「溶ける」現象は「溶かす」から

大王製紙創業家の長男にして元社長・会長で、会社のカネ106億円をカジノで使い込んだとして収監された人物、井川意高著の『溶ける』(2017年、幻冬舎)が出てから、紙のお札をムダにしてなくすことを「溶ける」とか、悪意の意図的であれば「溶かす」というようになった。

本人は、「東大に合格した受験生の集中力を侮ってはいけない」とうそぶくが、その集中力を持ってしても106億円を溶かしたのは、「固執力」というべきか?「欲求度合いの強さ」というべきか?

だが、ご本人的には、いったん会社から立て替えてもらったけれど、個人資産で返済するつもりだったというのがウソでないのは、その資産の裏付けがあるからだろう。
なので、不当逮捕だという主張も、理解できないわけではないし、むしろ、正論をいうので権力者からうとまれて「制裁」を受けるはめになったというべきなのだろう。

結局、そんな恵まれた境遇に嫉妬した司直が、厳しく有罪としたのは、人民裁判の様相があって、フランス革命的横暴さも感じてしまうのはわたしだけか?

さて「溶ける」のではなくて、世の中にはずっとうわ手をいく、「溶かす」ことに長けたひとがいる。

その代表格が、小池百合子都知事で、2019年にピークだった東京都の「財政調整基金」9345億円を、たったの2年でたったの50億円にしたのである。

ざっと、9300億円を「溶かした」手腕は、尋常ではない。
これを、何気なくできるのだから、やっぱり常人ではない。

それとも、都民の知事を選ぶ目がない、といえばそれまでだが、一期目を終えた時点での「公約実現力ゼロ」で、どういう人物かわかるだろうに。

とはいえ、わたしも横浜市民であり神奈川県民だから、市長と知事の選択にあたって一票の無力さにシラケながらも、投票だけには行って一矢報いるつもりでいる。

さてそれで、こんな「溶かす」のを、組織でおこなっているのが、農林中央金庫(農林中金)だ。
20日のロイターによれば、19日までに複数の日本国内メディアが、「1兆円の増資」を検討していると伝えた、と伝えている。

会計年度としては、まだ新年度になって2カ月もないのだが、2025年3月期の純損益は5000億円規模の赤字に転落する恐れがあるそうな。
それで、保有するアメリカ国際を売却して損を確定することの「穴埋め」をやりたいらしい。

しかし、「債券」は、満期まで保有していれば当初利回り通りの回収が確定しているものなので、アメリカ政府がデフォルトしないかぎり、「安全資産」である。
なのに、なんでわざわざ「中途で売って損をかぶるのか?」が、話題になっている。

これを、冷静に「モハPチャンネル」さんが動画で解説している。

ようは、相変わらずの失敗に変わりはない。
だけれども、モハPチャンネルさんの解説が触れないもっと基本的な問題があるのだ。

それは、おカネの世界とはゼロサム社会(「往って来い」の関係)だという前提があるからで、小学生にもわかるからあえて余計な解説をしていないのだとおもわれるし、動画冒頭、「少し駆け足で」という注意につながっているところがこの方の生真面目さを表している。

農林中金が10年に一回ほどのパターンで「溶かす」なら、もう一方の、「濡れ手に粟」はだれがつかんでいるのか?という問題なのである。

世界経済フォーラムは、とうに、「農業廃止」を打ち出して、反発した農民たちがまずはオランダで一揆蜂起し、それがドイツ、イタリアへと拡大したことは書いた。

わが国の農民は、なにをかんがえているかわからないが、とうに高齢化して、一揆をやる元気もないのだろう。
あるいは、農協に身も心も吸い取られているかもしれない。

なにせ、全国の農協が農林中央金庫の株主だからであるものの、もはや農協は農民のために存在しないことはとっくにバレている。
それゆえに、「JAバンク」の事業は一般人への顧客展開をやっていて、農民のための金融を放棄したのである。

そんなわけで、「ヘッジファンドに業態がえ」をした農林中央金庫は、とうに農協のためでも、それを支える農家のためでもなく、表向きは「カネもうけのため」にしているけれど、ここまで大損を重ねると、もう「わざと」だとしかかんがえられない。

これを、政権与党がやらせて「裏金」の資金源にしているのではないか?と疑うのだが、司法(検察だけでなく最高裁も)が政治家のためにあるまでに腐敗して、三権分立から退化して「二権分立」になったEUやアメリカよりも悲惨な国になっている。

日本が溶けていくのは、溶かす者たちがいるからである。

しかして、これらの者共は、けっして責任をとらないし、ましてや収監されることもない。
なるほど、井川氏の憤懣やるせない言動の根拠だとわかるのだけど、どうしてそんな井川氏が「第二自民党」にすぎない、「日本保守党」を檄押しするのか?わたしには、まったくの不明で残念なことである。

むしろ、ご自身で党を立ち上げるなりして、「世直し」に期待したいのである。

是非とも、都知事選にでてほしいと、神奈川県民としていいたいのは、妙に東京をライバル視している神奈川県だから、都が変わるとその影響も多大だからである。

すくなくとも、小池氏よりもまともであることはまちがいない。

小田原市長選とEU委員長の刑事裁判

19日、即日開票がおこなわれた小田原市長選では、「無所属」だが自民党系の現職が、ほぼほぼダブルスコアで元職に敗北するという、逆転劇があった。

投票率は、全体で48.17%であるが、選管の発表では、女性が49.33%で46.92%だった男性を上回っており、もう男性の社会進出は弱まったのがよくわかる結果になっている。

それでも投票率が半分ないのは、選挙がムダだという認識の蔓延すなわち、民主主義を信じないひとたちの多さを示しているのである。

とはいえ、現職による小田原市政の評判は、SNSでも相当に落ちていることはわかっていた。

マスコミは、自民長の「大物議員」が、現職の応援に入っていたのに負けたことを書いているが、単に「神奈川県連」の内部のはなしで、とくに河野太郎氏と小泉進次郎氏の応援が逆効果になったらしい。

河野家についての嫌悪は、古い小田原人ほど顕著であったにちがいないのだ。

そのむかし、平塚を地盤とする河野洋平が小田原選出の社会党議員に持ちかけて、「選挙区交換」を誘ったのである。
この悪魔の誘惑に負けた社会党議員は、河野洋平が小田原から出て、自身が平塚から出馬することに同意した。

ところが、選挙の直前になって河野洋平が手のひら返しをして、出ないといっていたサラリーマンの長男・太郎を出馬させて、親子で議席を「盗った」ことが両方の土地で社会党候補支援者たちからの怨嗟となったのである。

河野家の血は、完全に雲助とおなじ、「騙すより騙される方が悪い」が遺伝している。

それから、選挙区割りが変更されて、平塚は相模川の東側の茅ヶ崎市と合併区となったけど、平塚単独では評判が悪い河野は勝てないのだが、そんな歴史的背景をしらない茅ヶ崎人が河野に投票して「鉄板化」した構図になっている。

ために、こんどは、参政党が河野太郎に一騎打ちを仕掛けているのは、大いに期待したいところなのである。

ところで、どういうわけか「コロナの真実」が、いまさらとはいえが地上波でも解禁になったようである。
テレビ局の責任逃れがはじまったとかんがえる方が正しいのだろうけど、来月に予定されている「言論統制のための閣議決定」がなされれば、またどんなことになるかはわからない。

マイクを切るような乱暴ではなく、もっとスマートな乱暴が永久にはじまる。

当然だが、強力にこれを推進しているのが河野太郎なのである。
しかして、このひとは、世界経済フォーラムの主宰者であるシュワブ氏から、「未来のリーダー」として選ばれている、あっちの世界での「エリート」なのである。

その先輩に、EU委員長のフォン・デア・ライエン女史がいる。

このひとは、EUにおけるコロナワクチン購入にあたっての、「汚職疑惑」から、刑事裁判の被告になっているのだ。
なお、原告には、ハンガリー政府やポーランド政府も名を連ねている。

ところで、なにかと忙しいEUやNATOは、20日に「任期が切れる」ゼレンスキー大統領を、明日からどう扱うのか?が気になるところだ。
なお、別途6月9日には、一応、「EU議会議員選挙」がある。

ついでながら、EUの法執行機構は、フォン・デア・ライエン女史が率いる「EU委員会」だけれども、日本の官僚制をスーパーパワー化させたのがEU機構の設計思想であるから、なんとEU議会には、立法権がない(単なるガス抜き機関)のである。

ではどこに立法権があるのかは、EU委員会にある、ので、司法だけが分立して「二権分立」なのがEUなのである。
啓蒙思想以来の三権分立の原則が、EUにはとっくにない。

その分立の一方の「司法」がいま、フォン・デア・ライエン女史の立場を追いつめている。

統治の要は、司法なのだとよくわかることになっているが、アメリカでは「トランプ狩り」で、その司法も壊れてしまった。

さてそれで、わが国に振り返れば、「二権分立」のEU化が顕著になっているけど、これは、鶏が先か卵が先かのはなしとおなじで、EUからしたら、オリジナルは日本だといわれるにちがいない。

国も地方も、「議会が死んでいる」からで、首相や首長が立法もしているのだ。

小田原市は、分かりやすい反発を市民がするまでの「独裁」をやったので、ひっくり返っただけだが、EU委員長の刑事裁判のようなことまでにはなっていない。
なにせ、「裏金」で挙がったひとたちが全員「おとがめなし」の安泰にいる。

フォン・デア・ライエン女史からしたら、日本が羨ましいにちがいない。

20日、墜落死したイランの大統領は、「日本はアメリカから独立すべき」といったとか?まったく隣国インドとおなじ残念な評価をされているのが、わが国なのである。


リニア工事中断の大問題と『大魔神』

さては、えらいこっちゃ!になった。

これまであった、「小問題」は地元の意見を無視したりねじ伏せて乗り切ってきたけれど、とうとう「町の消滅」が現実化するかも、となって、傲慢極まりない国土交通省(公明党の大臣枠)とJR東海も、16日、工事中断を発表せざるを得ない事態になった。

理由は、これまでの数ある小問題と同様の、トンネル工事による「水脈の断絶」という、旧新幹線やら新東名やらでもよくある話で、こないだ辞任した静岡県知事がいっていた「大井川の水脈問題」は未然形だが、ホイホイ推進していた岐阜県(瑞浪市大湫:おおくて)で起きてしまったのである。

瑞浪市は、日本のヘソ、恵那山周辺の恵那市と土岐市の間にあって、木曽川の左岸にあたる。
なお、恵那市も井戸の水位低下についての事実を「注視」しているというから、これから重い腰をようやく上げて(横並びして)問題にするのだろう。

残念だが、地元民のためを装って、なんらかのカネを国やらJR東海やらから巻き上げようという、まごうことなきヤクザ感覚の発露がみられるはずである。

さらに、恵那市より木曽川上流の中津川市(中央道では長野県から恵那トンネルを抜けたら中津川になる)には、「リニア新駅」ができることで、岐阜県内は恐ろしいまでの「温度差」が形成されつつあるのである。

静岡県に文句をたれていた、岐阜県知事(県庁に「リニア推進課」がある)が、その浅はかさから想像だにしなかった、あろうことか当事者になってしまって、パニックから逃げるためこちらもそのうち辞任するやもしれぬ。

阿呆でしれる神奈川県知事と、山梨県知事のコンビは、ほっかむりして他人事にするはずで、沿線市町村に「冷静(黙れ)」を命ずるはずなのである。

いまは編集されたニュース記事よりも、現地からのSNS発信のほうがはるかに正確な生活情報が得られる。

その深刻度をみると、大湫地域の飲料水は水道がなく井戸に依存していて、それが完全に枯れただけでなく、水田の水も涸れた(「山枯れ」)ことによる地盤沈下もあり、生活不可能、という事態になっているのである。

飲料水がない、ということに、JR東海は、住民にウォーターサーバーでの供給をしているが、法では期限は30年だ。
それで、JR東海は、新規に井戸を掘るそうな。

見事な対処療法の浅はかで、知能を疑いたくなるけれど、そんな低能ばかりで組織が運営されているのは、あんがいとどちら様もおなじなのである。

また、「山枯れ」は、山の保水力と排水力のバランス崩壊を意味するから、雨水が浸みた水圧による大規模土砂崩れなどの災害も懸念されている。

なんだか、住民をむりやり帰還させた、フクシマと似て、なにがなんでも責任はとらず、とにかく住みつづけろというのは、もう「成田闘争」までも彷彿とさせる。
発端は、戦後沖縄から移住してやっと「開拓」した農地を、空港にするから出て行けといった、当時の役人の傲慢さがまったく反省されていないばかりか、伝染している。

これを、「役人根性パンデミック」と呼びたい。

人生には取り返しのつかないことがあるけれど、目には見えないトンネル工事での「水脈切断」も、復旧が不可能な取り返しのつかない、おそるべき自然破壊なのである。

このブログでは、木曽川の「丸山ダム」「新丸山ダム」のことは書いてきた。
どちらも、ダムによって水没した村のことに触れている。

電力不足が深刻な戦後の時代(原子力は実用化されていない)に、仕方なく「廃村」させたのが「丸山ダム」で、21世紀なっても、丸山ダムごと水没させることでさらなる上流の「廃村」をやったのが、「新丸山ダム」である。

リニアで町ごと住めなくするのは、「計画にない」ことなので、寝耳に水のことにみえるのも、またずいぶんなはなしなのである。

それでも、リニアを推進するのは、多少の犠牲はいとわない、という公共の福祉をいう理屈があるからだ。

おそらく、地元ではずっと前から懸念する声があったろうし、本稿冒頭のように、「小問題」は、実験線が最初にできた山梨県でもとっくに起きていたことなのだ。

ここでも、カネに目がくらんだ「専門家」の御託が、地元民の声を潰してきたはずで、その専門家たちは、カネを得ていながら逮捕もされないので、「裏金問題」同様の安全地帯に住んでいる。

これを、「開発独裁体制」の国家と沿線の地元自治体がこぞって、まるで、『大魔神』(1968年)のあくどい領主のように振る舞ったことで、映画より悲惨なことが現実となったのは、もう『大魔神』が水脈を元通りにしてはくれないからである。

さては、静岡県知事選では、共産党以外の候補者は全員、「リニア推進派」という、これまたおかしなことが起きている。

これまで圧倒的に県民から支持されてきた「前職」の後(リニアに慎重な姿勢)を継ぐ者が、共産党の候補者以外誰もいない。

そこまでして、まだ開発独裁体制を続けたいとは、まったくシュペングラーが100年前に書いた『西洋の没落』のいう、没落プロセスがわが国でも作動していることの証左なのである。

『大魔神』が出てくるはずがないウクライナでは、ゼレンスキー氏がとうとう「敗戦」について語り、その責任は、「ウクライナ支援をしない全世界にある」と、他人事にした。

ロシアの圧倒は放置すれば、ウクライナ全土の占領ということになる。

しかして、そうなれば、「西側による復興支援」もなにもかもがすっ飛んで、ロシア支配の元での復興になるから、わが国の支援金も「口だけ」で済むという、わが外務省の「読み」の鋭さに敬服するのである。

ウクライナをわがモノにせんとした強欲な、ブラックロック以下の投資家は、もう半分ほどの肥沃な農地を購入済みとしていたけれど、もはや「損切り」の覚悟を決めないといけなくなっている。

あたかも、『七人の侍』のごとく、土地をサッサと欧米大資本に売ったウクライナ農民のしたたかさは、ロシア支配になったときの想定があったとして、濡れ手に粟の収入と、土地所有権の回復とを見越した「お見事」なのだといえる。

15日、突如キエフを訪問したブリンケン国務長官は、もうアメリカとしてやることがないので、ギターをもって熱唱するまでに落ちぶれた姿を世界に示した。

こんどはこれを、岸田氏はどこで真似るのだろうか?

わが国は、リニアの損切りができないで、水脈を切りまくる強引さを後世に残す、愚かなことをやって、投資家としての三流ぶりも後世の歴史家に糾弾される予定になっている。

日米の「音声」問題

世界から、アメリカの「属国」だと広く認定されるに及んで、とうとうインド外相からは、「日本のようなアメリカとの惨めな同盟はしたくない」といわれたのは、もしや岸田自公政権には最大の名誉の賛辞に聞こえるのだろうかと疑ったのだが、だんだんとそんな疑いも晴れてきていよいよ本気の狂気沙汰なのだと気づくのである。

とにかく、役人にアメリカのバイデン政権を詳しくウオッチさせて、それを真似る。

なにも官僚だけでなく、民間企業の「(経営)企画担当者」とは、役所でいう「官房企画課」とかのことだから、やっていることは多岐に及ぶなんでも屋でおなじ人種なのである。
なお、ここでの議論は、組織図のはなしではなくて、あくまでも実質的な業務内容のことである。

さて、何度も『パーキンソンの法則』について言及してきたが、仕事量は役人(担当事務員)の数に比例して増える、という真理は洋の東西を問わない。

だから、「ウォッチしろ」というだけの命令でも、大量のウォッチャーが必要となって、またまた組織は肥大化するようにできている。
どの部署の責任者も、自身の担当職域を拡大させて権限をふやすことしかかんがえていないので、必然的に人員が増加するというのは、物理でいう「エントロピー増大の原理」そのものなのである。

そんなわけで、まずはアメリカでは、「機密文書持ち出し問題」の、トランプ氏が被告になる裁判で、バイデン氏(官房企画課の連中)は「大統領免責特権の剥奪」という、前代未聞の大統領令を発して、なんとしても有罪に持ち込もうとしている。

しかし、バイデン氏にも機密文書持ち出し問題が発覚して、さらに分が悪いのは「副」大統領時代のものと、もっと古い上院議員時代のものなのである。
これについて、免責特権は、はなからないため、即有罪、となりそうなのを、特別検察官は、高齢の呆け老人」だという点で「不起訴処分」として、さっさと検察官自身が辞任して逃げたからややこしくなる。

共和党が支配する、下院で、不起訴なった検事調書の元となる、バイデン氏への事情聴取録音の議会提出を、まずは委員会レベルで決議した。
本会議での結果が気になるところである。

呆け老人の呆け状態が録音から明らかになれば、現職大統領としての資格にも影響するため、ホワイトハウスと司法省は断固公開拒否を貫いているのである。
とはいえ、今年の大統領選挙をにらんで、どんな作戦が練られているのか?われわれには知る由もない。

また、今年の一般教書演説においては、「覚醒剤の使用」が疑われていて、ホワイトハウスで発見された「白い粉」の持主が、バイデン氏本人であるかもしれないのである。

これが、日本に飛び火して起きたのが、「水俣病患者との懇親会」における、音声マイクの遮断事件だとかんがえる。

だれがリークしたのか?「台本」の内容までニュースに出ているが、わたしも企画担当として、役員と管理職の議論の場についての「台本」を書いたことがある。

問題なのは、この台本には、懇親会開催の事前注意事項として、
・設定時間(3分)を越えるおそれがある場合に司会者が話者に注意喚起すること
・時間を越えたら、マイク音声を遮断する場合があること

が記述されているが、どういうわけか、当日の司会者が後者を読まなかった(読み飛ばした)ことも、唐突すぎるこの事案の原因となったと指摘されている。

台本を書いたことがあるわたしからしたら、こんなことよりも問題なのは、
・この台本を用いた事前大臣レクチャー及び当該台本使用の裁可があったはず
・執筆者心理に、どうして「マイク音声遮断」を書く素地ができたのか?
の二点だ。

大臣レクチャーと裁可は、担当役人として絶対にやっているはずであるから、責任は大臣にある、という表面的な結果論では石破茂氏の見解は正しいが、彼の論理アプローチでは政治的すぎる。

もっと、実務レベルの事実だけで大臣の責任問題は終わるはなしである。

次に、台本執筆者の心理とは、
・はなから患者団体のはなしなどどうでもよいただの「儀礼」だとかんがえている
・行政官として法に照らせば、なんら彼らに攻められる筋合いはない

が前提にあるはずで、まったく「韓非子」的なのである。
大学でいろいろ洗脳されたうえに、諸先輩の指導が役所であったのだろう。

しかして、マイクを切ることの重大性に気がつかないのは、まったくアメリカ民主党(トロツキー派)に傾倒しているからとしかおもいつかない。

これぞ、『エルサレムのアイヒマン』なのである。

もう、優秀な官僚が国家を導いている、というのは害悪にすぎない。
台本執筆者は、「行政官として」という身分と、裁量権の最大を模索することの区別をしているつもりだろうが、それが、「読み飛ばす」ことになって現れたのだと思料する。

おそらく、この司会者が台本執筆者本人であろう。

さては、内閣人事局は、彼にどんな「裁き」をするのか?
期待しないでウォッチしたいが、報じる者がいないのがアメリカよりも惨めなわが国の実態なのである。

水俣病の認定をもって誕生したのが、環境庁設立のトリガーだったのだから、この組織自体の「レーゾンデートル(存在理由)」にかかわることなのに、中の役人にはとっくに「永遠なるもの」となっているのである。

国家が永遠なるものとも思いこむ、この幼稚さは、歴史年表の暗記が「歴史」だったひとたちの歴史感覚なのである。

ローマが滅びたことも、数々の治乱興亡も、なにもかも他人事のひとたちがわが国を仕切っているのである。

たばこ代をもらえた時代

日本人の大半が、給料取り(勤め人)」になったのは、大正時代からのことである。

エリート教育をしていた、旧学校制度(旧制)の頂点に君臨した大学には、よほどの経済力か学力がないと進学できず、それなのに、「大学は出たけれど」といわれたのもこの頃の大戦不況がそうさせたのである。

なお、よほどの学力があっても経済力がない家の出ならば、「出世払い」を前提に、担任教師や校長、あるいは地元の資産家などが学費を出してさらに有力者(政治家や高級官僚、財閥の幹部など)の「書生」にして生活の面倒もみたのは、「郷土の星」を育てる江戸期(幕藩体制)からの人脈の伝統が残っていたからだった。

また、小説の神様、志賀直哉が発表した『小僧の神様』は、大正9年の発表で、有閑貴族との社会的コントラストが描かれている。

それでもまだ、わが国は農業が最大産業だった。

農家の次男坊以下のひとたちが、大挙して都会に出たのは、「口減らし」と産業資本(重化学工業)企業からの「求人」とが一致したからであった。

しかしながら、いまのようにオートメーションなんてものも生産技術もなかったので、大量に求められたのは、手や足となる「職人」だったのである。
これを梅棹忠夫は、「荒っぽい工業」といっている。
製品も、作り方も、人事管理も「荒っぽい」時代だった。

一口に「工業」といっても、伝統的な「家内工業=手工業」もあるので、やっぱり一口に「職人」といってもさまざまで、その意味する範囲はえらく広い(荒っぽい)のである。

明治から大正期、昭和前期を経て、戦後になっても、たとえば、吉永小百合主演の『キューポラのある街』(1962年)でも、伝統的な意識の腕のいい職人が、勤め先を選ぶのは自分だという依怙地な姿が、「時代遅れ」の典型例として表現されている。

この背景に、アメリカからやってきた「オートメーション」がある。
だが、職能を売買する、という「労働市場」の原点に立ち戻ると、「時代遅れ」というよりも、「錯誤」といった方がいいのは、職人の主張をガン無視した社会の方でなのである。

ようは、半世紀以上も続いてきた、腕のある職人ほど繰り返す転職のあたりまえが、いよいよ崩れだした時代の境目を映像に残したの作品だともいえるのである。
だから経営者は、腕のいい職人の確保のために、家族的な経営をしてきたことも、職人が抜ける(腕のいい職人ほど転職=実は「転社」した)ことの強迫観念からだったという経営史の解説も説得力がある。

この正当でまっとうな「労働市場」を壊したのは誰か?

明らかに、高度に準備して実行したGHQの仕業であろう。
わが国の企業特性だと信じ込まされた、「終身雇用制」なるものは、戦後にできた幻想なのだし、どこに配属されるか本人には不明の「就社」であって、「就職」でなくなったのも戦後なのである。

さてそれで、表の家業やら勤め人としての収入は、ぜんぶ裏(内実)としての「家計」を支えた主婦・女将さんの管理下に引き渡すことが、世界的に珍しい日本の伝統となっていた。

男は、女の管理下で稼ぎをあげる役目を負わされる、「女尊男卑」の本音がここにある。

それが、明治維新の欧米化にあわせるために、あえて「男尊女卑」を装うことでの、ヨーロッパ感覚(彼らは女性を「所有物」とかんがえていた)と対等なのだという雰囲気(猿まね)を鹿鳴館時代を通じてつくったけど、本音になんら変化はないから、良家ほど「女尊男卑」が守られて、これをしっている庶民も真似たのである。

それで、「たばこ代(銭)」を家計管理の主婦からもらうのが、その後の「500円」とか「千円亭主」ということになったのである。

家族をどうやって破壊するのか?は、全体主義=共産主義実現のための、巨大な壁である。

社会的に個人の関係をすべて断ち切って、「アトム化」させるのは、ジャン・ジャック・ルソー以来の「悲願」なのである。
ために、子供は国家が面倒をみることで、家族から切り離すことをソ連政府が試みたし、ナチスは「レーベンスボルン(命の泉)」をつくって、アーリア純血種を育成した。

何度も書くが、共産主義もナチズムも、全体主義という点で、まったく同じものである。

そこでいま、わが国でもふたつの方策を柱にして、国民の「アトム化」が推進されている。
・女性の社会進出(ダブルインカム)による、家計の分断
・「こども家庭庁」創設による、政府による家族(個人生活)への介入

当初、ダブルインカムは、なんだか富裕層の言い換えのようだったけど、賃金上昇をさせないことで、ダブルインカムでないと生活できないようにしたのである。
次に、「こども家庭庁」は、将来的に「レーベンスボルン」と化すとにらんでいる。

さらに、「禁煙」を推進するためのエセ科学で、癌予防を大々的に宣伝した。

たしかに、喫煙は肺がんのうち「扁平上皮癌」の原因にあげられるが、いま肺がんのメジャーは「腺癌」であって、喫煙が原因ではなく、食品が原因とかんがえられている。

それに呼応するがごとく、たばこ税だけはドンドン上がって、もう貧乏人はたばこもたしなむことができなったから、「たばこ代」をもらうこともなくなったし、家計が2本化して、それぞれの稼ぎがそれぞれのものになったのである。

そんなわけで、たばこ代が負担できるのは、自分の収入を自分の収入とすることができるひとに限られているのではないか?

ために、税法も、「家計所得」という概念すらなく、個々に課税して家族の分断をシラッと進めているのである。

職人が絶滅危惧種になって、家族も絶滅危惧種になっているのは、偶然ではないのである。

気の毒な自民党だけれども

なんの同情もできない。

もしもなにかの感情を表現しようとしたら、憐れみ、となるのだろうが、被害者は国民だからそんなこともいえない。

11日、ニュージャージー州(典型的な民主党のブルーステート:いわゆる「敵地」)で開催された、トランプ氏のラリー(演説会)は、8万人から10万人が集まった今年最大規模のものとなっていた。

民主党も同日、集会を開催したが、こちらには50人ほどという「閑散」だった。

これでほんとうにブルーステートなのか?と疑うが、選挙投票と集会参加の数に相関性がないか、逆相関することは前回4年前の選挙から顕著に判明したことである。

このことは、わが国の参議院議員通常選挙でも同様で、もうすぐ2年になるが、大阪での岸田首相の動員がかかっていた聴衆と、その裏でやった参政党・松田氏の動員のかけようもない諸派(当時)の聴衆の歴然としたちがいが話題になったものだった。

じつは、いまでも「世界は広い」ので、日本の常識とはちがうことが起きている。

その最も興味深い国は、エルサルバドルである。

世界最悪の治安と揶揄され、犯罪多発では表現がまだ緩いといわれたこの小国が、たった数年で「カナダ並」の治安を取り戻したのである。
わが国でも、ネット界隈で話題の埼玉県・川口市の治安悪化は、移民行政についてのまちがった判断がもたらしていると評判なのである。

つまり、治安とは、意志をもって取り組まないと崩壊もするし、立て直しにはたいへんな覚悟がないと正常化は到底できないのである。

ところで、わが国の治安は、建前上、「国家警察がない」ことになっているので都道府県警察の長が責任者だとおもいがちだが、最高責任者は「知事」である。
都道府県警察のトップは、いわゆる「警察官僚(おおむね課長級)」にすぎない。

これは、日銀の支店長とおなじ組織構造だからなのである。
ただし、警察庁には「管区警察局(長)」があるので、この点では経産省とおなじ構造になっている。

埼玉県の場合は、知事が移民側に「優しい」ために、多数の存在である県民側に我慢を(政治的に)要請しているので、そのまま埼玉県警も、移民を住民から保護するという行動になったのは、知事の意向にしたがっているからなのだ。

その埼玉県知事は。自民党、立憲民主党、日本維新の会、公明党、国民民主党のいずれも県組織が支持して、史上最低の投票率の中、「圧勝」したのであるけれど、自民党色が強まったのだった。

そんなわけで、自民党以外の、立憲民主党、日本維新の会、公明党、国民民主党は、なんのために存在するのか?という点で、全国どこにもある「仲良し与党」を形成するためだけにあるのを嫌忌したひとたちが棄権して、投票率を落としているのだろう。

つまり、ここが狙い、なのである。

いかに、有権者を棄権させるほどに呆れさせ、実質的な「独裁」を可能とするか?をやったのは、エルサルバドルがマフィア支配になる過程での方法とソックリなのである。

それでもって、あまりにもあんまりな状態になって、余裕のある国民から国外脱出があいついだのである。
結局、国内に住むしかないひとたちが我慢の限界を超えて「決起」したのが、いまのエルサルバドルになった原動力なのだ。

痛みを伴う改革なんて生易しいことではない。
いつ犯罪に巻きこまれて、つぎの瞬間さえどうなるかわからない状態に追い込まれたことが、「生存」をかけた戦いになったのだ。

この意味で、埼玉県の川口市界隈はどうなるのか?が、あんがいとわが国の未来図なのである。

県レベルと侮ってはいけないのは、しょせん自民党、立憲民主党、日本維新の会、公明党、国民民主党とは、そういう性格の集団だからだし、当然に「本部」が関与するのは、どちらにも「組織」があるからである。

日本人は、水と安全はただ、だと思いこんでいるとずいぶん前から指摘されてきたけれど、日英同盟の相手国、イギリスのロンドンでは、とうとう、民営化した水道会社が経営破たんしそうになっている。

麻生副総裁なる無責任な人物は、河野太郎を派閥から除名処分にもしないけど、熱心な水道民営化論者なのである。

治安はエルサルバドルの回復、水道なら英国の悲惨が先行事例だが、もっと英国の悲惨をつくったのは、「揺りかごから墓場まで」をスローガンとした、手厚い「福祉国家」を目指したとんちんかんが諸悪の根源なのである。

日本人は、律儀にも「福祉国家」=「善」だと信じ込まされて、イギリスの後を追いかけて自滅の道を爆走しているのである。


「虹」にご注意

虹の七色のことである。

しかし、これが政治利用されて、邪悪な「世界経済フォーラム」が勝手に決めた、「持続可能な開発目標」=「SDGS」の17ある目標をそれぞれの「色」で表現したら、「虹色」のようなバッジができた、ということなのである。

ために、虹の架け橋が半円のイメージとなるのが、このバッジでは足りないので「円形=ドーナツ型」となっている。

あたかも、これらの17の目標が、「正義」に見えるような演出がされているが、よくよくかんがえれば、承服しがたいのがその実行にあたっての「強制」を伴うからである。

これが、すなわち「グローバル全体主義=共産主義」の姿なのである。

そして、勝手に決めたことの本音が、ビジネスにあることも、重要な要素で、「儲かるからやりなさい」という変なことになって、世界中の経営者に命令しているのである。

それで、従わない経営者が経営する企業との取引を「させない」という、脅迫もセットになっているので、

・いやでも従う
・積極的に従う(ふりをする)
・ぜったいに従わない

という3つの選択肢しかない状況を、世界規模(グローバル)で作り上げた。

ここで、問題になるのが、一般人である消費者からの反発をなくすための宣伝工作(プロパガンダ)をどうするのか?となるのは、この邪悪な者共たちの側からしたら当然の課題となって、その解決策として、

・大手マスメディア(大株主であるし、大スポンサーでもある)を使って番組内で宣伝する
・政治家(大口献金をして)によって、政府をコントロールさせる
・役人(天下り先での厚遇)をもって、政府をコントロールさせる
・直接一般人に、心理的な障壁を除くように「訓練」して、慣れさせる

というおおまかに以上の手法を用いるのである。

さてそれで、、積極的にSDGSを推進させようという企業のなかに、「GAFA」があるのは有名なはなしで、かつ、これらの企業はあからさま(強引)に推進させているのは周知のところであろう。

具体的には、

  • グーグル(Google*:検索エンジンの運営など)
  • アップル(Apple:iPhoneなどのデジタルデバイスの開発など)
  • フェイスブック(Facebook:交流サイト(SNS)の運営など)
  • アマゾン・ドット・コム(Amazon:ネット通販サイトの運営など)

の4社をさす。

さてそれで、3月発表の噂が先延ばしされて、5月7日に発表となった、アップルの「新型ipadイベント」では、大々的に、この「虹色」が意図的にデザインされて使用されていた。
アップル本社の緑豊かな中庭のなかに忽然と、これ見よがしの「虹型人工オブジェ」が配置されている気持ち悪さは、ある意味この企業のぶっ飛んだ美意識にまでになっているのである。

日本人のわたしの目には、自然とぜんぜん調和していないこの人工物は、ただの排除されるべきゴミに見えるのである。

しかし、政治的にイカれた、すでに脳の奥底まで修復不可能さを感じさせる、病的なまでになった、新人類(あるいは「ミュータント」)的なこの企業では、これがまさに「美の極致」とされているにちがいなく、違和感を感じるものは解雇されるか自ら退職しているのだろう。

さらに、14日には、「iOS」と「iPadOS」の更新版が配信されるようになって、とくに「壁紙」のデザインが刷新されたことが目玉のひとつとなっている。

それがまた、「虹色」をもって作られた「動く壁紙」なのである。

こうした新OSの機能を紹介する動画では、もちろん「虹色」についての意味するところを解説はなく、ただ「かっこいい」ことを強調している。
それで、アップル社からなんらかの報酬がもらえるのかもしれない。

ついでに、上の新型ipad発表イベントのリアル会場は、ロンドン開催であったので、わが国からも有名ユーチューバーたちが「ご招待」されて、東京とロンドンをとんぼ返りさせられて大変だったという自慢話にしているのである。

ご招待だから、渡航費用はアップル社もちなのはいうまでもないから、宣伝工作員として取り込まれてしまったのである。
なわけで、わたしはipadユーザーではあるけれど、アップル信者ではないので、彼らの今後の言動について一歩引いて観ることを決めた。

さては皆様、このようにして「虹色」をいろんな形態にして日常的に見させるようにしているのは、われわれの脳内に違和感を持たせないための強制的な訓練なのだと認識しておきましょう!

じつは、おそろしい洗脳工作なのであるから。

外国人二重価格の賛否両論

最初のニュースは、北海道のニセコからだったかと記憶している。

わたしも以前(20年前ほど)、ニセコのスキーリゾート開発にかかわっていたことがあった。
当時はほとんどがオーストラリア人を中心にしていて、そのまたきっかけが、カンタス航空の千歳便が定期便になったから、ということだった。

アジア・太平洋地域では貴重な、パウダースノーを求めてやってくるオーストラリア人たちではあったけど、当時のオーストラリア人たちは、そんなにおカネを使わない滞在をしていたものだった。

しかし、オーストラリア人向けのコンドミニアム(日本語でいう「マンション」)開発では、町内中心部のコンビニを案内して、北海道独特の生鮮食料品もたっぷり扱っていることが、「不動産購入意欲」をかきたてたのである。

これなら、「住める(=自炊できる)」と。

もちろん、当時の日本は、金融バブルが起きていたので、いまほどの「閉塞感:貧困化」ではなかったし、オーストラリア人にとっても日本はまだ「先進国」に見えたのである。
それがまた、為替レートにもなっていて、円高基調のために、遊びで来る彼らの財布も堅かったのだ。

しかし、100円が150円(後半)ともなれば話はちがうし、『ウサギとカメ』の話のごとく、停滞する日本(ウサギ)を横目に、オーストラリアだけでなく世界中の国々がカメのように確実に成長して、とうとう逆転のタイミングを迎えたのである。

そうやって、まずニセコのラーメン屋さんが一杯2000円の価格設定をしてみたら、「イケる!」ことがわかって、蔓延し、4000円のラーメンも登場するにいたったからニュースになったのである。

直接4000円のラーメンを食べてはいないので味覚的にわからないが、動画などで観るかぎり、カニやホタテやらの高級食材がこれ見よがしに使用されている。
日本人のまじめさが、原価になっているために外国人観光客からのクレームにならないのだろう。

むしろ、「当然の価格」という評価らしいのは、もっと見た目も味も劣るものが、「本国」で同様の料金となっているからだと説明がある。

前に、スイスの例を書いたが、もはやスイスではふつうのランチが5000円するし、ディナーともなれば1万円を越えるのは、当たり前なのである。
なにせ、「ビッグマック」が2000円なのだ。

価格については、アラブの事例も書いたけどここで再掲する。

売る側の表示設定と、買う側の価値判断にギャップがあれば、かならず日本人の目には「価格交渉」が行われる。
彼らの日常として、この行為は、「価値の調和」をやっているのである。

これには、神との契約による「予定調和」が信仰の基礎にあるからといえる。

つまり、日本的ではないという価値観の断絶がきわめて大きな意味をもっていることが重要なのだ。
たとえば、ここでいう「日本的」とは、東京を基準にした関東人の感覚を指すのだけれど、ずっと日本の中心地だった「畿内」のひとたちの原初的国際感覚が、いまはアジア的日常になっているとかんがえられ、そのちがいは歴然としているのである。

もっとも端的で興味深い実態は、やっぱり、「大阪のおばちゃん」の行動様式(「エートス」という)を観察するとみえてくる。
だから、関東人を標準的日本人だと決めつけると、日本人理解をまちがえるのである。

関東人の自虐ではなく、関東の田舎者、というのは、的を射ているのである。

だから、関東から離れるほどに、「日本人」の実質があらわれるので、北海道のニセコもこれにあたるとおもえば、腑に落ちるのである。
ニセコの開拓は、有島武郎の父(薩摩藩士・大蔵官僚)、母も薩摩藩士の娘で、関東人ではない人物によっておこなわれた。

この意味で、ラーメンが2000円とか4000円しても、「価値の調和」という国際的な経済観念からしたら、買い手にとってもその価値があると認識されれば、「相場」としてあり、が結論になる。

逆に、そんな価格での価値はない、と判断されたら、たちまち「価格調整」しないと売れない、という現象になるのである。

まことに、ミクロ経済学の教科書通りの事象となる。

世界的に日本だけの事象になった、「30年間も続くデフレ」が、ミクロ経済学の教科書から外れまくったのはなぜか?をかんがえると、教科書通りの経済条件が日本にはないことの事象なのだ、とかんがえた方が妥当ではないのか?

これぞ、「日本の特殊性」であって、「安くしないと売れない」という経営者たちの横並び発想自体が、もう経済学の範疇を超えて、国民心理の社会学に転換してかんがえないと埒が明かないのであるけれど、エリート専門家はそんな発想をしないで、あくまでも現実を教科書(ほとんどアメリカ人の発想)に合わせるから対策が対策にならないのである。

すると、いかに「外国人観光客向け」という枕詞がついても、適正原価による適正価格の設定での結果としてできた、4000円のラーメンとは、ミクロ経済学の教科書通りの関東感覚の「日本的ではない」経営者による商品価格設定としては、しごく当然なのである。

しかし、どういうわけか?「二重価格」の問題が別にでてきたから、はなしが複雑になっている。

「同じ商品」なのに、外国人向けと日本人向けのふたつの価格がある、ということだ。

結論からいえば、外国人なら高価に設定し、日本人なら国内市場価格だというのは、いただけない差別であるし、残念なことである。
ただし、国内市場価格と国際市場価格の「乖離」という観点からすると、面倒な「内外価格差」の大問題が登場することは覚えていていい。

さらにこの議論は、どうやって外国人だと認定するのか?というもっとややこしい問題に発展しているらしいから、呆れるのである。

国際的に通用する、「各国人の定義」にある、「日本人の定義」とは、日本に住んでいて日本語を話す、というたったふたつの条件を満たすことで定義されている。
どんどん変わる、日本国籍の取得条件とか、移民・難民認定条件のことではないので念のため。

わが国の国際化をかんがえる上で、長崎のグラバー氏の子息(Ⅱ世)の倉場富三郎氏がいい例となっている。

富三郎氏は、母はツルという名のひとで、日本生まれ日本国籍にして、日本語を話すひとだった。
しかし、顔つきは父譲りのスコットランド人であったのである。
父のグラーバー氏は、悪名高き「ジャーディン・マセソン商会」の代理人で武器商人を本業とし、坂本龍馬と取引していたことは、幕末ロマンとして有名だ。

坂本龍馬とは何者なのか?は、ここでは議論しない。

ようは、倉場氏と似たような日本人はいまどきたくさんいるから「見た目」だけで判断したらトラブルになるのは容易に想像できるのだが、この議論にはそれが欠如しているのである。

自由経済圏として、ラーメンが4000円しようが、それはそれだが、あたかも国籍条項を定めるのはナンセンスだ。

ちなみに、「景表法(景品表示法)」では、原則二重価格は禁止されているので、条文チェックをするだけで終わる議論を延々とするのはムダである。
なお、本法は公正取引委員会から消費者庁に移管されたものの、長官が公取に調査権限の委任をするという建て付けだけでも、消費者への欺瞞的な存在が「消費者庁」だとわかるのだ。

さて、この外国人差別の背景に、「神との契約」もなく、ただの「貧困化」から、持てる者からぶんどればいいという、江戸期の「雲助」のごとく発想が復活していることの精神の衰退が、さらなる貧困化になると認識すべきなのである。

それで、バイデンが「日本人は外国人が嫌い」といったのなら、あんがいとボケてはいないが、移民をもっと受け入れろといったから、やっぱり大ボケ爺様になっている。

今後の議論は、「尊皇攘夷」になるのではないか?

日本衰退・貧困化の例が、日本人女性グループを狙った、たとえばハワイにおける入国拒否だし、韓国における摘発となったのである。

キーワードは、「売春」で、とうとう日本人の若い女性が複数いると、「出稼ぎ」とか「ご商売?」という目で見られるまでに世界は変化しているのである。

これも決して大袈裟ではなく、外国人だから高く売りつけることの発展形なのだ。

ヨーロッパ(EU)の首都、ベルギー政府が売春(婦・夫)を、とうとう「国家管理」にした。

この制度はもう、かつての「赤線」どころのはなしではなく、幕府が認可した吉原遊郭の「公娼」をも越えた、「公務員扱い」の人事管理が行われ、きっちりした就業時間と休暇制度の遵守だけでなく、客をとらないと就業拒否を適用されて本人に罰則・罰金が課せられるのである。

もうひとつの、日本の未来が、すでにベルギーで実現している。

たかがラーメンのはなしではないのである。

飛行機で被ばくする?太陽活動

11年周期だという「太陽活動」は、2009年が極小期だといわれていた。

当時は、黒点が消えて1個も観測されない(約400年ぶり?)ことが話題になっていて、あたかも「氷河の拡大(寒冷化)」を心配する向きがあったのである。

ここでちゃんと、「地球史」でいう、「氷河期」とはなにか?を確認すると、地表上のどこかに少しでも氷河があれば「氷河期」ということになっていることに注意がいる。
46億年の全地球史からいう珍しい区分の「氷河期」とは、いまもその珍しさの真っ只中にあるのだ。

南極大陸にも、ヨーロッパ・アルプスにも、「氷河」があって、ヨーロッパなら観光資源になっていることからすれば、上の定義にてらすとだれにだっていまが氷河期だとわかることなのである。

だから、地球温暖化が心配で、数百兆円を投じて「人為的に脱炭素」しないといけない、というのは、完全にエセ科学で、本気で信じているらしいひとたちの頭脳の壊れ方が気の毒にもなるのだけれども、困ったことに、それらのひとたちが、大富豪だったり政治家だったり、あるいは、カネもうけの手段を見込んでの行動だったりするから、悲惨な世の中になっている。

さて、ニュースでは、「GPS]が機能しなくなるとか、「携帯がマヒする」とかという被害が心配されている程度で、愛知県やらでオーロラを見ることができて「キレイだわ!」という別の脳天気なニュースにもなっている。

これが、ウクライナやらの戦闘にどう影響するのか?はだれもいわない。

中学生のほぼ全員が高校生になる時代でこうしたことになったのは、「高等学校」だったはずの「高等教育」が、初等・中等教育の後期延長にすぎない、という位置付けになったからで、いまや「旧制」時代の学校制度における本気の「高等」を体験した国民が絶えて、基礎的な理系の科目すら、「必修」からはずし、それで進級しやすくすることが「優しさ」ということになったのである。

それでも、「不登校」と「中途退学」がふえたのは、ぜんぜん優しくない学校当局の「お役所仕事」のお陰なので、もう、卒業式に『仰げば尊し』を唄って「恩師」に一生の感謝を捧げる子供も親も絶滅したのであるし、教師側も恥ずかしくてこの歌を聴くに堪えなくなったのは、まだ尾てい骨のような良心があるからか?

それゆえに、「卒業名簿」はあっても、住所や電話番号がないのは、「個人情報保護」というウソをもって、卒業生たちの集団がいつまでも続くのをやめさせる分断(アトム)化の、共産主義政策なのである。

卒業名簿にある住所や電話番号を、学年集団維持の目的以外に使ってはいけない(業者に売るな)、というずっと前からの常識をまもればなんら問題はないけれど、過剰反応する者がひとりでもいたら「面倒くさい」ので、お役所仕事の学校は卒業名簿から住所や電話番号を掲載しない理由に、お門違いの「個人情報保護」をいって、あたかも常識を装って責任逃れをしているだけなのである。

これを、教育委員会という役人だけの集団が現場監督者の校長に強制しているのである。
なお、共産化した共産党以外の与野党の「教育政策案」をチェックするには、『共産党宣言』を読んでおくとリトマス紙になると前に書いた。

とくに「教育無償化」は、マルクス=エンゲルスの理想なのである。
そうやって、国家が教育(内容:カリキュラムや人事)を支配して、共産主義の子供を育成すれば、数世代も待たずに共産化社会が実現するからである。

さてそれで、このブログでは、悪の巣窟として表現している、「世界経済フォーラム(ダボス会議)」に、どういう風の吹き回しかしらないが、いまや共和党トランプ派のためのシンクタンクといっていい、「ヘリテイジ財団」の代表者がここに今年の総会(新年)に招待されている。

勇気あるこのひとは、グローバリスト参加者の目の前で、「打倒!ダボス会議のアジェンダ!」を宣言したのである。

似たようなことは、ロシアのプーチン氏も過去にやっているし、今年はもうひとり、アルゼンチンの新大統領ミレイ氏も、この会議でかましてくれた。

地球が温暖化しているのか?寒冷化しているのか?については、とうとう結論がでない科学者たちの議論になっているけれど、とにかく「環境利権」というカネのなる木を手放したくないひとたちは、なにがなんでも国家予算という「国富」を投じさせて、自分の懐に収めたいから、とうとう労組まで誘って「分断」を図るようになっている。

わが国では、経営者の「電気事業連合会」と、「電力総連」が、同じ穴のムジナになって、穴の中でなにかと企んでいるのである。
そのキーワードは、「原発再稼働」であるが、経産省様の文系官僚が「原発の安全性は確認された」と断言しても、ぜんぜん再稼働しないのである。

これには、あの大権威雑誌の『ネイチャー』や『サイエンス』が掲載したように、「地震予知の不可能=エセ科学」がベースになっていて、国家予算をつぎ込んで発表されている「地震発生予測率」とぜんぜん一致しない場所で大震災級の大地震が起きていることでもわかるのである。

元旦の能登半島沖地震も、おおハズレの場所で発生した。

2009年には、イタリアで発生した地震を予知できなかった学者や役人たちが、公判に付されているが、地震被害の原因は、「建築法の不備(あまさ)」だとしているのは、日本でも耳が痛い。

なお、最大予算を得ている東大地震研究所は、「不可能」を認めようとしないばかりか、もっとおくれよと、予算の増額をいうほどの体たらくなのである。
国民は、「損切り」させないといけないのではないか?

原発の問題は、なんといっても「放射能漏れ」で、福島第一原発で起きたメルトダウンは、人類史上最大級の大事故・大被害のはずなのに、いまではなにもなかったかのような平穏さに包まれている。

その被害の実態は、政府が認めないことの共通はあるけれど、コロナワクチンよりも実態(たとえば癌発症の実際とか)の情報が隠蔽されたままとなっているのである。

しかして、太陽系第三惑星の地球は、太陽の影響を強く受けている当然があって、雨が降って水があるのも、生命が誕生したのも、太陽(エネルギー)のお陰様なのである。

また一方で、地球側には、「バンアレン帯」とか、「オゾン層」とかがあるから、太陽風なる強力なエネルギーの放射線が直接地表に到達しないようにできている。
有人宇宙ステーションだって、バンアレン帯の下の軌道でないと、人間の生命が危険にさらされるので、「アポロ計画」がいまだに疑われる最大の理由となっている。

宇宙開発でリードしたソ連が、「ライカ」という名の犬を宇宙に出して、バンアレン帯を越えたら即死したと当時の関係者が発表していて、当局の発表が「毒入りのエサ」だったことと真っ向対立している。

けれども太陽からのすさまじい放射線量は、人間も即死状態にするのである。

そんなわけで、世界から2000機のプライベートジェットが集まる「ダボス会議」の参加者たちは、地上では高級乗用車のエンジンをアイドリングしたままで待機させて、徹底的に温室化ガスを放出しても気にしないのだけど、太陽フレアからの放射線を飛行中に浴びることまでかんがえていないらしい。

もちろん、小型のプライベートジェットは、速度も大型旅客機の「亜音速」よりずっと遅いから、飛行時間も長くなるし、機体の構造も、大型機ほど放射線対策は行われていない。

これが、「お天道様がみている」ことの諺通りとなって、一般人よりも大量の被ばくをする「道理」となっているのである。

かれらは決して「お注射」はしていないだろうけど、もしも、死因が癌ならば、高高度の飛行で温暖化ガスをまき散らしたことの因果応報なのである。

カネに目がくらんだおバカたちの末路としては、当然ではある。

『伊藤貫セミナー』を観る

半世紀近くもワシントンに在住の、伊藤貫氏を、ただ「評論家」と評するには、今どきの「大学教授」と似て価値が低すぎる。

伊藤氏の説得力の源泉には、並の大学教授以上どころか、一流の大学教授以上の読書量だけでなく、実際の取材経験も含めているのでたいへん具体的な事例紹介を伴うばかりか、ちゃんと土台に哲学的考察の地ならしがある。

こういっては失礼を承知であえて評すれば、気がついたら論客としてトップランナーになっていた、ということだろう。
むしろ、伊藤氏の論説を「論破」することは困難だし、その努力も無駄になるのは、反論の根拠を探すのが困難なほどに根拠がある論を展開されているからである。

さてそんな「知の巨人」化した伊藤氏が、自らユーチューバーとなって、「講義」活動をはじめられたのである。

わが国には独自のSNSがないために、情報プラットフォームも、アメリカ依存に甘んじている。
残念ながら、頻繁に改訂される「利用規約」で、すっかりプラットホーム提供者による言論統制が日常になっている。

これを横目に、真似っこしてやろう!というのが、日本政府による「パンデミック言論統制」の実行計画だ。

なので、伊藤氏のこの活動のどこまでが許容範囲なのか?すら、プラットホーム企業の胸の内にあるし、内閣官房とか内閣府、それに総務省とか、得体のしれない役人がチェックしているかもしれないし、予算がほしい大学教授がなにかの審議会で自慢げに披露して、ドヤ顔をするのかもしれない。

したがって、視聴可能なときに観ておかないと、あるいは、「録画」でもしておかないと、消去されて「無かったこと」にされかねないのである。
プラットフォーム企業の独自判断だけでなく、政府からの要請(といういい方での「強制」)もあることが、今国会(参議院)で明らかになっている。

これは、ニュースに流れないものはニュースではない、という既存の状況をさらに悪化させたものだが、削除の基準がプラットホーム側の判断に委ねるなんでもありプラス政府の意向という構造なので、作者側が自主規制をしても対抗不可能なのである。

さてそれで、9日にアップされた「シリーズ1回目」では、昭和天皇や芦田均(いわゆる「芦田メモ」)の具体例から、対米従属を「国是」としたことが解説されている。

これを、「戦後レジューム」といえるし、「戦後ストラテジー」ともいえる。

安倍晋三氏がこれからの「脱却」をどこまで真剣に構想していたのか?は不明だし、わたしが「言葉だけ」だとかんがえているのは、最長政権にあってその片鱗も示さなかったからである。

しかし、「何かあった」はずなのは、暗殺された事実が示している。

つまるところこれ以降、アメリカはソ連崩壊直後に国家戦略を書き換えたが、わが国は戦後レジュームのさらなる強化を、一心不乱に実行していることの根拠になっているのだ。
まさに、「暗殺効果」による強迫観念からの行動にちがいない。

すると、わが国は「敗戦」によって、とっくに滅亡したのだと確信する。

独立国家のような風情でいるけれど、国民に独立の気概もなにもなく、見事に計画通り「堕落」したが、それは日本人が自ら希望した「生き方」が原因であったのである。

伊藤氏は、上に書いたように、タブー中のタブー、昭和天皇にも言及している。

幼少時より「帝王教育」を東宮御学問所という特別学校で受け(「学習院」ではない)たのは、英国流の刷り込みのためであったかと腑に落ちたのである。

怪しい男、白洲次郎と吉田茂が跋扈できたのも、天皇との親和性が、「英国」というキーワードでつながった。

それでもって、今上陛下も英国留学をされたのか!と。

壮大なシェークスピア劇のような英国風歴史絵巻が、リアルに上演されているのである。
テーマは、奴隷に奴隷であることを気づかせない悲喜劇である。

舞台は、最終幕に突入し、いよいよ「滅亡」のクライマックスがはじまったようにみせて、じつはとっくに滅亡していた、というオチにちがいない。

小松左京の『日本沈没』では、国土を失った日本民族が世界に「ディアスポラ(民族離散)」するシーンで終わるが、リアルなこの世では、国土があってもディアスポラする、人類史上初の恥ずべき運命が待ち構えている。

さては、「大どんでん返し」はあるのか?

主人筋にあたるアメリカにトランプ政権が誕生する以外はないけれど、アメリカ自体の国力を削ぐ努力をした、オバマ・バイデンによって、東アジアのパワーバランス壊れていて、わが国は形の上での独立すら困難な状況で、「間に合うのか?」というハラハラ・ドキドキになっているはずなのだが誰も気づいてはいないのである。

日本政府が自ら、日本滅亡=ディアスポラの計画実行中なのを、日本国民に秘匿しているからなのだと、伊藤氏の講義で理解できるのである。