ダボス会議でかました!

23日、トランプ大統領は、オンライン参加の「ダボス会議」で、期待通りかましてくれた。

「ダボス会議:世界経済フォーラム」の構造的な位置づけは、各国のDS ⇒ 国連 ⇒ ダボス会議 ⇒ ビルダーバーグ倶楽部 という順の建て付けになっている。
世界の頂点にあるのは、「ビルダーバーグ倶楽部」だが、その下の「フロント」としての位置づけが「ダボス会議:世界経済フォーラム」なのである。

なお、「国連」は、初代の「国際連盟:League of Nations」と、いまの「国際連合: United Nations:じつは連合国」とで、違いがあるという説が一般的だが、実情はおなじなのである。

国際連盟の発足は、1920年(大正9年)1月10日で、終了したのは、1946年(昭和21年)4月19日であり、一方の国際連合は、「国際連合憲章」が1945年6月26日で、活動を開始したのが同年10月24日となっている。

約10ヶ月の引き継ぎ期間があるとはいえ、戦争前から「連合国」なのだから、第二次大戦における「枢軸国」の敵としてみれば、これらの組織の実態はおなじなのに、あたかも別物としてみせているのである。

そもそも、アメリカ民主党の悪名高きウィルソン大統領が発案しながら、アメリカ自身は加盟もしなかった国際連盟とは何者なのか?と問えば、日本を利用するための「国際組合」なのである。

これを予言したのは、幕末の最高頭脳、福井藩の橋本左内が書き残し警告しているのに、日本政府はこの警告を無視したことに悲劇の結果がやってくることになったのである。

さてそれで、トランプ大統領の紹介は、ダボス会議を主宰するダース・クラウス・シュワブ卿が行って、「基調講演」のあとは、世界の財界重鎮からの質問形式となった。
講演の内容は、圧縮版の就任演説と同じだったので、「新味」はなかったが、真っ正面からシュワブ卿が半世紀をかけて構築してきた「アジェンダ」を完膚なきまで否定したことは確かである。

なので、会場からの拍手はあったが、その実は積極性に欠けるものだった。
つまり、これを観ている世界の人々からの歓喜の拍手が無音でわいたのである。

わたしが注目したのは、ヨーロッパについての質問で、はっきりと「付加価値税」に対するアメリカの不利についての認識があることを明言したことである。

これは、NATO諸国の防衛費負担GDP5%要求よりも厳しい。

なぜなら、EU加盟各国の付加価値税収が、そのままEU委員会を支えているばかりか、共通通貨「ユーロ」維持のための供託金になっているからである。

おそらく、EU委員会とECB(ヨーロッパ中央銀行)、さらにEU離脱派までにも、電気が走るような衝撃発言だったのではないか?
当然に、わが国の消費税にもおなじ理屈がいえるので、アメリカ民主党の直営店、日本政府にもビッグバン級の強烈インパクトがある発言なのである。

マスコミは、引退した「中居くん」の話をダラダラやって囮にし、「フジテレビ問題」にも触れつつも、トランプ政権2.0による「貿易問題としての消費税」について日本人に説明するようなことはやらないと決めて(おそらく政府:内閣官房から要請されている)いるようだが、そうは問屋が卸さない事態になること確実なのである。

ときに、バンカメ(Bank of America Corporation)のお偉いさんには、「あなたの銀行は、保守派(=共和党支持者)に金を貸さない」と渇をいれたのもトランプ大統領らしい。
貸金業ビジネスをちゃんとやれ!と尻を叩かれたトップの困惑した表情は、日本人にとって鳩に豆鉄砲というよりも、ほとんど身分を明かした「水戸黄門」に近い。

フジテレビの次にやり玉に挙がりそうなのは「TBS」だという噂があるけれど、読売新聞と日テレについては、新任のアメリカ大使によってどういった指示を受けるのか?という見世物もあるだろうし、本丸のNHKだってまだ放置されている。

それにしても、これが世界のリーダーたちか?と残念なのは、なにしろ、繰り出される質問が「目先の経済だけ」というお粗末が透けて見えるからである。
日本の経団連が、これを猿真似しているのだと心底納得できた。

これは、エリート教育の間違いが「世界共通」になっていることの証拠でもある。

「わたしが話しているのは若者たちがウクライナの平らな土地で弾丸にあたって死んでいることのムダを嘆いている」と唐突にいい出し、議論の次元のちがう話までしだしたことの核心すら、同じ穴のムジナたちで埋まる会場のひとたちには伝わらなかったのだろう。

まさに、倫理崩壊。

これがダボス会議:世界経済フォーラムに集まってくるひとたちの本性なのだとトランプは身を以て暴いたのである。

けれどもそんな醜態を暴かれた側は、ぜんぜん気づきもしない。

それがまた、終了後の「退場の場面」で明らかとなる。

この様子から、「なんだ、期待したほどじゃなく、たいしたことなかったな」程度の雰囲気が伝わってくるからである。
いわば、駄作映画を観た後の雰囲気なのである。

使命感も何もない、あるのは金儲けと自分らの選民状態を確認したい心理だけの「虚空」なのであった。

トランプはそんなイリュージョンの「タネ明かし」を、あっさりとやってのけてサッサと画面から消えたのである。

控えにいたホワイトハウスのスタッフたちと、ガッツポーズを取り合ったのが目に浮かぶ。

「先制(事前)恩赦」の無効性

バイデンの最後っ屁である、これも歴史的な恩赦であったのは、「先制(事前)恩赦」という途方もない緩さを複数人に連発したことである。

一般に、「大統領令」としての、ふつうの恩赦にはふたつの盲点がある。
・恩赦を受けた者は、議会での証言拒否ができないこと。
 つまり、拒否や偽証は恩赦以外のあらたな犯罪となること。
・大統領恩赦の適用範囲は、「連邦法の刑法」に限定されること。
 つまり、「州法」と「民事」には適用されないこと。

だが、突如でてきたあたかも万能な、「先制(事前)恩赦」なる妙ちくりんな恩赦とはどんなものなのか?がよくわからないのである。

そこで、これを調べた人物がいて、「Rumble」に動画を挙げているのを『トランプ派チャンネル【黒森1】』さんが整理して挙げてくれた。
なお、情報元のグラント・スティンチフィールドさんの動画は、https://www.youtube.com/watch?v=WXiAq7M-CuYにある。

ようは、恩赦の「定義」がまずは重要な確認事項である。

日本の法務省の定義によれば、「行政権によって公訴権を消滅させ、あるいは刑の言い渡しの効果の全部または一部を消滅させること」とある。

アメリカの場合は、1915年の連邦最高裁判決「バーディック対合衆国」に定義があって、「恩赦には、有罪の推定と自白の承認を伴うとし、さらに、恩赦は違法を不問に付す」とあるようだ。

つまり、今回バイデンが最後っ屁をかましたオールマイティな「先制(事前)恩赦」は、「恩赦の定義」から成立しないことがわかる。
なにせ、犯罪そのものを犯し、有罪だという推定も本人の自白もないからだ。

すると、以下のような点に対して「推測」をすることができる。
⑴ 民主党バイデン政権はなぜこのような無理を通そうとしたのか?
⑵ トランプ政権2.0は、これを指摘せずにスルーするのか?

まず⑴については、たとえ対象者が「ぬか喜び」しようとも、われわれは最善を尽くした、ということのゼスチャーである、とかんがえられる。

ために、対象者のひとり、Dr.ファウチの言葉として、CNNは、「ファウチ本人が、恩赦に非常に感謝していると言った」と放送しているし、同時に、「(自分は)何も悪いことはしていない」と語っているとも報じている。

これぞ、恩赦の定義に当てはまらないために、「語るに落ちた」というものだ。

「わたしがこの国の科学だ」と言い切った人物も、さすがに「わたしがこの国の法律だ」とはいえないし、法律の専門家でもないから、まさに「語るにおちた」のだし、これにCNNが加担してしまった、ともいえる一種の「放送事故」になった。

一方で、マーク・ミリー将軍も、バイデン一家も、「軍法」が適用される可能性がある。

ミリーは軍人だから当然だが、じつはこの人物は「外国への意図的な情報漏洩」を認めている(自白した)ので、「通常恩赦」の対象者だ。
ただし、「外国への意図的な情報漏洩」とは、ふつう「国家反逆罪」が適用されるので、これを放置できるか?という問題がある。

加えて、バイデン一家の罪も、「国家反逆罪」にあたる。
また、軍のトップを務めたミリーは、トランプ政権2.0が重視する「軍の立て直し」をするはめになった元凶だという意味もある。

さらにいえば、バイデン政権で国防長官だったオースティン元将軍も、「天下り規定」に反しているから、いまごろ震えながら寝ていることだろう。

すると、元大統領として「大統領免責特権」があるバイデン本人が、ポツンと独り自宅に取り残されて、あとはグアンタナモ送りとなるのか?という事態になっているのである。

トランプ政権2.0では、誰がバイデン政権を動かしていたのか?という調査も、トランプ氏からの命が発せられている。
機密文書持ち出し問題で「不起訴」となった理由の、「記憶力のない、気の毒な老人」がそのまま通るはずがないからである。

ゆえに、追い込む側となったトランプ政権2.0は、⑵の実行をどうするのか?となっているわけだ。

これまでの民主党政権のような、悪い意味での合理主義なら、舌なめずりしながら「猟」をするのだろう。
しかし、就任式で語った「unity:団結」をどうするのか?があるのだ。

ヴァンス副大統領の細君は、若くして最高裁判所長官と最高裁裁判官のふたりからアシスタントとして選ばれた才媛だから、上の「判例」もしらないはずがない。

つまり、「けじめ」の付け方を協議していることだろうと推測できるのである。

ただし、連邦下院議長は、これら「恩赦」されたひとたちを議会証言させると発言したので、逃れるには、「恩赦の拒否」をするしか方法はない。
だが、「無実」のはずはない「あぶり出し」をバイデン民主党がやったのだから、自分から罠にかかってしまったのである。

トランプ就任演説は、「格調高い理念」ではなくて、あたかも「実務的内容ばかり」だと書きまくる、日本のマスコミの読解力がメチャクチャなのは「わざと」だから無視するとしても、アメリカをひとつにするための「団結」をどうやって具現化するのか?の題材に「恩赦」が対象になっているのである。

何にせよ、困った前例となる「先制(事前)恩赦」を歴史的に有効のまま放置もできない。

智恵の絞り方として、どんな「大岡裁き」が繰り出されるのかを観察したいものである。

就任初日の大統領令

11月の選挙で当選が決まるのに時間がかかるのが広大なアメリカだ。
それでも、2024年の選挙はスムーズであった。

前回のトランプ政権1.0が終了して、フロリダの邸宅を第二ホワイトハウスに見立てたトランプ氏は、その財力も動員して自費でスタッフを雇用し、第二次政権の準備に勤しんできた。
かつて、「政権移行チーム」が、「当選後」に発足してきたのは、その費用が「国費」となるからでもあるが、トランプ氏は「国費に依存しない」初の富豪政治家なのである。

なんだか、筒井康隆の『富豪刑事』のようだ。

なにも人造国家のアメリカがすべて良いとはおもっていないが、だからといって日本の国家運営の仕組みが上出来だともいえない。
戦後の体制を構築したひとり、東大法学部教授の宮沢俊義がいまや司法試験でも定説扱いとなっている『八月革命説』を唱え、ソ連化推進の理論的支えになっているからである。

この意味で、トランプのいう『コモンセンス革命』に対応するには、日本において『反・八月革命説』を採用しないといけないのだが、そんな気概のある学者も政治家も絶えた。
アンチ宮沢俊義は、学閥・学会を通じて完全に排除する政治活動が実施されてきたからである。

宮沢がやった「軸の歪み」を生身で証言・証明したのが、片山さつき氏の「X」投稿だった。

トランプ政権1.0は、いまでは「人事で失敗した」というのが定説である。
経済人であったトランプ氏は、ワシントンの沼に棲息する人々のネットワークについて無知だったがゆえに、政権内にタップリとネオコン(=DS)を引き込んでしまっていたからだ。

その筆頭が、退任後に自分から告白して正体が判明した、マイク・ポンペオ国務長官だったから、世界が驚いたのである。

にもかかわらず、日本製鉄がUSスチールの買収にあたって、そのポンペオ氏を顧問として採用したのは、政治音痴も甚だしいが、これぞ「霞ヶ関の沼」をしらぬ役員陣のレベルがしれる重大事なのに椿事であったゆえんである。

さて、経営者として、いったん破産の憂き目も経験したトランプ氏だから、二度と同じ轍は踏まない。

それが、私邸における「用意周到」の準備であった。

就任初日、「大統領令」としては、42本、指示・命令に関しては200以上が発令されたという。
当然に、優先順位トップ順になっているが、事前準備がいかに大変かは、すこしでも実務にかかわった社会人なら容易に想像できよう。

もちろん、連日発表されるだろうから、これで終わりではない。

また、大統領令が発令されたからといって、全部が通るものではない。
反対の者には、「提訴」という手段がある。
実際に、何件かがすでに提訴されたというから、こちらも事前予告に対しての準備をしていたのだろう。

国内向け、国際的と分類すれば、当然に国内向けが優先順位で上になる。

バイデンが末期でやった「恩赦」にからめて、1月6日事件で収監された人々約1500人の恩赦(即時釈放)もある。

だがしかし、この釈放命令に対して無視を決めた刑務所には、22日、連邦保安官が突撃する予定だというから、「逆・バスティーユ」状態になっているのである。
こんな状況も、日本ではかんがえにくいが、あんがいと「あり」だろう。

人間は、感情がある動物だからである。
その感情を棄てて、完全に組織の歯車に徹する「凡人」こそが、命令に忠実なロボットと化す。
これを、ハンナ・アーレントは、『エルサレムのアイヒマン』で暴いた。

さて、国内向けから優先順位は下になるが、わが国に影響があるのは、WHOとパリ協定からの脱退であろう。
手続上、WHO脱退には1年を要する。

一方、「パリ協定からの脱退」というのは不正確で、正しくは「パリ協定も含めたすべての気候変動関連からの離脱」であって、これを総じて「気候変動詐欺」と呼んでいるのである。
なお、アメリカの大企業もトランプが「いいだしそう」ということにかこつけて、すでに気候変動詐欺からも離脱をすすめている。

本音では割高なゆえにイヤイヤつき合ってきたが、「コスト削減」という当然が理由だ。

このほかに目立たないが、「OECD世界税協定からの離脱」もある。
これは、日本でいう「消費税」やEUの「付加価値税」にも関係する問題であるから、日本国内マスコミは破壊力がおおきすぎるので報道しない可能性がある。

つまり、「関税」に目を向けさせて、「消費税」を隠すのである。

内外問わず基本的なことでは、「性別」を「男女だけ」とした。
日本総督エマニュエルがゴリ押しした「LGBT法」をどうするのか?次期総督からのご指示を待つのか?

これに、「DEI」も廃止したけれど、気候変動詐欺同様に、アメリカの大企業はすでに取り止めている。
日本経団連がいう、女性管理職やらの「目標数」も、撤廃となるのか?

ようは、国連が推す「SDGs」の終わりなのだ。

就任式招待組では、Metaのザッカーバーグ、Amazonのベゾス、Googleのスンダー・ピチャイやAppleのティム・クックも参列していたのが目立った。
それで、「政府による言論統制禁止」の大統領令を出しつつも、これまでの統制実態の調査も命じ、その対策提案立案も促したのである。

バイデン最後の日に禁止されたTikTokも、期限付き延長とされた。
これで、GoogleとYouTubeの言論統制がいつ解除になるかが注目されるまでになった。
日本政府が「X」を規制しようというのは、もはや周回遅れどころではないナンセンスなのである。

しかも、トランプ政権2.0では、大統領令と連動して連邦議会が法案づくりを開始している。

さらに、高級官僚(SES)の身分を変更し、「終身」ではあるが政権に従わない者は解任できるようにしたことは、日本の官僚制についてのインパクトも生じよう。
ただし、連邦政府職員組合が提訴したというから、労組としてどうなっているのか?
SESは、新規採用時から「古典的猟官制の管理職を管理する職」なのである。

ちなみに、こないだ亡くなって国葬となった、ジミー・カーターによってできたのがSESであるから、生前に絶望しないで済んだのは幸いだったかもしれない。
SES発足のそもそもが、日本の官僚制の強化版であることに注意がいるし、これをまた発展強化させたのがEU委員会なのである。

さて、問題は、アメリカの大企業が「乗ってきた」ことによる影響力なのだ。

株式の支配権を通じて、あるいは商取引を通じて、日本企業は「ちゃぶ台返し」を受けているからである。
だから、どうする日本政府?もあるけれど、どうする経団連?になっている。

そこで、次の注目は、23日にオンラインで参加するトランプ氏の「ダボス会議年次総会演説」なのである。

就任式で歴代大統領の目前でやったように、邪悪の権化、生きているクラウス・シュワブの目の前で、どんなちゃぶ台返しを喰らわすのか?

プーチンがやった「ざまぁ」よりもはるかに痛快にちがいないから、楽しみにしているのである。

トランプの「コモンセンス革命」

21日、大統領就任式に招待された、片山さつき議員が、「X」に投稿した記事が話題になっている。

30分程度ではあるが、歴史的な就任演説の翻訳は、「Harano Times Official Channel」で視聴するとよい。
歴代の大統領たちの目の前でこれを言いのけるふてぶしさがないと、「肉食の思想」の国々では生きるのが大変だともよくわかる。

すると、彼らの中で流行っている意識高い系の「ビーガン」とは、あたかもライオンがシマウマの真似をしているようなものだともいえ、およそ「持続可能性のない」ものだということもみえてくるのである。

つまり、ライオンはライオンであって、また、シマウマはシマウマなのである。

それは、上の動画にはないが、歴代大統領夫妻の入場にあたって、会場から、クリントン夫妻やオバマに向けたブーイングでわかる。

たった三日前に、「天候不良」という名目で、二期目のレーガン大統領就任式以来「屋内開催」となった今回の就任式は、この場に入場することを許されたのはごくわずかな選ばれたひとたちだけで、それ以外の人々は議事堂前広場にて待機させられていた。

よって、就任式後、トランプ=ヴァンスは、家族とともに移動して、彼らの前でリラックスした態度で再び演説した。
さらに、会場をアリーナに移して、超満員のそこでも演説をし、なお、初の大統領令(9本)への署名をしてみせるだけでなく、使用した9本の特注ペンを聴衆に投げ与えたのである。

もちろん、就任式前夜におけるサプライズは、イベント最後の退場場面における「ヤングマン」の演奏に、まさかの「Village People」が登場したことである。
彼らは、選挙中にこの曲がつかわれることについての「差止請求」もやっていたが、どうやら逆転したようである。

しかして、彼らの素性と歌の歌詞は、翌日のトランプ就任演説との関連では、じつに意味深なのである。
これはあたかも、岸田政権がやった「LGBT法(案)」に、LGBTのひとたちが大反対したかのごとくであるからだ。

さてそれで、片山さつき氏の「X」になにが書いてあるかというと、就任演説で、「米国を常識に戻す為に」5項目の具体的政策があったこを挙げた後、「この他建国の精神、愛国心教育等極めて保守色の強い内容。」と締めくくったのである。

これに、一般人から辛辣な「コメント・ポスト」が書き込まれている。

イーロン・マスク氏本人が「X」で、「X」の意義を繰り返しているのは、一般人によるニュース発信が本当のニュースだ、というとおり、片山氏は一般人より劣るという告白をしてしまった痛恨がある。

しかしながら、賢明な一般人は、これがいまの(左派に堕ちた)自民党の本音だ、ともポストしていて、なかなかに読み応えがあるのである。
まさに、きれい事しか流さなくなった既存メディアとは比べるべくもない。

つまり、片山氏のつぶやきは、既存メディアの報道向けならば喜々として通じたものが、「X」を用いたために、あっさり粉砕されてしまったという顛末なのである。

しかも、冒頭に「米国を常識に戻す為に」というトランプ氏の意図を書いた上での、「個人の感想」だったことは、東大卒・元大蔵官僚だった価値観から一歩も抜け出ていない、片山氏の常識こそがなにか?を問われることとなった。

さらに、参列したわが国外務大臣はどうなのか?の追跡がないのも、おかしな話なのである。

そんなわけで、アメリカはヨーロッパからの「肉食の思想」を引き継いだことを再確認して、ライオンはライオンでシマウマではない!と宣言したのであり、シマウマのボスになりたがった歴代を一蹴した。

すなわち、壮大なる『西洋の没落』に対するアンチ、西洋の栄光を目指す、ということなのだ。

ならば、西洋と東洋の関係における緊張は、なにも中国へだけに向けられるものではない。

それを、日本のコモンセンスという視点がすっかり消滅していると自白したのが、片山氏だから、彼女を非難するのは簡単だがじつはとんでもなく「まずい」状態にあるのがわが国なのだとわかる。

正しく、トランプ政権2.0を受けとめ対応するには、自国のコモンセンスを再確認しなければならぬと、世界に向けて発信したから、「歴史的」演説なのである。

また「歴史」としては、もう一方で、トランプ氏は、第25代(1897年~1901)のウィリアム・マッキンリー大統領時代のアメリカを強く意識している。
日本でいえば、明治30年からのアメリカ大統領である。

いわゆる、明治27年の日清戦争による三国干渉から、明治37年の日露戦争までの中間期、すなわち「臥薪嘗胆」が国是だった時代のことだ。
しかしながら、ウクライナをしるいまなら、これぞ「代理戦争」であったのは、教科書にある「ポンチ絵」でわかる。

時代時代でうつろいゆく「価値観」を、「コモンセンス」とはいわない。

日本とは、日本人とは?を改めて問われている。
これが、トランプ政権2.0のいう、「各国ファースト」の意味なのである。

しかして彼らは、世界に魁けて、まっ先にスタート(しかもロケット・スタート)を切ったのであるけれど、わが国はまだ待機室で「着替え」もしていないでいるのである。

【祝・第47代就任記念】1976年のロッキード事件

無事に就任式を終えたことで、「トランプ政権2.0」が正式発足した。

とはいえ、閣僚以下の政府高官がひとりも連邦上院で承認を得ていないので、当面はホワイトハウスの側近政治が行われる。

なお、邪悪な民主党バイデン政権は、20日午前中という任期ギリギリで「先制恩赦(2014年1月から恩赦当日までの14年間)」として、自身の家族、1月6日事件調査委員会と当該委員会での偽証関連、ミリー元合参謀本部議長、そしてDr.ファウチが対象になると、特大最後っ屁をかました。

しかし、「(刑事責任)恩赦」された者には、「義務」も課せられていて、議会での宣誓証言などを「拒否できない」し、当然だが「民事訴訟」から逃れることはできないのである。
これを、トランプ司法省と連邦議会はどうするのか?がある。

ましてや、「軍法」をや。

トランプ政権1.0の末期で、キューバにある「グアンタナモ基地(軍法会議=軍事裁判所)と軍法による刑務所付設」は、大増床の増築が完了していて、いつでも大人数の受入が可能となっているのである。

ちなみに、トランプ氏はとっくに政府上級職職員の総取っ替えと、省庁の半数以上を「廃止」する方針をかかげているにもかかわらず、それでも万人単位の上院承認を要することが予想されている。

それで、上院で共和党が多数のこの先二年の間に、候補者全員の承認を得るように促すにちがいないのは、当然だが「トランプ政権1.0」の轍を踏まないようにするためである。
前回の政権では、とうとう4年の任期のすべてを要しても、指名した人事の全部が承認されることはなかったからである。

アメリカの「三権分立」 は、大統領に独裁権を絶対に与えない建て付けになっている

対してわが国は、政府権力の徹底的分断を意図した「大日本国憲法」を改めた、「日本国憲法」によって、内閣総理大臣にかなりの独裁権を付与しているし、第二次安倍政権下の2014年には、「内閣人事局」が発足して、官僚人事は「官邸=内閣総理大臣」のもとで実施されることになったので、さらに独裁権限が強化されたのである。

こんな絶大な権限は、アメリカ合衆国大統領には「合衆国憲法」によってまったく付与されていないことは、日本人の常識としてしっておかないとマスコミに簡単に騙されることになる。

さて、タイトルの「ロッキード事件」は、もう半世紀近くになる、大汚職事件である。

今更ながら、この事件とは何だったのか?をかんがえるときに、アメリカ側の「三権分立」はいまとおなじ建て付けだが、日本側は、あたらしい「日本国憲法」をもって、内閣総理大臣に「大日本国憲法」よりもかなりの独裁権を与えていたことを、国民もしっていたことが重要なのだ。

敗戦から31年しか経っていないから、実務者として「大日本国憲法」の時代を知る者たちが社会のリーダーだったことを意味するからである。
「今太閤」といわれた、田中角栄は大正7年(1918年)生まれで、首相に就任した昭和47年(1972年)当時、まだ54歳の「若さ」であった。

いまなら、河野太郎が62歳、小泉進次郎43歳の中間世代にあたるが、高村正彦氏の長男、高村正大(現法務副大臣)がちょうど54歳にあたるから、「小粒感」は否めないし、独立独歩の気配もない残念がある。

首相経験者の田中角栄の逮捕と、その後の裁判、同時に田中派のキングメーカーとしての暗躍と竹下派分裂そして、最高裁判所判決の前に田中角栄の死。

はたして、この事件は何が問題だったのか?がよくわからないのである。
つまり、あんがいと「うやむや」になっている。

ところが、事件を「プロット」すると、とにかく話の発端が「アメリカ連邦上院外交委員会」の中の「多国籍企業小委員会:チャーチ委員長:民主党」なのであって、その最終ターゲットは「高木正雄(通名:朴正煕)政権への圧力」だったことがわかっている

トランプ氏の就任式とは、基本的に「内国」の事情であるから、外交としてみたら、「駐在大使」が参列すれば済む話を、なんだか派手に「外国要人」を招待するという異例をやっている。

それで、すったもんだしている風情ではあるが、わが国では、安倍晋三氏の未亡人がファーストレディーからの招待を受け、国会議員と外務大臣が招待されたことに違和感があるのである。

バイデン政権の司法省でさえも「嫌疑」をかけて公表している「贈賄事件」で、名前が挙がる岩屋毅外務大臣の「身柄拘束」はあるのか?が、注目されている。
岩屋氏は、なぜか五日間もの滞在日程で、この間に「次期国務長官」との外相会談に臨むとして発表したが、上に書いたように未だ、マルコ・ルビオ議員(53歳)は未承認状態だし上院議員も辞職してはいない。

ようは、アリバイ写真を撮った上で、「別室」での取り調べをうけるのではないか?

このまま「釈放」されたとしても、岩屋氏の政治姿勢が変化していれば、それはアメリカ側のエージェントになった、という疑いが生まれるのである。
なんにせよ、岩屋氏は大分別府の選挙区を地盤とする縁から、「観光業界」に影響力がある「国際観光産業振興議員連盟:IR議連」の現職幹事長でもある。

就任日早々から、「同盟国」の反トランプ政権2.0を標榜している日本政府=「自・公・立憲」政権の切り崩しをやると期待して眺めていたいのである。

トランプ政権2.0の金本位制復活?

1971年8月15日(日曜日:日本時間では16日月曜日)に、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が突如、金とドルの交換を「当面の間」停止する、と発表した。

これが、「ニクソンショック」といわれている世界経済史上の大事件となったことはあまりにも有名なはなしだ。

しかし当時のわが国経済界は、この通貨史上における歴史的大転換(ドルの信用裏付けが紙だけの価値しかなくなった)ことよりも、同時に発表だれた目先の「10%の輸入課徴金」に目がいっていたのである。

しかも、時系列を振り返れば、じつはこの3ヶ月ほど前から「兆候」はあったのだが、特に日本側の対応は完全に「寝耳に水」という状態であった。

日本大使館も、優秀なエリートのはずの日本企業の駐在員たちも、「兆候」に気づいていなかったのが、いまさらながらに「驚く」のである。
なんだか、「宣戦布告文書」の提出に遅れた理由が、館内パーティーだったことと似たヘマをしでかしている。

日本の財界が、アメリカとちがって「長期的な利益」を優先させている、といわれて自慢していたのはなんらかのプロパガンダだったのではないかと疑いたくなるほどの「歴史認識の希薄さ」がいまに続くのは、もはや「伝統」なのだろう。

果たして、本当は「わざと」だったともいえるのは、どうやら大蔵省トップの一部と日銀が市中銀行へ「対応の時間的余裕」という名のドル売りチャンスを認めたきらいがあるためだ。

とはいえ、霞ヶ関の混乱については、塩田潮の『霞ヶ関が震えた日』に詳しい。
つまり、これら少数の者たちがとった行動から推測するに、大規模な揺動作戦だったのか?ともいえるのである。

じっさいに、大統領の発表は月曜日なので、シンガポール市場から西はどこも「臨時休業」としたのに、なぜか東京は「通常通り」の取引をやって、世界からのドル売り注文に対処したのである。

東京市場を「開ける」と決めたのが、上の大蔵相と日銀のわずかな幹部たちであった。

人類は、通貨を発明・利用してからついに「金保有」を根拠にした「紙幣」を扱ってきたが、ニクソンショックによって、「ただの紙」でも、渋々ながら「ドル信任」をするしかなかった。

二回の世界大戦等を経て、ドルこそが世界に普及した決済機能がある「基軸通貨」になっていたからだ。

しかし、ここに至るには大英帝国の末路という、先行事例があった。

「世界の工場」は、必ず生産から消費大国へシフトする。

中間層の所得向上が、必然的に消費生活を謳歌するようになり、かつ、「要素価格均等化定理」が作用して安い労働力の新興国に生産で太刀打ちができなくなる。

よって、必ず「貿易赤字国」に転落する。

大英帝国 ⇒ アメリカ ⇒ 日本・(西)ドイツ ⇒ 中国 という順番になっている。

しかして、いま、ホットにアメリカと中国がなぜに対抗しているのか?を問えば、中国の日本(失敗の)研究が、あたかもアメリカが大英帝国の失敗を参考にしたように、人民元とドルの交換レートを当局が管理する方式を貫いているからだし、そもそも中国は「資本移動の(海外)自由化」を許していない「賢さ」がある。

すなわち、資本移動の自由を許したときの金本位制のもとでは、消費国の金が外国(生産国)へ流出し、おのずと自国通貨も下落する。
これを、大英帝国はすでに金融大国になっていたために容認できず、金の流出が止まらないのにポンドの下落を阻止したため、結果的に国内産業が壊滅して肝心要の中間層が没落して現在に至っているのである。

この轍を、金本位制ではないいま、日本がしっかり踏んでいて衰退がとまらない。
これにまた、「消費税」がからむから、反トランプ政権2.0の「自・公・立憲」政権では生活苦が改善される見込みはないのである。

さてそれで、アメリカ・ニクソン政権は、ドルを基軸通貨にしたままで、しかも、金とドルの分離を果たし、ドル安を容認するという「ウルトラC」をやったのである。
しかも、その後の85年には、「プラザ合意」によって、日本とドイツの通貨価値を上げてドル安を決定づけながら、「世界の工場」を中国へ移転させたのだった。

経済成長すれば、中国国内の自由化が進む、というのが、当時の「信仰」だった。

なお、このとき日本は大量の「為替介入」(ドル買い介入)やって、つまり米国債を大量購入し、当時史上空前だったレーガン減税の原資(日本的にいえば「減税の財源」)まで手当していたのである。

しかし、世界はマトリョーシカ人形のような「入れ子」状態なので、アメリカが日本やドイツから吸い取る方法を、日本は東南アジアの各国への「円借款」という方式で吸い取っている。
円安と円高の差をもって、日本はしっかり儲けているからである。

この意味で、アメリカと日本は「同じ穴のムジナ」である。

さてそれで、トランプ政権2.0は、アメリカ製造業の復興とシェール掘削解禁による原油輸出国になることを目指しているのは周知の通りである。
つまり、これは、ニクソンが「当面の間」といったことが当面の終了となって、「金本位制」の復活と「暗号通貨大国」実現への金による裏付けも意図しているのではないのか?と妄想するのである。

すると、日本が大量に保有するという「アメリカ国債」との関係はどうなるのか?になるのだが、一方的なドル安(日本の「マネー敗戦」)とはならず、むしろ、国民を蔑ろにする日本政府は、かつてルーズヴェルトがやった「国民の金保有禁止(1933年大統領令6102号)」のような強権発動をするかもしれない。

なにせ、4月1日から「食糧供給困難事態対策法」が施行されて、政府の一存で「配給制」が復活する含みがあるのである。

トランプ政権2.0が、どこまで日本政府を「敵認定」するか?が、まもなく明らかになるだろうが、その前の下準備(すでに上院で閣僚級人事承認のための公聴会がはじまっている)が忙しいのである。

就任式(日本時間な明日未明:時差14時間遅れ)まであとわずか。

取り皿一枚50円の飲食店

還暦を過ぎてからの、「人生初」は、意外と経験しないものだが、「取り皿一枚50円」だけでなく、オンテーブルしない調味料類(醤油や酢など)も「持参せよ」という中華料理店があるのをしって驚いた。

いったいこの店で、どんなことがあったのだろう?と勘ぐりたくなった。
たまたまこの日に待っていた電車が運休になった理由説明が、「お客様どうしのトラブルのため」という駅員のアナウンスが耳に残っていたからであろうか?

注文も、さいきんみるスマホからの「モバイルオーダー方式」であったので、たまたま入店した時間に他の客は誰もいない中で、店員と言葉を交わすこともなくスマホのバーコード読み取りアプリと格闘することになった。

もしやこの店員は日本語ができないのかも?といぶかったが、ぜんぜんそんなことはなかった。

しばらく「バーコードリーダー」が起動しないのでなにかとおもえば、たまたま「バージョンアップ」に対応するのに通信料を払うのにもイラついたのだが、それでバージョンアップしたからといって遣い勝手が向上したわけでもなく、あれこれと余計な入力をさせられるのが不快なのである。

アップルに次いでアマゾンも、便利なはずのA.I.が勝手に起動して、事実上の「盗聴」をしていることが発覚し騒ぎになっている。
そもそも、スマートスピーカーに「オーケーなんとか」とかと呪文を唱えたら、アラビアン・ナイトの「ランプの精」のごとく便利になるとはいかなかったというわけだ。

なお、『アラジンと魔法のランプ』は、オリジナルのアラビア語版『千夜一夜物語』には収録されていない「外典」扱いなのである。

どうして、バーコードリーダーで、こんな「設定」を要求されるのか?の方が、気持ち悪い。

そんなわけで、別にこの店のせいだけでもないが、適当な注文だけで退散しようかとかんがえたが、やってきた料理自体はあんがいと美味く、たまらずに追加注文するに至ったのである。
壁の張り紙に、「店員が自主的に持ってくる取り皿は無料」とあって、それ以外は「一枚50円」とあることに注文後、気がついた。

どうなのか?とおもったが、わたしの場合は特に注文していないのに料理と取り皿が一緒に運ばれてきたから、「無料」であったようだ。

それに、醤油などをあらためてつける必要もない味付けが絶妙なのである。

焼き餃子ならまだしも、水餃子も味がボケていないできなのに妙に感心した。
これは、満州あたりのふつうなのか?どうなのか?
それとも、店主の考案か?

とはいえ、慣れた餃子の食べ方が「酢・胡椒」なので、若干の物足りなさがあることは否めない。
もしも、「シウマイ」や「焼きそば」とかを注文したら、「カラシ」もほしい。

おそらくやっぱり二度目の来店はしないだろうと自分のなかで確認し、店を出た。

後日、この店の前を通って、入店具合を確認したら、あろうことか「満席」の繁盛店なのである。
いがいと若い人が目立ったのは、やはりスマホにて注文することに抵抗がないからか?

念のため世の中はどうかと調べたら、「ヤフーニュース」で賛否両論の話題になっていた。

もちろん、入店客が全員スマホを所持していることを前提としている「サービス」なので、これから外れると入店拒否されるのか?どうなのか?
このところ、チェーン店でみかけるテーブルに設置されているタブレットによる注文さえ、しない、できない、高齢者をよく見かけるようにもなった。

この場合、できない、ではなくて、意識的にしない、の方が正しくおもえる。
口頭で注文する方が、はるかに「楽」だからである。

そんなわけで、この店の「繁盛ぶり」を見て、常連がいかほどの割合で、調味料持参者がどれほどの確率なのか?もしりたくなったが、もう入店しないと決めたから、ただの野次馬根性である。

むかし、横浜中華街のとある大繁盛店では、一グループでの麺類の注文は同じものにまとめるように強制されたり、取り皿の交換はしなかったり、という「すさまじき」店があった。
「麺は単価が安いから」で、そのためにいちいち別の注文を受けていられないというのが理由だったし、これをまた正直にしっかり説明していた。

取り皿の交換は、もちろん洗うのが面倒だから、ひとり二枚までであった。

これまでのわが人生で、この店には二度行った。
二度目は、「確認」の意味であったが、しっかり「サービススタンダード」であることを理解して以来、一度も入店していない。

料理を「エサ」扱いしている店に、支払う気がまったくしないからである。

もういい歳になったから、野次馬根性だけでこうした店に再入店する気がなくなったのである。

『無思考国家』シリーズを読む

いまさらだが、響堂雪乃より改名して、秋嶋亮という「社会学作家」が世に送り出している人気書籍のシリーズがある。

タイトルの一冊もしかりだが、ご本人としてはロングセラーになっている『ニホンという滅び行く国に生まれた若い君たちへ』が代表作だとしていて、これらも含めた「シリーズ」が秀逸なのである。

「無思考」でこれらのシリーズを目の当たりにすると、たいがいは「日本嫌い」になるだろう。
しかし、作家は、決して絶望しているわけではないと書いている。

これはあたかも、坂口安吾『堕落論』の現代版なのである。

いやむしろ、カレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』のニ部作の方がより近いかもしれない。

さらにいえば、大宅壮一がいった「一億総白痴化」のなれの果てでもあるし、いまでもJRに乗ると不快になる「社内液晶テレビ」による無思考化の訓練に腹が立つ。
観るとバカになるから、なるたけ目線をそらすのだが、車内の光景とてロクなものではない。

ほぼ全員にちかいひとたちが、スマホを眺めて「コンテンツ消費」に勤しんでいるからである。

まさに、「無思考国家」の姿がある。

そうやってかんがえを及ぼすと、あらゆる空間で「無思考」にされるから、それがまた行動に表れるのである。

たとえば、スーパーやらのレジに並んで順番待ちをしているけれど、ただボーッとして立っていて、ベルトコンベアのように前に進むだけだから、財布も用意しない。
自分の番になって、金額が確定してからカバンの中をモゾモゾとさがして、ようやく財布にたどり着き、それからカードやら時間のかかる決済をするのだが、後に並ぶ者への配慮など微塵もないのである。

もちろん、なんとかペイで、ポイントを貯めることが趣味のひともいるが、自分の端末からあらゆる情報が抜かれていることを仕組みとしてしっていても、一切気にしないでいられるのも似たようなものなのだ。

そこには、どうせ自分の個人情報などたいしたものではなく、数パーセントの値引きやポイント付加の方が大事だとおもっている。
つまり、みごとな「アトム化」を、自分からすすんでやっている。

こうした愚か者をみると、まったく不快になるのだ。

なぜなら、こうした行動が、本人も含めて最終的にどんな破滅となるか?の想像もしない「無思考」だからである。
その破滅とは、伝説的な『ビルダーバーグ倶楽部』復刻し、電子版もでた!)に言論統制とセットにした全体主義社会の完成における地獄の詳細が書いてある。

つまり、計画されたものだと。

それは、電子マネーが完全普及したときにおきる。
政府に背く言論をSNSなどに挙げる人物の端末を、リモート操作によって作動しないようにするだけで、当人は水の一本も購入ができなくなるからだ。

つまり、社会から抹殺される。

日本人だろうが何人だろうが、いまの世界は、政府によって子供時分から「無思考人間」になるようにさせられる。

その重要な装置が、学校教育の場すなわち「学校」なのである。

一般に、教職にある者は、学校の運営のことを、「学校経営」という用語を用いている。
これだけでも、民間人が連想する「経営」とは次元がことなるのだが、「運営:オペレーション」とは決していわないのも、ひとつの「無思考」だとかんがえられる。

長い時間をかけてきたので、すでに教員も無思考人間としての完成度があるから、教育委員会の命ずるままに従っているし、その教育委員会の無思考は、文科省の課長クラスからの「通達」に従っている。
ならば、官僚たる課長クラスがなにか思考しているのか?と問えば、無思考に組織の「空気」に従っているだけなのである。

では、その空気の本質とはなにか?

答は、『無思考国家』シリーズにあるし、『ビルダーバーグ倶楽部』にある。

つまり、グローバル全体主義がその根本にあるのだ。

しかして、グローバル全体主義を推進したいひとたちからしたら、ひとびとの「覚醒」こそがあってはならぬ事態だとわかるのである。

ここに、「格差社会」とは、年収やらの差をさすのではなくて、情報格差をさすのである。

それはなにもネット情報だけでなく、上に示した「レジの待ち時間」をどうするかも含めている。
ボンヤリしているひとは、ボンヤリ生きていることにも自覚がない。

それで、ボンヤリしていないひとたちとの、いろいろな「格差」が生まれるのは当然になる。

何のことはない、ボンヤリ生きているひとが、圧倒的な多数になったのである。
これを、「B層」と小泉純一郎総裁時の自民党が定義したことも、ボンヤリしていてしらないひとが多数なのも、ボンヤリゆえに驚くことはない。

このように、わが国は、圧倒的多数のボンヤリたちによって潰されているのである。

「部活廃止」の文化侵略

神戸市(教育委員会)が、市立中学校における部活を26年度にて「終了」し、「地域移行」とすることを全国で初めて決定した。

例によって、「持続可能性」という政治用語を用いていることが気になるので書いておく。

どうやら、一番優先すべきの問題は、教師の負担軽減であって、それが「持続可能性」を担保するという理屈のようであるけれど、それでなにの「持続」なのか?がピンとこない。
結果的に、「地域移行」というのは、地域ごとに生徒を集めてチームなりの練習を行うという計画で、その地域ごとに専門のコーチを雇用することになるという。

そもそも、中学校における「部活(動)」とは、「課外授業(「教育課程外」の略)」のことである。
それが運動部であれば、基本的に「学校対抗戦」をやって、勝ち抜いて市大会やら県大会、はたまた全国大会へと進むことで、高校からの優秀選手の争奪戦もあることを前提としている。

だから、かんたんにいえば、「部活動を地域で集約した」ということとは、「学校対抗戦」の否定だと解せる。
すると、このことは「愛校精神」という集団の帰属意識に多大な影響があることを意味する。

たとえば、ポーランドでは「愛校精神」なるものが存在しないと書いた。

つまり、神戸市(教育委員会)の意図するところが、ますます不明なのである。

本ブログでは、国家による教育の独占が行われていることを批判的にみている。
明治時代に、「学校」ができたのは、近代統一国家としての国家防衛上の喫緊の課題であった。

それは、西洋列強による弱肉強食の世界にあって、「国民軍兵士育成」という大命題があったからだが、これが敗戦後もまったく反省されるどころか、かえって強化されていることに問題があるからである。

これを総じて、「管理教育」という。

ようは、「教育課程=学習指導要領」に全国一律で従うことが前提とされ、まさに「金太郎アメ」状のなかで、製品分別仕訳の基準に「偏差値」を用いているのは、ほんとうの物質としての「アメ」とおなじように人間を扱っているのである。

そのために、偏差値の高いもの=無条件に優秀と社会認知しているだけの、見事な工業的大量生産方式になっているのを、だれにも疑問を持たせないように社会構造=洗脳をさせてきた。
しかし、それが、近年の国家的衰退の元凶、すなわち「人材の枯渇」原因でもあるのだ。

「多様性」をいうものほど、「多様性を認めない」のは、いまや世界共通のポリコレである。

さて、「部活」とはなにか?

じつは、わが国に独特の制度であるから、他国においては存在しないために、「マンガ」や「アニメ」文化の世界的な普及で、世界の青少年が「羨む」校内活動になっている。

そこで、「部活動の歴史」をみると、スポーツについては東京帝国大学が発祥で、ここから教師になったOBたちが全国の学校に普及させたという。

ちなみに、同じ場所にあるからややこしいが、圧倒的な優秀さだったのは、明治のはじめにできた「東京大学」で、それから「帝国大学シリーズ校」としての「東京帝国大学」になり、戦後の「新制大学」としていまの「東京大学」と、まったくの「別物」があたかも同じ顔をして惚けて存在しているので騙されるのである。

もちろん、騙しのトリックに「偏差値」があるのはいうまでもない。

さてそれで、学校の本分とはなにか?という問題がすっかり隠れてしまっている。
義務教育における「中等教育」は、いまでは「前期」までで、これが中学校の範囲なのだ。
「後期中等教育」は、全入時代とはいえ、「(新制)高等学校」という位置づけになっている。

それゆえに、「(新制)大学」では、二年生までをかつての「高等学校並」として、残りの二年を「専門課程」といいながら、じつは「大学教育」という扱いになっている。
これが、世界的に日本人の「学歴」が低いという理由なのである。

いまや世界を相手に学歴で勝負するなら、「大学院」にて、「修士」か「博士」の「学位」を得ないといけない時代になっている。

それならば、日本独自の運動部にいながら学業でも成績優秀ならまだしも、そうでもないというなら、どうしたらいいのか?という問題が、義務教育の中学校の後にどこへ進路をとるべきか?ということになるのだが、いまの学校制度ではやたら選択範囲が狭いのである。

こうしてみると、たかが「部活廃止」をしたところで、生徒の将来にどんなメリットがあるのか?がよくわからない。
やっぱり教員の負担削減が目的ならば、それも急激な「少子化」のことをかんがえると、教師の定員と生徒数の不均衡は、ずっと生徒の数の方がはやく減ることが予想できる。

だとすると、「部活廃止」とはなんなのか?

ぜんぜん生徒に対する、オリエンテッドな発想ではないのである。

おそらく、「文化破壊」という政治的なテーマの方がよりハッキリとした「目的」ではないのか?と疑うのである。

ポーランドは、社会主義政権時代の「名残」としての「愛校精神否定」であることに注意したい。

それにしても、どうして全国初が「神戸市」なのか?もよくわからないのである。

なにかと、兵庫県がかまびすしい。

農業は化学と経営学の実践である

有名な「世界経済フォーラムのアジェンダ」によって、意図的な「人口削減」が叫ばれて久しい。

これを、「陰謀論」だと嗤う者がいるけれど、世界経済フォーラムのHPに堂々と書かれているものさえも信じないのだから、どちらが「陰謀論者」なのか?
この「アジェンダ:行動計画」に賛同する、ビル・ゲイツは、正直に「いま70から80億人の世界人口は、10億人程度に削減することが望ましい」とも発言し、その具体的方法を実行していることも公表している。

つまり、彼は、60~70億人を意図的に「減らす」といっているのである。

その方策のひとつが、「牛のゲップ」が温暖化の元凶だとする「論」で、まずは酪農王国オランダから牛の飼育をやめさせるように政府が強行したので、「農民一揆」になって、政権が転覆した。

この政策をやったときの首相が、いまNATO事務総長になっているマルク・ルッテだ。
EUとNATOは、とんでもない人事をやっている。

それがまた、デンマークに波及して、「家畜のおならとゲップ課税」になって、農家を苦しめる話になっている。
これも含めて、トランプ政権2.0がデンマーク領たるグリーンランド購入をいうのだと理解した方がいいだろう。

つまり、トランプ政権2.0は、あからさまに世界経済フォーラムへ敵意を剥き出しにする、世界で三番目の「政権」なのである。
一番目はロシア、二番目がアルゼンチン、そしてアメリカという順になっている。

もちろん、「自・公・立憲」政権は、このアジェンダに賛同している側である。

これが、反トランプ政権となって、戦後初の「親中・反米」政権としての石破政権があるが、戦後の「55年体制」すら、アメリカ民主党の意向通りだったから、変化したのはあくまでもアメリカ側なのではある。

そのトランプ政権2.0は、当然だが「農業重視」だ。
これも、「MAGA」の一環である。
よって、反トランプ政権である、「自・公・立憲」政権では、ヨーロッパと同じく「農業破壊」政策に熱心となり、とうとうカロリーベースの食料自給率が1割を切る成果となった。

それでもって、「コオロギを食え」というキャンペーンを、世界経済フォーラムの若きリーダーのひとり、河野太郎が率先垂範してみせたのである。
そうして、今年の4月1日から、「食糧供給困難事態対策法」が施行され、政府の気分で「配給制」とすることができるようにもなっている。

一方で、「巷」では、農業高校が大人気で、就職率は100%が当たり前になっている。

さいきんの農業高校は、むかしからしたらかなり洗煉されていて、単に作物や家畜の「育て方」を学ぶ場所ではないようだ。
この様子は、全国農業高等学校校長会監修の『農業高校へ行こう!』(家の光協会)に詳しい。

なんだか、「三重県立相可(おうか)高校」の「調理クラブ」を彷彿とさせる。

じつは、料理も化学なのである。
その解説は、『キッチンサイエンス』に詳しいが、この本の本文解説を理解するために用意された、「付録」こそが、「化学」の基礎講座になっていると6年前に書いた

この点からしたら、「農業」は、農薬や肥料の知識に「化学」ばかりか、「分子生物学」を求められるようになったし、「売れる」ためにどうするのか?という「経営学」や「マーケティング」をしらなければ成立しない、「プロフェッショナル」しか成功できない分野なのである。

これは、あたかも「植物工場」が流行ったのと似てはいるが、単に人工的な環境で化学物質によってしかも経営合理的に生産されるだけでは、消費者の購買意欲が涌かないのとおなじで、「土の匂い」がするものでないと信用されなくなっていること、すなわち「品質」に行き着くのである。

これらをひっくるめて「経営品質」というならば、現代農業とは、高度な産業というには簡単すぎるほどの難易度だとわかる。

家庭菜園の延長線上に農業は位置しない。

たとえば、羽田空港を世界一評価にした「清掃業」を、家庭の主婦の仕事の延長だとかんがえることの間違いと同じなのである。

自国民を千万人単位で粛正したソ連・スターリン時代、もう一方では、エセ遺伝学者のルイセンコがソ連科学アカデミーのトップとして、科学者を政治的に育てることに集中して、これまたおおくの科学に従う研究者たちをシベリアに送った悲惨もあった。

けれども、一方で「食料安全保障」に気がついて、約5割もの一般人に「ダーチャ:農地付き別荘」を保有させることにしたのである。
ソ連の農業は、「コルフォーズ」や「ソフォーズ」の大失敗で、生産能力も流通管理もできないでいたが、ダーチャのおかげで国民は食えたのである。

ときに、日本で家庭菜園をやろうとしても、農業指導員がいないと野菜の作り方すらしらないのが、ふつうの日本人になった。
8割以上のひとたちが農民だった、農業国としての日本は、その微塵ものこしておらず、また、日本政府もスターリン時代のようなソ連化を急いでいるのが現代なのだ。

その意味で、最後の砦が農業高校になっている。