「Kindle」の芥川龍之介全集=378作品

税込み200円という値段に驚きながら、他の作家のシリーズもポチったが、そちらにいついけるかわからない、芥川龍之介の山脈=全4193ページに挑んでいる。

目次を観てはて?とおもうのは、作品が50音順で並んでいることである。
発表の年代順ではない。
ただし、この圧縮された生であった作家の短い生涯からしたら、これもありなのだろう。

さて、記念すべき「あ」からの最初は、『愛読書の印象』(1920年:大正8年)である。

芥川龍之介は、1892年:明治25年3月1日生まれ、1927年:昭和2年7月24日に35歳で没している。
なので、28歳のときの作品である。

「電子版」だから、目次が、発表順の降順と昇順もあったら、とはおもう。

冒頭、「子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これ等は今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。」とある。

『西遊記』がいきなり登場した。

岩波文庫版で、全10巻もある、長大な物語である。
しかし、子供用の短縮版か、日中国交正常化と開局25年を記念して製作された、日本テレビのドラマ(1978年10月1日~1979年4月1日まで全26話)を先に思い出すのである。

孫悟空が堺正章、三蔵法師が夏目雅子、猪八戒が西田敏行、沙悟浄が岸部シローという、見事なキャストだった。
なお、1979年11月11日~1980年5月4日までの第二シリーズでは、西田敏行に代わって左とん平が猪八戒役をやっている。 

生存者は、なんと堺正章ひとりとなった。

『ロビンソン・クルーソー』もそうだが、子供用だとばかりおもっている作品には、オリジナルが長大な物語なのは多数ある。
東洋文庫の『千夜一夜物語』を途中で挫折したことを思い出したので、いつか読破したいものだし、『カンタベリー物語』もしかり。

『西遊記』は、その長大さに加えて、仏教用語が混じった決してバカにできないものだが、奇妙奇天烈な想像力の爆発が凄いのだ。
なるほど、これも、読破目標に定まった。

ときに、『グレート・ノベルズ-世界を変えた小説』という巨大カタログがある。

人類初の長編小説として、その記念すべき一冊は、『源氏物語』で、次に『西遊記』が、その次にあるのが『ドン・キホーテ』という順で紹介されている。
この本をみて愕然とするのは、これらのカタログに登場する作品のごく僅かしか読んでいない、きわめて貧弱な読書体験をビジュアルで実感することだ。

しかも、ここに芥川龍之介の名も、作品も紹介されていない。

その芥川龍之介は、遺稿で、自身の作品が広く読まれるようになるのは、「著作権が切れてから」と書いている。
なるほど、それで電子版とはいえ「200円」なのであろう。

すると、わたしはここでも、作家の書いたとおりの行動で、著作権が切れてから読んでいる広い読者のひとりになっている。

溶けてなくなることはないだろうが、「紅ひょうたん」のなかにいるようなのであるし、あるいはまた、孫悟空が如来の掌から逃れられない設定そのもののようではある。

10月末で終わった、神奈川近代文学館での「坂口安吾展」に立ち寄ってみたら、平日なのに多くの来館者がいて、その人気ぶりが衰えていないことを実感したが、芥川の死に直面したショックで、この戦後を代表した敏感すぎる作家の生来の反骨と破天荒がより強化されることになったとの解説が記憶にのこる。

ヒロポンと睡眠薬アドルムの大量摂取で、享年48歳。

「あ」で散々でてくる(たとえば『或阿呆の一生』やら)芥川が研究した死に方ではない、だが、坂口は自身をつかった実験で、ある意味「計画的」だが、その突然の死は、やっぱり芥川龍之介に通じるとおもわれる。

それにしても、むかしのひとは、本を読んでいた。
なので、作家の死後も読者は人生を語れるのである。

「Kindle」と「Kobo」と「BOOX」と

本稿タイトルは、「電子書籍リーダー端末」の提供と「電子書籍コンテンツ」、それに「紙の本」の購入と、三つの機能がそれぞれ揃っている二大巨頭と、「電子ペーパータブレット端末」のことである。

二大巨頭は、どちらも専用の「電子書籍リーダー端末」がありながら、PCでもアンドロイドOS端末でも、ipadでもそれぞれの無料リーダーアプリで「電子書籍コンテンツ」を読めるので、とくに専用端末は必要としていない。

だが、目に優しい「電子ペーパー」での集中した読書をしたいなら、専用の「電子書籍リーダー端末」を購入するか、アンドロイドOSの「電子ペーパータブレット」にするかという選択肢しかない。

わたしは、紙の本も電子書籍も、いったん写真に撮って(電子書籍ならスクリーンショット)、これをipad電子ノートアプリの雄、「GoodNotes」に自炊=取り込んで、検索と直接メモ書きもできるように手間をかけるようにして、蔵書の一本化を試みている。

しかし、やっぱりipadの画面を長時間見つめるのは、目に厳しいために、電子ペーパーディスプレイの「クアデルノ」に載せたりと、いろいろ工夫がいるのである。
カラーになった「クアデルノ」には、色とペン種による検索が可能になる進化があって、文字検索はできないが、あんがいと便利ではある。

一般的に、Amazonが提供する「Kindle」が電子書籍コンテンツ販売でも優勢だろうけれど、電子ペーパーディスプレイとしてみると、あんがいと「Kobo」が優秀なのである。
Kindleには、メモが直接書ける10インチ越の大型画面「Kindle Scribe」があるが、セコいAmazonが例によって「専用」の保存方式としているし、縦書きの本には書き込みができない制限があるので、わたしには魅力がない。

「ファイアーHD」が本来のGoogle端末であるべきをオリジナル化する中途半端さで失敗したことの教訓が活かされないのは、それはそれで経営論としてかえって興味深いが、だからといって「Kindle Scribe」を購入する価値を感じないのである。

「Kobo」には、7インチと小型だが「Kobo Libra Colour」なる、Kindle Scribeにはできない縦書書籍にも、コミックにもペンで書き込みができる端末がある。
だが、惜しいことにやっぱり7インチでは画面が小さい。

このように、いつまで経っても「決定版」となる端末がないのは、提供者側の顧客囲い込み戦略がセコいからだとおもっている。
電子ペーパーディスプレイ版のipadがほしいのは、その決定版となるにちがいないからである。

これが、「寡占」の教科書通りの欠点である。

ところが、伏兵として電子ペーパーディスプレイの老舗、「BOOX」から、カラー「Note Air5 C」なる10.3インチの「アンドロイド14」タブレットがでた。
メーカーは3年間のシステムバージョンアップ保証をしている。
これが長いのか?短いのか?の議論になるのは、アップルの端末が6年と長いからだ。

とはいえ、もしかして、Android版の「GoodNotes」がつかえるやもしれない。

しかし、ネット上では、作動状況についての紹介がすくないばかりか、残念ながら使えない、というネガティブ情報ばかりなのである。

そこで、意を決して、使えないならそれなりの使い方でと、覚悟を決めて購入した。

電源を入れてすぐに、システムバージョンアップがはじまったが、Google playから「GoodNotes」をダウンロードしても、ネットでの表現通り「立ち上がらない」のである。

ところが、だいぶ時間が経ってから、再度「システムバージョンアップ」があるというので、これを実施して、念のため一端アンインストールした「GoodNotes」にも再度挑戦したら、今度は作動したのである。

問題は、ipadで使っているこれまでのファイルをどうするか?なのだが、なんと、最新GoodNotesの料金体系にある「プロ版(年間サブスク4880円!)」にすると、iCloudのバックアップである、「OneDrive」から取り込むことができたのである。

お試し期間1週間も「プロ版」は無料ではなく、「63円」なる容赦のなさである。

このアプリ提供者は、これまでの「iCloud」から、自社の「GoodNotes Cloud」へのデータ保存移行を進めており、マルチプラットフォーム対応の要にする計画である。

なお、「BOOX Note Air5 C」には、ipadでいう、「スプリットビュー」ができるので、画面左に「GoodNotes」、右に、「BOOX提供の Note」を立ち上げことができる。

これから一週間お試しして、遣い勝手を見極めたい。

ポエマーは覚醒していない

ポエマーとはもちろん、小泉進次郎衆議院議員(神奈川11区:横須賀市、三浦市)のことである。

高市内閣の防衛大臣になって、過去の環境大臣やこないだまでの農水大臣のときとはちがって、巷には「覚醒した!」という評判がたっているようであるが、そんなことはぜんぜんないとかんがえるので書いておく。

なお、自民党は党内決定が優先される政党なので、閣僚の一存でできることは、カウンターパートの党内機関との調整なしにできることはすくない、といったん引いてみることが必要である。

たとえば、評判がすこぶる悪かった、岩屋毅外務大臣ではあったが、自民党の外交部会(政調会の下部組織)からどこまで糾弾されていたのか?は不明で、外国人へのビザ発給緩和に関しても、あたかも岩屋氏の一存でできた、というには無理がある。

外務大臣として最長の任期(安倍晋三内閣)を誇る?岸田文雄元首相の、いまだに不明な外交感覚がどこからやってくるのか?の疑問の答も、外交部会のコントロール下にあったとかんがえれば妥当であろう。

この意味で、「ヒゲの隊長」こと佐藤正久参議院議員が、外交部長をやっていたのを有権者はしっかりみていて、前回の選挙(比例13位で次点)で落選となったのは意義深いことであった。

石破内閣時代の外交部長は星野剛士衆議院議員(神奈川12区:藤沢市、寒川町)であった。
派閥は、谷垣グループから菅義偉グループという流れであるから、基本左派だとおもわれる。
いまは、高木啓衆院議員(東京12区:北区、板橋区の一部)になっている。
こちらは、民社党から安倍派という異色の人材にみえるが、その民主社会主義の基本思想からしたら、きわめて妥当だ。

自民党という組織は、企業組織のようなキッチリとした運営がどこまでされているのか?よくわからないことがあって、外交部会で決まったことが政調会をどのように通過するのか?を詳しくしる国民はすくないだろう。

不人気著しい立憲民主党などは、組織があるのか?も疑問だが、これもまた、マスコミが報道しない「闇」なのである。

そんなわけで、「族」ができるのは、政調会の傘下にある役所のカウンターパートたる各種「部会」の決定に依存しているために、ポエマーも「国防族」との肌が合うだけなのだろうと思料する。

アメリカが200年前の「モンロー主義」に回帰して、トランプ政権2.0の「国家安全保障戦略」をどこまで読み込んでいるのかさえも怪しいのである。
この発表とほぼ同時にトランプ大統領の署名をもって発効した「台湾保証実施法」を、単純思考で喜んでいる場合ではない。

軍事的にアメリカは、東アジア(じつは「東半球」)から撤退の様相を示しているばかりか、ヨーロッパからも引いて南北アメリカ大陸だけ維持範囲にする「縮小」を意図しようとしているのである。

だが、これがいまのアメリカの実力なのである。

だから、アメリカで一気に「日本核武装論」が花咲き始めている。
この戦後的上から目線の議論は、しかし、超大国のアメリカが君臨していた時代の上から目線ではなく、落ちぶれたために日本や韓国の面倒をみることが困難になった、ことからの弱気であって、しかも、軍事技術・製造技能を日本に依存する必要からのものである。

こんな状況から、中共の戦略を再考すると、脅威であることに変わりはない。

ポエマーが、あたかも自衛隊の総司令官のように振る舞うことに、とんでもない違和感があるのは、首相をないがしろにしているだけのことだからだ。

防衛大臣とは、軍政(予算執行と人事発令)を担当しているだけで、作戦は首相の権限なのであるし、予算を握るのは財務省なのだ。

どこまでも無能は無能なのである。

新フュージョニズムへのアンチ

伝統的な保守主義とリバタリアニズム(自由至上主義)とを、融合(フュージョン)させた、あたらしい(極右)思想を「新フュージョニズム」と呼ぶらしい。

この源泉にハイエクミーゼスといった両巨頭がいるとのことだが、その切り抜き・曲解をもって構築された思想なので、この自由主義者のふたりは草葉の陰でさぞかし憤慨していることだろう。

まさに、悪意をもって作られたのだが、それはまた、左派からの批判を誘導するために、わざと立場を偽って新フュージョニズムをいう者の方が追いつめられている、ともいえる。
もっと「軽い」が、これに似た、じつは左派なのに保守(拝米保守)を装っているのが、たとえば櫻井よしこ氏などがいて、すっかり騙されている大衆は多数いる。

「新フュージョニズム」を、「反グローバリズムとの闘い」として定義することも、「反グローバリズムの闘い」=「ポピュリズム」と決めつけることも、簡単にそうはいかない。
むしろ、「新フュージョニズム」が、「グローバル全体主義」の不利な状況から派生した「本筋」であることこそが、問題なのである。

いってみれば、詭弁を弄しているからである。

その「新フュージョニズム」の行き着く詭弁の先は、まごうことなきディストピアである。
人々は、国境なきグローバルな世界で「もの・カネ・情報」の溢れた生活に溺れるが、人間は国境の壁を乗り越えられず、人種とIQの選択による格差社会におかれる。
そして、『マトリックス』のような、仮想現実での家畜としての生涯を送らされる。

これを、「反トランプ」のための思想として描いているのである。
つまり、トランプによる「常識革命」の先に、上のようなディストピアがあるのだ、と。

伝統的常識がディストピアを招く、とは笑止である。

アメリカでは、トランプ政権2.0は、しっかりと「オバマケア」の廃止に動いているものの、日本では、確かに「新フュージョニズム」のディストピアをどのように回避するか?の議論すらない。
なので、まったく想定外であるために、回避不可能かもしれない危険がある。

それが、「福祉国家の先」なのである。

つまり、日本型(オリジナルは「英国型」)の「公的」社会保障制度が、とっくに(昭和36年)完備された社会での、「出口」を、人類はいまだに見出していないことにある。
もう半世紀も前の、サッチャー革命でも、なにもできなかったのであるし、英国社会の疲弊は、もはや阿鼻叫喚に近づいていて処置なしなのである。

ローマが滅んだ理由とはぜんぜんちがって、近代国家は公的福祉制度によって滅亡する

すなわち、この悲劇から逃れる方法としての、上級国民だけに与えられた上級(特権)ゆえのチャンスの正当化思想が、この「新フュージョニズム」にほかならない。

中流以下は、切り捨てられる運命なのだが、その中流には驚くほどの「危機感ゼロ」の状況がある。

まったくもって、『進撃の巨人』の一般住人のごとくだが、現実社会は「地ならし」しても平安はこないだろう。

しかして、覆水盆に返らず。
「新フュージョニズム」を考案したものも、中流以下の一般人も、双方が同時に「追いつめられている」のである。

急いでアンチ「新フュージョニズム」を考案しないといけないが、それは、上にリンクした『福祉国家亡国論』に答がある。

EUの発狂自滅の朗報

5日、EU委員会は、イーロン・マスク氏の「X」に対し、「デジタルサービス法」に違反したとして、約1億2000万ユーロ(約220億円)の罰金を科すと発表した。
なお、内訳は不明だが、法人としての「X」と個人としてのイーロン・マスク氏も、罰金対象なのである。

対して「X」は6日、この措置に対抗して、EUの広告「X」アカウントを停止したと発表、イーロン・マスク氏は、「EUは廃止、各国に主権を返すべきだ」と「X」にポストした。
停止してのはあくまでも「広告アカウント」であるが、EUはこのアカウントを用いて「本アカ」への誘導をしていたのである。

つまり、広告料を「X」に支払って、その「X」に制裁すると読者を誘導していたのであるが、「X」はそれでもEUの本アカは停止していない。

こうした応酬に、J.D.ヴァンス副大統領とマルコ・ルビオ国務長官が参戦し、EU批判を繰り広げる展開となったのは、あたかもアメリカとEUの破局にみえる。
ただし、8日の時点で、トランプ大統領は沈黙を保っているので、はたしてなにが飛び出すか?

それもそのはずで、ウクライナ支援金からの汚れた巨額のカネに対する捜査をしている、「欧州検察」とは、事実上、トランプ政権2.0の司法省の影響下にあるからで、EU検察もEU委員会とは切り離されているために、ウクライナの汚職捜査と同じ相似形なのである。

つまり、時系列から、2日の欧州検察によるEU幹部への家宅捜索と身柄拘束に対抗する手段として、「X」が血祭りに上げられる、という順であるから、これまでのイーロン・マスク氏とトランプ大統領の近さから、事実上のアメリカへの「報復」とみなすのがふつうだろう。

けれども、「言論封殺」にあたる、決定的な「悪手」を打ち出したことで、まさに「発狂」といってもいい状態に、EUトップが追い込まれたことを意味している。
とにかく「保身」の行動が、これだ、という醜態を全世界にさらしてしまったけれど、おそらく当事者たちは、ほくそ笑むという狂気にあるとおもわれる。

当然ながら、その当事者のひとりは、フォン・デア・ライエンである。

こうした派手な状況の裏で、わが国の高市早苗氏の政治資金問題が、「小さく」扱われている。
たしかに世界レベルの汚職からしたら「極小」にみえるが、五十歩百歩、なのである。

ときに、EU委員会による言論統制の準備は、かなり早い段階ではじまっており、5日に発表された最新のアメリカ合衆国国家安全保障戦略でも、「懸念」を通り越して、「非難」しているのである。

これには、今年2月のミュンヘンでのことをおもいださせる。

J.D.ヴァンス副大統領が、EU幹部の前で正々堂々と、「言論の自由」の重要性を説いたのである。

しかし、完全に無視どころ悪意ある方法を実行してしてしまって、引き返し不能点を超えた。

おなじく、わが国でも、SNS規制について自民党が画策しているのである。
まったく、隣国の全体主義を笑えない、とんでもないことである。

アメリカの国家安全保障戦略

5日、新政権発足後の「恒例」である、アメリカ合衆国国家安全保障戦略が発表された。

たまたまか?同日、Dr.苫米地英人が、高市首相の、「存立危機事態」発言についての重要な解説をしていて、上のアメリカ合衆国国家安全保障戦略とも連動するから書いておく。

そもそも、この「高市発言」は、立憲民主党の岡田克也衆議院議員(元外相)からの、「執拗な質問への(突発的な)答弁」という一般的な解釈をされているけれど、はたしてほんとうなのか?という問題をはらんでいる。

それが、アメリカ側からの事前の上記国家安全保障戦略の内容についてのリークがあったのか?に通じるのはいうまでもないことだし、国会質問には事前に質問者かから議長を通じて質問内容について内閣に「事前通告」がされるものだからである。

つまり、岡田議員は事前通告しての質問だったし、高市首相は、それを承知での答弁であった、といえる。
だが、岡田氏が後に述べたように、「質問した側がまずいとおもって質問を止めた」のが本当ならば、首相の答弁はいかに準備されていたのか?に興味が移るのである。

とはいえ、あのやり取りをみていると、岡田議員がいう理由こそ、本当なのか?もあるので、この点は当事者でしかわからないままになっている。

しかしながら、「同盟国」に対する「戦略」を発表する内容を踏まえると、アメリカの事前になにもない一方的な文言の世界発信は、あまりも独善的である。
「それこそがアメリカなのだ」というのもありだが、トランプ政権2.0の用意周到からしたら、かつての民主党による勝者としての支配とは一線を画すのではないか?

そうやってみると、国家安全保障戦略の記述でまず気になるのは、台湾の扱いを「国」としているので、これまでの「曖昧戦略」からの踏み込み(脱却か?)があることだ。

なので、高市発言は、これに対応している、といえるのである。

この「曖昧戦略」とは、大陸側がいう「ひとつの中国」に対して、「言論の自由」だとし、その「言い分」は何を言おうが自由だから認めるが、アメリカとしてひとつの中国だと「認めたわけではない」という態度のことである。

わが国も、この「曖昧戦略」に乗ってきたけれども、本来ならば、「台湾の帰属問題」として、わが国の言い分に自由があるなら、「日本領」だと主張すべきところなのである。

そこで、上にリンクを貼った「Dr.苫米地英人の解説」の本質に話を振ると、わが国の過去から準備してきた「法体系」と、「この現実」の一致こそ、まったくあたらしいステージに突入している、との指摘が光る。

けれども、Dr.がいうとおり、「憲法」との整合性矛盾と、自衛官=特別職国家公務員の身分と離職の自由さをもってみれば、それが「徴兵制」への踏み出しという局面がありえるリアルに、ほとんどの国民が気づいていないことの恐怖がある。

つまり、社会現象としての「反政府」なる現象の想起だ。

この点で、戦後のわが国は「ピュアすぎる」のであるし、「弔い方法を含む兵の消耗」と「戦争」についての免疫があるアメリカ人との絶壁状の隔絶があるのだ。
すなわち、アメリカ合衆国国家安全保障戦略が描く、わが国を含む同盟国(東南アジア)との絶望的なギャップだ。

このギャップをつくり育ててきたのが、アメリカ民主党だった。

だが、この仕込みが、戦後80年目にして、東アジアの安定を根底から揺るがしている、ともいえ、左翼がいう空想ではなく、戦争の足音が聞こえるリアルな状況になっていることは、まちがいない。

6日、初の「空対空レーダー照射」があったのは、この流れのなかにある。

8年前の反省文が役に立たない

ずいぶん前に「官庁文学」(2018年2月10日)について書いた。

本稿は上に書いた時期よりも前の、2017年(平成29年)5月18日に「産業構造審議会総会」の配布資料として公開された、『不安な個人、立ちすくむ国家-モデルなき時代をどう前向きに生き抜くか』をベースにした同名の文藝春秋から出版された書籍を基にしている。

ちなみに、PDFで公開されたオリジナル資料は、たちまち150万ダウンロードを記録した。

まず、肝心の内容は「よくできている」のである。

それは、さまざまなわが国の現状(プロジェクトは2016年8月に発足)調査における、かつてからの常識に対して正直に「誤解」を認めていることにある。

本プロジェクトが、異例なのは、経産省に入省したばかりの「若手」だけによるものだったことがもっとも注目されるポイントである。
むろん、このプロジェクトは、「正規」のものなので、経産省の事務次官肝入りのものであったことも注意したい。

わたしが注目したいのは、この中に、国民の「漠然とした不安」なる記述があることだ。

この言葉は、芥川龍之介の久米正雄へ送った遺書で、全集にも収録されている『或旧友へ送る手記』(昭和2年4月16日)で、実際に生害した7月24日から3ヶ月ほど早い。
けれども、この言葉は当時でも世間とくに若者世代に衝撃を与えたことが記録されている。
この時点で20歳だとしたら、それは明治40年生まれ前後の世代をさすのである。

物心がついたら、大正期だった世代であるし、自分から35歳でこの世を去った芥川に対して、この世代が昭和16年前後に入営しているとすると、ほぼ芥川と同年代になっているのである。

日本人は、いつから「文学は役に立たない」と決めつけたのか?わたしには不明だが、「実学」を重視して「漢学」を棄てた福沢諭吉の影響かとおもっている。
この意味では、わたしは明治初期の焦りだとして捉えるべきで、21世紀になっても実学をして「学問」というのには、文句をつけたくなるのである。

一般に、科学を三つに分類している。

自然科学:物理学、化学、生物学。。。
人文科学:文学、歴史学、哲学。。。
社会科学:経済学、心理学、社会学。。。

古代ギリシアの時代から中世までの長期間は、哲学を最高に据えてなお、その上に人智の計り知れない領域として神学をおいていた。
この学問秩序に大変革をもたらしたのが、デカルトである。

我思う、故に我あり。

とは、現代の「証拠がなければ証明できない」に通じている。

だから、文学が役に立たないとなったのだから、浅はか、としかいえないのである。
この世を人類社会と位置づければ、幸福の追求という命題すら、「幸福論」を必要とし、その存在を証明しなければならないし、個々人の幸福をそれぞれに定義して証明することは不可能だ。

つまり、これこそが不幸のはじまりなのである。

しかし、進歩派なる独断主義者たち(大方がグローバル全体主義者である)は、「多様性」なる政治用語を用いて、証明できそうなことを他人に一方的に押しつける。
これは、「単一性」であって、けっして「多様性」とはいえないが、ダブルスタンダードがふつうの思考なので、なんの矛盾もないと信じている。

これは、キリスト教に取って代わる新しい宗教なのである。

その宗教の社会に蔓延する邪教性を嗅ぎとった一般人が、「漠然とした不安」を抱くのだろう。

このことをピシャリといいあてた芥川の感性こそ、文学者の「文学」たるゆえんである。

100年経っても、人間の感性に変化がないので、いまにも通じるのであって、これを浅はかな「科学」で解決しようとすること自体に、進化を認めることができない。

いつまで経っても、「漠然とした不安」があり、ついには破局へ向かうのは、人間社会の中に潜む「物理学」の法則があるからであろう。

さすれば、答は、文学にある。



「脱工業化」からの脱出

ドイツのAfDが、「脱工業化をやめろ!」と、工業への回帰を訴えている。

「保守」と呼ばれてきたCDU(キリスト教民主同盟)のメルツ政権は、「脱工業化」を目指して、国内製造産業の解体を推進している。
これは、メルケル長期政権からショルツに政権交代しても一貫したもので、さらにメルツ政権になっても続いているからドイツ人に「選択肢がないも同然」であった。

わが国と張り合った、自動車産業が崩壊をはじめて、もはや誰にも止めることができない。

果たして、ドイツは間に合うのか?

このドイツの悲惨のさらに先を行くのが、アメリカ合衆国の製造業である。
トランプ政権2.0が「関税」をつかってなんとかしようにも、なんともならないのは、サプライチェーンだけでなく、そのなかの「職人」が絶えてしまったことにある。

その象徴的典型が、「B2爆撃機」の復活製造の困難である。

このあまりにも秘匿された飛行機は、その群を抜く高額さもあって、試験機を含めたった21機しか製造されず、貴重な1機は墜落して失った。
運用開始は1997年だが、今年のイラン核施設空爆に用いられ、トランプ大統領が絶賛しながら製造再開を口にしたが、もはや上の理由とおなじで「不可能」となっている。

「設計図どおりに作れたら苦労はない」とは、リチウムイオン電池のケースや、無痛針を開発した、岡野工業の岡野雅行氏の言葉である。
その岡野工業も、2020年に高齢のためと後継者不在で自主廃業している。

金(Gold)と同価とさえいわれた「B2爆撃機」も、岡野氏の言葉どおりで、完璧な設計図は残っていても、「作り方」がわからなくなっていた。
このことは、前に「ジェットフォイル」のことを例に書いた。

もっと卑近な例をあげれば、「内製」と「外注」の論争がある。

わたしの経験でいえば、ホテルの食器管理ノウハウが、「外注」によって失われるのに、たいした時間を要しなかったことがある。
大量の食器をどのように在庫管理するのか?はあんがいと難易度が高く、高価な「銀器」に高価な「陶器」の不足分発注は、イコール「コスト」になってバカにならないのである。

ましてやそれがオリジナル・デザインであれば、みえないサプライチェーンでのみえない在庫もあるから、安易に店舗改修やらをおこなうと、廃棄コストも半端な数字ではない。

そんなわけで、わが国は、アメリカやドイツに比べて、中途半端な政府の介在で、まだなんとかなりそうな気配だけは維持している。
しかし、周回遅れの日本政府の立ち回りによっては、産業破壊の施策が次々と打ち出されることもあり得るのである。

ドイツが狂いだしたのは、エネルギー源の放棄からはじまり、「再生可能エネルギーヘのシフト」なる美辞麗句に誤魔化されて、産業の基盤たる電気のコストが爆上がりして競争力を自ら削いだことによる。

わが国も、しっかり追従しているのを止めるものがいない。

この点で、現状「まとも」な、財務大臣と内閣府特命大臣の女性ふたりが踏ん張っているようにみえるが、高市内閣の内部崩壊があるとすれば、このふたりを起点にした亀裂にちがいないだろう。

はたして、わが国の製造業は持ちこたえることができるのか?

すくなくとも、アメリカよりも先にあった最前線から完全脱落した英国の轍を踏まないことが、最低の生き残りなのである。

論理矛盾をやらかす精神状況

およそ「外交」とは、「法理」に基づくものである。

この法理には、経緯をあらわす「歴史」も含まれるのは当然で、外交の延長に戦争があるのは、クラウゼヴィッツ以来の常識というものだ。

ゼレンスキー(=ナチス)政権の終わりを目的のひとつに据えたロシアの外交からの戦争への道を、残念だがおおくの日本人が意識しないのは、80年前のあまりの「敗戦のショック」(社会学的には「アノミー」という)から、立ち直れていないためか?立ち直らせようとしない力学の結果か?という問題を含んでいる。

むろん、筆者は「立ち直らせようとしない」努力の成果であるとかんがえる立場にある。

しかし、後期昭和の絶頂(バブル期)からたったのひと世代ほどで落ちぶれてきて、そんな努力に対する「気づき」をもつひとたちが、敗戦からの後期昭和と平成へと続いた空気と比べると、おどろくほど増えている。

それが、1日、前代未聞の野党筆頭の「立憲民主党解体デモ」が実施されるまでにふくらんでいる。

トリガーとなったのは、11月7日、衆議院予算委員会での岡田克也議員(元外相)による、執拗な質問であった。

それで、中共の過剰反応となり、いったん解禁したわが国水産物の禁輸(11月19日に発覚した)に、同29日に開催予定の浜崎あゆみなどのコンサート中止という(日本文化排除)措置にまで発展していることが表だっての話題になっている。

日本では、「コンサートを楽しみにしていたファンがかわいそう」という投稿が相次ぎながらも、ポスターを多数貼ってビデオ鑑賞会を試みたひとたちも逮捕される状況に、日本の若者が唖然として全体主義の恐怖を目の当たりにしているのである。

しかし、一方で11月27日には、「イオン湖南省長沙市店」が、「ユニクロ」や「無印良品」の出店も含め、順調な開業をしていると報じられている。

ところが、11月28日、もっと唖然とすることが公式発表された。

なんと、中国外務省と国防部は、1951年9月8日の「サンフランシスコ講和条約」を認めないと発表し、今月2日には、在日中国大使館もおなじ内容の「X」記事を上げた。
しかし、これはなにもいまにはじまったことではなく、今年8月18日にも「新華社」がおなじ発表をしているのである。

このタイムラグの不思議は横にしても、ようは「台湾」の中共帰属についての主張なのであるが、困ったことに、サンフランシスコ講和条約でわが国はあたかも「台湾」の放棄をしたと見なされていたことへの、決定的な先祖帰り、つまり、台湾は日本領である、という主張に等しい論理になっているのである。

ここで、「あたかも」というのは、いまも国際法上、「台湾の帰属問題」が存在するからである。
とにかく、日本領だった台湾に、蒋介石の国民党が逃げ込んで、敗戦した日本統治のどさくさに紛れて乗っ取り、マッカーサーもトルーマンも放置したことが元凶となっている。

むろん、中華人民共和国の建国は、1949年10月1日なのではあるが、第二次大戦の講和、という意味からも、当事者ではない、のが世界の常識である。
終戦の1945年当時、中華人民共和国を承認していた国はどこにもない。

時系列が狂っているだけでなく、巨大ブーメランを飛ばしまくってくれているのだ。

なんにせよ、「サンフランシスコ講和条約の無効」主張は、旧日本領全部の復活を意味する。
朝鮮半島だけでなく、樺太・千島に及ぶし、「満州(国)」にいたっては、中共による領土拡大=征服という事実もでてきて、NHKがいう「中国東北部」という表現では済まないことがバレてしまうし、「東トルキスタン」を征服して「新疆ウイグル自治区」としたり、「内モンゴル」もと、どうなることか、周辺国が心配するありさまなのである。

そのなかの台湾では、「台湾は日本領だと中共が認めた」と大騒ぎになり、「日本語学習熱」が噴火状態にある。

故岩里政男(通名;李登輝)の悲願は、台湾の日本領「復帰」であった。
「サンフランシスコ講和条約」を否定したら、自動的に浮かび上がってくるのは、1895年の「下関条約」なのである。

この条約調印後の記念式典で、清国全権の李鴻章(北洋通商大臣兼直隷総督)は、「歴史的に台湾は化外の地であって、一度も歴代王朝の支配下になかったので、清国には痛くも痒くもない(ざまぁみろ)」、といってのけた歴史がある。

その台湾は、いま、特殊出生率1.0を切る、強烈な人口減少社会にあるけれど、中共の発表数字が正しければ、こちらは1.0ちょうど。
それで、徹底的に子供を甘やかして「小皇帝」にさせる子育て文化ができている。

「一人っ子政策」は、1979年から2015年に廃止されるまで続いたけれど、「文化」はそう簡単に変更できない。

これら「小皇帝」がおとなになって、外交ごっこをやってみたら、「自己中の罠」にはまって、台湾をわが国に差し出してくれるそうなのである。

それもこれも、このタイミングに上・下両院アメリカ連邦議会で通過した「台湾保障実施法案」に3日、トランプ大統領が署名して、「法」として発効されたのである。
これで、戦後からのアメリカの曖昧な態度が破られて、「国家承認」一歩手前にまでなった。

トランプ政権2.0の頭脳、スティーブン・ミラー氏なら、今後いかなる策をあみ出すものやら?

残念ながら、わが外務官僚の無能だけが再び目立つのである。
なぜならば、アメリカに、「台湾は日本領」という外交ロジックの「筋」があるからである。

【緊急】欧州検察の家宅捜査

2日、仰天のニュースがあった。
これを、「THE CORE」で及川幸久氏が解説している。

ウクライナにまつわる汚職が欧州に及んでいるのではないか?と書いてきたが、どうやら事実のようなのである。

ウクライナ・ゼレンスキー政権とは分離されている、国家汚職対策局(NABU)と、特別汚職対策検察(SAPO)をつくったのは、アメリカ民主党政権だったが、これらの組織を利用しているのがトランプ政権2.0だと書いた。

今回、欧州で動いている「欧州連合検察局(EPPO:European Public Prosecutor’s Officeは、2020年に設立されたあたらしい機関なのである。

この2020年に注目すれば、トランプ政権1.0の時期であることがわかるし、バイデン政権の2022年年7月26日、EPPOはアメリカ司法省とアメリカ国土安全保障省と協力覚書および実務的な取り決めを締結しているのである。

つまり、入れ子型としてみれば、ウクライナの構造をそのままEUに適用していることがわかる。
このあたり、官僚仕事のワンパターンがみてとれるのである。

そして、トランプ政権2.0は、おなじようにEPPOを利用しているとかんえるのがふつうだろう。

これもまた、ウクライナ和平にむけた米・露共同作戦の一環ではないか?

領土を直接支配する、面倒な方法ではなくて、「法理」によって支配する。
汚職にまみれた大掃除をやっているのである。

しかも、EU委員会が提起した、ロシア凍結資産の横取りを、なんとグローバル全体主義のお仲間のはずのラガルドのECBが「違法」として蹴ったことも、痛い。
おそらく、ベッセント財務長官をはじめとする、経済チームがウォール街を巻きこんで、「市場を守る」まっとうな大義名分で押し切ったにちがいない。

なんだか、『宮廷女官チャングムの誓い』におけるクライマックス「チェ一族の崩壊」(第48話)のドラマを観ているようなのである。

これに先立ち、イタリアのメローニ首相が、ECBに対して、イタリア保有の「金(Gold)」の管理権返還の要求をしたことも、トランプ政権2.0との連携によるECBへの圧力であって、また、身柄拘束された元EU外相(現EU外交顧問)の国籍がイタリアであったことも、つながっている可能性がある。

今後、どんな事態となるか?は不明だが、EU委員会だけでなく、加盟各国の首脳に対する捜査ともなれば、その規模からもFBIやアメリカ司法省の援助がないとできない相談だろう。

ワシントンだけでなく、世界中の沼の水を抜きだした。