2025年MET『フィデリオ』のこと

このブログでいくつか書いてきた、METライブビューイング『フィデリオ』(4月25日〜5月1日上映)を観た感想である。
今シーズンでは、36年ぶりの新演出『アイーダ』のことをこないだ書いた。

まず本編上映の前に、メトロポリタンオペラの総裁である、ピーター・ゲルブ氏からのメッセージがあったのも、この「政治オペラ」の特徴を表している。

ニューヨークのど真ん中「リンカーンセンター」に位置するメトロポリタン歌劇場は、現代の政治的には、民主党の牙城のはずで、2005年に「ソニー・クラシカル」の社長だったゲルブ氏も同様なのは、ある意味いたしかたないところだろう。

そのゲルブ氏は、就任時に、「年老いた芸術オペラを改革する」と述べている。

さいきんになって、あの「ディズニー」がSDGsやらからの撤退を表明し、金融機関だけでないエンタメ分野でも極左の衰退著しいかと話題になったが、どうやらMETはまだまだ「現役の極左」を続ける決意のようである。

それが、ゲルブ氏の話にあったのが、合点もいくし、「改革」の「時代遅れ」も感じたのは意外であった。
彼の妻は、フルート奏者から指揮者になって、いまは「ウクライナ支援」で活躍していると自ら語ったのも、政治的なのである。

もちろん、ベートーヴェンがこの作品を書いたのは、彼の「共和制」への強い思いがあってのことだとは、ベートーヴェン・ファンなら知らぬものはいないだろう。

それに、ベートーヴェンは、モーツァルトの後をつぐフリーメーソンのメンバーであったから、同じメンバーのシラーが書いた『歓喜の歌』における「神」とは、いわゆるキリスト教がいう「神」を指すのではないことも、ファンなら承知だろう。

当時の作曲家稼業は、王侯貴族のお抱えで、しかも、宮廷組織的には料理長配下に位置したのである。
なぜなら、食事中の音楽を作曲し演奏することが本業だったから、料理の下に位置付けられていた。

ときに、ベートーヴェンが敬愛したナポレオンがその王侯貴族を破除して「共和制」の世の中にすると思いきや、自ら「皇帝」を名乗ったために交響曲第3番のタイトルも『(ナポレオン・)ボナパルト』から、『エロイカ(英雄)』と書き換えられた。

このことから、ベートーヴェンは史上初の、「フリーランス作曲家」になったのだが、安定収入のパトロンがいなくなった、という意味でもあった。

さて、この「政治オペラ」には、現代でもドキッとする「歌詞」が囚人が歌う合唱曲にある。
「小声で話せ、我々は監視されている」がそれだ。

第3稿でようやく『フィデリオ』で出版されたのは、1810年のことである。
それまでベートーヴェンは、題目に『レオノーレ』を主張していた。

同じ時間の日本では、第11代将軍家斉の時代である。

ところで、ナチス・ドイツの時代、このオペラがなぜか好んで上映されていた。
まったくナチス思想と相容れないはずのものが、なぜか?とトーマス・マンが不思議がったというが、この曲を歌うことの難易度は「極上」なので、夫婦役が揃って「ワーグナー歌手」の出番なのである。

そのワーグナーの「楽劇」を愛してやまなかったのがヒトラーだった。

つまり、音楽性が「ドイツ的」だから、という理由から「内容を問わなかった」のだろう。
この「共和制」を賛美するオペラを、真逆の民主党支持者ゲルブ氏がこれみよがしに「今の時代だからこそ」と力を込めて上演させる意図は何か?と氏自ら上演前に観客へ問いかけてくれた。

どんな理屈から、このオペラが民主党好みの解釈となるのか?

先にリンクを張った記事にあるように、総裁として、「メトロポリタン歌劇場は、ロシア人歌手アンナ・ネトレプコさんを降板させた」と政治的な判断をしている。
ネトブレコ女史は、この劇場の看板ソプラノ歌手のひとりであったが、プーチン氏と仲がいいという理由が「舞台から去らした」理由なのである。

まさか悪の権化たる刑務所長が処刑されるまでやる「旧」演出のまま、善の権化の大臣役を際立たせる場面の単純さだけを観客に観せて、「共和制の権化」のトランプ氏を吊るせと暗示しているならば、笑止に他ならない。

もっといえば、この刑務所長がゲルブ氏の真の姿だと観客に見せたかったのか?

だが逆に、民主党の牙城のニューヨークで、「共和制(党)讃歌」をやったのならば、それこそ万雷の拍手の意味があるというものだ。

こんなことをかんがえさせられるのも、面倒な、それでいて小声で話さないと監視される社会になったことの現実が、恐ろしくも単純なこのオペラを輝かせているからなのである。

それにしても、配役に人種やらを無視する方法は、配信される「ラジオ」ならまだしも、ビジュアル的にはなかなかに違和感があるものだ。

METの『ファウスト』で、メフィストフェレス役を好演した、いまは大御所のルネ・パーぺ娘役が東洋人(上海出身)であったのは、見事なドイツ語の歌唱とあわせて大したものではあるのだけれど、ベートーヴェンが納得するかは微妙である。

その娘マルツェリーネが、男装の人妻(レオノーレことフィデリオ)に恋し正体が知れて絶望するというオリジナル設定も、いまならどこにも絶望感がないかもしれないことにベートーヴェンは驚愕するのだろうか?

だが、わたしが気になったのは、マルツェリーネに求婚する空気が読めない男、ヤッキーノが生涯独身だったベートーヴェンの姿に見えたことである。
METは、この端役の歌手にも幕間のインタビュー出演させて、そのひとりでズレている役所(重唱におけるわざと外した作曲)について語らせているのである。

かくも「時空」を超えた政治ドラマが、政治的な思惑にあふれるMETならではの政治オペラとして花咲いた『フェデリオ』であった。

しかして、日本の観客の多くが「全共闘世代」とおもわれるひとたちで、この特異な世代にどう伝わっているかがよくわからないのは、『エルサレムのアイヒマン』を書くにいたったハンナ・アーレントの姿を描いた映画『ハンナ・アーレント』の観客層とおなじであるからなのだった。

内容よりも雰囲気で判断する傾向が見て取れるのは、グローバル全体主義の妙な共通なのである。