外国人二重価格の賛否両論

最初のニュースは、北海道のニセコからだったかと記憶している。

わたしも以前(20年前ほど)、ニセコのスキーリゾート開発にかかわっていたことがあった。
当時はほとんどがオーストラリア人を中心にしていて、そのまたきっかけが、カンタス航空の千歳便が定期便になったから、ということだった。

アジア・太平洋地域では貴重な、パウダースノーを求めてやってくるオーストラリア人たちではあったけど、当時のオーストラリア人たちは、そんなにおカネを使わない滞在をしていたものだった。

しかし、オーストラリア人向けのコンドミニアム(日本語でいう「マンション」)開発では、町内中心部のコンビニを案内して、北海道独特の生鮮食料品もたっぷり扱っていることが、「不動産購入意欲」をかきたてたのである。

これなら、「住める(=自炊できる)」と。

もちろん、当時の日本は、金融バブルが起きていたので、いまほどの「閉塞感:貧困化」ではなかったし、オーストラリア人にとっても日本はまだ「先進国」に見えたのである。
それがまた、為替レートにもなっていて、円高基調のために、遊びで来る彼らの財布も堅かったのだ。

しかし、100円が150円(後半)ともなれば話はちがうし、『ウサギとカメ』の話のごとく、停滞する日本(ウサギ)を横目に、オーストラリアだけでなく世界中の国々がカメのように確実に成長して、とうとう逆転のタイミングを迎えたのである。

そうやって、まずニセコのラーメン屋さんが一杯2000円の価格設定をしてみたら、「イケる!」ことがわかって、蔓延し、4000円のラーメンも登場するにいたったからニュースになったのである。

直接4000円のラーメンを食べてはいないので味覚的にわからないが、動画などで観るかぎり、カニやホタテやらの高級食材がこれ見よがしに使用されている。
日本人のまじめさが、原価になっているために外国人観光客からのクレームにならないのだろう。

むしろ、「当然の価格」という評価らしいのは、もっと見た目も味も劣るものが、「本国」で同様の料金となっているからだと説明がある。

前に、スイスの例を書いたが、もはやスイスではふつうのランチが5000円するし、ディナーともなれば1万円を越えるのは、当たり前なのである。
なにせ、「ビッグマック」が2000円なのだ。

価格については、アラブの事例も書いたけどここで再掲する。

売る側の表示設定と、買う側の価値判断にギャップがあれば、かならず日本人の目には「価格交渉」が行われる。
彼らの日常として、この行為は、「価値の調和」をやっているのである。

これには、神との契約による「予定調和」が信仰の基礎にあるからといえる。

つまり、日本的ではないという価値観の断絶がきわめて大きな意味をもっていることが重要なのだ。
たとえば、ここでいう「日本的」とは、東京を基準にした関東人の感覚を指すのだけれど、ずっと日本の中心地だった「畿内」のひとたちの原初的国際感覚が、いまはアジア的日常になっているとかんがえられ、そのちがいは歴然としているのである。

もっとも端的で興味深い実態は、やっぱり、「大阪のおばちゃん」の行動様式(「エートス」という)を観察するとみえてくる。
だから、関東人を標準的日本人だと決めつけると、日本人理解をまちがえるのである。

関東人の自虐ではなく、関東の田舎者、というのは、的を射ているのである。

だから、関東から離れるほどに、「日本人」の実質があらわれるので、北海道のニセコもこれにあたるとおもえば、腑に落ちるのである。
ニセコの開拓は、有島武郎の父(薩摩藩士・大蔵官僚)、母も薩摩藩士の娘で、関東人ではない人物によっておこなわれた。

この意味で、ラーメンが2000円とか4000円しても、「価値の調和」という国際的な経済観念からしたら、買い手にとってもその価値があると認識されれば、「相場」としてあり、が結論になる。

逆に、そんな価格での価値はない、と判断されたら、たちまち「価格調整」しないと売れない、という現象になるのである。

まことに、ミクロ経済学の教科書通りの事象となる。

世界的に日本だけの事象になった、「30年間も続くデフレ」が、ミクロ経済学の教科書から外れまくったのはなぜか?をかんがえると、教科書通りの経済条件が日本にはないことの事象なのだ、とかんがえた方が妥当ではないのか?

これぞ、「日本の特殊性」であって、「安くしないと売れない」という経営者たちの横並び発想自体が、もう経済学の範疇を超えて、国民心理の社会学に転換してかんがえないと埒が明かないのであるけれど、エリート専門家はそんな発想をしないで、あくまでも現実を教科書(ほとんどアメリカ人の発想)に合わせるから対策が対策にならないのである。

すると、いかに「外国人観光客向け」という枕詞がついても、適正原価による適正価格の設定での結果としてできた、4000円のラーメンとは、ミクロ経済学の教科書通りの関東感覚の「日本的ではない」経営者による商品価格設定としては、しごく当然なのである。

しかし、どういうわけか?「二重価格」の問題が別にでてきたから、はなしが複雑になっている。

「同じ商品」なのに、外国人向けと日本人向けのふたつの価格がある、ということだ。

結論からいえば、外国人なら高価に設定し、日本人なら国内市場価格だというのは、いただけない差別であるし、残念なことである。
ただし、国内市場価格と国際市場価格の「乖離」という観点からすると、面倒な「内外価格差」の大問題が登場することは覚えていていい。

さらにこの議論は、どうやって外国人だと認定するのか?というもっとややこしい問題に発展しているらしいから、呆れるのである。

国際的に通用する、「各国人の定義」にある、「日本人の定義」とは、日本に住んでいて日本語を話す、というたったふたつの条件を満たすことで定義されている。
どんどん変わる、日本国籍の取得条件とか、移民・難民認定条件のことではないので念のため。

わが国の国際化をかんがえる上で、長崎のグラバー氏の子息(Ⅱ世)の倉場富三郎氏がいい例となっている。

富三郎氏は、母はツルという名のひとで、日本生まれ日本国籍にして、日本語を話すひとだった。
しかし、顔つきは父譲りのスコットランド人であったのである。
父のグラーバー氏は、悪名高き「ジャーディン・マセソン商会」の代理人で武器商人を本業とし、坂本龍馬と取引していたことは、幕末ロマンとして有名だ。

坂本龍馬とは何者なのか?は、ここでは議論しない。

ようは、倉場氏と似たような日本人はいまどきたくさんいるから「見た目」だけで判断したらトラブルになるのは容易に想像できるのだが、この議論にはそれが欠如しているのである。

自由経済圏として、ラーメンが4000円しようが、それはそれだが、あたかも国籍条項を定めるのはナンセンスだ。

ちなみに、「景表法(景品表示法)」では、原則二重価格は禁止されているので、条文チェックをするだけで終わる議論を延々とするのはムダである。
なお、本法は公正取引委員会から消費者庁に移管されたものの、長官が公取に調査権限の委任をするという建て付けだけでも、消費者への欺瞞的な存在が「消費者庁」だとわかるのだ。

さて、この外国人差別の背景に、「神との契約」もなく、ただの「貧困化」から、持てる者からぶんどればいいという、江戸期の「雲助」のごとく発想が復活していることの精神の衰退が、さらなる貧困化になると認識すべきなのである。

それで、バイデンが「日本人は外国人が嫌い」といったのなら、あんがいとボケてはいないが、移民をもっと受け入れろといったから、やっぱり大ボケ爺様になっている。

今後の議論は、「尊皇攘夷」になるのではないか?

日本衰退・貧困化の例が、日本人女性グループを狙った、たとえばハワイにおける入国拒否だし、韓国における摘発となったのである。

キーワードは、「売春」で、とうとう日本人の若い女性が複数いると、「出稼ぎ」とか「ご商売?」という目で見られるまでに世界は変化しているのである。

これも決して大袈裟ではなく、外国人だから高く売りつけることの発展形なのだ。

ヨーロッパ(EU)の首都、ベルギー政府が売春(婦・夫)を、とうとう「国家管理」にした。

この制度はもう、かつての「赤線」どころのはなしではなく、幕府が認可した吉原遊郭の「公娼」をも越えた、「公務員扱い」の人事管理が行われ、きっちりした就業時間と休暇制度の遵守だけでなく、客をとらないと就業拒否を適用されて本人に罰則・罰金が課せられるのである。

もうひとつの、日本の未来が、すでにベルギーで実現している。

たかがラーメンのはなしではないのである。

飛行機で被ばくする?太陽活動

11年周期だという「太陽活動」は、2009年が極小期だといわれていた。

当時は、黒点が消えて1個も観測されない(約400年ぶり?)ことが話題になっていて、あたかも「氷河の拡大(寒冷化)」を心配する向きがあったのである。

ここでちゃんと、「地球史」でいう、「氷河期」とはなにか?を確認すると、地表上のどこかに少しでも氷河があれば「氷河期」ということになっていることに注意がいる。
46億年の全地球史からいう珍しい区分の「氷河期」とは、いまもその珍しさの真っ只中にあるのだ。

南極大陸にも、ヨーロッパ・アルプスにも、「氷河」があって、ヨーロッパなら観光資源になっていることからすれば、上の定義にてらすとだれにだっていまが氷河期だとわかることなのである。

だから、地球温暖化が心配で、数百兆円を投じて「人為的に脱炭素」しないといけない、というのは、完全にエセ科学で、本気で信じているらしいひとたちの頭脳の壊れ方が気の毒にもなるのだけれども、困ったことに、それらのひとたちが、大富豪だったり政治家だったり、あるいは、カネもうけの手段を見込んでの行動だったりするから、悲惨な世の中になっている。

さて、ニュースでは、「GPS]が機能しなくなるとか、「携帯がマヒする」とかという被害が心配されている程度で、愛知県やらでオーロラを見ることができて「キレイだわ!」という別の脳天気なニュースにもなっている。

これが、ウクライナやらの戦闘にどう影響するのか?はだれもいわない。

中学生のほぼ全員が高校生になる時代でこうしたことになったのは、「高等学校」だったはずの「高等教育」が、初等・中等教育の後期延長にすぎない、という位置付けになったからで、いまや「旧制」時代の学校制度における本気の「高等」を体験した国民が絶えて、基礎的な理系の科目すら、「必修」からはずし、それで進級しやすくすることが「優しさ」ということになったのである。

それでも、「不登校」と「中途退学」がふえたのは、ぜんぜん優しくない学校当局の「お役所仕事」のお陰なので、もう、卒業式に『仰げば尊し』を唄って「恩師」に一生の感謝を捧げる子供も親も絶滅したのであるし、教師側も恥ずかしくてこの歌を聴くに堪えなくなったのは、まだ尾てい骨のような良心があるからか?

それゆえに、「卒業名簿」はあっても、住所や電話番号がないのは、「個人情報保護」というウソをもって、卒業生たちの集団がいつまでも続くのをやめさせる分断(アトム)化の、共産主義政策なのである。

卒業名簿にある住所や電話番号を、学年集団維持の目的以外に使ってはいけない(業者に売るな)、というずっと前からの常識をまもればなんら問題はないけれど、過剰反応する者がひとりでもいたら「面倒くさい」ので、お役所仕事の学校は卒業名簿から住所や電話番号を掲載しない理由に、お門違いの「個人情報保護」をいって、あたかも常識を装って責任逃れをしているだけなのである。

これを、教育委員会という役人だけの集団が現場監督者の校長に強制しているのである。
なお、共産化した共産党以外の与野党の「教育政策案」をチェックするには、『共産党宣言』を読んでおくとリトマス紙になると前に書いた。

とくに「教育無償化」は、マルクス=エンゲルスの理想なのである。
そうやって、国家が教育(内容:カリキュラムや人事)を支配して、共産主義の子供を育成すれば、数世代も待たずに共産化社会が実現するからである。

さてそれで、このブログでは、悪の巣窟として表現している、「世界経済フォーラム(ダボス会議)」に、どういう風の吹き回しかしらないが、いまや共和党トランプ派のためのシンクタンクといっていい、「ヘリテイジ財団」の代表者がここに今年の総会(新年)に招待されている。

勇気あるこのひとは、グローバリスト参加者の目の前で、「打倒!ダボス会議のアジェンダ!」を宣言したのである。

似たようなことは、ロシアのプーチン氏も過去にやっているし、今年はもうひとり、アルゼンチンの新大統領ミレイ氏も、この会議でかましてくれた。

地球が温暖化しているのか?寒冷化しているのか?については、とうとう結論がでない科学者たちの議論になっているけれど、とにかく「環境利権」というカネのなる木を手放したくないひとたちは、なにがなんでも国家予算という「国富」を投じさせて、自分の懐に収めたいから、とうとう労組まで誘って「分断」を図るようになっている。

わが国では、経営者の「電気事業連合会」と、「電力総連」が、同じ穴のムジナになって、穴の中でなにかと企んでいるのである。
そのキーワードは、「原発再稼働」であるが、経産省様の文系官僚が「原発の安全性は確認された」と断言しても、ぜんぜん再稼働しないのである。

これには、あの大権威雑誌の『ネイチャー』や『サイエンス』が掲載したように、「地震予知の不可能=エセ科学」がベースになっていて、国家予算をつぎ込んで発表されている「地震発生予測率」とぜんぜん一致しない場所で大震災級の大地震が起きていることでもわかるのである。

元旦の能登半島沖地震も、おおハズレの場所で発生した。

2009年には、イタリアで発生した地震を予知できなかった学者や役人たちが、公判に付されているが、地震被害の原因は、「建築法の不備(あまさ)」だとしているのは、日本でも耳が痛い。

なお、最大予算を得ている東大地震研究所は、「不可能」を認めようとしないばかりか、もっとおくれよと、予算の増額をいうほどの体たらくなのである。
国民は、「損切り」させないといけないのではないか?

原発の問題は、なんといっても「放射能漏れ」で、福島第一原発で起きたメルトダウンは、人類史上最大級の大事故・大被害のはずなのに、いまではなにもなかったかのような平穏さに包まれている。

その被害の実態は、政府が認めないことの共通はあるけれど、コロナワクチンよりも実態(たとえば癌発症の実際とか)の情報が隠蔽されたままとなっているのである。

しかして、太陽系第三惑星の地球は、太陽の影響を強く受けている当然があって、雨が降って水があるのも、生命が誕生したのも、太陽(エネルギー)のお陰様なのである。

また一方で、地球側には、「バンアレン帯」とか、「オゾン層」とかがあるから、太陽風なる強力なエネルギーの放射線が直接地表に到達しないようにできている。
有人宇宙ステーションだって、バンアレン帯の下の軌道でないと、人間の生命が危険にさらされるので、「アポロ計画」がいまだに疑われる最大の理由となっている。

宇宙開発でリードしたソ連が、「ライカ」という名の犬を宇宙に出して、バンアレン帯を越えたら即死したと当時の関係者が発表していて、当局の発表が「毒入りのエサ」だったことと真っ向対立している。

けれども太陽からのすさまじい放射線量は、人間も即死状態にするのである。

そんなわけで、世界から2000機のプライベートジェットが集まる「ダボス会議」の参加者たちは、地上では高級乗用車のエンジンをアイドリングしたままで待機させて、徹底的に温室化ガスを放出しても気にしないのだけど、太陽フレアからの放射線を飛行中に浴びることまでかんがえていないらしい。

もちろん、小型のプライベートジェットは、速度も大型旅客機の「亜音速」よりずっと遅いから、飛行時間も長くなるし、機体の構造も、大型機ほど放射線対策は行われていない。

これが、「お天道様がみている」ことの諺通りとなって、一般人よりも大量の被ばくをする「道理」となっているのである。

かれらは決して「お注射」はしていないだろうけど、もしも、死因が癌ならば、高高度の飛行で温暖化ガスをまき散らしたことの因果応報なのである。

カネに目がくらんだおバカたちの末路としては、当然ではある。

『伊藤貫セミナー』を観る

半世紀近くもワシントンに在住の、伊藤貫氏を、ただ「評論家」と評するには、今どきの「大学教授」と似て価値が低すぎる。

伊藤氏の説得力の源泉には、並の大学教授以上どころか、一流の大学教授以上の読書量だけでなく、実際の取材経験も含めているのでたいへん具体的な事例紹介を伴うばかりか、ちゃんと土台に哲学的考察の地ならしがある。

こういっては失礼を承知であえて評すれば、気がついたら論客としてトップランナーになっていた、ということだろう。
むしろ、伊藤氏の論説を「論破」することは困難だし、その努力も無駄になるのは、反論の根拠を探すのが困難なほどに根拠がある論を展開されているからである。

さてそんな「知の巨人」化した伊藤氏が、自らユーチューバーとなって、「講義」活動をはじめられたのである。

わが国には独自のSNSがないために、情報プラットフォームも、アメリカ依存に甘んじている。
残念ながら、頻繁に改訂される「利用規約」で、すっかりプラットホーム提供者による言論統制が日常になっている。

これを横目に、真似っこしてやろう!というのが、日本政府による「パンデミック言論統制」の実行計画だ。

なので、伊藤氏のこの活動のどこまでが許容範囲なのか?すら、プラットホーム企業の胸の内にあるし、内閣官房とか内閣府、それに総務省とか、得体のしれない役人がチェックしているかもしれないし、予算がほしい大学教授がなにかの審議会で自慢げに披露して、ドヤ顔をするのかもしれない。

したがって、視聴可能なときに観ておかないと、あるいは、「録画」でもしておかないと、消去されて「無かったこと」にされかねないのである。
プラットフォーム企業の独自判断だけでなく、政府からの要請(といういい方での「強制」)もあることが、今国会(参議院)で明らかになっている。

これは、ニュースに流れないものはニュースではない、という既存の状況をさらに悪化させたものだが、削除の基準がプラットホーム側の判断に委ねるなんでもありプラス政府の意向という構造なので、作者側が自主規制をしても対抗不可能なのである。

さてそれで、9日にアップされた「シリーズ1回目」では、昭和天皇や芦田均(いわゆる「芦田メモ」)の具体例から、対米従属を「国是」としたことが解説されている。

これを、「戦後レジューム」といえるし、「戦後ストラテジー」ともいえる。

安倍晋三氏がこれからの「脱却」をどこまで真剣に構想していたのか?は不明だし、わたしが「言葉だけ」だとかんがえているのは、最長政権にあってその片鱗も示さなかったからである。

しかし、「何かあった」はずなのは、暗殺された事実が示している。

つまるところこれ以降、アメリカはソ連崩壊直後に国家戦略を書き換えたが、わが国は戦後レジュームのさらなる強化を、一心不乱に実行していることの根拠になっているのだ。
まさに、「暗殺効果」による強迫観念からの行動にちがいない。

すると、わが国は「敗戦」によって、とっくに滅亡したのだと確信する。

独立国家のような風情でいるけれど、国民に独立の気概もなにもなく、見事に計画通り「堕落」したが、それは日本人が自ら希望した「生き方」が原因であったのである。

伊藤氏は、上に書いたように、タブー中のタブー、昭和天皇にも言及している。

幼少時より「帝王教育」を東宮御学問所という特別学校で受け(「学習院」ではない)たのは、英国流の刷り込みのためであったかと腑に落ちたのである。

怪しい男、白洲次郎と吉田茂が跋扈できたのも、天皇との親和性が、「英国」というキーワードでつながった。

それでもって、今上陛下も英国留学をされたのか!と。

壮大なシェークスピア劇のような英国風歴史絵巻が、リアルに上演されているのである。
テーマは、奴隷に奴隷であることを気づかせない悲喜劇である。

舞台は、最終幕に突入し、いよいよ「滅亡」のクライマックスがはじまったようにみせて、じつはとっくに滅亡していた、というオチにちがいない。

小松左京の『日本沈没』では、国土を失った日本民族が世界に「ディアスポラ(民族離散)」するシーンで終わるが、リアルなこの世では、国土があってもディアスポラする、人類史上初の恥ずべき運命が待ち構えている。

さては、「大どんでん返し」はあるのか?

主人筋にあたるアメリカにトランプ政権が誕生する以外はないけれど、アメリカ自体の国力を削ぐ努力をした、オバマ・バイデンによって、東アジアのパワーバランス壊れていて、わが国は形の上での独立すら困難な状況で、「間に合うのか?」というハラハラ・ドキドキになっているはずなのだが誰も気づいてはいないのである。

日本政府が自ら、日本滅亡=ディアスポラの計画実行中なのを、日本国民に秘匿しているからなのだと、伊藤氏の講義で理解できるのである。

ちゃんとした企業の博物館

企業の社会的責任が問われて久しいが、これを地道に実戦する手段のひとつとして、「博物館の設置・運営」がある。

たとえば、大規模なものなら、JRの『鉄道博物館』があるし、世界のトヨタには、『トヨタ産業技術記念館』がある。
かつて、日本経済を支えた線維産業だと、『グンゼ博物苑・記念館』、文化の根幹にある印刷だと、『市ヶ谷の杜 本と活字館』がある。

これらの施設の特徴は、ちゃんと人員を配していて、説明や実体験の工夫がなされており、ただ展示だけのおざなりとは一線を画していることにある。

「日本的経営」といわれて、欧米企業とはちがうのだと高く評価してきたはずの、「株式持ち合い」が解消に向かうのはバブル崩壊を受けての90年代であったが、2001年には、法律で「禁じる」、「銀行等の株式等の保有の制限に関する法律」が公布されるに至る。

株式の持ち合いに、欧米企業とはちがうどんな特徴があったかといえば、「目先の利益追求ではなく、長期的戦略重視」ということにつきた。

しかしながら、グローバル・スタンダードという、カタカナ政治用語の拡散をするひとと呼応するマスコミの宣伝によって、あたかも「株式の持ち合いこそが諸悪の根源」という位置付けに見事に変換されたのである。

言いだしっぺは、竹中某という有名大学教授であったけど、のちに参議院議員となって、正々堂々と「入閣」することになったから、単純にみても「党」の意志としての政治家への転換・転職を成功させたともいえる。

本ブログの読者には、記憶にあるだろうけど、諸悪の根源である、「世界経済フォーラム」で、日本人で唯一の評議員だったのはこの御仁であったし、ソ連崩壊後の92年にアメリカのグランドストラテジーが書き換えられたこともこの一連の動きに関連しているはずなのである。

つまり、アメリカによる戦後の日本「肥育」モードから、「刈り取り」モードに大方針が変更されていまにあるのだ。

このことは、高度経済成長なるものが、あたかも日本人だけの努力の成果だとされる「勘違いの醸成」とセットで、じつは、「肥育モード」として高度経済成長だったとすれば、じつに辻褄があうのである。

その狙いは、「不沈空母」としての、対ソ・対中の封じ込め戦略の一端を担わせるためであったにちがいない。
その相手の消滅(対中は残ったが)で、日本を成長させる必要がなくなったばかりか、むしろ、巨大化した日本経済のコントロールが困難なために、衰退させると決めたのである。

そこで、「目先の利益」しか見えないようにさせるべく、株式の持ち合いをやめさせた。
これに、「物言う株主」がセットになってトレンド化もさせるプロパガンダも成功したのである。

だから、企業博物館を設置・維持するばかりか、人員も配置することは、かなりちゃんとした説明を経営者はしないといけないので、こういったことをやめずに続けている企業こそ、「名門」に値する。

学生の就活における目線として、企業の人事担当者や学校の先輩を訪問するだけでなく、「博物館」の有無にくわえて、運営方法もチェックすると、「いい会社」をあぶり出すことができるのである。

それは、その企業の発展に貢献した、従業員たちによる成果の一般への発表の場であるからである。

つまり、「ひと」をどのように扱うのか?あるいは「扱ってきたのか?」のリトマス試験紙のようなものだからである。

さらに、その博物館に配属されることが、じつは「栄誉あること」という風土や認識があるかも、重要なポイントなのである。
サービス業ではピンとこないかもしれないが、製造業の場合、直接に一般人と接する機会はあんがいとない。

ゆえに、博物館勤務になることは、貴重な体験となるから、元の職場に異動してもその職場の活性剤としての人材になると期待できるのである。

こんなことを意識的に社内共有し、博物館の位置づけのおおきな意義が風土として認識できる企業は、やっぱりいまどきでも「名門」にちがいない。

さてそうなると、サービス業のばあいで企業内博物館を設置するなら、どんな展示と人材を配置したらよいのか?は、あんがいと智恵を絞ることになる。

だから、智恵を絞らない企業だと、よくて無人「展示室」だけの「歴史館」がせいぜいで、面白みもないから常にだれも入室しないデッドスペースと化し、ついには、なんのための展示室なのか?となって、いつか倉庫になるのだ。

なにを誇りとして、どこを一般客にアッピールしたいのか?の企画ができない企業は、そもそも博物館をつくることもできない。

そうやって、企業価値を観察するのも一興なのである。

「命令」ではないと定める命令

7日に締め切られた、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」や「土地基本方針」に関するパブリックコメント募集期間が、2週間しかないことの、「行政手続法」上のいい訳は、「命令ではない」ための「任意」なのだという解釈が原因だったことがわかった。

これを10日、元総務大臣の立憲民主党、原口一博衆議院議員が自身のSNSで報告している。

こんなにわかりやすい、役人の「詭弁」の使い方もめったにない。

しかし、官房長官がたったの2週間でも19万弱もあったパブリックコメントを、締切り同日にサッサと無視して、「粛々と推進する」といったように、役人が詭弁を弄することになったさらなる「理由」が明らかになった。

すくなくとも、官房長官そのひとが、原因、なのである。

もちろん、内閣の要は官房長官であることに異論はない。
したがって、政府スポークスマンでもある官房長官の発言は、同時に、首相の意思の代弁でもあるのだ。

なので、原口議員が、この発言に対し、「倒す(倒閣)しかない」と繰り返したのには、まったく論理矛盾はなく、むしろわたしは支持するものである。

とはいえ、受け皿が「立憲民主党」でいいのか?
そうはいかない、という大問題がある。
これが、この国の悲劇の原因で、アメリカ共和党トランプ派と同様の「パーティー」がないのである。

さて、原口一博衆議院議員のこのSNS動画の中で、関係する役人を相手に、これまで明らかになっているコロナワクチン被害などの事実関係の念のための披露をしたところ、一部の役人は「無知」であったばかりか、「青ざめた」と発言している。

これが事実ならば(おそらく事実)、政府役人のなかでも「言ってはいけない」があって、じっさいに「箝口令」ばかりか、「情報統制」がなされているとかんがえてよさそうな、重大情報なのである。

官僚は、世間で起きている事実をしらないで政策運営をやっている。

個人的なことだが、わたしにはとある地方自治体のキャリア官僚が友人にいて、本庁・健康福祉部門の課長職をやっていたが、コロナ禍の最中でも、海外での対応についての情報はほぼ知識の外にあってまったくしらないばかりか「しりたくない」と耳を塞ぐ態度をとったのである。

10日現在で、原口議員がわたしと同様の海外事例や国内の動きを説明して「青ざめる」ひとがいることの一点をとっても、政府部内における情報統制の厳しさを裏付けているとかんがえざるを得ないのである。

ここで話はいったん飛ぶ。

2014年は、ウクライナにおいて「マイダン革命」が起き、選挙で選ばれた大統領(親ロ派)が政権を追われ、親米政権(じつはナチ)が誕生し、これが、ロシアの「特別軍事作戦」を誘発したのは、もはや否定できない事実であるし、ロシア側の「作戦発動根拠」に、「ウクライナ政府からのナチス排除」がちゃんと項目としてあることも、日本のメディアは伝えない。

それゆえに、戦闘も終盤になって、ロシアがゼレンスキー氏以下の政権幹部に「逮捕状」を出したのである。

さてそれで、この「マイダン革命」と同じ年つまり2014年に、わが国ではもっと静かな「革命」が起きていて、それが、「内閣人事局」の創設であった。

このときの官房長官は、菅義偉氏であり、総理は、安倍晋三氏だった。

アベノミクスは、社会主義政策のことなので、このブログで一貫して疑問を投げかけてきたし、わたしはぜんぜんプラス評価なんかしていない。

どうして、安倍氏を自称「保守」のひとたちが「保守」というのか?わたしには皆目見当がつかないが、なんとなく日の丸に敬意を示すだけからの幻想の演出にコロッと騙されているとしかおもえない。

似た事例に、稲田朋美氏や高市早苗氏がいる。

いまでも、次期首相に高市早苗氏「しか」いないとして、パワフルな応援をしている「保守」がいるのは、まったく日本語が理解できないのか?なんなのか?わたしには、遠い世界のひとたちにおもえてならないのである。

それにしても、キャリア国家公務員は、SNSの利用者ではないのか?
それとも、あくまで「在野」のいい分は無視することを信条とするのか?ならば、裁判官に職を求めたらいい。

また、一日の公務を終えたら一般市民になるのを区別できない生活をしているなら、ワークホリックどころの騒ぎではなく、すぐに心療内科を訪ねるべきである。

しかし、そうやってSNSにおける様々な情報にふれたら、こんどはなにが真実なのか?の真偽すら判断不能になるのを畏れているのかもしれない。
だとしたら、それこそが「受験脳」の限界なのである。

自分で考えて決めることができない人物が、エリートとして君臨し、詭弁を弄しても精神的な苦痛とならないのは、「上からの命ずるところ」に忠実な、ただの犬になっているからだ。

みごとな「忠犬」。
これを、ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で、さらけ出した、「悪の凡庸さ」というのだが、現実のあまりにも凡庸な姿に、唖然とするのである。

まことにお気の毒様なれど、悲惨な目にあうのは、このひとたちの家族も含めた国民なのである。

「集合」の概念すら、ないのである。

言ってはいけない症候群

中国の「TikTok」を運営している、「ByteDance社」が、先般バイデン氏が署名して発効した、「TikTok禁止法」に対して、合衆国憲法違反を理由に提訴したことがニュースになった。

この法律、じつは、「禁止」を名乗ってはいるが、じっさいは「アメリカ企業への売却を命じる」もので、どこにも「禁止」の要素はないのに「禁止法」だといっている不思議がある。

それでもこのアプリが世界各国の政府から嫌われる理由は、動画の投稿や視聴するためにアクセスすると、そのつど個人情報が抜かれる、ということでの利用者保護の観点から、ということになっている。

同じ仕組みで、日本では、「LINE」「PayPay」などの電子通貨があるが、こちらはなぜか地方自治体も行政情報提供手段とかのために積極的に住民に使用させようと宣伝まてしている。

もちろん、日本では、個人情報保護法もあるけれど、ぜんぜん行政は知らないことにしているし、個人も自分の個人情報の価値についての重要性をかんがえる能力を失っているので、まったく気にすることなく生活の必須アイテムとなっているのは、おめでたいことだ。

だが、おめでたくない小数派からしたら、まったくもって迷惑な話で、電子通貨しか決済手段がなくれなれば、このシステム管理者が文字どおり「生殺与奪の権を握る」ことになる、究極の支配が完成するのである。

残念ながら、もはやSFでも陰謀論でもない。

それで、シュワブ氏の世界経済フォーラムが推進する、「なにも所有しないよろこび」すなわち究極的な世界共産化=全体主義が完成する。

しかしながら、支配層は、なんでもかんでも人間も所有する「よろこび」に満ちあふれるという、夢の実現に邁進しているのだから、悪魔に取り憑かれたとしかいいようがない。

さてアジア的共産主義のTikTokが訴えた相手は、欧米型共産主義のアメリカ政府という行政府であるが、いま行われているトランプ裁判では、裁判官が被告人たるトランプ氏に、「箝口令」を命ずる前代未聞が現実になっている。

つまり、「人民裁判」という、共産主義下の共通がはじまっているのである。

当然だがトランプ氏はこれに従わす、自己弁護の発言をするのも禁じられるばかりか、とうとう裁判官が、「収監」をほのめかすまでになったと報じられている。
しかし、このような魔女狩りでことごとく支持率を増大させてきたのがトランプ氏なので、かえって収監されることを望んでいるふしもある。

「歴史」になれるからでもある。

さらに、まったく別の場面では、「ハマス支持=反イスラエル」のために、大学を占拠している学生が多数になったことで、名門アイビーリーグの各校が注目されている。
この活動の資金源は、例によって「ソロス財団」などの、極左富豪たちだと判明している。

特にコロンビア大学の学生たちの抵抗は激しく、とうとう大学当局は警察の介入を要請するに至った。
これを左翼大手メディアが、妙に冷静に報じているのは、「反イスラエル」がやり過ぎだという事情があるからだ。

どこにいっても左翼には様々な分会(むかしの日本人学生は「ブント」と呼んだ)がある。

一種のマッチポンプで、こうした学生を育てる教員ばかりを人選してきた学校当局が、経営的見地から彼らの取締に加担するのは、むしろ自己責任の放棄なのである。

それでもって、連邦最高裁の保守系判事たちが連名で、コロンビア大学法学部の学生を職員採用しない旨の通知をして左翼に一刺ししたとニュースになった。
大学側(もとは左翼)は、これに反発して、「本学の優秀な学生は法曹会に多大の貢献をしている」との、いまさらな反論をしているのである。

顕著なのは、コロンビア大学だけでなく、ハーバードやプリンストンなども同様で、卒業生たちからの寄付金も減少し、経営上の大問題になりつつあるという。
巨大でしかも、権威づけのための贅沢な施設や研究設備を維持するだけでも、莫大なカネを必要とするが、日本のように「私学助成金」による国家管理制度はアメリカにない。

残念ながら、こんな大学の左翼体質に嫌気をさした企業は、もはやアイビーリーグ以外からの卒業生を採用すると公言していて、いま、驚くほどのスピードでかつてのアイビーリーグのブランド力が希薄になっているという。

このように、アメリカで、いってはいけない症候群が流行して、各方面で意外な展開となっているのである。

理不尽な手段で教育し、それが主流となるや権力でこれを強制したから、予期せぬ反動(付随的結果)となって、巨大なリバウンドになっている。

もはやアメリカを自由の国だと思ってはいけない。

この症候群がまた、日本で流行ることも確実なのであるが、すでに「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」、「土地基本方針(案)」や「地方自治法改悪」で現実になっているのに、将来ある学生や現役世代の働き手たちは無関心なままだ。

なお、ここで、「政局」のはなしがノイズになってでてくると予想するのは、もはや「岸田氏」というレベルではなくて、「党」を挙げての突撃がいま実施されているからである。

その証拠に、かくも低い内閣と党支持率なのに、「岸田降ろし」がぜんぜん起きないのであるし、野党の切り込みの迫力のなさは、アメリカよりも酷い状態だと認識すべきところにきている。

わたしは、絶対安定多数のあるかぎり、つまり、任期切れギリギリ(25年10月末)まで岸田政権(あるいはDSの傀儡)は続くとかんがえている。

この意味で、2021年の選挙の失敗責任を、国民が負わされているのである。

古い映画『1900年』の感想文

全体主義を理解するための視聴覚教材として、『1900年』(1976年)をTSUTAYAで借りたことは書いた。

この5時間強に及ぶ大作の、現時点での感想文を書いておく。

さて、舞台はいまから124年前、西暦1900年(明治33年:皇紀2560年)だ。
原題は、『Novecento:20世紀』で、各国で『1900年』とされたことに、監督のベルトルッチは「えらく不満」だったという。

2000年生まれが、24歳になるいま、是非100年遅れで生まれたきたひとたちにも観てほしいものだけど、自分が何年遅れなのかを意識して、この物語を自己の経験と重ねる努力をすれば、似た風景とぜんぜんちがう風景に分けることができる。

もちろん、外国の事情の前に、自国の事情を事前に確認しておかないと、「基準」がわからなくなる。
そこで、賢明なる読者には、この年を検索されておくことをお勧めするし、自分の生まれた年も検索しておくとよいのである。

同時にまた、その前後の時代も確認しておきたい。

歴史家は、過去200年は遡っていまを見るという。
都会の人間は、祖父母まではしっていてもその前の曾祖父母になるとかなり怪しく、曾祖父母の生きた時代の生々しい記憶を失っているために、身近な200年を遡るのは意外と困難なのである。

この意味で、与党の一方がいう、「現世利益」だけの生き方、が現代のほとんどの日本人の根底にあるために、過去 ⇒ 現在 ⇒ 未来、における、現在とは、駅伝でいう過去から受け取ったタスキを未来に渡すためにいまの自分がある、という「役割」もすっかり忘れてしまって、「いまだけ」になったのだった。

これは、「保守思想」の基本であるから、「保守」が日本で絶えたのは、「いまだけ」の蔓延による当然ということなのである。

さて、1900年前後を大きな区分でいえば、日清戦争が1894年から95年、日露戦争は、1904年から5年、第一次世界大戦は、1914年から18年であった。

なお、日露戦争を、識者は「第0次世界大戦」だと評価している。

いわゆる、近代戦争の「総力戦」の史上初めてがあったからである。
しかし、いまもっと注目したいのは、この戦争の「ポンチ絵」が、英米にそそのかされてロシアと戦う日本人という構図だ。

まったく、地球の反対側のウクライナでおなじ構図がいま起きているのだ。

ちなみに、日露戦争の戦費調達で、ヨーロッパで起債に成功したのが、奴隷から身をおこし大学での人脈づくりに励んだ、高橋是清であったが、この債務を完済できたのは、なんと1986年のことであった。

さて、この映画の舞台は、イタリアである。

問題なのは、イタリアがいまのように統一国家となったのは、一応、「イタリア王国」ができた1861年(文久元年:安政と慶応の間)のことなのである。
それでもって、統一が完成するのが、なんと第一次大戦後(1918年:大正7年)で戦勝国となったことの「報酬」であった。

なので、古く見積もれば建国163年、新しく見積もれば106年しか、現代イタリアには歴史がないのだが、明治維新後の日本の近代史と妙に重なるのが、統一イタリアの近代史なのである。

イタリアが複雑なのは、幕府に相当する中央政府がないので、日本でいうなら、応仁の乱以降の戦国時代的な領主が各地にいて、それぞれが独立していたややこしさに、ローマ教会も領地をもっていた複雑で、日本人には理解が困難なのである。

それゆえに、本作の1900年からはじまる設定は、じつに微妙なバランスによる時代設定となっているし、統一前の分立していた当時の地方色(舞台は「エミリア・ロマーニャ地方」)もからめて、日本人にはたいへん難しい作品になっているのである。

なお、エミリア語、ロマーニャ語がそれぞれ標準イタリア語以外にあるのも、この地方の特徴になっている。

さて映画冒頭のタイトル背景画は、ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペードが1901年に発表した『第四階級 (Il Quarto Stato)』である。
貴族階級、聖職者階級、中産階級(市民層)に次ぐ第四の階級が労働者階級で、中央に描かている。

この映画の「左翼性:社会主義礼賛」を暗示させる。

ついでに音楽は、巨匠、エンリオ・モリコーネで、文句があるとすれば、その音楽が美しすぎることだろう。

社会背景に、スターリンか、黒シャツのファシスト(ムッソリーニ)か?という二択がある。

地主である主人公と、農奴である主人公のふたりの複雑な友情が、徹底的なファシストを悪として描かれるけれど、「廃頽」の極みは、日本人の経験値を超えている。

この意味で、「仇役」の迫力が、凄まじいのであり、農奴たちの日本にはない、悲惨は、日本における小作人とどうやっても比較するのが困難なのである。

次元がちがうのだ。

なのに、安易な(おそらく「わざと」)知識人たちは、イタリア(もっと拡大してヨーロッパ・ロシア)の農奴と、日本の小作人を同一視する。
残念ながら、わたしにはそんな単純な比較はできない。

劇中にある、塀と門が、農奴を逃がさせない仕組み(「農奴」は土地と分離されない)になっているけど、日本の場合はそこまでしていないから、江戸期の領主の悩みはむしろ「逃散」(農民が土地を棄てて別の領地へ逃亡する)だったのに、塀に閉じ込めることは考えもしなかったのである。

あたかも、「一揆」を強調するのもいかがかとおもうけど、全国各地で一揆も起きていたから、「逃散」の頻度はもっと注目されていい。

だが、日本の左翼はこれをあえてしないのである。

たとえば、白土三平の『カムイ伝』を礼賛した、法政大の田中優子、『カムイ伝講義』がそれで、このような浅はかな研究しかしないのに、「総長」になった噴飯がある。

そんなわけで、第二次大戦後まで、サラリと身を返して戦勝国になったイタリアの農奴はずっと悲惨だったのではないか?
もちろん、日本とちがって、農奴に学問をやらせないのは、だれであれ統治者に都合が悪くなるからである。

ところで、スターリンとムッソリーニのちがいが理解できない、この映画の表現はいかがなものなのか?

こたえは、「同じ穴のムジナ」なのに、である。

なにせ、ムッソリーニは、その過激思想(=極左)ゆえに、イタリア社会党を除名されて、なお、まだ極左のために、イタリア共産党からも相手にされなかったのだ。
いってみれば、法政大に拠点を置く、中核派のような存在がムッソリーニの「本籍」なのである。

血が濃すぎるための近親憎悪、これが、ムッソリーニを糾弾し赤旗を振る者たちの心理であった。

ゆえに、本作では、全体主義の恐怖に深く踏み込んでいないという「演出」がされている一方で、地方の支配者にすぎない地主たちの愚劣さが単純な二項対立として強調されているのである。

こうやってみると、わが国の戦後改革の大エポック、GHQによる「農地解放」とは、日本人小作人の「農奴化:土地と結合させる」であった。

「先祖代々耕してきた土地」という、大ウソがまかり通ったのも、農奴化のための精神的プロパガンダなのである。

それでもって、日本の農業は殺されて、とうとう食料自給率がカロリーベースで1割程度という、いつ飢餓がやってきてもおかしくない状況がつくられたのである。

イタリアの農奴には「解放」だったのかもしれないが、日本の小作人は逆に農奴に貶められた、このトリックに気づかないで、なにに気づけというのだろう?

20世紀の酷さは、より高度化して21世紀に続いているのである。

189382件のコメントだけで

7日18時に締め切られた、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」に関するパブリックコメント応募の結果である。

どれほどの「賛成」コメントがあったかは、のちに分かるとして、おおむね「反対」が圧倒的なはずだという評価になっている。

さて、先月24日からはじまった「募集」であったが、「行政手続法」にも違反している疑義がある。

同法第39条第3項には、「意見提出期間は、公示の日から起算して三十日以上でなければならない」とあり、さらに、第40条では、「三十日を下回る意見提出期間を定めることができる」とあるが、続いて、「この場合においては、当該命令党の案の公示の際その理由を明らかにしなければならない」と定めている。

つまるところ、めちゃくちゃな法律運用が、政府自身によってされているのである。

これを、わが国官僚制の劣化として見るだけでは済まされないのはいうまでもない。
なにしろ、国民の自由に関する「制限」を内閣の決定だけでやれるという、憲法違反を含むことだからだ。

はたして、憲法違反に関していつも強く見解を出している、日弁連の動きはどうなのか?も、本件については、おとなしいのである。

わたしは、うかつにも、同日正午(募集の公示と開始は4月19日)に締め切られた、「土地基本方針の変更(案)」に関するパブリックコメント募集があったことをしらなかった。
こちらは、38千ほどだったという。

なお、これも、「行政手続法」に抵触している。

案文は、上のリンクからまだ読むことができる。
「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」が、223ページもあったが、こちらは表紙を入れて17ページである。

しかし、外国人にわが国の土地を購入しやすくするという「方針」なのである。

さらに、政府の周到なる「波状攻撃」は、7日に衆議院で審議が開始された、「地方自治法改正案」にも及んでいる。

政府が「重大事態」であると、実質的には「緊急事態」を宣言したら、地方自治体は政府の命に従わなければならないという、やっぱり「自由制限」を法制化しようというのだ。

つまり、いま、おおくの国民のしらないところで、行政手続法も無視しながら、あたかも、7にアップルが新型ipadを発表したイベント・ビデオの11分20秒後のごとく、過去を押しつぶして「新生」させる、というグローバル全体主義の徹底的に強引なやり方で「蹂躙」しようとしているのである。

わたしは、ipad以外のタブレットPCは、たしかにゴミだとおもっているが、だからといってこの企業が掲げる政治的スタンスについては、全面的に拒否感を抱いているものだ。

さてそれで、自民党がここまでしてもやり遂げておきたいというのは、なにかに間に合わせるための「焦り」なのか?なんなのか?を疑わざるを得ないのである。

トランプ時代に、イスラエルと和平条約を結ぶ一歩手前にまで進展していた、サウジアラビアは、『ビジョン2030』を掲げていて、脱石油化を推進しているが、とはいえ、イスラエルを支援する国には石油を売らないという話をしだしたのである。

これをまったく無視して、外務大臣はイスラエルを訪問し、支援を約束しているのである。

そんなわけで、政府による破壊工作が進んでいるのである。
確かに、コメント数は多かったのかもしれないが、それでも国民全体の認知度の低さは否めない。

もちろん、絶対安定多数の衆議院であるうちに、通せるものは通してしまうことを覚悟したのが与党なのである。

投票したひとの責任ではあるけれど、選挙に行かなかったひとたちの責任の方がはるかに重い。
そして、このはるかにたくさんいるひとたちが、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」のことも、「土地基本方針(案)」も、さらに、「地方自治法改正」のことも、しらないだけでなく、興味もないのである。

これを、正真正銘の「奴隷」と呼ぶ。

昨今、外国旅行中の日本人観光客が、「円の交換に応じてくれない」ことを複数のひとがSNSに投稿している。
「そんなゴミ切れなんていらない」と、現地の商売人がいうらしい。

もう、外国の庶民感覚が、日本人の奴隷化をしっているのである。

サラウンド・ホームシアターの怪

量販店があちこちにできて、とくに田舎の景観を壊しているが、田舎のひとたちの生活には楽しいお店なのにちがいない。

わが家はテレビに興味はないが、かつてレンタルビデオを観ることはよくしていた。
しかし、これもめっきり減ったのは、「アマゾン・スティック」や、「クローム・キャスト」を切り替え機で接続して、いろいろと視聴することができるからである。

わが家のローカルな理由はもう一つあって、2011年に購入した、サラウンド・ホームシアター・システムの、本体(ブルーレイディスクとアンプ)のリモコンが作動しなくなったという不便があるのだ。

リモンコン端末を疑ってはみたが、スマホのカメラで射出される赤外線を写してみると、いちおうよく見えるから、本体側の受光器が壊れたとかんがえている。
ただし、まれに、赤外線が確認できるからと行って、ただしい信号が出ているとは保障されないけれど。

それで、いちいち本体のスイッチを押すことが必要になった。
再生しないことではないのだけれど、いろいろな機能操作はリモンを用いる設計となっているから、たとえば字幕表示とかの設定は本体のスイッチだけでは困るのである。

それで、上の、「アマゾン・スティック」とかに依存することになったのである

近所に3店舗あった「TSUTAYA」さんがぜんぶ消えて、いまはクルマで30分かかるところが「最寄り店」となったし、その「TSUTAYA」さんも、レンタルビデオ店事業からの撤退をする時代となったので、膨大な映像資産はこれからどうなるのか?とか、埋もれた名作をどうやったら試聴できるのか?が不安になった。

料金はかかるが、郵送されるサービスもあるのはしっている。
けど、書店や図書館のように、パッシブな展示品から選ぶことでの意外性が期待できないのが残念なのである。

何年かぶりに実店舗の「TSUTAYA」さんで、めったにみつけないDVDを借りたので、これを観ようとしたら、上の不便に気分をさえぎられたのである。

そんなわけで、量販店にはいっても、パソコン周辺機器にしかほとんど用がないために、えらく久しぶりに、テレビ系の売り場をうろつくことにして、「後継機」を物色しようかと目論んだのである。

もちろん、スピーカーは健在なので、目指すは「本体」であった。

ところが、ホームシアターの展示をみても、ちょっと勝手がちがうのである。
大型テレビとセットになって、これらがバンドル販売されている。
「単体」だとどれかを見定めるのに、パンフレットを物色していたら店員さんから声をかけられた。

そこで、10年以上の情報ブランクを埋めるべくいろいろ聞いたら、「へぇー」があったのである。

・さいきんのテレビは、額縁部分が狭くなったのでスピーカーが画面下部に「下向き」についているので、昔の画面横に正面方向へ設置して時代よりずっと音は悪くなった。ために、別途スピーカー・システムを販売することになったこと。

・外部アクセサリーとしてのブルーレイディスクなどは、ぜんぶ小型化して、デジタル対応が完成したので、端子がなくアナログ接続ができないこと。

・テレビを中心に、外部機器(出力:スピーカー、入力:ブルーレイディスクなど)を接続するため、テレビ側の入出力端子に「HDMI」か「光端子」があること。

以上の条件説明で、「本体交換」の野望は潰えた。

スピーカーさえも、「HDMI」で接続するとなれば、わが家のちゃんと作動するスピーカーたちも「ゴミ同然」となってしまう。

これが、持続可能社会の本質である。

過去はゴミだという、おどろくべき「現世利益主義=進歩主義」だからこそ、政権与党に公明党があるのだとかんがえざるをえない。

そうはさせじと足掻くことにして、まずはオークションで、リモコン端末だけを落札し、念のため試して本体が作動したら御の字であるし、もしもダメなら、中古販売中のセットを丸ごと買って、本体だけを交換することも視野においている。(追記)ダメだった。

なんでも「Ultra HD ブルーレイ再生対応」という過剰製品が、たかが数万円で販売されているけれど、そんなマシンがあっても最新コンテンツを観たいとも思わないのは、過去の名作をだれも復刻しない文化の沼があるからだ。

結局、なにをどうやって観るのか?だけが問題なんだけど。

プーチンの嘆き演説

先月27日、アメリカ諜報機関の広報誌として有名な、「ウォールストリートジャーナル紙」が、2月に刑務所でロシア反体制活動家ナワリヌイ氏が亡くなったことについて、ロシア政府の関与はないと判断していることを伝えたと、「ロイター」も同日に配信している。

もちろん、そうはいっても、バイデン政権がプーチン氏の関与を否定した、ということではないから、諜報機関も政府の一部なので、アメリカ政府内で見解が一致しないという事態になっていることを、世界に知らしめた意味での「ニュース」である。

こないだ、「日本保守党」を、「第二自民党」だと書いたが、共同代表で設立者の百田尚樹氏が、「ウクライナ支援すべし」と相変わらずの論陣を張っていることに、強烈な違和感をもっている。

ウクライナの若者が、戦場で亡くなるだけでなく、一般国民も多大なる被害者になるものをどうしてやめないのか?
なお、現ウクライナ政府は、元ウクライナの東部4州(すでにロシアに併合された)への無差別攻撃を実施している。

とっくに戦況は、ウクライナの半分を「緩衝地帯」とするためのロシア軍の配置ができているし、下手をすると、隣国のモルドバにも戦禍が及びそうな気配で、そうならないような慎重さでロシアは意識的に行動しているとしか見えない。

また、ポーランドは、西部ウクライナを再併合すべく、涎を流している。

そんななか、先月30日「X(旧ツイッター)」に、プーチン氏の嘆きの演説動画がアップされて話題になっている。

西側を支配するもの(これを架空というひとがまだいるらしい)に向けた、政策変更を促すメッセージである。
その政策とは、人口を意識的に「減らす」さまざまな方策のことである。

プーチン氏は、これ以上罪のない人々の生存を奪うことは、神に対してだけでなく、自分に対しても怒りの反抗を決意させると、強く警告しているのである。

ちなみに、プーチン氏がいう「神」とは、ロシア正教でいう神のことで、本来ならば、ユダヤ教、イスラム教ともおなじはずだが、ローマカソリックやプロテスタントは、ちがう神を信じているようである。

フランスのマクロンが、ウクライナにフランス軍を出兵させることも辞さじと発言して、他のEU首脳から総スカンをくらったけれど、これは、アフリカにおけるフランスの植民地がことごとく「親ロシア」になって、あの「ワグネル」がすでに駐屯しているからなのである。

フランスは原子力発電大国で、ドイツへの電力輸出でしられるけれど、燃料となるアフリカ産ウランの入手が、今後は困難になりそうなのである。

プーチンは、エネルギー資源戦争で、西側にワンサイドゲームを仕掛けて成功してしまったのである。
不本意ながら、IMFも、ロシア経済の絶好調を認めざるを得ないまでになっている。

さてそれで、プーチン氏が呼びかけた「相手」とは、「世界経済フォーラム:ダボス会議」であり、その上位団体の「ビルダーバーグ倶楽部」に相違ない。

こないだ、世界経済フォーラム創設者である、クラウス・シュワブ氏の健康状態悪化が噂になったが、残念ながら、どんなに栄華を極めたひとでも、最期は「畳一畳」の面積しか必要なくなり、彼らのいう通り「物故」するだけなのだ。

古来、日本人は、この「理(ことわ)り」を、「無常」として受け入れていた。

たとえば河野太郎氏の強引さとは、時間がなくなったシュワブ氏から、「急げ!」との焦りの命令が出ているための、従順な犬のような態度ではないのか?

そんな西側の指導者を、プーチン氏は最も忌み嫌うのであるから、もはや時間切れとなれば、一蓮托生の廃棄物と化すことが確定している。

残念ながら、モーゼに逆らって滅ぼされた愚民のごとくに、多くの日本人が滅ぶ側に陥っているのである。

連休中に、まだやっている「TSUTAYA」にいって、古いDVDの『十戒』でも観れば、何が何だかの少しでも理解が進むだろうに。
無益に過ごした連休も、昨日で終わり、5月呆けの日常がまたはじまった。