「地方創生事業」とはなんだったのか?

中央集権国家がいう「地方創生」の「事業」なのだから、中央で決めた「よかれ」を、地方に押しつけることだとかんがえるのが妥当である、というのは、こうしたやり方を明治以来150年余りもやってきた上での教育効果である。

逆に、まだこうした方式を要求する向きがあるのは、学習効果がない、ということではなくて、なんらかの「うまみ」がまだあることを示しているとかんがえられる。

また、国や地方自治体が実施する施策を「事業」と呼ぶ「官庁文学」も、民間の立場からすれば変な用語法である。
そういえば、教育関係者は、学校運営を「経営」といっているのも、なんだかなぁ、なのである。

中央集権の威力は、簡単にいえば地方を蹂躙することの後ろめたさがないことで、その押し売りの背景にある「善意」こそが、かえって「悪意」となることすら気がつかぬ無神経ぶりにある。

これに、悲しいかな、あがなうはずの地方が逆におもねって、予算配分の「得」にあずかろうとする卑屈は、もはや乞食のそれと変わり映えがない。

むかしはテレビでも、「右や左の旦那様、どうかお恵みを」とやっていたいたし、家々をまわって心付けを求めるひとがいたもので、いちいち警察を呼ぶのではなくて、いくらかばりを渡したらなんの危害も加えずに引き下がっていったものだった。

もっといえば、縁日やお祭りの夜店屋台の一角に、「傷痍軍人」がアコーディオンやらを演奏して何かしらの報酬を得ていたのを随分とみたものである。

高度成長期になって、こうしたひとたちが行政の世話になるにつけ、一切見かけることがなくなったので、今の現役世代には「乞食」といっても通じないはずだ。
しかし、そこがまた「福祉国家」の世界共通の末路で、気がつけば国民の全員が乞食扱いされているのである。

それが、さいきんの自民党国会議員による、年金削減の当然、といった論の目線にある。
くれてやるカネがないから減らすのだ、をいう前に、ひとから取り上げたカネをムダに使いまくっての挙げ句なのだから、なにをかいわんや。

わたしは福祉国家に反対するが、だからといって「急ブレーキ」は事故の元である。

さて、地方創生とは、一体なんぞや?
その無駄遣いの典型である。

中央集権のいう「地方」とは、律令のむかしから、為政者にはどうでもいい地域なのである。
そこを「荘園」にして、口分田の共産主義を崩壊させたのは、貴族たちの私利私欲によるものだったけれども、その管理人たる武士に政権を奪われるともかんがえなかった。

対して、いまの中央は、地方がたてつくとは微塵もかんがえていない。
これには、成功事例があるから、平安貴族よりもたちが悪いのがいまなのである。

その成功事例とは、「文化庁」の京都移転である。
先に、「さいたま新都心」なる用語をつくって、ここへ国家の局レベルを移転させた。
これらがもといた霞が関の官庁街に「空き」ができたことはないので、単純に「肥大化」したのである。

そこで、「都落ち」させられたのが、職員たちである。

しかしながら、これとは逆の事例もできた。
たとえば、国立感染症研究所の研究施設があったのは、武蔵村山市の住宅街で、近所の学校から町内会には、感染源が漏れたときの「避難マニュアル」すらなかったが、都心への移転が決まっている。

この危険性を指摘した国会質問に、政府答弁は、「かならずしも安全を最優先にしていない」という、にわかに信じがたい耳を疑うものであった。
なんでも、「国際的に重要な感染源研究を日本(政府)がやる」と決めたことなので、外国からの訪問者の交通に便利なことが優先順位の最上位らしい。

これで、武蔵村山市は安全になったかと言えるのか?もよくわからないのは、市(役所)への補助金が絶えることに抵抗があるからかもしれないからなのである。

ちなみに、文化庁という役所の権力は、「著作権保護」という大義を基盤にしている。
わが国では、いったん著作権協会から請求されたら最後、裁判となっても勝訴できないので、そもそも弁護士がついてくれないのである。

だから、文化財がおおい京都に移転することの合理性は、はなからない。

しかも、受け入れる京都市(おそらく「府」も)は、当時、「地方創生事業の一環」という移転理由を、「地域」創生に用語を変えさせている。
京都は地方ではない、というものすごい主張だったと、井上章一『京都まみれ』にある。

この意味でいうと、「幕藩体制」は、地方創生の手本なのである。

「米」を収入の大前提とした「石高制」は、幕府も各藩政も苦しめたが、権威主義の大義名分でがんじがらめの幕府に対して、「藩政の改革」では地元特産物の生産と販売でなんとかしのいだ。

いまもこのおかげで、特産物は生きている。

逆に、代官が治めた「天領」には、権威だけが残滓を放っている特徴がある。
わたしは、京都から電車で10分の「大津」駅前とその次の「膳所(ぜぜ)」駅前のちがいをみるにつけ納得するのである。

大津は天領で、膳所は本多氏の「膳所藩」の城下町である。
だが、京の洛内人が洛外を下にみるように、大津人は膳所人を下にみているようである。
われわれは天領だった、と。

しかして、これが開港による新興都市の横浜となると逆転して、市内で唯一の藩だった金沢区人は、「武蔵金沢藩」の末裔を自慢して、100軒あまりの寒村だった横浜村へその後にやってきた「どこの馬の骨ともしらぬひとたちを下にみているのである。

そんなわけで、そこに住むひとたちの心理を無視した、「創生」という言い方自体が、中央人の傲慢さのあらわれだから、じつは成功事例がないということになっている。

あたかも経済学が、「経済人」というありもしない人間を相手にして、無機質化すればするほど「唯物論」を基盤に置く共産主義に近づくようにである。


小学校で暴れるおとな

8日、東京の立川市にある公立小学校で暴力事件があったと夜7時のニュースでトップ報道されて、ネット上でもおおきな話題になっている。

ところが、その「原因が不明」なのである。

なので、一方的に暴力を振るった方が悪い(に決まっている)という、決めつけで論じられているのである。
このパターンは、ロシアのウクライナ進攻とおなじで、「進攻」ではなく「侵攻」だという論とそっくりだから、念のため書いておく。

真の原因がわかったときにいまの論調がどうなるのか?があるためである。
これを「早合点」といったものだが、いまだにウクライナ支持とは、なかなかに「早合点」すると修正がきかないのは、人間の「第一次情報に依存する」という習性のためである。

むかしなら、たとえば横溝正史の『金田一耕助もの』における、警部や警察署長役のお約束的早合点とか、ふるいところでは野村胡堂原作で大川橋蔵のギネス入りした『銭形平次』における仇役の岡っ引き、「三ノ輪の万七」が典型的な早合点のキャラであった。

視聴者は、かれらの早合点を嗤っていたが、いまは嗤えないことになっていないか?
それても、他人のなり観て襟を正すことも忘れたか?

さて巷では、学校側となんらかのトラブルがあった児童の母親が、校長やらと話し合うことになったが、これが決裂して、知人のおとなふたりを呼んで、彼らが暴行するに至ったという情報だけで、「最悪な母親」ということになっている。

何度も書くが、そのトラブルとはなにか?がいっこうに不明なのである。

つまり、「暴行事件」の第一報レベルであって、詳細がわからない状況における「推論」だけでの「悪の決めつけ」が堂々とおこなわれていることになる。
もちろん、どんなトラブルかによっては、今後、悪いのは学校当局にある、ということにもなりかねないのである。

むろん校長等を殴って怪我をさせたり、器物破損をしたり、校内を騒然とさせて児童に怖い経験をさせたことは「処罰理由になる」ので、これを無視しているのではない。

たとえば、ウクライナでは、ソ連崩壊後から政府・役人の腐敗ぶりは「世界一」というほどの荒れた状態で、これに民主党政権のアメリカ国務省とCIAが画策して、親米派=ナチスに政権をとらせたことで、一気に国内の平穏が悪化した。

ロシア語話者の多数の地域(東部4州)の一般住民に、最初は「アゾフ大隊」なる、新興財閥が保有する「私兵団」が無差別の殺戮をおこなっていたのである。
この財閥の支援をうけて大統領に当選したゼレンスキー氏は、このような無謀な振る舞いはやめさせると公約していたが、とうとうこの私兵団を国軍に吸収したのである。

しかし、実のところは、私兵団に国軍が乗っ取られたというのが本当で、大統領就任後すぐに「大隊長」と面談したとき、ゼレンスキー氏がボコボコにされた映像がYouTubeにアップされていたことがあった。

それで、ウクライナ軍が東部ウクライナの一般人を無差別に攻撃する事態となり、おなじ民族として我慢の限界を超えたとしての「特別軍事作戦」に踏み切ったのがロシアであった。
フランス人の女性記者が、「ウクライナ軍がウクライナ人を攻撃している」と泣きながら訴える動画もあったが、西側世界はこれを無視していまにいたる。

国連の場でもフランス人はウクライナ軍の無謀を訴えたのに、だ。

いま、トランプ政権2.0は、こうした経緯に鑑みて、ロシアの言い分を尊重しているのである。

歴史家の顔を持つプーチン氏からしたら、日本がウクライナ方につくことに大いなる違和感があるだろう。

わが国の例なら、たとえば1937年(昭和12年)の「通州事件」があるからだけれど、近代史を教えない政府の方針で、日本人は学校で教わらないし、受験にも出題されないのですっかり忘却してしまった。

80年もこれをやってきたら、小学校の校長だって、市役所にいる教育長の意向に逆らえない組織人に飼い慣らされても文句のひとつもいえなくなったのである。
これは戦前でも似たようなものだったので、『警察日記』(日活、1955年)の東野英治郎扮する元小学校校長が「狂人役」を好演しているごとくである。

生徒たちを戦場へ送り続けたことの「顛末」なのだと劇中で説明されているのである。

さてこの事件は、どんな顛末になるのか?
ただしい情報がマスコミから伝わることはないだろうけど。

「選挙公約」を破る日・独同盟

わが国の歴史的失敗は、ナチス・ドイツおよびファシスト・イタリアと同盟したことだという。

全体主義なのに、「極右」だというナチズムとファシズムのちがいをきっちり教育されることなく、社会人にされるから、ボンヤリといけない思想であることしかしらないし、『アンネの日記』やら「アウシュビッツ」を利用してそう仕向けられている。

一方で、アメリカも「日系人を強制収容所」に収容したことは、あまり話題にしない。
やったのは民主党政権だったが、どういうわけか戦後の日系人は民主党支持者が多数で、サモア系でハワイ州から選出されていたトゥルシー・ギャバードが民主党から共和党に乗り替えても、日系人社会が共和党になびいていることは耳にしない。

こうした弾圧を通り越した政策・処置の思想的原因にきっちりと解答しているのは、ハンナ・アーレントの主著『全体主義の起源』だし、ハイエクの出世作『隷属(従)への道』、あるいは、経営学の山脈を築いたドラッガーの著作群がこれにあたる。

平面におとしこんだ「思想のプロット図」は、「筒状」になっていて、X軸で逆向きの「極左」と「極右」は、のりしろなく連続的につながっているので、じつはおなじである。
ファシズムの創始者にして、ファシスト党を創設したムッソリーニは、イタリア社会党左派を除名されるに至った「極左」だった。

ヒトラーと同時代に犬猿の仲とされたスターリンとは、どちらも社会主義=共産主義の全体主義者であるから、わたしはヒトラーを「極右」といういい方に「=極左」のイメージを重ねるのである。

上に掲げた3人とも、「自由主義」の反対語を「社会主義・共産主義・全体主義」と定めている。
自由から全体主義は生まれようがないからである。

もちろん、わが国には、近衛文麿という五摂家筆頭の当主にして、共産主義者を自認した河上肇に師事し、在学中の大正3年には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、発禁処分となった超ボンボンがいたのである。

その近衛公は、歴史的な貴族=保守だと国民は信じ人気があったというが、内閣の書記官長(いまの官房長官)だった、風見章は、戦後、左派社会党の衆議院議員となり、「日ソ協会副会長」やらと、いまのグローバル全体主義のさきがけ的な存在であった。

もちろん、近衛内閣では、「革新官僚」なる左翼官僚群を意識的に重用したが、これらが戦後、自民党の重鎮になるのである。
なお、革新官僚のもうひとつのいいかたに、「統制派」があって、2.26事件で自滅した「皇道派」のあとには、逆らう者がいなくなる。

6日、野党側のはずが「連立」相手になった前政権のSPD(社会民主党)からの支援を受けて、二度目の投票という事態でやっと首相に承認されたメルツ氏は、元ブラックロック・欧州の会長であったグローバリスト経済人だから、政治家としての経験年数は少ない。

これがかえって功を奏して、SPDのシュルツ政権に嫌忌した国民は、「保守回帰」してメルツ氏率いるCDU/CSU(キリスト教民主同盟+キリスト教社会同盟)に投票し、人気2位の「極右」AfDとの連立でなんとかなると思いこまされていたら、「公約破りの当然」を発言するに及んで、いまのAfD支持が1位になることに貢献している。

しかしながら、AfDはほんとうに「極右」なのか?を問えば、グローバル全体主義に対抗する、ナショナリズム政党という立ち位置だけであるために、イーロン・マスク氏が異例の応援をする対象となっていた。

「選挙公約を守らない」といったのは、石破首相が先なので、どうやら日・独は深い絆で結ばれているようである。
この接着剤は、あたかもウクライナ支援にみえるけれども、その基本思想たる、グローバル全体主義であるという点で、まったく「戦前回帰」しているのである。

当時と様相がちがうのは、これに英・仏+EUが加担していることで、米・露と対峙する、史上初となっていることだ。

一回目の投票で裏切ったのは、日本的には「CSU派閥」からの議員たちであって、二回目の投票でこれら造反者を復帰させたのではなくて、SPD議員の賛成票を取り付けたからである。

つまり、ドイツ人にしたら、なんのための「政権交代」か?となる事態になったのである。

さらに、AfDへの公然とした弾圧(テロ組織宣言)に、トランプ政権2.0のマルコ・ルビオ国務長官がさっそく不快感を表明して、メルツ氏はすぐさま反発して応じたのである。

まさかだが、メルツ政権は憲法を変えて、ロシアとの戦争準備、をいいだしている。
わが国は、交戦当事国のウクライナに、「戦後初」の武器供与を実施した。
もう、世界はわが国を「平和国家」とはおもわないだろうが、こうしたことを報じないから、日本国民は深い眠りのなかにいて、なにも情報がとれないスマホをいじくっている。

この危険な日・独に、米・露同盟がどう対処するのか?

田んぼのルンバ

「自動草抑制機」のことである。

よくいわれる「アイガモ農法」のように、田んぼの泥を掻き上げて濁らすことで草の成長を抑制し、ひいては農薬の使用量を減らそうというものだ。
ロボットなので、アイガモとちがってまんべんなく田んぼをかき混ぜることができる。

こういう機械を民間会社が開発していることが「あたらしい」のである。

とにかく、自民党の「農政」には、「能がなかった」反省がある。
これをいったんは抵抗しながらもやらされながら、結局は積極協力した「農水省」にも責任の一端はあるだろうけれど、命じてやらせたのはなんといっても自民党(農林部会)なのだ。

失敗の最たるものは、「減反政策」である。

「田んぼ」という農地は、畑とちがって「休耕」ができない。
いったんやめると、再度田んぼとして利用するには、えらい手間暇かけないと復活しない。
畑の作物で「連作できない」ものがある(たとえば麦やナス科の作物)のに対して、稲は「連作しないといけない」特異な作物なのである。

これをしらないはずがない「農林族議員」たちが、目の前にカネを積んでむりやりやらせたのが「減反」だった。
はるかむかしの日本人が、「阿呆」のことを、「たわけ者」といったのは、「田分け者」という意味である。

減反どころか、新田開発こそが生産増のことだったことをかんがえたら、減反政策とは縄文時代からみて、まったくの「たわけた政策」なのである。

この根幹にある思想は、これまた驚くべきことに「輸出」をかんがえない、完全な鎖国の発想だから、もうどうにもならない愚かさがある。
ついでに、農家の人手不足は、しっかり外国人労働者によって支えられるという実績も、自民党が人材エージョント業界と組んで作り出したものだ。

朝鮮半島を統治していた頃に、わが国農政は、「亀の尾」という米の品種を北部の開墾とともに奨励し、その開墾経費への補助金を手厚くした政策を打ち出して本州の首都圏に「朝鮮米ブーム」を引き起こしたのである。

いま、「亀の尾」は、幻の「酒米」として崇められているが、食べても美味い米としての傑作なのである。

対して、東北などの地方に冷たかった立憲民政党(都会を支持基盤にしていた)の濱口雄幸政権は、おなじく開墾を奨励はしたが、その補助金は朝鮮でのそれとは比較にならない少なさだった。
それで、冷害で疲弊した東北の恨みが、関東大震災での朝鮮人虐殺事件につながる。

戦後なら、エジプト農業への援助の成功があげられる。

JICAが指導するナイルデルタでの米作りは、地中海沿岸国での「エジプト米ブランド」となった。
地平線までの田んぼの壮観は、エジプト観光の目玉にぜんぜんなっていない。
もちろん、栽培されているのは「コシヒカリ」である。

これで、エジプト綿とコシヒカリが二大農産物になった。

これらの米は、外貨獲得のためにエジプト人たちの口にはいることはなく、ほぼ全量が輸出されているのである。
そのエジプト人たちは、ウクライナの小麦を食していたが、いまはロシアからの麦にかわっている。

金満大国にいっときなっただけの傲慢さで、国内で自給できないならば外国から買えばいいという、見事な「平和主義」が花咲いた。
一朝事あるときに、それではどうにもならないが、「一朝事あるとき=戦争」を、平和主義はかんがえてもいけないという潔癖症から、「想定しない」ことにした。

これは、「原発は安全=事故はない」という発想とおなじで、決して「想定してはいけない」のである。
なぜならば、わが国は強烈な宗教国家で、「言霊信仰」が現代でも生きているからである。

想定する=口にする、とは、現実化する、という信仰になるからである。

そんなわけで、食品廃棄率が世界トップで、ほとんど輸入に依存したものを捨てている。
学校給食で、「いただきます」、「ごちそうさま」を子供にいわせない教育をしているのは、「カネを払ったものとして当然の権利だから」という理屈で説明されている。

いつから学校が食堂になったのかしらないが、なんの意味での「いただきます」、「ごちそうさま」だかもしらないおとながいうのだから、とっくのむかしに給食における「食育」は破綻している。

ここにあるのは、カネさえ払えばなんでも食える、という幻想を教える狂気だけである。

そのカネもなく、食うことができないと、とうとう「子供食堂」が全国に10000箇所以上もできている。
かわいそうだからと支援するのは立派だが、食えるようにする経済体制を創るべきひとたちが、カネさえ出せばと意気込んで、その原資に「増税」をいうのである。

アイガモの代わりになるロボットが、安全な米作りと農家の高齢化対策に貢献するなら、もっけの幸い、となっているけど、どうやったらこの成果を横取りできるかを模索する「農政」は、補助金漬けにしてしまうかもしれないのである。

おそろしい国である。

新しい病気?「スマホ認知症」

4月29日に、地上波で放送されて話題となったのが、「スマホ認知症」という病である。

これを紹介した記事では、なんでも、「脳に情報のゴミが溜まる」ことで、情報処理ができずに認知症を発症するというから「怖い」病気である。
道ゆく一般人に端末の稼働をみせてもらうと、なんと1日あたり7時間とかの断続的でも累積した稼働時間数になるという。

へぇー。

とにかくスマホよりも悪質な情報源は、地上波だと一般にも認知されはじめているから、一種の自虐的な番組制作者の意味不明な雄叫びなのかもしれない。
だから、これはこれで気の毒な話だが、相変わらずこんなものを観て震える視聴者がどれほどいるのかはしらない。

それで、きっと手元にあるスマホで「スマホ認知症」と検索して、出てきた記事に納得させようとするお笑い草にしたいのか?
ようは、こないだのパンデミックと同じパターンだということに気がつかないといけないのである。

だが、一概に一蹴もできないのは、電車における光景で、いまや紙の本をみているひとを探しても、ほとんどいない有様なのである。
一様に、スマホ画面を眺めている人たちばかりだ。

この中に、どのくらいの比率で電子書籍を読んでいるのか?は一見したところではしりようがない。
なんにせよ、出版不況はもはや「常態」であるので、電子書籍だって売れていることは稀だろう。

ちなみに、わたしはipadでPDF化した書籍を読んでいる。
スマホの画面では小さくて、もう長時間の読書に耐えられないからだ。
めったに使わなくなった「通話」機能が、ipadにあれば、スマホがいらない。
アップル社純正の「FaceTime」アプリは、アップル製品同士という限定なので使えないし、わたしは危険な「LINE」をつかう気はない。

もう、日本人は隙間時間の読書で自己研鑽することもしない堕落の日常になったのだろうか?

だが、こうした現象は、「成績不良者」には大チャンスなのだ。

つまり、ちょっとした読書の習慣を身につけるだけで、数年もしないで知識量レベルにおける同年代のトップランナーになれる可能性がある、ということになるからである。

しかし、たとえば硬直した企業組織では、そういった「後から努力して頭角を現す者」を拒否するという人事を平気でおこなう。
先行する「安全地帯」に踏みとどまるには、「定員オーバー」を許さないからである。

役所の場合は、採用試験結果で決まるのは、かつての軍事官僚とおなじ身分制だからである。

戦後の日本を撮影した、マーク・ゲイン『ニッポン日記』には、路面電車の停留所=安全地帯にギッシリと詰まっていて、だれひとりはみ出さずにいる日本人の光景が、妙に詩的な風情を出しているのが印象的だ。

壁のない空間で、満員電車の状態が現出している。

わたしは、この写真とそっくりおなじ光景をなんども目撃したひとりである。
わが家の近所にあった、横浜市電の折り返しでは、よくみるものだったのである。

そういえば、大学の先輩が上野と赤羽駅の間にある鉄道沿線のアパートにいたころ、よく徹夜麻雀につき合ったものだったが、じゃんじゃん通る鉄道の喧騒が次第に気にならなくのを経験した。

人間の聴覚は、雑音でも無感覚にするのか?といえばそうではなく、脳が雑音を消去する活動をするのである。
すると、これが「スマホ認知症」でいう、症状のひとつともいえるが、いがいとありがたい機能なのである。

認知できないことが便利という皮肉は、スマホの場合どうなるのか?

逆に、「スマホ依存症」の問題と混じっていないかとおもうのは、上に挙げた7時間もの稼働がふつうなら、起きている時間の半分がスマホを観ている時間となって、生産的なことが妨げられているとかんがえられるからである。

すると、需要者よりも供給者の方に圧倒的な生産性が上がる。

ならば、供給者は需要者がどんな需要を強くいだいているのかをしるひつようがあって、それがまたアクセスの内容解析という仕事を呼ぶ。
広い意味でのマーケティングそのものである。

だが、狭い意味では従来の勉強エリートでは実務についていけないから、ここにひとつの「穴」があるのである。

コンピュータは「電子計算機」のことをいうが、むかしの「スーパーコンピュータ」以上の処理能力があるスマホで計算しているひとをみないのはこれまたどういうわけか?
つまるところ、アプリがない、につきるのである。

じつは、この状態を「スマホ認知症」というのではないか?

だがそんなスマホの能力をぜんぜん活用できないで、娯楽ゲーム機として、あるいは、映像端末として映画コンテンツを観るだけなら、さらに、ポケベルでできたメッセージのやりとりだけに使うなら、スマホが認知症になっているのである。

すでに一部の機種は、新品で20万円をこえるが、「関税」で50万円になるかもという噂話がでている。
その寿命は、OS更新の保証期間とイコールなので長くて6年である。

いまどき、そんな高価なテレビはないから、いかにテレビが廃れたかがわかるが、超高価な端末がテレビになっているともいえる。
それで、NHKがスマホ課金をすると息まいているのだろうが、ますますユーザーはNHKから遠ざかることになるのである。

生まれながらにテレビがあった世代から、スマホがある世代になって、10歳~80歳まで一生の間、ユーザーとして利用をやめないならば、およそ11から12台の機種変更(使い捨て)を余儀なくされる。

端末代がいまのまま一定として、生涯で200万円以上の購入を強いられるのだ。
これに、通信料が別途かかる。

おぞましい出費の強制に無頓着なことが、もう「スマホ認知症」なのである。

歴史的イングランド地方選挙結果

1日、連合王国の構成国の一つ、イングランドで23の地方議会選挙があり、ナイジェル・ファラージ率いる「リフォームUK」が、0議席から677議席/1600議席の大勝利をおさめたことが世界の話題になっている。

それでも、過半ではないのだけれども。

わが国における「統一地方選挙」とは規模がちいさいが、いわゆる「二大政党制」のふたつの大政党には「地方選」とはいえ大打撃となったことはまちがいない。
昨年まで与党だった「保守党」の凋落は悲惨で、数字的には保守党が失った議席数と、「リフォームUK」が獲得した議席数がほぼピッタリ入れ替わった形となったのが印象的だ。

一方で、現在与党の「労働党」も、しっかり「大敗」していて、183議席を失い、当選したのは99議席だから、ざっくり3分の1になったのである。

これぞ、「地方自治は民主主義の学校」の具現か?

英国が「先進国」なのは、いまや、わが国と比較した場合、という条件付きになっていて、幕末から英国に実質支配されたわが国の「先行事例」となっているから、この結果が日本にも「重い」のである。

なお、「ロンドンガゼット=英国の官報」に、明治から昭和の3代にわたる天皇が、英国の「陸軍元帥」に就任したと、その都度にしっかり記載があるので、英国国王の下に天皇があることは英国では法的常識なのだ。

ゆえに、わが国の皇族方は本人の意思とは関係なく、英国に留学させられて、英国国王の臣下としての教育を受けさせられている。

これを、マスコミは「皇室とも縁が深い英国ロイヤルファミリー」と逆転した書き方で、日本人を騙してきた。
その象徴的なできごとが、ウインザー朝最後の(女)王、エリザベス2世の逝去にあたっての、英国大使館への日本人一般による弔問の列となったのである。

なお、いまの国王チャールズ3世は、マウントバッテン朝の初代となる。

わが国が、覇権国だった英国の保護国となったけれども、巧妙な統治策として、あたかも「対等」を装ったのは、さすがに海賊国家の悪知恵が一段も二段も上だったからなのである。
それで、東アジアの橋頭堡としてのわが国をもって、「清国」の植民地化を推進したが、この「方便」を第一次世界大戦の後始末である「ベルサイユ会議」で振り払ったのが日本だった。

ヨーロッパ白人(貴族)による「人種差別をやめろ!」と主張した日本代表は、その後、アメリカ黒人協会とも「黄禍論」で提携するも、「つぶす」と決意した英・米の白人支配者たちに、徹底的なイジメと破滅に追い詰められたのがその後の歴史である。

なお、おなじパターンで追い詰めたロシアにうっかり武力で負けてしまった誤算に、トランプ政権2.0の登場で、かつて日本を破滅させたシナリオが狂っている。
そのシナリオに、敗戦・破滅した日本が、あろうことか積極的に参与しているのが現状なのである。

さていまも健在なヨーロッパ貴族は、「身分制」を基礎にして自身たちの「血筋」のネットワークを駆使して各国を統治している。
それが、ヨーロッパ鉄道の誰も乗っていない「ファーストクラス:一等車」でわかると書いた。

この「王侯貴族による統治」の伝統は、娯楽としての「狩猟」にも影響して、「狩猟犬」の改良に努力したのは、「使える」と「仕える」との両義にまたぐ「犬」を所有することの自慢大会となる。

日本人は、この意味で、「犬扱い」されたのである。

これを暴いたのが、会田雄次の名著『アーロン収容所』であるし、三島由紀夫が「戦後日本文学の金字塔」と絶賛した沼正三の『家畜人ヤプー』であった。
覆面作家だった沼正三は、死去の前に突如あらわれて、家畜人執筆のいきさつを書いている。
それは、会田のいう「イングリ」の習性に通じる「肉食の思想」の共通告発なのである。

英・米が歴史的な分断期にあるいま、極左のスターマー政権はもとより、はっきりとアメリカ民主党的左傾化した保守党の姿は、そのままわが国の自民党以下の既存政党の状態であって、「党内から変える」という古い言い分すらとっくに浮ついた嘘に聞こえる末期なのである。

ドイツでは、とうとうシュルツ政権の最後に連邦憲法擁護庁が、AfDを過激派(ネオナチ)認定し事実上の非合法化、を宣言した。
また、ルーマニアではやり直し大統領選挙の、政府=EUからの締付けが露骨化している。

英・米の分離だけでなく、米・欧の分離をEUとNATOが推進していて、日本はそのNATOの準加盟国から加盟国入りへと舵を切り出した。
つまり、日・米もかつてない距離感にある。

とうとう「関税交渉」において、日本政府は禁断の「米国債売却」をいいだしてしまった。
財務官僚時代に「いいひと」と評判の高かった、加藤財務大臣の「いいひと」とは、誰にとっての評価なのか?
改めて「勇気ある発言」のおおもとがしりたくなる。

グローバル全体主義が原因の大揺れのヨーロッパ+日本は、これからも大きく揺れ続けることは確実なのである。

それで、なりふり構わぬ強権的な統制をするしか方法がない。
まことに、歴史文化破壊にいそしんだ明治新政府のごとくなのだが、だまって「お上」に従う日本人ばかりでもないのが唯一の光明なのである。

あと2ヶ月あまりの、わが国での参議院通常選挙は、こんな世界トレンドのなかで、脳天気=知能低下の日本人がどんな選択をするのか?という、「政権選択」よりも世界へのメッセージ性の高い選択がある。

だけれども、投票率の低さ、という点で、「眠りの森の奴隷」でいるのだろうと予想できる残念が、わずかな光明を打ち消すのである。

RFK.Jrが保険福祉省を告発した

報道だけでなく、たとえば「ブラウザ検索」においても検閲が実施されている。
センシティブな言葉だけでなく、一般的な言葉もヒットしないことがあることでわかる。

たとえば、トランプ政権2.0の「閣僚会議」について、その「日程」も検索にはあらわれない。

議院内閣制をとらない、アメリカ合衆国の「閣僚会議」は、ホワイトハウス(大統領府:行政府の頂点)で開催される。
そこでは、全閣僚から逐次活動報告が大統領にもたらされ、閣僚間の情報共有とトップである大統領からの指示がなされる。

直近の閣僚会議がいつ開催されたのかすらも、ヒットしないから、その内容も当然ながらヒットしないし、マスコミもまったく報道しない。
なので、さまざまなSNSの情報をみないと、わからない、というのが現状なのである。

それゆえにSNSの積極的活用をするトランプ政権2.0の透明度は高い。

さて、保健福祉長官(HHS: United States Department of Health and Human Services)のRFK.Jrが、この会議で重大な発言をした場面は、「TikTok」で配信されている。

トランプ政権1.0では「TikTok」を禁止・規制するといっていたのが逆転し、トランプ政権2.0では選挙中から活用をはじめたのは、若年層へのアピールだけでなく、「TikTok」を中共も禁止していることからの「無介入プラットフォーム」としての価値を認めたからであった。

それが、公開されている閣僚会議のショート動画にもされて、HHS長官自らが曝露した自省の「告発」配信なのである。

これを「Lizzy News」さんが翻訳している。
「私たちはHHSを、この国における児童人身取引の主要な要因として特定しています。そして、バイデン政権下でHHSは児童人身取引の共犯者となり、性奴隷化に協力しました。私たちはそれを終わらせました。現在、バイデン政権によって行方不明になった30万人の子供たちを探しだすために、積極的に取り組んでいます。」

じっさいに、バイデン政権時代、国境管理局が不法移民児童の「里親あっせん」をやっていて、これが「業者への合法的人身引き渡し」ではないか?という指摘はされていたし、ビル・ゲイツの自宅への強制捜査によって数十人の子供が救出されたという、「噂」もあった。

おそらく、民主党の幹部や元重鎮たちが、自身の性癖だけでなく、「ビジネス」として関与している疑惑にメスを入れることになるのだろう。
当然ながら、エプスタインとの関係もあるとかんがえられている。

しかしながら、この闇の深さは、「性奴隷」としてだけでなく、「臓器売買」との関連も指摘されている。
とくに、子供の臓器は「高額」だという。

さらに、A.I.開発における生体の「脳」をつかった実験については、もっとも悪魔的と指摘されて久しいが、マッド・サイエンティストの個人ではなく、政府ぐるみで実施しているという「噂」が絶えない国もある。

このことが他人事でないのは、わが国における児童の行方不明者数は、警察庁が公式発表しているように、毎年1000人単位もいることでわかる。
検挙率の高さ=治安の良さ、が世界的レベルにあったのは、ついぞむかしのことになりつつあるのである。

いまや「営利誘拐」とは、身代金の要求ではなくて、臓器そのものの取引における収益となっているおぞましさなのだ。
ことに「唯物論者」は、これに心理的な痛みも感じない「銭ゲバ」なのである。

今回のRFK.Jr長官の報告を受けて、トランプ大統領は、30万人の多くがすでにこの世にないことを示唆しながら、徹底的な追及を関係閣僚に指示している。

「相互関税」問題と関係して、今後、国際問題になる可能性がでてきた。

日本政府は、関税自主権がなかった明治政府のように、相互関税の撤廃を要求しているが、トランプ大統領がいう「付加価値税=消費税」の撤廃要求も含めて、ことは「関税」という分野をとっくに超越しているのである。

これを「わざと」関税問題だけに絞って交渉する「ふり」をして、国民に「反トランプ感情」を植え付けているのは、もっと深い闇が日本政府にも、政権与党にもあるのではないか?と疑わせしむ理由なのである。

それを、「一切報じない」ということが裏付けている。

「こどもの日」に。

トランプの100日とルビオ

まだ100日しか経っていない、という感慨にふけるよりも、その強烈なスピードに圧倒されて、1年以上経っているような気がする。

就任から100日目とは、4月29日のことであった。

各メディアは、トランプ氏から「フェイクニュース」と罵倒されても、USAIDからの資金が絶えてもひるむことなく、フェイクニュースを流し続けている。
それで、「歴代最低の支持率」という記事を世界配信し、わが国の全メディアも「右へならえ」した。

いまや、共和党支持層は、1割ほどしかオールドメディアを信用しないと回答しており、民主党支持者たちの5割を大きく下回っている。
つまり、共和党支持者の9割は、フェイクニュースだと認識しているから、この「大統領支持率」に関する報道も、フェイクニュースだとおもっていることだろう。

アメリカ在住の邦人たちも、自身の周辺における「トランプ人気」を素直に報告している。

5月に入って、こんどは、政権幹部の辞任や解任のニュースで、「政権崩壊」を流し始めている。
その筆頭が、マイク・ウォルツ国家安全保障問題担当大統領補佐官であるが、彼は「辞任」し、彼の副官だった人物(アレックス・ウォン)が「解任」された違いのことをいわない。

トランプ大統領は、彼の辞任を承認した上で、空席のままの国連大使に指名したのである。

大統領補佐官は大統領が自身で人事権を持つタイトルだが、国連「大使(ただしくは「特命全権大使」)」は連邦上院の承認が必要な、日本でいう「認証官:特別職国家公務員」なのである。
それで、ヴァンス副大統領は早速に、「昇格」であると「X」に投稿した。

上院で通過しない場合、のことをかんがえると、「晒し者にする」という意味もでてくるのである。
反国連の立場にあるトランプ政権2.0なので、国連(正)大使の空席状態を国務省の役人が「代理大使」でいることに痛みを感じないこともひとつある。

もちろん、大使は国務長官の配下となる。

なんにせよ、トランプ政権2.0は、これを機に、国家安全保障局(NSC)の「人員全取っ替え」を実施中なのである。

ここで、関係者ならずとも驚いたのは、国家安全保障問題担当大統領補佐官の後任人事なのである。
なんと、マルコ・ルビオ国務長官が「兼務」すると発表された。

国務長官が国家安全保障問題担当大統領補佐官を兼務するのは、あのキッシンジャーとおなじなのである。
しかも、キッシンジャーは2役だったが、ルビオ氏は、USAIDと国立公文書館の長官とで、4つの肩書きをもつ「史上初めて」となった。

トランプ政権2.0は、マルコ・ルビオ依存をしているのか?それとも「超多忙」にさせて余計なこと(元ネオコン)をさせない意思表示なのか?

そのルビオ氏は、「X」で3日、ドイツを名指しして批難した。

「ドイツは諜報機関に野党を監視する新たな権限を与えた。これは民主主義ではなく、偽装された専制政治だ。
本当に過激なのは、最近の選挙で第2位となった人気の高いAfDではなく、AfDが反対する体制側の致命的な国境開放移民政策だ。
ドイツは方針を転換すべきだ。」

さては、「ドイツ」を「日本」に書き換えたらどうなのか?

わが国の前戦では、新任のアメリカ大使が「微笑外交」を展開している。
当然ながら、わが国の各界の要人と面談して、「言質」をとってはルビオ国務省に詳細報告しているのだろう。

なにせこの「X」の二日前、1日には「ウクライナとの資源協定」が成立したのである。
いよいよロシアとの和平模索が本格化する。

徐々に、ヨーロッパ・中東から、東アジアに覇権興味の重心が移りだしているのである。

ルビオ氏は、どんな戦略を描いているのか?
キッシンジャーと比較されるプレッシャーはいかなるものか?

フル回転でかんがえていることだろう。

選挙は国民のIQテストである

IQ(知能指数:Intelligence Quotient)が高いと「頭がいい」というのは本当なのか?という議論はいったん忘れて、とにかく「頭がいいか?悪いか?」ということだと仮定する。

念のため、IQを測る方法と結果の計算式は決まっていて、「100」を平均値に、「15」を標準偏差に設計しており、正規分布することでの位置取りが「目安」になるものである。
詳しくは、ネットにいくらでも解説があるのでみておくとよい。

ちなみに、わが国における受験で一般化している「偏差値」も、テストの点数を並べてみたときの「平均」を「50」にしただけの指標であることに気づくと、その回のテストの標準偏差がどうなのか?によって、評価が変わることもしっておきたい基本知識である。
なのに、試験主宰者がその回の標準偏差を同時公表しないなら、怪しいと気づくべきなのだ。

この点でも、知能を使わせない工夫がある、と観てよい。

なお、日本の学校教育におけるテストの「出題範囲」は、教育指導要領という土俵上のことで、空間把握能力を問うIQとはまったくことなるものである。
「頭がいい」とはどういうことか?を問えば、テスト結果だけで評価するのは困難だが、ならどうすればいいのか?をかんがえないでやってきた成果が「教育の荒廃」になった。

そこで、本稿でいう、IQは選挙における投票行動=候補者選択における理解度のことをいうとするので、政治の分野(土俵)での「知能テスト」なのだという意味になるのである。

さて、一口に「政治」とはを問えば、近代国家の政府を運営すること。

これが「政治」ということになるのだが、政府ができることとは突きつめれば「予算配分」でしかないことに気づくと、ここに「集めて配る」というメカニズムがあるのだとまずは認識できるものだ。

しかし、もう一ひねり知能を用いると、「最初から集めない」という方法もあることに気づく。
集める対象が、漏らさず全国民で、配る相手も全国民なら、手間だけが余分だ。

全国民から集めて、一部に配るなら、そこに利権が発生することになる。

一般に、何を集めるのか?は、すぐさま「税」ということになるのだが、またここで一ひねり知能を用いると、「国債購入」とか、「人的なボランティア活動」とかも思いつくのである。
これが、むかしの「租・庸・調」からあまり変化していないのだ。
つまり、むかしのひとの発想がすごかったのである。

しかし、輸入した律令制自体は日本では根づかずになし崩しになって、その後の武士の世界を生み出した。
これも既得権益からの構造変化である。

政府は必ず「膨張する」のは、『パーキンソンの法則』にあるとおりだが、そこに「利権構造」があるからである。
それで、この利権にまとわりつくひとたちは、これを手放そうとしないし、より強固なものにしようと努力するのは、そのひとたちにとって、それが合理的な行動だからである。

ところが、利権は一部のひとたちの利益の根源なので、その他大勢のひとたちには害をなす。

だから、民主主義における多数決の原則が機能すれば、多数の反対で利権構造そのものが成り立たない「はず」なのにそうはいかない現状は、ようは、民主主義の多数決が機能していないことを示しているともいえる。

ここが、有権者の知能をつかう場面になるはずだが、それをさせない努力が強力に行われている。
利権構造をまもりたいひとたちが得た「濡れ手に粟」のカネから一部を割いて、マスコミが担うプロパガンダの必要がこれなのである。

「商業」として、新聞やラジオ、テレビが利用されてきたゆえんであり、「非営利団体」のはずのNHKがとくに非難される理由になっている。

たまに飲食店で観るテレビの「ニュース」が妙に新鮮なのは、とにかく本質とはことなることを放送して、視聴者の脳をなるたけ使わせない=IQを落とす方策がこれ見よがしに実行されていることがわかるからなのである。

よって、票が欲しいだけの政治家は、テレビのいう巧言令色に与して、脳を活動的に使うことに慣れないひとたちを「多数派」としている。
このひとたちは、学校から社会に出ても自分の脳を活動的に使うことをしなかったために、いざ「自分でかんがえろ」といわれても、どうかんがえてよいのかさえもわからないのである。

そして、いわれたとおり、しばらくかんがえようとすると、脳が反発して、気持ち悪くなったり、頭痛がしたりする症状がほんとうに出るのである。
それで、かんがえるのをやめて、平常の状態=思考停止に戻ることで、脳の機能低下による安寧を得るのである。

繰り返しこれを経験すると、もったくかんがえない人間ができあがる。
まさに、『マグマ大使』に出てきた「人間もどき」なので、見た目にはわからない。
さらにわが国の「国民皆保険」による保険点数表の支配によって、人間もどきの高齢者が「睡眠誘導剤」の処方を受けて、見事な痴呆症を発症させることで「廃人化」もやっている。

これは、しっかりとした「奴隷化」なのだが、奴隷は自分が奴隷であることに気づかないようにされた歴史を振り返れば、現代の奴隷化はもっと巧妙にしかも「制度」として実行されているのである。

まったくもって、『マトリックス』の世界が現実化している。

さては、赤いカプセルか青いカプセルを選択させられることもないままに、選挙は日程通り実施され、有権者の半数も投票行動をしないのである。

これが利権構造にまとわりつくひとたちに、どんなに有利なことかもかんがえることができないから、やっぱり国民のIQは選挙にあらわれるのである。

カナダ保守党の敗北と日本

28日、カナダで「庶民院(衆議院)総選挙」があった。

辞任したトルドーが率いていた与党・自由党(日本の自由民主党のように左傾化が著しい)は、議員でもないマーク・カーニーという人物を党首に立てて、過半数は割ったもののこれまでの連立先との継続提携で、従来通りの国会支配を継続することが確実となった。

つまり、カナダはよりグローバル全体主義を追及する国となることが決まったのである。

詳細は、「カナダ人ニュース」さんが伝えてくれている。

これに国内では、保守等を支持するひとが多数の州で、「分離独立の機運」が高まっている。
その典型が、アルバータ州(州都はエドモントン)で、最大の都市はカルガリーである。

すでに州知事は、分離案を議会に提出済みで、同じく保守党の議席が多数の議会(一院制)で通過する可能性が高い。
もちろん、トランプ氏の呼びかけに応じて、アメリカの「51番目の州」になるかはまだ分かっていない。

なんにせよ、あたかも「テキサス州」のように、一旦、独立する可能性もあるが、全体主義の自由党政権がどう対処するのか?はまったく不透明だ。

世界では、伝統的な思想からネーミングした政党が、「共産党」以外、ことごとく変節して、ほぼ「共産化」するというトレンドになっていて、保守や自由を標榜する政党は、より民族色や独自色を濃くしたネーミングを採用する傾向が顕著だ。

カナダの「自由党」は、完全に国民の自由を否定する政党になったし、これはわが国における「自由民主党」が、まったく自由でも民主的でもないことでそっくりなのである。

ただし、わが国の悲惨は、「都道府県」に国家から独立する権限もなにも想定されていないので、アルバータ州が自分で選択するという方策は封印されている。

これがまた、国民の間に閉塞感を生み出す正体である。

つまり、教科書通りの「中央集権国家」なのだ。
しかも平城京や平安京の政府とはちがって、強力な官僚機構による締め付けが組み込まれている。

かつての中華帝国のそれよりはまだマシ、とはいえ、たとえば、29日の「財務省解体デモ」に集合したひとたちのやるせなさは、同情に値する。

だがしかし、呼び掛け人のひとりである人物は、あろうことか勇足なのか知らないが、財務官僚に向かって辞めた官僚の話を題材にして個人に呼びかける演説をしてしまった。

要は、組織・機構を個人として裏切れ!という誘いなのである。

これはいただけない。
その財務官僚を操るのは誰か?というわかりきったことに触れないのは、まったく同感できないからである。

官僚機構の上に、与党、という機構があるのだ。

だから、「財務省解体デモ」は、本来的でなく、与党に対する「解体デモ」をするのがスジというものだし、経済政策を決定づけるもう一つの「独立機構」がスルーされていることも気になる。

それが、日本銀行だ。

政府から独立させると決めた、「新」日銀法が施行されたのは1998年(平成10年)のことである。
すると、財務省を云々するならその前に、日銀法をもとに戻す法案を与党に要求しないといけない。

すなわち、わが国の場合は、あちらこちらで「ズレ」があるのだが、それこそが、与党をして安泰させる元凶なのである。

この点、野蛮な白人国家の方が単純な構造になっている。

それを込み込まれた韓国の大統領選挙がどうなるのか?は、わが国へ大影響するが、他人事になっている。

スクラップ・アンド・ビルドの対象に、わが国もあるということなのにである。