FBIのフルトン郡ガサ入れ

バイデンが現職のトランプをくだした2020年大統領選挙で、この結果に大影響を及ぼす「激戦州」のジョージア州最大の選挙区が、州都アトランタを含む「フルトン郡」である。

なぜ「大影響」なのかの理由も含め、詳しくは、「カナダ人ニュース」さんが報じている。

そこで、わたしが気になることを書いておく。

まず、トランプ政権2.0が発足して、まる1年以上となった「このタイミング」が引っかかるのである。
何度も書くが、トランプ政権は日本の報道ではぜったいにわからない「用意周到」を看板にしている。

むろん、トランプ氏は、生き馬の目を抜くともいわれる「ニューヨークでの不動産業」を成功させた大経営者であることを忘れてはならない。
そのキャラクターが、あまりに「いけず」なので、ついうっかり「暴言癖」として失笑を買うようなことがあるが、これもわざとの「いけず」である。

それに加えて、トランプ氏は6本もの映画に出演している「役者」なのだ。

さて、この政権の参謀長にして司令塔は、スティーブン・ミラー大統領副首席補佐官である。
おそらく、スーザン・ワイルズ大統領主席補佐官は、予算と人事を司っているとおもわれる。
つまり、「軍」における組織とおなじで、「軍政:国防総省にあたる」がワイルズ女史、「作戦:統合参謀本部」がミラー氏という役割になっているかとかんがえる。

これまでは、フルトン郡やジョージア州に対して「裁判」を仕掛けていて、その都度、民主党勢力に支配されている「郡」が反論して、埒が明かない状態だったのである。
ところが、その「反論」をもって、合気道がきた!

過去の郡のいい分が、今回のFBIのガサ入れについての「連邦地裁からの捜査令状」となっているからである。
不思議なことに、連邦地裁は令状をそのまま画像発表したが、根拠となる「申し立て」についての情報を公開していない。

だから、なんの捜査目的なのか?つまり、犯罪容疑がわからないことになっている。

むろん、「選挙不正」にちがいなのは、提出命令をした資料がぜんぶ、投票用紙のオリジナルやらであるからだが、これも随分と前の「判決」で、「保全命令」が出ていたことの成果なのである。

しかも、ベネズエラのマドゥーロ夫婦を拘束した意味がここで明らかになる。
投票機「ドミニオン」の秘密を証言しているだろうし、さらに表サイドではあのシドニー・パウエル女史がいよいよこのタイミングで司法省に呼ばれ証言をはじめたのである。

すると、トランプ政権2.0は、壮大な「追い込み猟(漁)」をやっていたことがわかる。

狡猾なフルトン郡も、ジョージア州州務長官室も、Republican In Name Onlyの州知事も、勝ったと思い込まされた裁判が、じつは「壮大な罠」のひとつだったことにようやく気づいたのである。

だがもう遅い。

ときに、もしもトランプ氏勝利、が判明しても、いまさらどうにもならないことである。
けれども、「不正」の事実が、「アメリカ合衆国史」に永遠に刻まれることとなり、この不正の当事者たちには、「民主主義の裏切り者」という不名誉のレッテルが、末代まで貼られることとなる。

それもこれも、オバマ=バイデン=クリントン系列の一網打尽への布石なのであろう。

当然だが、11月中間選挙に期限の設定がある、「プロジェクト」なのだ。

やっぱり東大は「ポンコツ」だった

医学部の教授が昨年11月と今月24日と連続で揃って「収賄」の疑いで逮捕されたことで、27日付けにて、東大病院長が引責辞任した。
次いで、28日には、藤井輝夫総長が記者会見し、24日に逮捕された教授を懲戒解雇し、自らの役員報酬を1ヶ月、50%カットするとした。

この決定の経緯がまったく公表されていないし、腐ったマスコミは取材もしない。

自公政権の支配が長い、文科省による国立大学の「国立大学法人」という名の「半官半民」体制としながら、文科省が運営交付金支給の裁量権を握るという、官僚の権益のための「改革」が実行されたのは、2003年の「国立大学法人法」成立であって、施行が2004年4月のことだった。

ときの政権は、小泉純一郎内閣で、9月まで遠山敦子が、その後は河村建夫(引退後の山口3区は、林芳正が参議院議員から移ってきた)が文科大臣だった。

ちなみに、遠山敦子は東大法学部卒だが、同学部で当時の新入生の紅一点でもあり、卒業後の1962年は初の文部省女性キャリアとして生粋の官僚人生を歩んだ。
なので、入閣も「民間」扱いである。
その甲斐があってか、2014年には旭日大綬章をうけている。

さてそれで、従業員の不祥事でよくある上司や経営者の「謝罪」では、官憲による「逮捕」の事実を受けてされるものが、わが国では常識になっている。

これをどう評価するべきなのか?

近代法の大原則に、「疑わしきは被告人の利益に従う」の原則があって、逮捕されたからといって司法の判断で「有罪」となるまでは、あくまでも「容疑者」なのである。

それゆえに、欧米では、逮捕=即不祥事=犯罪者、とはならない。

むしろ、もしも万が一冤罪であった場合、本人の不利益を回復することができないからである。

しかし、わが国では、逮捕=即アウト、となって、社会的責任を本人が負うと同時に、直属の上司も「管理責任」を負うためになんらかの処分の対象となることが、「慣例」となっている。

つまり、厳しい、のである。

むろん、事件当事者が、わが国の最難関にして「神話」化されている、最高学府(大学の中の大学)たる、東京大学教授(しかも「医学部」)、なるこれ以上ない肩書きをもっていることを想像させる、それだけで十分ある「特権」を、もっと強い「煩悩」の要求に負けたことに、世間の関心が集まることになったのである。

そこで、この際、悪弊としての「厳しすぎる処分の慣習」を、東京大学だからこそ打ち破り、おとながやった煩悩の始末はあくまでも本人の責任である、といった見解をだすチャンスでもあったといえる。

それを、工学博士たる総長には、やっぱりできなかった、のである。

国立大学法人法でいう、国立大学は、実質的に民間のような経営体を想定されているために、経営とはなにか?経営者とはなにか?を生涯で一度もかんがえたことのない人物(=研究者)が、学内選挙という、およそ「法の精神」とはかけ離れた方法を旧来通り続けていることの理不尽さえも気づかない集団が「教授会」だとも世間にしれることとなった。

おそらくは、東京大学法学部を卒業してすぐに弁護士になったOBを経営顧問に据えていて、あくまでも「一般例」からの判断をするように、アドバイスした結果なのであろうと推察する。

すると、法人としての東京大学を経営しているのは、学内で選挙をやった結果としてのボードメンバーではなくて、外部アドバイザーが経営しているというお粗末な構造がハッキリする。
そこに、カネ付けをしているのが、文科官僚なのだ。

となると、病院長も、総長も、みな、誰でもいい人形なのだとわかる。

国移民として唖然とするのは、こんな構造が全国の国立大学機構にコピーされていることであって、今年もまもなくはじまる「受験」のおそろしいまでの「軽さ」に背筋が凍る。

まさに、『商業化する大学』の教科書通りになっているのだが、これを東大でも、文科官僚でも、さらには政治家も読んでいる者がいない、という知的廃退が現実になっているのだった。

また「政府閉鎖」をかんがえる

今年度の国家予算(2025年10月〜2026年9月)が、まだ決まっていないアメリカで、昨年に続いてまた「政府閉鎖」がありうる事態になっている。

今回も、連邦上院民主党が「反対」すると、チャック・シューマー民主党上院リーダーが宣言したからである。
理由は、不法移民の強制退去をすすめる連邦政府職員が所属する「国土安全保障省への予算停止」を要求していることにある。

民主党バイデン政権では、国土安全保障省こそが積極的に大量の不法移民を呼び込んだのであるから、主張に「一貫性がある」といえばそのとおりなのである。
むろん、不法移民による犯罪やら、不法移民は生きるために奴隷的労働も受け入れるので、過去からの正規移民の職を奪うことによる失業問題も深刻になっている。

それゆえに、2024年大統領選挙では、民主党支持者の鉄板層だった、黒人やヒスパニック系のひとびとによる、トランプ候補支持が拡大したのだった。
結果、トランプは白人至上主義者だ、というネガティブ・キャンペーンとは裏腹に、万遍ない人種層からの支持をうけて当選するに至ったのは事実だ。

ここにきて、そんな民主党が党を挙げて不法移民の摘発・強制送還に体を張って抵抗し、死者まで出しているのは、おそらく、ソマリア系移民による大規模な社会福祉詐欺へ社会的関心を向かわなせないための妨害が目的ではないか?と疑われている。

ただなんとなく、ではない、ハッキリとした意志が民主党の不法移民大量受け入れ策だったのは、そのまま選挙権をもたせ、あるいは選挙投票に身分証を提示しないでよいとすることでの、永久政権、を民主党が目指したともいわれるのは、自然増で共和党にかなわない「人口減少問題=結婚や家族の崩壊」を民主党の支配する州が軒並みかかえているからである。

これらの「問題」も、民主党のいわゆる「進歩的ジェンダー政策」が引き起こした、身から出た錆であり、民主党の支配を全面的に受け入れた岸田文雄政権がコピーしたのも意識的であった。

そうやってかんがえると、わが国の役所で、アメリカの国土安全保障省のように裏返して「廃止」をいってもいいのは、「こども家庭庁」になるだろう。
2026年度予算案では、7.5兆円もの規模で、4年前の2022年の防衛省予算5.4兆円よりも多い(現予算案では9兆円に増額)。

つまり、わが国で、アメリカ民主党のように破滅的な予算組みを意識的にやめないのは、自民党なのだとわかる。
あたかも、財務省がコントロールしているがごとく信じるのは、政府中枢の意志決定における役人の存在の小ささを買いかぶっているのである。

逆に、役人悪者説、は、自民党が流すプロパガンダだ。

それにしても、政府閉鎖になるのは、予算編成権が大統領=行政府ではなくて、立法府たる連邦議会にあるための「副作用」なのである。

また、予算を人質にするやり方も、議会中心の民主主義をもってするための「政治闘争」なのある。
そうやって、迷惑=痛みを被る国民は、選挙における投票行動で意志表示することの意味をしるのである。

ゆえに、ドイツ人は、かつてやった大失敗の「全権委任法」で、亡国の痛みをしった。

あまりにも大きな命がけの悲惨に懲りたのであるが、そのドイツ人が豊かになって漫然としたら元の木阿弥になっている。
一方で、日本人はまだ全権を委任していられるのは超鈍感だといわざるをえない。

25日の「福井(知事選挙)ショック」で、すこしは目が覚めるのか?

どうする?「中道」の解釈

左(翼)でも右(翼)でもない、真ん中だから「中道」というのなら、ちょっとまった!がはいる。

わが国の政党で、「中道(政治)」をいったのは、かつての「民社党」と「公明党」であった。

民社党は、民主社会主義をイデオロギーとする「修正主義」を標榜していた。
ドイツでは、「社会民主党(SPD)」がそれだが、前身は「ドイツ社会主義労働者党」である。
ただし、ヒトラーのドイツ社会主義労働者党は、後々の組織で、SPDに至るものとはちがうので注意がいる。

とはいえ、この古い方のドイツ社会主義労働者党から共産党が分かれるので、「社会主義」政党である。

わが国では、社会党の右派から分裂して「民社党」がうまれている。

一方で、「公明党」は、「日蓮正宗」の在家団体であったものが、1991年に正宗側から「破門」された創価学会を母体とする政党である。
日蓮宗と日蓮正宗にもちがいがあって、日蓮宗の本尊が「大曼荼羅」に日蓮聖人の木造や釈迦如来などを祀るのに対して、日蓮正宗は、仏像を用いずに「文字曼荼羅」のみとしている。

いわば、偶像崇拝をしない、という点で、イスラム教的なのである。

それだから、公明党が民社党のように、「中道」を標榜したのには、宗教的な意味としてのちがいがあったはずだが、本稿冒頭のような「解釈」となったのはおかしなことではある。
なぜならば、仏教用語としての「中道」は、まったくことなる概念をいうからである。

かんたんにいえば、苦と楽、有と無、好きと嫌い、といった両極端ではない、すなわち執着の煩悩から解放されて悟り(涅槃)に至る高度な「道(八正道)」のことをさすのである。

そうなると、たとえばドイツなら、「保守」といわれてSPDと政権交代を繰り返した「キリスト教民主同盟(CDU/CSU)のような立ち位置が公明党には相応しいのであろうが、そうはならなかった。

これも「在家団体」だからとはいえないのは、ドイツにおけるキリスト教徒は、おおむねプロテスタントだからである。
むしろ、創価学会の排他性が「国民政党」に成長できなかったゆえんであろう。

それでもって、解散に対応するために、衰退の危機に怯えて急遽野合した、「中道改革連合」とは、真ん中に「改革」を挟んだサンドイッチ構造にみえる。
「連合」は、旧立憲民主党の支持母体の労組であるし、「中道」は、上で書いた旧公明党のかつてのキャッチだからである。

しかしながら、「中道」が、民社党がいっていた意味になっているので、旧来の民社党が名前をかえた国民民主党へのあてつけなのか?なんなのか?が不明なのであるし、「改革」なら「痛みを伴う改革」をいう、維新を連想させる。

つまり、「自・公・立憲」政権の従来型に、維新を取り込んでなお、国民民主も仲間入り?にさせるといった、「大野合」の準備をやっているようにしかみえないのは、あまりにも安易ではないか?

トランプ政権2.0が仕掛ける世界規模の「追い込み猟(漁)」について行けないのではなくて、食われるばかりの「撒き餌」になっているのが哀れなのである。

「選管」が壊れている

今日27日、衆議院議員選挙が公示される。

アメリカでは、バイデン・ジャンプで有名な2020年大統領選挙の「不正」が証拠付きで暴かれている。

あの当時、「不正はない」といっていた言論人は、自身の発言をケロッと忘れたふりをして、いまでも悪びれずに上から目線の言動を続けている。

ふつう、これを「厚顔無恥」といい、「ウソつき」と評価されるものだ。

「民主主義」を実現するための根幹にある方策は、「選挙」である。
しかし、その選挙が不正によって歪めば、政治が歪み、国家が歪む。
ゆえに、国民生活が歪むのである。

むかしの「選挙違反」は、たいがい候補者がからんだ「買収」だった。

しかし、いまは、選挙管理委員会が堂々と不正誘導をしている。
その背後に、選挙管理委員会を統轄する「総務省=旧自治省=旧内務省」がある。
大臣以下の政治家は、6人いる。

大 臣:林 芳正(山口3区:下関市、萩市、長門市、美祢市、山陽小野田市、阿武郡)
副大臣:堀内詔子(山梨2区:富士吉田市、都留市、山梨市、大月市、笛吹市、上野原市、甲州市、南都留郡、北都留郡)
副大臣:高橋克法(参議院議員、栃木県比例)
政務官:中野英幸(北関東ブロック、埼玉7区:川越市、富士見市)
政務官:梶原大介(参議院議員、高知県比例)
政務官:向山 淳(北海道ブロック、北海道8区:函館市、北斗市、渡島総合振興局、檜山振興局)

さて、今回の衆議院議員総選挙で、神奈川県内の一部の選挙管理委員会が、解散から公示日までの期間が短く、しかも急すぎて入場整理券の発送が「間に合わない」ことを理由に、厚木市、海老名市、愛川町、清川村では、運転免許証やマイナンバーカードなどなどによる「本人確認を行わない」で期日前投票を受け付けることが報道された。

これよりも前に、同様の質問に山口県選挙管理委員会が「よくある質問」で、「公職選挙法上は、必ずしも写真付き身分証明書の提示による本人確認を求める規定はありません。」との回答をしている。

むろん、入場整理券がなくとも投票できることは重要だが、受付で「本人確認を要しない」とはなんのことか?

これぞ、アメリカ民主党が主張する「選挙の自由」だとすれば、噴飯物である。

問題なのは、山口県選挙管理委員会がいう「法的に定めがない」のであれば、歴代の総務大臣以下6人にあたった国会議員は、「公職選挙法」における「本人確認の義務」改正をすみやかに発議する、これこそ「義務」があったのではないか?

つまり、大臣やらの政府職員に就くことではなくて、ベースにある国会(立法府)議員としての職務怠慢が甚だしいと、責任追及されるべきものなのである。

さらに、21日には、小田原市長や都内の首長(多摩市長など)が、「業務が集中する時期の突然の総選挙を批判した」という記事がでている。

同情のかけらも感じない、幼稚な発言である。

こんな首長は、リコールの対象にすべきだ。

「選挙」の意味が理解できないのだから、自分が当選したことの意味も理解できていないはずである。

公正な選挙を約束する立場のものが、不正でもいい、というのは、完全なる「職務放棄」なのであるし、ましてや自分たちの都合で衆議院が解散できるともおもっているのか?

そらおそろしいことが、蔓延している。

高市政権は気づかなかった

23日、高市首相の意向をうけた衆議院議長が、「解散詔書」を読み上げて衆議院は解散された。

はたして、ほんとうに「解散権」なるものは、首相だけの『専権事項=伝家の宝刀』なのか?という議論が、そのまま憲法論議になるのは、「日本国憲法」自体に権能者とその行為をおこなえる時期などの条件が「ない」からである。

それで、戦後で初の解散をした吉田茂は、憲法69条の「内閣不信任案決議」を唯一の理由にしていたが、二度目の解散時には、憲法7条を基にしたので野党議員が、「違憲訴訟」を起こしている。

対して、最高裁は憲法判断を「せず」に、国民の政治判断に委ねられる、と逃げたことで、あたかも「7条解散=首相の専権事項」になったのである。
ようは、書いていないのだから判断できぬ」ということであって、衆議院の解散と憲法は、そのまま国民の責任とされているのである。

つまり、「憲法とは何か?」という根本問題についての、基本的な知識を教育する義務が政府にあるけれど、それをやると国民が賢くなるので「やらない」のは、戦時に捕虜などの身分を定めた「ジュネーブ4条約」にある、国民への教育徹底義務をいっさいやらない条約違反状態でも平気でいるのとおなじ構造である。

それはまた、原発の安全性が「法」で確保しているからと、スリーマイル島原子力発電所事故の教訓からできた、「マニュアル」輸入を、経産省が阻止したことのようなのだ。

想定外は想定しない。

これは、古代「言霊」の思想であって、言葉にしたら実現するから「しない」、「いってはならぬ」、「書いても読んでもならぬ」となっていて、昨今の事情変更にもかかわらず、「核武装」の議論さえもしてはならぬという論と、まったくおなじ論理構造なのである。

つまり、わが国は21世紀にしてなお、「古代宗教国家」のままなのである。

そんなわけで、今回の「解散に至る経緯」を俯瞰すれば、高市首相は、すくなくとも昨年末まで、「解散」をかんがえていなかったとおもわれる。
世界の表層でおきた「事件」は、イランのデモが12月28日あたりから燎原の火のごとくになったのと、3日のマドゥーロ夫婦の拘束劇である。

むろん、この間に、高市首相と岡田克也衆議院議員とのやり取りからでた「台湾発言」による中共の反発にどうするか?がある。
なかでも、6日に発表された、「レアアースの対日輸出規制」は、強いトランプ政権2.0からの締付けに対する「弱い日本」へのあてつけ制裁と理解すればいいだろう。

だが、これは日本経済には「痛い」どころではなくて、「失神をともなう激痛」となろう。

ようは、ここでの「解散」は、国内事情よりも世界情勢への対応に、石破政権で少数与党に落ちこんだ状態の巻き返しをしないと、対抗できない、といった発想がわいたのだと思われる。

しかし、昨年12月5日(日本時間)の、トランプ政権2.0が発表した、「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」に、高市政権が無反応だったことの重大さをいいたいのである。

ようは、上に挙げた昨年暮れからの一連の出来事は、このアメリカ合衆国国家安全保障戦略に影響されていることはまちがいない。
その「戦略」に従って、22日、ダボス会議に300人もの団体参加したトランプ大統領は、なんと、グローバル全体主義者を前に、「平和評議会=第二国連」の発足式までやった。

それに、22日は、アメリカがWHOを脱退した日となったのである。

だが、WHOは、昨年の年度負担金をアメリカが支払っていないことを理由に、「脱退を留保」しているのである。
これは、WHO運営予算の22%にあたる巨額だ。

わが国は、WHOからの脱退どころか、平和評議会への招待をうけているのに「参加」どころか、「無視」しているヨーロッパに同調しているのである。

高市政権は、あきらかに「外交オンチ」である。

これはこれで、解散しても変化が困難なのは、既存政党がぜんぶ「オンチ」だからである。

3月に予定の、「高市訪米」がどうなるのか?は、日本国民の政治選択に委ねられている、のである。

歴史に残る司法の自殺

21日、2022年7月8日の安倍晋三前首相が暗殺された件で現行犯逮捕された、山上哲也(当時41歳)に、求刑通り無期懲役の判決がくだった。

本件の「闇」について、本ブログではいろいろと書いてきた。

残念ながら、納得できる説明がほとんどないままに、裁判が進行し、なんらの疑問・修正もなく判決に至ったのは、法治国家としての記念すべき「逝去日」となったといえるだろう。

この点で、教科書でおそわる1891年の「大津事件」から、大幅どころではない、しゃれにもならぬ事態となっている。
すくなくとも、大津事件では津田三蔵なる警察官(巡査)が斬りつけた「事実」がある。

それで、相手がロシア皇太子だったことで、ときの政府(第一次松方内閣)は「大審院(いまの「最高裁)」に執拗な圧力をかけたが、これを児島惟謙(こじまいけん)院長(愛媛宇和島藩出身)がはねのけて「司法権の独立」をはたした、とならうのである。

安倍晋三氏暗殺の場合、二度発射した山上の手製銃が凶器だと確定しているが、週刊文春2023年2月8日号における「疑惑の銃弾」にあるとおり、物理的に本当に発射されても適中することがありえないものが、全マスコミの「打ち消し記事」によって、「なかったこと」になっているのである。

むろん、山上の手製銃も、凶器として疑われることはない。

つまり、銃の性能と、上下左右の発射角度のふたつの「物理要件」に、重大な疑念がある事件なのである。
これに、犯行を否認しない、山上被告の「精神的な要件」が加わっている。

しかし、なんといっても、物理的要件の問題がきわめて重要であるのは、本人が殺意を持っていたとする事実があったとしても、実行ができるのか?にはなしが戻るからである。

殺傷力のない武器をつかった、では、犯行は達成されない当たり前がある。

疑念を異論として排除し、これを報じないのが「全社」にわたると、国民はみごとに騙される。
このわざとらしいマスコミの対応が、状況証拠にもなるのであるし、奈良県警の杜撰な対応と、ふたりの執刀医の真逆な見解もなにもが、山上犯人説だけに寄せられている。

そこで、22日に「安倍元首相暗殺の真相を究明の会」が奈良弁護士会館で記者会見を開いている。
ここで、会長の弁護士は、検察、山上被告の弁護人、それに裁判官が結託しているとの疑惑から、それぞれを告発する予定であると語っている。

このこと自体が、「わが国司法にとっての大事件」なのだ。

安倍氏との個人的な友情をつくったというトランプ大統領は、二度以上、「複数形をもちいた真犯人=やつら」について言及しているのである。

これはこれで、在京の大使館やらからの「極秘情報」の報告があったやもしれぬし、そういうことを思わせぶりにしているのである。

さらに、判決に関する「世界の報道」も、蒸し返しになるのを避けるがごとく、以上の疑念には一切触れていないし、暗殺からしばらくは、世界の指導者たちのおおくが「哀悼の意」をSNS発信していたのに、今般の判決に対するコメントがぜんぜんみあたらないのも、「ずいぶん(冷たい)」なのである。

なんにせよ、安倍晋三氏の弟子あるいは政治的な後継者と「いわれている」高市氏は、地元の奈良が舞台になった事件当時から本件には一切の言及がなく、「沈黙のひと」を貫いている。

このことも、わたしには、この人物の「仮面下の素顔」を想像して怖くなる原因なのである。

『煩悩☆西遊記』の顛末

『チ。』本作について関連づけて書いたが、いよいよ本作の最終話(第13巻)をみたので書いておく。

読後感想としてはじめにあるのは、日本仏教とは、ほんとうに仏教なのか?なる疑問である。

昨年の正月に観たのは、1961年公開の大映が総力を挙げたスペクタクル映画『釈迦』であった。

ややこしくなるのは、「釈迦」と「釈迦如来」のちがい、である。

「釈迦」は実在した仏教の開祖(いまのネパール南西部ゴータマ・シッダールタ)、をさし、「釈迦如来」は、悟りを開いた後の「仏陀」になったお姿を仏像にしたもの、である。
それで、「仏陀」とは、悟りを得ることをさすので、特定の個人をさすのとはちがっている概念なのである。

ここに、入れ子構造があるし、一神教的「神」とはちがうのに、なんだか「神々」といった扱いと混同してしまうのは、西方のギリシア神話との交わりが関係しているのだろう。

だから、仏教をしるには、キリスト教など他宗教の知識がじゃまになるのである。

むろん、キリスト教も、ギリシア神話だけでなく、たとえば、キリスト教が普及するよりも古くから北欧に伝わる「妖精の森」といった伝説が混じって、さらに「天使」との関係とか、「精霊」とのちがいとかと、これもけっこうややこしいのである。

この意味で、あらゆる宗教が「宗教になる」には、超自然的な現象や奇跡を信じることが前提となっている。

オリジナルの『西遊記』自体は、仏教、儒教、道教やらをパロディとして扱っているために、存外に「無神教」的な文学作品なのであると前に書いた。
破天荒で、なんでもあり、なために、芥川龍之介が幼少時から愛してやまなかったことの重要性がここにある。

その芥川の後輩にあたる天才が三島由紀夫で、三島をして『家畜人ヤプー』を戦後日本文学の金字塔とまで絶賛せしめたのはなにか?を問うと、芥川龍之介の『西遊記』絶賛につうじるものさえ感じるのである。

想像力の爆発。

しかして、本作がどのような青少年・少女を対象としているのか?は、掲載が「少年サンデーGXコミックス」なので、10代後半からの男性層であるとかんがえられる。
すると、これは一種の「恋愛・性愛マニュアル」だけでなく、一種の「女性理想像」を埋め込む機能も想定されていないか?と勘ぐるのである。

つまるところ、「少子化対策」の根底を刺激する意図があるかもしれない、と想像を膨らませる。

作者の、クリスタルな洋介氏にきいてみたい。

いやいや全部がパロディーです、との返答があるやもしれぬが、それはそれで想定内である。

ところがまた、『乙嫁語り』との併読で、あんがいと強力な相乗効果があるのではないか?
こちらは、おとな向けではあろうけれど、意外にも集合論的に被っていないか?と期待したくなるのである。

英国の自滅とグリーンランド

結局のところ、トランプ政権2.0は、ヨーロッパの「再編」をやっている。

21日、ダボス会議2026年の年次総会にトランプ政権チームは300人という「団体参加」し、グローバル全体主義者たちを前に「徹底破壊的」な言動を押し進める痛快がある。
これに大批判展開する、23日付け日本経済新聞は、山上信吾元オーストラリア大使がいうように「読むに値しない」と自ら証明した。

ダボスの22日にトランプ大統領は、さらに第二国連と目される「平和評議会」を発足させたので、7日に発表した「国連脱退」の次のステップに入るスピード感である。

当然ながら、グローバル全体主義のプロパガンダ機関である日経新聞は23日付け別の記事で、「国連第一主義」を主張する「古さ」を披露しているようではあるが、このスピードについて行けないのがよほど悔しいのであろう。

これら一連の「反ダボス・セッション」を許可する、主催者たる世界経済フォーラムの側に何があったのか?

おそらく、彼らが散々ばら言っていた「多様性の要求」を順手にとって、拒否できない「合気道」で倒されたのだろう。

ずさんな屁理屈に、精密な理屈(=常識)で対抗する。

これも、ひとつのトランプ政権2.0による、得意の「いけず」なのである。

さて、東を意味する「アジア(古代アッシリア語の「asu」から)」に対して、西(日が沈む方向)を意味する「ereb」がヨーロッパの語源との説がある。

なんにせよ、狭い地域にさまざまな部族や民族がひしめいていたために、戦争が絶えないのもこの地域の特徴であったので、徐々に戦争のルール化がはじまって、それが「国際法」へと進化した。

なので、未来を描いた『1984年』における戦争は、計算からはじき出された「数」でもって、三つ巴の戦争被害を互いに「データ消去」することでの「実戦」からの進化をはかる思考になったとかんがえついたことに、恐ろしい合理性があるのである。

むろん、ここでいう「データ」とは、個々の国民の「生」そのものが数値になった世界をいう。

それで、国家がその「データ消去」をやりあうことの意味とは、互いの国民生存の監視システムの稼働による「平和」だというのである。

ところが現実は、「(国家)主権」という概念ができると、国際法はとたんに主権との争いになって、主権の上に国際法がある、という小説のようなわけにはいかなくなった。

その(国家)主権の源泉が、選挙による「民意」であるからである。

だが例外があって、徹底的なる敗戦の社会破壊で、連合国に占領された日本とドイツは、連合国の決定=国際法との認識に強制・訓練されたので、(国家)主権よりも、選挙結果よりも、上、に国際法があるように条件付けられたから、国益そのものが何か?すら曖昧になったのである。

その勉強エリートが集合しているので、日経新聞のような主張がまかり通る異常が起きても、おなじく教育訓練された国民が気づかない。

『1984年』を書いたジョージ・オーウェルのごとく「先進的な発想」をしたのは、みな、英国人(『ユートピア』のトマス・モア、『タイムマシン』のH・G・ウェルズ、『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリー)であることにあらためて気づくと、かんがえたことは実行される法則との連関から、とっくのむかしに英国のヤバさが予告されていた、ともいえる。

それが、保守党と労働党のグダグダで、大英帝国の末期には「福祉競争」による、「ゆりかごから墓場まで」を、両党が争って政権選択のテーマにしたのであった。
こうして、サッチャー政権の誕生までに、英国はとっくに社会主義国として破たんしたのであるが、サッチャーをしても「岩盤社会主義」を解体することはできなかった。

高福祉の甘い蜜に溺れた国民が、「民意」を発揮して、国家破たんの元凶たる高福祉をやめることができなかったからである。

それで登場した怪物極左のスターマー政権が、いまどきどんなに支持率が低かろうがたじろがないのは、英国をマルクス=エンゲルスが大英図書館で描いたとおりの理想的共産国家にするためである。

それが、トランプ政権2.0のアメリカと決別する覚悟でいることの、彼らなりの合理的帰結なのだ。

それだから、ロンドンの一等地、旧王立造幣局の広大な敷地に、アヘン戦争で痛めつけた国の末裔にあたる大使館建設許可となったのも、「英・中同盟」の時代になったことの目に見える現実である。

ところが皮肉なことに、「アメリア」という、英国内務省が製作した「思想教育用ゲーム:PATHWAYS」に登場する「悪役キャラ=反移民極右活動家」が、ネット上で大バズりして「われらがヒロイン」になってしまったのである。

政府の計画は失敗(裏目に出る)する、伝統的な自由主義の教科書的事例になった。

トランプ政権2.0は、英国の切り捨ては当然に、(西)ヨーロッパの切り捨ても意図しているから、双方での溝が加速度的に広がっている。

この現象が地図にあらわれて、グリーンランド領有問題になったのである。

だが、以上のことを念頭に、あらためて時系列をたどれば、ヨーロッパ(英国とEU)が先にアメリカに仕掛けていたことだとわかる。

ここにきてアメリカが内向きの「ドンロー主義」をいいだしたのは、そんなヨーロッパから追い出されたのがアメリカで、国家安全保障戦略にあるように引きこもることにしたために、東西の「経度」を棄てて、南北(アメリカ大陸)の「緯度」にこだわれば、自然とグリーンランドが地図にあるのだった。

「本国」のデンマークは、いまさらながらに「正統な領土」だとして、あたかも被害者づらをしているけれど、そもそもが、デンマークという国は「ヴァイキング」と切り離せない歴史があって、バルト海の入口にあることの戦略的位置づけは、やっぱり地図をみれば一目瞭然なのである。

内海たるバルト海の「外」にでては、イングランドやノルマンディー公国(フランス北部)にも軍事遠征し、征服者となったこともある、まさにヨーロッパの暴れん坊がデンマークだったのだ。

この歴史を、英国やヨーロッパのひとたちはしっている。

トランプ政権2.0のやり方は、いったん横暴な態度に出て、周りの反応を確かめると、徐々に現実適用する変化をみせるのが「パターン」になっている。
この点で、わが国周辺とは比較ならない「複雑さ」が、ヨーロッパにはあるので、北方領土問題とおなじ土俵でグリーンランドをみてはならない。

しかも、グリーンランドの先住民に対する、奴隷化、をデンマークはたかだか半世紀前まで、公然と行っていた闇もあるし、ナチス・ドイツに本国が占領されたときには、アメリカにドイツの手が及ばぬグリーンランド防衛と支配を、米国駐在大使の判断で「委託」していたのは、本国政府が消滅していた事情からである。

そんなわけで、6万人もいないグリーンランドの住民は、この「領有問題」をどうかんがえているのか?という、「民意」がとわれる当然があるけれど、だれも調べないのは何故か?ということが今後クローズアップされるのは必至だ。

はたして、「民意」はどこまでが有効なのか?という問題提起をしているのがトランプ政権2.0なのだといえ、それがまた、クリミア領有やウクライナ戦争のロシア側の主張と重なるので、おいそれと調べもしないし報道しないのがマスコミの悪知恵なのである。

ために、2026年のダボス会議に、トランプ政権2.0の重鎮たちが300人もこぞって参加し、グローバル全体主義に染まった聴衆を唖然とさせる発言を繰り返し、ナショナリズムの時代に振り子が振れているとアッピールしているのである。

こんな状況なのに、解散を決めたわが国の高市政権は、以上の動きに対応した言動をまったく発していないばかりか、選挙の争点すら提案がない。

まるで他人事なのは、トランプ政権2.0による、わが国政界再編の「あぶりだし」も、同時にはじまっているからなのである。

なぜなら、アメリカが「経度」ではないと宣言したことは、わが国の国家安全保障戦略の無理やり大転換をも意味するからである。

この意味で、公明党に吸収された立憲民主党の幹部たちの「安全保障上の発言」がコロコロ変わって定まらないのも当然なのである。

結局、「自主防衛」をするしか、選択肢がなくなったのである。

森薫『乙嫁』を読む

コミック音痴のおじさんが、このところ感心しているのは、世界評価の高さを裏付けるものがあると、いいかげんに今さらながら認識を新たにしたからである。

19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台としてアニメ化もされた『英國戀物語エマ』は、原作もまだ観ていないけれど、その表現のこだわりに関する評判の高さは、やっぱり気になるところである。

どうやら、英国人ばかりではない外国人ファンからの感嘆の声に、なぜ地球の反対側にいる日本人がかくも時代考証が完璧な、BBCでさえも制作できないような作品が描けるのか?があることも、十分に本作に挑みたい動機ではある。

しかし、そんな興味を超えたのが、中央アジアを舞台とした本作『乙(おと)嫁語り』であった。

いわゆる「スタン国」が並び、日本人に似たモンゴロイド系の民族(おおくはトルコ系)が住む地域ではあるが、サウジアラビアから東の広大なロシア大陸の縁に横たわるこれら地域は、残念ながら現代日本人にははるかに遠いエリアとなっている。

あの知の巨人、梅棹忠夫にして「中洋」と呼ばしめたのは、西洋と東洋の中に挟まれているからという「単純さ」が理由であって、だからといって何か濃い特徴を見出せないために、「アジアはない」という主張での文脈における地図上だけの記号としての表現であった。

たとえば、料理にしても、アラブの伝統料理と中国深部の料理は、ほとんどおなじ味がする。

コロナよりもずいぶん前に横浜中華街にあった、「大陸料理」の専門店は、ほとんどの客が日本人ではなかったから、まったく日本人向けのアレンジをしない、「本場」そのものの料理ばかりであったのだが、どうしたことか閉業してしまったのがいまだに残念である。

美味いか不味いかではなくて、わたしには20代前半に暮らした、エジプトを偲ばせるに十分納得のいく、「懐かしい味」が確認できたのである。

これを、シルクロードで繋がっている、といえば、ずいぶんと情緒的にはなるが、梅棹がいうように、真ん中が空洞同然なので、1000キロm単位での地点移動となる気分になったのが、十分に不思議が気がしてならない。

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」と万葉集にあるのは、アジアの「辺境」を歌ったのではなくて、中央アジアの香りが文字通りプンプンしていたのだとおもっている。

しかし、彼らは気候と地理条件によって、農耕ではなく遊牧の民だった。

いまでは、縄文時代が狩猟採取生活だったとはいえず、かなり早い時期から農耕=定住生活に移行していたことがわかっている。
遺跡のコメをDNA解析したら、もしや米作をはじめたばかりか普及したのは、縄文人ではなかったかと疑われだしている。

さてそれで、ディテールにやたらこだわることが『エマ』でわかっている森薫女史の本作も、中央アジアの女性と結婚のディテールにはまりこんでいて、民俗学的教養マンガになっているのである。

これは驚きとしかいいようがない。

日本人作家が、結婚や家族を中とした自分たちの生活文化を詳細に描いてくれて、はじめて自分たちの文化価値をしった、という評価は、公式見解だけでなく現地人たち多数の納得をえているのである。

それがまた、日本語学習熱につながって、若者世代の7割が簡単な日本語会話ができるようになって、とある国の教育省次官は、「時間の問題(20から30年後)には、わが国の第二公用語が日本語になる可能性が高い」と発言している。

政治的・歴史的につながるロシア語ではなく、政治的・歴史的につながりが浅い日本語の方が、「色がない」ことでの安心感があるというのである。

しかして、第1巻に登場する「乙嫁」は、スーパー・レディーである。

こんな嫁が欲しい、という感情が、「こんな」をはぶいて、「嫁が欲しい」になるだけでも、少子化対策になる。
将来の夢を少女にきいて、ほとんどが「お嫁さん」とこたえていた時代は、ついこの前のことであった。

家族の破壊が、政治によって急速に実行された「成果」が裏側に見えてくる、そんな作品なのである。