組織を「中」から変革できるか?

昨日から正月休みのひとはおおいのであろう。
1年どころか、日常をあらためて反省する意味で、よくいわれる「組織を中から変革できるか?」についてかんがえてみたい。

結論から先に書けば、「トップ」がやること、あるは「トップ次第」である。

つまり、組織の中にいる一般職や中間管理職には不可能とはいわないが、相応にハードルが高いといえるし、「トップ」の能力を組織は超えない、名言の理由でもある。
逆に、トップを無視して、現場が組織を支えている例は山ほどあるが、肝心要の決定ができないので、いずれ限界点を迎える当然があってそれには組織崩壊という現象がともなうものだ。

40年前、鉄壁と思われていたソ連と東欧衛星国の体制崩壊は、歴史的な巨大さだったが誰にもとめることができないものだった。

人心が離れるからである。

たとえば、李登輝こと岩里政男氏は、中国国民党の副主席として長年の間、トップである蒋経国(蒋介石の息子)総統を支える役割を負っていたが、蒋経国亡き後になって初めて「反国民党」の本音を語り、ついには自らの国民党政権での大変革を行ったものの、結局は外に出ることとなった。

トップではないうちは、偉大な「スリーパー」だったのである。

だが、そうやって、偉大なる李登輝を追い出した国民党は、元の木阿弥になっていまにいたる。
これは、トップを無視できる現場の完成された利権の巨大さが動じないためであろう。

この点で、ジョー・バイデンはバラク・オバマの傀儡として、ずっとトップではなく、民主党の幹部とオバマの命に従いながら、その報酬として私腹を肥やすことを容認されていたにちがいない。

この連中の犯罪が、トランプ政権2.0によって明かされて、いよいよ歴史に残る大量逮捕・起訴・有罪の初期段階にきている。

アメリカのトップが、あたかも韓国のお家芸のごとく裁かれる時代になった。

一方で、プーチンとメドヴェージェフの関係も「しかり」ではあるが、李登輝亡き後の世界で「哲人」政治家は、プーチンひとりだけになった皮肉が歴史の転換点をつくっていることはまちがいない。

ワシントン住人たる、伊藤貫氏によれば、プーチンは400から500年にひとりの「逸材」との評価なのだ。
なので、世界の問題は、プーチン「後」のロシアを誰が牽引するのか?にかかっている。

それにしても、李登輝のような「哲人」といわれた傑出した人物でさえも、そして、そんな人物がトップになっても、「国民党」なる一党独裁体制の大組織を変革することは困難なのだ。
シンガポールをつくりあげたリ−・クアンユーは超優秀ではあったが、やっぱり一党独裁体制を築いたので、豊かな北朝鮮=自由なきシンガポール、となっている。

EUのフォン・デア・ライエンが、あからさまに目指している全体主義化に、とうとうアメリカが「価値観をおなじくしない」と宣言して、「検閲」責任者たち5人をアメリカ入国禁止にしたのは、ヨーロッパ一般人への「クリスマス・プレゼント」になったとベートーベンの第九のように「歓喜」の話題になった。

マルコ・ルビオ国務長官は、今回の措置は網羅的ではない、と発言したので、もっと多数の制裁をすべく準備中だと示唆している。

言論統制を推進する自民党の誰か?もアメリカ入国禁止になるやもしれぬと期待している。

農家へのEUの攻撃に、農業が盛んなフランス・ムーズ県やらの役所から「EU旗」が撤去されるムーヴが起きて、どうやら全ヨーロッパに拡大しているという。
足元の地方首長や議会が、「反EU」で旗を撤去しないと、選挙に勝てない、地殻変動が起きているのではないか?とおもわれる。

これに、大統領やら首相職にある国のトップが気づかないのは、プーチン氏が皮肉ったごとく、「子豚ども」なる歴史的マヌケの複数名がいる。
そのプーチン氏は19日、年末恒例の、4時間半の休憩なし連続テレビ生放送で国民対話を行って「実力」を世界にみせつけている。

昨今の国内例なら、高市自民党総裁が総理大臣として推進すると明言した、「国旗損壊罪の立法」に、なんと自民党の地方議員たちが堂々と反対を表明する、組織論としてはあってはならない事態が起きている。
まるで国民党のようなのである。

ここで、誤解のないようにしたいのは、「反対者を口止めしろ」といいたいのではない。

なんであれ「法案」を通す、というトップの発言が、なんと組織内の承認がないままである可能性の驚きなのである。
これを、トップの総裁たる人物が一存でなにがなんでも「通す」としたら、まさに「独裁」となるからである。

高市氏は、安倍政権時に政調会長を経験している。

すると、当該法案についての党内手続はどうなっているのか?という問題と、「国」と「地方」における、「政党としてのガバナンス」というふたつの問題が生じるのである。
前者は「政調会」での決定(基本的に全会一致)が必要だし、後者は、「政党の政治主張の一貫性」に対する曖昧さがあると指摘できる。

政調会での決定は、そのまま内閣に伝達されるので、内閣は行政におけるボードとしてこれを実行に移すのが仕組みだ。
つまり、政策決定において政調会は内閣の上に存在する建て付けになっている。

一方、政党の政治主張の一貫性が曖昧なのは、自民党は一般に「自分党」と揶揄されるがごとく、議員は自身の「後援会」組織によって支えられていて、地方議員にいたっては国会議員で構成される党本部とのちがいがあっても、「自由」という名目の下に、あんがいと好き勝手ができるようになっているからだ。

これに、明治からの藩閥体制の延長で、「都道府県連」というそれぞれの行政区画別に現職の国会議員団が会長を選出し、その都道府県内の議員を引き連れる体制としているが、存立理由は「選挙」のためのもので、選挙区毎の国会議員⇒都道府県議会議員⇒市区町村議会議員というピラミッド構造ばりの親分子分関係が、そのまま選挙での活動力となっている。

つまり、個々の議員の後援会自体がヒエラルキーを構成しているのである。

すると、自民党という政党における「組織」とは、上にいう後援会組織のことであって、党本部との統一的政治主張においての調製をになう会議体もないことがわかる。

「勝手連」なのだ。

よくもこんな政党を「政党扱い」してきたものだが、こうしてみると、自民党は政党とは呼べないヘンな集団である。

30年以上の悪政によって国家が衰退する局面になって、ようやく顕在化してきた。

この組織とも呼べない政党を「中から変革する」のは、不可能であることがわかる。
組織ではないからである。

ならばいかなる方法があるのかといえば、選挙で敗退させて、政界から追放するに尽きるのである。

これがまた、来年の希望の光になっている。

パリは燃えていないが牛糞だらけ

大規模な農民一揆がパリに集結し、マクロンが住まう住宅の壁に牛の糞が塗りたくられている動画が「ニコラ 葉山のフランス人」さんによってアップされた。

ことの発端は、2022年のオランダでの農民一揆とおおきくはかわらない。

世界経済フォーラムとそれに命じられるままのEU委員会とマクロンをはじめとする、クラウス・シュワブが認定した「若手リーダー」の悪政が原因である。
この「若手リーダー」には、コオロギ食を推奨した河野太郎も含まれているし、日本人で評議員なのは竹中平蔵だ。

オランダでは最長を誇っていたルッテ政権が倒れ、ルッテはNATO事務総長へ昇格した。
選挙をしたら負けるのがわかっている、いまのマクロンは、EU委員会委員長の座を狙っていると噂されているが、EU自体が継続できるのか?はなはだ疑問な情勢である。

結局、アメリカの支援がなくてはEUもNATOも存続できないことが、ウクライナで明らかになったし、アメリカの国家安全保障戦略ではEUを見棄てているのである。
これに、J.D.ヴァンス副大統領を筆頭に、EU内の言論統制をもって、「価値観をおなじくしない」と明言して突き放している。

ブッシュ父からバイデンまでの戦争屋たちが仕切った40年が終わったことに気づかない「甘え」と「貴族社会の奢り」が、致命的なのである。

オランダのときとちがうのは、外国からの農産物輸入を「解禁する」という条件が加わったことにある。
「解禁=ほぼ無条件」というのは、農薬もなにも安全性について輸入規制の対象外、というあり得ない条件なのである。

ただし、EU域内の農家は、従前からの規制の対象がはずされることはないばかりか、アフリカからの牛の伝染病に対して、「鳥インフルエンザ」と同様の処分を適応すると定めてしまった。

つまり、オランダのときの「農家潰しの目的」はおなじだが、手段がより厳しくなった。

なぜにこれまでして農家を潰したいのか?
それは、人類の個別(栄養)管理=全体主義の徹底、のためであるし、破たんした農家からの農地を資産運用会社が格安で購入して、現場職員として自由農民や不法移民を採用し、安価な労働力として「農奴」の地位に転落させることも意図しているとみられていることにある。

日本政府の悪辣さとはレベルがちがうが、わが国の「農政」における方向性は、EUとかわりがない50歩100歩だから、「米不足」の本質がヨーロッパの農政からも理解できるというものだ。

そういえば、「若手リーダー」には、小泉進次郎の名も、高市早苗の名前もある。

その高市政権は、驚異的な70%越の支持率を維持しているとの「世論調査結果」がマスコミ各社から発表されているけれど、まったく信じるに値しない。
もし信じるならば、日本人はヨーロッパの「元農奴」たちよりも悲惨な知的問題をかかえているといえる。

はたしてマクロンは、ドイツのメルツがいいだしてフォン・デア・ライエンがその気になった、ロシア凍結資産の無断使い込み(所有権の侵害)をちゃぶ台返しして、恨みを買っている。

メルツは、資産運用会社で世界最大の「ブラックロック社」におけるヨーロッパ本部会長だった人物だ。
それと、メルケルに見出された医者がフォン・デア・ライエンだから、ドイツ人のふたりが揃ってフランスにしてやられたのである。

この手柄で、モスクワに乗り込んでプーチン氏との単独会談を画策し、アメリカ和平案を潰せたらナポレオンのごとく英雄になれるとでもおもっているとしら、プーチンにどんな言葉を浴びせられるかも現代史に残る「おマヌケ」となるだろう。

すでに、プーチン氏はこれらヨーロッパのおマヌケたちを「子豚ども」と呼んでいる。

ロシア語でいう「子豚」とは、やっぱり「おマヌケ」のことなのである。

「お花畑」と「リアリスト」の平行線

ふつうは「水と油」という。

セパレート型ドレッシングが「新発売」されたのは、キューピーの歴史によると1973年のことである。
どんなに振って混ぜても、元の分離状態になるのが面白くて一生懸命に振っていた記憶がある。

それまでマヨネーズが主流だったが、これを境に液体ドレッシングという「油」が主流になった。
ちなみに、インバウンドの外国人がはまる日本のマヨネーズは、「卵黄だけ」が原料でこれにうまみ調味料が加わる独自仕様だから、外国で主流の「全卵」とは別物なのである。

先日、横浜のJR桜木町駅前で、混声コーラスの歌が聞こえたのでなんだとおもったが、「核廃絶」を訴える元全共闘とおもわれる幸せそうな老人の皆さんの演奏だった。
いつかみた、「安倍政治を許さない」とあるステッカーをリュックにつけて歩いていた集団をおもいださせる不気味さの共通がある。

この独善はどこからやってくるのか?

ちょうどセパレート型ドレッシングが発売になったころ、「ウーマンリブ」運動の榎美沙子というひとがテレビのワイドショーによくでていて、子供心にどんな生い立ちのひとなのかを疑う違和感を拡散していた。

そういえば、アメリカでかならず政治問題=選挙での投票行動に直接影響するのが、「中絶問題」であるけれど、逆神の民主党が「女性の権利」をいうところがもう怪しいのである。

それよりも、レイプがふつうになっている社会が先にある。

かならず10年以上の「遅れ」でこうした問題も日本に輸入されるが、小・中学校の校内に仕掛けられた「盗聴器・盗撮カメラ」をどうやってみつけるかの研修が実施されるまでの被害がでていて、捕まる犯人が現職教師という無様であるばかりか、実の父親たちがネットワークをつくって、実の娘を撮影した児童ポルノを回し観していたことも暴かれる時代となった。

ローマの廃頽ここにあり。

一方、共和党は共和党で、「道徳社会の実現」なる対策をもって掲げるが、これはこれで「お花畑」なのである。
それで、リアリストのトランプ政権2.0は、レイプに厳しい対応をしていて、「中絶」については「女性の権利」とはしないで、「柔軟な対応」としているのも宗教絡みなのである。

すると、日本における「新興宗教」としての榎美沙子という教祖がいたとわかるし、その系統の布教活動の一派が全共闘なる運動だったのか?
彼らは、みごとに体制側のサラリーマンになったものの、退職後に、あらためて活動を再開したとかんがえられる。

それに、元が勉強エリートだから思想信条の自由がある公務員になって、行政から議会を牛耳る方法で実現させ、よって社会改変をするという方法が有効になったのである。

18日、首相官邸の役人が語ったという「核保有」発言が、セパレート型ドレッシングの様相をしめしている。

女性初の副大統領だったカマラ・ハリスの発言を「ワード・サラダ」といって、「意味不明」の代名詞としたが、わが国ではセパレート型ドレッシングの意味不明となっているとみる。

マスコミや野党政治家だけでなく、与党で防衛大臣を何度もやって、自身も防大出身という中谷衆議院議員も、なんだか「反発」するかつてからの「慣性の法則」に従っているところが興味深い。

防大はリアリストを養成することに失敗しているのか?

それはさておき、見事な「昭和」感覚が生きていることに驚くのである。
最も重要な視点は、「事情変更」の有・無である。

いま、昭和となにが事情変更されたのか?といえば、
・アメリカ軍の衰退(装備の劣化と人員不足)
・仮想敵国が大量保有する核と、中距離ミサイル群の圧倒による第一列島線の制御不能
・仮想敵国が東南アジア珊瑚礁に築いた「基地」によるシーレーン封鎖の危険 などだ。

むろん、これに、当ブログでも触れている5日発表の新たな「アメリカ国家安全保障戦略」も、じゅうぶんに事情変更と認めることができる。
アメリカは、かつての世界の警察官的行動はしない、と宣言しているだけでも、わが国にはおおいに「昭和」とはぜんぜんちがう事情変更なのである。

さてそれで、「犯人探し」という愚劣に血まなこを挙げるのだろうが、発言者本人の意図は、「核武装させない」ための「核武装論」だったともかんがえられるから、セパレート型ドレッシングだといいたいのである。

なにせ、勉強エリートしか高級役人になれないのだから、その思想背景は「左翼」にきまっているといっても差し支えないほど、わが国のエリート養成大学は「左傾化」している。

つまり、成績優秀なほどその国家観は「お花畑」で怪しいのである。

とすると、マスコミやらの「お花畑」チームが騒いで犯人探しをしている相手は、これらの仲間である可能性があって、その場合、暗視カメラもない中での「同士討ち」にもなるマヌケとなるのである。

これぞ「お花畑」チームの「お花畑」たるゆえんである。

なんとなれば、「お花畑」な脳は、どんなに事情変更の事実があろうが、ずっと「お花畑」でしかないので、かならずやセパレート型ドレッシングのように分かれる。

これをふつう、平行線というのである。


悲惨の平等な分配

むかしからいわれてきたのが、「平等」についての議論である。

入口と出口という区分から、「機会(チャンス)の平等」と「結果の平等」とがあって、とかく外国社会は前者、わが国は後者だという指摘である。

それで、小学校の運動会で、みんなで手をつないでゴールすることが美徳になるようなことがおきた。

わたしが小学生だったころの昭和40年代、高度成長期とはいえまだまだ貧しかった時代、小学校の運動会でも、ゴール順に「ご褒美」がもらえたし、新学期とかの節目には「紅白饅頭」が配られたものだ。

この費用はどこからでていたのか?

もらってくる小学生本人たちはかんがえることもしなかったが、家族もよろこんでいたので不明なままなのである。
それで、わたしはだいたい2着か3着で、折り紙をゲットしたが、1着の子がなにをもらったとか、ビリの子がどうしていたかのはっきりした記憶がない。

ただ、一着と2番手3番手それにビリとでは、中身がちがっていたのは覚えているし、ビリだとなにももらえなかったかともおもう。
それで、6年生になると過去5回の経験から、運動会だけ張り切る子とそうでもない子がいたが、いつもビリだからといって悲惨だったわけでもない。

それもこれもだんだん贅沢になっていたので、べつに折り紙が欲しい、と強くおもわなくなっていたからである。
むろん、学校も工夫していて、低学年では名前の順で組を決めていたが、高学年になると実力順のようになって、けっこうレースとしての意味があったのである。

ただし、公的な学校教育(いまは「私学」すら公的である)では、明治からずっと「よき兵隊」になるための集団主義をたたき込まれる。

これが、ウクライナの場合、集団主義教育に失敗したとおもわれるのが、「脱走兵」の数でわかる。
それが都合の悪い情報になると気づいたゼレンスキー氏は、裁判所に被告となる脱走兵の数を公表しないように命じたことがニュースになった。

アメリカの和平案のオリジナルはウクライナ軍60万人だったのに、EUのちょっかいで80万人に修正されたけれども、この数がそのまま脱走兵の数とおなじなのである。
それで、いつものようにウクライナが、ロシア軍の脱走兵が悲惨な数になっているとの偽情報を発しているのは、自分のことだからである。

気がふれたEUは、ロシアからの戦後賠償金を本気で期待している。

どうして戦勝国が敗戦国に賠償金を支払うのか?前代未聞だ。

ときに、わが国は「失われた40年」になろうとしているけれど、これは、結果の平等を追及するあまり、雇用を損切りの対象とする決断をしないできたためのコスト負担(デフレになる)が原因であると、斉藤ジン氏が『世界秩序が変わるとき』で明言している。

手をつないでゴールするように、みんなで雇用を維持したかわりにみんなの賃金が減ったので、貨幣価値があがってデフレになったというわけだ。

結論は支持できても、アプローチに不満があるのは、斉藤氏は政治家も国民の要請を受けて雇用維持につとめた、というが、わたしはそんな意思や意識をもつ政治家が与党(じっさいは「自・公・立憲共産」政権)にいたとはおもえず、むしろ、学校秀才ゆえに結果平等を擦り込まれた官僚が政策立案する制度的欠陥に原因があったとかんがえている。

はたして、議院内閣制は機能するのか?を再考すると、世界初の議院内閣制をしいた英国の悲惨は、ケインズが大蔵官僚だったこともふくめて、官僚が政策立案にあたることの欠点をどうするか?にある。

この点で、アメリカの大統領制は議会との二元制であることに注目したい。

もっといえば、わが国の「地方自治=首長と議会の二元制」の体制が、アメリカ合衆国の体制に近いのであるけれど、わが国のばあいは首長(行政)が予算案を策定することに、骨抜きの欠陥があるとかんがえる。

アメリカ大統領(行政府)は、予算策定権限をもっていない。

ようは、結果平等の悲惨な分配は、議会主導であることとは関係なく、むしろ、行政官僚に輪をかけて無能な議会が、「追認機関」に成り下がっていることに問題の根源がある。
これは、制度的な欠陥であって、それゆえに無能でも議員が務められ、選択肢のない住民は選挙に行かないという選択をしているのである。

そうやって、選挙とは無縁の官僚主導がいよいよまかり通ることでの「悲惨」が、あまねく平等に分配されるばかりか、政府が肥大化して自滅の道となるのは、『隷属(隷従)への道』のシナリオのとおりである。

ようは、共産化だ。

これはこれで、歴史の必然なのは、なにも唯物史観=マルクスが正しいのではなく(かならずまちがっている)て、制度設計上の欠陥なる単純さにある。

この点で、わが国は「明治体制」のままなのである。

明治体制は昭和に破たんをきたしたが、これを温存したGHQの先見の明とは、わが国にある「自爆装置」を意識的に放置した、悪魔的研究の成果、であろう。

これを「知日家」と呼ぶことの悲惨もまた、自虐的に過ぎるのであった。

『チ。』は欧州を逆転させるか?

サブカル世界のなかで、日本の地位は圧倒的だと評価されている。

サブカル=サブカルチャーの対義語は、メインカルチャーである。
それで、おおいに影響された外国人が、メインカルチャーの扉を開けて、日本文化の深層に迫ろうと、まずは日本語を学ぶことになっているし、日本食のお手軽入門としてラーメンとカレーが世界各地でヒットしているのも、「マンガ」にこれらを食べるシーンがあるからだ。

当然だが、いまはインバウンドの旅行客がこうしたカルチャーを実体験し、それをSNSにアップしてどれもおなじではあるが、「絶賛」しているのである。

衝撃的なのは、「I教」の国からやってきた人物が、トンカツ定食やカツ丼、あるいは豚肉入りのカレーを頬張って、「(豚肉が)こんなにうまいとはしらなかった!」と破戒の動画まで出している。
帰国して無事でいられるのか?観ている方が心配になるのである。

これもひとつのグローバル化で、日本文化が世界文化に混じりだしている。

言語とは、思考に必須の基礎条件なので、日本語を学ぶこととは、そのまま日本思想を学ぶことにも通じる。
こうして、日本人の宗教観が一般的に「無宗教」といわれていたことの安易さのベールが剥がれて、あらゆるところに神が宿る宗教思想の深さも外国人にバレだしているのである。

薄れたとはいえ、キリスト教のいう「絶対神」との究極的対岸にある日本の八百万神を識れば知るほどに、はまり込むようにできている。
なぜなら、「十戒」をわざわざ書き出さなくとも、日本思想における当然が「不文律」で通じることの方が、「J教・C教・I教」徒にとっての驚きとなるからである。

この意味で、「不思議の国ニッポン」は、うそではない。
逆に、日本人が欧米の価値観を識れば知るほどに、泥沼の文化に嫌悪するようになるのも驚きではない。

「鬼畜米英」には、真理がある。

それだから、欧米に生まれて自国文化に違和感を覚えさせる日本発のサブカルが、最強といわれるゆえんがある。
つまり、目醒めさせてしまう、のである。

その最強中の最強が、「マンガ=コミック」の膨大な作品群である。

たとえば、『ベルサイユのばら』は、とっくにひと世代を超えてフランス人のフランス革命の教科書になっている。
超複雑な革命に至るまでの経緯と、その後の超複雑を、かくも視覚化した成功例はないからで、池田理代子氏がレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ)を受賞した理由がここにある。

良くも悪くも、「ベルばら」は、フランスの「旧農奴」階級たちの役に立っている。
この圧倒的多数の支持に、エリート層が屈服したそれ自体が「革命的作品」なのである。

すると、中世ポーランドを舞台とした『チ。地球の運動について』の影響はいかに?が気になるのである。

ポーランドは、基本的にカソリックの国だし、なんといっても史上最年少にして史上初のポーランド人教皇「ヨハネパウロ二世」を産んだ国である。
そのヨハネパウロ二世(本名:カロル・ヴォイティワ神学博士)は、旧都クラクフ(17世紀までポーランド王国の首都だった)近郊の出身で、クラクフの司教から大司教、そして枢機卿となって教皇となった人物である。

なので、クラクフの教会には、日曜日にいつもそこから説教していたという窓に等身大の写真を置いて、あたかも見あげる大衆をいまも照らしているのである。
しかも、この旧都は、ポーランド国内では「珍しく」、第二次大戦における破壊から免れた街で、完全破壊されたワルシャワなどの都市とはまったくちがう。

しかして、ポーランド人は、執念でワルシャワの旧市街を「復元」した
あらゆる資料(写真や絵画だけでなく文書)と住人の証言から、石材の欠けや鉄門扉のサビまで細部にわたっての復元は、この街観光の目玉なのである。

ところで、そのクラクフにある、「クラクフ大学」に、あのコペルニクスが学んでいる。

よって、『チ。』のポーランド語版は、確実に衝撃的な内容として広がるだろうけれども、一方で、教会が厳しい態度をとるやもしれない。
ならば、フランス語版、ドイツ語版、英語版はどうか?

邪悪なEU委員会が、かつての教会にかわって「言論弾圧」をしているいま、この作品をどのように扱うのか?は、興味深い。

そのEU委員会を支えているのが、英・仏・独の現政権なのであるが、この3国とも歴史的な不支持がひろがっている。

一方で、バチカンを抱えるイタリアはどうか?

微妙なのである。

試金石とはこのことなのである。

異端として火あぶりにされたヤン・フスや、ガリレオ・ガリレイの「地動説裁判」における名誉回復などを公式に発表したのがヨハネパウロ二世だったのである。

それは1992年のことで、教会が地動説を認めてまだ33年しか経っていない世の中にわれわれは生きているのである。

「C教」が滅んで「I教」が残るわけ

大本は「J教」だが、こちらは血の繋がりなくして拡大しないことになっているから、世界に散らばった民族ではあるけれど、「世界宗教」にはなれなかった。

そのJ教の中から出ると信じられた「救世主」が、なんと、自分の名をかざす新しい宗教を立ち上げた、ことになっている。
むろん、これはその人物の死後のことであって、最初の「新訳聖書」が成立したのは100年後以降のことである。

なんにせよ、いろいろな確執もあって、初期の頃からの血生臭い対立の歴史は、そのまま「肉食の思想」を基盤としている。
たとえば、『ダヴィンチコード』で蒸し返された、「グノーシス派」とかの複雑は日本人には難解である。

これがまた、陰謀論の傑作『20世紀のファウスト-黒い貴族がつくる欺瞞の歴史』となってまとめられている。
もちろん、「陰謀論(Conspiracy theory)」とは、JFK暗殺後にCIAが発明したプロパガンダ用語である。

『チ。』における、「C教」の支配がその後の衰退につながっていることはまちがいない。
しかし、『チ。』以前のイスラム世界は、はるかに進んだ文化・文明下にあったことも事実である。

それで、「I教」の文化圏は、「C教」の支配下に置かれるという逆転となったばかりか、「石油」利権による虐待的な状況にも置かれたのである。

たとえば、ついこないだまでのサウジアラビアは、およそ観光収入を目論むことなどなかったばかりか、I教徒以外には滅多に「観光ビザ」での入国もできなかった。

この点からすると、「石油後」を意識するサウジアラビアの現体制は、まったくもって過去のサウジアラビアではない。
むしろ、本当に「石油後」をかんがえる必要があるのか?と疑うのである。

おそらく、西側(C教)からの洗脳に嵌っていないか?

ここでいいたいのは、イスラム圏の「(C教圏に比べて発展の)遅れ」が、かえって現代最強の世界宗教になった理由かとおもわれる。

つまり、「天国」を信じるものが支えているのである。

「I教」における「天国」とは、経典にあるように、「酒池肉林」のイメージである。
ために、現世においては、「酒」も「(豚)肉」も、さらに「肉欲」も禁忌の対象となっている。

預言者ムハンマドが「妻を4人まで認めた」のは、聖戦(ジハード)の結果、未亡人となった人口割合からの女性救済策であったが、「平等に愛する」ことが条件のために、現代では高所得者ほど4人も妻帯することは厳しくなっている。
なお、ここでいう「平等」とは、日本人が大好きな「結果の平等」をさす。

なんにせよ、「天国」を信じていることが重大なのである。

しかして、現代の最先端科学では、「アカシックレコード」の存在が物理学の事実として認識されている。
個々人の「生」のすべてが、宇宙の彼方にある壁に書き込まれ記録されている。

つまり、ここが現代物理学でいう「天国」なのだ。

「I教」として、これを認めるか認めないか?は、「C教」にとっての「地動説」と同じく、重大なインパクトがあるだろう。

日本人にとっては、「お天道様が見ている」が、本当だった、という意味となる。
「アカシックレコード」の解読に成功したら、わたしの人生もすべて、他人に晒されるのである。

神との契約が、「死」をもって終了する「C教」には、ますます厳しい。

研究者がこぞって、「仏教」へ帰依するというのも頷けるものの、日本の仏教は仏教ではない、という大問題がある。

崩壊の闇から、ヨーロッパで「神社」が流行りだしているのは、決してブームではなく、行き着く先の合理性なのである。

つまり、「I教」は「C教」よりも残る宗教とされるものの、日本の「日本教」が世界最強なのである。

来年からは、アメリカの都合からも、日本(経済)の復活があると予想できるのは、「心」の面でも最強だからであるけれど、これを自虐して否定したい向きとの闘争になるのも必定で、選挙での決着が求められているのはこのことをいう。

ロシア国防省の衝撃発表

昨年12月17日にモスクワの自宅アパートから外出しようとしたところ、電動キックボードに仕掛けられた爆発物で暗殺されたのは、ロシア軍化学防護の専門家イゴール・アナトリエヴィチ・キリロフ中将であった。

本件について、ウクライナ保安庁は正式に犯行を認めている。

ロシア軍が「特別軍事作戦」を発動した当初から、キリロフ将軍配下の放射線・化学・生物防衛部隊はまっ先にウクライナ国内に複数箇所存在している「化学研究所」を強襲・占拠して、そこでの研究内容を調査して発表していた。

これら「研究所」では、じつはアメリカ軍が「化学兵器開発」をやっていたのだが、この事実も、当時のビクトリア・ヌーランド国務次官(ネオコン=戦争屋の女王との異名がある)がアメリカ連邦議会の公聴会であっさりと認めている。

つまり、キリロフ将軍の報告は、アメリカも認めるものであったが、ウクライナのナチス、ゼレンスキー政権には非常に都合が悪いのであった。
なぜなら、この政権は、東部4州において、「自国民」に対して、化学兵器を用いていたからである。

そして、いつもの通り、「ロシア軍の非人道的蛮行」だと言い張っていたのである。

しかも、それをそのまま報道していたのが西側メディアであって、EU委員会もこの説にのってロシアを非難する態度を貫いている。

ところが、アメリカが政権交代して、「悪事」がバレたのである。

12日、キリロフ将軍の後任、アレクセイ・ルティシェフ少将がウクライナの核・化学・生物兵器に関する資料の分析結果を発表し、その模様を「マタタビの羅針盤3」さんが日本語翻訳した動画を上げている。

まことに衝撃的な内容である。

また、これよりすこし前の11月28日、ウクライナ検察(じつはアメリカが仕切っている)による家宅捜索をうけて、辞任したイェルマーク大統領府長官兼大統領主席補佐官のタックスヘブンにある個人口座が暴かれて、なんと、日本円換算して4000億円(400ではなくゼロがひとつおおい)もの蓄財がされていたことが判明した。

さすが、汚職大国、なのである。

自民党の裏金問題の総額は、清和会(安倍派)、志帥会(二階派)、宏池会(岸田派)あわせて、18億円弱であったから、「世界」のレベルからするとある意味情けないほどにチンケなのである。

これまでの西側諸国からの支援金のうち、どのくらいのカネが政府高官のふところに入ったのか?は、捜査中、であろうが、兆円単位になるとかんたんに予想できる残念がある。

つまるところ、ゼレンスキー政権の高官にとって、戦争が絶好の裏金ビジネス、になっているのである。

しかして、EU委員会は、凍結しているロシアの金融資産の強奪を試みているものの、貿易決済に不可欠なシステムを破壊することの警告を無視してまで強引にすすめる理由はなにか?が問われ、ウクライナの汚職のEU拡大版たる巨大スキャンダルが視野に入ってきている。

これは、あたかも、ローマカソリック教会の自滅をおもわせる事態なのである。

それでも教会はいまにも残っているが、EUの存続はほぼ絶望的な状況にある。
これはこれで、ヨーロッパの大衆(元農奴)にはよろこばしいことに相違ないが、あくまでも政府依存に洗脳されたやっぱり「元農奴」たちであるから、よろこばしいことだという認識に欠けているのも驚きなのである。

こうした変動に、あろうことかドイツ政府は、「兵制」を強化する法案を成立させて、徴兵制一歩手前までになっている。
当然ながら、対象となる世代=若者の反発はおおきく、より一層、AfDへの支持を高める「悪手」を打っている。

だが、AfD禁止法案もあるので、「悪手」としない理屈をもっているのだろうが、トランプ政権2.0と決定的な対立を呼び込んでいる「悪手」に気づかないのも驚きなのである。
そのトランプ政権2.0は、クリントン・ブッシュ・オバマ・バイデン政権の闇を暴き出していて、民主党に政権交代させるスキを与えなていない。

とくに、トランプ政権1.0を阻止(政権転覆)とした現職のオバマの企みについて証拠をつかんでいると発表済みであるから、あらためて「国家反逆罪」を立件させるのではないかとおもわれる。

アメリカ人は、こうした「損切り」ができるが、日本人にはできない民族のちがいが歴然としているのである。

そんなわけで、米・露は、次の世界、の地盤固めをしていて、旧世界のEUの絶望的な悪あがきは続くのである。

2025年の冬至を迎えて、明日からは「太陽の力」が増してくる。

あたかも、地球の運動と連動しているかのようなようである。

問題作『チ。』の問題

正確な原題は、魚豊(うおと)著のコミック『チ。 地球の運動について』(全8巻)のことで、「天動説」対「地動説」を巡る、中世キリスト教会が仕切るヨーロッパ社会の闇をクローズアップさせた問題作である。

そこで、この作品が提起する「問題」を、浅はかにも「解題」しようと試みてみたら、さまざまな問題にぶつかってしまい、なかなかに「結論」を得るのが難しいとわかるので書いておく。

そもそも、日本人とヨーロッパ人とは、あからさまな交流が歴史上「なかった」ために、あまりにも「育ち」がちがう。
これを、食文化とか農業上の気候や土地(土壌)とかの制約で、まったくちがう「文化」を形成したと明らかにしたのが『肉食の思想』であった。

対して、ヨーロッパから日本をみたときに、レヴィ・ストロースエマニュエル・トッドがいう、「家族」構成のちがいも重要な「区分」を可能としている。

さらに、日本の場合、縄文時代の記憶が無意識の民族の記憶になっていて、そこにある宇宙観は、まず太陽と月からなっていた。
太陽の神、アマテラスと、正体が不明のツクヨミとの関係は、明治5年までの「太陽太陰暦」として、日本人全員の生活を支配していたのである。

しかるに、その明治政府は、「欧化策=文明開化」の名目で、伝統的で習慣的な文化破壊を試みた。
「廃仏毀釈」もそれの典型であったし、キリスト教的な一神教ゆえの「自由経済」のために、「四民平等」を推進した。

このとき、「四民平等」の揺るぎない「平等」を達成するための「大権威」として、キリスト教でいう「三位一体の神」に代わって、日本では「現人神」を発明するに至ったのである。

ニーチェが100年前にとなえた「アンチキリスト」の預言通り、ヨーロッパにおけるキリスト教の絶望的衰退(『チ。』にある自爆)によって、「自由経済」の基盤が破戒され、科学万能主義から科学をあやつる上級者と、科学に従う下級者に社会を分断し、とうとうそれが「所得」になってあたらしい「身分制」をつくりだしている。

だが、ヨーロッパの人間は、ニーチェが示した「超人」とはならなかった。

このキリスト教の崩壊は、とうとうアメリカにも波及して、アメリカ社会の分断を押し進めている。
あたかも、アメリカで社会主義勢力が民主党内部で台頭しているようにみえるのは、「科学」をまだ信じているからだし、そうやって子供が公教育で洗脳されているのである。

こうした点をふまえると、GHQがやった「天皇の人間宣言」が、明治新政府が築いた日本社会の破壊しか目的にしていないことがわかる。
だが、日本人の無意識にある縄文の記憶が、運良くアメリカによるソ連への対抗手段としての日本経済発展に結合して、先進国にさせられた、のだった。

そこで、はなしをヨーロッパに戻すと、プロテスタントのドイツでナチスや、カソリックのイタリアでのファシズム、あるいはロシア正教会があるのにスターリンの全体主義が台頭したのは何故か?という問題に突き当たる。

これを丁寧に分析したのが、ハンナ・アーレントの主著『全体主義の起源』であるし、その例解としての『エルサレムのアイヒマン』であった。

さてそれで、『チ。』の舞台は、「異端審問官」がいる中世キリスト教社会である。

わたしは、記号論の権威、ウンベルト・エーコ教授が書いた世界的バストセラー小説『薔薇の名前』を想起する。
主人公の修道士は、『煩悩☆西遊記』の三蔵法師のような煩悩に生涯にわたってさいなまれるのだが、舞台当時、宗教としての権威がキリスト教会にまだあったことを示している。

しかして、この物語での「薔薇」は、あたかも原人のような「もの」で、日本人がしっているヨーロッパ人とはかけ離れている。
これぞ、ワーグナーの『ニーベルングの指環』における野人なのであるし、これらのひとびとが「農奴(serf)」であった。

なんにせよ、ギリシアを起源とするなら、なぜにソクラテスは死んだのか?にはじまる、「智」を断罪する歴史がある。

だから、『チ。』の「チ」とは、「智」=「知性」のことであろうし、現代の「反知性主義」との対峙もしっかり描かれている。

そして、現場でこれを裁くのは、アイヒマンのタイプ=悪の陳腐さ、あるいは凡庸さそのものの人間による。

しかし、一般に、人間とはふつうは凡庸な生き物なので、だれでもアイヒマンタイプにあたるのである。

これをどのように回避するのか?

ヨーロッパでは、シューペンハウアーの『幸福論』における「孤独」が、日本では、空海の「孤独」が、なぜだか一致点を見出しているのである。

なお、かくも酷い拷問と魔女狩りに明け暮れたキリスト教会の野蛮さが、とうとう「神は死んだ」こととなって、今度は「科学万能」によって、人間が酷い目にあっている。

この世に中庸がないのが、問題なのである。

司法によるグレートリセット

カナダの裁判所が、先住民の土地権利を認める判決をだしたことから、「グレートリセット」がはじまっている。

詳細は、「カナダ人ニュース」さんが伝えている。

当然だが、国境をまたいで、アメリカ合衆国側の先住民も権利主張の競争に参加しそうなのである。

これは、「建国の歴史の否定」につながる大問題に発展する可能性があって、カナダの極左自由党政権では解決できそうもないし、その意思すらないのではないか?と疑う。
しかも、こうした歴史の否定がまかり通るようになれば、世界各国のそれぞれの「事情」を揺さぶって、寝た子を起こすどころのはなしではなくなるだろう。

「民族主義」が台頭したのは、欧米列強による苛酷な植民地主義(帝国主義ともいう)の反動だったから、米ソ冷戦の時代には、この二極に与しない「第三世界」の区分があって、そのリーダー格は大英帝国に好きなようにされたインドだった。

いま「第三世界」は、BRICSに脱皮しているものの、どちら様にも内部には民族問題があるのも事実なのである。
つまり、カナダ「だけ」の問題ではなく、全世界規模の紛争になりかねない「火だね」なのである。

わが国の場合には、北海道と沖縄がやり玉にあがるだろう。

極左、菅義偉衆議院議員が、総務大臣時代と総理大臣時代にやったことは、みごとな禍根を残す、絵に描いたような悪政であった。
一般に、安倍晋三内閣から、菅内閣を飛ばして、岸田・石破に続く「歴代」の売国を批判するけれども、岸田・石破とは別格の悪辣が菅内閣によって実行されている。

それが、「アイヌ新法」だし、「ふるさと納税制度」だった。

しかも、実質「菅派」を、自民党神奈川県連が形成している。
衆議院小選挙区20の全部に自民党議員がいて、さらに神奈川選挙区で3人の議員がいるのは、「保守王国」ではなくて、かつての「革新勢力」に乗っ取られた姿なのである。

それでカナダなのだが、司法の一方的な「判断」は、いかなる「法」によるものなのか?という当然の疑問が湧き起こるものだ。
過去、先住民にした人でなしの行為は深い反省に値するが、7世代後の現代において「弁償」としての「土地所有権の復活」が適法性のあるものなのか?

しかも、そこが先住民の土地権利が残存すると知りながら購入したひともいないし、登記できたことへの賠償もない。
だが、建国の歴史から類推すれば、国中の土地が先住民の権利だとわからなかったのか?ともなって、首都の官庁街すらも返還あるいは弁償の対象になるのである。

ときに、わが国の霞ヶ関も永田町も、おおくの公的建築物には火災保険の加入がされていない。
なんとなれば、絶対的必要性から建て替えればいいわけで、その費用は税収からでも国債からでもなんでもいい。

まさに、国破れて山河ありではなくて、国破れて役所在り、なのである。

すると、国民がゼロになるまで役所は繁栄する屁理屈となるが、そんなわけないのである。
カナダは、どうするのか?

なるほど、トランプ大統領がカナダをアメリカに編入させろ、といった意味がみえてくるのであった。

「無知の知」をかんがえる

ソクラテスの言葉として有名な一句である。

彼が生きた時代は、紀元前470年(頃)から紀元前399年であるので、日本では縄文時代から弥生時代への変換点にある。
なお、この時期ギリシアのとなりのローマは共和制で、ずっと後の紀元前27年にオクタウィアヌスが、「アウグストス(尊厳者)」の称号を得て帝政に移行した。

さて、この句の意味は、自分は無知であることを自覚する、である。

奴隷制に支えられた当時のギリシア市民は、労働をしなかったので閑をもてあそび、その閑人たちが広場に集まってあれこれ議論するところから「哲学」がうまれた。
これが後の世界帝国たるローマにどのように影響したかは、そのまま欧米の基盤になったともいわれるが、本当のところ、深くかんがえていたとはおもえない。

古代は深くかんがえていた中国思想から、ぜんそくの重篤な発作で窒息・早逝した中島敦が残した作品に、『名人伝』がある。
春秋戦国時代の「列子」が原典というが、その春秋戦国時代が、概ねソクラテス時代とかぶるから、両者の似た主張はちょっとしたミステリーではある。

『名人伝』の主人公は、弓のとりことなって矢を放たずに鳥を射た「不射の射」を見せつけられたことから山に籠もり、とうとう弓を見てもそれが「弓」であることも忘れた、という議論をよぶ話で、ただのボケ老人の話ではない。

つまり、結末を読者に「かんがえろ」と委ねるようにはなしが仕組まれているのである。

いま、金融界で「A.I.バブルの崩壊」がいわれはじめている。
とてつもない金額が投資されて、A.I.開発競争が起きているが、開発されたA.I.が市場に出ても、ぜんぜん「カネ」にならないのである。

そのかわり、A.I.対応のデータセンター建設に、メモリやらが大量発注されて、パソコンメーカーが買い負けて、歴史的なパソコンの値上げ(4割以上か?)が予告される事態となっている。

多額の使用料を払う法人ユーザーはいるらしいがまだまだ小数だし、個人でA.I.を課金(サブスクリプション)してまで使うひとも、かなり限定されている。
かくいうわたしも、なるべくA.I.を使わないようにしているし、課金などいまのところかんがえていない。

そんなわけで、A.I.は騒がれているほど投資してもリターンがないと市場にしれた。

しかし、A.I.開発企業は互いに、人材の引き抜きやら共同開発やらと、合従・連衡しては分かれている不安定さもあって、もしも一社が破たんすると芋づる式の崩壊が懸念されているのである。

だが、前に書いたように、「A.I.:人工頭脳」といって騒いではいるが、『2001年宇宙の旅』に登場した、「HAL9000」のような完成度の高い人工頭脳のレベルではぜんぜんないし、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』が太鼓判をおす、完成度の高いA.I.は絶対に完成しない、指摘を無視している結果だともいえる。

これを、過度の期待、という。

現実は、その低度なA.I.によって、じつは重大な問題のタネが蒔かれている。
それが、「かんがえることの放棄が習慣化している」ことなのである。
つまり、「教科書が読めない子どもたち」がそのまま成人になるばかりか、そんな子どもたちが今日も学校という政府機関で量産されていることの将来不安である。

この将来不安を、当の本人たちがかんがえつくこともないなら、かなりディストピアな未来到来の確立が高まるばかりなのである。

だから、思考ツール、としてのデジタル機器を上手につかうことが、いまどきの消費選択としては重要でかつ、「賢い選択」といえる。

デジタル手書きノートのまっさらな画面から、はて何を書こうか?となったときに、「無知の知」を意識するのと、白紙の紙で同様に意識するのとなにがちがうのか?と問えば、保存のちがいと、検索のちがい、の二つがある。

記憶としての知識は積み重ねることはできても、忘れるのが人間だからでもあるが、知識があっても発想ができないなら、無知とおなじだし、他人の言い分を全否定=全面的な自己肯定するのが現代のトレンドとすれば、それもまたソクラテスが2000年以上前に指摘したとおりとなってしまうのである。

ときに、わが国の縄文時代と弥生時代は、ギリシャ市民世界に劣っていたのか?といえば、そうではなく、武具もない、奴隷もいない社会だったことをかんがえれば、ギリシャ人がかんがえた理想社会が現実にあった、ともいえる。

この意味で、未来社会だったのである。