日本国内「反トランプ派」の自己防衛論

アメリカの(左翼)大手メディアが、民主党カマラ・ハリスの敗北を意識しだして、アリバイづくり的な自己防衛からの、「カマラ・ハリス批判」を展開しだして注目されている。

かんたんにいえば、逃げ出した、のである。

しかし、地球はおおきく広いからか?わが国の(左翼)大手メディアは、周回遅れ以上のボケがまわっていて、徹底的にトランプ恐怖症を視聴者や読者に擦り込む努力をやめていない。

国家安全保障よりもカネを優先順位トップに置くのも、過去からの常套手段で、トランプが公約に掲げる、関税率の大幅上昇をもって輸出が主軸の経済界を脅迫している。
それでも、トランプがいう、「各国ファースト」で、自国の安全保障は自国でやれ!という常識に過剰反応している。

日本の防衛をになう、アメリカ軍への麻薬中毒的依存がやめられないのだ。

だから、「アメリカ国民が負担して、同盟各国の防衛を担っているのだから、各国は応分の経済負担をせよ!」には、防衛費負担が重くなることは日本経済の重荷だと従来通りの主張するのである。

つまり、日本の「(米軍駐留費に対する)おもいやり予算が増える」というさももっともらしい理由で、反トランプを主張する最大の根拠になっている。

かつてあった、「防衛費=GDP1%以内」という数字的根拠不明の神学論争からしての結論からすると、「とんでもない負担の強要」にうつるようである。

けれども、この議論が「ヤバイ」のは、「日米安全保障条約」と、「日米地位協定」についての、「あいまいな当然」を基礎としている点であるし、そもそも講和条約によって主権を回復することの交換条件が、これらふたつの約束ごとであったのは、戦後の世界秩序(=米ソ冷戦)を前提としていたことにある。

極東の、「日米」と、ヨーロッパの、「NATO」がこれの具体的なかたちなのであった。

しかして、もう30年以上も前になる、90年代におきた「ソ連崩壊」で、戦後秩序の前提条件が変わってしまい、その結果として、アメリカは92年に、グランドストラテジーを書き換えて、議会承認までやっている。

ときは、いわゆる軍産複合体による父ブッシュ政権であった。

ここから、アメリカは「一極支配の永久化」を国是として、おなじ穴のムジナ、民主党クリントン政権に引き継がれて、政権政党に関係なくオバマまで一貫してやってきたのである。

これに突如異議を唱えたのがトランプで、それが「多極化の容認=各国ファースト」のスローガンだった。
直接アメリカ国民に「アメリカ・ファースト」を呼びかけているのは、同盟各国には、自国ファーストの手本をみせているのである。

日本でさっそくこれをパクったのが、最初に都知事選にでたときの小池百合子だった。

圧勝の勢いから、自身の与党、『都民ファーストの会』までつくったのを、「ファストフード」中毒で脳が冒された日本人は、もうすっかり「自国ファースト」の意味すら忘れたが、それはさいしょから理解なんかしないファッションでしかなかったからである。

その小池は、なんと初代防衛大臣だったのだ。

彼女がはたしてどこまで日米安全保障条約を理解していたのか?いまだに不明だけれど、国家の防衛はアメリカにやらせておけばいい、という「吉田ドクトリン」なる上から目線の(差別)発想で、あの竹下登をして「おもいやり予算」なるへんちくりん用語をおもいつかせたのだろう。

しかし、その吉田茂のコードネームは、「Pochi」だった。
これぞ敗戦=占領=被征服の実体で、上から目線の言い分は国内向けに限られた当然がある。

一般的に、外国に自国の防衛を依存するのは、「属国」か「保護領」といった、その外国が好き放題できる「植民地」しか想像できないのが欧米人の歴史なので、あたかもわが国が独立国家であるというかんがえは、彼らの常識からすれば「冗談」にすぎない。

なので、「おもいやり予算」といういい方をアメリカが許すのは、奴隷や家畜がなにを言おうが気にしない、飼い主の判断なのである。

つまり、反トランプ派の主張とは、飼い主様である民主党やらに都合のよい主張であって、なんだか知能を疑いたくなるのである。

それにこれをいうひとたちは、総じて「アメリカの核の傘に守られている」という、飼い主が屋根付きの家畜小屋をつくってくれたことを歓ぶのだが、吹けば飛ぶような屋根を、飼い主様の堅牢なお屋敷とおなじだと信じているのである。

いまの世界には、超小型原爆がある。

一方、核分裂の制御を要する、原子炉だって、三菱電機が直径1m、長さ2mのトラックで輸送できる「マイクロ炉:超小型原子炉」を開発済みなのだ。
爆発させるだけ、なら、人間が持ち運べる大きさと重量のもの(ポータブル原爆)はもうできているらしいけど、秘密なので披露しないしまだ実戦で使わないだけなのだ。

これを「戦術核」とひとくくりでいうが、もうちょっと分けていうべきだろう。

それに、ウクライナでの戦闘を観察すれば、わたしのような素人でも、アメリカ軍やNATOの既存(ハイテク)兵器体系が、ドローンを主とする現代戦においてぜんぜん使い物にならないことを実証している。

西側各国の「軍監」たちは、現場をどのように分析しているのだろう?

アメリカがテロ対策としてロケット弾を防御するためにイスラエルに配備した「アイアンドーム」は、イランが発射した弾道弾の飽和攻撃にまったく対処できなかったのを、あたかも花火大会のようにみせてくれた衝撃は世界を震撼させたのだ。

この「震撼」が、まともな国の、まともな防衛責任者の反応だ。

しかし、わが日本人は、お笑い番組に脳をこわされて、自分事として想像するにもおよばない阿呆集団としての家畜化が完成している。
どうして、北海道のひとや、九州・沖縄のひとは黙っているのか?不思議でならないが、おそらく「声」をなかったかのようにしているからだろう。

でも、わが国を好きにしたい邪心を抱くなら、適当な大都市の郊外あたりをねらって、正確に弾頭なしでも数発を撃ち込めば、すぐさま白旗をあげるしかない。

この意味で、在日米軍や在韓米軍は、とっくに人質になっている。

だから、ひそかに縮小させて、沖縄には今年から海兵隊はいなくなるし、F35も配備されていない(なんとアラスカで待機している)で、しらないうちに「張り子の虎」になっている。
それを隠すための、辺野古移転騒動、となっているのではないか?

それもこれも、ケインズの有効需要のはなしで、なんだかしらないがなにか建設すれば経済はまわる、というものだ。

わが国を代表する「経済紙」は、その経済音痴ぶりで有名になっている。

なにもこの新聞だけでなく、全国紙の全紙がまったく読む価値のない、ただの「新聞紙」をべらぼうな価格で売っている詐欺商売だとしれている。

しかしながら、新聞にはむかしから「縮版版」という、タトゥーがある。

哀れにも、アリバイづくりもできずに虚報をたれながして、後世の読者層になるいまの子供世代から「噴飯物」といわれることも、覚悟できない愚か者たちの証拠が毎日印刷されているのが、どうにも愚かしいのである。

課長決裁の重みを議論する有識者

14日、長野県長野市で、「児童公園からの子供の声がうるさい」との周辺住民からの苦情を受けて、課長がこの公園の「廃止決裁」をしたら本当に廃止になった件について、市の有識者たちが議論したとニュースになっている。

なんでも、上司の部長やそのまた上司の市長への「報告」が遅れたことと、一部の住民からの苦情だけで「廃止」にしていいのか?という問題を議論したのだという。

つまり、ふたつの問題がある、ということだ。

・課長の決裁権限
・公園廃止の事前ルール

少なくとも、戦後の約80年間、わが国では、「つくること」と「維持すること」をやってきたが、「やめること・廃止すること」についての方法論(条例の制定)は、事前に準備されていない落ち度がある。

この問題は、事前に廃止のルールがないのに、行政職にある課長職の職務権限だけで、あたかも廃止という決定がされたという順番での「問題」なのだ。

すると、根元にあるのは、「(新たに)つくること」にかかわる条例に「廃止」が想定されていない、という一点に尽きることがわかる。

これはもう「行政職」の問題ではなくて、「立法を職務」とする、市議会の落ち度となるのは、民間感覚でいえば常識だろう。
ちゃんとした民間企業では、「撤退条件の事前設定」といい、新規事業や新商品販売をはじめる前に、「撤退もセット」で決めることとするのである。

なお、撤退条件には、「機械的に判断するための単純ルール」が用意されているのも重要なポイントなのである。
だれがどう読んでも、おなじ撤退判断ができるように準備するからだ。

そうでないと、撤退の決断が遅れ、損失が膨らむリスクが増大するからだし、将来のある時点で、「はじめる」と決めた社長や取締役の任期を超えてしまう判断にも寄与できるという責任論からでも重要なのだ。

だから当初に設定した撤退基準に該当する状況なのに、それでも撤退しない、という判断をするのは、その時点での経営判断となる。
これも、自動的にだれ(たとえば「株主」)にでもわかるようにする(記録される)ことも内包する仕組みなのである。

このことは、兵の命にかかわる軍事における作戦の評価でもおなじだ。
なので、現場指揮官と作戦参謀それぞれの評価になって、必ず記録され、歴史の判断にまかされることも想定しているのである。

こうしたあたりまえの視点が、今回の「有識者」に欠如しているようにみえる。
まったくウクライナ軍の作戦(戦況)評価がメチャクチャなのとそっくりなのだ。

それに、この話題をニュースにした者たちにも、ぜんぜんないのは、いったいどういうことなのか?

つまり、行政権が絶対だという前提条件でだけ議論しているのだ。
まったく、「民主主義」を理解していない。

だから、一部の住人から「だけ」の苦情で廃止を決めていいのか?というトンチンカンな後付け話になって、あたかも事前に権限がないはずの(たかが)課長が決裁し、上司への報告が遅れたことが問題だということにしかならないのである。

一部の住民「だけ」の意見だったから問題だというなら、議会はどうなのか?が必要になるのは当然ではないか。
しかし、議論の範囲が「市の行政」に限定されているから、二元政治の一方の議会に言及できなかったのだ、とせめてもの解説はあっていい。

この解説がないので、おそらく能天気極まりない市議会とその構成員たる市会議員たちは、当該選挙区以外のほとんどが他人事でいるにちがいないのである。

この想像力の欠如、このルールづくり(条例制定)への無関心は、病的なのだ。

長野県(=「信州」)といえば、かつての貧しさから、教育に力点をおいて発展してきた地域として、全国に名を轟かせたものであったが、いまはその貧困が「政治的貧困」にまで堕ちた。

それもこれも、国から副知事やら局長級やら部長級の役人を「出向」で受け入れてきたための堕落だろうし、おそらく国会のプロパー職員を受け入れたことがないのだとかんがえられるのだ。

無論、わが国の国会職員は、「特別職国家公務員」だとされていることさえも、日本国民のほとんがしらないで生きている。
一般職と特別職のちがいすらわからないのではないか?

すると、実務として行政職が頼りにしているはずの、市の顧問弁護士はどういう法的アドバイスをしたのか?という疑問もでてくるし、「それは議会で議論すべき問題」とならなかった事情も気になる。

まったく、どいつもこいつもなっちゃないのである。

わが国は、戦前・戦中にまだあったはずの民主主義を、根底から失った、永遠の敗戦国なのである。

「訃報」も信用できないのか?

たまたまだとおもうが、国を離れたふたりの「訃報」がネット上で話題を呼んでいる。

ひとりは、声優の大山のぶ代さんで、もうひとりは、ペルーの元大統領だったアルベルト・フジモリ氏である。

あれ?
このふたり、ずいぶん前に訃報を見聞きしたような?

おなじ「記憶」のあるひたちが、ネット界隈で「?」をコメントしているが、そうでない「反論」もある。
その根拠が、「Chat GPT」とか「ウィッキ」とかという、不正確も甚だしい情報源ばかりを信じるものばかりなので、余計に怪しいのである。

それで、いくいつかみつくろって別のA.I.に質問すると、大山さんは2016年に亡くなっているとかと出てくるし、フジモリ氏も弔い合戦で娘のケイコ氏が大統領選挙にでたのではなかったのか?
だから、感覚的には、こんな時間経過の「感じ」がしっくりすると書き込むひとが多数いる。

「マンデラエフェクト」か?

これは、ネット上の「スラング」といわれ、多数のひとがおなじ勘違いの記憶をもっていることをいい、ひいては量子論と結びつけて説明する者もいる。
いわゆる、「パラレルワールド」のことである。

人間の記憶は、脳がコントロールしている。

その脳とは、生体の量子コンピュータではないか?と唱えたのは、あのニュートンの席にすわっているペンローズ博士である。
だれもが、「思い込み」を経験するが、これは脳が勝手に記憶をつくることから生じることだというのもわかっている。

すると、不特定多数のひとが、ほぼ同時におなじ勘違いをする現象はどうして起きるのか?

おそらく、信じるものが自分だけになっていることが根本原因なのではないか?
とくに、マスコミを信じない、ネット上の検索エンジンを信じない。

これらは、編集されているからである。

マスコミは原始的な方法、すなわち人間の組織のうちで、権限がある者によって編集され、それがその組織内だけでひとり歩きをはじめるものだが、検索エンジンは、人間が意図して書いたプログラムによって編集されているというちがいはあるけど、けっきょくはどちらも人間がしっかり意図的に関与しているという共通がある。

つまり、こうした人為にたいする疑念を、脳がなんとかしようとして物語を書き出すが、そのネタがまたどこかにある共通の記憶を原材料としているのだろう。

すると、おかしいのは、A.I.の回答だ。

ところが、無料で提供されている各種A.I.をためしてみたらわかるが、あんがいとこれらはウソをつく。
勝手に物語をつくりだす、のである。

これはこれで、当然だ。

なにしろ、人間の脳を科学して設計されたのがA.I.だからだ。
すると、A.I.は、大山のぶ代さんの訃報の記録を、なにをもって書きだしたのか?という、あたらしい疑問がわいてくる。

最新の科学によれば、この世の中のすべてはホログラムのような幻想だというし、時間も存在しないならしい。
それがまた、こうした先端科学の研究者を、仏教の信徒にさせるのだ。

開祖、ゴータマ・シッタールタは、キリスト教のイエスとちがって、遺骨が発見されたことから実在の人物であり、誕生がキリストを起点とする紀元前5から6世紀というから、紀元(後)1世紀に書かれた最初の『新訳聖書』よりも、最大で700年早い。

その「宇宙論」が、最新科学と合致することが研究者を引き込むという。

すると、このうつろいゆく世界は、やはり幻なので、「物故する」ことも幻のなかにふくまれて、いつだっておなじなのだという無常そのものなのだ。

『レ・ミゼラブル』とは、「ああ無情」と訳された。
その無情ではなくて、常に存在のない「無常」である。

『ドラえもん』といえば大山さんの声がインプットされているが、最期に「無常」までセットされたのは、ふたりの藤子不二雄と大山さんのおかげだった。

合掌。

専業主婦の生産性

新聞記事をどんなに集めて読み込んでも、歴史にならない、といったのは名著『明治大正史 世相編』における「自序」で告白した柳田國男であった。
なお、残念なことに、全6巻から「世相編」以外の他の5巻は、国会図書館で閲覧するしかない。

朝日新聞には、是非復刻してしてもらいたい。

さて朝日新聞の重鎮でもあった柳田が、新聞の限界を語ったのは、新聞が書かない、もっといえばフォローしきれないおおくのことの積み重ねが「歴史になる」からである。

似たようなはなしに、「統計」がある。

データとして集め加工したものが統計量となって世間に発表されるけど、そもそもデータとして扱われないおおくのことは、統計としてわかりようがないからである。

それにまた、統計に見せかけたゴミが大量に生産されていて、その背後に「ごみデータ」の使用が山のようにあるから始末がおえなくなるのである。
統計の基本として、ごみデータからはゴミしかでてこない、がある。

これにくわえて、「因果律」の誤用もあるから、現代人は正しい統計知識を持たないと、すぐさま騙されてしまう危険にあふれている。
「因果応報」の「因果」のことで、原因と結果の短縮語であるけど、結果から単純に原因をいいあてることはできない。

たとえば、有名な誤用として、文科省のポスターにどういうわけかいつまで経っても訂正もなければ詫びもない以下がある。
それは、「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている、ということに基づいて、朝ごはんを食べれば成績が良くなる」と明記したものである。

よく読めば、前段の「成績優秀な子供は朝ごはんを食べている」と、後段の「朝ごはんを食べれば成績が良くなる」に、因果関係はぜんぜんないことに気づくだろう。

これが、文科省のお役人様の数学的リテラシーのレベルの低さを表しているのだが、もう笑って済まされるはなしを超えていて、彼らは「朝ごはん」に予算をつけるに至っているのだ。

国家はどこまで個人の生活に介入するのか?をかんがえた場合、共産化が止まらない、といえる。

それで、「専業主婦」という職業には、(経済的)価値創造の尺度が与えられていないので、データの取りようもなから、統計に出てこない。

これをまた、むかしの経済企画庁があった内閣府や、総務省統計局、あるいは経済産業省、最新ではこども家庭庁のお役人様は、データがない、ことからの因果律の誤用をして、「専業主婦の労働には経済価値がない」という暴論を吐いて平然としている。

ならば、「家政婦」さんの価値創造をどう見るのか?と問われると、話題を換えて逃げるが一番となる。
こうして、何もわかっていないことだけが質問者にはわかるのであるが、カマラ・ハリス同様に、問われた本人には自分が理解不能だということも理解できないのである。

もちろん、一口に「専業主婦」といっても、申し訳ないがピンキリの幅があるはずだ。

優秀な専業主婦は、「家事」における専門家としてのあらゆる情報収集と、活用の実践を心がけていて、たとえば「食生活」における、「医食同源」の発想から、家族の栄養だけでなく健康に関しても気を遣っている。

すると、ピンとキリの差は、時間経過とともに、家族の健康が失われ医療費が嵩むようになるのと、その逆のことが起きて、驚くほどの「経済格差」を生む原因となる可能性が高いばかりか、外で働くことでの稼ぎよりも、ずっと大きな価値の差になり得るのだ。

それがわたしがいいたい「家政学」の重要さなのである。

また、自動車ローンの契約でも必須である、「金利計算の知識」は、いま学校の「家庭科」で扱っていると書いた。

上の例でも示した、トンチンカンな文科省は、高校生に必須だといって「金融リテラシー」なる授業をやっているが、なんのことはない、証券会社の営業マン氏が講師になって登壇し、投資商品を紹介をしているにすぎない。

賢い主婦とは、国家管理の栄養士でもなに士でもなく、自分の家族のために的確な情報を受け止めて応用できるひとを指すのだ。

すると、そんな素地をどこで磨くのか?が問題になってくるのは、『産学連携と科学の堕落』にあるように、国家管理の大学(研究予算の配分を国がやる)では役に立たないからである。
つまり、「士業」としての勉強ではない、もっと応用範囲が広大な「主婦」としての基礎から学ぶべき場所が、この世に皆無だということがわかるのである。

「奥」の一切を取り仕切って、この分野では主人さえも口出しできない「奥様」を養成するにはどうしたらいいのか?

「女子教育」の重要性はここにあったはずが、子育ても含めてまったくのお門違いとなったので、家族が衰退し、ひいては国家も衰退がとまらないのである。

これらを政策として、わざと国が推進するのは、家庭=家族の破壊が共産化=全体主義への近道だからである。

そんなわけで、家庭から主婦をなくして、外部社会で働かせるための税制やらを用意して、ダブルインカムでも贅沢な暮らしができないように、夫婦が揃って働かないと生活できない賃金体系をつくったのである。

これに阿呆な経団連を代表する民間経営者たちが、目先の人件費コストのダウンによろこんだら、少ない賃金による消費が減ってあたかもデフレになってしまった。

そこで懲りずに国家依存して、アベノミクスなる社会主義(福祉分配)経済政策を「保守」と呼んで、国民乞食化の長期低迷を固定化したのだった。

すると、日本経済の処方箋はなにか?を問えば、ミーゼス、ハイエク等のオーストリア(ウィーン)学派の主張しか選択肢がないことに気づくのである。

トランプがこれをふたたび実施する。

疲労がポンと取れるヒロポン

こないだの末尾で紹介した、「青空文庫」にある『安吾巷談1 麻薬・自殺・宗教 』についてのはなしの続きだ。

まお、「青空文庫」とは、時間の経過で消滅した著作権のない作品を集めている、無料の電子版文庫のことで、ボランティアが入力から校正、制作にあたっている文化活動のおかげで得られる恩恵をさす。

さて、昭和を代表する「無頼派」作家で有名な坂口安吾の代表作は、『堕落論』であった。

しかし、彼が「無頼派」と呼ばれるのは、ハッキリと忖度も遠慮もなく書いたことで、世相・風俗についても同じだったからだろう。
それでも人間関係が壊れなかったのは、本人の個性も含めていろんな事情があったからだとわかる。
ゆえに著作権が切れた長い時間とともに、「資料性」をましている。

ときに、ふつうの人間は生活上で当たり前のことをわざわざ書き残すことはない。

たとえば、「トイレ」での用足しは、生活上の当然だから、どんなふうにするか?とか、どんな構造の設備をつくるのか?とか、古代遺跡ならまだしも、対象が中途半端なむかしだとよくわからないブラックボックスになるのである。

奈良・平城京のお屋敷跡から大量に出てきたのは、先のとがった竹のヘラだった。

痛くなかったのか?が話題になったもので、洋式になったばかりか「温水洗浄便座」が普及したいまでは、肛門括約筋が弛んでお漏らししてしまう高齢者が大量生産されている「真逆」がある。

本稿のテーマにした、『ヒロポン』は、かつて一般人に広く愛用された「常備薬」ともいえる覚醒剤のことである。
なんだか犯罪臭がするのは、だれでもしっている「覚醒剤取締法」があるからだが、この法律が施行されたのは、まだ占領中の昭和26年(1951年)7月30日のことなのだ。

つまり、敗戦からざっと6年間は、「合法」であった。

疲れが取れるから、重労働の社会人は当然として、勉強に励む学生にも集中力を上げるために常用された。
あたかも、いまでいう「健康ドリンク」のようなものだった。

むかしのCMで、「一本いっとく?」とか、「ファイト!一発!」というキャッチフレーズは、意味深なのである。

けれども、これが習慣化すれば、中毒となってえらいめにあう。
そのために、使用回数とか使用量がふえての悪循環となり、とうとう精神病院での入院生活がやってくる。

むかしの映画やドラマに、精神病院を舞台とした作品がおおかったのは、それだけ一般人に身近だったからか?

くわえて安吾は「睡眠薬の常用」についても書いている。

なんのために睡眠薬をつかうのか?
眠るためではなく、少量の酒で酔うためであった。
なにしろ、「メチル」を呑んで失明するひとや命をおとすひとがたえなかった、酒が貴重な配給品の時代だったからである。

しかも、この錠剤を、酒のつまみにするという乱暴な飲み方があったという。

ヒロポンは静脈注射が常習者の使用法だったが、皮下注射の液体と経口の錠剤もあった。
それとおなじに、とくにウィスキーとの相性がよかったという。
強いアルコールが、なんだかしらぬが「中毒防止」になると信じられていたようで医師も推奨したとある。

ならば焼酎、といかないのは、当時の焼酎がこれまた劣悪の代名詞だったからである。

焼酎が市民権を得たのは、はるか後世の80年代で、突如『いいちこ』が出現して、想像をこえる驚きのうまさにあっという間にカネのない学生や若者世代に普及したからである。
だが、戦後の「カストリ」をしる中高年のおとな世代は、よほどの酷い目にあったのか、用心深く「焼酎ブーム」を容易に信用しなかった。

子供だったわたしの周りのおとなは、だいたいが昭和一ケタよりも前の生まれのひとたちばかりで、これらのひとたちは総じて「薬好き」だった。
酒好きだった父親は、もっぱらウィスキー派だったが、安吾のこの作品を読んでもしや?と思いあたった。

物心がついてきたわたしのしるかぎり、海軍の幼年兵から少なくともまだ30代(の若さ)だった父は、『アリナミン』を常用していたし、風邪気味だといえば子供のわたしにも『アリナミン』を飲めばいいのだといって1錠くれたものだった。

あの黄色い糖衣錠が、溶けてそのまま出てくるかとおもうほどわたしの尿は黄色くなった。

このところ、別に「アヘン」の解説『満州アヘン帝国』を読んで、ヒロポンとアヘンの「薬効」の共通点があることに気がついた。

それが、性行為における持続力だ。

もちろんウソか真か、しらないけれど、安吾も錠剤をアテにウィスキーを飲んで、そんな行為ができるものか?と書いている。

だが、戦後日本の夜の世界(米兵もふくむ)で、ヒロポンが流行ったことは、妙にうなずけるのであるし、畠山清行著『キヤノン機関』にある、大陸馬賊に交じって諜報をやっていた中島辰次郎氏の告白にある女首領とのことは、ウィスキーなしのアヘンの効果だとおもえばリアルなのである。

別の『巷談5湯の町エレジー』の文章で、伊豆半島は伊東までとその先とで文化がかわると書いている。
それが当時はやった心中事件とかの後始末を例にするから、迫力というか凄みがあるのだ。

この作品での安吾の書き出しは、
「伊豆の伊東にヒロポン屋というものが存在している。」
だ。

坂口安吾は、伊東で暮らしていたからはなしを盛っているのではない。
ただこの話の真偽を確認しに、伊東の図書館を訪ねたくはなった。

戦争で銃後の内地にいても、空襲やらでえらいめにあうのはふつうだったから、亡骸を目にするのが日常だったことが、いまからすると異様にかんじる。
とはいえ、わが家から徒歩圏の東海道、保土ケ谷宿と戸塚宿の間には、「投げ込み塚」がのこっていて、行き倒れになったひとをここに投げ込んだと説明にあるほどのものだった。

そうやってかんがえると、講和条約の前年に「取締法」ができたのは、日本からの引上げを前提にして、好き放題をやったことの隠滅を意図したのではないか?と疑いたくなるのである。

その好き放題の悪習の名残が、ウィスキーだし、『アリナミン』だった、と。

さすれば、むかしどこにでもあったけど、子供にもなんだか場末感がある『トリスバー』の怪しげな薄暗い灯りとはなんだったのか?

はは~ん、なのである。
それに、むかしは子供を居酒屋とかの呑み屋につれだすおとながいなかったのも、はは~ん、なのだ。

ましてや、わたしが育った横浜は、世界一を誇る港町=世界一荒っぽい街、だった。

いまどきなら、子供連れをありがたる居酒屋チェーンを敬遠する自分がいるけど、どうやら敬遠した当時のおとなの意味がぜんぜんちがう。
男も女も荒っぽかったむかしの自己防衛が、子供連れで呑み屋にはいかないことだったにちがいない。

青江三奈がハスキーボイスで唄った、『伊勢佐木町ブルース』の伊勢佐木町が、昼も夜も横浜の中心街で、まだ横浜駅西口全体が場末だったころ、夜9時台といういまなら宵のうちの時間でも酔っ払いはたくさんいて、親子連れでもふつうに話しかけられたものだった。

当時の東急・東横線は、夜9時をすぎると急行がなくなって、全線、各駅停車になったのだ。

それにしても、いまも「薬好き」な国民性は、世界的に珍奇な薬にも抵抗がないことでわかるのである。

はたしてこれが、「科学万能信仰」からだけのものなのか?

柳田國男で温故知新

この世には「名著」だけでいったいどれほどの書籍があって、それを読破するにはどれほどの時間を要するものか?

昭和5年から翌年にかけて朝日新聞が発刊した『明治大正史』の第四巻が、柳田國男が担当した『世相編』であり、いま、『明治大正史』として復刻発刊されている名著のひとつである。

ために、本書は、朝日新聞版、定本版、東洋文庫版、中央公論社版、講談社学術文庫版、角川ソフィア文庫新編版といった各版が存在している。

柳田が「自序」として書いたなかに、「じつは自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前にでては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだと思っている」とある。
ただし、このあとに、「失敗した」とも残している。

けれども、柳田は失敗なぞしていない。

いまから94年前に書かれた、それ以前の生活の断面は、むしろ貴重な記録として燦然と輝くのである。
しかも、著者は、わが国民俗学の祖なのだ。

柳田自身も、当時の「朝日新聞社」の重鎮であった。
21世紀のいま、倒産の危機にあるとはだれが想像したであろうか?

よって、本書は、まさに当時の一般人向け教養講座のひとつとして書かれているから、まちがいなく読みやすい。
現在のところ版の最後=最新にあたる、「角川ソフィア文庫新編版」では、現代人にわかりやすいよう細い注が大量に配されている。

94年前の日本語の単語が、もうわからないことへの配慮なのであるが、やり過ぎ感があるのは、さらに100年後を見据えているからなのだろう。

欧米の知識人は、一般にいま起きていることの根には、最低でも200年は遡らないとわからないことを常識としている。
「舶来信仰者」からしたら残念ながら、わが国の文化的発展は、欧米の比ではないほどの高度さだったかから、現代日本での出来事の根は200年辿れば済むような簡単さではない。

幕末・明治以来、ふつう、欧米の方が進んでいるものだと決めつけて、戦後はアメリカ一辺倒になったのは、まったく筋がとおらない暴論である。
それは、すこしばかり早かった産業革命の産物としての目線でしかないからである。

文化が衰退すると文明となって、やがてこのサイクルの文明も滅び、あたらしい文化が生まれ、それがまた衰退して文明となることを何度も繰り返しているのが人類だ。

逆に、古くから文化先進国だったわが国では、なかなか文明に堕落するまでの衰退がないので、国民のキャッチアップ速度と津々浦々まで文化が浸透し影響の広まる速度の方が、はるかに欧米よりも高度なので、織豊時代の宣教師や幕末・明治の外国人からしたら、「異常」なまでに見えたのである。

しかし、実質的に世界帝国だった英国の傘下に組み込まれた、明治・大正の時代とは、過去の習慣・風習を急速に捨てる「欧米化=文明化の堕落」で成り立っていたから、(伝統)文化とのトレードオフの関係があった。

おそらく、その捨て方のバッサリ感も、あたかも「ちょんまげ断髪」のごとくで、戦後の高度成長どころではなかったのではないか?

ヨーロッパでいえば、いまだに王侯貴族たちの身分制があることだけを捉えても、わが国の変化は尋常ではないことがわかる。
これはもう、「良い悪い」という問題ではない、別次元で起きたことの事実だ。

当然だが、この書でいう「現代人」とは、昭和5年当時の読者諸氏を指している。
しかし、その浅さは、21世紀まで時代を下るごとに薄さをましていることがわかる。
それは、けっして「研ぎ澄まされた」という意味ではなく、浅はかになる文明化なのだ。

柳田國男の生まれは、明治8年(1875年)で、昭和37年(1962年)に逝去したから、戦後の高度成長を見据えてもいた。

これは別のたとえでいえば、「明治女」を書き残しておきたかった、と執筆動機を語った、橋田壽賀子がいる。

その代表作『おしん』の主人公、谷村しんは、明治34年(1901年)生まれの設定としていたのは、1925年(大正14年)生まれの橋田からみて、自身の母世代のイメージからであると書いている。

還暦を過ぎたわたしからみれば、昭和5年は母の生まれた年であって、明治36年生まれの祖母の話が記憶から呼び覚まされるおもいがする、どこかに懐かしさが湧いてくる本なのだ。

確かに、こんなひとたちがいた。

しかし、やがて、『おしん』さえも、過去と分断された戦後の日本人には、自分とは関係のない「資料」になってしまうのではないか?

さて本書の記述法として、柳田は一切の固有名詞を意識的に排除したことが、一般論として効果をあげている。

いまのひとたちは、「未来志向」という名分で、過去を顧みないのは、進歩主義=社会主義にすっかり洗脳されてしまったからだ。
しかし、『おしん』の前半、すなわち「貧乏物語」へと徐々に戻っていく現実の衰退を通じて、いつしか実感になったときが「復活のとき」になるのか?

温故知新、すら死語になりつつあるいま、読んでおくべく一冊であろう。

いかにして正気を維持するのか?

人生山あり谷ありは誰でも経験するが、自分の劣化を意識してこれを維持する努力をするのはけっこう辛い。

十代の受験は、中学、高校、大学と三回あって、これらをぜんぶ志望校合格してクリアする者もいれば、そうはいかなかった者もいる。

ぜんぶ合格したからといって、その後の人生でつまづく者もいれば、ぜんぶそうはいかなかった者がその後の人生でうまくいくこともある。

ただし、これらの評価は、自己評価と他人からの評価があるので、絶対的なものではない。

悩み、という個人の内面に注目すれば、自己評価がなによりも優先順位が高い。

自己満足度という基準が個々人それぞれにあるからで、これはもう他人が介在できるものではない。

学校の勉強ができることの評価だけで、優秀と外部から評価されて、それで満足している風情でも内面で不安を抱えているひとはたくさんいる。

けれども、社会人になってあからさまに勉強をすると、他人から嫌味になることをおそれて、ほんとうに勉強しないひともいれば、逆に、学歴に関係ないと開き直って勉強するひともいる。

わたしの場合は、素人、というトップからの評価をたまたま耳にして、いわゆる昇華型の欲求不満行動となった。

頭にきて、勉強してやる、になったのである。

しかし、不惑の40代になって気づいたのは、これまでのレベルを伸ばすよりも維持することの方に努力を要することだった。

なるほど、江戸末期つまり明治初期の寿命が50歳だったことの意味を実感した。

生まれてからの一桁から30代までで、あれよと能力の伸び代がなくなるのである。

だから、この間が現役としてもっとも充実した時期となる。

しかし、いまは、その後、が長すぎる。

50を越えて放っておくと衰弱する能力を、いかに維持するのかばかりか、知らないで死ねるものかという気概を持たないと、とうとう正気をなくす。

それが、国会議員をみてわかる、つまり、漫然とした人生をおくった人間たちの集団サンプルなのである。

それをまた、漫然と生きたひとたちが選ぶという、マンガになっている。

70年代、つまりいまの後期高齢者たちが青春真っ盛りだったとき、ニヒリズムが流行った。

けれども、このひとたちのおおくは、ニヒリズムが何かを追求することなく、なにやらカッコ良さげなことばに浮かれたのである。

人生とは何の意味もない虚無である、とはどういうことなのか?

なるほど、いまだけ、カネだけ、自分だけしかない老人になって、敬老、からほど遠い個体となって息をしている。

しかして、やっぱりそれはニヒリズムなのか?

親父狩りにあった世代が、敬老世代だとニヒルな笑いでもして自嘲できるならまだマシだが、そんな者は皆無なのだと、自分よりずっと上の世代をわたしは冷たい目でみているのである。

とはいえ、正気を維持することが困難な時代になっていることは、確かなのである。

だから、自分は正気なのか?と自問しないといけないのは、ほんとうに病院にはいった経験がある、坂口安吾を見倣え!とまででなくとも参考になるのである。

民主党内紛の10月サプライズ

大統領選挙イヤーの10月には、かならず双方の陣営から「おびっくり」すなわち、「オクトーバーサプライズ」があるといわれている。

これがなにか?事前に予測も予想もできないのは、予期せぬ結果、すなわち、「付随的結果」ばかりだからで、それゆえに当事者たちにもなにかがわからないからである。

今回、もしやバイデンがトランプ支持を表明するのではないか?との憶測がでてきたのは、ホワイトハウスでスタッフ同士の殴り合いの乱闘騒ぎがあった?と伝えられていることからの連想ゲームである。

当事者は、大統領側スタッフと、副大統領側のスタッフだったらしい。

組織をつくり、これを動かすのは人間だけである、という基本中の基本がある。
どんなに科学がすすんでも、組織運営そのものは人間がやるしかない。

しかし、この基本を忘れる努力をするのが、共産主義、すなわち、「唯物論」である。
また、共産主義はその唯物論をもって、唯物史観なる、「歴史法則」を真実だと主張する。
法則なら、放っておけばよいものを、現状の破壊活動を通じてやった結果を「法則」だというのである。

しかも、その破壊活動にあたっての組織運営も、人為としての権力闘争までやるのである。

カール・ポパーの主著、『開かれた社会とその敵』(全四巻、岩波書店、)の、後半の二巻が昨年10月に「新発売」になっている。

その副題は、「にせ預言者-ヘーゲル、マルクスそして追随者」だ。

もちろん、トロツキー派に乗っ取られたアメリカ民主党は、その「追随者」にふくまれる。
なので、この組織はマルクス唯一の真理である、「人間を疎外する」のである。
つまり、組織運営において人間の感情を無視する。

それを、「科学的社会主義」だと言い張るところが、もう「空想」でしかないのだが、世代を超えて気づかない愚がある。

どうやら、むりやり再選から降ろされたバイデンは、自分をおとしめた組織に恨み骨髄に徹するほどお怒りらしいのだ。
それで、自分からサッサと乗り替えた、カマラ・ハリスを敵認定したとみられる。
まさに、カソリックのバイデンは「肉食の文化」を激発させている。

これが双方の忠実なるスタッフにつたわって、乱闘になったなら、納得の場面である。

大統領選挙は、激戦各州における勝敗でぜんぶが決定する。
日本のマスコミがさかんに「全米支持率」を言い立てるのには意味がない。
むしろ、投票日直前になって、激戦州のなかの細かい支持者データがあきらかになってきた。

白人至上主義だとレッテルを貼ったトランプの、黒人やヒスパニックの支持が過去最大級の伸びをみせて、さらに若者層からの支持と、労働組合まで加わっている事実に民主党幹部たちに激震がはしっている。

ここにきて、ヒラリー・クリントンが、マスコミはトランプ派のウソを封鎖せよと絶叫したことを、イーロン・マスクが真っ正面から、「言論統制ではなく言論の自由をまもるのがトランプだ」とやり返して、トランプが敗退したら自分は刑務所に入れられるとも発言している。

そんなこんなで、からなずトランプよりも上回っていたはずの社会調査データが、ここにきて歴史的逆転をしていることで、民主党内はパニックになっているという。
そのために、当初マスコミ単独インタビューを回避してきた選挙戦略を転換し、カマラ・ハリスの露出を増やす、イチかバチかの勝負にでたのである。

しかし、カマラ・ハリスをこれまで露出させなかったのは、本人の無能から支離滅裂な言動が仇となると警戒したからで、いまさら慌てて出しても逆効果ではないか?
じっさいに、口を開けばウソばかりの言動に、鉄板の民主党支持者たちが嫌気をさしている。

それでもホワイトハウスでカマラ・ハリスの単独記者会見を準備して、開始数分前の直前に、なんとバイデンが「就任以来はじめて」、報道官室(=大統領会見場)に登場し、カマラ・ハリスの会見をすっ飛ばしてしまった(中止になった)のである。

なぜなら、副大統領会見場にいた記者たちが、大統領会見場にこぞって移動し、だれもいなくなったからである。

これはもう、現職大統領による大統領候補者(現職副大統領)への選挙妨害である。

なんだか、呆け老人を邪険にするととんでもないしっぺ返しがくることをみせてくれたから、孤独な世界の老人にバイデンは喝采を受けているかもしれない。

こんなザマに嫌気を露わにしているのが、あの極左CNNだ。

もう、カマラ・ハリス批判がとまらない。
宿敵トランプを倒すには、役不足も甚だしいとイラついて、その欲求不満行動が肝心のカマラ・ハリス本人への攻撃に向かうという本末転倒をやっている。

どんな選挙方法だったかを含め、予備選挙で圧勝したバイデンをむりやり降ろした事実と責任を追及せずにいながら、それでも民主党幹部を批判できないおとなの事情があるのだろう。
ようは、鬱積した不満を爆発させているのは子供が地団駄を踏むようではあるが、もしや脳内物質の制御ができないのは、ファストフードばかりを食べてミネラル不足になったからか?

デカルト以来、「理性」を前面にして、論理(唯物論)だけでやってきて、人間性を無視する浅はかさを露呈するのは、左翼のお家芸なのであり、それがかならず内紛から内ゲバになるのは法則ではなく「性(さが)」であるし、「業(ごう)」ともいうのは、このひとたちのなかにある欠損した人間性の結論なのだ。

これは、世界の指導者を決めるアメリカ合衆国大統領選挙でのサプライズというよりも、世界に蔓延しているグローバル全体主義の内紛であることが、サプライズなのだし、ざまぁみろといいたい歴史的帰結なのである。

選挙は短期決戦とはいかない

事情がなんであれ、公職選挙法に合法なら何をしてもよいと発想するのを、いけない、といいたいので書いておく。

あと30日もなくなったアメリカ大統領選挙は、年をまたいで行われるほどの長丁場である。

第一に、党内予備選挙で勝たねばならぬ。

次に、大統領選挙は、大統領選挙だけの選挙ではなくて、連邦上院議員の3分の1の改選と、連邦下院議員ぜんぶの総選挙がセットだし、各州ごとだとそれぞれの州ごとや郡ごと、市ごととかでいろいろな選挙が行われることになっている。

なので、有権者は、投票所に行くと30分ほどかかるくらいにたくさんの選挙投票をいっぺんにやるのである。

日本では、そこまで煩雑でないのは、そもそも公職選挙法で選ぶ選挙投票の対象が限られているからである。
さらに、最高裁判所判事の国民審査なんて、あれはいったいなんなのか?

もちろん、地方検事を選挙で選ぶこともないし、都道府県にも市町村にも、司法長官すらいない。

逆に、選ぶ対象者が少ないので、名前と顔と本人のことをしるには、アメリカ人よりずっと有利なのが日本人のはずなのだ。
ところが、選挙期間がやたらと短いので、有権者として立候補者が何者なのかをしって判断するのが困難なのである。

それに、変な貧乏根性が働いて、「選挙広報」が薄っぺらい。

候補者各人それぞれが1ページを使うのだってまだ情報が少ないくらいで、見開き全ページが候補者ごとに割り当てられて、たとえばニューヨークタイムズの日曜版のごとく、分厚くなっても大いに結構なのである。

そこまで政見を語らないといけないのは、候補者に優しくなくとも、有権者には重要なことだから気にすることはない。
こんなことごときで、資源ごみが増えるとかの批判は、ナンセンスといって一蹴すればいいだけだ。

それを主張したいなら、選挙広報にそう書けばよい。

さらに、再選を目指す現職がどんな法案に賛成・反対・棄権したのかの実績を選挙公報には掲載してほしい。
新人なら、参考として、それらの議決に自分が議員ならどうするかも示させることだって、重要な選択のための情報なのである。

また、どんな議員立法に関わったのか?も重要情報だ。

人気のない現政権からしたら、第一に有権者には棄権してほしいだろうし、投票所にやってくる有権者には、わけもわからず適当に選んでもらえば、組織力を持ってして、少ない票でも結果的に有利になると皮算用している。

そのために、短い選挙期間で、既存議員の再選を目指すのは、不公平に他ならない。

こうしてみたら、わが国の公職選挙法は、あたかも、酒税法が徴税当局のためにあって、消費者や製造者に役立たないのとおなじなのである。

そうやってかんがえたら、これも憲法の思想に反していることがわかる。

さらに、べつに「裏金議員」を擁護するつもりは毛頭ないが、総裁の意向だけで、「比例重複」とか、「公認」を取り消されるのは、どういう党内規定があってのことなのか?
議員にとって、最大の関心事なのは、まさに「身分」にかかわる重大事だから、党内規定としてあらかじめルールがないのはおかしい。

しかし、何度も書くが、自民党は「近代政党ではない」という国際基準的にも日本ローカルそのものだから、ぜんぜん民主主義的ではなく、むしろ総裁やら幹事長の独裁が許容される政党だと告白したも同然なのだ。

この独裁政党を、だれも批判しない。

憲法に「国民主権」を書くなら、選挙期間は最低3ヶ月を要するとか、最高裁は積極的に憲法判断をすべきなのである。

政権与党のやりたい放題を観察すると、アメリカにおける「司法の武器化」はアメリカらしいアクティブさがあるけれど、日本における「司法の武器化」は、パッシブであることの大問題があることがよくわかる。

自民党員が必読の『福祉国家亡国論』

このところ万人単位で減っているという自民党員たちだが、年間4000円を払えば、基本的に誰でも党員にはなれる。
ただし、こないだの「総裁選」のように、何年かに一度というときには、名前を貸すことでの「党員」となることもある。

この場合、党費は地元だか何だかの有力議員とかが負担してくれる仕組みで、わたしもかつて、いつだかも忘れたが、党員登録のための名前貸しをしたことがある。
もちろん党費を支払ったことは、人生で一度もない。

それで、投票をするのはわたしの名前を借りたひとになるから、わたしはどんな方法で、投票するのかもしらないままでいた。

なので、ほうとうの党員になるとどんなサービスを受けることができるのか?とか、逆に、どんな負担を強いられるのか?について、詳しくはしらない。

そもそも、地元の市会議員とかの「後援会加入」と、「党員になる」ことのちがいすらわからないままで生きてきた。

横浜市だと、市会議員の後援会、県会議員の後援会、それと国会議員の後援会があるから、全部にそれぞれ加入するのか?それともどうしているのか?もしらない。

それぞれの議員にとっては、自分の後援会が、政治活動のための「組織」になるので、それがまた、党本部の組織とどんな関係にあるのか?もわたしにはわからない。

そんなわけで、自民党総裁の投票権を得るために党員になって、投票したらしばらく休眠するというひともいるらしい。
けれども、公職選挙法と関係のない総裁選の「一票の格差」は、一般党員と現職国会議員とでは天と地なので、よくもまた物好きがいるものだと感心するのである。

さて、手元には昭和50年12月1日、保健福祉開発研究財団刊とある、『福祉国家亡国論』の令和元年復刻版がある。
著者は、元自民党衆議院議員、山本勝市(経済学博士)だ。

ご本人の来歴によると、明治29年生まれで、戦後の昭和20年11月には、日本自由党創立委員で、翌年4月に衆議院議員になっている。
公職追放後、昭和29年に第一次鳩山内閣で通称産業政務次官、自由民主党政調会副会長、総務、財政部長、衆議院大蔵委員長、同懲罰委員長を歴任、とある。

しかしてこの本は、ハイエクやミーゼス、それにレプケが紹介されている、バリバリのオーストリア(ウイーン)学派=自由主義の教科書なのだ。

こういう人物が自民党内での理論家として、何かと政策立案に関わったのは、国民としてハッピーであった。

しかし、この人物がいた時期を含めて、どんどん共産化していく自民党は、この本の真逆を突っ走っていて、かつての見る影もない。
これはいつからのことなのか?

「まえがき」には、昭和30年の春、第二次鳩山内閣の川崎秀二厚生大臣が、衆議院予算委員会で社会保障制度の確立を約束したときからであり、特に、同年11月、与党の民主党と野党の自由党が合併して自由民主党を結成したとき、その綱領のなかに「福祉国家の完成を期する」と明記した、とある。

ようは、自民党は結党のはじめから、社会主義政党なのだ。

ちなみに、「福祉元年」を宣言したのは昭和36年で、いまの社会保障制度(国民皆保険制度)が完成したのである。
これから60有余年、山本博士が指摘したように、計画経済を通じての「ソ連化」で、成長率さえとまって久しい。

おなじ「まえがき」で、福祉国家政策の推進が自由社会の基礎を崩壊させることへの私の危機感、とあるのは、いまにして至極まっとうな「正論」だとわかる。

まさに「福祉国家」が、国家破綻を誘導し、国民生活を困窮化させている。

さらに「復刻 まえがき」では、生活保護を例にして、かつての日本人は(これを受給することを)「恥」と考えていた。
働かなくとも給付され続ける「金」で、我々は何を売り渡してしまったのか、と。

もう、かつての日本人にあったはずの「恥の文化」すら破壊されたのである。

1969年から翌年まで、ほぼ2年間にわたって放送された大人気時代劇、『素浪人花山大吉』でも、「恥の文化」が生きている姿は、もしや、破壊をすすめている現実から目をそらすための教育だったのではないか?といまさらながらに疑うのは、現「テレビ朝日」の「NET(「日本教育テレビ)の略」が作っていたからである。

ただし、「付随的結果」として、いま観ると、失われた「恥の文化」だけでなく、ロケ地の景色も、俳優たちのセリフ外の演技にもさり気ないむかしの日本人の動作があって、現代にまったく失われていることがよくわかるので、もはや「記録映画」としての価値がある。

戦後の原点にあるはずのこの本を自民党員必読だという指導者もいない「党」に落ちぶれたから、国民として何よりも先に滅亡してほしいのが、自民党になったのである。

するとこの一冊は、日本国民が必読の書となる必然がある。

なにせ、「国民皆保険」がいかにひどい搾取(=国民奴隷化➡︎家畜化へと退化させる)の制度であるということが、正面切って書いてあるものだからだ。

いま、ミーゼスの『マルクス主義の正体‐人類を破滅させる妄想体系』が復刻出版されている。

併せて自民党員なら読むべき一冊だろう。