福利厚生費の扱いについて

なんとなくでも日付がかわれば、今日から新年度である。

このブログでは、「損益計算書」は企業経営に役に立たないと書いてきた。

では、なんのために「損益計算書」は存在するのか?といえば、ズバリ「納税のため」であって、これ以外の理由はない。
それで、キッチリ「計算書」という名前を冠している。

ようは、納税のための「計算書」なのである。

では、企業経営としての目線なら、どんな「計算書」が必要なのか?と問えば、一般にいう「管理会計」のことではあるが、もっと狭めた「経営会計」というイメージが正しい。
とくに、「管理会計」の教科書(たいがいが「公認会計士」が執筆している)にある、「損益分岐点(分析)」がでてきたら、それは「まゆつばもの」なので深追いする必要もない。

そんなものを「教科書」として出版できるのは、経営をしらない「試験・資格エリート」の厚顔無恥にすぎないからである。

ときに、福利厚生費には、「法定」と「法定外」の区分がある。

これもまた、「納税」のための計算書ゆえの区分であるから、経営の視点から観たら意味がない。
それで、「納税」をさせる立場の「国」はなにをかんがえたか?が本稿のテーマなのである。

むろん、政府のなかに珍しく正しいひとがいて、さいきんの確定申告では、「社会保険」の負担額のことを、「社会保険税」と表記するようになったのは画期的なことである。
従前までは、「料」として「掛け金」ぽく表記していたが、これではあたかも「返戻金」があるやもしれないと誤解をまねくので、ハッキリ「税」としたのは潔い。

当然だが、少子高齢化という社会現象のリアルから、政府の社会保障支出は増えるばかりとなっていて、国家予算はこの負担にあえいでいるのだが、福祉国家の「やめ方」のソフトランディング方法で「これ!」というものがないものだから、ズルズルと底なし沼にはまり込むしかない。

そこで、「徴収(取る)側の作戦」としてかんがえついたのが、法定外福利厚生費を無理やり減らしてこの財源を法定福利厚生費に回してはどうだろう?ということになったにちがいない。

むかし、会社勤めをしていたときに、「法定外」ならゼロまで減らしていいのではないか?といった人事の変人がいたことをおもいだすが、これぞ企業文化を支える根幹の経費であることを理解しない者がいたという苦いおもいでではある。

それで、なんでもできると自負する神がかりの「政府」の有能な役人は、「個人主義」を小学生時代から学校教育でたたき込むことにした。
そうやって、集団行動をよしとしてきた、一種の「パターナリズム」的な「日本的経営」の破壊を試みて、しっかり成功したのである。

なにごとにも「表・裏」があって、「パターナリズム」についても、そのいいところと悪いところの吟味をせずに、ただ「古い」として切り捨てたところに、浅はかな思考の残念がみえてくる。

今更復活せよと言い難くなったのは、たとえば、社員旅行、とか、社内運動会、あるいは社員やその家族のためのイベントで、これらはみな「家族的経営」の言行一致のたまものだったのであるけれど、ぜんぶの行事が「損益計算書での利益にならない」ので、精神的な絆としての効果を測りようがないとして切り捨てることができるようになったし、なによりも、参加者たちが「バカバカしい」とか「休日が潰れる」と不満をいって拒否するようになった。

こうしたことで、以前はいったん就職した企業を離れることは、あたかも家族への裏切りにもみえて、労働の流動性を妨げるとの批判もあったが、社員旅行に行きたくて会社を辞めずに我慢して残る者は最初からいない。

当時のことをおもいだすと、経営者は投じた「人件費」を「費用」として観るよりも、「人的資源」への投資として観ていたのは、損益計算書を無視できる経営感覚からのものだったろう。

この人的資源には、社員本人だけでなく家族も含まれていた。

つまり、働き手にとって、会社が負担するものの方が、国の負担よりも大きかったのであるけれど、なんにでも国民生活に介入したい社会主義・共産主義=全体主義になる福祉国家の運動法則で、企業負担分を国が引き受ける甘言で、いよいよ窮屈な高福祉・高負担国家となって、経済成長そのものを鈍化させた。

それに、持ち合い株式の廃止を国が強制させたことで、外資が日本企業の「所有者」となる売国となり、浅はかにも損益計算書の利益数字を上げることだけを使命とする者だけが昇格=出世する愚策人事を「肉食の思想」に染まった外国本社から強要されて、とうとうこうなった、のである。

そのために、いまや「上場しない」選択が、真の企業防衛を試みる「優良企業」の生き残り策になっている。

目立つのは、「株主資本主義」の悪弊をもって、「資本主義」の悪を子供にも擦り込もうとしている者共の言動であるが、その株主資本主義を「拒否する企業」が続出するのをなんと呼ぶのか?の議論がない。

おもしろいことに、そんな企業も、おおかた同族ではあるが「株式会社」なのである。

はたして、わが国における「株式会社」とは、圧倒的にこの「同族」によるものだから、次に国がやることは、「相続」における「企業分割」での「廃業への追い込み」となる。
そうやって、日本人を貧困化させることで、社会主義・共産主義=全体主義社会の実現を目指しているのが、「与党」なのである。

もうどこまでがアルゴリズムの対象になっているのか?わからないが、突然、YouTubeで『忠臣蔵』(大映、1958年)がこれまた、無料視聴キャンペーンに現れた。

「藩」とその具体たる「お家」の入れ子構造は、完全にパターナリズム企業の形態であって、藩のお取りつぶし=お家断絶は、同形である家臣武士団にも個々の一族郎党の完全失業(離散)となってしまう。

その意味で、将軍側用人として権勢を誇った柳沢吉保の介入による、鎌倉以来の武士の掟「喧嘩両成敗」の原則放棄が、他の家&武士団に赤穂浪士応援感情を醸成したことの正義のドラマ性は、単純な「判官贔屓」の現象ではない。

明日は我が身、が身に沁みる。

「討ち入り」の報に吉良家から藩主が養子に出た格式(だけ)高き上杉家では、藩主以下が騒然とするなか、切れ者家老の千坂兵部が放つ一言、「赤穂の二の舞になる!」に全員がハッとする一瞬の表現がリアルなのである。

その一蓮托生の運命共同体の組織構造が、そのまま民間企業にコピーされたのは「価値観の保存」であったのである。

その価値の破壊が、休むことなく進んでいるのは、バブルからのことである。

おそらく、これからの日本人が『忠臣蔵』を理解できないことになるのだろう。