【2024年頭】生き残りの年

新年、明けましておめでとうございます。

この言葉を、さっそく、来年の2025年に言えるのか?が気にかかる年となった。
この意味で、無機質なカレンダーが恨めしい。

1582年10月15日金曜日からはじまる、グレゴリオ暦に世界のカレンダーは統一されているのは、ローマ・カトリック教会とプロテスタントの合意の上のことである。

民主党が支配するアメリカでお盛んな、「ポリコレ」も、まだカレンダーには言及していない。

それもそのはずで、この戦争屋たちは、「ユリウス暦」を使っているのが、ロシア正教だということを知っているからである。
もちろん、わが国が明治5年にやった、旧暦(太陰太陽暦)を棄てたのも、「ポリコレ」のひとたちはなにもいわないのである。

そんなわけで、ロシア正教においてのクリスマスはグレゴリオ暦でいう、1月7日となっている。
わが国の旧暦では、今日は11月20日で、新年(新月)は、新暦の2月10日にあたる。

ちゃんと旧暦も活用すべきなのである。

さて、今年は、選挙の年である。
台湾の総統選からはじまって、11月にはアメリカで来年以降の人類史の決戦がある。
お飾りのEU議会選挙はどうでもいいが、日本の総選挙はどうでもいいとはいかない。

苦戦がわかっている民主党が、どんな汚い手を使うのか?によって決まりそうなのは、日本のマスコミは報道せずに、必死でトランプの落選を外野から応援するのは、自民党の敗北が怖いからである。

ただし、国民には選択肢が与えられないままに、春の「憲法改正国民投票」に突入する可能性が高い。

それもこれも、5月のWHO総会における、世界政府実現のための布石である。

とうとう日本政府は、国連に国権のすべてを引き渡して、EUのような役人支配を永久化したいらしい。

そんなわけで、国民に小難しいことを考えさせないために、なんと、漫才師を不倫だかというどうでもいいことで担ぎ出して、そのスキャンダルをもって、肝心の目くらましをさせようと企んでいる。

1961年はわたしが生まれた年であるが、これから1年間かけて、しつこく3回も国会に提出されて廃案となったのが、「特定産業振興臨時措置法案、通称・特振法案」だった。

時は池田勇人内閣、通産相は佐藤栄作と福田一(後の衆議院議長)にまたがるが、じっさいに法案を立案して成立に奔走したのは、「ミスター通産相」の異名をとった、佐橋滋(後に同期の後を襲う異例の事務次官となる)だった。

法案こそ通らなかったが、佐橋の爪痕は深く、日本経済の国家社会主義化の立役者になった。
「行政指導」やら、日本開発銀行をつかって、民間企業の経営にちょっかいを出し続けて、今に至るからである。

なお、佐橋を主人公に据えた『官僚たちの夏』が、中国語版でも堂々発売されているから、その位置づけが確定している。

美しき「国家社会主義=共産主義」ということだ。

いまだに「御用」を務めて金銭を得ている、作家だか評論家のひとたちは、佐橋を英雄とか官僚の鏡とかと持ち上げるが、本田宗一郎が言った一言がすべてなのである。

わが国のいまの衰退は、発展期にもう仕組みとして準備されていたのが、これほこれで、岸信介が満州で成功させたパターンをそのまま「商工省」に持ち込んで作ったのである。

いま、旧安倍派だけが壊滅的攻撃をされているのは、岸がCIAと結んだ契約を破ったからか?
この意味で、吉田茂がGHQと結んだ約束、アメリカ民主党のポチになる、を厳格に遵守している岸田氏におとがめはない。

「大宏池会」なる先祖帰りは、アメリカ(民主党)様の仲間表明なので、東京地検特捜部なるCIAの下部機関も見のがしてくれるだろう、という希望的メカニズムになっている。

一方で、トランプ氏の立候補すら阻止しようというひとたちは、世の中の「仕組み」を知っているから、その仕組みの一部である、「司法」を「武器化」している。
なぜに彼を政治的に葬ろうとするかは、彼が「仕組み」で戦争屋商売を潰そうとしたし、それが彼の信念であるからである。

あゝ見えて、トランプは戦争(戦争屋=ネオコン=DS)が大嫌いなのだ。

道徳も倫理もなく、ただ私益を貪る姿は、資本主義ではない。
だから、戦争屋たちは、「新しい資本主義」といって誤魔化すのである。

そうやって、ハイエクやフリードマンが主張した、「新自由主義」を、用語として葬った。
本田宗一郎が言う「自由主義」も、この「新自由主義」のことである。

しかし今、にっくき「新自由主義」とは、戦争屋が言う「新しい資本主義」にほかならないから、なにを言っているのか一般人にはわからなくなって、思考停止させられているのである。

全体主義者たちがつかう、二重規範(ダブルスタンダード)に翻弄されてしまっている。
むかしだったら、相手にされないほどの稚拙なのだが、あまりにも人々が稚拙にさせられて、もう気づかなくなって久しい。

そして、稚拙なかんがえしかできないひとは、それを指摘されると怒るのである。

この怒りっぽさを、全体主義者たちは「二分間憎悪」の時間として、テレビに向かって怒るように仕向け、そのテレビからの情報にかじりつくようにしているのは、脳が適度な興奮から醒めたときに快感を得るからである。

そんなこんないろんな邪悪な仕掛けがはびこっている、障害物競争をやられさているけれど、それなりのゴールが見えるのが今年なのである。

一般人には、映画のような、生き残りがかかっている。

今年の反省文を書く

年初に書いたのは、「日本語再考」であった。

再考できたのか?をまず自問すると、それどころではなかったという言い訳がでてくるのである。

ただし、『ルポ 誰が国語力を殺すのか』『日本を殺すのは誰よ!』という、二冊で、より一層、自分でつくったテーマの重要性だけは理解が深まっている。

もう一つの「発見」は、いまさらながら、「経営学の母」とも、「経営思想家」ともいわれている、メアリ・P・フォレット(1868年~1933年)という、今では古典的な人物の発見である。

この人物をわが国に紹介した功績ある人物は、三戸 公(みと ただし)立教大学・中京大学名誉教授(1921年~2022年)だ。
なお、三戸教授はドラッカー研究の第一人者で、そのドラッカーが高く評価したのがフォレットだというつながりになっている。

アメリカやヨーロッパの「古典的著作」が、わが国でも「有用」とされていた理由は、ついぞ「理系」の研究成果をもっぱらとしていたことでもわかる。
『解体新書』もそうだけど、科学(Science)には、普遍の法則があるからだ。

なので、科学における定説が新しい発見に取って代わるのは、上書きできる法則の発見があるからで、特段の人為による政治的な理由は排除されることになっている。

これをソ連では、しっかり政治利用して、「ソ連邦科学アカデミー」なる政治団体を組織し、その長に、科学者を装った政治化を配置したのであった。
そうやって、特定思想(共産党に都合がいい思想)を、科学の上位に君臨させたのは、ガリレオを有罪にしたローマ・カトリック教会とおなじ論理構造なのである。

こうしたことの不幸を知り尽くしているプーチン氏が、「反共」を掲げる理由は明確で、ためにわが国は、「敵国認定」されるに至ったのである。

ソ連と革命前ロシア・自壊後のロシアとを区別できないのではなくて、区別しないのである。

そのロシアでは来年3月に大統領選挙がある。
すでに10人が立候補しているけれど、プーチン氏はこれから、となっている。

そのプーチン氏を後方支援する「頭脳」は、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・カラガノフ博士(経済学、政治学:モスクワ大学)で、彼は、日本とドイツがアメリカからの「独立」「自主核武装」をすべきと公言している。
それが、今の混沌世界(戦争屋たちの好き放題)から安定をもたらす、というのである。

民主党のアメリカが戦後の教育を支配した日本やドイツにおいて、人文系(「人文科学」と科学をつけていいものか?)で、その普遍性をいうのは、どういうことか?を突きつめると、結局は、グローバル全体主義に行きつくのである。

当然ながら、カラガノフ博士は、ナショナリストで、反グローバル全体主義だ。

それなのに、岸田政権は、パトリオット・ミサイルをアメリカに「輸出」するとサッサと決めて、これがアメリカを通じてウクライナ戦争に使われたら(おそらくそのため)、ロシア外務省が公式発表している「警告」が発動されて、わが国もロシアと戦争状態になる。

こんな重大なことが、大騒ぎにならない今の日本人は、完全にイカれていないか?
平時ではない、紛争当事国の一方に、武器を供給したら、相手国から「同類」とされて当然ではないか。

ヘルメットや防弾チョッキ、あるいは現金供与までなら、すれすれだったけど、一線を越えてしまったのは、日本側となる。

恐るべき、岸田政権の「実行力」なのだ。
それもこれも、与党が絶対安定多数を持つ、国民のおかげ。なのである。

幕末の日本人たちが、なぜに外国人をかくも毛嫌いしたのか?は、民族としての価値観が水と油だったからに相違ない。

この点で、不可思議なのはアメリカ民主党の子会社、岸田政権がやろうする、日本学術会議の「民営化」だ。
この真の意図はなにか?がよくわからないから、手放しで「ざまぁ」とはいえない。

さていま、訪日外国人たちが、自国との違いに、わが国を「別の惑星」と表現しているのは、よほどの洞察力だと思っていいのである。

自国(文化)とは何か?を彼らはちゃんと定義している。

やや自虐的な共通はあるが、日本文明に対する「全く別」という評価の結論が導きだされるのがあんがいと論理的思考の順番になっている。

なので、外国の社会を探究したひとが書いたものが、そのまま日本で通用するとかんがえるのは、かなりのおっちょこちょいである。
それが典型は、『資本論』なるものに代表される、インチキ思想にはまり込んだおっちょこちょいたちなのだが、このひとたちは暴力的なので始末が悪いのである。

どうして暴力的になるのか?といえば、マルクスが革命を言っているからではなくて、勝手に定義した人文科学としての「解釈」が、ひとそれぞれであるものだから、自分だけが絶対に正しくて、残りはぜんぶ間違っているから、排除するのが社会のためだと、これまた勝手に思いこんでいるからである。

こうして、はじめは徒党を組むが、たいがいが内輪もめしてそれを、これらに与しない外野が、「内ゲバ」と呼んでいたのである。

そんなわけで、フォレットの論文の凄みとは、日本がまさに「欧米化した」ということであって、江戸期の学者ならなんと評価したのかを知りたくなるのである。

ところが、もはや漢籍(「崎門(山崎闇斎が発祥の朱子学派)」とか、「水戸学」とか、橋本左内)に通じたひとを見つけるのが困難だから、あたかも100年前にフォレットが書いたことが、いま、そのまま日本に適応できることが、ヤバイと感じるわたしがヤバいのか?

この意味では、ドラッカーも同様だし、その前のバーナードも同様である。

来年は、三戸教授の、『恥を棄てた日本人』でも読んでみたい。

読者の皆様には、良い新年を!

晦日蕎麦で大晦日は休み

縁起を担ぐ。

日本人がスピリチュアルな民族だった江戸時代から明治までの風習が、いまや尾てい骨のようになって、それがお正月の前後に見られることである。

年越し蕎麦といえば、バレンタインデーのように、本来なら毎月の終わり、晦日に食べるという縁起物であったのが、とうとう年一回の大イベントに変容したものだ。
土用のうなぎもこれに似ている。

もちろん、バレンタインデーは毎月のイベントではないし、暦も今の太陽暦ではなくて、太陰太陽暦という合理性に富んだものだった。

ちなみに、明日の大晦日は旧暦だと、11月19日で、まだまだ「お正月」は遠い。

土用のうなぎも、バレンタインデーも、「業界」の宣伝工作によってつくられた風習だから、社会の怖さがわかるというものにもなっている。
実はなんの脈絡もないものが、社会に定着させられるのは集団心理のおかげなのである。

それでもって、長い物には巻かれよ、となって、民衆から抵抗力を削ぐこともお上から宣伝された。

これが、プロパガンダのプロパガンダたるゆえんである。

しかし、物騒だった日本人の血は、結構「沸騰型」であるから、ついぞ100年程前まで、暴動が絶えなかった。
これを畏れた政府が、治安維持法をつくったのは、民衆弾圧よりも先に恐怖を感じた政府側に先手を打たせるためではなかったか?

結局のところ、新政府も国民のための政府ではなく、政府のための政府だった。

そのひとつの究極が、現在の日本政府であり、地方政府なのである。

そんなわけで、よくいく蕎麦屋に寄ったら、「人手不足のため適切なサービス維持が困難なため、大晦日は休業といたします」との張り紙が店内にあった。
この店は、配膳ロボットも導入している「ハイカラ」だけど、手打ちが廃れ、珍しい機械打ちが断然うまいと評判だった時代とちがって、行列ができるような店でもない。

だったら、セルフサービスの店にした方がよほど説得力があるというものだ。

スーパーやらで販売されている蕎麦には、原料表示の義務があるので、「蕎麦粉、小麦粉」なのか「小麦粉、蕎麦粉」なのかの順番で含有割合がわかるようになっているけど、蕎麦屋の蕎麦にはそれがない。

少なくとも、駅の立ち食い蕎麦は、たいがいが「小麦粉、蕎麦粉」のはずだから、「濃い色がついているうどん」を食べていることになっている。

大晦日に持ち帰りの年越し蕎麦も売るのをやめたのは、ほんとうに人手不足からが原因なのか?
店を休んでも、予約のテイクアウト対応だけでもやらないのは、休みたいからだけではないのかと疑うのは意地悪すぎるか?

わが家では、ちょっと遠方のスーパーに、年末だけ売られる「八割蕎麦」がここ数年の定番となっていて、年末の「みつば」のごとくバカ高くなる天ぷらを入れることはしない。
どうしてこの蕎麦をふだんから売らないのか?がミステリーなのである。

余計なお世話だけど、蕎麦屋が物理的に売っているのは、蕎麦とタネとツユであるが、客が買っているのはこれだけか?

人手不足をかんがえるより、こっちの方を先にかんがえるべきだろう。

世の中の経営者たちが、これをかんがえるのをやめて、目先の人手不足だけをみんなで問題にして、みんなで解決方法がわからないものだから、安い外国人の手をつかえばなんとかなるはずだと、人材輸入業界の宣伝に乗っかった姿となっている。

問われているのは、問題解決、に他ならないが、問題をかんがえないことに慣れすぎてしまったから、脳をつかうと気持ち悪くなるまでに劣化したのである。

しかも、ヘタなかんがえ休むに敷かず、すら忘れてしまったので、下手(上手の逆)しか手を打てなくって衰退している。

ならば、大晦日を休みにする蕎麦屋の判断は、まだ「まし」なのである。

誰と戦っているのか?

世の中では、「イスラエルとハマスの戦争」ということになっているけど、イスラエル警察(内務省)が発表した、10月7日のイスラエルへの「先制攻撃」は、イスラエル軍がやった、という唖然とする内容だった。

ネタニヤフ政権の支持率は急落して、いまや我が岸田政権並みとなっていて、どうやら政権内部の官僚たちも、「反対の意思表明」をしだしたようで、その不満の一発目の炸裂が、この警察発表になったようである。

これが国内報道されるやいなや、イスラエル国民の怒りも爆発しているようで、政権に嫌気がさした急先鋒たちは、国外脱出をはじめたという。
それで、ただでさえ国内人口比率でユダヤ人が47%の小数派なのだから、ネタニヤフ政権はユダヤ人国家の破壊者にもなっている。

風向きを見たのか何なのか?民主党支持一辺倒の広報紙、ニューヨークタイムズ紙が、15日付けでこれまたアッと驚く記事を掲載して、世界に拡散した。
それが、ネタニヤフ氏がハマスを育てた経緯についての詳細な解説であった。

つまり、ネタニヤフ氏がハマスを育成したことは自体は、とっくに既定事実なのである。

また、ハマスへの資金は、カタール政府もからんでいて、送金のための機関は、中国銀行だったことも判明した。

それ以前では、カタールからトランクケースに詰め込んだ現金を、陸路人間が手で運んでいて、ガザ国境においてイスラエル政府の機関に属すひとが、そのまま無傷の通過を支援していたという。

当時、このやり方が問題になったとき、ネタニヤフ氏は、カタールからの資金でハマスがおとなしくなるのだから放置する、といった発言記録が残っている。

そうなると、いま、ガザで起きている「戦闘」とは、イスラエル軍と誰が戦っているのか?ということになって、世界が非難している、「ただの民間人虐殺」だということになる。

これに世界で賛同しているのは、とうとう民主党・バイデン政権だけとなって、圧倒的な小数派になってしまった。

アメリカでは、民主党支持者たちが、崩れはじめている。

鉄板の絶対有利だった有色人種系からの支持も、とうとう共和党トランプ派に逆転され、その差は開くばかりである。
ずっと民主党を支持していた、アラブ系移民団体は、「反民主党」を決定したし、BLMの指導者たちがこぞって共和党トランプ派支持に寝返っている。

我々は、人種差別を誰がしているのかにようやく気がついた、それは民主党だ!というコメントがいまやトレンド入りしている。

それで、改めてトランプ氏のスピーチを冷静に聴いてみたら、キリスト教者として人類の平等をいって、実行しているのがトランプ氏だったことに気づいた、というのである。

ずいぶん前に、「B層」について書いたが、アメリカや世界にも多数いて、彼らがマジョリティーを形成しているのも、どうやら日本と同じらしい。

アメリカ人はこの意味で、気づいた、という点でさすがである。
日本人の大多数は、気づきもしないままなのである。

ジョージ・オーウェルは、『1984年』で、三つ巴の永久戦争を描いた。

各国の国民は、二国を相手に戦争をしていると信じ込まされているが、じつは、この三国のトップがゲームをやっていて、誰かが負けた都度、自国民をランダムに「消去する」ことで、爆撃の被害だと政府発表すればすむことになっているのだった。

いま、これをマスコミは「放送コード」、SNS企業は「ガイドライン」に抵触したと決めたらBANするのとどこがちがうのか?

とうとう、現代人も、誰と戦っているのか?がわからない世界に生きているのである。

決めるのは、マスコミでありSNS企業になっている。

スコッチが安い

日本酒やワインなどの醸造酒を飲まなくなって久しい。

日本酒は美味し過ぎて、ついうっかり飲みすぎるからで、ワインはわが家の食生活とあわないので敬遠している。

それで、蒸留酒に移行した。
かんたんにいえば、焼酎である。

80年代に、「焼酎ブーム」というのがあった。
わたしが、このブームを実感していなかったのはエジプトにいたからで、3週遅れでやって来る週刊誌で、大学生を中心に、「酎ハイ」なるものが「カフェバー」なる場所で好まれていることはしっていた。

それで帰国してみたら、すでにブームは去ってはいたが、すっかり定着していたともいえた。

生まれて初めて焼酎を口にしたのは、社会人になってからで、それまでは専らウイスキーだった。
ただし、エジプトでは高級なブランデーばかりを飲んでいて、おそらく一生分を腹に収めたのだろう。

いまは、断然ブランデーとは縁遠くなっている。

初めての焼酎は、『下町のナポレオン』を自称した「いいちこ」だった。
なんでこんな名前をつけたのか?といぶかったが、驚くほどうまかったのが、ファースト・インプレッションである。

もちろん、ブランデーと比べたのではないが、焼酎=臭い、がなかったのだ。

当時は、「コスパ」なる言葉がなくて、「安くて美味い」といっていた。
そうやって、いつの間にか、ボトルキープの対象がウイスキーから焼酎になったのである。
ただし、「乙類に限る」。

日本での酒類は、完全に「酒税法」に支配されているために、焼酎の「甲類」「乙類」も、酒税法によっている。

順番が、酒の品質ではなくて、課税方法が優先される本末転倒が当たり前の、倒錯した世界で酒をたしなんでいるわけである。

そんなわけで、国産ウイスキーが足りない、という異変があっても、「税」はドカンと腰を降ろして動じない。

おかげで、「本場」のスコッチウイスキーが、妙に安くなっている。
円安なのに、だ。

わたしは、ハイランド系の「ピリッと辛い」ウイスキーよりも、ローランド系の「まったり甘い」ウイスキーが好みである。
とはいえ、嗜好品なので、たまにはガツンとくるハイランド系もやりたくなる。

こうした点では、国産ウイスキーは、みなおとなしい味付けになっている。

野蛮に進化した白人の体格と、繊細に進化した日本人の体格はぜんぜんちがうので、彼らの「生で煽る」飲み方に日本人はついていけず、さらに、安心の軟水が豊富ある自然環境の妙から、日本人は、「水割り」や「ハイボール」を好む。

40度のウイスキーを、水で薄めて、概ね日本酒とおなじアルコール度数にすると、なんだかうまく感じるのは、民族としてのアルコール許容度数が決まっているからだという。

高級なウイスキーを水で薄めてしまうのはもったいないのに、「薄めにね」なんていう紳士がいると、興ざめしてしまうのである。
でも、高級でないウイスキーは、なかなか生で煽る飲み方はできない。
まるでエタノールを煽っている気がするのである。

このところの国産ウイスキーの品薄は、アジアへの輸出が絶好調だかららしい。
別のいい方をすれば、日本人は買い負けているのである。

しかして、ガソリン税と同様に、酒税を課税した価格に消費税がかかる、二重課税問題が残るのである。

外国で日本国産ウイスキーはいくらなのだろうか?

政治音痴が攻撃する恐怖

テレビを観ないので、タレントさんのこととかに詳しいわけではないけれど、ネット界隈でもバズった話題になっているので気がついた。

なんでも、アンミカというひとが出演した、カップ麺のCMが炎上して、出演者への大批判になっているらしい。
そうしたら、韓国からの密入国者ではないかという話にもなっている。

わたしは、このタレントさんがどんな芸能活動をしてきていて、どんなキャラクターなのかもしらないので、これから変なことを書くかもしれないが、それが変に思えることが変ではないか?とも思う。

なぜなら、アンミカというひとのことを直接話題にしないからである。

先ずは、大炎上したというCMだ。

おとななら、CMに登場したタレントさんを批判しないで、これを製作したひとたちを批判しないとおかしいだろう。
演出や台本を書いたのは誰か?

当然ながら、カップ麺メーカーが発注した「作品」なのだから、企画段階からカップ麺メーカーの担当者が同意したうえで放映しているはずでもある。

いいもわるいも、出演するタレントさんには権限はなく、台本通り、意図通りにどうやって自分の演技を完成させるのか?ということでしか仕事ができない。
ひらたくいえば、タレントとは、「お人形さん」なのである。

そうした意味で、このCMは、意図通りの大成功だったと評価できるのではないか?

それで、どういうわけか、コンビニからスーパーまで、対象のカップ麺が箱で山積みされて、大安売りになっているけど、これも最初から企画・意図されたものではないのか?と疑うのである。

CMづくりとは、心理戦を消費者に仕掛けるものだ。

だから、先ず炎上させて、目立ったところに大量の商品をあたかも投げ売りのごとく安売りとして仕掛ければ、それはもう、売れるに決まっている。

しかも、ラーメン系ではない、うどん・蕎麦系の『どん兵衛』なのである。

お正月を目前にして、最大手、日清がやらかした仕掛けである。
そうやっておいて、次は、「CM打ち切り」という話題にまで発展させたが、これもまた最初から企画・意図されていなかったか?と疑う。

ダラダラと年越し放映なんかしないで、暮れの「年越し蕎麦(うどん、もね)」需要のピークに短期決戦を仕込んだとかんがえるのである。

たまたまスーパーのレジで前に並んでいた御仁は、カゴふたつ分の「どん兵衛」を購入していた。
そんなに食べたら、身体に毒だろう、と思ったが、購入者の自由ではある。

わが国が、あたかも自由国家であるように見せかけているのは、利権だらけの政治がそうさせている「現象」にすぎない。
それは、「ぐみん」の歌の歌詞を噛みしめて味わえばよくわかることだ。

国民の健康と、食品の安全を司る役所は、分断していて、厚労省と農水省ということになっている。

あくまでも、業界の支配が役所設置の目的なのであって、本当の国民の健康とか、食品の安全を確保する気は、最初からない。

さらに、「密入国」という話になったら、法務省・入管ということになるけれど、これをアメリカの民主党・バイデン政権ようにあからさまではなくて、もっとずる賢いやり方でゆるゆるにしているのが、自公政権なのである。

その中の期待の星、河野太郎がいう、「新しい日本人」を、見事な実務能力でシラッとどんどん受け入れているのが、岸田政権なのだ。

この半世紀あまりのわが国の政権で、かくも実績を上げている政権はない。

ただし、まったく日本国民のため、とは乖離していることの恐ろしさがあるのに、だれもこれを言わないのも、しっかりつるんでいるからだろう。

そんなわけで、わが家の年越しは、八割蕎麦と決まっていて、カップ麺で済ますということは、夢にもかんがえていないのだった。

「ぐみん」で『打つわ』

A.I.による自動化が、人知を超えて暴走することがある。

ふつうなら、BANされるのではないかと思えるような、「危険」をすり抜けて、どうしてか「お薦め」で登場するのである。

それとも、牧師という職業における布教活動だとして推薦されるのか?

なんであれかんであれ、HEVENESE(天国民)がまじめにパロって演奏している、テーマの「ぐみん」による『打つわ』がユーチューブに登場した。

ただし、天才的な替え歌作詞家はほかにもいて、もう1年も前にアップしていたことにようやく気がついた。
これはこれで、上の「ぐみん」のおかげでもある。

オリジナルが大ヒットすると、たいがいその替え歌も大ヒットした。
まさに、「表・裏」をなしている。

替え歌の歌詞にはかならず「毒」があって、いいにくい世相やらを皮肉っているのも共通なのである。

わたしのお気に入りは、アラブ圏に石油プラントなどを建設にやって来た日本人の悲哀を歌った、『ホルムズ海峡・砂景色』という名曲だ。
もちろん、石川さゆりのこぶしがきいたあの曲、『津軽海峡・冬景色』(1977年、作詞:阿久悠、作曲:三木たかし)がオリジナルである。

成田発の夜行便を 降りたときから
アブダビ空港は砂の中
西へ帰る人の群れは 誰も無口で
風鳴りだけをきいている
私もひとり 連絡バスに乗り
眠たそうなラクダ見つめ
泣いていました。
ああ ホルムズ海峡砂景色

ごらんあれがオマーン岬 南のはずれと
見知らぬアラブ指をさす
砂でくもる窓のガラス ふいて見たけど 
はるかにかすみ見えません
さよならあなた 私は帰れません 
砂の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ ホルムズ海峡砂景色

さよならあなた 私は帰れません
砂の音が胸をゆする
泣けとばかりに
ああ ホルムズ海峡砂景色

これを宴会の最後に必ず泣きながら歌っていた。
まさに、当事者たちにとっては笑えない、望郷の歌、だったのである。

しかして、砂漠ばかりで無価値と評価されていた、アブダビやドバイが大発展して、いまでは世界のセレブたちが「息抜き」ばかりかビジネス談義に花を咲かせる場所になっている。

もはやニューヨークでも東京でもない。

この半世紀もない時間でのことだから、『ホルムズ海峡・砂景色』を泣きながら歌っていたひとたちの努力の成果となっているのである。

それに比べて、「ぐみん」の歌の哀しさは、ほんとうに笑えない。

演奏しているHEVENESEは、和楽器もふんだんにあるバンドだが、なにせ本業が牧師なので、プロテスタント(キリスト教原理派でもある)なのである。

カソリックが批判されたのは、その通りのヤバさがあったからではあるが、対するカルヴァン派の過激かつ厳格度がはんぱなくて、脱落者を責め立てたのもずいぶんなことだった。

そんなことから、マックス・ヴェーバーがいう、資本主義の精神が生まれたとは、わたしには思えないし、そもそも資本主義なるものはこの世に存在するのか?という疑問すらある。

中世以来、儲かればよい、だけの世界ではないのか。

これを、「ぐみん」が皮肉っていると、とりあえず解釈することにしたい。

イスラエルの国家的危機

化学の授業で、分子を習うとき、たとえば「アボガドロ定数」とかは、「モル濃度」を勉強するとかならず登場することでしられている。

水の分子一個一個に、例えば、赤い色素でわかるようにしておいた、200mLのコップ一杯を海に流して、人間の力ではできっこない撹拌力で、全世界の深海までまんべんなくかき混ぜたら、ふたたびそのコップで海水をすくい取ると、だいたい赤い水分子は200個入っている計算になる、とむかし教わった。

「200」が単位を変えて登場するので、ちょっとややこしいから覚えている。

イスラエルとハマスの戦闘が、ガザの町を破壊して、えらいことになっていることを、いろいろ説明しているひとがいるけれど、あんがいと意見はハッキリ分かれている。

テレビによくでている有名大学の有名教授とかと、無名な研究者という構図にもなっている。

もちろん、テレビは逆神なので、テレビがないわが家では、すぐさま無名な研究者の方が、おそらく正しいだろう、ということぐらいはわかる。

そうしたら、なんとわが国の超エリート大学教授(なんと「博士号」がない)が、外務省から億単位の補助金をもらって、外務省のプロパガンダをするためのグループを形成していることも発覚した。

外務省の予算をだれがどういう理由で通しているか?は、当然ながら、与党の「外交部会」である。
またまた、与党が日本をおとしめる工作をやっていて、その手先が外交官たちなのである。

そんなわけで、有名大学の有名教授たちがポリコレで、ハマスなるテロリストを応援する立場をとっていて、そうでない側が、イスラエルの側の立場をとっている。
ただし、先に手をだした側が悪い(絶対悪)、というロシア非難とは真逆の構図になっているので、念のため。

じつはイスラエルの警察当局が、ハマスがやったという最初の攻撃が、イスラエル軍による「偽旗作戦」だったと認めてしまった!ので、現地では大々的に報道されている。

どっちもどっちのような話になっているから、中東はめんどい、ということだけが日本国民の頭に刷り込まれている。
ただ、ハマスにしても、どこから大量の武器弾薬を持ち込んでいるのか?という大問題はそのままになっている。

ここにきて、似たような話で、イエメンというマイナーな国の、「フーシ派(指導者の名前がフーシ)」が、イスラエルに肩を持つ国の商船を攻撃して、わが国の日本郵船の船もヘリコプターからの攻撃で拿捕されるにいたった。

フーシ派もイランからの援助を受けているハマスとおなじで、後ろ盾はイランだということになっている。
とはいえ、アフガンにプレゼントしたし、ウクライナでも同様の横流しで、アメリカやEU製の武器が、流れているのだとかんがえるのがふつうだろう。

しかし、この一派は、サウジアラビアと犬猿の仲で、そのサウジはイランと一応の国交は回復している。
ここでも「但し」がつくのは、国交回復といっても、大使館の開設というレベルでもいうから、友好関係になった、とは一概にはいえないので注意がいる。

あたかも、有名大学の有名教授たちが、サウジアラビアとイランとが「なかよし」のようにいうのも、ぜんぜん感心しない。

むしろ、どうしてフーシ派が「親ハマス・反イスラエル」なのか?の方が、よほど唐突なのだが、イランが背景にあるという一点でつながっている。

とはいえ、スエズ運河のそのまた入口を事実上の通せんぼをして、アジアとヨーロッパは、喜望峰周りになって、ヨーロッパや日本の輸送コストが膨らんでいるけれど、最大の被害者はスエズ運河頼みの、エジプトである。

もちろん、我々もこの輸送コストを負担している。

19日、アメリカが主導した、対フーシ派有志連合軍(宣戦布告した)に、なぜかエジプトが参加していない。
参加国はアメリカを含めた10カ国、英国、バーレーン、カナダ、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェー、セーシェル、スペインなのだ。

ついでに、日本も中国も外されている。

さてそれで、イスラエルの驚くべき実態は、ユダヤ人国家であるはずのイスラエルで、すでにユダヤ人の人口比率が、47%しかないことだ。

出生率で圧倒する、アラブ系が、とうとう過半となった。

どうやら、ネタニヤフ政権は、アラブ系住民の国内一掃を狙っての「仕掛け」をしたのではないか?と疑われているが、肝心の反ネタニヤフ政権の側のユダヤ人国民たちが、国外脱出を図る事態にもなっている。

もはや、イスラエル=ユダヤ人国家ではない。

イスラエルからユダヤ人分子が薄まっている。

このことの焦りが、かえってユダヤ人の人口を減らす効果をもたらす皮肉となって、もしや、アラブ人政権の国家になったら、国名変更をするかもしれない。

けだし、国内外のシオニストたちが、徹底抗戦をするのか?が問題なのだ。
ために、有名大学の有名教授たちは、アラブ応援団をかってでることになって、世界のユダヤ資本と本気でケンカをするのだろうか?

そうなると、外務省からおカネがもらえなくなるだろうに。

イスラエル国旗の上下にある青い帯を、ユダヤ教高僧のタリート(祈祷用肩掛け)を表すなどというのは、有名大学の有名教授たちで、もう一つの説に、ナイル川とユーフラテス川(約束の地)だ、がある。

あらためて、ハンナ・アーレントのユダヤ同胞から総スカンをくらった一冊、『エルサレムのアイヒマン』でも、年末休暇に読んではいかがか?

彼女が指摘した、「悪の陳腐さ」を嗤えないのは、わが国における悪の陳腐さを嗤えないからである。

たとえイスラエルという国が滅亡しても、世界一歴史の長い日本が滅亡しないということにならない。

むしろ、日本人の、日本はあって当たり前という思い込みこそが、もっとも危険なのである。

国家を失うとはどういうことなのかを、ユダヤ人からちゃんと習わないといけない。

空しさのクリスマスソング

一言で、「商魂」といってしまえばそれまでだが、世界でもっともキリスト教が普及していないわが国で、世界でもっとも派手なクリスマス飾りをみることができる場所になっているはずだといえるのは、カソリックのフランス人が驚く様子がSNSにあるからである。

アメリカはアイオワ州(保守的としてしられる)の、州議会議事堂ロビーに毎年飾られるクリスマス・ツリーなどに、「悪魔崇拝」の象徴としての、ヤギの頭(サタン)を祀る飾りを持ち込んだグループがいて、気づいた退役軍人などの別のグループが怒って、斧などで破壊し撤去したことが話題になっている。

本物の悪魔崇拝をしているひとは、全米に1万人ほどいるらしいが、アイオワ州ではどれほどの少数派なのかは推して知るべしだけど、もしやサヨクの「ポリコレ」がやった、アンチの活動が「悪魔飾り」をやったのかもしれない。

共産主義者が宗教を否定するのは、共産主義が悪魔崇拝の宗教だからである。

このニュースで不思議なのは、誰がどうやって運び込んで悪魔を飾り付けることができたのか?について、議事堂警備当局の動きがみえないからである。
それに、撤去したひとたちが斧を議事堂にどうやって持ち込めたのか?もわからない。

20年1月6日の、連邦議事堂を襲った「暴徒たち」という名目で、数千人のひとたちが逮捕されて、いまだに拘置されている。
裁判が進まないから、という理由であるが、あえていえば捜査情報をださない検察(バイデン政府)の、あからさまなる人権侵害である。

しかしながら、共和党が多数になった連邦下院の判断で、当日の議事堂監視カメラ映像が公開されるや、唖然としたのは、どこにも「暴徒」はみあたらず、あたかも警備当局者によって案内される、見学ツアーのような様子なのである。

これを、当時の民主党ペロシ議長は、「極秘」扱いとして非公開にしていたのであるから、現代の「魔女」だといえる。

さらに、「暴徒」といわれるひとたちの中には、必ず「官憲の内通者」の映像があって、どうなっているのか?の議会の追及に、おどろくほど回答していないのも事実なのである。
都合が悪い、官憲の幹部たちが阻止しているとしかかんがえられない。

これが、DS(ディープステート)が尻尾を出した証拠となっている。

もちろん、こうした人物たちは、アメリカの高級官僚(SES)のメンバーである。
日本の官僚制を真似てなお強力に進化させた。
高給取り(初任給が20万ドル)で、ほんとうの「終身」雇用の権利をもつのである。
だから、日本のように自主退官での天下りはあっても、定年退官はない。

なお、EUも同様に日本の官僚制を真似て、こちらは政府そのものから民主主義を排除した。
EUは、「EU委員会」なる官僚独裁制を採用し、「EU議会」は、ガス抜きだけの機能としたのである。

そんなわけで、日本は、世界を官僚(独裁)制に導いた、悪魔的な国家なのである。

一般に、日本も民主主義を標榜しているので、世界からは、「日本人が」という主語になって語られるのも当然なのである。

でも、日本人の多くは、そんなことはなく、自分は「官僚制」なんて関係ない、とおもうだろう。

つまり、日本人は、民主主義の怖さをしらないで支配されているのである。
それでいて、政治家たちをバカだとおもっているから、始末が悪いのだ。

個人として都合がいい部分(おいしいところ)は、主権在民で、そうでないところには知らんぷりする。
しかし、これら全体を覆い尽くすのが民主政治というものだから、部分的なご都合ではいかないのである。

けれども、自分に都合よく、気分が良ければ深く考えるのは面倒くさいからしない。

こんな少年のような国民性は、マッカーサーがいった「12歳の子供」から、ぜんぜん進化も成長もしていない気持ち悪さだけがある。

それゆえに、クリスマスにはクリスマスソングを町や建物内に流すのは、当然でしょ、になって、通行人や客側が嫌でも耳にさせられている。

アメリカ人たちの中の、差別主義者たちが、差別をやめろ!とポリコレを大声で叫びだしてやめないのをうるさがって、キリスト教の押しつけは他宗教のひとへの差別になるとこんどは思いこまされたら、町からクリスマスの飾り付けが質素になりだした。

それに、洗煉された都会派(民主党に脳を毒されたひとたち)、中でも「ニューヨーカー」とかは、もはや、「メリークリスマス」ということさえはばかることになって、「ハッピーホリデー」に言い換えていい気になっている。

まもなく、日本でもこれが伝染するから、そうなると、信者が誰もいないのに、よくも毎年クリスマスソングを飽きもせずに流していたものだ、になるはずなのである。

それを強制的に聞かされてきた一般人は、なにもいわずに「ハッピーホリデー」っていわないといけないのよ!、とまたまたなにもかんがえずに洗脳されるのである。

ただし、ケーキとか、チキンを売りまくっている業界や、おもちゃ屋などは、あきらめずにどんな作戦をとるのか?が楽しみなのである。

まずは、メリークリスマス。

裁判所の武器化

本日(日本時間23日)の速報で、トランプ氏を貶めたいバイデン政権の連邦特別検察官が、連邦高等裁をすっ飛ばして連邦最高裁に訴えていたのは、「大統領免責特権」を1月6日事件では適用しない、ということの確認(つまり有罪にできる可能性の確認)をしたが、あっさりと却下した判決がでて、そっち方面は、最高裁批判に熱心らしい。

ただし、反対意見書もないので、全裁判官一致だった模様である。

アメリカでは、コロラド州の最高裁判所が、トランプ氏の名前を投票用紙に印刷してはならない、という判決をだして騒ぎになっている。

ただし、これは「予備選挙」の投票用紙のことである。

コロラド州の共和党は、行政がやる「予備選挙」にたとえ名前がなくとも、党内予備選挙をやるから安心しなさいと声明をだした。

日本人にはややこしい話である。

ちなみにコロラド州は、近年すっかり「ブルーステート(民主党の州)」になっているので、7人の最高裁判事もみんな民主党知事が指名したひとである。

それでも4対3のギリギリ判決だった。
反トランプの急先鋒でしられた、筆頭判事(州最高裁長官)すら、反対票を投じ、まともな反対意見書を書いている。

判決の根拠となる、反乱を起こした人物は立候補資格がない、という連邦憲法の規定に、そんな事実はない、というまともな指摘である。

じっさいに、1月6日は、トランプ氏はまだ現職の大統領だったのである。
誰に対して反乱を起こしたのか?という問題が隠されている。

そんなコロラド州なので、共和党トランプ陣営からしたら、捨て駒的な州なのであるけれど、世論調査をしたら、共和党トランプ氏への支持が圧倒的という状態になっているので、余計に強行判決をだしたらしい。

しかし、これが全米世論に火をつけてしまった。

「トランプが~」立候補できない、ではなくて、有権者の選択肢を裁判所が狭めた、という理由である。
正々堂々とした選挙で、バッサリ落選させればいいのだ、というバリバリの民主党支持者がいう反論が話題になっている。

つまるところ、民主党が割れている。

けれども、共和党も腰が定まらないところがあって、最後とはいいながら、支持率一ケタ代の候補者たちだけの形式的な討論会を開いている。
とうとうトランプ氏は、共和党の大統領候補者討論会に一回も参加しなかった。

いまの党内世論調査で、6割越の圧倒的支持があるからだ。

とうとうデサンティス・フロリダ州知事の支持率が、ニッキー・ヘイリー元国連大使に抜かれて、おそらく春までもたいない(候補者争いから離脱する)と噂されている。
この(トランプ氏への)恩を仇で返した人物の化けの皮が剥がれたのは、なんだか人間の哀しい性をみるようである。

受かるはずのない州知事選に、トランプ氏の全面バックアップを受けて当選したからだ。

共和党をおとしめる、民主党の広報を無意味にも日本でやっているマスコミは、ヘイリー氏を推しているが、インド系の実業家候補者、ビベック・ラマスワミ氏(37)が、白けた討論会でひとり気を吐いて、徹底的なヘイリー氏批判を展開し、ヘイリー氏当人もとうとう反論できない無様を披露することとなったのは、「事件」だった。

彼は、「ヘイリー=腐敗政治家」というプラカードを掲げて、国連大使退任時の100万ドルはあった彼女の借金が、ボーイング社(戦争屋)の取締役に迎えられるやいなや、あっという間に「富豪」の一員になった経緯を聴衆に説明したのである。

日本航空が、ボーイング一択だったのを、エアバス導入としたのは「まとも」な選択に見えるけど、実際のところはどうなのか?
飛行機の免許は、機種ごとだから、さぞや運転手さんたちは訓練に励まないといけないし、この莫大な訓練費用も乗客が負担するのである。

もしや第二次トランプ政権が発足したら、ラマスワミ氏が日本大使(実質的な「日本総督」)になって東京に乗り込んでくるやもしれぬ。

民主党のポチたる、自民党と外務省を、徹底的に破壊するであろうから、期待が高まるのである。

日本国民にどこまでみせるかは予想できないが、最高裁だって無傷で済むとは限らない。

わが国の司法の武器化は、目立つ最高裁判事ではなくて、事務方のトップを構成する裁判所事務官たち(事務総局)がつくるDSがあるからだ。

ちゃんと読まないといけない、選挙公報に「ふろく」でついてくる、最高裁判所判事の国民審査における、各判事の所見には、なんと新任だと「まだ判決に関わっていない」として、平気で空欄があり、「趣味は犬の散歩」とかとふざけたことが堂々と印刷されている。

国民は、犬の散歩が良いか悪いかを審査させられることになるのだけど、こうした記事を書かせているのが、事務総局にちがいないのである。

それでもって、国家行政に対する裁判で、原告に有利な判決をだそうものなら、たちまちにして降格人事をやるのも、事務総局が最高裁以外の裁判官の人事権を握っているからである。

なので、まともな裁判官は、定年退官直前にまともな判決をだすという、へんな慣例ができている。
ただし、退官後に弁護士になるのだから、後輩たちにいじめられるのを覚悟しないといけないというリスクがある。

どうして反日のTBSとかが、『大岡越前』やら『遠山の金さん』をやっていたのか?がわかるのは、国民に、ちゃんとしたお裁きがあるのだと信じ込ませるためであった。

医師としてはまことに残念至極な森鴎外だが、わたしはこのひとの文学作品は、夏目漱石よりも好感している。
その中の、『最後の一句』は、現代日本人が抱くべき、司法の武器化に対する警告なのである。

そんなわけで、共和党トランプ派が勝利することは、日本における既得権者の皆様には、まことに都合が悪い(国民には都合がいい)ことなのだとわかるのであった。