手に負えない「臨時休業」

たまたまだろうが、このところ「臨時休業」での肩透かしを連続して受けている。

わざわざ現地まで行って、シャッターに貼ってある「本日臨時休業」という一枚の紙に絶望感を味わうのである。

はじめて入店したとある「うどん店」では、そういえば昼時なのに電話が何本かあって、その会話内容を思い出したら「今日はやっていますか?」だったろうことを思い出した。
「ああ、こんにちは。やってますよ」という声が耳に残ったからである。

おそらく、何回か「絶望」を味わったうえでの学習効果なのだろう。
この通話を気に留めなかった自分が恨めしい。

「そうだったのか!」としても、後の祭りなのであるが、次回から事前の電話確認は欠かせないと当方も学習した。

しかし、これが片道100Kmほどの行程をとる店(味噌麹店)ならば、そのガッカリ感はまさに「天を仰ぐ」気分となるのである。

無論、ネット検索における「営業中」の文字を見てのことだから、恨みはいったんネットの表記となるのだが、「臨時休業」を登録する簡易な仕組みを提供していないのだろうか?と思いを馳せるのである。

そんな仕組みがあっても、店側の人間が無頓着なら仕方がない。

とはいえ、客としては無頓着でいいはずがないのである。
時間と経費が無駄になる、ということよりも、「得られるはずの商品を手にすることができなかった」ことのガッカリは、大袈裟にいえば人生の損失なのである。

どんな理由で「臨時休業」すると決めたのか?は、店の自由であるけれど、客にとってはいいはずはない。
「困る客がいる」ことをどう考えているのか?と、ききたくなるのである。

いささか逆恨みの感があるかもしれないが、そこまでの「商品」を売っていることの自覚のことをいいたいのである。

2006年に亡くなったマーケティングの大御所にして、いまなにかと話題のハーバード大学のセオドア・レビット教授による「ドリル理論」は有名だが、これは名著として名高い『マーケティング発想法』(1971年)の第1章冒頭に記述がある。

人びとが電動ドリルを欲するのは、「穴」を欲したから、という鮮やかな解説を、この「味噌麹店」に当てはめたらどうなるのか?

美味しい味噌が欲しい、ではないのだ。

教授は、「パンとダイヤモンド」の比較をしながら、「とっくに物理学者は物質の特性」を放棄したのに、わからないひとたちがたくさんいることを嘆いている。
パンとダイヤモンドは、どちらも「炭素」でできている。
では、人びとは、「炭素」が欲しくて購入したがるのか?ということではない。

これらの「効用」を欲しがるのである。

だから、この味噌店の味噌は素性がはっきりとした、大豆と塩、それに米麹を用いている、から欲しいのではない。
健康を気にすることからすれば、病気から逃れたい、と欲することが最大の理由なのである。
副次的に、「おいしさ」があるという順になる。

すると、この店の経営者は、自分たちが何を作って販売しているのか?という意味を理解しているのか?といった大問題につながるのが、客に予測不能な「臨時休業の決定」なのである。

それでもこんな文句を言ってもはじまらないので、やっぱり事前に電話をして確認することだということになる。

ときに、「ホームページ」を自分で運用しているのに、間抜けな情報ばかりで役に立たずイラっとするのが、「営業日と時間」の記載が最初に出てこないことがおおくあることである。

どういうわけか、「社長ご挨拶」といった、顧客にとってもっともどうでもいいことが最初にあるホームページを見るにつけ、残念な気分になるのである。

客は、その社長よりもずっと企業価値をしっている。

だから、いつの日に開いていて、それが何時から何時までかを「真っ先に」しりたいのである。
ページ内をさまよって、みつけるというレベルではない。

もちろん、電話番号を探させるようなホームページは論外だ。

できる「宿」は、ホームページにアクセスしたら、何の説明もなく、いきなり「予約手続き」に誘導される設計になっている。

これが、売れる(売る)、ための手段としてのホームページなのだ。

世に、いまでも大枚はたいてホームページを作成しているのに、ぜんぜん売れないと嘆く向きがあるのは、商品価値の哲学と、顧客心理をしないからなのである。

と、ぼやきはここまでとして、念のため事前の電話確認は重要なのだった。

食券を買う

いつから「食券」ができたのか?について調べると、『白木屋三百年史』にあることが、国会図書館の記事でわかった。

だが、記事によると本当の「発祥」は、日本でいう大正時代の半ばに「海外のデリカテッセンを参考にした」とあって、見本(食品サンプル)を見せて食券を販売したところ、回転率が上がったという。

その「海外」とはどこか?が、残念ながらハッキリしない。

おおむね、パリかロンドンだと推測するばかりだが、質問サイトにおいて、現在これらの都市で「食券」があるとの報告はない。
ただし、パリでは、「クーポン」があるというし、東南アジアのショッピングセンターにおけるフードコートでも「クーポン」は一般的だという。

これも、フランス支配の歴史の流れからなのか?

わたしの少ない海外旅行経験でも、たとえば朝食付きの予約をしたホテルのチェックインで、食券をもらったことはない。
朝食会場には、部屋の鍵をみせればそのまま入場できるからである。

しかし、日本のホテルでは、とにかく食券をもらう。

これは、「戦時経済体制」がいまも続いていることからなのだろうか?と疑いたくなる事例なのだが、野口悠紀雄『1940年体制』(1995年、以降いくつかの版がある)をみれば、けっして冗談ではないことがわかる。

つまり「配給切符」としての「食券」なのである。

もっといえば、「外食券食堂」のことで、「米穀配給通帳」制度共にでき、1951年に国の制度としては廃止されたものの、東京都では「民生食堂」の制度をはじめて(約500軒あったという)「抵抗」をしていたのである。

つまりなんであれ、日本人は、「食券がないと食堂で食べることができない」という訓練をされて、それがいまでも抜けきらない、ということなのだとかんがえられるのである。

そこで、大手外食店チェーンでも、まだまだ「食券」を販売する営業形態が残っている。

「白木屋」ならぬ、横浜育ちのわたしには、「横浜高島屋」の「お好み食堂」で、駅の切符のような「硬券」の食券を、あまたある券種からすごいスピードで取りだして、日付スタンプをつけて売っていたのが記憶にある。

これを、いまでは「自動券売機」でやっているし、決済方法にも電子マネーが加わったのだが、本質的な進化をしているのかどうかは微妙である。

たとえば、マクドナルド方式では、購入した整理番号で自動注文がされるので、客は表示版をみて出来上がったら「証明」として発行された食券と交換する。
これは、「駅そば」のチェーン店でも採用されている。

一方で、単純に「食券販売機」で購入した食券をもって係に渡すと、半券を証明として返してくれながら、そこでの発注となる「むかしながら」も残っている。
ただし、「自動券売機」がデジタル進化をしていて、豊富なメニューの整理が「機械的」なために融通がきかなく面倒くさいのである。

こうした方式の開発に、経営陣がどれほどの興味と利用者の便利さ提供へのこだわりがあるのか?が、見え隠れする。
逆に、自社の管理優先という思想も見え隠れするのである。

白木屋は「回転率が上がった」つまり、売上が数倍になったという効果を実感したろうが、いまの企業は、新規券売機の導入でいかほどの効果を実感しているのか?と問いたくなる。

それは、「売上だけ」をみているのではないか?という疑問につながる。

なぜならば、上に書いたように、「融通がきかなく面倒くさい」と感じたら、もうそのチェーンには寄りつかなくなるという客側の心理を把握していないだろうという疑念なのである。

すると、100年前の白木屋に劣ることを、現代の経営者はなんの疑念もなくおこなっていることとなって、その愚かさに呆れるのだけれども、自分の愚かさに気づかないことの愚かさに、まったくもってサービス業経営としの資質のなさを指摘せざるをえないのである。

この意味で、「工業化に成功した」というマクドナルドの開発方針にブレがない。

とはいえ、わたしがマクドナルドを利用するのは、「コーヒーだけ」であって、「工業的」な食品類は口にしないことにしている。