昨年4月6日付けの「The Asahi Shimbun Globe+」の記事は、「春闘はもう時代遅れなのか」だった。
このブログでは、「慣性の法則」について書いてきている。
それが、「春闘」にも働いているので、残念ながら、上の朝日新聞社の主張ような立場をとらない。
人間の所業は、たいがい「よかれ」としていることが原因で、はじめから悪意でもって行えば、そう遠くない将来に必ず化けの皮がはがれることになって、自滅・終了する。
たとえ数代・数百年の時間が悪意による地獄のような社会でも、かならずどこかの時点でひっくり返るのは、歴史のしめすところなのである。
つまり、「悪意」による行動は、いつかそんなに遠くない将来に、「おわる」のだが、善意による行動は、ついに慣性の法則が働いて、わけもなく延々と続いて迷惑をまき散らすのである。
すると、元の「善意」の中身が問われるのは当然なのだ。
これを、朝日新聞社の記事は書かないから、ダラダラとした議論になる。
その原因に、「浪漫主義」の影響があるのだと、バビットの『人本主義(ヒューマニズム)』ではこき下ろしている、のだが、翻訳者は朝日新聞社のようなことを書いて、逆にバビット批判を展開しているのだった。
きっと、上の記事を書いた記者は、いまようの学業の優秀さ(偏差値の高い大学にいただけの理由)で入社したろうし、その上司たちもおなじ理由での入社だろうから、どんどんと中身の薄い記事しか出せなくなるのだが、書く記者よりもずっとエラい上司の編集者の中身が薄ければ、記事が薄くなるのは当然だし、そういった記事をはじめから書かないと活字にならない。
そんなわけで、『限りなく透明に近いブルー』のように、ついには訳の分からんことになって、読者そのものを失うのである。
さてそれで、春闘をかんがえるということは、労働組合をかんがえることに相違ない。
労働組合を、資本家との対立構造に設定したのは、天下の詐欺師、マルクス=エンゲルスの両人だった。
人間の脳は、最初にインプットされた情報をもって支配される構造になっているので、いったん「資本論の欺瞞」が入り込むと、これを排除・クリーンアップするには、かなりの自浄努力を要する。
この世に、マルクスもエンゲルスも、存在しなかった、という状況を脳内につくることが、じっさいには価値のあることなのだが、集団でこれをやるのが困難だから、慣性の法則が作動するのである。
逆に、マルクスとエンゲルスの言い分を信じると、ソ連やらの社会になって、中世の暗黒が天国に見えるほどの悲惨がやってくるのに、ひとはその現実を見ずに、理想社会の夢想に遊ぶことを選ぶのである。
なんだか、有名なテーマパークにひとが集まるのと似ている。
重要なのは、テイラー、フォレット、バーナードの「御三家」をもって、労働運動を再構築することなのだが、カウンターパートたる、経営者団体が、すっかりマルクスとエンゲルスの欺瞞を、学生時代に信じ込まされてきた、「勉強エリート」ときているから、はなしがこんがらがる。
それで、政府の役人もおなじ勉強構造にあったのだから、三つ巴のスパイラルになっているのがわが国で、「賃金が上がらない原因」を構成しているのだ。
つまるところ、「再教育」がひつようなのだが、もっとも再教育を嫌うのは、高給官僚たちで、中年以上の彼らは、「もうこれ以上勉強したくない症候群」に罹患している。
次が、「安全地帯」に無事逃げ込むことができた経営者(取締役)たちだ。
これら両者は、ともに、これ以上の努力はひつようなく、いまだけ、カネだけ、自分だけ、を謳歌したい、という自己満足の感情しかもっていない。
つまり、後のことはどうでもいいし、大企業なら「めったに潰れることはない」と高をくくっているにちがいない。
しかし、そうはいかないのが世界情勢というモノで、外国人による日本企業買いが激しくなるにちがいない。
すると、どうにもこうにも酷い目にあうのは、その他大勢の方になること必定で、これをどうするのか?が、ほんとうは労働組合の存在意義なのである。
しかしながら、上記ふたつの勢力が、団結を促すのではなくて、分断を促して成功している。
個の力では対抗できないから、結束をもって対抗するとしたはずなのに、個に分断されてこれに対抗できないから、どんどん組織率が低下している。
これはこれで、組織マネジメントの失敗なのである。
にもかかわらず、その重大な失敗を認めずに、ダラダラと春闘をやっているのは、やっている気になることによる、やっぱり自己満足だから、高給官僚たちと取締役たちと同列になっているのである。
だから、失望したひとたちがあらたに進んで労組組織に加入することすらしない。
徴収される組合費と、得られるメリットをちゃんと天秤にかけているからだ。
晩年のテイラーは、「精神革命」を叫んだけれど、どうやら頼みの綱として、労働組合の運営にも精神革命が必要になっている。