ハンチントンは予言者なのか?

『文明の衝突』(1996年)が話題になったのは、2001年9月11日の「あのこと」が、まさに「文明の衝突」として評価されて、一斉に拡散したことであった。

しかしながら、ハンチントンは、この事件を、文明の衝突だと認めてはいない。

いまも、この事件の事件性についての調査報道が続いていて、まさかのブッシュ息子ネオコン政権による、自作自演だったのではないのか?との「うわさ」が、真実ではないかということになってきているから、世の中はわからない。

だとすると、これも白人が得意とする、「偽旗作戦」のなかに含まれるから、文明の衝突というよりか、人種の特性、となってしまう。
これがまた、ハンチントンの批判者をしてハンチントンを持ち上げたとすれば、それはそれでまた、「偽旗作戦」だともいえる。

日本人なら、「ほめ殺し」というだろうに。

心にもないことを、あたかも心から発しているのだ、というのは、演劇における演者の特権的な役割であった。
なにしろ、「他人の役」を与えられて、そのひとになりきって演じることを使命とするからである。

すると、観客は、観客の自分だけをもって鑑賞するわけであるから、ここで観客が演じることは要求されないし、だれもやらない。

わたしがポップ系のコンサートが嫌いなのは、自分の気持ちとちがって、会場を盛り上げるあの大衆行動が気持ち悪くていけないからである。

ずいぶん前から、プロ野球でも、応援が強制されるようになって、どっちが勝とうがどうでもよいわたしは、スタジアムに行くのがうざくなったのである。
それでもう、この四半世紀、生でプロ・スポーツ観戦をしたことがない。

シーズン中、電車でもどこでも、お気に入りチームのお気に入り選手のユニフォームを着て歩いているおとなたちをみると、もっと意味不明のハロウィンが流行るのも、おなじ心理なのだろうと推測しながら、子供のままでいたい、という症候群の気持ち悪さだけを感じている。

まぁ、それぞれの勝手だから、黙って横を通りすぎるだけである。

せめておとななら、これが「3S政策」で、そのなかに自分がいる、という認識をもちながら、はじけたらいい。

そんなわけで、ハンチントンの生涯で最後の単著となった、『Who are We?(分断されるアメリカ)』が、現代日本人にも必読といっていいものとなっている。

なんだかアフリカ大陸とアラビア半島が離ればなれになっているように、アメリカでは見えない「人間同士の分断」が進んでいる。
この分断エネルギーの供給源が、共産主義=グローバル全体主義、という思想である。

いま放送中のドラマ、『不適切にもほどがある!』は、80年代の日本と現代を行き来するタイムトラベラーとなったひとたちが織りなす、価値観相違をテーマにしたコメディー作だが、たかだか40年ほどで、かくも価値観に格差が生じているのも、「分断」だといえる。

やはり、そのエネルギー供給源は、アメリからやってくる、共産主義=グローバル全体主義、という思想にほかならない。

おそらく、このドラマの主人公が、現代のロシアに出現したら、驚くほどの「やすらぎ」を得るのかもしれないが、そんなことをTBSが描くはずもなく、その描くはずもないことを期待して観ているのも、妙な「やすらぎ」となっている。

ちなみに、わが家はテレビではなく、「TVer」での視聴をもっぱらとしているけれど、これには、「解説放送版」なるサービスがあって、そのサービスの説明は、「映像に関する説明(出演者の表情、情景描写など)を、副音声によるナレーションで伝える放送サービスです。 この動画は、解説放送のナレーションを通常の音声にミックスしています。」とある。

ドラマのなかの場面展開などについても、解説がないと理解できないひといる、ということなのだろうか?

すると、ハンチントンが書いた著作というよりも、こういったひとたちが、なにを学んでどんなことを理解していたのか?の方がよほど重要なメッセージであって、それもまた、解説をつけないと理解できないひとがいる、ということなのだ。

「愚民化政策」を完璧にやってきたら、その成果は、まんべんなく国民が愚民化して、政治家も官僚も愚民化した。

そうやって、一部の「解説放送」を作るものが支配者なのだというかんがえも、愚民ゆえの発想だから、ハンチントンがいう「分断」とは、愚民による愚民の分断ということになっている。

解説放送は無意味だと、もう、演出家も脚本家もいえないから、原作者が絶望したのだとすれば、完全に「国民教育問題」なのである。

すると、まともな親か、先進的にいきすぎた親は、「自己防衛」として、子供を学校にはやらせないで、自分で教えることしか方法がなくなる。

これがまた分断だとすれば、「文明の崩壊」が、ハンチントンの書くべきことだったのではないだろうか。

日本の未だ崩壊しない(ベルリンの)壁

「年収の壁」のことである。

現実のベルリンの壁は、1961年に作り出されて、1989年11月9日まであった。
高さにして3mもの壁で東・西ベルリンを分断していた。
総延長は、なんと、155Kmもあった。

作ったのは東ドイツ(正式には国家ではなくて、「東ドイツ社会主義統一党=ソ連共産党の子会社」)で、一般に、東ベルリンの住民が西ベルリンに亡命するため、命懸けでこの壁を越えようとた。

最近の調査では、136人の犠牲者(子供含む)が確認されている。

上で、「一般に」と書いたのは、西側から東へ壁を越えようとする者が「いなかった」からである。

この一方通行の現実を、西側の社会主義者たちは語ろうとせず、社会主義の優位性を訴えていたのが、今からしても滑稽であったが、もちろん本人たちが西から東へ向かうこともしなかった。

この点で、樺太(当時は日本領)からソ連国境を越えたのは、杉本良吉と岡田嘉子で、なんとも切ない末路が待っていたから、やっぱり、西(自由圏)から東(共産圏)に向かうのは愚の骨頂だということにおさまったのであるけれど、世にもに珍しい、日本人的生真面目さが漂う行動であった。

ちなみに、杉本は政治犯として日本官憲に追われていたので、どちらが「自由圏」なのかの区別が困難どころか、ソ連こそ自由だと信じたのに、銃殺刑になった。
岡田は女優らしく、KGBが運営するモスクワ放送で日本語番組のアナウンサー役をやって、共産主義礼賛のプロパガンダに組み込まれて、日本人の脳を汚染していた。

こうした体制を、ソルジェニーツィンは、「収容所群島」と表現した。
国家全体が収容所のようになって、国民は家畜とされ、人間的な生活ができるのは、一部の党幹部に限定された。

なので、戦後わが国の労働界が、「人間回復」を強く要求したことは、モスクワからしたら、ニヤニヤと嗤って観察していたのではないか。

7年前、ポーランド北東部をレンタカーでドライブしたとき、森の中を行く舗装路から横道の舗装も看板もない道を恐る恐る行くと、突如、宮殿のような宿泊施設に遭遇することがあったが、これが、今は一般利用できる社会主義時代の党幹部専用の保養施設だと聞いた。

どうして今も舗装も看板もないままのかわからないが、「秘密の存在の保存」だったようで、外国人でも誰でも国内ツアー会社から予約可能とのことだったけど、外国人向けとしては宣伝もしないでいるらしいから、秘密の存在になっている。

いつか泊まろうとおもっていたら、コロナが蔓延した(ことになった)。

そんなわけで、国全体の「収容所」に住まわせられることになると、人間の目線は、二次元的な平面の部分しか見えないので、それが世界だと勘違いする。
『進撃の巨人』の「壁の中の住人たち」を決してバカにできないのである。

以上を踏まえて、日本人の所得を一瞬にして高める方法を、ユーチューバーの深田萌絵女史が指摘している。

それが、「年収の壁」の撤廃なのだ。

ハイエクは、もっと単純な、「税率を10%に統一する」方法をとっくに提案している。

これに伴うメリットには、納税費用負担のゼロ化という作用もある。
むずかしい税金計算は不要になるので、優秀な税理士や企業内の経理マンを、税務から解放できることも、社会的には巨大なメリットなのである。

税理士(30万人いる)は、付加価値を生産していないからだし、企業内の経理における税務も同様だから、ずっと生産性が上がる。

「デマ太郎」こと河野太郎氏は、デジタル通貨で政治家への献金を義務化させることになったら、あたかもカネの出所が当局よって把握できるような、つまり、通貨としての匿名性をデジタル通貨には与えない、という重大な本音を漏らす「失言」をした。

まともな経済学者なら、ボコボコに非難して相当なのに、どうしたことか?

しかし、デジタルか?アナログか?の議論さえ関係ないのが、えらく複雑化した我が国の税の構造をシンプルにするだけのことなのである。

これが、「巨大な壁」なのだが、見えない壁だから21世紀になっても壊れない、我われの抱える大問題なのである。

暦どおりの「雨水」

「春の嵐」は、季節の変わり目のいつもの気象現象である。
それを、24節季では、「雨水」と書く。

今年は、19日がその日であった。

わたしが暮らす横浜も、みごとな春の嵐ではあったが、雷鳴が轟くことはなかった。
こないだの大雪で轟いたのは、かなり珍しい現象であったと、ネットの気象予報士が言っていた。

地上でなにがあろうが、まったくお構いなしに自然現象というものは、物理法則に基づいて生じるから、今度は人間が勝手にそこに「神」を感じるのもまた自然なのである。

いまはいわなくなった、「ミュータント」だけど、『続・猿の惑星』で核戦争の放射線を原因とする、奇形となって生き残った人間たちが、会堂に集合して祈りを捧げる対象が、核ミサイルであったので、変だなとおもったものだ。

このとき、超未来なのに、パイプオルガンの宗教曲が鳴り響く。
あたかも、西ドイツの「ポスト・モダン建築」のような、装飾のないあっさりとしていて丸味のある会堂のつくりが、妙にプロテスタント的なのに、流れる音楽がカソリックを思わせたのも、「さすが」だったのである。

そうして、皆で、ご本尊たるミサイルの「お姿」を拝んでいるのは、妙に日本的でもあった。

旧約聖書で、偶像崇拝の禁止を強調しているのに、キリスト教は十字架のイエス像とマリアの肖像を拝むことになったけど、これを完全否定したムハンマドに従って、幾何学模様をもってモスクの装飾とした。

ついでに、アラビア文字の書道も発達して、文字を美術化した。
あちらにも、楷書、行書、草書に匹敵する書法がある。

教養教育を一切受けないで成長する、現代の我われは、そんなわけで、行書も草書も読めないので書けない。

江戸時代の大福帳さえ、何が書いてあるのか?

そうかんがえると、「平等主義」の不平等が、人間社会を不幸にしている。
みんなで平等に、教養を得ることなく一生を終えるのである。

また、驚くことに、そんな無教養な大多数が子息を大学に進学させれば教養人になるという、思い込みをしている「まさか」がある。

ここで「まさか」というのは、おそらくそんなこともかんがえないのは、親世代にほんとうに教養がないからで、ただの生涯所得を得るためだけの教育投資が唯一の理由になっているからだ。

それに、もうひとつの「まさか」とは、大学教員の無教養で、こちらはどうやら本気で、自分たちは教養人だと自負している節があるから、よほど深刻な病理がある。
その病理の巣窟が、「文系」で、無教養なまま卒業証書がもらえて、たとえば無教養で解ける国家総合職試験という難関をつくって、合格者のパラダイスを構築した。

国家総合職=高級官僚の採用なら、「国家観」とか、「歴史」や「古典」とかの人文的な教養が不可欠だろうが、そんな分野での設問は一切ない「編集」が試験問題に行われて、徹底的に「実利」だけの知識が問われるのである。

この意味で、中国の「科挙」をはるかに下回るレベルなのである。

それをまた、あろうことか「民間」でもやっているのは、どんな人材が欲しいのか?について、経営者が本気でかんがえていないからである。

こうして、社会全体で劣化が進行する。

雨風の合間をぬって、食料品を買いに出たけど、高級車で駐車場に乗り付ける無粋なひとたちは何者なのか?とおもうのは、その態度と行動に「品」がないからである。

季節の変わり目には、またいつも通りの「キ印」が、それなりに世間を驚かすから、あんまり人出の多い場所は避けた方がよさそうだ。

ウクライナ復興支援会議ってなに?

日本国民は、前回の衆議院議員選挙がいつだったかを覚えているだろうか?

2021年10月31日投開票だった。

ここで、与党を勝たせた結果が「いま」なのである。

安倍晋三氏が連勝したうえに、総理・総裁辞任後の選挙でも、選択肢のなさ、を原因として与党が信任された、とマスコミは評価しているけど、投票率は56%弱というものである。

選挙は、将来を決めるものである、という当たり前が、よくわかるほどに、安定の政権=日本政府が、国民を敵に回しても動じないのは、国民の政治不信からの無関心が、じつに都合いいことになっているのである。

すくない投票数で、安定的な議席を確保できることの、効率の良さ、は、裏金がどうのといっても、もはや関係ないのは、これでまた、次期選挙の投票率が下がればなお都合がよい。

そんなわけで、なんでもできることを、なんでもできるうちに全部やっておこう!という、戦後歴代内閣で最高度の実行力があるのが、岸田内閣なのである。

もちろん、その実行項目が、国民の期待やらとどんなに乖離していても気にしないのは、岸田氏が国民を無視しているのではなくて、選挙に行かない政府を無視する国民が多数なゆえの、反応としてふつうのことだから、もしも腹立たしいというのなら、言う相手がまちがっている。

岸田氏でもないし、自民党でもない。
このひとたちは、単なる「利得者」にすぎないのであるし、その巨大な利得を与えているのが、日本国民の多数なのである。

これが、主権在民、ということの本質だ。

だから、ちゃんとした正義感で文句を言いたいなら、最低でも選挙投票に行かねばならない。
「投票義務法」がある、オーストラリアが、政府に投票に行かないと罰金刑だ!といわれたら投票率が高くなったのを、オーストラリアはすごいなぁ!にはならない。

さすがは、囚人の島流し刑地だったことだけに、国民に、「刑事罰記録」がつくことを、気にしないだけのはなしだからである。

まともだったわが国では、「犯罪歴=逮捕歴」というほどに、推定無罪のうえでの有罪=犯歴としない、おそるべき潔癖症がある。
なので、じつは警察国家でもあるのが、わが国だ。

さて、戦争ができない国にされてざっと80年。

むかしの「吉野家」のコマーシャルソングのごとく、「◯◯一筋、80年」で、すっかり、戦争をすることとはどういうことか?がわからなくなっている。

戦争を「悪」と、道徳的に規定するのも、「◯◯一筋、80年」の成果であって、誰の成果かといえば、GHQ=アメリカ民主党である。
もちろん、本国のアメリカ民主党は、戦争が儲かるという理由で大好きなので、まったく矛盾する。

けれども、わが国やNATOをみればわかるように、アメリカの寄生国家にさせられたのだから、もう「独立もなにもない」のである。

国家が国家に寄生するとは、一方が主で一方が従属する当然がある。
もっといえば、接ぎ木をされてしまったのだ。

そんなわけで、戦争が終わってもいないのにウクライナ復興支援などというのは、とっくに敗戦国の敗戦処理をしようというだけのはなしである。

それで、武器を売りまくって大儲けしたご主人様が、カネならお前が出しておけ、と命じることに、イエスとしかいえないのがわが国の、寄生国家としての常識なのである。

岸田氏のキャラや頭脳の優劣は関係ない。

あたかも安倍氏が総理なら、こんな無様にはならないという、お花畑の言論人が多数いるけど、このひとたちのキャラや頭脳は、安倍長期政権だって、寄生国家としての命令をちゃんと実行していたけれど、どこかで安倍氏が本当は心にもないのに、ご主人様に歯向かう(親トランプ的発言)をしたせいで、ライフルの標的になってしまった。

その後、安倍派が「裏金」で消滅させられた経緯は、ごらんの通りである。

寄生国家に寄生するのが経団連という、教養も何もない爺たちの集団で、ウクライナにおける公共事業に参加できることがうれしくて仕方がない。

これで、中国からの撤退理由ができるかもしれないと発想するほどに、劣化しているのだろうけれど、中小企業も大挙参加して、参加企業のぜんぶが、特例としてEUに銀行口座が開設できるなら、それなりのことではある。

ただし、「ウクライナ」という国を、どこまでウクライナというのか?という、戦勝国のロシアが決めることが決まっていない。

プーチン氏の戦争目的を誰もいわない欺瞞がある。
3億再生を突破した、タッカー・カールソン氏とのインタビューで、プーチン氏はちゃんと、戦争目的について言及している。

このなかに、「ウクライナの非ナチ化」があるから、道義国家のわが国は、かつての同盟国ナチス・ドイツの正統な後継者たちを支援するのは、歴史的な継続性という意味で、文句がないという理屈はたつ。

すると、岸田氏はまったく宏池会の本流と真逆のことをやらされているのである。

なんて可哀想な日本、身が裂ける思いの岸田氏という、二重苦が、寄生国家の悲劇的な姿で、さらに多数の国民が興味ないという、残酷な事態が、この復興会議が東京でやらされることの最大の意味なのだった。

変わらざるをえない企業人事

むかし日本経済が元気だったころ、「企業は人なり」という、あたかも、戦国武将、武田信玄の名言を借りた、「哲学」が、それっぽく語られていたものだ。

これを、冷徹にかんがえると、残念ながら武田信玄は、内陸に封じ込められたままで寿命が尽き、子息勝頼の代で滅亡するに至った。
それでも徳川家康が武田家臣団を用いたけれど、結局は、大坂冬の陣の前年におおくが失脚する、故人となった大久保長安が私腹を肥やしたことからの疑獄事件がおきている。

なんだか、信玄の名言の意味が、痴漢がいるから「痴漢に注意」というように、「人は石垣、人は城」という発想の欠如があったから言ったのか?と疑いたくなる。

さいきん、岩尾俊兵著、『世界は経営でできている』が強調する、「経営」という言葉の広さが気になる。

いわゆる「マネジメント」のことだが、「自己マネジメント=自己統制:セルフ・コントロール」といった意味が重要なのである。

この意味で、かのドラッカーは、彼の生きた時代以前を振り返って、考慮すべき「経営」を提案した人物は、4人しかいない、と断言している。
なお、このたった4人のなかに、ドラッカー自身が含まれるので、彼が名指しした3人とは、

・テイラー(科学的管理法の生みの親であり、その後は、「精神革命」を提唱した)
・メアリ・フォレット(テイラーの「精神革命」の中核、「統合論」を徹底追及した「経営学の母」)
・バーナード(名著、「経営者の役割」で、「協働」を追及し「バーナード革命」を提唱) の3者のことである。

はたして、この3者を貫く、あるいは、ドラッカーもといいたいが、残念ながらドラッカーは後期になると、この3人を貫く流れから逸脱をはじめてしまった。
その一線とは、「ホーソン実験」による、「人間とは感情ある動物である」という発見だった。

この発見のもう一方に、「人間は合理的な経済人である」という概念がある。

つまり、ドラッカーの後期は、あろうことかなんと、「経済人」へと傾倒してしまったのである。
そして、巨大山脈を築いたドラッカーの影響から、「発見」が無視されて、安易な「経済人」へと間違った概念に回帰してしまった。

つまるところ、給料を高くすれば「いい人材が集まる」がごとき、幼稚さが、学歴エリートを中心に信じ込ませる教育によって、社会に蔓延したのである。

すると、そんな教育をエリートたる若者に施したのは、いったい誰だったのか?を問えば、いまならはっきりと、トロキストたち(真の国際共産主義者)だと断言できるように解明されてきた。

彼らからすれば、政争には敗れ、ソ連から追放もされたが、それをやったスターリンこそが、「ナショナリズムに傾倒した似非共産主義者=権力亡者」だというのである。

すなわち、スターリンをも上回る、バリバリの、「人類の敵」を自負しているのが、この者たちなのである。

かつての、萬屋錦之助が気力で演じた、『破れ傘刀舟悪人狩り』における決め台詞、「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」に、多くの視聴者が痺れたのであるが、トロキストたちは、今日ものうのうと生きている。

しかしながら、そんな悪魔的教育がないことが幸いして、ヨーロッパ全土で農民が立ち上がったのは、農民が馬鹿だからといいたいのではなくて、「生きること」の意味を、自然から教育された意味での常識が働いているといいたいのである。

わざわざSDGSやらをいわないでも、人類は継続できる農業で食べてきたのだ。

つまり、いまどき、SDGSをいうトロキストたちの狂った主張に、猛然と立ち向かっている。

何故に、「第一次産業」というのかは、この産業がなければ、餓死するから、最重要だという意味なのである。

つまり、産業革命前に存在しなかった、第二次産業やらは、本来、第一次産業に依存していることを、傲慢さから忘却しているのが現在なのである。

さては、振り子のように戻ってきて、人々がトロキストたちの欺瞞に気づいたとき、第二次産業から第三次産業の企業人事も大変革を迫られるのは、人間は感情のある動物だということに根づいた価値観の再発見も同時に起きるからである。

古来、日本人の常識であったはずのものが、いつしか「経済人」に席巻されて、衰退していることも、必然なのであって偶然ではないのである。

日・独の哀しき傀儡

ドラマ『沈黙の艦隊』シーズン1の完結が、16日、アマゾン・プライムで配信された。

この作品の「作りばなし」としての完成度が高いので、なかなかに引き込まれるのだけれども、その作りばなしの意味ありげではあるけれど、本当は超単純な構造が、やっぱり目について、作りばなしなのだと実感するから、落ち着いて楽しめるまさにエンタテインメントになっている。

いわゆる、まんが、なのである。

しかし、演出陣のがんばりによる俳優陣のがんばりは、リアルさを通り越して、こんな政治家が内閣を構成していたら、よほどよい国なのに、と恨み節のひとつも言いたくなって、その「できすぎ」を前に指摘した。

いま、陸・海・空の元将官だったひとたち(中には、「統合幕僚会議議長」だったひともいる)が、YouTube番組にでてきて、以前なら野党が大騒ぎしたことを、日常的に発言することができる、「いい時代」にはなっている。

ただし、その内容の多くが、アメリカへ右へ倣えなのが、また哀しいのであるけれど。

かんがえてみれば、田母神航空幕僚長をクビにした、千葉県木更津の大親分の息子が、防衛大臣職にあったのも、防衛省カーストがはっきりしていたことの証で、制服組に日本人(国民)としての発言権を与えないということを遵守した、戦後的な「まじめな」大臣だったから、何度も防衛大臣にアサインされるのであろう。

第18代航空幕僚長だった、大村平氏が、『はなしシリーズ』を書いて、数学の楽しさを一般人や受験生に知らしめたのが「発信」のせいぜいだったところ、大変化を遂げるきっかけになったのが、第29代の田母神氏をして嚆矢となす。

これを、政治家が潰したのは、わが国の立ち位置が「被征服国家」という状態にあるからであった。

あたかも、ローマ帝国下のユダヤ属州のようで、いまの日本では、アメリカ大使が「総督」を務めているが、これを外交団という枠組みに偽装し続けているのが巧妙なのである。

おなじことがドイツにもいえる。

ノルドストリームという、エネルギーの命綱、ガスパイプラインを破壊されても、その犯人追及はおろか損害賠償も請求しないで、全面的な損失をまるで当然のように受け入れている。
これはなにも、メルケル前政権に対するものではなく、宗主国、アメリカに対する忖度そのものなのだ。

トランプ氏が予備選挙の演説で、自身の政権時に要求し約束させた「2%の防衛費負担」を、あいかわらずヨーロッパ各国は実行していないままなので、「いっそロシアから攻撃されたらどうか?」といったのを、例によって切り取って、「ヨーロッパはロシアから攻撃されたらいい」になって報道された。

これに、あろうことかNATOの事務局長も反応して、「トランプはとんでもない」と公に発言してしまった。
約束を破った側が威張ってしまうのは、ウクライナの大統領とおなじ精神構造が見て取れる。

トランプ氏が「もしも」当選したら、この事務局長も更迭されることを覚悟しているのだろうか?
それとも、再選はない、となにか確信があるのか?

さてそれで、ドラマでは、「戦闘国家やまと」と、日本国が条約を締結し、さらに目覚めた日本国首相は、やまとと自衛隊の指揮権を国連に委ねるという、暴挙を独断で発表する。

第一に、条約は、国会での批准が必要だし、自衛隊の指揮権を国連に委ねるなら、国連憲章から「敵国条項の削除」がされなければならない。
売国の外務省(本当はアメリカ総督の窓口)は、「敵国条項の削除は決議されている」と安心しているが、決議はされても削除されていない現実を語らない。

「文書主義」をいうくせに、これは別だという根拠を示さないのは、示せないからだ。

そんなわけで、「ガス抜き」のドラマは、日米再開戦をイメージさせながら、やまとはアメリカ軍を撃退する、妙に気分がいい映像を提供してくれるのである。

けれども、一方で、アメリカの戦争屋たちは、アメリカ人のアジア人差別を煽りながら、東アジア大戦争を画策しているのではないか?
(日本人を含む)アジア人が、アメリカ・アイビーリーグの大学に入学することの困難な理由は、大学当局もちゃんと、「入学人種枠としてアジア人だから」と公表している。

なお、黒人ならずっと枠が広くて、すでに多くの医学部は、黒人だと無試験で入学できる。

これをまた、報道しない「タッカー・カールソンのプーチン大統領インタビュー」で、プーチン氏がほのめかしたことなのである。

さすれば、なぜいま、このドラマをアマゾンが無料で配信しているのか?のいやらしい理由も見えてくるのである。

思考の三段階

山谷えり子氏の実弟、伊藤貫氏が深い洞察力で語るトーク動画がおもしろい。

ウィキペディアによると、このひとの肩書きは、「日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家」とあって、唯一最後の「政治思想家」が、学術的な肩書きで、あとは俗っぽい表現になっている。

ずっとワシントンD.C.に暮らして、アメリカ政治の中枢の人物たちにも親交がある氏の解説が、他のひとと比較しようもないほどになっているのは、基盤にある「読書量」だといえる。

しかも、本人は、「英語の本ばかり」と自覚されていて、それがそれなりの「偏見」になっている可能性があることもあらかじめ断って話をすすめている。

今回の注目動画は、「キッシンジャーの栄光と残虐!!!」というタイトルで、シリーズの「1」だけを対象としてこれを書いている。

この中で、前にもどこかの動画で語った、「思考の三段階」について、わたしが見ている限りにおいて再度言及されたから、今度は忘れないように書いておく。

・最上位:最も抽象的・哲学的・宗教的な知識と思考力レベル=価値判断ができる
・中 位:パラダイム(思考パターン、「学派」を形成する)レベルの思考力
・最低位:ポリシーレベル(=具体的、プラグマティック・実用的)の思考力

ポリシーレベルの思考力だけで議論すると、ときの流行に流される傾向が強くなってしまうのは、それがまさに「根無し草=浮き草」のようなものだからである。

思考の達人は、中位のパラダイムレベルの議論さえ、場合によっては「使い分ける」ことができる。
たとえば、右翼相手にマルクスを語るとかして煙に巻いてしまうこともある。
ぜんぜんマルクス主義者ではないのに、だ。

最上位の思考は、ここから下位の思考をコントロールするのにも用いるから、凡人は、最上位の思考をするひとには、かなわないのである。

これを、「次元」にたとえれば、一次元「点の世界」、二次元「面の世界」、そして三次元以上「時空を超える世界」を思い起こさせる。
次元が高次のひとからみたら、ポリシーレベルの思考力のひとは、「点」にみえるということだ。

しかし、「点」の世界のひとからは、高次のひとの話をみることもできないし、理解もできない。

なんだか、現代の経団連の爺さんたちとか、国会周辺、霞が関のあたりが、「点」の世界にみえてくる。
「点」の中で、グルグルとポリシーレベルの議論をして、どっちが得か損かを決めている。

本来ならば、せめて「パラダイムレベル」の議論を、学者やら専門家やらが提供すべきところ、彼らも「予算配分で日和る」から、もうパラダイムレベルの議論さえ途絶えた。

ゆえに、最上位のレベルで物事をかんがえる者の、思考世界における奴隷となるので、肉体も同時に奴隷化するのである。

つまり、英語圏には最上位の思考者が存在するので、幕末で途絶えて以来、存在しない日本を支配できるという論理が成り立つのである。

こうしてかんがえれば、「鎖国」とは、最上位のレベルでの思考ができたことの、ひとつの目に見える形態であったともいえる。
伊藤氏は、奈良時代から江戸末期までの日本には、仏教と漢学があったことを指摘する。

西田幾多郎とその親友だった、鈴木大拙は、「その後」のあだ花だったのか?

漢学は、中位のパラダイムレベルの議論だが、仏教には最上位の哲学がある。
いまの日本の大学教授たちは、せいぜい中位のアメリカの流行の猿まねか、最下位のレベルに堕ちていると厳しく指摘している。

それで、伊藤氏は、英語圏の最上位の思考をするひとを七人挙げている。

アーヴィング・バビット(哲学者、仏教典のパーリ語を含む8カ国語)
T・S・エリオット(バビットの弟子、詩人、パーリ語を含む7カ国語)
ラインホルド・ニーバー(神学者)
ジョージ・ケナン(国際政治学者)
サミュエル・ハンティントン(国際政治学者)
ケネス・ウォルツ(数学者、経済学者、哲学者、国際政治学者)
ヘンリー・キッシンジャー(国際政治学者、政治化)

哲学と政治思想史(歴史)に精通している「共通」を指摘している。
特に、ハンティントン以下の3人は、政治思想家、文明思想家、哲学者である、と。

ウォルツと、キッシンジャーは、「博士論文」が、それぞれ「古典」として出版されていて、アメリカの学会が「必読書」に指定している共通がある。

最上位の議論を味わってみたい。

電車に乗るとポイントがたまる

1957年に、テレビを対象として、「一億白痴化」と評したのは、大宅壮一であった。

このオリジナルに「総」をつけて、「一億総白痴化」としたのは、松本清張だったという。

いまは、政府が、「一億総活躍担当大臣」を置いたり置かなかったりして、まるで「全体主義」が顔を出したり引っ込めたりしている、変な時代である。

もちろん、全体主義は、社会主義と共産主義からしか生まれない、とドラッカーがわざわざ言ったように、自由主義から生まれるはずがないけれど、これをやり出したのが安倍内閣で、次の菅内閣もやっていたが、岸田内閣で廃止したのは、「各閣僚がやる」という意味だから、強化されたのである。

大日本帝国憲法では、内閣総理大臣の職務権限はとくに規定されておらず、国務大臣と「同格扱い」という哀しさで、閣僚の解任すらできなかった(ために総辞職した)のに、民主的という日本国憲法では、内閣総理大臣の職務権限は、無限大に近しいほどに強化・拡大されている。

残念ながら、民主主義のための流血の伝統もないわが国では、英国のような「不文憲法」は通用しないので、「成文」形式とするしかない。

また、「十七条憲法」は、またこれも残念ながら、近代憲法とはいえないので、有効無効論争すら無駄である。

民主主義体制の近代憲法とは、国民から政府への命令書、という位置づけだからである。
聖徳太子の実在云々は別として、為政者が政府に向けた文章を、近代民主主義の憲法とは定義できないのである。

それなのに、いまの与党(自民党と公明党)がいう、憲法が単純に「最高法規」であるから、これをもって国民の権利に制約を持たせるのは、あまりにもポンコツ過ぎて話にもならないが、これを、「憲法学者」が放置するポンコツも半端じゃない。

ようは、いまの与党による「憲法改正案」とは、十七条憲法よりも内容が陳腐なのだ。
これを、退化と言わずしてなんというのか。

もう、大学で「法学」とか、「憲法」を履修する意味が失われていて、かえって学生の脳に毒になる。

どこの民主社会に、国民が政府に国民の権利をなくせ、と命令するものか。

いまや、日本国民は、はなからポンコツな日本国憲法の停止を求めてもよいくらいのこともできないポンコツ状態になっているのに、これをご苦労にも後生大事にしているだけで、その態度は「反日」だといえる。

新しい憲法には、「反日の禁止」を明文化しなければならない。

そうすると、駅や電車、あるいは飛行場までのリムジンバスなどで、日本語以外に外国語の掲示をやらせる「行政指導」も反日的なので「役人に対して」やるな、と命じるのが憲法の威力となる。

運行する企業体が、自分で、乗客へのサービスの最適化をさせればいいのである。
また、その評価は、利用客と株主が決めることである。

よくわからないのが、このところ出てきた、「電車に乗るとポイントがたまる」というキャンペーンだ。

およそ、「運賃」についても、国土交通省すなわち「運輸局」が、あれこれと命じているものであるのに、この事実上の「返金システム」が成り立つ法的根拠はなにか?

もちろん、運輸局があれこれ運賃を決める法的根拠も、どこまで利用者のためだかわからないが、こんな返金システムを許可するなら、どうして運賃そのものを安くしないのか?という問題に、経済学者はどのような見解をもっているのか?

残念ながら、「経済人」をまだ信じている、ふつうの経済学者はかなり程度が低いので、心理学を重視する、「経営学」とは雲泥の差となっている。
だから、このケースの場合のご意見番も、本来ならば、経営学者に求めるべきところのものなのである。

ICカードとか、モバイル・アプリに誘導するためだけなのかなんなのか?を疑うのは、たまにしか電車に乗らないひとへの差別になるからである。

差別は悪だと口ではいいながら、平然と差別するこの分裂症状は、イジメはいけないと言いながらやめないのとおなじで、じつは現代社会の構造的な問題なのである。

なんでもポイント還元されるのを、「お得」だとかんがえる、乞食が横行しているとこのブログでは書いているが、それでもって、盗られる情報の重みに気づかないのは、盗られる側にも犯罪的だという評価があっていい。

なぜならば、そうして普及が進めば、決済方法の選択肢がなくなるからである。

まだICカードごときなら問題ない、ということが問題なのは、こうやって「慣らせる」ことが、多数から警戒心を奪うからである。

まさに一億総奴隷化のはじまりなのである。

もはや、よい社会を後世に残すという高齢者が小数派になって、自分たちは逃げおおせることができてラッキーだとかんがえている無責任世代が、かつての全共闘世代だとおもっている。

その「無責任」を笑いに託したのが、クレイジーキャッツの役割であり、植木等というキャラがやった、『無責任シリーズ』だったけど、皮肉ったはずが、安逸な無責任を国民が受け入れてしまったのである。

しかし、その子や孫が、そんな無責任の生活習慣的発想まで受け継いで、多数派になっているのは、いまだにテレビを観ているからである。

大宅壮一、松本清張のいう、白痴たちの楽園が、いまの日本国なのであった。

プーチン教授の歴史授業

6日のタッカー・カールソン氏のインタビューは、いきなり「ロシアの歴史」からはじまったことは書いたし、その後のいまも世界の話題になっている。

我われ日本人も、重大なことを見過ごしていることを、教授は教えてくれた。

それは、ヒトラーのドイツと、ポーランドとの関係である。
教授は、ポーランドがヒトラーをして第二次大戦に向かわせた「元凶」だと指摘したのだ。

これを理解させるために、はるか以前の話からはじめたので、タッカー・カールソン氏が途中で我慢できなくなったのも、前に書いた通りである。

それで、「ウクライナ=「周辺」とか「辺境」という地域を指す意味」を、あたかも「ウクライナ民族」なる民族が存在するとしたのは、オーストリアの参謀本部がやったプロパガンダだと教授は語る。

「相模」とか「筑前」とかの地名をもって、「相模民族」とか「筑前民族」という独立した民族が存在すると主張するようなものだ。

さて、オーストリアとは、元のハプスブルク帝国のことであるし、神聖ローマ帝国だったといってもいい、いまではかんがえられないほどの、強大な帝国だったし、ハンガリーと組んで二重帝国を形成していた。

これを「歴史」として時系列にすると、やたらややこしいので整理するのが大変だ。
いわゆる、ハプスブルク家が長年築いた、ヨーロッパ貴族間の「血縁関係」の複雑さが、そのまま国家間の権謀術数となっているからである。

「バルカン半島」が火薬庫といわれ、第一次大戦のきっかけになったのも、この複雑さに関係していて、さらに遠い英国やらがちょっかいを出したから、話の整理がつかないので、「戦争」になった。

おしくらまんじゅうをやっているうちに、誰かがキレて、近くの誰かを小突いたら、小突かれた者が小突いた本人ではなく、ぜんぜん関係のない誰かに小突き返しているうちに、全員で取っ組み合いの戦争になったのである。

それで、いちばん大柄で強いドイツがひとり悪いことにして、今度は徒党を組んで損害賠償をドイツにだけ請求してそのカネを分配するのに、国際決済銀行を設立したのだった。

我われ日本人が何を見すごしていたのか?とは、第二次大戦に至るヨーロッパ側の事情をほとんど知らないままでいることだ。

ここに、日本における「小中華主義」があって、あくまでも世界は日本を中心にして回っていると思いこんでいる。

この意味で、槇原敬之が作詞・作曲して、SMAPが大ヒットさせた、『世界に一つだけの花』は、今様の小中華思想の開化であった。

わたしはこの歌が、虫酸が走るほど大嫌いなのである。
とはいえ、「歌は世につれ世は歌につれ」をかんがえると、この歌が流行ったわが国の風潮としての頽廃(デカダン)に嫌悪している、という意味である。

ここで、「日・米」だけにとらわれ(アメリカにも中華思想がある)て、戦前の日本人は思考していたのか?を問うてみる。

すると、1939年1月5日から同年8月29日までと短命だった、平沼騏一郎内閣が「欧州情勢は複雑怪奇」と叫んで総辞職したごとく、内閣が欧州を理由に潰れたほどに、日本人が欧州をかんがえていたことの証拠なのである。

単に、舶来品を有り難がっていたのではなく、世界は欧州を中心にしていた時代だったのである。

日本的中華思想からみたら、「欧州が世界の中心」だったろうが、欧州そのものは、重い原子のような素粒子がたくさん運動している「おしくらまんじゅう状態」だが、遠目には、ひとつに固まって見えていた、ということだ。

そんな欧州の各国が、落ちぶれて中心でいられなくなることに我慢できなくなって、EUという全体主義に走っているのは、「おしくらまんじゅう状態」よりも、もっと強固にするためのおそらく「仕方がない」と思い詰めた力学の発揮なのだろうし、とにかく過去の栄光にしがみつきたい心理が強いからだ。

メルケルが推した、フォン・デア・ライエンが、自身は「保守」だと信じているだろう、浅はかを恥じないのは、欧州の過去の栄光を保守するということだろうけど、このひと個人は、PSYCHO-PASSなので、共産化を強力に推進していることに気づかないのであろう。

さて、平沼騏一郎内閣が潰れたのは、「独ソ不可侵条約」の締結であった。

しかして、プーチン教授が語ったように、ヒトラーとポーランドが協力して、チェコの分割を画策するにあたって、ヒトラーは見返りに、ドイツの飛び地になっていたかつての東プロイセンの返還とその地とドイツ本国を結ぶ、「ダンツィヒ回廊(「ポーランド回廊」ともいう)に道路と鉄道敷設を要求したが、これをポーランドが拒否したために、ドイツ海軍が、海からダンツィヒ(ポーランド語で「グダンスク」)を砲撃したのが、世界大戦のはじまりなのである。

そのグダンスクには、「第二次大戦開戦記念公園」がバルト海に面した海岸にあるけど、街の中心部から路線バスで、小一時間もかかる場所にあるたたずまいが、妙に、「横浜港シンボルタワー」の辺りと似ていると前に書いた。

この街にあった、当時の呼び名、「グダニスク造船所」の反体制ストライキが、ポーランドの体制転換=自由化の象徴となって、いまこの造船所事務所棟の跡地は、博物館になっている。
まさか、社会主義体制下にあって、労働者が反政府をいう不思議。
中心人物のワレサ(いまは、「ワレンサ」)委員長は、ついに大統領にまでなった。

ついでに、ソ連はチェコを救済すべく軍用機の無害通過をポーランドに要求したが、ポーランドはこれも拒否して、逆に撃ち落とすことを宣言した。
あくまで、ポーランドはチェコの分割をしたかったのである。

それで、ポーランドは、国の東西にある、独・ソから挟み撃ちとなることになってしまったけど、こんな危険を承知で強気になれたのは、英国の支援が約束されていたという、なんだかいまのウクライナのようなのである。

それで結局、英国がポーランドを見棄てたのは、歴史の示す通りなのである。
これでポーランドは、歴史上3度目の亡国を経験する。

これを、プーチン教授は丁寧に説明したのである。

すると、平沼騏一郎内閣だけでなく、日本政府がずっと頼っていた情報源が、どうやら英国一辺倒だったことが素人にも想像できる。

これが、いまもある「日英同盟」への未練だとすると、英国という無慈悲な海賊国家を信じたらえらい目にあうことを教訓にしない、独善が、やっぱり「日本的小中華思想」なのだといえるのである。

どうして、日本人はこんなに英国が好きなのか?の原点は、「長州5(ファイブ)」(伊藤博文以下5人)を英国留学させた、ジャーディン・マセソン商会(長崎のグラバーは代理人で、その事実上の子会社が坂本龍馬の「亀山社中」であり「海援隊」だった)の財力であったし、この巨大阿片商人の日本(=横浜)支店の初代日本人支配人が、養子となった吉田茂の義父、吉田健三なのである。

なお、茂の実父は、竹内綱で、吉田もその親友の竹内も、土佐藩士であったから、坂本龍馬とは顔見知りであったばかりか、ジャーディン・マセソン商会からしたら、その身分と同様に、子会社・孫会社の便利な存在だったろう。

戦争中に、宣戦布告した交戦国(外交で破綻したから戦争となった)の英国に、わざわざ特命全権大使として吉田が赴任したのは、吉田が当時の東京における「反主流派(主流派は統制派・革新官僚)」だったことがあたかも理由になっているけど、ジャーディン・マセソン商会から「お呼ばれされていた」のではないか?と疑うのである。

もちろん、特命全権大使を任命するのは、主流派の外務省だし、天皇の信任状は宮内省が用意したはずで、吉田個人の勝手気まま人事のはずがない。

はたして吉田は、戦時中のロンドンでなにをしていたのか?
いや、なにをさせられていたのか?が気になるのは、この場合のさせた側とは、英国側と日本政府側の双方であるから、あんがいと二重スパイ的なのである。

それよりも、プーチン氏は、情報統制が厳しかったはずのソ連時代から、自由ロシアになって今日まで、どこでどうやってかくも詳細な歴史を学んだのか?
その情報源の書籍とは、誰のなんという本なのかを知りたい。

もはや、世界で正しい知的興味を沸き起こすものは、英語ではなくて、ロシア語になっていることを教えてくれたのであった。

これからの将来を見据えると、ロシア語を学ぶ意味が、ずっと高くなったのである。

真面目な日本政府というフィクション

かわぐちかいじ原作の、『沈黙の艦隊』の実写版ドラマが、Amazonプライムとして9日より「シーズン1」の前編(1〜6話)の配信が開始された。
なお、後編(7〜8話)は、16日からの配信となっている。

制作もAmazonで、字幕の対応言語は、日本語の他に9ヶ国語もあるので、「世界配信」と言っている。
もう、この手のドラマも、ビジネス・モデルが変わってしまった。

映画版は、昨年の9月29日に公開されたが、今回のドラマ版の方が時間数が長い分、原作の圧縮度も少ないという。

原作とテレビドラマ脚本の確執で、原作者が自殺してしまったという直近の問題がある中、この作品では、原作者が「感謝の意を表明する」という、円満さが、またひとつの「売り」になっているのであろう。

とはいえ、この作品(原作)の難点をあえて挙げれば、ふたつある。

・あんがいと内閣の閣僚が適材適所でまとも過ぎること
・核抑止力の問題が、オーソドックス過ぎること

このふたつのポイントが、「すぎたればおよばざるのごとし」となって、ちゃんとフィクションを構成しているから、読者や視聴者は安心して楽しめるようにできていたはずが、あんまりご立派なので、腰が引けるのである。

戦闘シーンのCGやらの表現に違和感があるというコメントは、本当にどこを観ているのか?を疑いたくなるほど目先しかない幼稚さに呆れるのである。

爆発やらの風圧や水圧の衝撃で、人間の腹わたが飛び出すとかのリアル=悲惨なシーンを、娯楽作品として描けるはずもない。
SNSでの、ウクライナ兵やらロシア兵が殺戮される映像でも混入せよというのだろうか?

核の廃絶やら核武装の議論に至っては、もっと幼稚な議論が、80年間もまじめ風に語られている、不真面目な光景がある。

残念ながら、人類は「技術」の後戻りはできないのである。

それが「技能」ならできるかも知れない。
例えば、京都東山の、「清水三年坂美術館」に収蔵されている、明治時代の超絶技巧を用いた工芸品の作り方が、伝承されていないために、どうやって作ったのか?さえ、もうわからなくなっているのである。

これらの「技能作品」をよろこんで購入してくれたヨーロッパ貴族の第一次大戦での没落が、わが国の「技能」も途絶えさせてしまった。
注文がなければ、作らないし、材料コストの元が取れなければ作れなくもなる。

しかしながら、「技術」は、その方法論が科学的な記述法で解説できることを指している。

半世紀ほど前に、アメリカの理工系大学生が、その大学の図書館の資料だけから、原爆の製造法を学び、それで設計した「図面」を公開して、世界中で大騒ぎになったのは、材料と部品さえ揃えば、「本物」が誰にでも製造できるレベルだったからである。

けれども、核は目的地に運搬して爆発させる必要がある。
それが、ずっとミサイルになっている。

今どきのミサイルは、ほぼ電波誘導で、これだけは精密に当てたいというときに、有線ケーブル式のものを使うようになっている。
なので、ケーブルの長さ分までしか使えない。

そんなわけで、電波誘導の電波をどうするかで、ミサイルの飛行制御を不能にしたり、その制御を乗っ取ったりして、こちら側からの制御で相手方の発射地点に帰るようにしたら、もうそれで、核抑止力もヘチマもないことになってしまう。

このマンガのような技術が、いまの「5G」の次の、「6G」の技術のはずなのである。

そうなると、核ミサイルを数千発も持っている国は、解体処理費をどうするかの大問題になる。
もちろん、費用だけでなく、放射性物質の永久管理という、おそるべき手間の負担も強いられる。

だから、6Gが実用化される前に、核を使った最後の脅迫をもって、相手を奴隷化しておきたいという、時間との競争が、そのまま戦争計画として成り立つ危機となっているのである。

ために、現実の日本政府は、国民を奴隷にしようという最後の計画に加担して、このドラマのようなまとも過ぎる政府とは無縁なために、「専守防衛」を正義とする美談や、上戸彩が演じるまとも過ぎるニュースキャスターが、幻のようなフィクションでもって、精神の安定を保とうとする映像を国民にみせるしかないのが、これまた、アマゾンというグローバル全体主義の企業がやっていることなのだった。

それで、現実の防衛省や自衛隊(=日本政府)がこの作品の制作に多いに協力しているのは、まさにプロパガンダ作品だからで、多言語で「世界配信」される意味もここにある。

要は、娯楽作品なのであって、以上のように余計なことは考えるな、ということが提供者たちの主旨なのであるが、本当の主旨はなんのか?

ウクライナでは、兵士不足で女性の動員も計画された。
現実の自衛隊には、女性の提督が初めて任命されたし、本作でも副官やらの目立つ役柄として、幹部や士官(日・米双方)に女性が多く登場している。

戦場に行くのは男性で、女性はもっぱら「銃後の守り」という伝統があったのは何故か?も、ヘンテコ文化破壊工作の「男女雇用機会均等法」のせいで、だれも不思議に思わないのが、ヤバイ状況をつくられている証拠である。

死者に鞭打つ気はないが、7日、94歳で亡くなった、元文部大臣(細川内閣、羽田内閣)赤松良子刀自(旭日大綬章)が仕掛けたものである。
彼女はついでに、募金詐欺が疑われる日本ユニセフ協会の会長でもあった。

わが国の勲章は、わが国を破壊するものに授与される。

さて、男が死んでもなんとかなるのは、最後の預言者ムハンマドが、「聖戦」をやってその未亡人たちの生活のために戦死者数から割り出したのが、4人まで妻とすることができる婚姻制度の創設であった。

なにも、男性社会だから、という単純な理由だけではなく、人口維持という究極の目的があったのである。

わが国の「少子化対策」が、「少子化を進める対策」になっているのとわけがちがう「まともさ」があった。

つまり、民族としても、女性を絶やしてはならない、という常識が、女性を戦場にだすことを避けてきた常識であったのだ。

それを壊そうとしたのかなんなのか?テレンス・ヤング監督の『アマゾネス』(1973年)であったけど、結構なエロチックだけが話題の作品として受けとめたのが、ときの大衆の「まともさ」だったともいえる。

これが、もう、崩れだしているので、実は日露戦争で世界が認識した、「総力戦」という言い方の意味も、当然に「ジェノサイド」だって含む、ということになってしまっている。

戦争のための「国際法」を、「戦時国際法」と呼ぶようになったけど、元はぜんぶが、「戦時」の取り決めだったのは、プーチン氏が語ったようにヨーロッパが戦争ばかりのグズグズな歴史だからである。

「捕虜」に認定されるためのルールを国民に教育する義務が定められている、「ジュネーブ4条約」も、日本では批准しているくせして一切を国民に知らせないのが、日本政府の本性なのである。

だから、かわぐちかいじ氏には、「原作とちがう」といって、暴れてほしかった。