人心掌握と排除の理屈

人間が感情の動物ゆえに、本人も感情で支配されているし、他人との関係も感情が支配する。

「肉食の思想」からできている欧米人は、人間が感情の動物であることに気がついたのはあんがいと最近のことで、社会学がやった1924年から32年までの「ホーソン実験」でのことだから、なんとまだ100年ばかりのことなのである。

それでも前に書いたとおり、経済学やらはいまだにこの実験を無視して「経済人」なるありもしない人間をモデルに考察を深める愚を続けている。
そうした方が、理論をたてる上で便利だからだろう。

数学では、理論上で「定義」が説明なく無言で使われるルールがある。
たとえば、2の3乗=2^3=2×2×2=8について、なんで?とおもうことはないが、2の0乗=2^0=1とか、0の階乗=0!=1とか、5の2分の1乗=5^1/2=√5なんてなると、なんで?と聞きたくなるのは人情という感情による。

一方、天然=自然は、誰にも説明なしに「円周率」やネイピア数と呼ぶ「e」を持っていたが、後から人間がこの数字を「発見」した。
決して「発明」したのではない。
なので「e」のことを、「自然対数の底(てい)」とも呼ぶ。

アンモナイトの貝殻模様から、鷹が獲物を上空から旋回して狩る飛行コースも、「e」をグラフにしたのと同じ螺旋を描く。

それで、丁寧な教師は1回だけそれぞれの「なんで?」を解説して生徒にみせるが、以来、無言で使われるルールに従うことになって、聞き漏らしたり忘れると一生の不覚になったりするのである。

そんな肝心な注意(むかしは「耳の穴をかっぽじいてよく聞け」といった)をいわないで、さらっと説明して済ますから、数学嫌いを大量生産しているようにもみえる。

おそらく、いまの経済学はポール・サミュエルソン以来、高等数学を用いないと経済学者じゃないという恐怖から、数学の「定義」の説明を省くことだけを真似て、理論ぶっているのだとかんがえるのである。

さて、世の中一般に「経済人」という幻を信じさせるようにして、議論の基盤に欺瞞をもっているので、「合理」に固まった人間ほど人心の把握に苦労することになる。
すくなくとも、2の0乗=2^0=1とか、0の階乗=0!=1とか、5の2分の1乗=5^1/2=√5を説明するよりすっと「理不尽」な要求をするからである。

儲けの効率追及を「経済学」だとすれば、その祖のひとりアダム・スミスは、『国富論』だけが有名だが、この著作の前提としてスミスは『道徳感情論』を世に出している。
ホーソン実験をわざわざしないでも、人間は感情ある動物だ、としていることを読まずに、『国富論』の「神の手」のフレーズしか読み込まなかったのだろう。

しかし、ここで重要なのは、「経営学」の方が「経済学」よりもはるかに先に、「儲け」についての哲学をしており、その前提のひとつに『道徳感情論』があることすら意外な盲点になっているのである。

つまり、資本主義には「道徳」の要素が不可欠なのである。

これをわざとか忘れたふりをして、経済学者が資本主義経済を語る滑稽が続いている。
ここで、わたしの個人的主張をいえば、資本主義は未完成どころのはなしではなく、アイン・ランドがいう「資本主義とは未来のシステム」に同感するばかりなのである。

ただし、アイン・ランドは日本史をしらなかったとおもう。

江戸から明治の日清・日露、そして第一次大戦前までのザッと200年間、日本は世界で唯一の「資本主義」を達成していたとかんがえるのは、そこに「道徳」が基本にあったからである。
これが、「大戦景気」で吹き飛んで以来、世界はどこにも資本主義をみていない。

近江商人の「三方よし」の思想は、鈴木正三石田梅岩らの功績による。

そんなわけで、道徳を失って、自分だけが儲ければいいという「ゼロ・サムゲーム」が常識になったら、いよいよ人心把握が困難になった。
経営者と会社と従業員という三方の利害が、バラバラになってしまったからである。
大阪商圏(関西経済)の衰退原因が、盲目的に東京に真似たことにあるのだとおもわれる。

それゆえに、肉食の思想に憧れたトンチンカンが外資から日本企業に流入し、権力行使を楽しむ「経済人」があらわれて、株式保有を根拠に「支配者」となった。
これに組織的に乗ったのが、自民党、なのである。

こんな浅はかな支配者は自分自身に「全権」があるかのように錯覚して、意に沿わぬ者の主張を聞いて調整の努力を惜しまない「むかしながら」のことに目もくれず、それを「非効率」と決めつけて、単純に「排除の理屈」を行使する。

あたかも、猫が捕らえたネズミをもてあそぶごとくである。

わが国の戦後史では、過去3度、「独立のチャンス」があった。
最初はアイゼンハワー大統領が言い出して、周辺に止められたときなので、日本(政府)はコミットできなかった。

二度目は、アイゼンハワーの弟子だったニクソンが大統領になったとき、あのキッシンジャーも同意したうえで、長期政権の佐藤栄作に何度も決断を促したが、独立だけでなく核武装もセットだったゆえに、腰砕けになったのは佐藤の方である。

ただし、国務省とCIAが猫の立場を棄てない努力をして、ニクソンを「ウォーターゲートの罠」にはめ、ご褒美として佐藤にはノーベル賞を贈ったのである。
大統領が官僚に支配されている状況が、ここに確認できる。

いま、三度目のうちの二度目がおきている。
トランプ政権1.0で、安倍晋三が佐藤栄作の役を演じ、トランプ政権2.0で、完全に国務省とCIAの官僚に支配された日本が、自分ではにっちもさっちもいかない姿を晒している。

自分でかんがえる辛さから逃げたいのは、10代で勉強地獄を味わった反動なのである。

逆にいえば、トランプ政権2.0でさえも、アメリカの官僚組織をコントロールできないままでいるのだ。
このイライラから、トランプは高級官僚と戦争屋(=ネオコン)の癒着を「DS:ディープステート」と呼んだのである。

この空気感が日本の財界を腐らせたのは、日本企業株式の外国資本への解放・自由化という小泉純一郎&竹中平蔵の売国による。

さてどうしたら、「道徳」を社会に回復できるのか?

これが、もっとも重要かつ基本の経済復興=国民貧困化阻止のための「定義」なのである。


辞書から消えることば

10月になって、やっと涼しくなってきた。
地球の自転と地軸の23度もの傾きに、太平洋高気圧も逆らえない。

半年前の春、新学年のシーズンに国語辞典をいくつか「おとな買い」した。

とはいえ、『物書堂』というipadでの電子辞書をまとめているストアから購入した。
串刺しやらの紙の辞書にはない便利機能がつかえるだけでなく、春は年に一度の割引セールがあるからだった。

それで購入したのは、『明鏡国語辞典』(大修館書店)、『新明解国語辞典8版』(三省堂)、『三省堂国語辞典8版』(三省堂)、『三省堂国語辞典7版』(三省堂)、『日本語コロケーション辞典』(研究社)、『類語新辞典』(角川)、『品格語辞典』(大修館書店)、『無礼語辞典』(大修館書店)である。

おなじ三省堂でも『新明解』と『三省堂国語辞典』とは微妙にことなる編集方針なので、この「ちがい」を簡単にチェックできる。
さらに、版のちがいで、新規採用されたことばと消えたことばがどれかがわかる。

ちなみに、日本で一番売れている国語辞典は、『新明解』である。
この辞書にまつわる、赤瀬川原平の名著『明解さんの謎』は、抱腹絶倒となること必至なので、『元禄御畳奉行の日記』と共に電車の中で読んではいけない一冊である。

ほとんど趣味のようなはなしに見えるだろうが、相手が「ことば」だからあんがいと奥が深い。

とくに『三省堂国語辞典』の編集方針は、最新の「流行」に敏感な選択が実施されているのだが、それだけだと紙数の一方的な拡大となるので、泣いて馬謖を斬るがごとくの「廃り」にも敏感にならざるをえない。

わからぬように入れ替わっているので、旧版が欲しくなるのは神奈川県人ならしらぬ者はいない『有隣堂しか知らない世界』での超人気話題なのである。

それでみつけた「変化」の理由をかんがえるのが、これまた想像力を膨らませる。
たんに「廃れたことば」が、古いのか?というとそうでもなく、編集者も思いがけない社会変化が理由になることもあるだろう。

だから、意味を知るだけのために辞書があるのではない。

電子辞書も、専用機が廃れ、スマホ検索が主流なのだとおもっていたが、やっぱり電子版とはいえ「ホンモノ」の辞書は役に立つ。

このことの強調が、『辞書から消えたことわざ』という本である。
「単語」ではなく、「ことわざ」だという点で、一層の社会変化を感じることができる一冊なのである。

毎日歩いている場所なのに、ある日店舗に空きができて、改装がはじまるとなおさらに元の店がなんだったのか思い出せないことがある。
人間の記憶とは、本人の都合によって変わるし、意思とは別に脳が勝手に記憶も変えることがある。

だから、写真とか地図とかの記録がないといけないのとおなじで、ことばもゆらゆらとしらないうちに変化するのである。
しかし、もっと大袈裟に、いや、深く追求すると、世界にはびこる「ニヒリズム」によって、伝統的な価値観が壊されていることの裏返しなのである。

それが、「ことわざ」が消えていく、という現象になるのは、「ことわざ」が特定の価値観を端的に示すことばだからである。

いま三省堂の2大辞典とも「第8版」が最新だが、いつ「第9版」がでても自分の人生に関係はないとおもって生きてきたが、意外な関係を見出すと「記録」としての価値が高まる。

この意味で、赤ちゃんが産まれたら一冊最新の辞書を購入しておくと、この子が爺・婆になるころには、おもしろい「記念品」となるであろう。
こういうものを親が揃えてくれたことの重みも伝われば、より結構なことである。

こうやって、ニヒリズムによる家族の崩壊を救えれば安いものなのである。