権威の自爆

「権威」とはなにか?を辞書で調べると、「第一人者」という意味と、「威厳としてひとをおさえ従わせる威力」という二つの意味が重なっていることがわかる。

むかし「平」のサラリーマンをやっていたとき、業務上のことで別の部署の上司に質問しに行かされて、直属の上司に「あの部長がこう言っていました」と報告したら、「馬鹿野郎!」と返されたことがあった。

誰が言っているからが理由だということをききに行けと命じた覚えはない。
どんな理由でそれが慣習化しているのか?ということを聞いてこいと命じたのだ、といわれて、もう一度同じ人物のもとへ行って質問したことがある。

すると、おおいに説明が困難で、慣習ではなく因習であることがわかって、結果として業務改善につながったということがあった。

以来、誰が言っているからという回答を、わたしも許さない上司になった。

あるとき、わたしが言っているから、という理由で役員会まで深い理由を問わない状況にあることに気づいた。
なんと、わたしが「権威」になっていたのである。

このことが、この会社を退社することにした理由のひとつになったのである。

これには、役員(取締役)になるような人物たちが、わたし程度の権威に従うことのヤバさという意味があるし、かつてわたしが怒鳴られた「正論」が、まったく企業文化になっていない特別な経験だったことに驚いたのである。

権威の反対語は「無権利」だと辞書にあるが、他人になんの影響力も与えないという意味であって、それは「浅はか」だという集団内での共通認識にもなる。

そんな無権利な連中が役員をやっている会社に用はない、と断じたのであった。

しかし、一方で、わたしは「権威あるまま」で退社したようなので、もう20年も経つのに、わたしの権威にすがりたいとおもうひとが残っているらしいのが、なんだか面はゆいのである。

ときに、そんな「権威」が、自爆する時代になっている。

たとえば、「ピューリッツァー賞」という、だれもがしっている世界的大権威に、トランプ氏個人が名誉毀損で訴えていて、この訴えを棄却するように反論していた「賞」の側が敗訴していたことがわかった。

つまり、裁判所は、トランプ氏の訴えに聴く耳があると判断した「だけ」なのであるけれど、報道者の権威だけではない存在の側が、個人の名誉を押しつぶそうとしたことに、一種の暴力すら感じとることができるものであった。

内容は、「ロシア疑惑」を報じた社が、ピューリッツァー賞に輝いたことの、「取り消し」を求めるものである。
なぜならば、民主党ヒラリー陣営が捏造した嘘物語がロシア疑惑であったと、すでに判明しているからである。

ようは、嘘を書いてピューリッツァー賞を得たのはおかしいから、「権威ある賞」として訂正と取り消しをする当然がある、という被害者個人からの訴えをなかったことにしようとしたのである。

じつは、ピューリッツァー賞の審査は、かつての新聞王ピューリッツァー氏の遺言によって、「コロンビア大学」が受託している。
ハーバード大学だけでなく、アメリカの主だった大学が「(極)左傾化」していて、総じて「親民主党(グローバル全体主義)=反トランプ」をむき出しにしている実態がある。

つまり、トランプ氏個人の訴えを無視しろとしたのは、コロンビア大学なのである。

この結果、ピューリッツァー賞だけでなく、コロンビア大学の権威も失墜している。
しかし、その原因こそ、「身から出た錆」にほかならない。

サービス業に従事する者なら特にだが、いったん失われた信用を取り返すのは至難の業であることをしっている。
「賞」というモノやコトも、サービスのひとつだから、いったん社会が疑いの目を抱くようになると、「最高権威」ほどキズが付くものだ。

キリスト教などの「契約宗教」による社会は、たいがいその契約には「死まで」という期限があるのは、結婚式における「誓いの言葉」にあることでもわかる。
しかして、遺言の厳密なる履行とは、「法治」の基盤によるものだ。
けれども、その「法」も、本来ならば神との契約に基づく構造にある。

コロンビア大学は、ピューリッツァー氏の遺言の履行すら裏切っているといえるから、これはまさにキリスト教の希薄化どころか社会基盤の喪失をあらわしているといえる。

なるほど、共産主義が宗教を敵視するように、これに染まった大学も、その権威の基盤を自ら放棄した結果がこれだとしれるのである。

ことの深刻さは、裁判どころの問題ではないのである。

横浜の企業博物館

行政の「横浜市」は、いまでも「国際都市」という枕詞をつけているけれども、市内でみかけるおおくの外国人に居住資格はあるのか?という疑問の方が先に立つ「国際化」になったので、北関東の地方都市と似たような状況にあるのではないか?と危惧している。

「横浜開港」がされたのは、1859年のことであったから、ことしは166年だという程度の浅い歴史しかない。
けれども、輸出入規模で「世界一の港」だった時代は長くあったことも事実である。

6月2日は、横浜開港記念日として、「市立」の学校は高校まで「休校」となる。
ことしは、10年ぶりに開港祭りが31日から2日までの三日間開催となるようだが、民間パワーの衰退で、むかしのような華やかさに欠けるようになった。

港ができたので、「貿易商」が、横浜に店を構え、発展して大企業化したのちも「本社」を横浜に置くことが多数あったが、「名市長」ならぬじつは「迷市長」だった、飛鳥田一雄時代に、法人地方税の増税をやって、こぞって東京に本社移転させることをやった。

ときの都知事は、美濃部亮吉で、「革新」の仲間だったから、わざとだろう。

こうして、横浜は「産業空洞化」して、東京は「一極集中」となったいまの原点がある。
これをマクロ的に「効率化」の面で評価することもあるし、横浜「衰退」の面で失敗とすることもある。

なんにせよ、横浜駅の脇から、桜木町駅にかけての広大な面積に、「三菱重工横浜造船所」があって、国鉄京浜東北・根岸線と東急東横線の高架線路で一般市街地と造船所がみごとに仕切られていた。

なので地上からはよく見えず、電車に乗ったら、どんな船が造られているのか?を観るのが楽しみだった。

それが、「みなとみらい」なる、陳腐なネーミングの再開発地域となって、横浜市都市計画局が計画したら、いまのような陳腐なビル群ができた。
はたして、港湾局が主体なら、もっと「マシ」な開発をしただろうと地団駄を踏むのは、映画にもなった「ハマのドン」である。

横浜駅から徒歩でもわけはないが、みなとみらい線「新高島」駅の横にあるのが、「京浜急行電鉄本社」にある「京急ミュージアム」である。
この先、桜木町方面にすこし歩いた先には、「村田製作所」の子供向け体験施設「Mulabo! 」がある。

なお、「旧横浜村」があった砂州の上にある、海岸通りに日本郵船の「歴史博物館」があったが、改修工事で2027年春の再開を目指していて「休館中」だ。
企業博物館の中でも規模と内容では一級なのだが、再開を待つしかない。

そんなわけで、「京急ミュージアム」と「Mulabo! 」を訪ねた。

京急ミュージアムは、事前予約が必要なシミュレータ操作を無視すれば、プラッと無料で入館できる。
名車と呼ばれた「デハ230型」の実物復元車両には、京急の歴史がわかる展示品があって、そのなかに昭和15年『京濱・湘南電鐵沿線案内図』がある。

「注意」として興味深い文章があったので下にしるす。

「三浦半島は要塞地帯に付許可なく水陸の形状を測量・撮影・模寫・録取することは禁じられてをります犯したる者は法律によりて處罰せられます『護れ要塞 防げよスパイ』」

なお、地図には、稲村ヶ崎の西側から大仏円覚寺・建長寺をとおって、屏風ヶ浦と杉田の間を、「要塞地帯區域線」が太く表示されている。

調べてみたら、「要塞地帯法」(明治32年法律第105号)がでてきた。

戦後に効力を失ったらしいが、『防げよスパイ』の一文が、妙に今様なのである。

「Mulabo! 」は、子供向けとあるけれど、併設するカフェがこの周辺では秀逸なのである。
むろん、ご近所の「資生堂パーラー」を意識してのことである。
それに、展示がどれも「電気・電子」の解説なので、なるほどという想いが高まる。

カフェが秀逸なのは、第一に、カフェの機材が素晴らしいのである。
こんな機材を使ったカフェを民間でやるのか?とおもうほどの、「高級機」ばかり、しかも「最新」なのが、「さすが!」なのである。

第二に、壁際に子供向け理系の図書が並んでいて、閲覧自由なことである。
おとな向けもチラホラあるので、このカフェはリピートしたくなる。
いくつかの本を、市立図書館の蔵書検索したらあったので、別途貸出を受けたい。
展示エリアの受付嬢も、安くて空いていますと奨めてくれた。

メーカーは、お客の顔が見えない商売であるけれど、鉄道会社も個々の客はみていない。
「流体」としてみているのである。
だから、こうした施設が企業戦略上、じつは最重要な位置づけになるものだ。

直接的な利益ではなく、なかなかカネでは買えない「信頼」を得ることができるからである。

こうした施設を巡ると、企業(経営者)の性格も見えてくるのである。

文系で米国大学留学は危険かも

アメリカの大学と聞けば、なにやら「優秀にちがいない」という、「校名ブランド」が擦り込まれている。
これは、英国でもおなじで、「オックスフォード」と「ケンブリッジ」の二大校名が、世界に君臨しているようにみえる。

トランプ政権2.0が、ハーバード大学だけでなく全米の大学に留学生の実態調査を依頼したが、頑固に拒絶の姿勢をみせたために、政権との対立が決定的になった。
これを、マスコミが「政治介入による大学自治への挑戦」と書きたてているが、ほんとうか?

日本で報じられない事情を、「カナダ人ニュース」さんが詳しく報告している。

世界見目を向ければ、たとえば東京都知事が関係している、「カイロ大学」は、エジプトを代表する国立大学だが、首都カイロには、「アズハル大学」という日本では聞きなれない学校が、アラブ世界で「最高峰」と呼ばれることをしっている日本人は少ない。

とくに、「イスラム法学部」の卒業生の権威は高く、イスラム裁判所の裁判官の資格を得る。
イスラム社会では、西洋社会の「簡易裁判所」+「家庭裁判所」+「地方裁判所」をあわせたような機能が、「イスラム裁判所」にはあるのだ。

そもそも、教育機関はそれぞれの国の歴史を背景に存在している。

日本には、江戸期まで西洋でいう「大学」は存在しなかったし、必要性もなかったのである。
これは、支配階級とされる、「武士」の教育には、幕府なら林家が担当したし、各藩にはそれぞれの学派が「藩校」での教授職を歴代にわたって担当していた。

政治力はないとはいえ、「公家」には、家長が子弟を教育しる風習が残っていたし、庶民は庶民で、「読み・書き・算盤」を習っていた。
庶民でも『論語』を読み、その一節を書いていたし、いまも残る商家の「帳簿」をみれば、その見事な筆遣いに現代人は「書けない」と驚嘆するにちがいない。

ワープロが普及する80年代以前なら、どの役所も企業も、公文書や社内文書は万年筆と消えることがない顔料インクで手書きしていたけれども、その達筆さもいまでは再現できないだろう。

文盲率は、反日家がいうほど低くはなく、逆に、同時代の西洋社会と比較したら、断然高い教育水準に、西洋人たちは驚いたのである。

日本人が黒船に驚いたのは、「蒸気機関」のことだったし、鉄砲伝来以来あまり進歩がなかった重火器の威力だったのである。
さらに、蘭学からはいった西洋医学が得意とする特に外科にも驚いた。
それで、漢方薬からの脱却も含めて、「麻薬」の効用が注目されることになる。

西洋でこうしたことが発展した背景に、産業革命があったことはいうまでもない。

西洋の植民地主義=帝国主義の魔の手から防衛するには、「殖産興業」と「富国強兵」はセットとなった。
しかして、これらが即座に広がった背景に、江戸期までの高い教育水準という「素地」があったからなのである。

そんなわけで、江戸期までの主流だった「儒学の内の朱子学」が一気に廃れ、「実学=西洋式技術の習得」一辺倒となった。
しかし、教育とはそれを受けた人間に注入されるので、江戸期から半世紀くらいまでは、「儒学」と「実学」が共存する時代になって、だんだんと「実学」だけの時代に塗り変わる。

この意味で、約半世紀後の「大正デモクラシー」というのは、実学の優性がはっきりした時代背景をもっている。

さてそれで、留学して外国からなにを学ぶのか?

日本は昭和の末期に、「実学」の分野で世界最高頂に達したからだ。
つまり、研究資金が豊富な「実学=科学」分野なら仕方がないが、「文系分野」で西洋に学ぶべきことがあるのか?という疑問がある。

しかも、いまやアメリカの有名校は、ぜんぶ「共産主義」を教える始末なのである。

それが、いまの「ハーバード大学対トランプ政権2.0」いう形に集約されている。
じっさいに、ハーバード大学などの有名校はぜんぶが「私学」だし、バイデン政権時代の「奨学金(学生ローン)帳消し策」が、人気だったのは、そのバカ高い授業料に原因があった。

いま、ハーバード大学を卒業するのに必要な金額は、およそ7000万円程度にまでなっている。
日本人でも、よほどの裕福な家庭でないと、子女を留学させられないのは、これプラス生活費がかかるからである。

なお、アメリカの留学ビザには、就業許可が付与されていないし、日本のように「アルバイト三昧」で卒業できるような甘さはない。

政府が大学(経営)に介入することが批判の対象になるのは、トランプ政権だからで、オバマやバイデンのときの「授業料補助金」という介入で、学校当局が爆上げして政府補助金をそっくり懐に入れたことの批判を一切しない。

もちろん、トランプ政権2.0は、連邦教育省の廃止を公約にしているから、学生にとってよりも、大学経営者にとって「恐ろしい時代」なのは理解できるが、それは、「身から出た錆」そのものなのである。

そんなわけで、理系ならまだしも、文系で留学する価値は、えらく高い「卒業」のキャリアを買うことと、左翼思想に染まった同窓仲間との人的関係を買うことの二つとなる。
これらが生きるのは、やっぱり「外資」なのではあるが、投資資金が大きすぎるのである。

英語の本を自動翻訳で読む

日本語の本だけで世界の知識をカバーできる、といったのは、晩年の岩里政男(通名:李登輝)氏であった。

たしかに、日本人の学者が、「翻訳家」としての顔をもっていただけでなく、経済成長期には出版社も挑戦的な企画を通したので、外国の有名どころはジャンルに関係なく何でもかんでも「翻訳出版」されて、はやければ数ヶ月後には店頭に並ぶことも珍しくなかった。

原書を英語で読む必要性の希薄さがあったけれども、このことの社会貢献ははかりしれない。
当時の日本人は、世界一の読書家の国ともいわれ、またこのことを自慢していたのである。
もちろん、これには「識字率の高さ」という分野での、世界一もあった。

しかし、30年もの衰退期にある昨今、出版不況という言葉が消えるほどの絶滅危惧産業化し、街から書店が消えるばかりか、読書の習慣までが消えそうになっている。
なので、この衰退は「アマゾン」の書籍通販のせい、ばかりとはいえない。

そもそも、「活字離れ」は、もう40年もまえの70年代後半あたりからいわれていた。
つまり、いま60代以上の世代が、若いときから本を読まないことに慣れていたのである。
いまでは、本を読まないように誘導されていて、愚民化が著しいのである。

さて、いま、ウクライナに関する解説本として話題になっているのが、Benjamin Abelow『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』である。
しかもなんとこの本は、上のリンクから「無料」でPDFとしてダウンロードできるのである。

対応言語は、英語、オランダ語、フランス語、の三つである。

さっそく読もうにも、問題は、「英語」をどうするのか?にある。
ipadだと簡単に自動翻訳して読むことができる。
なお、ipadユーザーなら、むかしからの方法なので新味はないだろう。
おおかたは「Kindle」本からの応用だ。

本書のようにPDFが「原本」の場合は、さいしょに文字認識できるようにするため「OCR」にかけるひつようがある。

ここでよく使うのが、無料で提供されている「Adobe Scan」だ。
ただし、無料版だと一回の操作では25枚までなので、これをこえるときには、何度か操作を繰り返すひつようがある。

わたしは、無料版を使い過ぎたからか?突然、一回3ページまでという制限が強化されてしまい、実用に耐えられなくなったので、どうせ費用がかかるならと、評価が高い「vFlat Scan」の有料契約をしている。

どちらも、基本的なやり方はおなじである。
もちろん、OCR処理した後は、上のリンクとは別に、「Deepl」や「Google翻訳」などを使う手もある。

さて、『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』が、日本人にとってヤバイのは、あたかも「日清・日露戦争」とおなじパターンが見いだせることにある。

このところYouTuberとしてアクセスが増えてきた、「伝統保守チャンネル-最期は笑って」さんの体験談回『日本共産党を抜け出して参政党支持に変わった理由とは?自虐史観を抜け出した経緯についてお話しします!』のなかでも語っている。

ようは、「戦争屋」が、むかしからいて、これらのものたちが戦争を商売にしているのである。
だから、国同士の闘いに見えて、じつはその裏では、利益があがって笑いが止まらない者たちがいることに気づくことが重要となる。

この意味で、「戦争屋」の出現は、産業革命による近代工業化の人類史に与えた「負の遺産」であり、その「相続人」たちがいまだに跋扈しているのである。

そして、そんな戦争屋たちを隠すために、もっとらしい正義をかざす宣伝=プロパガンダが実行されるのもパターンなのである。
あのロシア革命でさえ、いまではこれらの戦争屋たちが資金提供して、西側と対立させることがイコール、両陣営に武器売る、ことの仕掛けだったことがわかっている。

そのやり方のなかには、相手を感情的に憎むように仕向ける「感情操作」もセットで実施される。
ジョージ・オーウェルが、「二分間憎悪」と呼んだものだが、現代日本では、「ワイドショー」における感情操作として応用されている。

これで、まんまと大衆は人格的な正義感の発露としての行動をコントロールされているのである。

「日清・日露」から、先の大戦に至るまで、この視点からしたら、まったくおなじパターンでわが国は戦争へ誘導されたことがわかる。
いまは、ロシアがそのパターンで追い詰められたが、仕掛けた側が困惑するほどにロシアが有利な展開になってしまい、どうにもならない状態になったのである。

その流れを、とうとう英語、オランダ語、フランス語での解説を読めるようになったのは、日本人からみても「ざまぁ」なのである。

しかして、このパターンをしっている日本人の方が少数派だから、笑ってもいられないのが現実なのである。
なので、『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』は、しっかり読んでおきたい貴重な情報なのである。

悪政競争

善・悪の定義について、日本人は儒学からの影響を強く受けてきた。

そのエッセンスのひとつである、「経世済民」(世をおさめ、民をすくう)というかんがえが貨幣の流通が浸透した江戸期に流行って、それから「経済」になったのである。

このベースに、幕府が推奨する「朱子学」があった。

もちろん、幕藩体制の維持に都合がよいことに推奨の第一の理由はあったろうが、上からの影響を庶民が無視できるはずもなく、日本社会の「道徳」としての素地ができたことはまちがいない。

それで、幕末や明治のはじめに来日した欧米人を驚嘆させる、「文明人としての日本人」がおおくのエピソードとともに紹介されたのである。
イザベラ・バード『日本紀行』や、シュリーマン『旅行記 清国・日本』が有名どころである。

こうした日本礼賛本を、学校教育では習わないので、戦後のおおくの日本人はしらないままに成人し、物故している。

なぜに教えないのかといえば、GHQが定めたWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)が、相変わらず効いているからである。
つまり、日本人は日本政府による反日教育にサラされている。

文化大革命の嵐では、すさまじい「孔子批判」が巻き起こった。

それで、儒学をふくむ伝統文化破壊こそがただしい革命的態度ということになって、いまでも少しは「漢詩」を暗記させられる日本の高校生とはちがって、ぜんぜん読めないことになったのである。

もちろん、物的な歴史遺物も破壊の対象になった。
このなかに、「漢字」もあって、「簡略字」が記号となって久しいので、台湾で採用され続けている「旧漢字=繁体」をみてもわからないようになっている。

逆に、韓国では「漢字廃止」をやって文体のぜんぶをハングル表記にしたので、漢語由来の同音異義語の区別がつかず、漢字を残している「北」と、論理的な思考での応酬に太刀打ちできないようになった。

こうして、むかしは「善政競争」を促しながらも、それでも最後には滅亡することを繰り返してきたが、いまでは「悪政競争」をもって選挙で勝とうとする倒錯が蔓延している。

むかし、カレル・ヴァン・ウォルフレン著『民は愚かに保て』という本があったけれど、これはなにもわが国のことだけを指すのではなくて、西側社会全体にいえる「論」になったことが注目される。

すると、「愚民化」政策という悪政が、いまや世界共通のスタンダードに見えるのは、前に書いたように『共産党宣言』にある政策を忠実に実行した成果だといえるのである。
つまり、ここから抜け出すには、共産主義からの離脱がひつようであるから、「毒抜き」としての『裸の共産主義者』ぐらいは読んでおこう!ということの主張に変化はない。

19日、参議院東京選挙区から、参政党公認でシンガー&キャスターの「さや」氏が立候補表明したときに、彼女が口にした「政治に無関心でいられても、無関係ではいられない」は、悪政競争からの離脱宣言であった。

けれども、悪政競争をうながすメディアは、無視を決め込むのである。

これはこれで、世界潮流なのではあるが、19日、アメリカではトランプ氏が200億ドルの損害賠償と、放送免許剥奪を訴えていた、CBSテレビのCEOが辞任したことを、20日付けブルームバーグが伝えている。

トランプ氏の訴えは、昨年の大統領選挙期間中に同局が放送した『60Minutes』に出演したカマラ・ハリス候補へのインタビュー内容が、「捏造=選挙介入した」というもので、放送免許剥奪ともなれば親会社=株主の利益が失われるとした、パラマウント・グローバルからの圧力だという。

この件では、すでに4月22日に同番組担当のエグゼクティブ・プロデューサーが辞任しているが、「捏造の証拠」がハッキリしたために、経営陣へ責任問題が波及したのであろう。

なんにせよ、アメリカ人の内共和党支持者は、テレビ報道を信じないと答える者が9割というありさまで、すでにテレビの報道番組は「エンタメ以下」の位置付けにある。
なので、まともな人物は、コメンテーターとして発言することもキャリア上の「リスク」になっているから、出演拒否することが「一流の証」になっている。

日本では、研究費というカネに目がくらんだ「一流大学」の教授職の肩書きをもつ人物たちが、クズな解説を垂れ流しても責任問題にすらならないのは、高校生が志望大学をきめる根拠が「偏差値」だけになって、どんな学問を誰から学びたいとかんがえるのか?が完全欠如しているための「安全地帯」が形成されているからである。

しかし、時差はあっても確実に、アメリカの影響を受けるのが日本という環境なので、これら教授たちの末路もまた、将来の楽しみ(=エンタメ)になっている。

歴史的なトランプ減税法案の下院通過と宇宙論

22日、わずか1票差というギリギリで通過したのが、政権公約のなかでも重要度の高い「減税法案」である。
この法案には、トランプ政権1.0時代の「期限付き減税」を恒久化させる内容も含まれているため、「総仕上げ」的な意味もある。

しかし、タイトルにもつけた「歴史的」だということの意味は、とにかくその減税規模の「巨大さ」だからである。
これまでの「歴史的」は、80年代のレーガン減税のことを指す。

レーガン政権の功績では、「マルコム・ボルドリッジ賞」の創設があった。

ときの商務長官の名前を冠するこの賞は、制度設計の途中で事故死した不幸を慰める意味もあるが、本質は「経営品質」という概念における顕彰を意図したもので、単純に日・独の製造業にかなわないことを嘆くようなヤワな賞ではない。

むしろ、この賞の創設に刺激されて、いまのアップル社からはじまるアメリカ・テック企業の復活があったことに注目したい。
それで、GAFA+M(マイクロソフト)ができたから、日本の「もっぱら作るだけ」の製造業とは別次元を達成したともいえる。

しかし、これら企業の成長・躍進を税制面で支えたのが「レーガン減税」だったのである。

トランプ減税は、より大きく・広く、その恩恵を国民に還元することを目指し、もうとっくに経済成長の要となっている「個人消費」の拡大を意図している。
個人経済を痛めつける消費税をぜったいに減税しないと断言する、与党幹事長とは真逆の発想なのである、

異例なことに、下院議長の許可がないと敷地内にも入れない大統領が、直接に議会共和党の面々と「交渉」して、この法案通過のための努力をしたことだ。
それでも、2名の「造反」があったことは、「財政規律」という枠の思想がいかに強固かを世界にしらしめたのである。

これが日本なら、「党議拘束」という全体主義の発動で、造反しようモノなら即座に党籍を除名され、次期選挙には刺客が擁立されることとなる。
ところが、これを「禁じ手」として我慢するのが、アメリカのやり方なのである。

そんなわけで、この政権の浮沈を決める重要法案は連邦上院へ送付された。

下院より厳しい議席配分なので、はたして無事通過するのか?はアメリカ人ならずとも気になるのは、日本政府の辞書に「減税」なることばがないからである。
少なくとも、「自・公・立憲」政権には、ない。

あるのは、「財政規律」の最優先であって、そのための「増税」なのだ。

しかして、トランプ政権2.0の減税が、どんな効果を経済に及ぼすのか?は、いまのところ「社会実験」に近い状態にある。
主流派経済学者のいう常識では、成り立たない「はず」だからだ。

社会科学の最弱点がこの無闇に「社会実験」ができないことなのである。

一方で、実験そのものが困難な自然科学の分野に、「宇宙」がある。
最新のジェームズ・ウェブ宇宙望遠鏡の観測で、これまでの常識が疑われはじめたけれども、地球から遠い銀河の「赤方偏移」による、宇宙の加速度的拡大についても、最新の学説が発表されて宇宙論に混乱がひろがっている。

それは、なんと、この宇宙全体が自転している可能性で、そのスピードが一回転に5000億年かかるという壮大さなのである。
この理論を用いれば、「ダークマター」や「ダークエネレルギー」といった未知のものを使わずに様々な問題が解けるという。

そして、驚愕すべきは、この宇宙そのものがブラックホールだという論なのである。

ビッグバン理論からすれば、宇宙の誕生からぜんぜん5000億年も経っていないので、まだ一回転もしていない。
しかし、ブラックホールが超巨大星の超新星爆発によってできるなら、この宇宙は、とてつもない超新星爆発で生まれたのかもしれない。

そんな情報と並行して、超大型減税なる議論の小ささをかんがえると、人間というのは、じつに小さな生き物だと改めておもうのである。

トランプ減税が、アメリカに歴史的な経済繁栄をもたらすことになったら、主流派経済学という分野も吹き飛ばし、その恩恵にわが国もあずかることになる。

宇宙がブラックホールだという「論」は、観測不可能=証明できないという致命的な問題があるけれど、トランプ減税の効果は観測可能なのである。

恐慌=パニック・習近平失脚の夏

日本のメディアもとうとう報じ始めたので、書いておく。

きっかけは昨年夏の、北戴河(ほくたいが)会議における、脳卒中を起こしたということになっているけれど、脳卒中を起こしたきっかけが、長老たちによる厳しい突き上げであったのではないか?

習近平は、毛沢東を信奉する人物でしられる。

なので、毛沢東とは何者か?ということになるわけで、いわゆる「親中」の本質そのものにかかわる問題になるのである。

失いつつある権力を再奪取するために仕掛けたのが、あの「文化大革命(「文革」という)」(1966年~1976か7年)であった。
若い紅衛兵たちが、赤い表紙の小冊子『毛沢東語録』を掲げて、「造反有理」を叫びながら、守旧派を次々と人民裁判にかけて暴れまわったものである。

これを、当時のわが国の左翼・マスコミは、やんやの喝さいで書き立てた。

終結した年が、1976年なのは毛沢東が亡くなったからで、77年説はそのあとも1年間は「慣性の法則」がはたらいたとするものである。

なんにせよ、当時の日本の「文化人」たちは、毛沢東を賛美していた。

しかし、その後、「四人組の失脚」から、鄧小平の「改革開放」へと大きく舵を切ってからの「親中」とは、まったく別の意味をもつようになった。
つまるところ、毛沢東は国を貧しく保つことが共産主義(党)発展の条件だと思考したのに対して、カネこそが党人の得るべき最高価値に切り替わったのである。

そこで、共産主義の理想に燃える習近平は、阿呆を装って、鄧小平➡︎江沢民➡︎胡錦濤らからの「後継者」となるまで臥薪嘗胆して、いったんその地位に就くや「独裁体制」を構築しだしたのであった。

ときに、カネに目がくらんでいるアメリカ民主党(=共和党主流派=ネオコン=戦争屋=グローバル全体主義)は、中国市場という伝統的幻想にとらわれて、「所得が増えれば民主化する(はず)」という政治スローガンをあみだし、かつ、永遠の敵国たる日・独の「刈り取り」を国家戦略としたのである。

歴史の「もしも」で、日本が「南満州鉄道(「満鉄」)」の運営利権を、アメリカ大陸横断鉄道で「鉄道王」といわれたハリマンと組んでいたら、第二次大戦の悲劇にならなかったのでは?という論があるけれども、「鉄道利権=沿線開発」とみれば、そんな甘いものではない。

鉄道運送業しかできなかった「国鉄」が、JRになって「鉄道利権の規制撤廃」でどうなったかをみれば一瞬いけそうだが、人口密度に依存する鉄道が、航空機の登場からその後の衰退(アメリカ大陸、北海道・九州・四国)をみればわかるだろう。

トランプ政権2.0が、「テキサス新幹線」への補助金を打ち切ったことがニュースになったが、その前に日本の「官民ファンド」が、撤退しているだけでなくすでに債権回収の動きとなっている。

さて、カネもうけに邁進した彼の国は、「党」が政府を完全支配するために、およそ「国=政府」という見方をしてはならない体制である。
すなわち、1億人あまりの党員が「大富豪」になり、3・4億人の経営層が「富豪」となって、それ以外は「奴隷」のままにおかれている。

「大富豪」は日本人の富豪よりも多くの資産を持ち、「富豪」は、日本人の一般人をとっくに凌駕する資産家である。
つまり、日本人はすでに「奴隷」並という状況にあるのは、「自・公・立憲」政権の「成果」なのである。

しかし、トランプ政権2.0による「関税」と、コロナ禍の原因(巨額の損害賠償請求のほのめかし)とのダブル・パンチで、習政権ではアメリカにやり込められる恐怖が起きたと想像する。
それで、恐慌=パニックに陥ったのは、「大富豪=党幹部」たちなのである。

彼らがなにに怯えているかといえば、おそらく、アメリカに構築した「多大な個人資産」が、トランプ政権2.0によって制裁・凍結される可能性の恐怖=パニックにちがいない。
しかし、だからといって政権交代させても、トランプ政権2.0からのリスクが消えることもないから、恐慌=パニック、なのである。

この集団心理による政変は、はたして成功するのか?

フランクルの名著、『夜と霧』をいかほどの党人が読んでいるのかしらないが、このアウシュビッツの生き残りにして臨床心理学者の発見が、役立っているようにはみえない。

人生の目標はなにか?を、精神の高さ、あるいは、善意といった観点から誤ると、残念が残る、と書いてあるのである。
しかしてこれらを、共産主義(党)という邪悪(自分さえ良ければそれで良い)に染まった者たちに要求すること自体が、矛盾しているのであろう。

トランプ政権2.0の大目標は、ロシアを中共から分離させることにあったが、中共側が勝手に動きだしたので、しばらく放置するのだろう。
それで、国際的な中共への投資を制限すれば、自滅するやもしれない大チャンスが到来した。

一方で、カネに目がくらんだわが国の「自・公・立憲」政権は、こうした大変化の兆しにまったく鈍感な風情なのである。

まずは軍権を失ったとされる習派は、どんな反撃を試みるのか?
あるいは、このまま消えてゆくのか?
毛沢東が、「文革」をはじめたようなエネルギーがまだあるのか?どうか?は、外部からはわからない。

しかして、歴史が繰り返されていることは確かなのである。

最終兵器「小泉進次郎」の登場

21日、無能な江藤拓農林水産大臣が事実上「更迭」されて、まさかの自民党農林部会長経験者の小泉進次郎なる無能が同日、速やかに後任として就任した。

こうしたことだけは手際の良さを示した石破内閣だが、さすが自民党という政党の慣れた手つきをみさせてもらえたのであった。

江藤氏のトンチンカンな発言は、「ヒール役」としてのものだったろうが、いかにも「米を買ったことがない」発言は、阿呆でも気にさわるリング上の暴言なのでタオルが投げ込まれて試合が中断したようになったのである。

けれども、これは「最終兵器」登場のための、仕組まれた「セリフ回し=演出」ではないのか?と疑うのである。

トランプ関税交渉が進まないのは、「消費税=貿易補助金」と定義しているトランプ政権2.0の主張を完全に無視した対応からの当然だから、どうして日本がリングに乗らないで場外乱闘をひとりでやっているのか?トランプ政権2.0からは理解不能かもしれない。

しかし、「売国=国力低下」を徹底して実行する「自・公・立憲」政権は、民主党のアメリカが定めた「グランドストラテジー」に忠実な対応を愚直に推進しているという「健気さ」の自己満足によるだけでなく、アメリカ人の富豪たちを儲けさせるという「エサ」によって、さらなる国力の衰退をやっている努力に気がつかないのか?という焦りを伴う怒りがあるのだろうとおもわれる。

だからなにがあっても「消費税減税はしない」という覚悟の表明を、自民党の幹事長が繰り返すのは、貿易補助金なぞという狭量なことではなくて、「日本経済の貧困化」こそがあなた方アメリカの要求ではないか?その言いつけを遵守しているわれわれの努力をこれでもわからないのか?というイラつきにも聞こえる。

われわれはしっかり、きちんと、抜け目なく、日本人を貧乏にさせているではないか!

それでも政権与党であるのは、これまでのUSAIDやらからの資金によってマスコミを手懐けた成果だし、これからも変わらないから、愚民たちは自民党に政権を与え続ける、という確信があるのである。

もちろん、こうした判断には専門調査会社をつうじた最新の世論動向でも、今夏の参議院選における議席減はわずか「五議席」にすぎないという報告があるし、まだまだプロパガンダの徹底による世論操作をおこなえば、「大敗」なぞはあり得ないとかんがえているのである。

なにしろ、大成功をおさめたのは、あの小泉純一郎政権時の「郵政選挙」であった。

「売国一家」としての小泉家は、初代が東京大空襲やらの責任者だったカーチス・ルメイ空軍大将に日本政府が「勲一等旭日大綬章」を贈ったことからもわかるように、「戦犯」としての犯罪を暴くのではなく、無垢の日本人一般人を焼き殺した張本人を礼賛する神経の持ち主である。

そんな家の二代目は、郵政選挙で愚民大衆(B層)を煽動し、日本国民の「郵便貯金」と「かんぽ」を、アメリカの金融資本に売り渡したのである。
キックバックがどれほどであったかは、寡聞にしてしらないが。

それで、三代目は、ポエムを得意とする「無能」でしられるが、あまりの無能ゆえに自分のかんがえをポエムにして詠むことぐらいしかできないけれども、周辺のいう通りさえすればなんとかなることだけはしっている。

こんど小泉家が売り渡すのは、「農協」だろう。

ただ「農協」といっても、その顔は多面的である。
農産物を作るための機械や肥料・農薬の販売と、米を含むできた農産物の販売は「全農」の基幹だから当然として、じつは収益の大部分は、「金融面」にある。

これを「JAバンク」というが、細かく分ければ「JA共済」、「農林中金」のカネがターゲットとなるはずだ。
ことに、農林中金が数年ごとに兆円単位の損を出すのは、外国の助言者のいうなりだからではあるけれど、一応業界では「世界最大のヘッジファンド」との位置づけがある。

父・純一郎がまんまとやった成功の「二匹目のドジョウ」がこれである。

それで、アメリカから「カリフォルニア米」を大量に買い付けることをやるはずで、トランプ政権2.0に揺さぶりをかける作戦であろう。
民主党の牙城、カリフォルニア州に、共和党の影響力を示す大チャンスなのである。

じつは、70年代までのカリフォルニア州は、圧倒的に共和党の票田だったが、レーガン政権を騙して、移民への選挙権を認めさせたことで逆転しいまに至っている。
大統領選挙における大票田としてのカリフォルニア州が、もしも共和党に戻れば、民主党から大統領が誕生する可能性は未来永劫なくなるのである。

よって、悪魔の子ダミアンのごとく、進次郎のボケをかました顔で誰かに取り憑かれたことをやらかすのだろう。

しかして、トランプ政権2.0は、この悪魔の子とどんなディールを展開するのか?ということになりそうなのである。

それはまた、日本の農業(食糧と食料)生産そのものの滅亡を意味するのだが、小泉家にとってはどうでもいいことなのである。

出勤拒否症の蔓延

文部省と日教組が、戦後GHQの指令とその遺言の着実なる実行で作り上げた、「管理教育」の漏れなき完膚さが、小学生をして登校拒否に追い込む事態を生み出したのは周知の通りである。

60年代の終わりから盛んになった、大学紛争が、高校生にも転移した。
それから、中学生が校内暴力に走って、最後に小学生が登校拒否するという順番になっている。

『3年B組金八先生』は、79年の放送からはじまったので、校内暴力真っ盛りのわたしの時代よりも「新しい」のが特徴である。
それゆえに、個々の事件の背景が、ずっと複雑化している。

この子たちは何に不満で暴れているのか?

思春期のなかの「反抗期」と併せて、まだ対処の方法が教師に見えていたわたしの育った時代とちがって、子供の側の理由も複雑化し、教師の側(教育委員会)の管理も強化=無責任化するという、さらなる複雑化をしながら育った「優秀な」ものたちが、いまは新卒採用で「教師」になっている。

この意味で、わたしは1972年から放送された『中学生日記』の中でドンピシャの中学生時代を経験した世代にあたるが、卒業してからは観なくなったので、2012年までも続いていたことに驚く。

中でも、風間先生役の湯浅実氏が、まさに「担任」だったのだが、それでも口髭があることが、違和感だった時代である。

日曜日の昼下り、どの友人宅に遊びに行ってもこの番組がブラウン管に映っていて、なんだか一緒に観ては現実とのギャップの談義をしていたのが懐かしい。

本物の現役中学生には、子役たちの優秀な演技とは別に、「作り物」感がたっぷりあったのである。
もちろん、演じる中学生俳優たちにも違和感はあったろう。

しかし、そのことで子供同士を談義させるのが、そもそものこの番組制作の意図だから、まったく術中にはまっていたわけである。

「教育番組」としてのドラマと、娯楽番組としてはちがうだろうが、いわゆる「青春モノ」の高校生ドラマでは、たいがい「熱血教師」が登場する決まりがあった。

当時から「ファンタジー」ではあったが、いまなら「鬱陶しい」ことになるのだろうか?
とにかく、基礎単位である「家庭」が一様でなくなったのだが、よくかんがえたら、一様な家庭というものはむかしだって存在しないファンタジーである。

それは、隣の芝生は青い、というはなしがむかしからあることでわかる。
原義は、他人のものならなんでもよく見える、ということではあるが、あんがいと隣近所の各家の事情は複雑だった。

それがまた、『家政婦は見た!』となったのである。

しかし、おおむね父親がいるならば、その稼ぎだけで一家が生活できたのは、いまからしたらファンタジーになるのだろう。
田舎の老婆が「担ぎ屋」とか、都会なら「靴磨き」を路上でやって、小遣いを稼げたのも、とっくにファンタジーである。

学校だけでなく、社会も「管理」されるようになったから、息苦しい。

こうしてみると、昭和の娯楽映画にみる、「適当さ」とか「お気軽さ」の中にある、本気での「なんとかなる」が消滅している。

登校拒否の経験者でない者でも、いまや出勤拒否をしていると社会問題化したのは、90年代だから30年以上も前のことなのである。
それから、正社員と派遣という身分社会に転換した。

これを促進するためのエンジン役を担ったのが、「消費税」だということに、サラリーマンたる大衆が気づいていない。

何度も書くが、冷戦が終結してすぐの92年に、アメリカのグランドストラテジーが書きかわったことに深遠だが原因がある。
いま、トランプ2.0になって、再度の書き換えが行われているけれど、これを拒否する態度でいるのが日本政府なのである。

ついに、日本政府が対アメリカにおいて、出勤拒否をしているのだ。

果たしてそれは、誰のため?何のためなのか?

「脅迫」「暴力煽動」と「言論の自由」

言論の自由は、なんにせよいったん破壊されたら修復がきかない脆さがある。

一方で言ってもやってもいけないのは、脅迫と暴力煽動である。
脅迫も暴力煽動も、言葉での表現なので、言論の自由と対立する。
しかし、そもそも脅迫と暴力煽動は、「言論」ではない。

こんな区別があることを、わざと、しっていながらやって、非難されたら待ってましたとばかりに、「言論の自由に対する攻撃である」とうそぶくことで、言論の自由そのものを攻撃・破壊をこころみるやからが相当数いることも確かなのである。

それもこれも、「区別がつかない」理解力にとぼしいひとが「大衆」のなかに潜んでいるからである。
つまり、言論の自由とは、何を言ってもかまわない、とする論に同調はせずとも、言いくるめられる程度の理解力が破壊を促進させているのである。

トランプ大統領は、世界に向かって「言論の自由を攻撃するモノを何人であっても容赦なく許さない」と発信しているが、そこには、「大衆を煽動するな」という意味が込められているのは当然である。

それで、とうとう「連邦教育省の廃止=各州への移管」のために、世界最大のプロレス団体WWEを創設した、リンダ・マクマホン女史を指名し、上院議会承認を得たのである。
大衆心理の専門家であることに注意がいる。
なお、彼女はトランプ政権1.0で、閣僚級のアメリカ中小企業庁(SBA)長官であった。

「現代の大衆」は、もっといえば、理解力が弱い以前に、自分の頭でかんがえることを拒否する脳にされてしまったからともいえ、それがおおくのばあい、先進国における管理された学校教育における成果となっているからである。

彼女には、この意味でプロレスの大衆性を失う努力をするのか?という矛盾があるが、全米でまったくおなじ教育をすることの矛盾の方が、アメリカという「合州国」には痛いのである。
なお、アメリカ連邦教育省を創設したのは、ジミー・カーター政権であったので、まったく伝統的ではない。

わが国は、明治新政府による「文部省」の発足をもって「教育の統一強制」が実施されたので、おなじようにじつは「伝統的」ではないのである。

こうして人工的に育成された人間を、「人間モドキ」と表現したのは天才的である。
この怪物の初出は、手塚治虫原作の『マグマ大使』であった。

『ウルトラン・シリーズ』やその後の『仮面ライダー・シリーズ』などででてくる「怪獣」よりも、人間モドキのことがずっとわたしの記憶に残っているのは、ふつうの人間の姿をして見分けがつかないことにある。

いまでは、人間モドキ的な有力人間政治家が世界を仕切っているので、「事実は小説よりも奇なり」なのである。
とはいえ、そっちの界隈では、「レプタリアン」とか、「ゴム(仮面)」とかというひともいる。

これが意外なのは、法隆寺に残る「塑像」が、あたかも「トカゲ人間」の様相だからである。
アメリカ人は、テレビドラマシリーズとして、『V』(1983年)を製作した。

この作品がいまでは、ヒラリー・クリントンを彷彿とさせるのは、FBI副長官となった、ダン・ボンジーノ氏が、「彼女ほど邪悪な人物はいない」とはばからずに発言していることも影響している。

彼はそのむかし、ヒラリー・クリントン陣営のスタッフとして勤務経験があり、そこで得た直接経験からの発言なのである。
それでか、ヒラリー・クリントン側は、ダン・ボンジーノを名誉毀損などで訴えることはしていない。

司法長官のパム・ボンディ➡︎FBI長官のカッシュ・パテル➡︎同副長官のダン・ボンジーノというラインに加えて、トゥルシー・ギャバード国家情報長官➡︎ジョン・ラトクリフCIA長官、さらには、国家安全保障省のクリスティ・ノーム長官➡︎シークレットサービス長官のショーン・カランというラインの二重・三重螺旋的なフォーメーションで、オバマ=ヒラリーの周辺が調査されている。

この過程で、FBIとCIA職員の大量解雇という事態が起きたのは、DOGEによる大掃除とは別の意味の、組織体制の再構築だというしかない。

しかしながら、「官僚制」の怖さは、官僚の中に人間モドキが多数混じっていることにある。

ために、さまざまな「踏み絵」を準備して、自然にこれらのチェックポイントを越えさせる「罠」を仕掛けることもひつようであろう。
それには、ホワイトハウスの天才、スティーブン・ミラー氏が指揮をとっている可能性がある。

この「大掃除」は、アメリカ国内優先は当然として、ドイツをはじめとするヨーロッパに日本が続くという順番になっているようである。

わが国では、21日、挙動不審の発言を繰り返してきた「農水相」が交代して、ポエムを発信する変人が就任した。
誰がなろうが破滅的なのは、大衆が政党の高官や大臣になるという無惨な国になったからである。

「脱大衆」が、今後の世界トレンドとなる。