現代の自己中心的享楽主義

気がつけば、「現代とは、共有されるべき規範を喪失し、自己以外に依拠するところのできる価値を持たず、それが自由の名の下に享楽的消費と孤独な空白感へと分極化してきた時代であると考えている。」とは、ショーペンハウアーの『意志と表像としての世界』(中公クラッシクス)冒頭における鎌田康男(関西学院大名誉教授)の寄稿、「ショーペンハウアーの修行時代」にある一文である。

そもそもは、芥川龍之介全集378作品への挑戦からはじまるおおいなる寄り道であるけれど、鎌田康男氏のドイツ語論文に、『マイレンダーと芥川龍之介』があるのをみつけて、一周した感がある。

世の中には偶然が重なることがあって、膨大なページ数の本書の扉を開ける直前の横須賀線の車内では、清楚な若い女性が目の前に座っていて、スマホに熱中するいつもの光景を見ていたが、最初、光の加減かと思えた唇横の大きなホクロは、「マドンナ」と呼ぶ唇ピアスであった。

これに気づいたとき、この人物の口には、「モンロー」「スクランバー」「リップ」「ラブレット」と、それぞれの名称がある通りの場所に、「フル」でつけていたのである。

まだ20歳程度と思われるのに、どうしてこうした選択をしたのか?インタビューしたい欲求に襲われたし、金属アレルギーが心配になったが余計なお世話なのでそこは我慢した。

2004年、第130回芥川賞の『蛇にピアス』(金原ひとみ)を思い出したが、本人が生まれる前の作品ではないか?
すると、もう、こうした身体への装飾が「ふつう」になったということか?

それから、根岸線に乗り換えると、広い空席に滑り込むようにやってきた若い男性の姿は、一見してサラリーマン風なのであるが、なんとサンダルばきでしかも素足なのである。

こうした光景の直後に、本稿冒頭の文言があったのである。

そういえば、横浜市立中央図書館の近くに、「タトゥー・スタジオ」があって、開放的なこの店舗の流行ようは、外からでも施術中の様子がうかがえるほどなのである。

むかしの兵隊が独特の絵柄を入れたのは、遺体になっても本人確認が迅速にできるメリットがあったからだけれど、DNA検査法が確定した今においては、まさに「自己中心的享楽」としてのものになっている。

すると、ショーペンハウアーの求めた、自己の完成、とは程遠い、もっといえば対極的な廃頽が、一般化してしまっているといえるのが現代なのである。

しかし、日本人として興味深いのは、ショーペンハウアーが1788年の生まれであることの「遅さ」なのである。
彼は「孤独」を愛したが、これと同じ境地に至ったのは、774年生まれの空海なのである。

ざっと1000年早い。

前に、『源氏物語』と『西遊記』をくらべたが、ヨーロッパにおける有名な小説は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605)がお初なので、それでも600年から日本の方が早い。

こうしたことを踏まえると、せっかくピアスをするのにかかった手間が惜しいのである。
本人はきっと「先」をいっているつもりでも、あんがいと古典的な逆行にいそしんでいるからである。

さてはいまさら、2000ページを超えるショーペンハウアーを読まずとも、空海の教えに耳をすませる方がよほど未来的ともいえるのである。

つまるところ、現代は、「個性の発揮」における二極化、すなわち、享楽的消費と孤独な空白感へと分極化してきた時代なのだろうが、その根本にニヒリズムがはびこって「自由経済圏」を破壊しているといえるのだろう。

なので、やっぱり「末法思想」が1000年続いているのだ。

そんなわけで、念のためにおおいなる寄り道をしている。

「大転換」が起きている

5日に発表された、「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」による「大転換」は、まさに「文字どおり」だとはやくもわかってきた。
このほど、ホワイトハウスが否定している「長文の原文」がリーク報道されていて、そこには、「EU解体」と、「G7」の廃止及び、「C5創設」があると話題になっている。

まず、公式発表された方には、アメリカはEUを、「価値観をおなじくしない」と突き放し、そのうえで、世界の3極構造を明確にした。
米・露・中、である。

かつての、米・欧・日、ではない。

もっとも、米・欧・日での「欧」とは、事実上の(西)ドイツのことであったから、「日」を加えると、「旧敵国」となる。
これらの強大な潜在力をもつ独・日の二国を、アメリカにとっての戦後ヨーロッパの地域支配とアジア支配のために利用すべく、「育成した」のである。

むろん、宿敵ソ連を独・日で挟撃する、という大戦略もあった。

これを、昨日も触れた斉藤ジン氏のデビュー作『世界秩序が変わるとき』でも明言している。
市場関係者で、ここまで理解しているひとは、やっぱり珍しいから書籍もベストセラーになるのだろう。

逆にいうと、ふつうの投資家は、あたかもデイ・トレーダーのごとく、目先しかみていないのがふつうなのであって、機関投資家の中の多数のひとたちの安易な発想(頻繁に業界人と相場についての連絡を取り合っている)は、一般人でも驚くほどの無知ぶりを発揮しているのだが、動かす金額の大きさで、個人投資家を圧倒している。

これは、しっていること(世間の常識)が相場感を鈍くする、という異様な金儲けだけを優先させる現場感覚が免罪符になっていて、日常のストレスから精神の安定を求めると、難しいことは考えない方がいいという思考停止の自己免疫システムの発露でもある。

こんな歪んだ常識を社会一般に拡大すると、たとえば日本にあっての「高度成長」とは、上の斉藤ジン氏のいうように、アメリカ(カジノの胴元)による、一方的な勝ちゲームをやらせてもらえたことの結果であった。
なにせ、わが国の企業経営の実態は、源氏鶏太が書いた『三等重役』ばかりだったからである。

その重役たちが歴代で育成した重役たちが、いまの経団連の構成員になっているとみれば、なんの成長も進化もないのも納得できるのである。

だからか、わが国には「外部依存体質」が社会の中枢すなわち「芯」まで浸透したので、国家としての独自「安全保障戦略」を考案することもやめてしまった。
もう一歩踏み込めば、「国家安全保障戦略」がはっきりと描けなかったために、「国家安全保障戦略」があるアメリカの誘いに乗って対米戦争へと引きずり込まれたのである。

なので、こうした歴史をしっている、プーチン氏は、独自の「国家安全保障戦略」を描き、なお、それを粛々と実行している。
そうした視点から、「ロシア在住です」さんが、しっかりとしたロシアからの解説を提供していて参考になるのである。

なんにせよ、ウクライナ戦争の戦後世界を見据えているのが「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」だからだけでなく、その主旨が過去からの経緯を大転換させる方針で貫かれていることがもっとも重要なポイントなのである。

上に挙げた斉藤ジン氏がうまくたとえている、アメリカはカジノの胴元で変わらないが、自分が儲けるための「客」を選ぶのが、「戦略」となっている。
だが、アメリカ一国だけでの胴元が維持できなくなったことが最大の変化で、このための新戦略が日本とドイツを取り込み、ロシアとの蜜月をもって、対中有利を意識しているのである。

この意味で、EUは中に取り込まれたから「価値観をおなじくしない」と断言しているのである。

それで、ハンガリー、オーストリア、イタリア、ポーランドを、EUから離脱させることを書いたのは、「反グローバリズムの闘い」=「新植民地主義との闘い」を全面に出して、EU解体そのものを意図しているといえる。

この巨大な流れの超ミクロな相似が、わが国の政界地図にもあるために、自民党の分裂や、戦後にできた既存野党の存立危機となってあらわれているのである。

戦後に封じ込められた、日・独の解放・独立をカジノの胴元が求めだしたのは、これ以上胴元からの直接支援ができないためという、切実がある。
だがそれは、一歩まちがうと日・独の破滅を意味するから、日・独もそれぞれが「国家安全保障戦略」を描かないと生存できないことにもなったのである。

これを誰が描くのか?

官僚ではない、政治家自身でないといけない時代がきたし、それを国民が責任を持って承認する判断を求められる、「正念場」になったのである。

S&P500の平均リターンは年率8%以上

複利の計算で、「年率7%」は、10年で元金が倍になるために指標として覚えておくと便利だ。
1.07の10乗(1.07^10)は、1.9672となって、約2倍となる。

つまり、この利率で投資すると、10年後には倍になって戻ってくるのだが、逆に、借金するとえらいことになる、とかんがえればいい。

いま、消費者金融のHPをみると、3.0%から18.0%と表示されている。
最高で「18.0%」とあるから、この金利が適用されたら、なかなか返済が困難になるのは予想がつく。

ふつうに銀行預金をするとどうなるのか?

メガバンクが年0.001%(10万円の預金で1円の利子)程度に対し、ネット銀行では年0.2%~0.6%(千円の預金で2円から6円)というが、これをどのように評価するのかをいうのは個々人それぞれの自由だけど、インフレ率が2%を超えている現代としては、普通預金をすると損をすることだけは確かになっている。

ときに、S&P500とは、アメリカを代表する企業のニューヨーク証券取引所における時価総額から算出した、いわば平均株価の指数をいう。

わが国とアメリカの経済で、株式市場と銀行を中心とした金融市場の構造はおおきくちがっていることはよくしられていることだから、一概に、ニューヨーク市場のはなしと東京市場の株式市場を単純比較することはできない。

しかし、わが国のバブル経済の崩壊以来、アメリカ式に近づける努力をしてきて、それがまた、わが国の「失われた30年とか40年」になっていることも、看過できないのである。

リーマンショックの対処方法を、わが国のバブル経済の崩壊経験から、アメリカ人に伝授しようとしたことのバカバカしさは、当のアメリカ人から阿呆扱いされる当然があったことでわかるとおり、当時のわが国の指導者たちの頭脳構造にはかなり深刻な問題があったことは事実だろう。

この意味で、大蔵省から財務省に看板を替えても、なかにいる法学部出の官僚たちの「経済オンチ」度の絶望的な状況が、いまだに改善されることもなにもないのは、ほとんど奇跡的な無責任の結果である。

たとえば、ベストセラーになっている斉藤ジン著『世界秩序が変わるとき』にある、武藤敏郎大蔵省・財務省事務次官にして、日銀副総裁のエピソードやら、「ミスター円」として名を馳せた榊原英資財務官のトンチンカンも、あるいは2021年『文藝春秋10月号』に掲載の「矢野論文」で物議をかもした矢野康治財務事務次官のトンデモも、しかり、なのである。

それにしても、「安全運用」で年率8%は当然の利回りを得られるアメリカと、わが国の状況をどうかんがえればいいのか?


国に追従する地方経済のヤバさ

「サスティナブル」という一言だけでも、それを発するひとの教養のなさを感じるのはわたしだけであろうか?
あるいは、人口減少が著しい地方だから、外国人人材を求める、という国が進めている移民政策にそのまま乗ることも、安易にすぎないか?とおもうのである。

こうしたことを「常識」として地方の経済人が述べているのを見聞きするにつけ、本人の肩書きの「重さ」との比較をして、当該地方の衰退が確実になるのではないか?と懸念する。

この言動のパターンこそ、近代学校教育の単純延長であって、「教科書は正しい」と信じ「暗記」する、あたらしい信仰の発露なのである。
つまり、「国はすべて正しい」と思考することの、「教科書」と「国」の言葉の置換にすぎないことをいいたいのである。

東京の難関大学に入学したエリートの、本人がぜったいに意識もしない「破壊工作」を何の疑いもなく実行できる現代日本がかかえる、内憂、だといえる。
そんな単純能にされた人間が、地方に帰ってきて、中央(国)のエージェントになることでの「地位」を得るのだ。

これぞ、ニーチェが指摘した、あってはならない姿なのだが、むろん、ご当人は授業でニーチェを学んでいても、それは単なる「暗記」の対象だけであって、その真意を吸収し、自己の精神の糧にするなどという面倒はしないし、できない脳構造に子供時分から学校で強制されたことも認識できないのである。

上のことは、ニーチェの『反時代的考察』にある四つの論文のうちの第三論文「教育者としてのショーペンハウアー」に記されている。

なので、こうした人物のヤバさは、一切の事実をみてもみえないことにある。

それで、ありもしない幻想を、ある、として語ることで、影響力を行使するのである。
なぜなら、地方で地位のある人物の語りは、これまた素直に浸透するからである。
「権威主義」の恐ろしいのは、権威ある人間が権威をかざすことだけでなく、一般人がまるで催眠術にかかったごとく丸呑みすることにある。

この「丸呑み」も、幼少時からの学校教育における訓練の成果なのである。

すると、学校に馴染めない生徒を、「登校拒否」といっていた時代から、「不登校」に変遷したのとはちがって、一貫して学校に馴染めない生徒の「まともさ」が光り出す。
しかしながら、近代の学校、とくに公教育では、まともなのは学校である、という定義をぜったいに変えないので、従わない子供に薬を用いるまでになってしまった。

このような地獄絵図の世界では、国が定めたコースからはずれたら救済がない恐ろしさだけがあるために、悪いのは本人である、に強制的に集約される。
つまり、学校とはなにか?が、まもなく問われだすと予想するのは、あまりにも安易な教育が、自己崩壊をはじめるだろうという予測に基づく。

けれども、ひと世代以上が現役として存在するので、気がついても効果があがるには世代が入れ替わるまでの時間が必要になるために、地獄は続くのである。

そんなわけで、地方から壊れていく運命を変えることが困難なのである。

日本伝統文化の『煩悩☆西遊記』

芥川龍之介全集378作品を読破しようと「Kindle版:200円」で試みたら、作品執筆順ではなくて、タイトルの50音順で整理されていた、と書いた。
そこで、はじめに登場する『愛読書の印象』に、芥川龍之介が幼少時に『西遊記』にはまったことが書いてある。

これで、『西遊記』を検索するひとたちが、アルゴリズムの網にかかって、『煩悩☆西遊記』に誘導されることになっているから、なんだか「金角・銀角」の回で登場する、吸い込まれて溶かされる「紅ひょうたん」の話のごとくなのだ。

見た目は、エロいパロディかと思いきや、あんがいと奥深いのである。

作者は、クリスタルな洋介。
2020年3月号から、『月刊サンデージェネックス』に連載
されていて、単行本では全12巻の予定だったが、2026年1月に最終第13巻の「発行予定」となっている。

本作の特徴に、岩波文庫版『西遊記』(全10巻)準拠がある。

だが、設定は、孫悟空、猪八戒、沙悟浄といった面々が全員「女子」で、三蔵法師が彼女たちから各々登場する妖怪やら何やらがこれまた全員「女子」であることの「煩悩」にさいなまれるという、実に「仏教」的な物語に仕上がっているのである。

むろん、『西遊記』は、世界最古の小説『源氏物語』(1021年ごろ)に次ぐ、とはいえ500年以上後の1590年ごろにできたという物語集(全100話)である。

表面の主人公たる僧玄奘が仏教の経典を求めて天竺に向かう史実では17年に及んだ旅の真実のために、あたかも仏教を民衆に説くかとおもえばさにあらず。

道教から儒教に至る様々な「教え」から「風習」を、真の主人公たる叛逆のヒーロー、孫悟空が粉砕しまくるという破天荒な物語なのである。

つまり、取りようによっては、無神論的なのだ。

しかも、敵として登場するのは、ほとんどが「妖怪」である。
これが日本的妖怪でないのは、その原作の描くおぞましさにある。
じつは、日本人は、得体の知れぬ妖怪を、「キャラ化」してしまう民族なのだ。

その成功例が、『ゲゲゲの鬼太郎』である。

鬼太郎も妖怪であるのに、ここには「いい妖怪」と「そうでない妖怪」が登場し、鬼太郎によって「いい妖怪」に変質させられる特徴をもっている。

「いい」とは、人間の都合に「いい」という意味の、「人間中心主義」=「神々は人間のためにある」という、中東・西洋世界の「(全知全能にして絶対の)神」とは、真逆の概念があるのだ。

日本人の祈りは、ほとんど普遍性などなく、単純に家族や自分の幸福を神に要請し、それに強力に応えた神=神社が、「効く」として参拝者が増える構造になっている。

この点で、靖国神社は、日本人の祈りとは別の位置づけになっているために、純粋に国内問題としての議論が絶えないのであろう。
一方で、戦国時代の形態である『ビルマの竪琴』での鎮魂も、地中海マルタ島の「旧日本海軍戦没者墓地」も、顧みられることがない。

平安期、最澄が京の鬼門に建てた「延暦寺」を「鎮護国家道場」としたことが、いかに意外で画期的であったことか?
だが、それも貴族の「効く」に迎合するための「祈り」へと変質し、腐敗したのである。

なので、ニーチェがいう「神は死んだ」からはじまる、「ヒューマニズム」とは、これまた一切の断絶があるわが国で、最大規模の新興宗教団体が支える政党(こないだまでの与党)が掲げたスローガンが「ヒューマニズムの政治」だったこととは、まさに日本文化の側にある概念で、西洋の「ヒューマニズム」と同列でかんがえては理解不能なのである。

ここに、西洋からの輸入で発展のない共産党と、本当は同質なくせしていながらも犬猿の仲の理由の一つがある。
つまり、西洋的共産主義とは相容れない日本的共産主義を掲げているのが、公明党なのである。

この意味で、コミックでも中村光の『聖☆おにいさん』の深さと完成度とは比較してもはじまらないのは、原典があくまでも『西遊記』なるファンタジーだからである。

しかし、エロとキャラを(葬式)仏教(あるいは親鸞以来の妻帯)に融合させるというアイデアの妙は、日本的な文化解釈として、ひとつの傑作であるのはまちがいないのである。

孫悟空=中国人を代表するキャラの日本化として、豚の姿にされて自分を「汚い」と言わしめる猪八戒(元の名は悟能)=イスラム思想のキャラ、沙悟浄の記憶喪失による虚無(ニヒリズム)はニューチェの批判するヨーロッパのキャラとした設定は、「世界的」でじつに奥深い。

なお、これら妖怪の全員の名前に「悟」の字がつくのは偶然ではない。

そこで、もうひとりの主人公だが、仏僧にとっての「煩悩」なので、本作では孫悟空よりも重要人物となっているのが、三蔵法師=玄奘である。
仏の道のストイックさを描けば描くほど、「道教」や「儒教」の柔軟性を目立たせるのは、原作もそうしたパロディーだからであろう。

ただし、わが国の場合、「僧侶の妻帯」なる「破戒」は、「肉食・蓄髪」と同時に、明治5年の「太政官府布告第133号」によるから、あくまでも「政府の許可」という国家の介入が拠り所であるという問題がある。

この点で、わが国の仏教は、仏陀が説いた「仏教」ではない。

それでか、釈迦如来の解釈が『煩悩☆西遊記』ではぶっ飛んでいる。
これもまた、キャラ化の日本文化なのだ、ととらえれば、太政官府布告を語りもしなくなった日本仏教への嫌味か?

最終巻のオチは、どんなエピソードなのか?楽しみなのである。


「Kindle」の芥川龍之介全集=378作品

税込み200円という値段に驚きながら、他の作家のシリーズもポチったが、そちらにいついけるかわからない、芥川龍之介の山脈=全4193ページに挑んでいる。

目次を観てはて?とおもうのは、作品が50音順で並んでいることである。
発表の年代順ではない。
ただし、この圧縮された生であった作家の短い生涯からしたら、これもありなのだろう。

さて、記念すべき「あ」からの最初は、『愛読書の印象』(1920年:大正8年)である。

芥川龍之介は、1892年:明治25年3月1日生まれ、1927年:昭和2年7月24日に35歳で没している。
なので、28歳のときの作品である。

「電子版」だから、目次が、発表順の降順と昇順もあったら、とはおもう。

冒頭、「子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これ等は今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。」とある。

『西遊記』がいきなり登場した。

岩波文庫版で、全10巻もある、長大な物語である。
しかし、子供用の短縮版か、日中国交正常化と開局25年を記念して製作された、日本テレビのドラマ(1978年10月1日~1979年4月1日まで全26話)を先に思い出すのである。

孫悟空が堺正章、三蔵法師が夏目雅子、猪八戒が西田敏行、沙悟浄が岸部シローという、見事なキャストだった。
なお、1979年11月11日~1980年5月4日までの第二シリーズでは、西田敏行に代わって左とん平が猪八戒役をやっている。 

生存者は、なんと堺正章ひとりとなった。

『ロビンソン・クルーソー』もそうだが、子供用だとばかりおもっている作品には、オリジナルが長大な物語なのは多数ある。
東洋文庫の『千夜一夜物語』を途中で挫折したことを思い出したので、いつか読破したいものだし、『カンタベリー物語』もしかり。

『西遊記』は、その長大さに加えて、仏教用語が混じった決してバカにできないものだが、奇妙奇天烈な想像力の爆発が凄いのだ。
なるほど、これも、読破目標に定まった。

ときに、『グレート・ノベルズ-世界を変えた小説』という巨大カタログがある。

人類初の長編小説として、その記念すべき一冊は、『源氏物語』で、次に『西遊記』が、その次にあるのが『ドン・キホーテ』という順で紹介されている。
この本をみて愕然とするのは、これらのカタログに登場する作品のごく僅かしか読んでいない、きわめて貧弱な読書体験をビジュアルで実感することだ。

しかも、ここに芥川龍之介の名も、作品も紹介されていない。

その芥川龍之介は、遺稿で、自身の作品が広く読まれるようになるのは、「著作権が切れてから」と書いている。
なるほど、それで電子版とはいえ「200円」なのであろう。

すると、わたしはここでも、作家の書いたとおりの行動で、著作権が切れてから読んでいる広い読者のひとりになっている。

溶けてなくなることはないだろうが、「紅ひょうたん」のなかにいるようなのであるし、あるいはまた、孫悟空が如来の掌から逃れられない設定そのもののようではある。

10月末で終わった、神奈川近代文学館での「坂口安吾展」に立ち寄ってみたら、平日なのに多くの来館者がいて、その人気ぶりが衰えていないことを実感したが、芥川の死に直面したショックで、この戦後を代表した敏感すぎる作家の生来の反骨と破天荒がより強化されることになったとの解説が記憶にのこる。

ヒロポンと睡眠薬アドルムの大量摂取で、享年48歳。

「あ」で散々でてくる(たとえば『或阿呆の一生』やら)芥川が研究した死に方ではない、だが、坂口は自身をつかった実験で、ある意味「計画的」だが、その突然の死は、やっぱり芥川龍之介に通じるとおもわれる。

それにしても、むかしのひとは、本を読んでいた。
なので、作家の死後も読者は人生を語れるのである。

「Kindle」と「Kobo」と「BOOX」と

本稿タイトルは、「電子書籍リーダー端末」の提供と「電子書籍コンテンツ」、それに「紙の本」の購入と、三つの機能がそれぞれ揃っている二大巨頭と、「電子ペーパータブレット端末」のことである。

二大巨頭は、どちらも専用の「電子書籍リーダー端末」がありながら、PCでもアンドロイドOS端末でも、ipadでもそれぞれの無料リーダーアプリで「電子書籍コンテンツ」を読めるので、とくに専用端末は必要としていない。

だが、目に優しい「電子ペーパー」での集中した読書をしたいなら、専用の「電子書籍リーダー端末」を購入するか、アンドロイドOSの「電子ペーパータブレット」にするかという選択肢しかない。

わたしは、紙の本も電子書籍も、いったん写真に撮って(電子書籍ならスクリーンショット)、これをipad電子ノートアプリの雄、「GoodNotes」に自炊=取り込んで、検索と直接メモ書きもできるように手間をかけるようにして、蔵書の一本化を試みている。

しかし、やっぱりipadの画面を長時間見つめるのは、目に厳しいために、電子ペーパーディスプレイの「クアデルノ」に載せたりと、いろいろ工夫がいるのである。
カラーになった「クアデルノ」には、色とペン種による検索が可能になる進化があって、文字検索はできないが、あんがいと便利ではある。

一般的に、Amazonが提供する「Kindle」が電子書籍コンテンツ販売でも優勢だろうけれど、電子ペーパーディスプレイとしてみると、あんがいと「Kobo」が優秀なのである。
Kindleには、メモが直接書ける10インチ越の大型画面「Kindle Scribe」があるが、セコいAmazonが例によって「専用」の保存方式としているし、縦書きの本には書き込みができない制限があるので、わたしには魅力がない。

「ファイアーHD」が本来のGoogle端末であるべきをオリジナル化する中途半端さで失敗したことの教訓が活かされないのは、それはそれで経営論としてかえって興味深いが、だからといって「Kindle Scribe」を購入する価値を感じないのである。

「Kobo」には、7インチと小型だが「Kobo Libra Colour」なる、Kindle Scribeにはできない縦書書籍にも、コミックにもペンで書き込みができる端末がある。
だが、惜しいことにやっぱり7インチでは画面が小さい。

このように、いつまで経っても「決定版」となる端末がないのは、提供者側の顧客囲い込み戦略がセコいからだとおもっている。
電子ペーパーディスプレイ版のipadがほしいのは、その決定版となるにちがいないからである。

これが、「寡占」の教科書通りの欠点である。

ところが、伏兵として電子ペーパーディスプレイの老舗、「BOOX」から、カラー「Note Air5 C」なる10.3インチの「アンドロイド14」タブレットがでた。
メーカーは3年間のシステムバージョンアップ保証をしている。
これが長いのか?短いのか?の議論になるのは、アップルの端末が6年と長いからだ。

とはいえ、もしかして、Android版の「GoodNotes」がつかえるやもしれない。

しかし、ネット上では、作動状況についての紹介がすくないばかりか、残念ながら使えない、というネガティブ情報ばかりなのである。

そこで、意を決して、使えないならそれなりの使い方でと、覚悟を決めて購入した。

電源を入れてすぐに、システムバージョンアップがはじまったが、Google playから「GoodNotes」をダウンロードしても、ネットでの表現通り「立ち上がらない」のである。

ところが、だいぶ時間が経ってから、再度「システムバージョンアップ」があるというので、これを実施して、念のため一端アンインストールした「GoodNotes」にも再度挑戦したら、今度は作動したのである。

問題は、ipadで使っているこれまでのファイルをどうするか?なのだが、なんと、最新GoodNotesの料金体系にある「プロ版(年間サブスク4880円!)」にすると、iCloudのバックアップである、「OneDrive」から取り込むことができたのである。

お試し期間1週間も「プロ版」は無料ではなく、「63円」なる容赦のなさである。

このアプリ提供者は、これまでの「iCloud」から、自社の「GoodNotes Cloud」へのデータ保存移行を進めており、マルチプラットフォーム対応の要にする計画である。

なお、「BOOX Note Air5 C」には、ipadでいう、「スプリットビュー」ができるので、画面左に「GoodNotes」、右に、「BOOX提供の Note」を立ち上げことができる。

これから一週間お試しして、遣い勝手を見極めたい。

ポエマーは覚醒していない

ポエマーとはもちろん、小泉進次郎衆議院議員(神奈川11区:横須賀市、三浦市)のことである。

高市内閣の防衛大臣になって、過去の環境大臣やこないだまでの農水大臣のときとはちがって、巷には「覚醒した!」という評判がたっているようであるが、そんなことはぜんぜんないとかんがえるので書いておく。

なお、自民党は党内決定が優先される政党なので、閣僚の一存でできることは、カウンターパートの党内機関との調整なしにできることはすくない、といったん引いてみることが必要である。

たとえば、評判がすこぶる悪かった、岩屋毅外務大臣ではあったが、自民党の外交部会(政調会の下部組織)からどこまで糾弾されていたのか?は不明で、外国人へのビザ発給緩和に関しても、あたかも岩屋氏の一存でできた、というには無理がある。

外務大臣として最長の任期(安倍晋三内閣)を誇る?岸田文雄元首相の、いまだに不明な外交感覚がどこからやってくるのか?の疑問の答も、外交部会のコントロール下にあったとかんがえれば妥当であろう。

この意味で、「ヒゲの隊長」こと佐藤正久参議院議員が、外交部長をやっていたのを有権者はしっかりみていて、前回の選挙(比例13位で次点)で落選となったのは意義深いことであった。

石破内閣時代の外交部長は星野剛士衆議院議員(神奈川12区:藤沢市、寒川町)であった。
派閥は、谷垣グループから菅義偉グループという流れであるから、基本左派だとおもわれる。
いまは、高木啓衆院議員(東京12区:北区、板橋区の一部)になっている。
こちらは、民社党から安倍派という異色の人材にみえるが、その民主社会主義の基本思想からしたら、きわめて妥当だ。

自民党という組織は、企業組織のようなキッチリとした運営がどこまでされているのか?よくわからないことがあって、外交部会で決まったことが政調会をどのように通過するのか?を詳しくしる国民はすくないだろう。

不人気著しい立憲民主党などは、組織があるのか?も疑問だが、これもまた、マスコミが報道しない「闇」なのである。

そんなわけで、「族」ができるのは、政調会の傘下にある役所のカウンターパートたる各種「部会」の決定に依存しているために、ポエマーも「国防族」との肌が合うだけなのだろうと思料する。

アメリカが200年前の「モンロー主義」に回帰して、トランプ政権2.0の「国家安全保障戦略」をどこまで読み込んでいるのかさえも怪しいのである。
この発表とほぼ同時にトランプ大統領の署名をもって発効した「台湾保証実施法」を、単純思考で喜んでいる場合ではない。

軍事的にアメリカは、東アジア(じつは「東半球」)から撤退の様相を示しているばかりか、ヨーロッパからも引いて南北アメリカ大陸だけ維持範囲にする「縮小」を意図しようとしているのである。

だが、これがいまのアメリカの実力なのである。

だから、アメリカで一気に「日本核武装論」が花咲き始めている。
この戦後的上から目線の議論は、しかし、超大国のアメリカが君臨していた時代の上から目線ではなく、落ちぶれたために日本や韓国の面倒をみることが困難になった、ことからの弱気であって、しかも、軍事技術・製造技能を日本に依存する必要からのものである。

こんな状況から、中共の戦略を再考すると、脅威であることに変わりはない。

ポエマーが、あたかも自衛隊の総司令官のように振る舞うことに、とんでもない違和感があるのは、首相をないがしろにしているだけのことだからだ。

防衛大臣とは、軍政(予算執行と人事発令)を担当しているだけで、作戦は首相の権限なのであるし、予算を握るのは財務省なのだ。

どこまでも無能は無能なのである。

新フュージョニズムへのアンチ

伝統的な保守主義とリバタリアニズム(自由至上主義)とを、融合(フュージョン)させた、あたらしい(極右)思想を「新フュージョニズム」と呼ぶらしい。

この源泉にハイエクミーゼスといった両巨頭がいるとのことだが、その切り抜き・曲解をもって構築された思想なので、この自由主義者のふたりは草葉の陰でさぞかし憤慨していることだろう。

まさに、悪意をもって作られたのだが、それはまた、左派からの批判を誘導するために、わざと立場を偽って新フュージョニズムをいう者の方が追いつめられている、ともいえる。
もっと「軽い」が、これに似た、じつは左派なのに保守(拝米保守)を装っているのが、たとえば櫻井よしこ氏などがいて、すっかり騙されている大衆は多数いる。

「新フュージョニズム」を、「反グローバリズムとの闘い」として定義することも、「反グローバリズムの闘い」=「ポピュリズム」と決めつけることも、簡単にそうはいかない。
むしろ、「新フュージョニズム」が、「グローバル全体主義」の不利な状況から派生した「本筋」であることこそが、問題なのである。

いってみれば、詭弁を弄しているからである。

その「新フュージョニズム」の行き着く詭弁の先は、まごうことなきディストピアである。
人々は、国境なきグローバルな世界で「もの・カネ・情報」の溢れた生活に溺れるが、人間は国境の壁を乗り越えられず、人種とIQの選択による格差社会におかれる。
そして、『マトリックス』のような、仮想現実での家畜としての生涯を送らされる。

これを、「反トランプ」のための思想として描いているのである。
つまり、トランプによる「常識革命」の先に、上のようなディストピアがあるのだ、と。

伝統的常識がディストピアを招く、とは笑止である。

アメリカでは、トランプ政権2.0は、しっかりと「オバマケア」の廃止に動いているものの、日本では、確かに「新フュージョニズム」のディストピアをどのように回避するか?の議論すらない。
なので、まったく想定外であるために、回避不可能かもしれない危険がある。

それが、「福祉国家の先」なのである。

つまり、日本型(オリジナルは「英国型」)の「公的」社会保障制度が、とっくに(昭和36年)完備された社会での、「出口」を、人類はいまだに見出していないことにある。
もう半世紀も前の、サッチャー革命でも、なにもできなかったのであるし、英国社会の疲弊は、もはや阿鼻叫喚に近づいていて処置なしなのである。

ローマが滅んだ理由とはぜんぜんちがって、近代国家は公的福祉制度によって滅亡する

すなわち、この悲劇から逃れる方法としての、上級国民だけに与えられた上級(特権)ゆえのチャンスの正当化思想が、この「新フュージョニズム」にほかならない。

中流以下は、切り捨てられる運命なのだが、その中流には驚くほどの「危機感ゼロ」の状況がある。

まったくもって、『進撃の巨人』の一般住人のごとくだが、現実社会は「地ならし」しても平安はこないだろう。

しかして、覆水盆に返らず。
「新フュージョニズム」を考案したものも、中流以下の一般人も、双方が同時に「追いつめられている」のである。

急いでアンチ「新フュージョニズム」を考案しないといけないが、それは、上にリンクした『福祉国家亡国論』に答がある。

EUの発狂自滅の朗報

5日、EU委員会は、イーロン・マスク氏の「X」に対し、「デジタルサービス法」に違反したとして、約1億2000万ユーロ(約220億円)の罰金を科すと発表した。
なお、内訳は不明だが、法人としての「X」と個人としてのイーロン・マスク氏も、罰金対象なのである。

対して「X」は6日、この措置に対抗して、EUの広告「X」アカウントを停止したと発表、イーロン・マスク氏は、「EUは廃止、各国に主権を返すべきだ」と「X」にポストした。
停止してのはあくまでも「広告アカウント」であるが、EUはこのアカウントを用いて「本アカ」への誘導をしていたのである。

つまり、広告料を「X」に支払って、その「X」に制裁すると読者を誘導していたのであるが、「X」はそれでもEUの本アカは停止していない。

こうした応酬に、J.D.ヴァンス副大統領とマルコ・ルビオ国務長官が参戦し、EU批判を繰り広げる展開となったのは、あたかもアメリカとEUの破局にみえる。
ただし、8日の時点で、トランプ大統領は沈黙を保っているので、はたしてなにが飛び出すか?

それもそのはずで、ウクライナ支援金からの汚れた巨額のカネに対する捜査をしている、「欧州検察」とは、事実上、トランプ政権2.0の司法省の影響下にあるからで、EU検察もEU委員会とは切り離されているために、ウクライナの汚職捜査と同じ相似形なのである。

つまり、時系列から、2日の欧州検察によるEU幹部への家宅捜索と身柄拘束に対抗する手段として、「X」が血祭りに上げられる、という順であるから、これまでのイーロン・マスク氏とトランプ大統領の近さから、事実上のアメリカへの「報復」とみなすのがふつうだろう。

けれども、「言論封殺」にあたる、決定的な「悪手」を打ち出したことで、まさに「発狂」といってもいい状態に、EUトップが追い込まれたことを意味している。
とにかく「保身」の行動が、これだ、という醜態を全世界にさらしてしまったけれど、おそらく当事者たちは、ほくそ笑むという狂気にあるとおもわれる。

当然ながら、その当事者のひとりは、フォン・デア・ライエンである。

こうした派手な状況の裏で、わが国の高市早苗氏の政治資金問題が、「小さく」扱われている。
たしかに世界レベルの汚職からしたら「極小」にみえるが、五十歩百歩、なのである。

ときに、EU委員会による言論統制の準備は、かなり早い段階ではじまっており、5日に発表された最新のアメリカ合衆国国家安全保障戦略でも、「懸念」を通り越して、「非難」しているのである。

これには、今年2月のミュンヘンでのことをおもいださせる。

J.D.ヴァンス副大統領が、EU幹部の前で正々堂々と、「言論の自由」の重要性を説いたのである。

しかし、完全に無視どころ悪意ある方法を実行してしてしまって、引き返し不能点を超えた。

おなじく、わが国でも、SNS規制について自民党が画策しているのである。
まったく、隣国の全体主義を笑えない、とんでもないことである。