうことになる。

つまり、恐怖が恐怖を呼ぶのであるが、ぜんぜんレベルのちがう恐怖となるのだ。

世界の大富豪たちがなぜに社会主義=全体主義体制を支持して、資金提供に奔走するのか?といえば、彼らの未来永劫・子々孫々・末代まで、支配する側に居座りたい欲望を、カネで買うことができるようになったからである。

そのためのロボット人形が、カマラ・ハリスであって、自民党総裁なのである。

「足袋」を履く

まだ半世紀前とはいえないが、高校時代に「和弓」のクラブに入会した。

残念ながら、わたしが通った県立高校には「弓道部」がなかったので、社会人のクラブに入会したら、自動的にわたしが最年少会員になったので皆さんから可愛がれたラッキーもあった。

小学校のときの運動会では、まだ裸足や足袋でいる同級生は多数いた。
わが家では、なぜか母が足袋を買ってきて履かされたものだったけど、周辺にも足袋の友達が多数いたから妙に特別な気分になって張り切った思い出がある。

おかげで、三位入賞の折り紙セットをゲットした。

むかしは、小学校の運動会でもいろいろとご褒美がもらえたのである。
今様の、変な平等主義はなかった。
折り紙セットといえば、「皆勤賞」や「精勤賞」でももらったことがある。

スニーカーなる履き物が存在しない時代、ここ一番で履くのが足袋だったのは、子供でも自分が日本人だと思ったものだ。
靴下で校庭を走っても、様にならないどころか走りにくいだろう。

新品の足袋が、家に帰る頃には穴があいていたものだ。
それでも、子供の柔らかい足を保護していたのは間違いない。

かんがえてみたら、むかしは「草履」もよく履いていたし、大人は「下駄」をカランコロンさせていた。
素足であっても、指の股はなぜか痛くなかった。

これはどうやら「歩き方」によるらしい。

「靴」にすっかり慣れてしまった、洋風の楽な歩き方では、「鼻緒」が指の股に食い込むのである。
「弥次喜多道中」では、江戸まで草履を一足しか交換しない(履きつぶさない)という武士が登場して、二人を驚かせる場面がある。

よほど鍛錬された歩き方だと、すなわち「お主できるのう」ということなのだ。

弓道の主流、小笠原流では、「射法」以前に、立ち方、座り方、歩き方を習うが、椅子の生活ではありえない筋力(普段使わない筋肉)を用いるために、数回繰り返すだけでも震えがやってくる。

日本舞踊も同様で、たとえば座った状態から「スッ」と立つのはインナーマッスルを駆使しないとできない技なのだ。

それで、「ナンバ歩き」が、いま注目されている。
手と足の出し方がおなじ、というのは誤解を生む。
むしろ、体内の筋肉である「体幹」を中心にした上下運動をイメージした方がいい。

この歩き方を、かつての日本人は誰でもふつうにしていたのである。

日本橋を早朝に出発して、一泊目が、遅い人で神奈川、ふつうで保土ヶ谷、達者で戸塚っだったというが、じつはすごいスピードなのである。
京浜急行の駅名が、「仲木戸」から「京急東神奈川」に変わったのが残念で仕方ない。

いまはどこだったか不明とはいえ、徳川将軍の休憩所「神奈川御殿」の入り口があった名残の地名が「仲木戸」なのである。
しかして、江戸を経った将軍の一泊目が、まさに神奈川だったとは、相当の遅い到着だったにちがいない。

いま、お江戸には数軒ほどの「足袋専門店」がある。
東銀座の「むさしや」さんは、白足袋以外、たとえば武士の常用「紺キャラコ」もある。
この布地は、もう日本で(=世界で)一カ所しか製造していないという貴重品だ。

一足は、約6000円ほど。

これを履けば、ちゃんとした「日本人」になれる?かもしれない。

足袋は、きつくピッタリさせて皺ができないのが美であって、それが「サイズ感」なので、靴下に慣れた足が締め付けられて、留め金のこはぜがなかなか入らなかったりする。

けれどもこれが、指の股を刺激するので、なんだか頭が冴えるのである。

現代の日本人が、ボーッと生きて「チコちゃんに叱られる!」のは、もしや足袋を棄てた生活をしているからかもしれない。
呆け防止になるのでは?ともおもえるのである。

ならば、安いもの、と価値観を改めた方がいいのである。