2日、突如俳優の佐藤二朗氏の「X」ポストが届いた。
なんのことかわからなかったが、どうやら橋本愛と共演したときの職務上のトラブルらしい。
ハッキリいって、わたしにとってどうでもいい話なのだが、「かぶいて候」というわが国における芸能とくに「歌舞伎」の本質とからめて暴論を書いてみる。
結論から先にいえば、「正義」を論じてもせんないことなのである。
「傾(かぶ)く」が「歌舞伎踊り」の語源で、「かぶ」とは頭のことをさすから、頭が傾(かたむ)く、という意である。
ここから、頭をかしげてかんがえる、とか、勝手気ままな振る舞いや身なりとか言動をすることに変化して、歌舞伎踊りを演じる意味になったのである。
さらに喫茶に向かい、茶の味から品種を飲み分けるのを「かぶきちゃ」といった。
むろん、これらはわが国独特の文化であって、世界に類例はない。
むしろ、ギリシア悲劇やら喜劇やらを引き継いだ、ヨーロッパ・オリエント世界との隔絶であって、わが国における「芸能界」の特殊は深い意味をもっている。
それが、「河原者」と呼ばれる、中世からの賤民ではあるけれど、いまではかんがえられない寺社の権力を背景に「特権」すらあったのである。
むろん、こうした寺社のうえに君臨したが「朝廷」であったので、皇室における特別扱いの庇護が公然とあっての「特権」であったろう。
その最たるものが、全国を渡り歩ける「特権」だったといえ、「関所」も自由通行できたのである。
当然ながら、歌舞音曲とのつながりから、各地の遊郭との関係も深い。
映画『国宝』における、遊郭との関連性もコレである。
GHQによる日本文化攻撃の一環で、表向きは道徳的やら女性の権利強化を装うが、じつは、かえって地下に潜ることをしっている連中がやった、「売春防止法」施行による遊郭の禁止でも、結局「赤線」「青線」地帯がいまでも消えることはない。
街の構造上(町割り・都市計画として)、どのような地域がそれにあたっていたのか?は、じつは「都市観光の対象」として観れば、他の用地たとえば「寺町」とかとの関係がみえてきて、なかなかに興味深いのである。
そこにどのように女性たちが供給されているのか?も、経営者の素顔も、その経営システムも一般人には知る由もない特殊世界なのである。
この意味で、不幸にも殺害された伊丹十三監督作品の『マルサの女2』における、伝統的人身売買の表現は現代にあってなかなかに衝撃的であった。
しかし、「肉食の思想」がDNAにこびりついている欧米人の欲望発散は、われわれ日本人のレベルをはるかに越えている。
もうそこに、芸能、というジャンルさえ欺瞞のカーテンにはならない露骨があるので、その表現はいわば「告発」となるのである。
そんなわけで、佐藤二朗氏には交通事故のようなできごとかもしれないが、相手役の出演条件を佐藤氏の事務所が「あえて佐藤氏本人に事前にしらせなかった」、というのが事実なら、これまたスキャンダル作り=商売、としての道具にされたというこの業界特有のいつものオチになるのである。
すると、条件を出していたのにこれをあたかも無視されたことになる橋本愛の側に落ち度はなく、佐藤氏の事務所が仕組んだ「内輪劇」におさまるので、佐藤氏がこれを許せないならば、佐藤二朗氏の方が俳優業の資格はない、という論理となる。
だから、佐藤氏の事務所が何の目的でこうしたスキャンダル作りをしたのか?となるのだけれども、「カネ」だという究極で、一般人のわたしがこの先追及する気も起きないのである。
しかし一点、事務所にしたら所属の俳優は「商品」である。
その商品を傷つけることまでやってカネにしたいというなら、どんな経営体なのか?に興味が涌くのである。
つまり、かぶき者は、この事務所なのであった。

