2025トランプ議会演説の「まっとう」

4日(日本時間5日午前~)、連邦合同議会はトランプ大統領の議会演説で盛り上がった。

期待していた、「NATO脱退」はなかったが、同盟国とはいえ外国の議会におけるトップの演説が、自国のトップのものとはまったく「次元がちがう」ことの哀しさは、どう表現すればいいのかさえもわからない。

また、その構成・演出の「自由度」もぜんぜんちがう。

わが国における歴史的名演説ならば、斉藤隆夫が有名だ。

今回のものが、「施政方針演説」と呼ばれているのは、就任して1年以内に内政・外交政策について、向こう4年間の方針を示すためだからという。
それで、2年目以降の「一般教書演説」と区別するらしいが、初代ワシントン、2代アダムズと続いたこの演説は「君主的」とあのジェファーソンが批判して一旦途絶えている。

それで、1913年にウィルソンが復活させるまでは、文書を議会に提出するだけであった。

ようは、アメリカの近代史は、なにかと(FRB創設や所得税のはじまりなど)この、ウッドロウ・ウィルソンというDSの手先を起点とすることがおおい。
なので、トランプ大統領は、この詐欺的民主党大統領以来の伝統を放棄することも選択にあっただろうが、国民へのメッセージ浸透の効果を考慮して絶やさなかったとかんがえられる。

そのためか、公式の議会演説なのに、よくこなした選挙ラリーのような演出が光った。

たとえば、不法移民に陵辱されて殺害された女性の家族を傍聴席に招待し、演説の途中で紹介したり、それが殉職した警察官の遺族であったり、はたまた、暗殺地未遂事件の時に流れ弾によって亡くなった消防士の家族であったり、と。

日本では首相の「施政方針演説」について、事前に「テーマ」が発表されることはないが、今回は、「アメリカンドリームの再生」というテーマだと事前に発表されていた。

これは、大袈裟ではなく、事実上の「第二次アメリカ独立宣言」なのである。

そして、話のなかに含まれている「数々の(選挙)公約」実現を、指名・承認された各大臣の名前を示しながら、その「施政方針」を命ずるという方法は、まったく斬新で、あたかも企業における優れた社長が、各担当役員に明確なミッションを伝達・指示するような風情であった。

なんとなく、派閥やらの力学と当選回数で組閣・入閣し、なんとなく各大臣がそれぞれの役所の官僚によってコントロールされ、不祥事があれば解任されるだけのわが国とは、根本的に異質な体制なのだとよくわかったが、この指示の適確さ・まっとうさが聞くものの感動を呼んだのである。

CNNにしても、この演説をポジティブ評価するしかなかった。

だが、議場の半分にまとまった、民主党議員団のシラケた反応も、全世界が観ていた。
なかには、Stand up and applaud. するわずかな議員と、立ちはしないがパラパラと拍手をする議員と、圧倒的多数のただ憮然としている議員との区別がついた。

議会先進国である英国の例を真似て、わが国でも「党議拘束」をふつうとしている自民党のような政党とはちがって、アメリカの政党には党議拘束はなく、議員の自由が保障されている。
なので、民主党であれ共和党であれ、議員は自身と自身を選んだ有権者に忠実であれ、という原則が優先される。

この意味で、多数の民主党議員がトランプ政権2.0と敵対するのは、ついこないだまでバイデン政権を支えてきた過去があるからだ。

そのために、トランプ氏のこの演説では、徹底的にバイデン政権を批判した。

事前に軍幹部も一新したので、軍人席が比較的穏当であったのも、世界は目撃したのである。
そうして、バイデン時代に欠員した米軍の採用が、急速に応募の復活がみられる状況を説明した。

これは、警察も同様で、重い病で余命を宣告された少年の夢が警察官になることだという本人を招いて、その場でシークレットサービス長官から直接「身分証」を交付させたのは、世界の警察官にとっても自信を深める場面だったろう。

それにしても、就任してまだ1ヶ月半あまりで、信じられぬ成果をすでに出していることを強調したのは、当然だ。

いよいよわが国にも、「関税の嵐」がやってくるのだろうけど、馬耳東風の国内ローカル予算案さえ通ればいい、という井の中の蛙状態では身動きが取れなくなること必定である。
なにせ、この演説の1週間前に、連邦予算を司る連邦下院は、超大型670兆円の減税案を可決している。

この「財源」が、「関税」と「政府の縮小」なのである。

さらに、国防総省の高官は、このトランプ演説に合わせたタイミングで、わが国の国防費をGDPの3%とするように求めた、と報道された。
しかし、この演説ではなく、予算案が衆議院を通過したタイミングであると認識すべきではないか?

つまり、余波どころか大津波が日本も襲うと簡単に予測できるのだが、それがわが国で昨日4日に衆議院を通過した来年度予算案にないからである。
トランプ施政方針演説の前日に、よくもまぁ、と呆れるし、石破訪米を「100点満点」と一斉に評価したことの「つけ」なのである。

よくこれで、経団連も連合も黙っていられるものだと、その鈍感ぶりに感心する。

まさに将来予測ができないので、お答えできませんという子供でもできる理屈で通る、ジャパニーズ・エリートの目先の対応しかできない絶望的劣化を証明している。

ウクライナの戦後すら見えないのは、外務大臣がロシア入国拒否リストに挙げられても、まだわからないのだった。

MET36年ぶりの新演出『アイーダ』

2月28日から1週間の公開予定である、メトロポリタンオペラのライブビューイング『アイーダ』を観てきた。タイトルにあるとおり、なんと36年ぶりの新演出=新作、なのだ。

スエズ運河の開通を記念して作られた、という俗説があるものの、とにかく巨匠ベルディのオペラの中でも、筆頭格にあたる豪華絢爛なのは、古代エジプト王朝絵巻の要素がふんだんに取り込まれていて、祝祭的バレエ部分の長さも特徴になっているからだ。

それが、METでの公演なのだから、アメリカ的な物量のこれでもかがこれ以上ない派手派手になるのは当然だ。

初演は、1871年。

原案は、フランスの考古学者で、『インディ・ジョーンズ』の仇役イメージにもなった、オギュスト・マリエットで、実際に「カイロ考古学博物館」の所蔵品のおおくは、このひとが発見した収集物なのである。

遺跡でみつけた男女の遺骨から、マリエットは本作の構想を思いついたという。

なんだか、「王の体をしる女医がいた」という一文の記録だけに着想を得た『チャングムの誓い』のような気もするが、それをオペラにするという発想はさすがなのである。

前作は、キャストちがいで2回観た。

それからの乾燥を率直に言えば、前作の「改善版」であったらいいのに、と感じた。
今回の演出は、マリエットの業績をリスペクトしているのはいいのだが、絢爛豪華さを強調するためのバレエと凱旋の模様が前作より劣るからである。

探検家たちという「現世」と、物語の登場人物たちの「当時」とが、同じ空間で霊的に描かれているのはいいアイデアである。
しかし、上に書いたように、有名な「凱旋行進曲」の最中、敵から掠奪した宝物を王や大衆に披露する前に、現世の探検家たちが遺跡より持ち出す演出は、なかなかに皮肉が効いている。

いま、「METライブビューイング」として、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で上演された作品を撮影した映画は、全世界の映画館に配給され上映しているものだ。
日本では、撮影日より日本語字幕などの用意のために約1ヶ月遅れて上映される。

初期の、2018-2019シーズンにおいては、世界の70ヵ国、2200館以上と謳っていたが、いまでは倍ほどの国々への配信となっている。

エジプトの映画館で鑑賞できるのか?についての記事がみつからないが、おそらく可能でなのではないか?

1981年公開の『007/ユア・アイズ・オンリー』を、わたしは83年か84年にカイロの映画館で観たのを覚えている。
当時、1等席で200円ほどだったが、映画館から戻ったら必ず衣服を日光消毒することがふつうだった。

この手の娯楽映画などを外国で観ると、その国民性がよくわかるものである。

本編がはじまって早々、007と逢瀬をしているシーンでは、とつぜん「画面のピント」がズレて、よくわからない状態になった途端、劇場内は一斉に「Focus!」の大合唱になったのである。

『ALWAYS 三丁目の夕日』では、『嵐を呼ぶ男』を当時の若者たちが熱狂しながら鑑賞するシーンがある。
これと同じ光景が、カイロの劇場にあったのである。

しかし、どういうわけかいまの日本における劇場内の反応は冷たく、とにかくひたすら黙って観ているのである。

なんにせよ、演出家はエジプトやらの観衆も意識しているはずで、カイロ博物館の収蔵になったマリエットは横にしても、遺跡から持ち出した「お宝」を本国に持ち帰り、一切返還請求にこたえていない。

もちろん、その典型は、「大英博物館」と呼ばれている、「国家的掠奪物保存館」の収蔵品であるし、それは、全ヨーロッパに共通のことなのである。

「ホワイトハウスでの大げんか」の後、即座にゼレンスキー氏とNATO首脳がロンドンに集合できたのは、そうした日程があらかじめ組まれていたからだし、ゼレンスキー氏一行がトランプ大統領と合う前に、民主党上院議員団と会合して、「合意しない」ことに「合意」していたことも判明したから、あのケンカもウクライナ側の演出なのである。

しかし、傲慢さによってにじみ出た愚かな結論で、アメリカは態度を硬化させて、とうとうウクライナへの武器供与を停止する決定となって、いよいよNATO=EU解体のはじまりの幕が開いた。

アフリカ大陸の地図をみれば、エジプトの西と南は直線で分けられているけれども、アフリカ大陸の多くの国境も直線で引かれている。

1884年からはじまる、「アフリカ分割会議」(ビスマルクが音頭をとってベルリンで開催)の結果が、いまの地図に残っている。

『アイーダ』の登場人物たちが知る由もない、掠奪が、モノでなくて地図にあるのだということを想起させる演出は、かなり政治的だ。

そうはいっても、かつてのスーパースター、プラシド・ドミンゴがやったテノールの主役を、サラリーマン経験者が抜擢されるオーディション(実力)主義は健在で、つねに新陳代謝を行う劇場としてのマネジメントの凄みが、芸術も学歴主義にする日本にはないダイナミックさの源泉なのだと納得したのである。


ホワイトハウスでの大げんか

世界が注目しているウクライナの停戦・和平がどうなるのか?について、2月28日のホワイトハウスが揺れた。

オーバルオフィスでの首脳会談が、すべて報道陣に公開されているなかでの「歴史的口論」という事件になったからである。

しかし、トランプ政権2.0の選挙期間中からの「大戦略」をあらかたの論者が忘却している。
米・露・中の三極構造にあって、アメリカの覇権を維持するために、露・中を接近させたバイデンのウクライナ支援の悪手から、米・露同盟による中の孤立化が狙いなのだ。

このことを、長谷川幸洋氏も指摘しているし、その根拠がキッシンジャーだと教えてくれた。

それでこの目先の「歴史的口論」についての評価も真っ二つに割れているけれど、それは、ロシアのウクライナへの特別軍事作戦がなぜ起きたのか?をかんがえるかかんがえないかのちがいとおなじで、事象だけをみて評価するのと、事象の前段からみて評価することのちがいによる、真っ二つ、なのである。

興味深いのは、「X」における日本語でのやり取りにおいても、見事に真っ二つに割れていることだ。

いわゆる、ゼレンスキー擁護派=反ロシア=親EU&英国という集団と、その逆、という構図になっている。

前日におなじオーバルオフィスを訪問した英国スターマー首相を、ホワイトハウスから追い出されたゼレンスキー氏は直行して訪ね、ロンドンの首相官邸でいつもの「全面支援」の約束を得てご満悦という絵を配信したが、ウクライナ本国の国会では「大統領解任決議」の準備が進んでいることもまた、事実なのである。

それにしても、EU=NATO側も準備していて、そのままロンドンにてのゼレンスキー氏を加えた首脳会談を開催し、アメリカ案を無視した「徹底抗戦=ウクライナ人はひとり残らず戦死せよ」を決めるという愚をおかしている。

ようは、トランプ政権2.0に、NATO脱退への絶好の口実を与える一手、となるからである。

また、EUも決して一枚岩ではなく、「X」におけるゼレンスキー氏を応援する各国首脳の判を押したようなおなじ言葉が並ぶことの気持ち悪さに対して、反抗的な首脳たちのメッセージは個性にあふれているのが特徴である。

ハンガリーのオルバン首相、スロバキアのロベルト・フィツォ首相、それに、フランスのマリーヌ・ル・ペン女史といった面々だ。

アメリカの怒りを買ったことに震える、NATO事務局長は、ひとり、ゼレンスキー氏へアメリカへの謝罪を進言するというのも、事態の深刻さを表している。
もしもアメリカがNATO脱退あるいはそれに近い判断をするようなら、小国オランダの首相を経験したルッテ氏には、「EU崩壊」のシナリオがみえるのだろう。

残念ながら、EUの女王に君臨するフォン・デア・ライエンは、ドイツ国防大臣だったことの経験を活かせないのは、はなから無能だということを世界に示している。

ときに、トランプ政権2.0は、今回のゼレンスキーの訪問を「時期尚早」として、一旦拒否していたのである。
なにがといえば、ウクライナ資源開発の同意について、ゼレンスキー氏が大揺れしてどっちつかずだったからで、合意の調印をするための訪問だ、というマルコ・ルビオ国務長官からの言質あっての許可だった。

このあたりが、ウクライナという国家の判断をする人物の法的根拠が曖昧な状態であることの弊害なのである。

つまり、国会の承認を要するのか?という一点で、暫定大統領にその権限があるのか?ないのか?ないなら誰がその権限を有するのか?が、よくわからないのである。
このことが、プーチン氏をして、たとえゼレンスキー氏との間で和平が締結できたとしても、それがウクライナ憲法において合法で有効なのか?という疑問があるという指摘に通じる。

だから、選挙をやるように求めているのだが、ゼレンスキー氏がやらないと決めていた。
しかし、ウクライナ国会が戒厳令下の大統領任期延長をこれ以上しない、と決めたので、誰がウクライナ憲法に合致する人物なのか?という新たな問題になっているのである。

しかし、そうはいっても現実に、戦闘は続いている。

ウクライナ人もロシア人も、現実に死傷者を出し続けているのである。

つまるところ、これ以上犠牲者を出したくないトランプ政権2.0として、とにかく停戦させるための説得に、常識をもってあたったら、相手が異常なまでの非常識だった、ということであったし、これを歓ぶ英国やらEUの態度こそがもはや悪魔的なのである。

そんな悪魔の理屈を支持する日本語話者の「X」投稿を読むにつけ、日本政府によるプロパガンダの成功だけがみえてくるのである。

なんにせよ、トランプ政権2.0は、一致してゼレンスキー氏を相手にしないことを決めたはずで、米・露二カ国による和平を追求することになろう。
EUとNATOは呼ばれない。

安全保障は、米・露による共同資源開発の経済利益の追求が、軍を動かす必要がないことを示して、これ見よがしとするにちがいない。
つまるところ、いつか聞いた「北風と太陽」の話でいう、北風がEUの手法で、太陽の手法が米・露だと世界に見せつけるはずである。

さっそく、プーチン氏がウクライナではなく、ロシア国内の資源開発について、トランプ政権2.0と協議する用意があると発言したのもこのことを示す。

なお、前戦でのロシア軍の占領地が急拡大しているのは、ウクライナ軍に厭戦気分があふれて、司令部の命令に従わず逃亡あるいは投降が相次いでいるからだとかんがえられる。
おそらく、腐敗した政権の私欲のための駒にすぎないと兵が気づいた現象である。

おなじことが、わが国の大戦末期にも起きたことなのである。

それにしても、「軍事オタク」といわれてきた石破首相の3日、衆議院予算委員会における自民党・鈴木英敬(本人初の質問)議員への答弁は、「報道で見る限り、なんでこんなことになったんだという思いはございます。私ども(日本政府)として、どちらの側に立つと言うつもりは全くありませんが、とにかくG7が結束していくことが何より大事である」であった。

このすっとぼけた答弁は、おそらく「歴史に残る」だろう。

なお念のため、国会答弁とは、国会がわが国の「国権の最高機関」と憲法41条にあるとおりなので、これ以上の政府としての「公式見解」はなく、そのまま「法」と同等の重みとして解釈がされることに注意がいる。

マクロンやスターマーと同様にホワイトハウスで直接会見しているのに、「裏切り者」としての確信的な答弁をしたことは、アメリカ側にも「公式」として受けとめられる当然となる。

さて今後のアメリカの行動を、及川幸久氏が解説している。
・バイデン政権の武器供与停止
・ロシア軍情勢の情報提供の停止
・ウクライナ軍が採用した「スターリンク」停止

最後の「スターリンク停止」というオプションは強烈だ。

イーロン・マスク氏の会社が行う衛星通信事業であるが、無線、を用いるために、物理的通信回線の敷設を要しないから、通信について途上国並みだった東欧圏ではこの方式で、ワープスピードで西側に追いつき、追い越したのである。

よって、もしも停止となれば、ウクライナ軍は正規軍としての組織活動が不可能となる。

しかし、このことは世界の通信安全保障への脅威と認識されることにもなるので、スターリンク事業の終わりにもなりかねない。

ところで、スノーデン氏が公表した、アメリカ製の全ハイテク兵器に搭載されているという、始動スイッチを作動させないシステムも、アメリカに逆らうと「一斉ボタン」によって機能しなくなるようにできているという。

わが国が大量購入しているミサイルシステムから航空機や艦船など、全部が停止する可能性があることに匹敵する。

外交と戦争は直結しているという、クラウゼヴィッツの『戦争論』をそのままに、トランプ政権2.0によるゼレンスキー氏への丁寧な説明は、まさに究極にこれがある、といいたかったにちがいない。

戦争の最大目標とは、敵の無力化、なのだ。

そして、トランプ政権2.0が「宿敵」と設定しているのは、あくまでも「中」であって、「露」ではない。

ヨーロッパ首脳と日本政府の無知とは、クラウゼヴィッツを忘れている絶望なのである。

EUのウクライナ利権を根本破壊

「トランプ・ヴァンス劇場」が大盛り上がりしている。

報道陣の前で、英国の邪悪な男、スターマーをトランプ大統領が褒め殺ししながら、ヴァンス副大統領は、言論の自由ではしっかり釘を刺した。
帰国後、英国で言論の自由を守るのか、それとも白々と無視するのか?が問われるが、このふたりを裏切るといかに、英国、といえども血祭りになることを世界に示すのだろう。

それに、あくまでも戦争継続を欲している英国は、トランプ政権2.0がいうウクライナの鉱物資源についての話をしながら、「ロシアに自分たちだけで対抗できると思っているのか?」とぶつけて、報道陣も含め同室した全員が笑い出したのである。

英国陸軍は、8万人弱しかおらず、現場戦闘要員はそのうち3万人弱という規模なのだ。

ちなみに、2月25日、デンマークの女性首相は、「ウクライナ和平は戦争より危険かもしれない」と発言している。
これで、グリーンランドはアメリカ領になることが決まったも同然だが、この婦人はそれがなぜかも気がつかないのだろう。

西ヨーロッパ首脳たちの知的劣化が、そのまま政治劣化となっている。

まずは、デンマーク王国の歴史と、グリーンランド領有の歴史をみれば、上に書いたことの意味が分かるだろうし、そもそも第二次大戦でデンマーク本国はナチスドイツに全土を占領されて、アメリカ駐在大使の独断で、グリーンランドがアメリカの保護領だった時期がある。

さて翌28日、時のひと、ゼレンスキー氏がホワイトハウスを訪問したけれど、すっかり「劇場」化した舞台で、この元喜劇俳優は蹴り出されるという歴史的大失態を演じてしまった。
無情なカメラは、駐米ウクライナ大使が絶望のあまり顔を覆う姿を世界に報じた。

これを受けて、ウクライナ国会はさっそくゼレンスキー氏の弾劾=解任提案がされた。

24日にはEU首脳のいる前で、ゼレンスキー氏の続投承認を否決したのがいまのウクライナ国会なのである。

おそらく、ホワイトハウスでの彼の態度豹変はEUからの指令にちがいない。

「外交とはなにか?」が口論のきっかけとなったが、ヴァンス副大統領の隣で沈黙を貫いた重要人物は、マルコ・ルビオ国務長官であった。
事務方として「資源開発協定」の調印に確約を得たから、渋るトランプ氏を説得してホワイトハウスに呼んだ責任者だからである。

マルコ・ルビオ国務長官の怒り心頭はすぐさま発揮された。

残存するUSAID(すでに国務省管轄の外局として、マルコ・ルビオ国務長官はUSAID長官代理を兼務している)からの、ロシア軍によってズダズダにされたウクライナ電力網復帰支援を即日で打ち切る決定をしたのである。

それにしても、欲にくらんでいるのがEUだし、ゼレンスキー政権なのである。

はなからこの戦争の目的は、ロシア資源の掠奪とロシアの国家としての分割・解体であったけれども、それの手先とするウクライナにある資源も農地も奪い取るのがこれらのものたちの前提だから獲物獲得の直前になっての、トランプ政権2.0がいう「取引」が成立したら、EUの取り分がなくなってしまうのである。

つまるところ、EUは支援した投資回収が見込めない、という状況に追い詰められている。

それで、先陣を切ってマクロンとスターマーを派遣したが、相手にされないばかりか笑い飛ばされたのである。

これは当然で、トランプ政権2.0は、EUとゼレンスキー政権の欲望がどこにあるかをしっており、これを粉砕することでの和平を追求しているからである。
もちろん、おなじくこれらのターゲットにされているロシアは、アメリカ案に賛成するしかないし、ロシアの安全保障上、トランプ政権2.0の提案はもってこいなのだ。

戦争経済でインフレがとまらないロシアは、政策金利が22%になったままである。
戦後の後始末に失敗すると、国内経済が厳しいことになるから資源開発投資をアメリカがやる案は、ロシアにとっても救いの手なのである。

戦争は経済が原因だという歴史の教訓をいうまでもなく、トランプ政権2.0のアイデアは、経済利益による戦争防止=平和維持という、ご明察、なのである。

しかし、世の中がこんな状態になっているのに、わが国は27日、ウクライナ駐在大使とクレバ副首相が88億円の無償援助協定に調印している。

どこまでも反トランプ政権を続ける、EUの手先なのである。

しかしてそのEUの失態はなにもウクライナだけでなく、ルーマニアの大統領選挙に介入したことが裏目に出ているし、それがギリシャに飛び火している。
選挙後のドイツのグダグダは続き、英国でさえ「MBGA(MAKE BRITAIN GREAT AGAIN)」の掛け声の下、大規模デモがおこなわれて政権に対抗している。

アメリカはとっくにこれまでの支援に対する「完全監査」の実施を開始している。
ここからでてくるのは、どうかんがえても「中抜き・横流し・マネロン=キックバック」の巨大詐欺スキャンダルしかない。

それでも日本政府がゆるぎない支援をするのは、日本企業がウクライナ復興事業に関与する、国内でやらなくなった「公共事業」をもって、ゼネコン以下の企業に利益をもたらすから、という理屈に相違ない。

これを、勝手に「ジャパン・ファースト」と定義付けしているはずだ。

すなわち、わが国がJICAを通じてやってきたことの闇まで、アメリカが暴くことに無警戒なのは、「ジャパン・ローカル」のやり方を、アメリカから学んだことの無防備なのである。
しかし、その「アメリカ」とは、民主党とRINOのことで、トランプ政権2.0とは縁もゆかりもないことに気づかないふりをしている。

なぜにUSAIDも、ネオコンの女王ヌーランドが理事をしていたNED(National Endowment for Democracy:全米民主主義基金)が資金停止の血祭りになったのか?

トランプ政権2.0は、攻め口の順番を適当に決めているのではない。

あぁあ、というため息が出るばかりだけれど、国会でこれをいうのが少数派というイライラが当分続くのであった。

ベゾスのワシントンポスト改革

2月26日、アマゾンの創業者にして、ワシントンポスト紙のオーナーでもある、ジェフ・ベゾス氏が「X」に投稿し、ワシントンポスト改革を宣言したことが話題になっている。

その筋で有名なのは、ワシントンポスト=CIAの広報紙、という揶揄である。

そこで挙げた二つの価値は、
・個人の自由
・自由市場
である。

この左翼新聞の編集方針に、これまで不介入だったオーナーとしての意見が公表され、記事では編集責任者の解雇まで記載されており後任を探している、とある。

これは、2024選挙後で西海岸のロサンゼルスタイムスで起きたことの焼き直しか?
やはりオーナーが編集方針に介入し、編集部員全員の解雇を告げたことによる「右傾化」策=販売部数確保の公表のことである。

いわゆる「GAFA+M」を代表するTEC企業で、トランプ政権2.0に寄ったのは、イーロン・マスク氏の「X」を嚆矢とするが、彼が敵意をみせているアップル社も、英国からのちょっかいで窮地にあり、それでアメリカ国内への巨大投資を発表し、トランプ政権2.0に擦りよる姿勢をみせている。

アマゾンについては、トランプ大統領の就任式にまとまった金額の寄付を申し出たことから風向きが変わった。
残るは、Googleとマイクロソフトが依然として民主党寄りの態度を変えていない。

とはいえ、アメリカではGoogleの傘下にあるYouTubeも、すっかり「検閲」をやめたというのに、なぜか日本では続いているようであるけれど、高橋洋一氏の解説によれば、日本政府がやらせている、という。

一方、トランプ政権2.0ホワイトハウスの報道姿勢にブレはなく、とうとう旧来のAPやらを締め出し中で、100年以上も続いてきた「WHCA(ホワイトハウス特派員協会)」が持っていた、大統領への直接取材ができる報道機関を決める権限を剥奪したことも原因だとおもわれる。

さらに、USAID=事実上CIAからのカネが遮断されたことで、既存マスコミの経営基盤が揺らいでいる。

CNNにいたっては、CIAからの指示によって、トランプ政権2.0による活動資金が削減されたら国家機密情報をロシアに売却する話や、FBIが証拠を廃棄しているとも報道し、こうした政府組織がトランプ政権2.0を脅迫している、とFOXニュースが伝えている。

これらがどこまで事実なのか?わからないが、エプスタイン文書の公開にあたって、パム・ボンディ司法長官は、カシュ・パテルFBI長官に宛てた「証拠隠滅」についてのFBI内部への捜査命令書を出したことが、「原文書」も含め公開・報道されている。

つまり、トランプ・チームによるワシントンD.C.の沼の大掃除が本格的に開始されているなかでの、ベゾフ氏の意見発表なのである。

この意味で、「対抗勢力」によるあらゆる妨害も本格化しているはずだ。

ぬかりのないトランプ政権2.0は、もうひとつの資金源、NED(National Endowment for Democracy:全米民主主義基金)への資金供給も停止した。
国務次官(正確にはその上の「国務副長官代理」)にまでなった「ネオコンの女王」ヴィクトリア・ヌーランドが理事になっている。

日本における事務次官からNGOやらNPOのトップに就任するパターンとおなじだ。

こうした腐敗の構図に、報道機関がどっぷりと浸かっているのである。
この姿が、とうとう一般人にもみえるタネ明かしがされたことこそ、トランプ政権2.0の成果である。

その成果にあやかって、キッチリした報道がされるなら、ビジネスとして成り立つのも当然だ。

なんと言っても、英国スターマー首相に、面と向かって「言論の自由」ついての釘を刺したJDヴァンス副大統領の一貫した姿勢は、トランプ政権2.0の基本方針だ。

この点でも、アメリカ(ファースト)、ヨーロッパ(セカンド)、その他中東とか中南米とか、日本(ラスト)という順番決めがあるので、日本に対するあらゆる「修正要請」の圧力は、日本大使の承認が済んでからジックリと腰を据えてのことになると予想できる。

これには、アメリカ国内の「民主党潰し」があっての、「自・公・立憲共産」政権潰しになるので、期待して待つことにしたい。

早春の神田明神で雅楽を聴く

2月26日、天気の良さにたまたま訪問した神田明神では、25日から3日間の「伊勢の神宮写真展」が開催されていて、会場では國學院大學の青葉雅楽会による演奏も楽しめた。

この写真展は、神道青年全国協議会 神宮式年遷宮の〝こころ〟を守り伝へる委員会の主催とあった。
どうやら、令和15年の第63回式年遷宮の準備がはじまっていることのアッピールが主目的のようである。

外国人観光客もチラホラ混じる会場で、雅楽の演奏を生で聴いた。
ずいぶん前に皇居・宮内庁学部の演奏会に誘われたことがあったが、これは残念ながら行けず、自分の結婚式で体験することになった。

26日は、たまたまの入場だったので、最後の2曲ばかりを聴いた。

こころの中で、これは1000年~2000年前の音色だとおもって聴き入った。
そういえば、2年前に奈良印傳について書いたが、飛鳥時代には完成されていたデザインの極彩色と雅楽の音色がなんだか重なるような感覚がした。

奈良県知事による奈良公園でのK-POP無料コンサートが、これまでやっていた平城宮跡で『天平祭』の中止と交換に実施されることが話題になったが、『天平祭』がはたして時代絵巻としていかほどの価値があったのか?関東人のわたしにはよくわからない。

とかく平安時代が意識されて、古すぎる奈良や、数々の遷都があった地の歴史的保存がなされていないことも、「明治は遠くなりにけり」どころの話ではない。

帰宅して、いつものようにYouTubeを開いてみたら、どういうわけか雅楽の解説がでてきて驚いた。
スマホの行動履歴から神田明神のイベントが検知されて、このような動画までもが自動的に現れるのだろうと思うと気色悪いが、確かにこれまで雅楽の詳しい説明を聞いたことがない。

解説者は、ドラマの話題作、『SHOGUN 将軍』の音楽を担当した石田多朗氏である。

まだ耳に残る生演奏と、石田氏のわかりやすい解説が重なったなか、その音色の時を超えた感覚について触れたときに、自分と同じ感覚かとちょっとドキッとしたのである。

それにしても、西洋音楽のはじまりを「グレゴリオ聖歌」としても、さらに古いのが雅楽だし、このほとんど西洋的ではない音色が、もっといえば、西洋的なものを拒絶する音色とはなんなのか?

もちろん、中華的なものでもない。

このことを目でみた感覚として言葉にしたら、「あをによし」となるのだろう。
ところが、万葉集の「青丹よし 奈良の都は咲く花の 匂(にほ)ふがごとく 今盛りなり」ができて臭覚も連結したのである。

こうして、五感をもって統合した複雑性を一瞬で感じることができる「感性」の一部が、音楽としての雅楽だというのは、まことに「肉食の思想」ではあり得ない、日本的な独特なのだろうと納得した。

すると、『水戸黄門』の身分を明かすときの音楽が雅楽風(『水戸黄門』サントラ盤によると曲名は「印籠」)なのは、本来的な用法ではなくて、むしろ「肉食の思想」的な効果音でしかないことが、やっぱり雅楽の本来を忘れさせるための日本人洗脳作戦として罪深い意図になっていることがわかる。

あたかも、DNA研究による日本人=縄文人の起源が古すぎてわからないのとおなじくにして、民族の音、としても聴けるのだが、明治以来、西洋音楽に慣れ親しんだせいでかなりの違和感を持って聴くことになるのは、むしろ、クラッシック界でいう「現代音楽」のごとくなのである。

しかし、「無調」に行き着いて(突き当たって)、なんだかわからなくなった現代音楽とはちがって、まったくことなる次元での調和が雅楽にはある。

これが、自然の音、だと石田多朗氏は強調する。

すると、自然とはなにか?ということになって、また、西洋人が感じる自然と、日本人が感じる自然のちがいという問題に戻るのである。

ときにYouTubeでは、昨今のヨーロッパで神社神道が流行っているという動画を散見する。

このところのEUにおける顕著な全体主義化は、キリスト教への絶望的な不信から、無神論=共産主義へと傾倒したことの結論にもみえる。
26日、トランプ政権2.0の初閣議が、「祈り」から始まったことは、現代ヨーロッパとの断絶を見せつける象徴なのである。

おなじく、わが国でも、コロナ禍における既存宗教の壊滅的な無力=祈りすらしないことが、科学万能主義における宗教=信仰の行き詰まりにもなった。
寺院の本堂での法事ですら、マスク着用を義務づけられたのは、一体何を意味したのか?を改めて問うことになったのである。

つまるところ、エセ科学とエセ宗教とが結合したようになって、とある教団が非難の的になったけれども、それがまた意味するものとは、タブーのはずの「政教一致」=「政治と宗教の癒着」が、とうとうヨーロッパと似た「共産化」になったのである。

マルクス主義は、ユダヤ教とおなじ構造になっている、「新興宗教」である。

すると、祈ることの価値が復活するのか?どうなのか?という分岐点にあって、あくまでも「唯一神」をイメージするのか、それとも「あらゆる事物=唯物」を対象とするのか?というちがいに行き着いたのである。

あくまでも「唯一神」に回帰したのがトランプ政権2.0のアメリカで、ヨーロッパと日本は「唯物」に走った。

しかし、本来、まったく価値観のことなる日本における自然崇拝の威力が湧き起こるのかどうなのか?が、じつは日本復活の決定的な要素だということなのである。

とうとうインドにもGDPで抜かれたいま、ずっと重みが増している。

その祈りの調和こそが、雅楽による表現なのだ、とおもえば、なかなかに味わい深いことなのであるけれど、まさか神社神道においてさえ、気がついたヨーロッパに追い越されることはあるまいな?と不安になるほど傷んでしまっているのが日本だということになっている。