公明党離脱と高市潰しの滑稽

首班指名の臨時国会はどうなるのか?

そもそも、高市早苗氏は首班指名を受けることができるのか?

「元・体育の日」の10日、26年間続いた公明党との連立政権が終わりをつげた。

このブログでは、高市早苗氏を一切支持していないのだが、現実の動きはことなるのも事実である。
そのリアリティーに寄せれば、まったく混沌としてきた、というのがすべてであろう。

果たして、高市氏が首班指名を受ける確率は、だんぜん下がっている。
さほどに嫌われる原因は、彼女の政治姿勢が「保守=右派」だとの決めつけ=世論操作にある。

しかし、世界はすでに「左・右対立」の時代は終わっていて、「グローバル全体主義・反グローバリズムの闘い」となっている。
この観点からしたら、高市氏は決して「反グローバリズム」のひとではないばかりか、むしろ、グローバル全体主義に日和っている側なのだ。

しかし、その寄り方が「甘い」という理由で、仲間内から排除されているのだとおもわれる。
もっといえば、旗幟を鮮明にしないので不気味、なのであろう。

たとえば、高市選対の応援団長、小野田紀美参議院議員は自ら「保守ではない」と宣言し、自分の言動が世間から「保守」だといわれているだけだと断言したようなわかりやすさが高市早苗氏にはないのである。

さて、公明党の離脱で、単純な「数の勝負」になってきた。

しかし、その組合せが複雑怪奇な情勢になっている。
自民党内は、麻生太郎氏を核とする表札は「高市派」と、菅義偉・森山裕のふたりが反麻生で連結している。
これと、野党のグダグダ連中が、党利党略で暗躍しているのである。

どちらにも、どこにも、だれにも、まったく、国民目線がない。
これはこれで、呆れるしかない歴史的権力闘争なのである。

改めて、坂口安吾の『堕落論』にいきつく。
堕ちるだけ堕ちて、底からの這い上がりしか残された道はない。

それを国民が選ぶという、責任が次にやってくるのである。

西洋は天皇の人間宣言で敗北した

GHQが勝者の論理丸出しの「占領」で、国際法もなにもかも無視した横暴をやったことことから、それが実態は「征服」だったとしれる。

これを企図したのは、開戦の半世紀前にも遡る『オレンジ計画』だったことが明らかになった。

だが、もう当事者とその世代は日本にもアメリカにも生存していない。

しかし、あんがい見棄てられているのは、計画の実行者だった「GHQ」とは、欧州を含めた戦勝各国の「連合軍」のことだから、わが国を征服して彼ら基準での好き放題をやった連帯責任から逃れられるものではない。

逆に、マッカーサーひとりの戦後処理を装った犯罪ではない、ということだ。

その数ある犯罪行為の中で、もっとも効果的な破壊力をもったものが、「天皇の人間宣言」である。

明治の、ほんとうは欧州列強の手先である「元勲」と呼ばれるひとたちの筆頭、伊藤博文が企図した「日本教」の布教をもって、わが国は近代工業国家へと脱皮するのに成功した。
「日本教」の構造は、ドイツ皇帝に謁見して指導を受けた伊藤が、プロテスタンティズムに基づいて考案したとおり、「プロテスタント教会」とおなじ建て付けになっている。

それが、「現人神」に集約される。

あろうことか、わが国はマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義に精神』を発表した1904年(明治37年)から5年よりもずっとはやい、1889年(明治22年)に、『大日本国憲法』をつくりおえていた。

逆にいえば、マックス・ヴェーバーは日本の状況からパクったのではないか?
それゆえに、『マックス・ヴェーバーの犯罪』なる告発本を書けるのが日本人だけなのではないか?と疑うのである。

ところで、ニーチェが『アンチクリスト』を発表したのは、1895年で執筆の開始は1888年だったから、やたらわが国の動きにまとわりつくのである。

わが国の事情をいえば、伊藤をはじめ討幕運動にかかわった者たちのほとんどは、「水戸学」に陶酔していた。
朝敵とされた徳川慶喜は、その水戸藩生まれであった人物なので、グルッと一周する。

産業革命を実地で観た伊藤は、市民社会のなかでも「中間層」の役割なくして工業化の不可能をしり、それをどのように作り出すのか?の挙げ句に、「四民平等」にいきついた。
身分制の伝統あるわが国を、フラットな「市民社会」に改造するには、ヨーロッパで圧倒的な権威たる「神」を創造し、それに四民を平頭させることが必要だったのである。

ために、伊藤本人は、生涯、天皇に平伏しなかった。
「現人神」をつくった「超人」が伊藤そのひとだとの自負であろう。

これを、「不敬」と責めたのが、暗殺犯、安重根の伊藤懲罰筆頭にあげる理由なのである。

しかし、先進国たるヨーロッパにおける「キリスト教信仰の弱体化」とそれにともなう「家族の解体」で、とうとう「道徳」と「倫理」が崩壊を開始する。
第一次世界大戦の「総力戦」とは、一般人を巻きこむことの無罪なる倫理崩壊があったことの結果なのである。

しかし、わが国は世界に魁けて日露戦争による「総力戦」を実行して、未来のヨーロッパに先行してしまったのである。

これが、ヨーロッパと日本がまとわりついて離れない、グズグズの原因だ。

しかし、「人種差別撤廃」をいいだした日本を許せないほど倫理が堕落したヨーロッパ&アメリカに敗戦してからの「戦後」で、彼らの「無」倫理の果てとなる「人間宣言」によって、ヨーロッパ&アメリカ人は、じぶんたちの神も徹底破壊したのである。

その挙げ句が、いま、だ。

トランプの登場も、ヨーロッパにおけるアンチ・グローバリズム政党の登場も、じつは「神を取り戻す闘い」となっている。
そうしないと、社会秩序の崩壊がとまらないからである。

日本では、神社を統轄する組織と、仏教の宗派それぞれにおける内部崩壊がとまらない。

構造がヨーロッパ&アメリカとおなじにさせられたからである。

つまり、日本再興のカギは唯一ここにあるということなのである。


通貨統合には多様性のかけらもない

EUの「€:ユーロ」のことである。

6日、フランスの内閣が組閣後したとおもったら14時間で崩壊し、いよいよマクロン政権が「詰み」の状態になってきた。

しかし、たとえ大統領がかわっても、域内統一通貨ユーロが残るので、次期政権も似たような体たらくになるのは確実なのである。
よって、解決策は、ユーロからの脱退、しか方法はないが、これはイコールEUからの脱退を意味する。

EUとの条約で政府債務の上限(GDP比3%まで)を定めており、これを大きく超え(6%弱)てしまったのは、「福祉国家」のための支出増大が原因なのと、ウクライナ支援が効いているのである。

ようは、EUという制度は国家から独立した財政及び通貨発行権を奪ったので、こうなる、ということなのである。

しかし、フランスの大恥は、ギリシャ危機におけるギリシャを徹底的に悪者にして責めたてた過去が、そのまま自国へのまなざしとなっていることで、6%弱とはいえ、あのギリシャのときとおなじ数字になったことを、もはや自国でコントロールできないことにあるのである。

そんなわけで、ドイツと並ぶEUの大国が、英国に続いて抜ける可能性が高まっている。

一方、わが国をみれば、はなからEU加盟基準を満たしたことがない、ということが幸いして、NATOの準加盟国で留まっている。
「正加盟」をときのメルケル首相から誘われたのを、安倍首相が丁重に断ったのは、野党が騒ぐ国内の政治事情によるためだが、まずはそれでよし、とするラッキーがある。

ただし、わが国の場合は、政府財政と「円」の通貨発行権を日銀が持っている、という意味での「独立」はあるが、その巨大債務をどうするのか?という問題の解決が、財務省だけに依存しているので、「財務省解体デモ」なるトンチンカンな行動となって、ガス抜きをやらされている。

バブル前の絶好調時代に、円の国際化基軸通貨策をやらず、ひたすら豊満な財政をたてにして、「福祉国家」を追及する中毒化を目指したのである。

ときに、大英帝国のはじめから「揺りかごから墓場まで」を標榜した英国の現状をみれば、わが国の未来予測も厳しいことがわかるし、先進国のフランスが「お先に失礼」とばかりになっているのは、明日は我が身、の典型なのである。

あの1895年(明治28年)に出版された『タイムマシン』に、「揺りかごから墓場まで」が登場する。

イギリス人は、はるか前の1516年に『ユートピア』なる「ディストピア小説」を書いていたが、言語は英語ではなくラテン語であったのは、知識人だけ、を読者に想定していたからで、一般人は読めなかった。

1932年(昭和7年)には『すばらしい新世界』が、1949年(昭和24年)には、あの『1984年』が世にでる。

人間のかんがえたことは実現する、というのは、『ゴーストバスターズ』(1984年:昭和59年)の「マシュマロマン」に象徴される。
ために、この作品はアカデミー賞を受賞したといえるだろう。

しかして、英国ではディストピア小説の伝統が、そのまま現実化しようとしており、これをフランスが追いかけているのである。

「多様性」をいう者たちに「多様性のかけらもない」のは、これぞダブルスタンダードなのである。

トランプメッセージの「いけず」

13時間の時差(サマータイム中)があるワシントンD.C.とわが国なので、6日、AM9:54(日本時間6日PM10:54)にトランプ氏自身が所有するSNS『Truth Social』に挙げた、異例の「高市あげ」記事が話題になっている。

前に、「関東人には不明の「トランプ京都人説」」を書いた。
ようは、アメリカ人(ニューヨークっ子のヤンキー)でありながら「いけず」なのである。

「いけず」とは、『新明解国語辞典8版』によれば、「[関西方言]いじわる(な人)。」とある。

アメリカ人で「トランプ嫌い」が一定数いるのは、その人柄の「いけず」なところが合わない向きがいるからだとおもわれる。
つまり、彼の言動にはトゲがあるばかりか、よくよく意図をとらえる読解力がないと、かなりズレた反応を示すこととなるのである。

このあたり、かなりの「京都洛中人」なのだ。

さてコメントの、「異例」のポイントは、
・総裁選に勝利したが首相に就任していない段階でのことであること。
・外交儀礼としては、公式の政府間「電報」が用いられ、私用の媒体ははばかれること。
・文面に、「おめどとう!日本国民の皆さん」があって、「政府間」ではないこと。

これに、冒頭の「素晴らしい知恵と強さを持つ人物」と褒めていることで、あたかも、安倍晋三氏とのことを思い出されるという、「解釈」が日本の読者一般の反応になっていることがある。

このブログでなんども書いてきたように、はたしてトランプ氏は安倍晋三氏と本当に胸襟を開く間柄だったのか?を疑っている。
ことの発端は、16年大統領選挙期間中における、ヒラリー陣営への一方的な「表敬訪問」で、アメリカ国内の選挙違反にあたることをやったのが、安倍首相そのひとだったことだ。

むろん、ヒラリー絶対勝利を信じた愚かな外務省の指図ではあろうが、トランプ陣営は選挙中の外国首脳との会談を、しっかり「違反」と認識していたことで、拒否された、ことになっている。

「バナナ共和国」のようなみっともないことを、日本(政府)がやったのである。

だから、日米首脳会談のためにトランプ大統領を初めて訪問した安倍氏は、顔が引きつっているのが確認できる。
これを、トランプ氏は「異例の大歓迎」とした演出で、まんまと取り込んだのである。

これぞ、「いけず」の真骨頂、まさに白拍子以来の籠絡を地でいく姿なのである。

トランプ政権1.0の苦しみは、大統領に従わない高級官僚たちの「妨害行為」であった。
それは、まさにオバマが大量採用した者たちであったし、そもそもアメリカに「高級官僚制」を制度化したのは、おなじく民主党の左派だったカーター政権だった。

つまるところ、対民主党との闘いは、とうとう1.0政権末期にまで及び、「バイデンジャンプ」に敗れて下野することとなったのである。
よって、トランプ政権2.0までの4年間という時間を、トランプ陣営は明確な戦闘態勢の準備につかい、対して焦る民主党はなりふり構わぬ「司法の武器化」で対抗したのである。

その民主党のやり口が、いま、ブーメランとなって民主党幹部の起訴になっている。

そんなわけで、トランプ政権2.0は、各国の情勢についての調査・研究も過去の政権とは次元が異なる精緻さという性質をもっている。
その中で、アジアでもっとも重要な同盟国日本の状況を、しらない、ことはあり得ない。

高市早苗氏が過去に、アメリカ民主党議員の世話になっていることも、彼女の人生のなにもかも、彼らは承知しているはずなのだ。
しかも、盟友のはずの安倍晋三氏が暗殺された現場たる「奈良県」こそ、高市氏の選挙区である。

その高市氏は、安倍氏の事件についてまったく関与せずに他人事として貫いている。

そもそも、高市氏は旧安倍派に加入もしていない「無派閥」が売りだったのである。
なので、どこから安倍晋三氏の意志を継ぐ議員筆頭となったのか?をかんがえれば、マスコミの「神話」ではないか?となるのである。

逆に、トランプ氏はこの「神話」をそのまま利用している。

一種の、「ほめ殺し」なのである。

ときに、トランプ氏にとって本当の盟友だったはずのチャーリー・カーク氏と日本人の関係をみれば、高市氏が参政党に与党入りを打診する声かけをしたことも、トランプ大統領への摺り寄りともとれる言動であったと解釈できる。

神谷氏はこれに先手を打って、現状で「与党に与しない」ことを明言した。

一方、チャーリー・カーク氏は、「ガザ問題」で急速に反ネタニヤフを露わにしていたので、暗殺理由としてトランプ氏にはまずい状況となっていることはまちがいない。
あたかも、「泣いて馬謖を斬る」のごとくとも解釈できるからである。

自民党総裁候補の顔ぶれの絶望的な状態から、高市氏が選出されてもその絶望は変わらない。

彼女の能力がほんとうに高いとするなら、それは、トランプ氏の「いけず」に対抗する「いけず」だという意味でしかない、というのが現時点でのわたしの評価なのである。
自民党そのものの「延命装置」でしかないけれど、もう命運というよりも「役割」が尽きているから、残るは「解党」という結論だけである。

すくなくとも、彼女を「保守の星」というのは、マスコミがつくった「神話」にすぎないからである。

むしろ、マスコミが望む人物であることが、日本人の悲劇となる。

それを、逆手にとったトランプ大統領の「いけず」な投稿は、来日時における当事者同氏によるバチバチがあることを予想させ、トランプ大統領の上手に期待するしかない「ねじれ」がつづくのであろう。

「教育用電卓」をおとなに売らない

一口に「電卓」といっても、四則演算だけの「ふつうの電卓」と、何十何百と用意されている計算機能の「関数電卓」とに大別できて、その中に「教育用電卓」がある。
それがまた、数式の扱い方法やグラフ描画機能で分別できるので、これまた一口に「教育用電卓」といっても豊富な種類がるものだ。

日本人は、「世界初!答え一発!」の宣伝が衝撃的だった日本製の『カシオ』が、世界最大の電卓メーカーだと思い込んでいるかもしれないが、関数電卓の分野でもカシオのライバルに『シャープ』があるし、『キヤノン』もある。

けれども、このブログで書いてきたように、世界ではあんがいと、『HP:ヒューレット・パッカード』とか『TI:テキサスインスツルメンツ』という老舗が有名なのである。
これら二大メーカーは、教師用と生徒用の「使い方ガイド」のみならず、さまざまな「演習問題」も用意している。

その理由は、『国際バカロレア』をはじめとする、世界における数学教育の標準に、「電卓をつかえるように訓練する」があるからである。
なので、試験に電卓を持ち込める、という概念を通り越して、「持ち込みの義務化」になっている。

計算問題の前に、「電卓のつかいかた」の出題があるからで、生徒には正しい手順のキー操作を、実際に操作しながら回答させるようになっている。
日本のおとなには一種のボーナス問題に聞こえるかもしれないが、彼らが持ち込むように指導される電卓の複雑なメニュー操作は、手に取ってみればわかるほどに簡単ではない。

そもそも、持ち込み指定される2万円から3万円する「教育用グラフ電卓」は、いまどき「ポケットコンピュータ」の進化版なので、メインメニューにある「計算の種類」も多数あって、どのモード・タイプの計算をこれからやるのか?から正確に選ぶことだけも、出題の意味があるのである。

ザッと挙げれば、基本計算モード、グラフモード、統計モード、方程式モード、3Dグラフモード、プログラミングモード、とかがある。
これに、行列、ベクトル、微積分は当然の機能だし、グラフモードで(連立)方程式の解(交点)をもとめるのに、描画した線上をなぞって求める方法も方程式モードとは別個にある。

はじめて操作するなら、こんな出題にサッと答えられるものではない。

だがしかし、作り手で販売元のメーカーは、「教育用」との既成概念にとらわれてしまっていることに気づいていないようである。

グラフも描ける大画面の電卓は、数式モードなら何行も表示される便利さがあって、さらに統計モードにある「表」をつかえば、あたかも表計算が可能なのである。
入力したデータの見直しができるのは、表示部のちいさい電卓では不可能だ。

そんなわけで、おとなになっても業務で十分に使えるから、液晶部などに故障がなければ「一生もの」であることはまちがいない。

今どき少なくなった書店では、おとなむけの参考書たる「やりなおし」とか「おとなの学び直し」とかいった参考書が並んでいる。
ここに、なぜか「教育用グラフ電卓」とセットで解説するものがないのである。

これは日本における教育用電卓の普及がないことへの、従順な対応としかおもえない。

だが、おとなに対してならば、存分な解説書があって然るべきではないか。

中国語では、道路工事のための関数電卓の使い方、なる本がでている。
おそらく、いろんな分野における「使い方」が出版されているのだろう。
これは、圧倒的なエンジニア育成数のちがいからでも想像できる。
日本とすでに人数で比較することの意味がないほどになっているのである。

なので、たとえば『カシオ』なら、教育用グラフ電卓をようやく国内販売をはじめたが、メイン・マーケットはアメリカのままなので、国内でのサービス軽視をしているのではいかと疑うのである。

これは、日本人全般にとって不幸なことだ。

おとなが使って便利なものを、子供に伝播しないはずもない。

ゲーム専用機を学校に持ち込むことは憚れるが、教育用グラフ電卓は、プログラムモードでゲームをつくることができる。
おなじ著者の「TI用]の解説もある。

だが、これは子供用の解説書なのか?といえば、そうともいえない。

おとながPythonを学ぶ、ひとつのアプローチである。
ならば、「大人買い」してもいいのである。




「経済兵器」は有効か?

経済兵器とは、いわゆる「経済制裁」のことである。

とくに、いま、西側諸国がロシアに課している経済制裁の有効性が疑問視されていることをいう。

いまや、アメリカの戦争屋たち(民主党と共和党主流派のネオコン)がしつこく長い時間をかけてロシア(資源)をわが物にしようとしたことの長大な物語が明らかになってきている。
さらに、権力を得たユダヤ人の恨み(ブリンケンとヌーランド)が加わる。
このひとたちの先祖がウクライナで酷い目にあった公然とした歴史がある。

これに、わが国も「西側=西洋」として加担したのは、GHQの占領以来、わが国を支配するアメリカ国務省とCIA東京支局の官僚が、自民党や野党らをグリップして離さないからである。

どんな証拠を握られているのか?これだけで、政権どころか日本がひっくり返るスキャンダルになるだろう。

エリツィンに後継指名されて大統領になったばかりのプーチンは、はじめ、西側に信頼を寄せていたのに、何度も裏切られて学んだのが、ロシアは西側=西洋に与しないという決意へと変容したことである。

なにせ、プーチンはクリントン以降のアメリカ大統領に、何度か「NATO加盟」を打診していて、クリントンはなんと食事会で承認の意を返し、その後撤回している事実がある。
ロシアを加えた「G8」の時代こそ、いまからしたら理想的だった。

ドイツのメルケルとフランスのオランドが引退後に、二度にわたる「ミンスク合意」が、ウクライナへの西側軍事支援のための時間稼ぎだったと告白したが、ロシアにとっても西側制裁対策を練る時間稼ぎとなっていた。

ようは、お互い様なのである。

そこで、ロシアは「軍事作戦発動シミュレーション」として、西側が仕掛ける「経済制裁」についても「やり過ごす方策」をかんがえていた。
最大級のやり口を「SWIFT」からの排除だとにらんで、ロシア国内銀行の決済方式をSWIFTに依存しない方法に切りかえる計画を練ったのである。

いわば、アメリカと英国の金融エリートが考案しそうな手の「先手」を打っていた。

これに気づかぬ西側は、SWIFTからの排除でロシア経済は瀕死のクマになると思い込んでいたのである。
ロシア人がずっと、チェスの世界王者だということを西側のヘボたちが無視したのは、これからずっと末代までの言い草になるだろう。

さらに、西側の失策は、ロシアを中国と結託させる方向に追いやったことである。
中国との経済的蜜月状態を維持すれば、中国がヨーロッパ依存になると信じたこと(あり得ないほどの「ナルシズム」)が逆転し、EUは自ら経済危機を引き起こした。

しかし、もっと戦略的にも重要なことは、イランを舐めてかかったことだし、サウジをはじめとする産油国をロシア側に引きつけたことでもあった。
アメリカの工学系大学は、2001年から20年にかけて、敵対しているはずのイランからの留学生(5000人弱)を、日本人(500人弱)の10倍も育成していた。

彼らが帰国して、ドローン開発にかかわり、次から次へと製造した「新型」を、ロシアに供給することも想定しなかったのである。

しかも、砲弾や弾薬の製造もアメリカでは間に合わず、とうとう米軍の在庫を空にして、信長以来自国で硝石がとれないわが国の火薬の在庫をアメリカ経由でウクライナに供給する有様になったために、わが国ではオリンピック種目であるクレー射撃用の散弾まで不足する事態となった。

つまり、トランプ大統領がいう、アメリカの製造業の復活、は、容易でないばかりか、不可能ではないか?と思わせるし、日本の製造業も、これに似た状況にあることは日本人としてしっていた方がいい。

ことに、工業力と技術者がいないと成立しない、海軍、空軍、および宇宙軍という組織のヤバさは、もはやアメリカ軍の「世界最強神話」まで崩壊させる深刻さなのである。
なぜかといえば、軍の幹部学校希望者減少と、弁護士・金融の分野への就職希望学生の増加がハッキリしているからである。

複雑すぎるF35の現場でのポンコツぶりがウクライナでしれたばかりか、最強のはずのエイブラムス戦車さえ、使い物にならないことが世界に拡散されてしまった。

弁護士と金融界のエリートが自信満々に仕組んだ、「経済兵器=経済制裁」が、おどろくほどの無意味をなして、砲弾不足によるウクライナ兵のムダな損耗をカバーすることができない。
しかし、アメリカやヨーロッパで安穏と暮らす、弁護士・金融エリートは、ウクライナ兵の損耗を気にすることがないのは、究極の人種差別をしているからなのである。

これをみた世界の西側以外の国々の指導者たちが戦慄したのは、西側につくことの破滅をみたからである。

哀れなウクライナは、ロシアに呑み込まれつつ、ロシアを支持するのが世界人口の3分の2になっていることも、西側エリートは無視しているのである。

現実を無視して戦争に加担する。

そのうち、『1984年』で描かれたように、コンピュータが確率計算して算出した「損害数」を、条約によって「処分する」政府がでてくるかもしれない恐怖こそ、西側エリートがかんがえつく「経済兵器」と化すなら、もはやこの世は地獄である。

個と化した人間を「数」としてしかみないことの、結論がここにある。

EU崩壊はやっぱり通貨から

いまさらにハイエクの予言の意味が深くなってきている。

通貨統合でうまれた「ユーロ:€」が、あろうことかフランスを襲って、にっちもさっちもいかなくなった。
これは、政権交代しても変わらない「与件」なので、「EU離脱=ユーロ放棄=フランス・フラン復活」以外にどうにもならないことなのである。

この意味で、ぜったいに「スターリングポンド:£」を棄てなかった、サッチャーの慧眼が光るが、そのサッチャーの支柱がハイエクだったのは偶然ではない。

そもそもマーストリヒト条約を、ヨーロッパ各国が慌てて締結するはめになったのは、ソ連(圏)崩壊という寝耳に水だった。
当時の西側政治家で、これを予想した者はいなかった。

世界がアメリカ一強になることの恐怖に対抗するため、ヨーロッパは生き残りをかけて大集結したのである。
あろうことか、そのためにフル回転で活動したのが、フランスの高級官僚たちだった。

彼らは特定の学校(国立行政学院:École nationale d’administration:ENA )の卒業生ばかりで構成される、狭い世間で生きているのはわが国とおなじで、成長著しい日本を導いたのが官僚制だという大変な勘違いをしたのである。

そうではなくて、戦後の混乱で規制と利権が整備されずにいたことでの「自由経済」だったのが最大の成功要因だった。

政治家で唯一の例外は、ドイツのヘルムート・コール首相だという説がある。

この大柄な人物が、強い牽引力で「東西ドイツ統一」をやり遂げたことが理由になろう。
だが、時系列ではソ連崩壊をあらかじめ予想していたのではなくて、現状対応をしていたといえるから、やっぱり「例外」ではない。

東西ドイツ統一を、英・仏は苦い目でみていたし、アメリカが放置した理由は人権尊重だったろうが、ドイツ封じ込めのためのNATOが機能しなかった。
ワルシャワ条約機構に対抗するため、というのは表向きで、NATOの真の目的はヨーロッパをアメリカが支配するための道具として存在することだけなのである。

ために、NATO歴代事務総長はドイツ「以外」の国の首相経験者(アメリカの代理人=ドイツ監視人)とし、総司令官はアメリカ軍の将官が着任することになっている。

それで、統一当初、遅れた東ドイツのために西ドイツがさまざまな負担をしたことで、ドイツが弱体化するようにみえたから、英・仏は安心したけれども、東ドイツやポーランド、ハンガリーにチェコのひとたちを「安く使う」ことでのドイツ経済が絶好調になると、「あれれ?」になったお間抜けがある。

ドイツは強いマルクから弱いユーロになって大儲けしたが、フランスはフランすなわち通貨発行権を自分から放棄したのである。
ただし、ドイツは傲慢になって、「安く使う」パターンを中国にも延長し、あんまり儲かるために自分から原発を放棄して「良い子」を装った愚策をすすめたのだった。

このドイツパターンをいくのが、「自・公・立憲共産」政権の社会主義である。
4日、その自民党の新総裁に「初の女性」というだけでしかない、高市早苗氏が選出されたというが、このひとへの不信については何度も書いてきたとおりである。

日本国民が要求すべきは、解散総選挙に尽きるから、石破首相の最後っ屁に期待している。

いま、フランス政治が危機にあるのは、マーストリヒト条約で定められた財政赤字レベルが「違反」状態になってしまったので、緊縮財政をしようにも左右双方から議会が許さないので、ドン詰まっているのである。

もう、アメリカや日本のように「国債」を発行して、「ドル」や「円」を得ることができないフランス政府は、EU本部やECB(ヨーロッパ中央銀行)に泣きつこうが、「条約」を盾にとられて聴く耳もないけんもほろろなのである。
マクロン政権だから、ではないところが大問題なのである。

そんなわけで、フランスはユーロを放棄して自国通貨に回帰するしか選択肢が残っていない。

つまり、EU脱退の一択なのである。

いつこの崩壊が起きるのか?
もはや時間の問題になっていて、プーチンがじっと観察しながら「対策」を練っていることだろう。

わが国としては、トランプ大統領に「ヨーロッパ放棄」をうながして、東アジアへの一点集中を懇願しないといけないまでのヤバさがある。
けれども、各国ファーストでやれといわれる可能性が高いので、どうする?になっているのである。

これに対応する能力は、高市政権にあるとは思えないのがいかんともしがたいのである。

残酷な時代の光

ずいぶん前、中年になって若い部下に、何気に「時間って残酷だよね」といったら笑われたことがある。

自分もこのひとの年齢でおなじことをいわれたら、おなじ反応を示しただろう。
若さとは、時間が永遠だと勘違いできる人生の幸福な時間帯の一部なのである。

日本人は、学校で「日本史」と「世界史」をわざと別々に扱っているために、世界=ヨーロッパ(列強)に遅れていると思い込まされている。
しかし、よくよく調べると、文化的には日本が先進国でヨーロッパが後進国だったことは間違いないし、いまもヨーロッパは文化的に日本に追いついていない。

シュペングラーの『西洋の没落』の帯には、文化の廃退が文明を起こし、文明の廃退が治乱興亡の原因となってやがて終焉を迎える、とある。
この例外的な国がわが国で、あんがいと日本文化はしぶとく残っていて、日本文明に堕ちたが西洋文明の絶望とはちがって、いまだに踏ん張っているのである。

物質文明という一点で、いっときヨーロッパが先行したが、それも日本が素早くキャッチアップして今に至っている。
これができたのは、江戸期の文化が華咲く安定のおかげである。

この現象を、エマニュエル・トッド氏が人類学における家族構造をもって説明している。
それはあたかも、日本研究にたどりついたレヴィ・ストロースの再来をおもわせるのである。

英・仏は、基本的に核家族を基本としてきた民族なので、英から派生する米国も似た構造になる。
英・仏とは犬猿の仲だったドイツは大家族を構成していたし、イタリアもマフィアのファミリーをみればわかるように家族主義なのである。

なので、日本が独・伊と同盟したのは、特異なことではない。

東ドイツ出身のメルケルがロシアと組もうとしたのも、ロシアが大家族主義を共産政権下でも曲げなかったことに由来する。
すると、日本とロシアも本来的には親和性が高いとわかるし、中国の農村部も同様なのである。

なお、中国は農村部から都市部への移動には本来「国内パスポート」が必要なので、都市部は農村部からしたら「別世界」であることに注意がいる。
むろん、彼の地の農村部には少数民族が政府が認定している数で「55」もある。
ちなみに、広大なロシアには200以上の言語がいまも使われている。

ところが、中国も、ロシアも、「少子化」が深刻で、両国ともいまや政府発表でも特殊出生率はわが国と同じ1.4になっているために、将来の人口減少は避けられない。
それで、ロシア軍は貴重な若者を消耗する、スターリン時代の強引な人海戦術を用いずに、「北」からの兵員を受け入れたのである。

現代の危機すなわち、生活者にとっての残酷とは、宗教を失い社会規範を破壊した「市民社会」が、あたかもローマ帝国における「平民」に堕ちたことによる。
ローマの平民は、周辺属国からの搾取で生活していたので、周辺属国へのコントロールを失ったら、滅亡しか道がなかったのと似ている。

東・西分裂の原因というゲルマン人の大移動しかり、東ローマ滅亡のトルコしかりである。

気がつけば、世界の生産力は、日本を含む西側諸国から、BRICsへと完全移行している。
なんと、西側諸国は、ただの「お山の大将」に過ぎなくなっているのが「現状」なのである。

しかし、いったん移転した生産力を元に戻すことの困難は、たんに投資だけの問題ではなく、労働への価値回帰という、より感情的な困難が立ちはだかるのである。
すでに、「平民」に堕ちたかつての市民あるいは庶民は、労働を棄ててカネを得る方法に価値を見出してしまったからである。

ことにアメリカの困難は、基軸通貨ドルの無限の発行による「信用創造」に依存したために、労働が絶望的な価値となって、とうとう自暴自棄なひとたちが多数になったのである。
それが、かつての「WASP:白人、アングロサクソン、プロテスタント」の崩壊による、白人労働者層であって、彼らは有色移民に労働者の地位を奪われてしまい最下層になったのだ。

そして、この共産化した最下層を煽っているのが民主党なのである。

副大統領に抜擢された、J.D.ヴァンスの出生がその最下層だったから、哲学の学位を持つJ.D.ヴァンス氏が、どういった社会復興回帰策を打ち出すのか?あるいは、打ち出せるのか?が21世紀後半の人類に及ぼす影響が注目される理由である。

明治期でも、戦後の高度成長期にも、経済成長を牽引したのは、ぶ厚い中間層=労働者層の存在であったように、中間層の育成は経済成長の基として世界的な原理となっている。
わが国は、とっくに江戸の都市部と農村部で、横溝正史手塚治虫が描いたようにすでに別世界であったのも、家族構成による文化の基盤があってこそなのである。

ここから、社会を混乱させるには、中間層の破壊=意識的な政策としての没落こそが、もっとも効果的なのである。
よって、経済単位の基になる家族破壊のための政策が急いで考案されて、選挙の争点にさせないまま「法律」にする手がつかわれている。

この破壊がいま日本を含む西側先進諸国で功を奏しているために、貧困化と格差拡大の残酷な時代となっている。
これを抜けるには、少子の時代の貴重な子供に従来の学歴追及をさせることではなく、戦後放棄した「人間教育」なのだが、特権階級と化した支配層に不都合なためこれをさせないでいる。

しかして、中間層の労働意欲に頼るのも順番がちがっていて、そもそも職場の提供がなければはなしにならない。
先進国から職場が消えたのは、リカードの「比較優位説」をそのまま無防備に実行し、「要素価格均等化定理」が作動したからだ。

あるべき準備は、科学技術教育の強化によるエンジニア育成が一番なのだが、手を汚さずに稼げる弁護士やら金融に「稼げる」という理由で人材を抜かれている。
しかし、A.I.が、これらの業務をこなすようになれば、いずれは困窮化が待っているのである。

その意味で、文明のマザーたるA.I.の開発エンジニア、あるいは、どうしてもセンサーが把握できないために、メカトロニクスを駆使しても再現もできない「(伝統的)手仕事」が現時点での最強職になるのではないか?とかんがえるのである。

能力主義は略奪を正当化させた

economyを「経済」と翻訳したのは、『論語』より古い古典の「経世済民」からとったのをいう場合と、江戸期の儒学者のひとり太宰春台がとなえた『経済録』をいう場合とがあって、意図からすれば太宰の説をもって語源とすることが多いようである。

これから、「国民経済」という概念がヨーロッパから舶来品として輸入されて、和魂洋才のひとつとなったのではないかと推測する。

しかし、バブルの浮かれた気分をもって「和魂」を完全放棄した日本人は、「洋才」だけに依存して、売国をふつうに冒しても選挙で落ちる憂き目もなく、国民の無関心がこれを増長させていまに至っている。

政治は汚いものだから一般人は近寄ってはいけないという大宣伝で、潔癖症の国民を遠ざけたのは、「女性に選挙権付与」に対する大反対をして、シャンゼリゼ大通りを埋めた当時の女性たちと同じ理屈なのである。

それは、子供を産む神聖なる女性に、政治などという浮世の汚泥をかぶせるな!汚いことは男がやれ!だった。

こうした宣伝活動を担ってきたのが、「経済新聞」を名乗る機関であって、一般紙の『朝日』、『読売』、『毎日』よりも、よほど日本人の脳にダメージを与えてきた罪は重いとかんがえている。

その意味で、この「新聞」を装った印刷物を「よくよむ」と、経済音痴になるばかりか世間しらずになることまちがいない。
それでしっかり真面目に読んでいる、高級官僚は、その頭脳の単純さゆえに、まったくもって全面的に信じ込んでしまうという恐るべきことが起きるのである。

ここでいう「高級官僚」とは、企業内官僚も含むので注意がいる。

それで、バブルの頃から「成果主義」とか「実力主義」といった言葉が、あたかも「年功序列制」を破壊するためのプロパガンダ・キャンペーンとして、大学生の就職活動インタビューで飛び交い、無邪気にも彼らが「実力主義の企業を志望する」といえばキャンペーンに沿った発言として持ち上げられたのだった。

しかして、日本企業は、植木等の映画がヒットしていた頃からも、しっかり「実力主義」だった。
なんとなく昇格する年功序列の限界を突破し、同期や先輩たちを抜き去るには、相当の努力を要したと同時に、トップ層から好まれるという絶対条件も同時に満たさないといけなかったのである。

だが、世がグローバル化の洗礼を受けて、様相が変化する。

当たり前が忘れられて、あたかも高級な理論が先になった。
ために、経済の本質が「生産」と「生産者」にあることを無視して、計算根拠がない「サービス」にも価値があるかのような錯覚に陥った。

バブル後の不良債権処理における「ハゲタカ」の活躍が、あまりにも鮮烈だったのは、ここまでの「虚業」の活躍を日本人は見たことがなかったからである。

「銀行員」というエリートはいたけれど、どこか頼りげのなさがあったのは、それが虚業のカネ貸にすぎない、という「実業」からの蔑視があったからでもある。
かならず担保をとったので、銀行を「質屋」といって揶揄していたけど、バブル後にも金融庁が不動産担保を要求したので、お上お墨付きの質屋になった。

だからむかしは、経営者のことを経営者とはいわずに「実業家」と呼んでいた。
ここに、虚業家が入る余地がなかったのである。

生産者をいじめ抜いたら、とうとう米不足になったが、政府はなんと気候変動のせいにした。
前年の作柄指数が「101」でも、天候不順のための不作だとマスコミに宣伝させたのである。

レジ袋を法律を変えずに省令改正だけで有料にする暴挙をやってのけた総裁候補の若者が失脚しないのは、有料化で儲けた小売大手が支えているし、コメでまた儲けさせてもらった恩を返せと迫られているのだろう。

農家の票より流通・小売の票が優先されている。

しかして、このおそらく知能の低い人物は、作り手がいなくなることの大災害に思いをはせるだけの頭脳がない。
そんなオオボケたちの集団が「エリート」だとして、世界中の国々で混乱を引き起こし、農民一揆やらデモ隊と衝突しているのである。

これをメリトクラシー(能力主義)が理想とした、不平等社会の終焉といえる。
強者が弱者から収奪する、ヨーロッパ貴族の伝統が、いよいよ行き詰まってきた。

カネさえ出せばなんとかなる、という富裕層も、モノがない恐怖を想像できない。
ないものはどんなにカネを積んでもないし、その逆もまた真なのである。
ない袖は振れぬと、むかしの日本人の方がこれをしっていた。

つまり、ここまできて、弱者と強者が逆転しようとしている。

生産者が強くなる時代がそこにある。

トランプ政権が繰り出すかしらないが、「株主優位」の体制を崩壊させる法案を議会に作らせるのではないか?
それが、RFK.Jrにやらせているビッグファーマの解体作業を嚆矢とするかもしれない。

新薬で儲けるために何人被害者が出ようが知ったことではない、という不条理への鉄槌である。

だから、経済のサービス化の時代も終わって、経済の実業化時代が始まるとかんがえれば、サービス業はなんらかの生産物と直結しないと生き残れないのではないか?

その典型が、食料だろうし、衣料なのだとおもわれる。

人心掌握と排除の理屈

人間が感情の動物ゆえに、本人も感情で支配されているし、他人との関係も感情が支配する。

「肉食の思想」からできている欧米人は、人間が感情の動物であることに気がついたのはあんがいと最近のことで、社会学がやった1924年から32年までの「ホーソン実験」でのことだから、なんとまだ100年ばかりのことなのである。

それでも前に書いたとおり、経済学やらはいまだにこの実験を無視して「経済人」なるありもしない人間をモデルに考察を深める愚を続けている。
そうした方が、理論をたてる上で便利だからだろう。

数学では、理論上で「定義」が説明なく無言で使われるルールがある。
たとえば、2の3乗=2^3=2×2×2=8について、なんで?とおもうことはないが、2の0乗=2^0=1とか、0の階乗=0!=1とか、5の2分の1乗=5^1/2=√5なんてなると、なんで?と聞きたくなるのは人情という感情による。

一方、天然=自然は、誰にも説明なしに「円周率」やネイピア数と呼ぶ「e」を持っていたが、後から人間がこの数字を「発見」した。
決して「発明」したのではない。
なので「e」のことを、「自然対数の底(てい)」とも呼ぶ。

アンモナイトの貝殻模様から、鷹が獲物を上空から旋回して狩る飛行コースも、「e」をグラフにしたのと同じ螺旋を描く。

それで、丁寧な教師は1回だけそれぞれの「なんで?」を解説して生徒にみせるが、以来、無言で使われるルールに従うことになって、聞き漏らしたり忘れると一生の不覚になったりするのである。

そんな肝心な注意(むかしは「耳の穴をかっぽじいてよく聞け」といった)をいわないで、さらっと説明して済ますから、数学嫌いを大量生産しているようにもみえる。

おそらく、いまの経済学はポール・サミュエルソン以来、高等数学を用いないと経済学者じゃないという恐怖から、数学の「定義」の説明を省くことだけを真似て、理論ぶっているのだとかんがえるのである。

さて、世の中一般に「経済人」という幻を信じさせるようにして、議論の基盤に欺瞞をもっているので、「合理」に固まった人間ほど人心の把握に苦労することになる。
すくなくとも、2の0乗=2^0=1とか、0の階乗=0!=1とか、5の2分の1乗=5^1/2=√5を説明するよりすっと「理不尽」な要求をするからである。

儲けの効率追及を「経済学」だとすれば、その祖のひとりアダム・スミスは、『国富論』だけが有名だが、この著作の前提としてスミスは『道徳感情論』を世に出している。
ホーソン実験をわざわざしないでも、人間は感情ある動物だ、としていることを読まずに、『国富論』の「神の手」のフレーズしか読み込まなかったのだろう。

しかし、ここで重要なのは、「経営学」の方が「経済学」よりもはるかに先に、「儲け」についての哲学をしており、その前提のひとつに『道徳感情論』があることすら意外な盲点になっているのである。

つまり、資本主義には「道徳」の要素が不可欠なのである。

これをわざとか忘れたふりをして、経済学者が資本主義経済を語る滑稽が続いている。
ここで、わたしの個人的主張をいえば、資本主義は未完成どころのはなしではなく、アイン・ランドがいう「資本主義とは未来のシステム」に同感するばかりなのである。

ただし、アイン・ランドは日本史をしらなかったとおもう。

江戸から明治の日清・日露、そして第一次大戦前までのザッと200年間、日本は世界で唯一の「資本主義」を達成していたとかんがえるのは、そこに「道徳」が基本にあったからである。
これが、「大戦景気」で吹き飛んで以来、世界はどこにも資本主義をみていない。

近江商人の「三方よし」の思想は、鈴木正三石田梅岩らの功績による。

そんなわけで、道徳を失って、自分だけが儲ければいいという「ゼロ・サムゲーム」が常識になったら、いよいよ人心把握が困難になった。
経営者と会社と従業員という三方の利害が、バラバラになってしまったからである。
大阪商圏(関西経済)の衰退原因が、盲目的に東京に真似たことにあるのだとおもわれる。

それゆえに、肉食の思想に憧れたトンチンカンが外資から日本企業に流入し、権力行使を楽しむ「経済人」があらわれて、株式保有を根拠に「支配者」となった。
これに組織的に乗ったのが、自民党、なのである。

こんな浅はかな支配者は自分自身に「全権」があるかのように錯覚して、意に沿わぬ者の主張を聞いて調整の努力を惜しまない「むかしながら」のことに目もくれず、それを「非効率」と決めつけて、単純に「排除の理屈」を行使する。

あたかも、猫が捕らえたネズミをもてあそぶごとくである。

わが国の戦後史では、過去3度、「独立のチャンス」があった。
最初はアイゼンハワー大統領が言い出して、周辺に止められたときなので、日本(政府)はコミットできなかった。

二度目は、アイゼンハワーの弟子だったニクソンが大統領になったとき、あのキッシンジャーも同意したうえで、長期政権の佐藤栄作に何度も決断を促したが、独立だけでなく核武装もセットだったゆえに、腰砕けになったのは佐藤の方である。

ただし、国務省とCIAが猫の立場を棄てない努力をして、ニクソンを「ウォーターゲートの罠」にはめ、ご褒美として佐藤にはノーベル賞を贈ったのである。
大統領が官僚に支配されている状況が、ここに確認できる。

いま、三度目のうちの二度目がおきている。
トランプ政権1.0で、安倍晋三が佐藤栄作の役を演じ、トランプ政権2.0で、完全に国務省とCIAの官僚に支配された日本が、自分ではにっちもさっちもいかない姿を晒している。

自分でかんがえる辛さから逃げたいのは、10代で勉強地獄を味わった反動なのである。

逆にいえば、トランプ政権2.0でさえも、アメリカの官僚組織をコントロールできないままでいるのだ。
このイライラから、トランプは高級官僚と戦争屋(=ネオコン)の癒着を「DS:ディープステート」と呼んだのである。

この空気感が日本の財界を腐らせたのは、日本企業株式の外国資本への解放・自由化という小泉純一郎&竹中平蔵の売国による。

さてどうしたら、「道徳」を社会に回復できるのか?

これが、もっとも重要かつ基本の経済復興=国民貧困化阻止のための「定義」なのである。