スポーツから人型ロボットを作る

むかし、「他流試合」というものがどこかに胡散臭さがあって、「道場破り」が商売になったことを蔑んでいた。

これには、幕府の「藩お取り潰し」による武士の失業の深刻さと、御家人やら大藩の江戸留守居役やらの自身の身分が安全な故の特権意識も関係しているのだろう。

いまようにいえば、正社員が派遣やパート・アルバイトをみる目がそれだ。

停滞した組織では、そんな正社員たちの歪んだ特権気分がはびこると、パート・アルバイトには、「言われたことしかしない」という了解が蔓延して、組織全体のパフォーマンスが見事に低下するものだが、原因の最深部たる奥に、そんな正社員を放置するような経営者がいるので、知らず知らずのうちに企業文化に変容するために誰も気づかないで沈んでいくものだ。

たとえば、スーパーを例にすれば、残念な職場環境の店は、パートさんが自店で毎日の夕飯の買い物をしなくなる。
だから、店長は、買い物客のポイントカードデータによる売り上げ分析よりも、店員たちの買い物実態を調べた方がよほど参考になるものなのだ。

歴史的失敗が予想される「大阪・関西万博」では、未来と称して中国製の「自動運転バス」が営業走行するらしいが、詳しい人によると、とっくに本物の自動走行バスが営業運転をしている中国からすると、地面にガイドを貼り付けるタイプの「古さ」が話題になっているという。

どうしてこうなるのか?はあんがいと簡単に想像できる。
文系の役人が仕切ると、成功している既存の実績のあるものしか採用しないからである。

これを「万博」でもやるのが、お役人様の習性というもので、「何かあったらどうする?」という言い分での「責任放棄」こそが、万国共通だから、「万博」に「出品」される意味があると考えればよい。

万博を主催する「協会」に、大量の役人が幹部として出向してくるのは、予算というカネを出すことの「見返り」だからで、実質「国営」の公共事業なのである。

一方、インフラ整備のための公共事業は、80年代半ばからの「構造改革」で、大幅に削減されたのは90年代のバブルを経て平成不況になってから本格化した。
また、人口減少からの「人手不足経済」という慢性病に陥ることが確実だという恐怖の刷り込みに成功して、外国からの「安い」労働力の輸入を図っているのが令和の日本政府のミッションになった。

要求しているのは、上に書いた正社員の堕落を放置する経営者たちである。

先月、テレビは東大の卒業式に突撃取材して、晴れやかだがどこかノータリンぶりをみせる東大生に、4月からの初任給を質問し「50万円」という回答を全国に放送している。

今どき、それを維持・継続・さらに昇給を得る困難を横にしての話に、全国の親世代を、「これぞ勝ち組」だとして脅迫しているのである。
果たして、先輩たちは今もその会社に在籍しているのだろうか?あるいは、その業界や企業にゴーイングコンサーンの思想はあるのか?に一切触れない怪しさに気づかい視聴者がいつものように洗脳されるのである。

ところで、人手不足を言うときの「人手」とは、一般に単純労働・未熟練労働を指すから、かような東大生が就く職はさぞや複雑で熟練を要するのか?といえばそうではなく、むしろ今後は、「A.I.と競合」する可能性が高いのだ。

それだから、単純労働のために外国人を輸入することになるのだが、困った経営者には、ロボットのことが頭に浮かばない。

今は、伝統武道でも多流派との交流によって、いいとこ取りを研究するのが当然となっている。
その典型が、大正から昭和に完成した「合気道」だ。

人間形ロボットの開発に、人体の動きを細かく分析するための「スポーツ」が深く研究されている。
そのひとつの商品が、テスラの「テスラ・ボット」だ。
価格は、ざっと300万円。

ここで、日本人が考えないといけないのは、テスラにできてなぜ日本のメーカーにはできないのか?なのである。
一方で、テスラ・ボットに対抗する中国製も大量生産の可能性があるのは、アメリカへの留学生やらの「仕事」だという評価から、「留学ビザ」の厳格化をトランプ政権2.0がはじめた。

人間型ロボットの動きが武道の極意から人間とおなじか凌駕することになれば、次が職業における動作解析という段階になって、あらゆる単純労働・未熟練労働への応用が可能なばかりか、熟練労働にも利用できるようになるのだろう。

そもそも、テスラ・ボットは、家事労働を補助するために開発されている。

しかして、日本の税制は家事労働を生産価値なしとしているが、この発想の「古さ」は、時代錯誤というレベルではない。

家事労働が無価値のはずがないからである。

産業立国や貿易立国の国是を捨てている日本政府とその指導者たる「自・公・立憲共産」政権の悪辣さがどこから生じるのかが不明だが、かつての日本だったらこんなロボットを発売するのは、まかしておけ、という気概があった。

それを懐かしむ時代になったのである。

端末普及したのに生産性があがらない

わが国でインターネットが一般に普及をはじめたのは、だいたい1995年(平成7年)頃からだった。
辞書的には、1984年(昭和59年)だとされているけど。

つまり、「昭和時代」に、インターネットは事実上ないも同然だった。

1985年にエジプトから帰国して、大学に4年生で復学し、早々に「卒論」に取り組んだけど、「(爆発的に)普及している」という経済新聞やらの記事に騙されたわたしは、秋葉原で「型落ち」のワープロをなけなしの30万円で買ったのを覚えている。

フロッピーはまだ「5インチ・ディスク」で、付属で「専用」のプリンターはインクがテープ転写式だったために、原稿用紙に印字を合わせる作業だけで、ずいぶんな印刷コストがかかった。
カートリッジ式の印字テープは、一回コッキリの使い捨て方式だったからである。

しかも、このワープロ「端末」には、通信機能がなかった。

逆に、「通信機能」があったところで、それがどんなものか?さえしらない時代だった。
それから翌年、ホテルに入社して、客室勤務になったときに目撃した外国人客は、客室の電話から「音声カプラー」で本国と通信していた時代である。

生まれて初めて買ったパソコンは、モノクロの墓石型、「Macintosh SE30」だった。
それでもまだ、自宅の電話回線(ダイヤル式)に接続することはなかった。

90年代後半にISDN回線が一般家庭に普及してから、ようやく回線接続して、なんとか頑張ったのが「パソコン通信」だったのである。
しかし、アマチュア無線の有線版のような、見知らぬひとと文字でやり取りすることがなんとなく不気味で、熱心さには欠けていた。

「インターネット」で、ブラウザ検索ができてはじめてその便利さを実感した。

そんなわけで、わたしが最初に手にした携帯端末は、10円だった「PHS」で、いわゆる「ガラケー」という言葉さえまだなかった時代のことで、小さくて軽くいのが重宝した。
ちなみに、女子高生の必需品だった「ポケベル」での文字通信は、わたしが高校を卒業してからのことで、就職したホテルでは業務用のローカル端末として使われていた。

ここで素朴な疑問として、昭和時代の生産性の方が今よりも高かったのはなぜか?が気になるのである。

人間の基本的な知識ベースが低下しているからではないのか?という勝手な解釈をしている。

それが「認知能力」につながるとすれば、当然に生産性は低下する。
もちろん、この認知能力を「読解力」と言い換えることもできるだろう。
もっと言えば、日本人間でも日本語が通じない、というコミュニケーションに関わる重大事だ。

細かくいえば、「語彙力」となるのだが、もしや動物のレベルに近づくようなことになっていないか?
普段の会話が、「ゲームプレイ」の状態に落ちているので、長文が理解できない。

受験勉強的になった学校の授業や塾での、「国語」の授業がいまどんな状況なのかしらないが、長文読解の訓練としてなにをやっているのか?
むかしは、難解な「超・悪文」が教科書に載っていた。
暗誦に値する「名文(章)」に、教科書で触れることは滅多になかった。

ハンナ・アーレントがゲーテの『ファウスト』を暗誦していたことは、前に書いた。

日本の武士の子なら、「四書五経」の暗誦は当然だったし、町人だって「論語」の暗誦をしていたのが、完全に退化したのである。
ユダヤ人(「ユダヤ教徒」のこと)が、いまでも子供に「トーラー(『旧約聖書』の「モーゼ五書」のこと)」を暗誦させているし、アラブ人なら「コーラン」を暗誦させている。

これが、どれほどの効果をもたらすか?は、強すぎて紛争の種になっているほどなのだ。

すると、日本の衰退ばかりか、ヨーロッパの衰退は、キリスト教における『新約聖書』のたとえば「黙示録」や「詩篇」の暗誦すら途絶えたことにあるのではないか?
アメリカ共和党トランプ派という、清教徒の流れをくむひとたちの篤い「信仰」は、この意味で興味深い。

トランプ政権2.0が目指す、教育改革は、教育省の廃止が目的なのではなく、各州の権限に教育行政を引き渡す事での、教育水準の底上げにあるという。
アメリカ人の認知レベルの低下に、トランプ政権2.0は危機感を抱いていると説明されるが、ことの根幹にキリスト教(プロテスタント)信仰への回帰があるとかんがえるべきだろう。

一方、わが国は、アメリカ民主党が仕切ったGHQの呪縛から抜ける努力ではなく、文科省の権益と日教組の権益維持とが一致するために、国民の認知力という視点からすれば、「悪化」しかない方策を推進している有様なのである。

いかも、学校はもはや自由設置ができず、文科省の認可を要することは、「加計学園問題」であからさまになったのに、マスコミはこれを別のスキャンダルにすり替えた。

黒柳徹子原作の『窓際のトットちゃん』が、昨年、国際映画賞を受賞して話題になったが、彼女が通った「自由学園」を、いま設立しようとしても認可が降りるはずもないことを、現代日本人はどう考えるのか?が抜け落ちている。

つまり、この物語の舞台である学校は、完全に「ファンタジー」となったのである。

それもこれも、通信端末は普及したが、「考える必要がない」までに飼い慣らされていることを感じもしないことが、重大な事態だと認知が行きつかないし、そんな風に考えることすら「させない工夫」に満ちているのである。

これを、奴隷化という。

そうやって意識を少しだけでも働かせれば、奴隷になるための教育のゴールが「受験」制度であって、「偏差値教育」がそれ、なのである。
「偏差値の高い学校=優秀な生徒が集まる」という仮説を、本当に信じるものがどれほどいるのかしらないが、いまや「信じるもが救われる」とはいえ「邪教」の状態になっている。

その信じ込ませるためのツール(道具)が、スマホなのである。

なるほど、生産性が上がらないばかりか落ちているから、賃金も上がらばかりか落ちているのである。

産業が防衛力

人類世界初の「総力戦」は、1904年から5年の、「日露戦争」だったために、これを「第ゼロ次世界大戦」と評するひともいる。
これには、戦争に明けくれるヨーロッパの事情が背後にある、いわゆるいまのウクライナと似た構造の、英・米によるロシアとの代理戦争に、日本人の血だけが流された意味もある。

ちなみに、この1904年はその前の1901年に暗殺されたマッキンリー大統領の副大統領だったセオドア・ルーズヴェルトが再選された年にもなって、マッチポンプをやったルーズヴェルトによる仲介で「ポーツマス条約」が成ったのだった。

なお、日本人には馴染みのないマッキンリー大統領をトランプ大統領は、最も尊敬する大統領だと公言している。

日露戦争の勃発は、日米修好通商条約(1858年:安政5年)から、わずか46年後のことで、大政奉還(1867年)からすれば、なんとたったの37年後のことなのである。

この37年とは、たとえば、第二次大戦の敗戦時が1945年(昭和20年)だから、1982年(昭和57年)までの時間とおなじ期間なのである。
近しくいえば、1989年(平成元年)から、来年の2026年(令和8年)という期間にあたる。

せいぜい農家の軒先での手工業の時代から、37年で近代工業国家になったというよりも、まだ「養蚕=絹」による紡績業(農業と工業の合体レベル)がわが国の外貨収入を支えていた時期で、本格的に重化学工業化を始めるのは、この後の第一次大戦の頃にまで時間がかかっている。

宇宙の大原則は、「鉄(Fe)」をつくる活動だ。
すべての「恒星」は、太陽もしかりで、核融合によって輝くばかりか、最終的に「鉄」を生成している。

それが、近代の人類社会にとって、「鉄は国家なり」というほど基本の工業製品になった。

たとえば、鉄道大好きの鉄ちゃん国家たるわが国は、世界最高峰の「レール」を作っている。
かんたんにいえば、たとえば新幹線に代表される世界最高峰の鉄道を敷設・運行したいなら、安全上でも日本製のレールしか選択肢にはいらない。

だから、「鉄は国家なり」は、いまでもうそではないし、この言葉は滅びてもいない。

A.I.を含むソフトウェアは、端的にいえば、「最高度の鉄をつくる」ための、「最高度のサブシステム」だといえるのである。
ここから、あらゆる応用がなされるのは、「鉄そのもの」と似ている。

「(国家)安全保障」を議論するとき、かならずでてくる「武器」の生産についてだって、自国で「鉄」が作れなければ、外国に依存するしかなく、その時点で「安全保障」の議論が縮むのである。

けれども、一方で、道具をつかうのはいつでもなんでも人間が必要で、その人間は水と食料がないと動けない。
ここに、「食料安全保障」があるのは当然なのである。

つまるところ、「総力戦」は、むかしより現代ほどあらゆる分野に拡大している。

「(全)産業」そのものが、「防衛力」を形成するからだし、国民という人間の素養もしかり、なのである。

ついては、これを「国力」という。

わが国は、日米修好通商条約の締結以来、「産業優先国家」としてやってきた。
あらゆる政策が、「産業」に向けられていたのが、昭和の末期から変容し始めた。
不労所得の「金融大国」になりたい、というのは、政治家や高級官僚たちが不労所得生活をしたいという意味だった。

こうして国民と政府が分離をはじめて、国民国家の看板が溶け出したのである。

これを一口に「グローバル化」と呼んでいる。

経済原則にだけ囚われれば、リカードの比較優位説を「自由貿易」の名の下に徹底的に押し進めたら、一国内だけでの「安全保障」は、ほとんどの国で成立しないことがわかった。
それは、資源の有無が支配する単純さにあるために、「安全保障」を一国で実現可能なのは、米・露・中の三カ国だけになったのである。

しかし、「中」が強いのは人口だけで、石油がない致命的な問題を一国では解決できない恨みがある。

よって、「米・露」だけの現実をみたくない、愚かな日本政府をして、負けるに決まっている英・EU(委員会)に接近させている。

これを、勘違いの「寄らば大樹の蔭」というのだけれど、英国とEUのどちらも単独で「安全保障」をまかなえるはずのない「マイナスとマイナスの足し算」にすぎないことを、日本の受験エリートたちが気づかない深刻な迷惑がある。

日・英・EUは、米・露に産業力でも勝てっこないのである。

そこで、二股を賭けるという、戦略的な間違いを平気でやるのがこれまた日本政府で、中途半端な大国でしかない「中」に、秋波を送ってはばからない厚顔無恥を世界に晒している。

たしかに、いまや、保有軍艦の艦数でも西太平洋を圧倒しているのが「中」ではある。
しかし、自国に「石油がない」という事実は、何度も書くが致命的なのである。
だからこそ、石油の埋蔵が確認されている「尖閣諸島」をわが物にする、「力での国境線変更」をあからさまにしている。

対して、ロシアへのおなじ理屈を叫ぶ人たちは、なぜかまただんまりを決め込んでいるのだ。

すると、わが国にとって原子力による艦船の建造能力が必要で、やっぱり核燃料をどうするかも現実問題になる。
それに、本来ならば、人手不足は「ロボット開発」で埋め合わせをはかるべきところ、なにもしない、という決定をして「生身の移民」を受け入れているのである。

それが、国民国家から「国民」を取り除く作業にすぎないことを、政治家も政府も認めないのは、抜け殻となった「国家だけ」が維持できればいいという安直でしかない。
しかして、このひとたちの子孫だって、国民がいない国家に棲まうことになるのを想像しもしないのはどんな了見なのか?

国民はこんな政府に、いつまでガマンが効くのか?が問われることになっている。

フェイクニュースをどうするのか?

日本国憲法は、言論の自由を謳っているけれど、憲法とは慣習法である、という大原則にてらせば、国権の最高意思決定機関たる「国会」における「慣習」の変更こそ、日常的におこなわれている事実上の「憲法改正」だと国民がしらない。

たとえば、最近流行っているのが、国会での大臣の答弁拒否の慣習化である。

このあり得ない暴挙に、野党がまったく役に立たないので、ほんとうに「慣習化」してしまった。
つまり、憲法にある、「国権の最高意思決定機関」が、国会から内閣・大臣(行政府)に移転するという「書き換え」が起きているのである。

慣習法だから、憲法にある「条文」よりも、実態が優先されるし、いったん慣習法化したら滅多にもとには戻らないのである。

もちろん、野党は、この暴挙に「条文」をもって「糺す」ことで、この憲法違反状態を正常化すべきであるが、どういうわけかスルーさせることで事実上の憲法改正に加担しているといいたいのである。

だから、ここ一番の質問に、大臣たちが「お答えを控えさせて頂きます」という、あり得ない対応が「流行る」のである。
これぞ、「憲政の常道」破壊のなにものでもない。

かくも国会が蔑まれるとは、ワイマール憲法に手をつけずにヒトラーの独裁を成功させた、「全権委任法成立」よりも酷いことにあたる。
かつてのドイツだって、「法」として明記したものを根拠とした「独裁」なのに、わが国では完全に「ステルス状態」で、日本国憲法の息の根を止めているのである。

ようは、与党による「憲法改正論議」なんていうのは、ただの見せかけのブラフにすぎず、すでに憲法は改正どころか、停止状態にある。

そんなかで、1日、SNSを対象としたデマ防止を理由とした「言論統制」がはじまった。

ネットでは、地上波のフェイクニュースを取り締まらないのか?という荒っぽい意見もあるが、これはいただけない議論だ。

政府による言論統制の問題は、誰が統制の対象を決めるのか?ということに尽きる。

政府=官僚にこれを決める権限を持たせることにあるから、あからさまな地上波のフェイクニュースでも、政府の統制を求めるのは、飛んで火に入る夏の虫のごとくなのである。

せいぜい、裁判官が決める、のがこれまでの常識なのだが、その裁判官が世界的に狂いだしている実態からすると、「どうするのか?」になるのである。

たとえば、アメリカでエルサルバドルに強制送還&刑務所収容された、とある移民の「帰国命令」を、連邦地方裁が出したとのニュースが話題を呼んでいる。
これには、トランプ政権2.0の「謝罪」の事実があるから、そのまま「ニュース」として流れ、トランプ政権2.0の非道さが巷間に広がる期待がこめられている。

しかし、残念ながら酷いのは「判決」の方なのである。

たしかに、行政的な手続ミスはあるが、送還された本人はアメリカ政府が指定した国際テロ組織のメンバーであって、誤認と帰国を裁判で要求した原告(本人の妻)も、また、この組織のメンバーで現役の活動家である事実が隠されている。

ようは、原告に原告としての資格があるのか?ということが無視されているのである。

この「ニュース」は、日本語では、共同通信が配信した。
わが国における「通信社」は、「共同」と「時事」の2社で、ほかに、経済ニュースの「日経」、「朝日」があるし、外国通信社の代表には「ロイター」、「AP」、「AFP」などがある。

建設業でいう「ゼネコン」と似ていて、通信社は新聞社などと「ニュース配信」契約をして、これらはいわば下請的に自身の紙面に記事を掲載することで、紙面の空白を埋めているのである。

ただし、契約上、どこの通信社からの配信かを明記しないといけないし、配信された記事を独自編集できないから、全文をそのまま掲載しないといけないのである。

たとえば、「ワシントン、共同」とあれば、ワシントンの共同通信からの配信記事です、という意味である。
ここに、「特派員」はなにをやっているのか?という疑問につながるのである。

なので、まずは、新聞や地上波などを、みない、聴かない、を実行するのが、なによりも重要で、政府の検閲やらの統制に期待するのはまちがっている。

玉石混淆なのは、ネットの常識なので、そのなかのSNSもしかり、というのは、議論の余地もないことである。
信ずるも信じないも、受け手の自由であるが、個人を攻撃したりするのは、当然ながら感心しない。

子供の狭い世界で、ネット空間での誹謗中傷に耐えきれず自死するような痛ましいことはあってはならいのだが、それならばスマホなどの端末を子供に所持させてはならない、とした方がよほど健全ではないのか?

とりあえず、「選挙情報」に対するフェイクニュースだけを対象にする、という憲法違反だけど、必ずや「拡大解釈」するのが、人類史というものの法則なのである。

これを、「蟻の一穴」という。

戦前ならば、「軍部」がやったことを、いま、「文官」政府がやっているのである。

ひとつだけ、国民には、「あぶり出し」のヒントになっているのが、どの政党が推進し、あるいは黙認し、どの政党が明確に反対しているのか?でふるいにかければ、だいたい正しい選択ができるということである。

「ヘル朝鮮」の韓国ヘル状態

4日、韓国憲法裁判所(わが国の最高裁判所にあたるが、「大法院」とは別)が、8人の裁判官全員一致で、「尹錫悦大統領罷免」の判決を下した。

いまや世界潮流となっている、裁判所=司法が、行政に対しておこす「クーデター」の成功、ともいえる事態だが、当の尹氏は、「皆様の期待に沿えず、とても残念で申し訳ない」とコメントしたと報じられている。

このえらく儒教的なコメントは、韓国人の琴線に触れるのか?

大統領空席の状態は、罷免から60日以内に大統領選挙が実施されることが定められているために、6月3日までに解消される予定となった。
隣国のこの状況は、わが国にも大きな影響があること必定だが、大手マスコミが大騒ぎしないのを、はたして「冷静な対応」というのかどうなのか?

じつは、えらく複雑な経緯からのことなので、「よくわからない」のが本当なのではないか?

「戒厳令」の短い時間に、軍最強部隊は国会ではなく中央選挙管理委員会に突入し、いまは野党の選挙不正の証拠を押収していた、という。
これに、在韓米軍も承知していた「噂」もある。

ときに、トランプ大統領は、現地時間の3日、国家安全保障局(NSA)のホーク局長を解任し、ナンバー2のノーブル副局長も国防総省内の別の部署に配置転換になったと報じられているが、理由は不明である。

このことと韓国情勢は関係するのか?

その韓国は、わが国よりも先を行く、「少子大国」なのである。

平和時の人口減少は、将来不安からという原則がはたらいて、おおくはヘンテコな政府の失敗が積み重なって、それがわざとだと国民が感じると生じるものだ。
これは、わが国特有の事態ではないということだ。

分断国家としての韓国や、日本から強制的に分離させられた台湾や、そもそも一党独裁のシンガポールなどでは、経済発展しているのに少子化が著しいのは経済衰退が著しい日本とは別の理由があるようだ。

2024年の状況(UNFPA:国連人口基金)は次の通り。
・日本:1.3
・韓国:0.9
・台湾:0.87(台湾行政院、22年)なお、中国は1.2
・シンガポール:1.1

ちなみに世界最高の特殊出生率は、ニジェールの6.6であり、わが国の過去最高は昭和22年の4.54である。
「3」を切ったのは、昭和27年で、「2」を切ったのが昭和50年だったから、長く核家族の典型が4人家族だったことの理由がわかる。

ただ、人口を維持するのに「2.1以上」ないといけないのは、単純に「数学」だから、昭和50年の時点から、「人口減少」と「少子化」、そして「超高齢社会」の3セットが確定したも同然なので、いまさら「対策」をいうのは、鈍感ではなく「何もしなかった」ことのいい訳にもならない。

それで、いまは一人っ子がふつうだから、まもなく「いとこ」がいない時代となる。

さて、戒厳令からの混乱が収まらない韓国は、一体どうなっているのか?
そういえば、自虐的な「ヘル朝鮮」が流行った国である。

そして、若年層が「反日教育反対デモ」までやって、「保守派」と対立している。

韓国の「反日(運動)」は、終戦時からアメリカ民主党が仕組んだ、「日・韓分断政策」の効果だといわれてもいる。
徹底的に、アメリカ民主党潰しをやるトランプ政権2.0の影響なのか?も、この混沌からはみえてこない。

しかし、上に挙げた「かつての日本」たる、韓国と台湾の「1.0」を割り込む実態とは、驚くほど早いスピードで人口が減ることを示すのである。

これが、外国からの国境線を動かす誘惑になる、ということもしっていていいのである。

むかしの資本主義のシャボン玉石けん

2日、どういうわけか「シャボン玉石けん」の「X」を受信した。
「7名の新入社員が加わりました!」という報告記事である。

たんに「石けん」とわれて即座に伝統的な「固形石けん」をイメージするのは、いまや世代間の断絶の象徴ともいえるのだろう。
現役世代なら、ボディーソープあるいはハンドソープとしての「液体石けん」をイメージするに違いないからである。

ただし、「固形石けん」をイメジージするからといって、液体のボディーソープを使わない、ということではない。
また、洗濯石けんも、いつの間にか液体タイプが主流になって、かさばる「粉石けん」は珍しくなった。

だんだん自分が老化してきてわかるのは、固形石けんの方が肌に優しいのではないか?という実感と、むかしからのイメージが重なるのである。

小学校2年生のときだと思うが、社会科の時間、徒歩で先生に引率されて学年全部で学区内にある石けん工場の見学に出かけたことがあった。
近所とはいえめったにいかない場所(エリア)だし、生まれて初めての工場見学だったので、このときのことはかなり鮮明な思い出となっている。

小学校1年の「遠足」は、ほんとうに学校から歩いて「野毛山動物園」に行った。
シロクマも、象もいた時代である。
幼稚園の「遠足」で野毛山動物園に行ったのは、バスだったけど、先生は「成長したから歩いていけるようになったのだ」と笑っていた。

このとき、あんがいと近いことを実感したのである。

さて、石けん工場内に入る前から、それなりの臭気がして、それが原料の油脂を溶かす工程の窯の近くでは、子供ながらに鼻をつく臭いに辟易とした。
ところが最終工程で、エスカレーターのゴムの手すり状になって出てくるものが、きれいに切断されると、それはいつものいい匂いのする石けんだった。

工場からはお土産にと、一人に一個ずつの石けんと携帯小袋に入ったシャンプーをいくつかもらって学校に戻ったのである。
まったくあの臭気を放つものが、どうしてこんないい匂いの石けんになるのかは手品を見るよりも驚きだった。

あれから半世紀以上が経っても、この石けん工場は健在だが、もう近くからでもあの臭気はぜんぜんしない。
ただ、子供に刷り込まれた石けん愛は一生ものだから、プレゼントとしてのコストは、数百倍の購買実績として工場に還元されたといえる。

なるほど、マクドナルドの味が子供の味覚の中にいったん入り込めば、一生の顧客になる戦略と同じだった。
ただ、マクドナルドが日本に来たのは、この工場見学よりもずっと後のことだから、石けん工場の先見性がすごかったのか?

いや、おそらくたんに工場長の気前が良かったのだろうと思いたい。

むかし、「お届け物」といえば、中元・歳暮のことで、石けんセットは定番のひとつだった。
「エメロン」とか、「ミツワ」とか、「牛乳」、それに「シャボン玉」とかがあった。

ミツワはいまや外資になった。
シャボン玉は、そんなふうになりたくないと、上場しない株式会社のままでいるばかりか、とにかく17年間もの赤字に耐えて、「無添加石けん」に特化する方針を貫いたのである。

社長自ら合成洗剤の売上で稼いでいた時期に、無添加石けんの注文が入り苦労して開発に成功したという。
それが、当時の工業規格を上回るみごとに上質の石けんだった。

無添加だから香料のいい匂いもなく、むしろあの油脂の匂いがのこる。
だが、これを家族にも使ってみたら、湿疹の悩みが消えたことで効果を実感する。

そこで、合成洗剤の製造をやめたら、上に書いた長期の赤字に苦しむことになったのである。
無添加の「安全を売りたい」との経営者の意思が、この企業のブレない基本方針だから、そのまま資本戦略にもなっている。

こういう会社を、いい会社、というのだ。

しかしてこのことは、いい会社でありたいなら株式を上場してはいけない、という意味となる。
ならば、「株式(会社)」とはなにか?

株式を多数持つ株主が企業を支配する「株主資本主義」は、本来、かつ、アイン・ランドがいう「(道徳的)資本主義=産業資本主義」とは別物だということである。

すると、高度成長をもたらしたかつてのダイナミックな時代とはなんだったのか?を振り向いてかんがえると、銀行からの資金提供と株式持ち合いが支えていたことがわかる。
それがまた、地域経済も支えていた。

いまの政府がいう、株式発行と上場を目指す直接金融ではない。

意外と、旧式の(産業)資本主義が「まとも」なのは、全方位的ステークホルダーにとっての三方よしであるからだ。

そんなわけで、シャボン玉石けんの無添加固形石けんで、身も心もお風呂タイムの充実をさせようとおもっている。

反自由の英国を制裁するトランプ政権2.0

J.D.ヴァンス副大統領が、2月のミュンヘン演説でヨーロッパ主流派へ警告したのに、国民から言論の自由を奪うことに専念している、英国労働党スターマー政権への制裁を検討している。

いまや選挙権を得る直前たる高校生の必読書になった、ジョージ・オーウェルの『1984年』の世界が、現実世界の英国で実施されているし、これを魔女・フォン・デア・ライエンのEUが推しているから、恐怖時代がやってきているのである。

なお、わたしの知人で東大政治学科の4年生だった若者は、「ジョージ・オーウェル」も彼のこの代表作もしらなかった。
いったい、東大の政治学科は学生になにを教えているのか?まことに疑問がある。

全体主義化した英国は政府部内に、すでに「真理省」が開設済みで、SNS規制は当然に、政府に反論する言論だけでなく、「祈る」ことすら逮捕され有罪判決を受ける国に成り下がっている。

しっかりと、選挙で過半を抑えた労働党が、このような法律を可決したので、官憲はいやでも権力行使しないといけなくなったのである。

もちろん、痛みをしった国民は、「早く選挙をやれ!」と大規模デモを仕掛けているが、一切応じないのも、全体主義政府の特徴なのである。

選挙で選択を間違えるとこうなる、ということなのだが、「小選挙区制」の悪い面で、大政党には有利だが、小政党にはえらく不利なために、日本と似て「選択肢がない」という事情からの政権交代になったのだった。

保守党もわが国の自民党のように左傾化したので、これを嫌ったところであるのは労働党の候補者しかいない選挙区ばかりとなった。
できたての小党、リフォームUKは、候補者をたてられる選挙区が少なかったからである。

なので、圧勝したという労働党も、じつは支持率では存外に飛躍したのではなくて、簡単に言えば保守党の大敗北と、リフォームUKの大躍進が正しい選挙結果ではあった。
つまり、民意が反映されにくい、のが小選挙区制なのである。

わが国で「小選挙区比例代表併用制」が導入されたのは、1994年(平成6年)のことであった。
やっぱり、GNPが変わったとき、あるいは、アメリカの「グランドストラテジーの書き換え時期」とリンクする「偶然?」がある。

冷戦の終結=アメリカの勝利をもって書き換えたのが1992年のグランドストラテジーであったが、トランプ政権2.0は、さらに書き換えている、とかんがえて差し支えない。
それが、歴史上初の「米・露同盟」だし、その根幹に「アメリカ建国の自由主義への回帰」があって、最終目標を「中共解体」に定めていることでわかる。

「アメリカ建国の」が「自由主義」に付くことに意味がある。

ときに、「自由主義」は、「自由放任主義」とか、「利己主義」と混じって、解釈がブレるからである。
とくに、「利己主義」と「個人主義」の区別の混乱は、表裏をなす「利他主義」なる共産主義に利用されやすい危険に近づくから注意がいる。

自己犠牲の美談を伴う、他人のためになにかをすべき、という利他主義は「道徳的」だと勘違いを呼び込んで、これを利用する者が仕掛けると、巨大詐欺にもなるのである。

たとえば、地球温暖詐欺がそれで、まったくのムダである太陽光発電やらの「賦課金負担」とか、廃棄物利用の大発明だった「レジ袋」の排除などがあるばかりか、ワクチン接種の強制化にも利用されたのである。

これらは皆、利権とカネ稼ぎの手段に過ぎないことはもう明白なのに、小選挙区制で選択肢のない有権者は、わかっていて詐欺師たちに投票するしかないようになっているのは、「日英同盟」の皮肉で英国の現状と似ているのである。

そんなわけで、ウクライナ和平への邪魔にも熱心な英国首相からの電話を、トランプ大統領が拒否したこともあいまって、トランプ政権2.0内では、国民の言論の自由を奪う政策を実行している英国への制裁を検討しているのは、複合的な理由からである。

その最も重要な制裁理由は、グローバル全体主義に対する政治圧力だとかんがえられる。

すると、対象も、「グローバル」になる当然となって、EUや日本も含まれるだろう。

カナダへの関税は、フェンタニルの製造・密輸をやめてほしい、という要望の非協力が理由なのに、この理由を無視したいまのカナダ政府は、アメリカからの一方的な経済弾圧だと国民にプロパガンダしている。

おなじく、EUと日本には、付加価値税(VAT:value-added tax)=消費税が、貿易補助金にあたるからやめてほしい、という要望なのに、これを一切無視してアメリカからの一方的経済弾圧だと、マスコミを挙げていわせていて、これを信じる阿呆が多数の状態になっている。

しかも、野党も単なる反米を優先させているので、罪が深いのである。

1日から、日本も「SNS規制」をはじめている。
パターンが英国と同じなので、なるほどの「日英同盟」なのである。

すると、トランプ政権2.0は、わが国にも制裁を行うことになるので、どんな内容なのか?は、英国への制裁が参考になる。

遺骸の医学・科学調査から、脳に異常があったと判明したヘンリー8世が定めた、英国国教会の祭主である英国国王が、エリザベス2世の逝去をもって4代で途絶えた「ウインザー朝」から、「マウントバッテン朝」に移行しての初代、チャールズ3世が、もはやイスラム教に改宗したのではないか?と噂されるいま、なにが起きても不思議ではない歴史の節目にある。

インド系でヒンドゥー教の人物が英国首相になったし、パキスタン系のイスラム教徒がロンドン市長を3期もやっているのは、「節目」だからの現象だろう。

ヨーロッパが、キリスト教文化圏という共通があったのは、とっくのむかしのことになった。
「多文化共生」とは、そのまま他宗教への宗旨がえで済まないのは、共産主義というグローバル宗教への転換をマイルドにいう政治用語なのである。

では、日本は、日本文化圏でなくなるとなにになるのか?

じつは、ヨーロッパより深刻な「自己喪失」が起きると予想され、ガラスや陶器が割れるがごとく回復不可能になる危機なのである。

はからずも、自由という価値観から、トランプ政権2.0が「阻止」を意図して介入するのは、この意味で極めて重要なことだが、あくまでも「第三の黒船」であるから、自己補正できないことが日・英の最大の問題になっている。

「GNP」を求めていた時代

1993年に国連の勧告があってGNP(Gross National Product:国民総生産)からGNI(Gross National Income:国民総所得)に変更になり、2000年に計算体系が変わって、いまは、GDP(Gross Domestic Product:国内総生産)の時代へと変化している。

グローバル全体主義の国際連合(UN)がからむので、天邪鬼の性格から穿った見方をしたくなったので書いておく。

1993年とは、日本では「平成5年」である。
つまり、バブル経済が崩壊して、不良債権問題で大騒ぎしていた頃である。
ここで、「タイミングよく」、GNIに変わったのは、日本人から継続性の原則を体よく奪った、といえないか?

さらに、1年前の1992年には、ソ連崩壊を受けたアメリカが唯一の超大国としての「グランドストラテジー」を書き換えていることも書いた。

なので、陰謀論的にいえば、なぜにGNPで世界2位の日本の苦境下で、「GNP」という経済指標でもっとも基本で重要なものを変える必要があったのか?という疑問を生じるのである。

経済学者は、GNPとGNIは、たいして数字にちがいはないと説明する。
ならば余計になぜ変える必要があるのか?とおもうのだ。

そもそも、GNP=GNIだと教科書では習ったから、たいして数字にちがいはないというのは当然なのである。

良くも悪くも、日本人が「エコノミックアニマル」と外国から評されていた、高度成長時代には、日本人の全体が「GNP信仰」の信者だとまでいわれていたのだ。

しかし、GNP信仰は、なにも日本人の専売特許などではなく、「ケインズ革命」を認めるならば、いかにGNPを増やすのか?が、政府も、企業も、国民も関心の高い社会政策にあたることをしっていたのである。

このブログでは、ケインズはつきつめると「社会主義=政府が集めて配る」になるので、あまり感心はしていないが、GNPが基本の経済指標であることを否定はしない。
当然だが、イコールのGNIとして国民所得が増えることは、「いいこと」であるからだ。

ところが、そのGNIもたった7年で「GDP」に取って代わられ、いまはGNI=GNPという概念すらなくなった=消された、のである。

これは一体どういうことか?

もっとも基本で重要な経済指標が、10年もおかずにコロコロ変わり、過去の指標を無視する概念に変えることの意志はなにか?が気になるのである。

GNPやGNIには、「国民」という概念があった。
GDPは、国民を消し去って、「国境」の概念でできている。

つまるところ、現代の移民問題における国内経済事情で、たとえば日本政府を仕切る「自・公・立憲共産」政権の、少子化を人質にとった「外国人の受入=実質移民の受入」政策にある、「人手不足解消」の基礎に、「GDP」という概念があることに注目したい。

たとえば、「円高」が原因とされる、国内工場の海外移転にともなう「産業空洞化」も、GDPで計るからで、GNPで計ったらどうなるのか?

つまり、GDPしかマクロ経済指標として認めない、ということの重要な背景に、「グローバリズム」があるのだ。
これは「国民」経済の破壊工作ではないのか?

これには、もうひとつの「符合」がある。

それが、わが国の国家予算における「公共事業」の見直し・削減がいつから行われたか?なのだ。
なんと、1998年度からで、ちょうど2000年に、当時の与党三党(自民党、自由党、公明党)が、公共事業の見直し(削減)に合意した時期と合致する。

はたしてこれは「偶然」なのか?

不況時(に限るとケインズは主張していた)の、公共事業とは、政府における社会投資にほかならず、不況時だから民間にはできないことを政府が肩替わりすることでの、「有効需要拡大」策にほかならない。

つまり、この2000年の時点で、いまにつづく「政権与党」(「自由党」は2003年に「民主党」と合併し、「立民」と「国民」になった)は、伝統的ケインズ政策を捨てたことを隠す、「GNP=GNI」の放棄を、国連の指示に忠実に実行した、ということになる。

GDPを追及すると、国内の外国人の経済活動も自動的に加算される。

また一方で、政府による有効需要の拡大を、土建系からNPO・NGOへとシフトさせて、いわゆるキックバックの公金チューチューを政治家たちが臆面もなく開始した。
その汚れた実態は、アメリカでDOGEが暴いているが、おそらくGDP向上を追及する、世界共通であろう。

昨今の、「(日本)国民」を軽視してはばからない、首相やらの国会答弁や、裁判における「外国人無罪」の実態とは、国是がGDPになったことで起きる「正義」なのである。
そして、D:Domesticを維持するための「国境」が、グローバル全体主義によって溶解したので、いよいよ国民国家と民族の破壊が進むのである。

トランプ政権2.0が、「GNP復活」をいいだすかどうかはしらないが、国連からの脱却が意味するなかに、きっと含まれているのだろうと推察する。

なんと、グローバル全体主義者たちは、社会主義の仲間であるはずのケインズ(政策)をまず亡き者としたのであった。

米国防長官の初来日とWW3の危機

3月30日、ピート・ヘグセス氏と中谷元氏は、双方で硫黄島を訪問後、東京・防衛省で初の会談を行った。

ヘグゼス氏は、名門プリンストン大学(文学)の出で、州兵の将校としてアフガニスタンとイラクに駐留した経験者ではあるが、いわゆる「将官」にはまったく手が届かなかった。
一方、中谷氏は防大卒(理工学専攻)ではあるが、4年だけの任官・勤務であったため、最終階級は2等陸尉であった。

トランプ氏の人事は、アメリカという大統領制のために、閣僚人事は国会議員を中心に選ぶ「議員内閣制」とはちがって、広く民間からも選べる多様性が担保されていることに特徴があることを活かして、「適材適所」に徹した選択をしている。

米軍をマネジメントするトップとして、軍務経験よりも「文官」としての才覚を優先させたとかんがえられる。
対して、わが国は基本的に「議員内閣制」なので、重要ポストほど議会経験の長さが重要視される傾向となるし、自民党なら派閥バランスがもっとも重視される。

よって、ド素人でも大臣になって、これを官僚がコントロールすることを「よし」としているから、流れに任せるだけのことが平然とおこなわれてもどうにもならない。
もちろん、自民党やらはソ連共産党や中共のように、政府に指示命令するのは「党」なので、党のなかにある「部会」の了承が大臣といえども無視できないことでの国家運営をしている。

この意味で、わが国はやっぱり「ソ連型」の政体なのである。

管理職を経験したひとなら気づくだろうが、部下は上司に似てくる傾向があるのは、毎日接する上司との時間で、だんだんと無意識のうちにその上司の言動を真似ているからである。
だから、パフォーマンスつまり効率のよい組織は、管理職教育=管理職の心得などの教育、を優先させることに熱心に取り組んでいる。

専門知識は、当然あるはず、とされるからでもある。

ちゃんとした管理職ばかりの企業が、たいがい目論見通りの結果を出すのは、部下を正しく導くことができるから、仕事に遺漏がないためである。

トランプ氏の企業経営者としてのリーダーシップ(指導力)については、彼の40代の頃から有名であったから、30代にはパターン化に成功していたことがうかがえる。
それはもちろん、子供時分からの天賦のものかもしれないが、それだけで「若き不動産王」とアメリカでいわれるものではない。

つまり、大不動産企業たる「トランプ・オーガナイゼーション:The Trump Organization」の運営にかかわる管理職も、相当に訓練されていると容易に想像することができるのである。

このことは、日本企業よりもずっと困難なことだ。

なぜならば、社員ひとりひとりのバックグランドが、はなから多様化しているアメリカと、一応まだ一律的な日本とのちがいがあるためだ。
なので、「(強引な)牽引力」だけがリーダーシップではなくて、「自主的に行動させる」こともリーダーシップにおける重要な要素だと、トランプ氏は熟知しているはずなのである。

そんなわけで、ピート・ヘグセス氏は、上に書いたように州兵やらグアンタナモでの軍歴はあっても、将校としての幹部教育ではなく、プリンストン大学とハーバード大ケネディスクールでの公共政策修士をもつ「文官」であることがあんがいと重要だ。

FOXニュースのキャスター時代にトランプ氏に見出されたエピソードは、ニュース中でのコメントにトランプ氏が注目していたからのことである。

さてそれで、トランプ氏のキャラクターは、日本人にはあんがいと「京都人のいけず」だと書いた。

英語が理解できれば、トランプ氏のしゃべりは、根っからのニューヨーク・ヤンキーのべらんめえ調だという定説があるが、その比喩の用い方は、いかにも「京都」なのである。
つまり、あの「いけず」なのである。

わが国の偏向したマスコミは、日・米防衛相会談でのヘグセス氏の発言を、意識的にかどうかはしらないが、「かつてないほどに日米同盟が強固だと強調した」とまんべんなく報道している。

これは、日本の戦後初のあからさまな「反米政権」としての評価に対する、トランプ用語でのいけずな発言である。
つまり、「かつてないほど日米関係は弱い」と言っているのである。

しかも、在日米軍の強化についての原計画を破棄しているのが、ヘグセス氏の判断だ。

ようは、日本は日本を自分で守る、という原則論が裏にあるのは、トランプ政権1.0時にトランプ大統領が安倍首相に言ったのと何ら変わっていない。

だから、「台湾海峡を含む、この地域における抑止力の必要性について議論をするのを楽しみにしている。日本は中国共産党の軍事侵略を抑止する上で不可欠なパートナーだ、とも語った」というのは、ボールは日本側にあるということそのものだし、親中・媚中の動きは十分にしっているぞ!それでどうする?どうしたいのだ?という詰問なである。

これがまた、「日本(自衛隊)は、前戦に立つ」という、左翼が騒ぐ反応となっている。

かつて安倍晋三氏が、「台湾有事は日本の有事」と言ったことも引き合いに出して、左翼界隈は「台湾がどうなろうと(日本は)関係ない」という。
しかし、大問題なのはアジア経由でやってくる海運物資は、ぜんぶ「台湾海峡を通過」しているので、有事=海峡封鎖、ともなれば日本や韓国は数日で干上がるのである。

だが、ヘグセス氏がなにを言おうが、防衛省を下にみる外務省は、おそらく無視する。

防衛大学校卒業の中谷氏の小物ぶりは、生徒募集が厳しい少子化のおり、防衛大にとって困りものであろう。
しかし、もっと困りものは、将官クラスのOBたちがこぞって発言した、ウクライナとロシアの分析がおおはずれしたことにある。

正しかったと歴史が示すのは、元陸将で西部方面総監だった用田和仁氏と、元陸将補の矢野義昭氏のふたりしかいない。

これは、防大出身者ばかりの自衛隊現役幹部にとって、大事件だろう。
よせばいいのに、将官クラスのOBたちの見立てが大コケしているのを目の当たりにしたら、不安になるのが人情というもので、階級を絶対視する組織にあっては、中堅や下士官クラスに「考えるな」と命じるしかない。

どんなに軍備があっても、指揮する人材がいなければどうにもならないと証明されたのが、ウクライナ軍の総崩れであって、そこまでやらせた英・仏は、とうとう自軍の直接派遣=参戦まで決めたというニュースが3月30日に走った。

4月1日はエイプリルフールだが、とにかくこの異様な英・仏を止めないと、人類は第三次世界大戦(WW3)を嫌でも経験させられる。

狂ったヨーロッパは、狂女フォン・デア・ライエンを中心にして、英・仏の狂乱がつづく。
「司法の武器化」が世界で炸裂して、プーチン大統領も「ル・ペン有罪」に正当なコメントを発信している。

日本では、国会で「外人不起訴」についての質問に、法務大臣が支離滅裂答弁を議事録に残した。

止める側はもはや一国、アメリカ・トランプ大統領にかかっているのである。

かくもヨーロッパは狂いけり

いつだって人間の住む時代空間は、「狂気の時代」なのかもしれない。

31日、フランス裁判所はマリーヌ・ル・ペンを政治的に抹殺した。

適度な風刺はガス抜きとしての役割を担うことがあり、それがまた製作者の思いや狙いとはかけ離れた受け止め方をされても、どうにもならないことが「大衆社会」のふつうなのである。

ましてや、「資本主義」というものの定義がはっきりしないし、そもそも「資本主義成立」に関する確立された定説はいまだに存在していないことも、ひとつの驚きである。
マルクスが考案したこの「資本主義」という政治・経済用語は、共産主義(社会)ありき、からの演繹(引き戻し)として、歴史の発展過程に「あるべきもの」として描かれたのだった。

それは、『ユートピア』と同様に、本来「あり得ない世界」だったものが、あたかも「理想社会」としての「用語」に変化したのと似ているし、そうしたのは共産主義者たちだった。
マルクスは、理想社会としての共産社会を先に描き、遅れているはずの現実社会を勝手に「資本主義(社会)」だと命名したのである。

古代から中世に変わって、長く暗い時代が続いた、というのはずっと後からやってきた「啓蒙主義」からの上から目線での過去評価であるから、後から「中世」といわれる時代に暮らしたひとびとは、自分たちが中世時代に暮らしているという感覚があったわけがない。

するといま、「ポストモダン」という時代に暮らしていると信じるわれ我は、ずっと後世の子孫たちからなんという時代に暮らしていたのか?について知る由もないのである。

ただひとつ、延々とマックス・ウェーバーが語るドイツやプロテスタントの教義の特徴が、突如にして英国での「資本主義」となることは横にしても、英国で起きた「産業革命」とは何なのか?について、資本主義抜きでかんがえたら、単なる大量生産技術の発明による過去にない「大儲け」の時代がやってきただけの話になる。

ただ、英国ではたまたま王権が厳しすぎることから、議会が王権を抑制し、「共和制」としたが、名誉革命では王政復古となって、「立憲君主制」になり現在につながる。

はなからヨーロッパには、王侯貴族が中心の身分制があったので、新興の金持ちに「爵位」を与えて既存体制に組み込んだのが成功して、ついに庶民は奴隷の身に堕ちるしかなくなったのが大陸に波及していまのヨーロッパ身分社会が完成したとざっとかんがえている。

この体制にも与しない、もっと大金持ちになったのが、中央銀行=イングランド銀行を所有することになった一族であり、彼らの親類縁者がヨーロッパの銀行を制したのである。
それで、新興国アメリカの中央銀行も、アジアの英国植民地たる日本の中央銀行も「元勲」なるエージェントをつかって手に入れた。

こうして、産業=Industry=実業の支配者としての、金融=虚業による圧倒的な支配が完成したのである。
そのあだ花の頂点が、昭和と平成の境目にあった「バブル経済」で、爾来、わが国の実業界も虚業に支配されることとなっていまにつづくのであった。

つまり、ヨーロッパは三層あるいは四層構造になっている。
最下層は、農奴(serf)の子孫とその系統で、日本では左翼学者やらが小作人を同列にしたがるが、日本の小作人は農奴よりはずっと自由な身分である。

次が自作農で、これの延長に「領地」を持つ地主貴族がある。
主たる産業が農業だった時代のヨーロッパでは、これらの領地の奪い合いが「騎士」と「王」を生んだので、日本における平安貴族の荘園と管理人たる武士が似て非なるものなのに、左翼たちの比較対象になる特徴がここにもある。

長い間、こうした土地持ちの親分が「王国」をつくり配下に爵位をもった土地持ち貴族(不労所得生活者)が農奴を支配したし、権威としてローマ教皇からのお墨付きを得るのがヨーロッパのしきたりだった。

この実態がよくわかるのが、長編映画、『1900年』で、ついこの前の時代を鮮明に描いているこの作品は、じつは「記録映画」なのである。

それで、王と商工人と農奴に分離して、近代になると商工人から産業資本家が勃興し、その資金をユダヤ系の金細工職人が「預かり証」としての「通貨発行」を担って、莫大な富を得、ついには王権の上を越えたのが、あの一家なのである。

ために、古くからの土地持ち貴族の秩序を守りながら、新興ジェントルマン層にも爵位を与えてバンランスをとったのが、「Sir」という身分になっている。
これらを括って、一般庶民の上にある層として、最上位に王権とそれ以上の大富豪としたのである。

しかし、ロスチャイルド家の血を引くマルクスが、働くことなく大英図書館で『資本論』の執筆に集中できたのは、生活費を得るルートがあったからである。
これは、土佐の郷士にすぎない坂本龍馬が、なぜに全国を飛び回る旅費の心配もなかったことに似ている。

できあがった『資本論』をもって世に広げ、遂にはロシア革命を成功させたのはレーニンという物語になってはいるが、そのレーニンもどうやって暮らしを立てていたのか?を追及すれば、やっぱりマルクスの家系が存分な資金を提供していたことがわかっている。

最近では、若き活動家のグレタ・トゥーンベリの億円単位の資産形成が話題になったが、彼女もおなじ家系の末裔であることが公になったのが記憶にあたらしい。

つまるところ、ソ連が共産主義国家だというのは建前で、どうしたらロスチャイルド家が一国あるいは世界を支配できるかという実験をやりつつ、いわゆる「冷戦」を通じて、武器商人とその購入資金を融通する金融業として、両陣営を顧客にすることに成功したのだった。

しかして、肥えたブタのごとく、実った麦のごとく、屠殺あるいは刈り取り時期を迎えて、ソ連を崩壊させ、ロシア人共産主義者をあたかも細菌・ウィルスのごとく世界にばら撒くことでの、次は西側自由社会を餌食にすることにしたのである。

その手始めが、スターリンに追い出されたトロツキーのアメリカ亡命だった。

こうして、こんどは、アメリカ民主党をトロツキーに乗っ取らせのための資金を提供した。
その前段階の1913年に大統領になったウッドロウ・ウィルソン時代にやったFRB創設をもって、アメリカ合衆国の通貨発行権をロスチャイルドは握る。

はたして本当にスターリンはトロツキーを政敵としていたのか?
ひとつの結果論として、自由主義国家を騙すための壮大な芝居ではなかったか?と疑いたくなるのである。

それで、アメリカには得体のしれないバラク・オバマを育て送り込んだのは誰なのか?という点と線とがつながるし、マクロンという気色の悪い人物もしかりなのである。

かくて、「司法の武器化」というあたらしいクーデターの方法を、まずはトランプに試し、失敗すると、次はどこそこと懲りずに実行したら、ついにルーマニアで成功し、とうとうそれがフランスにやって来たのである。

なお、同日、英国では「おなじ犯罪」を犯しても、白人はより重い刑とする法ができて、これを「平等主義」というダブルスタンダードで説明している。

つまるところ、「反自由主義革命」の嵐が、フランスに吹くという歴史的な事態を目撃するにいたり、英・仏につづいてドイツでも政権に歯向かうAfDを禁止する法案が通るかもしれない状態になっている。

A.I.が自動的にサジェスチョンする「広告」が、エッフェル塔を背景にした日本人の俳優たちによる楽しげな「フランス・グルメ旅」募集を示す。
ル・ペン裁判の記事にからませていることは明白で、そのトンチンカンがなんともいえない悲愴感を醸し出すのは、まさに、「無知でトンチンカンな日本人」を強調するからである。

かくもヨーロッパは狂いけり。

目覚めたアメリカ・ロシアを横目において、深刻なおバカ状態がわが日本の実態なのだと、あらためてあぶり出されてしまったのである。