プーチンの嘆き演説

先月27日、アメリカ諜報機関の広報誌として有名な、「ウォールストリートジャーナル紙」が、2月に刑務所でロシア反体制活動家ナワリヌイ氏が亡くなったことについて、ロシア政府の関与はないと判断していることを伝えたと、「ロイター」も同日に配信している。

もちろん、そうはいっても、バイデン政権がプーチン氏の関与を否定した、ということではないから、諜報機関も政府の一部なので、アメリカ政府内で見解が一致しないという事態になっていることを、世界に知らしめた意味での「ニュース」である。

こないだ、「日本保守党」を、「第二自民党」だと書いたが、共同代表で設立者の百田尚樹氏が、「ウクライナ支援すべし」と相変わらずの論陣を張っていることに、強烈な違和感をもっている。

ウクライナの若者が、戦場で亡くなるだけでなく、一般国民も多大なる被害者になるものをどうしてやめないのか?
なお、現ウクライナ政府は、元ウクライナの東部4州(すでにロシアに併合された)への無差別攻撃を実施している。

とっくに戦況は、ウクライナの半分を「緩衝地帯」とするためのロシア軍の配置ができているし、下手をすると、隣国のモルドバにも戦禍が及びそうな気配で、そうならないような慎重さでロシアは意識的に行動しているとしか見えない。

また、ポーランドは、西部ウクライナを再併合すべく、涎を流している。

そんななか、先月30日「X(旧ツイッター)」に、プーチン氏の嘆きの演説動画がアップされて話題になっている。

西側を支配するもの(これを架空というひとがまだいるらしい)に向けた、政策変更を促すメッセージである。
その政策とは、人口を意識的に「減らす」さまざまな方策のことである。

プーチン氏は、これ以上罪のない人々の生存を奪うことは、神に対してだけでなく、自分に対しても怒りの反抗を決意させると、強く警告しているのである。

ちなみに、プーチン氏がいう「神」とは、ロシア正教でいう神のことで、本来ならば、ユダヤ教、イスラム教ともおなじはずだが、ローマカソリックやプロテスタントは、ちがう神を信じているようである。

フランスのマクロンが、ウクライナにフランス軍を出兵させることも辞さじと発言して、他のEU首脳から総スカンをくらったけれど、これは、アフリカにおけるフランスの植民地がことごとく「親ロシア」になって、あの「ワグネル」がすでに駐屯しているからなのである。

フランスは原子力発電大国で、ドイツへの電力輸出でしられるけれど、燃料となるアフリカ産ウランの入手が、今後は困難になりそうなのである。

プーチンは、エネルギー資源戦争で、西側にワンサイドゲームを仕掛けて成功してしまったのである。
不本意ながら、IMFも、ロシア経済の絶好調を認めざるを得ないまでになっている。

さてそれで、プーチン氏が呼びかけた「相手」とは、「世界経済フォーラム:ダボス会議」であり、その上位団体の「ビルダーバーグ倶楽部」に相違ない。

こないだ、世界経済フォーラム創設者である、クラウス・シュワブ氏の健康状態悪化が噂になったが、残念ながら、どんなに栄華を極めたひとでも、最期は「畳一畳」の面積しか必要なくなり、彼らのいう通り「物故」するだけなのだ。

古来、日本人は、この「理(ことわ)り」を、「無常」として受け入れていた。

たとえば河野太郎氏の強引さとは、時間がなくなったシュワブ氏から、「急げ!」との焦りの命令が出ているための、従順な犬のような態度ではないのか?

そんな西側の指導者を、プーチン氏は最も忌み嫌うのであるから、もはや時間切れとなれば、一蓮托生の廃棄物と化すことが確定している。

残念ながら、モーゼに逆らって滅ぼされた愚民のごとくに、多くの日本人が滅ぶ側に陥っているのである。

連休中に、まだやっている「TSUTAYA」にいって、古いDVDの『十戒』でも観れば、何が何だかの少しでも理解が進むだろうに。
無益に過ごした連休も、昨日で終わり、5月呆けの日常がまたはじまった。

残り1日のパブリックコメント募集

こないだ書いた政府の、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画」(案)に対する意見募集(パブリック・コメント)について、の締切りのことである。

開始されたのが、4月24日で、締切りが5月7日18時となっている。

ちょっと細かいが、ページ下の、「意見募集要領(提出先を含む)の全部を確認しました。」にあるチェックボックスに「レ」を入れてもはじかれることがあるのは、このページにある「意見募集要領(提出先を含む)」の中の、意見公募要領(PDF)と、その下段、意見提出様式(XLS)を開かないでいるからとなっている。

こういう仕組みだという説明が略されているところに、なにかを販売したい一般業者のHPとはことなる、今どきらしくない不親切さがあるけれど、製作した役人の発想からしたら、「意見公募要領」をクリックせずに(読まないで)意見を述べようとするとはもってのほかだという、江戸時代の「目安箱」とソックリな上から目線の精神がそのまま残っているのである。

この意味で、たいへんわかりやすいページ構成になっている。

さてそれで、以上のファイルを開ければ、晴れてコメントは書けるのだが、日本の優秀な役人のお仕事を、こんなファイルの開封だけで済ますのはずいぶん失礼にあたるかもしれない。
なにせ、肝心なのは、「命令などの案」にある、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)PDFと、「関連資料、その他」にある、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)の概要1PDF、と同2PDFという、「本丸、二の丸、三の丸」があるからだ。

とくに本丸にあたる、「行動計画(案)は、なんと223ページもある「大作」なのである。
まさに、近年最高峰の「官庁文学」作品となっている。

与党の「憲法草案」には、現憲法の柱の一つだと習った、基本的人権の「削除」がある。

なので、今回の「行動計画(案)」は、憲法が与党案通りに国民投票も通過した後に、「なんら問題なし」とされるものだから順番がちがうし、さらに、与党草案には、現憲法の第99条も無視されて、「国民全員がこの憲法をまもる義務がある」と、おそろしくトンチンカンなことが書いてある。

第99条は、「 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」なのである。

よって、一般国民は憲法をまもる義務の対象ではないけれど、これは「憲法」の意義からしたら当然で、民主国家の憲法とは、国民から政府への命令書だからである。
だから、公務から離れた(私人となった)大臣や公務員も、一般国民となるので、そのときはまもる義務から解放されるばかりか、憲法の番人となるのである。

あたかも、裁判官だけが憲法の番人ではなく、国民からの付託を受けて裁判官の業務を担っているだけだし、国会議員も同様であるから「代議士」というのである。

そんなわけで、わたしのパブリックコメント「応募作品」を以下に示す。

ゴールデンウィークは、たいがいの国民は、「国民の祝日に関する法律」によって、基本的には「休暇を取る」ことが立法措置されているから、ちゃんと休みを取らないといけないのである。

すると、平日は、4月24日(水)、25日(木)、26日(金)、だが、27日(土)、28日(日)は「週末」となって、ことしのカレンダーだと、おおくの国民は27日からゴールデンウィークの「前半」に突入する。

4月30日(火)、5月1日(水)、2日(木)は平日で、3日からは「後半」となるのである。
そして、7日(火)が、休み明けの平常出勤初日となる。

つまり、このパブリックコメント募集期間で、平日は、都合7日しかない。

それで、223ページの「行動計画(案)」を読破し、なお、二の丸と三の丸にあたる補助資料に目を通して、さらに、「6000字」まで書ける記入フォームに自由作文をして提出せよというのは、そもそも、国民の祝日に関する法律を無視した嫌がらせにもみえるのである。

これを、粛々として遂行する「行政事務」というのなら、重要情報が開示されていないことに気づく。
それが、223ページを書き上げるに要した、時間数なのである。

あんたらが、専門部隊で研究し数ヶ月を要したと推測できるものを、一般国民には、たったの数日で読み込んでコメントせよ、とは、ずいぶんな高圧的態度ではないか?
それで、アリバイはとれた、として、次の段階に進めるとは、これまたずいぶんな高圧的態度なのである。

お上なら「お上」、ご公儀なら「ご公儀」らしく、民のことをいくらかなりとも慮るのであれば、このような江戸幕府でも遠慮するようなことは、そもそもやってはならないし、無論「日本国憲法」にも違反しないか?

さらに、こないだの国会で判明した、本件周辺の「政府広報」にまつわる、インフルエンサーへの有償でのコンテンツ作成依頼の事実や、また、地上波を含めた既存メディアへの、本件募集の開始からその意義までも「報じさせない」努力がされているのではないかと疑いたくなるほどに、ほとんど放送にも活字にもなっていないのは、どうしたことか?

放送局や活字メディアの「編集方針」として、政府は一切関与していないといえる証拠はどこにあるのか?
すくなくとも、「予算」に計上されているのは、24億円あるのだから、その明細を国民に知らしめるべきを拒否しているのが政府である。

広報予算が国家機密になる不思議。
諜報活動や内閣官房機密費、あるいは各省庁の機密費をぜんぶ開示せよといっているのではない。

かくも基本的な一般会計予算の開示もしない政府が、「保健衛生」をたてにして国民監視のための方策を画策し、なお、強制力を伴うようにすることを「閣議決定」という行政権だけで済ますようなことを許したら、だれが今後、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン等を糾弾できようか?

むしろ、ハンナ・アーレントが指摘した、『エルサレムのアイヒマン』でいう「悪の陳腐さ」の通り、わが国官僚組織に、アイヒマンのごとき陳腐な輩が跋扈しているのではないか?それを、政権与党が煽るから、国会に報告の義務さえも必要なしとした制度設計がなされているとすれば、まさに戦前・戦中の比ではない暗黒社会がわが国に実現する。

これが近衛文麿の、「革新官僚」の理想郷なのか?

以上、反対のコメントを述べる次第である。

絶望の政府依存=少子化対策

2024年、こどもの日に寄せて。

人口動態から、市町村レベルでの「消滅予想」が、道府県レベルに問題波及して、わが神奈川県の黒岩知事は、先月30日の定例会見で、「危機感を市町村と共有し」とかと、選挙公約からずっと同じことをいっている。

なにもこんな愚劣な神奈川県知事を擁護するつもりは毛頭ないが、政府による少子化対策のはじまりは、1994年の「エンゼルプラン」もって嚆矢とする、と内閣有が書いている。

ちなみに、この年の内閣は、細川護熙、羽田孜、村山富市とめまぐるしくも、わが国の「左傾化」が顕著になった記念すべき年だった。

とはいえ、内閣がかわったからすぐさま指示がでて、これに事務方が即応するなんてことは、できそうでできないものだ。
「エンゼルプラン」がいつから練られていたていたのかは、よくわからない。

内閣府は、1990年のいわゆる「1.57ショック」で、とトリガーとなった理由を告白しているので、海部俊樹、宮沢喜一、そして細川護熙という順になる。

最新の2023年6月発表の人口動態統計で、特殊出生率は、1.26で過去最低となり、「エンゼルプラン」の有効性について大いに疑問があるところだが、政府からしたらもっと酷いことになるにちがいない、と弁明するしかないが、これを信じるか信じないかは国民次第なのである。

ところで、政府がもっている「手段」とは、下記の三つしかない。

・法律の制定・改定
・予算(カネ付け)
・予算がついたら、このカネの「効率的(=専門的:排他的)」運用をさせるための機構(組織:たいがいが特殊法人やNPO)の新設・支援(カネと人材としての役人出向)

自衛隊も道路公団もなにもかもが、この土台の上にたつ構築物にすぎない。

ちゃんとした民間企業がやることに、「事前の評価基準の設定」がある。
これを、「民間の知恵」といいたがる阿呆が「専門家」という「ゴロつき」たちで、結局は、予算(カネ)欲しさの強欲な者たちをさす。

つまり、「民間の知恵」が役人にないことを、専門家(これを「審議会」という)が役人にいわされている。
もちろん、役人はそんな基準を設定しないで放置する「方便」のための批判を甘んじて受け入れているようにみせて、なにもしないのである。

これを、役人用語で「前広に検討する」という。

ゆえに、上述のような、プランがなかったらもっと酷いことになる、と「なんとなく」いえるようにして、国民(国会議員)をごまかすのだ。

しかし、上手の手から水が漏れるように、数字だけをみれば、「1.57ショック」がえらくマイルドに見えるのが、「1.26」という政府が自分から発表している数字なので、累積で兆円単位をつかった予算(カネ)ばかりか、立法的にも失敗していると評価するのがふつうなのである。

これは、ハイエクのいう「新自由主義」(グローバル全体主義がいう悪の「新自由主義」ではない)からすれば、「悪手」の典型的な事例なのだと気がつけば、なんのことはないのである。

まず、第一に、政府が個人の生活に直接介入することの「愚」は、『アンネの日記』でわかるだろう。
この例は、ユダヤ人だから、という理由「だけ」で、隠し部屋の生活を余儀なくされ、とうとう発見されて強制収容所へ送られ、その後劣悪な環境で病死する。

だれもが涙するこの話の類似発展形が、政府の個人生活への介入を許すとどうなるか?であって、そのために民主国家の国民が政府に命じたことになっている、「憲法」があるのである。

もちろん、初期の「エンゼルプラン」から、少子化対策なのに、女性の社会進出という名目で、「女性も会社で定年まで働くよう」に促したのだ。
それまでの日本人女性は、短大を出て、就職しても数年で結婚退社し、「主婦」になるのがふつうだったのだ。

家事労働について、GDPの算出根拠にしていない欺瞞が、家事労働を「無価値」とかんがえる阿呆なエリート官僚たちの、先生のいう通りしかない絶対的なGDP信仰と産業優先思想であって、「よかれ」としてとうとうソ連(スターリン)的家庭の破壊政策をやったのである。

これを、ハンナ・アーレントが、『エルサレムのアイヒマン』で、小役人根性による「悪の陳腐さ」をえぐり出してみせたのである。

どうして若い世代のひとたちが子供を得ようとしないのか?
この原因をかんたんにいえば、将来不安である。

それで、政府は絶対的なGDP信仰と産業優先思想をまだ貫いているけれど、その施策はぜんぶ「ケインズ(社会主義=政府が唯一の富の分配をする)」に依存されることが世界革命となると、鋭いトロツキー派が発見したのである。

マルクスは、共産主義から演繹して社会主義を描いたが、国富の分配を政府に依存する社会主義をやると、かならず共産主義が実現する。

教育費の無償化も、子供は社会で育てる(親から分離させる)のも、みな『共産党宣言』に明記されているのに、「共産党宣言」を読ませずに学生を洗脳するから、質が悪いのである。

もう、一旦廃れた「優生思想」が、欧米の富豪の間で復活していて、自分の「優秀な遺伝子」を残すことと、他人(ヨーロッパ的「平民=百姓」)の「根絶やし」をすることが同時に実施されている。

トロツキー派に乗っ取られたアメリカ民主党の命令で、おそらく、日本政府も役人がひそかに準備をすすめている(管轄は「内閣府」だろう)にちがいないと疑うのである。

どんなにかGDPを信仰し、必死に産業優先策をやればやるほど、どんどん社会主義の不効率の「沼」にはまって、とうとうインドにもGDPで抜かれることになった。

日本人(未成年でも)は、いまいちど冷静にハイエクの主張を傾聴するべきときがきているのである。

こどもの日が泣いている。

訃報 フジコ・ヘミング

2日、先月21日に亡くなっていたことが報じられた。
享年、92歳。

まずはご冥福をお祈りする。

ちょうど、わが家でも思い出したようにフジコさんのピアノが聴きたくなって、あれこれと聴いては感心していたのだから、勝手に、「虫の知らせ」ではないかとおもっている。

フジコさんをしるほぼ全員が、1999年2月11日放送の、NHK「ETV特集 フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』の衝撃からのファンだとおもう。

わが家のテレビは、まだ「トリニトロン」であった。

夜のひととき、なにかおもしろい番組はないのか?と探したが、「困ったときの教育テレビ」という当時のノリで、チャンネルを「3」にしたら、上の番組がピッタリはじまった直後であったことを覚えている。

なんだ?という、はじめは風変わりなお婆さんの姿が、いったい何を描きたいのか?というわけわからん映像を観続ける不思議な感覚があったけど、いざピアノに向き合ったときの「音」には、おもわず家内と顔を見合わせた。

こりゃすごい!

テレビでこうした感覚になったのは、わたしの人生ではあと一回、やはりNHK教育テレビでの、年末恒例の「N響 第九演奏会」である。
それも、指揮者の大野和士が振った2002年の放送だ。

すでに滅多にテレビを観ない生活になり始めていたが、「そういえば今日は第九の放送がある」と思いだしてテレビをつけたのである。
だから、録画をしようなんてことは毛頭なかったのが、今となっては残念で、当時すら、途中で「しまった!」と思ったほどだった。

しかも、テレビのスピーカー音声だけで、わかる「すごさ」は、生で聴いたらどんなものか鳥肌ものにちがいない。

さて「フジコの番組」は、NHK教育テレビ史上初となる再再放送があって、ホームビデオで録画を果たしたが、経年劣化が激しくて、とうとうDVDを購入した。

彼女の母校、東京芸大の「奏楽堂」におけるリサイタルは、とうにチケット入手困難どころか不可能になって、数年前に別の演奏家の奏楽堂での公演に出向いて、「ここだったのか!」と感慨を深くしたものだった。

それで、東京国際フォーラムの大ホールと、横浜みなとみらいホールでの演奏会の2回、まだ彼女が70代の前半だった「若き頃」に拝聴して大満足だったのである。

お箱の『ラ・カンパネッラ』については、さいきん、東京芸大出身の若い後輩が、この曲の「フジコ節」になる演奏テクニックの解明をYouTubeでやっていて、ここ、というフレーズの再現を試みるが、「難しくてここだけ練習した」ほどに、フジコのさりげない演奏の高度さを見せてくれている。

早く弾くのがテクニックではなく、演奏者としての感性を自分の感覚通り表現できることがテクニックなのだという解説に、大きく同意する。

それが、フジコという人の孤独な人生と、あたかも「ハンガリー王国」という、当時はオーストリア帝国に内包された国の複雑性が、作曲者リストの感性と親和性があるのだろう。

ために、「リストを弾くために生まれた」と、ヨーロッパで若き彼女は絶賛されたのであろう。

はたしてフジコとは何者だったのか?

そして、彼女を見放した日本なのに、まさかNHKが復活のきっかけになろうとは。
あたかも、尋常小学校3年生のときに出て、大騒ぎになった、NHK(ラジオ)がそうであったように。

90歳を越えての演奏は、人並みに衰えたとはいえ、そこはフジコであって他の追随を許すものではない。

ぶっ壊れそうなカンパネッラ、このひとの繊細な感覚が奏でる音が証明する、「機械じゃあるまいし」と共に、A.I.時代とビジュアル優先に公然と反旗を掲げた芸術家の言葉も永遠の真理として後世に伝わるはずだ。

わたしは、フジコのカンパネッラは、ピカソが得意とした「鳩」を思い出す。
万回単位の練習の成果という共通があるとおもうからである。

しかして、映像と音源をたっぷり残してくれたのも、ありがたいことなのである。

ホワイトハウスと首相官邸

2024年憲法記念日に。

このブログでは、岸田政権(=自公政権)が、アメリカ民主党・バイデン政権の「支店」となったと書いてきた。

岸田政権の支持率の低さも、歴代最低を記録したが、本店のバイデン政権も、史上最低だった70年代のジミー・カーター政権の記録をあっさり塗り替えて、ギャラップの調査でしっかりと史上最低を記録した。

いま99歳のカーター氏は、不名誉がちょっただけでもマイルドになった「歴代2位」という、丁度いい「冥土の土産」をもらったようなものだが、どういう順番で召されるかはだれにもわからない。

せっかくなので、バイデン=岸田の類似について忘れないように書いておく。

ちゃんと「公式発表する」という、日本人には隠したいことでも正々堂々と公表するのは、あたかも「正義」にみえるけれど、「ダマテン」を決め込んで、あとから「不透明性」を指摘される方がよほどに厄介なのが、文化性の低い白人社会ならではの慣習だったのである。

ゆえに、この発想の原点にあるのは、「傲慢」しかかんがえられない。

しかし、もちろんそうやって発表はするけれど、中身としてなにをやっているのか?を一般に伝えるわけではないから、「表紙」だけをみせて、あとは封印してしまう、「ビニ本」のようないかがわしでも平然としていられる神経が邪悪な者たちにはあるのだ。

そんなわけで、アメリカ大統領府=ホワイトハウスは、昨年4月に、「インフルエンサー室」という、プロパガンダ専門の担当官オフィスを置くと発表したのだった。
ここは、いわゆるユーチューバーやらのSNSで活躍する、有名インフルエンサーたちに協力をあおいで、当然に報酬を差し出して政府に都合のよい情報を発信させることを業務とする。

なお、通信品位法第230条で護られているはずの、プラットフォーム提供企業へは、事実上の「命令」をしていたことは、「ツイッター・ファイル」の公開でとっくに判明している。
その命令権者が、このインフルエンサー室長であることも、名指し(命令メールの発信元)されてわかっている。

先週、わが国の国会(参議院)で明らかになったのは、ワクチン接種を推奨するための宣伝をユーチューバーに有償で依頼していたのが、てっきり厚生労働省とおもわれていたが、そうではなくて、内閣広報官室だったことだ。

ここでもわが国の機構は、アメリカと似ていて、あたかも大統領府内の「インフルエンサー室」とソックリなのである。
国民はしっかりと、内閣広報官の名前を記憶しておかないといけない。

しかし国会で判明した、その額は3000万円程度で、氷山の一角にすぎないとおもわれるのは、「予算」には、「24億円」が計上されているからである。
それで予算について優先権がある、衆議院は、これに対して質問者がいても、「答弁拒否」という憲法違反がまかり通っているのが、自公政権の強権によるところだ。

岸田首相は、「改憲」を悲願として、国民投票の実施を目論んでいるけれど、とっくに「実質改憲」は行われている。
にもかかわらず、「護憲派」も強い反発を示さないところが、共産党も抱き込んで「オール与党」化した馴れ合い国会のなれの果てなのである。

学校で初の政党内閣と習った原敬内閣が、すぐさま腐り出して、とうとう全部の政党から腐敗臭が蔓延した。
それが軍人政治への転換点になった(なにも「2.26」が原因ではなく、ただのトリガーである)けど、いまは、軍人がいないので、受け皿がない、というもっと深刻な悲惨がある。

この意味で、青年将校たちが愛唱したという、『青年日本(昭和維新)の歌』の歌詞が、味わい深くも21世紀の現実の厳しさからしたら、まだ甘い、のである。

人類社会は、進化ではなく退化しているのである。

さて、ここまでも含め「カナダ人ニュース」さんによれば、2021年5月以降、トルドー政権のカナダでも同様なパターンで、「コロナ対策」として、インフルエンサーに政府がカネを渡して協力させることをやっているという。

まことに、「同盟」ということの意味が、かくも怪しい時代なのである。

ちなみに、アメリカとカナダ間には、「北米同盟」がある。
EUは、アメリカに依存はしているが、なんとか一線は越えずに踏ん張っているけれど、これはまだ、まともな国とまともな国民がいるからである。

その「まともな国」が、ほぼほぼ「旧ソ連圏」だったことに、日本人はもっと注意していい。
彼らは、自由を失うとどうなるかを体験しているからだ。
しかし、体制転換後の80年代以降に生まれた世代では、こうした危険に対する慎重さが、西側礼賛のプロパガンダで薄まっているらしい。

日本では、戦後世代に入れ替わったので、憲法の意義も意味も完全風化しているのである。

わたしは、「日本国憲法」絶対主義者ではないけれど、その憲法の骨格(第13条)を蹂躙する自公政権には、うんざりなのである。

「WALKMAN」のせいなのか?

いつ購入したのかも覚えていないが、まだ新品で販売されている、「NW-A306」という機種をぜんぜん使いこなせないので、以下に恨み節を書いておく。
なお、老人に優しくないSONYさんは、本体背面にある機種名の印字さえも小さすぎて読めない、という意地悪もしでかしてくれている。

スマホが普及してひさしいなか、「ipod」がサッサと市場から消えたが、本来、市場競争として消えるべき「WALKMAN」が残ったのは、決断ができなかったからなのか?それともipodの撤退を奇貨としたのかは、わたしのしるところではない。

しかしながら、マネジメントのセオリーとしてある、あらかじめ設定すべき「撤退条件」があれば、この条件に達してしまったときには、機械的な判断が作動して、すぐに「撤退」を発令するのが、大企業的な「経営計画」の実行というものである。

有名な例は、JT(日本たばこ)の飲料「桃の天然水」であった。

ここから推察するに、SONY社内での状況は、
イ. 撤退計画の策定がなかった
ロ. 撤退計画の作動条件が、アップルipodよりも甘かった
ハ. 撤退計画の実行に躊躇した

以上のどれかだとかんがえられ、とくに「ハ」のパターンで、ウダウダ議論している間に、ipodの撤退が分かって、「独り勝ちになる?」という希望的な意見が大勢となり、とうとう積極的な新製品投入ということになっったのではないか?と、ゲスの勘ぐりをしているのである。

アップルがipodで構築した戦略は、楽曲をダウンロードして販売する、という、およそわが国の官僚の「優秀すぎる頭脳」ではおもいもつかないもので、立ちはだかるのは「著作権」による、「不可能」の三文字であった。

技術専門の「バカ」からしたら、著作権問題を社内の文系法学部出がなんとかするはずと、専門の壁の向こうでは思っていたろうが、社内の超優秀法学部出も、優秀すぎる官僚とは同級生で、もしかしたら、大学の序列ではソニーに入社した者の方が成績では上だったかもしれないのだ。

それでも、超優秀な学生が学ぶ相手の教師は、あくまでもビジネス経験がまるでない、象牙の塔にその優秀さゆえに「院」に進学し、「法学博士号」を取得するのみならず、そのまま大学に残って研究者の道を進むだけの日常を経験してきたにすぎないのである。

よって、「著作権の絶対」は、あたかも所有権の絶対のごとく、金科玉条とするしか、その発想にないから、優秀な生徒ほど教師の言い分を鵜呑みにして、成績にも「優」がつくという次第なのだ。

それゆえに、かのスティーブ・ジョブズが、どうやってダウンロードして販売することができるのか?を、病的に追求したことが、いまでも信じられないに違いない。

そうやって、アップル社は、「メーカー(製造業)のくせして」楽曲販売事業を立ち上げたが、SONYはレコード会社や映画会社を手にする、ぜんぜんちがうビジネスモデルを追求することになったのである。

結局、アップル社は、ipodの製造はやめたが、「Apple Music」を手放す気配は毛頭なく、アマゾンの「Amazon Music」に対抗しているし、相変わらず、わが国の資本で、彼らに対抗できる事業者は存在もしていない。

それでもって、WALKMANは、なんのことはない「アンドロイド」すなわち、Googleのプラットフォームに乗っかった、電話機能のない「端末」すなわち、ipodとおなじ位置付けとなったのである。

しかし、ipodにはApple Musicがあったけど、WALKMANにはこれがない。

そのために、電話ができるアンドロイド・スマホとの差別化は、「音質」だけとなったのだけど、わたしにはものすごく遣い勝手が悪くて、正直、イライラしかでてこない。
唯一メリットを感じるのは、PCとUSBでつないだ、「DAC]による圧倒的な音質のちがいを体感する意外にこれといったメリットを感じないのである。

いったい、WALKMANがいけないのか?アンドロイドOSなのか?それとも、アプリとしての、Amazon Music Unlimitedとの相性なのか?もっといえば、自家用車での場合における、車載のオーディオ機器との接続も、エンジンを切るたびに、「接続自体も、演奏も最初から」になるのはどうするのか?

だったら、むかしCDを一枚ずつ録音した手間をかけた方が、よほどシンプルな遣い勝手であって、もう15年も使っている、「ipod mini」の方が、ケーブルの心配をのぞけばまったくストレスがない。

これを、「名機」というのである。

こんなゴミのようなWALKMANを買ってしまった自分を呪いつつ、みなさん、ほんとうに便利でつかっているなら、どうやって利用しているのでしょうか?

ゴミを他人に売りつけるのも憚れて、「USB DAC」だけしか使いようがないと、もはやあきらめているのである。

「永遠なるもの」とはなにか?

宇宙がいつどうやって生まれたのか?について、鉄板だとかんがえられてきた「ビッグバン」が、ほんとうに起きたのか?という、いまさらタブーなはずの疑問が、いきなりハッブル宇宙望遠鏡から代替わりした、ジェイムズ・ウエッブ宇宙望遠鏡で撮影された一枚の写真から大騒ぎになった。

膨張する宇宙の逆をたどれば、極小の一点にたどり着く、という説の大前提になる「膨張」が疑われる写真が撮れてしまったからである。

それでもって、ループする宇宙とかナンとかと「新設」なのか?「珍説」なのか?素人にはわからない議論が巻き起こって、なんのこっちゃ状態になっているのである。

とにかく、宇宙をあつかう学問で用いる「単位」が、大きすぎるので、人間の生活時間の感覚とは一致しない。
もしも、人間の寿命が大幅に伸びて、たとえ100年となっても、宇宙の単位からしたら、一瞬どころの瞬間にもならないだろう。

たとえ5000年の歴史を誇っても、宇宙時間からしたら、やっぱり一瞬にすぎない。

その一方で、物質の最小形が、「素粒子」だということがわかって、こちらは逆に、おそろしく極小の世界にある。
物質は、原子レベルだとえらく「スカスカ」なのも、人間の生活からはかけ離れている。

それで、物質をあつかう「化学」や、「物理学」は、もう、「ダイヤモンド」やら「石炭」やらあるいは「砂糖」を見ても、ぜんぶ「炭素である」という判断をして、目に見える「もの自体」からなにかをかんがえることはとっくにしなくなったのである。

ところで、一般的にいう「恒星」は、太陽のように核融合反応をして光っているのであるが、結局は「鉄」をつくりだしてその一生を終えることになっている。

すべての生物は炭素をふくんでできあがっている(「有機物」という)ので、超新星爆発で飛び散った、鉄にいたらなかった炭素が惑星の材料になってくれないと生命は誕生しないし、なにせ「水」もないといけない。

こうやって改めてかんがえてみると、「永遠なるもの」とはなにか?とは、宇宙における「循環」をいうので、いまさらに「持続可能」とかという意味なし言葉の非科学をいわれても、なんだかわからないのである。

それでもって、今日は5月1日で、いわゆる「メーデー」という年に一度、世界の労働者の祭典の日だ。

わが国において、「主権回復の日」をどうして「国民の祝日」にしないのか?とか、戦後にあって、メーデーを祝日にしなかったのは何故か?に思いを馳せると、4月28日は前に書いた通り、わざと当時の「天皇誕生日」の前日にした嫌みがあるし、メーデーを公認したら、あたかもソ連のようなイメージになるのを嫌ったからだろう。

しかし、メーデーの主賓に、総理大臣が出席する時代になって、会場からの激しいヤジに、連合会長が遺憾の意を表するまでに時代は変わって、わが国の「国体」は、とっくにかつての社会主義国のようになっている。

かつての社会主義国とは、公式には労働者の国といいながら、ぜんぜんちがう国のことをさす。

そこで、あり得ないほどあからさまに、アメリカ民主党(という名の共産党)のいいなりの政策を、なにかに取り憑かれたように実行してやまない岸田政権のおぞましき姿に、労働組合や労働者たちはどうかんがえているのか?を問うと、ほとんど無反応になっていることに、さらなるおぞましさを感じるのである。

世界は、左右の対決というかつての図式から、グローバル全体主義と反グローバル全体主義(ナショナリズム)に分かれていて、はげしい対立構造ができている。

こないだ政府が募集をはじめた、実質的言論統制への「パブリックコメント」についても、はたして労働組合はどのような見解なのか?
「自由と民主主義」という「国是」が、溶けてなくなろうとしてしているさなかの、歴史的メーデーなのに、だ。

世界の小麦需要を支えたウクライナの穀倉地帯も、なんとすでに半分の農地が、グローバル企業に買い取られている。
アメリカでは、最大の農地保有者が、あの、ビル・ゲイツ氏となったことは、周知の事実だ。

食料の争奪戦で、貧困化するわが国はすでに「買い負け」しているのである。

あたかも、「飽食」と「食品廃棄」が同時におきて久しい国ではあるが、カロリーベースの自給率を厳密に計算すれば、1割もないのが、ほんとうのこの国の「脆弱性」なのである。

武器を買うだけが防衛ではなく、食料の自給という根本がすでにない、砂上の楼閣がわが国の飽食なのである。
それでも、豊富な食材がスーパーには永遠にあるのだと信じて疑わないのが、わが国滅亡の原因と後世の歴史家は書くにちがいない。

いまどきの賃金取得者が、どこまで自分を「労働者」だと認識しているのか?が薄まったから、労働組合の組織率はもうかつてのようなことはなくなっている。

しかし、80年代の日本でのベストセラー、『選択の自由』(原著は1962年)におけるフリードマン夫妻の議論は鋭く、消費者団体は消費者のためにあるのか?とか、労働組合は労働者のためにあるのか?を説いている。

ただし、これらの指摘は、一方では本来の目的(合理性)が組織マネジメントする者たちによって簡単に誘導されて、歪められるという意味でもあった。

もちろん、ハイエクの『隷属(隷従)への道』と双璧をなす、「新自由主義」の名著であるが、「新自由主義」という用語そのものが、都合よくグローバル全体主義者たちの巧妙な論理(欺瞞)によって、まるでコロナウィルスのごとく忌み嫌われる悪だという扱いとされている。

なお、『隷属への道』(春秋社版ハイエク全集)には、フリードマンによる「序文」がある。

個人的に、ハイエクの深淵に比べるとフリードマンの浅さが気にはなるが、こうした論を現代現役の識者が同時代として語ることもなくなっている。

そうやって、ケインズ的なるもの(実は共産主義)を、永遠なるものとして、これ以外を排除することが、すでに暗黙の了解事項になっている。

連合会長は、共産党の排除は熱心だが、共産化した自公政権には擦りよっているかに見えるのも、永遠なるものへの依存という病理なのだと、あえてメーデーの今日、指摘しておく。

分母と分子がない宣伝

「TRAIN TV」が未来だったのは、『トータル・リコール』(1990年)を製作したアメリカ人からの目線だろうが、たった12年後の2002年に、山手線で液晶ディスプレイが導入されて、映画の未来が現実化したのである。

それから22年経った今年、とうとう「放送」が始まって、本当の「TRAIN TV」に進化したらしい。

テレビと聞くと、ムダが反射的に連想されてしまうわたしには、きっとロクでもないのだろうと思って観ていたら、やっぱりロクでもないから、念のために書いておく。

「無料」だから民放と同様に基本的には車内で手持ち無沙汰になった人向けの、広告塔なので、そもそもが目と脳の毒である。
しかし、人間にも備わっている狩猟本能から、なにか動くものを見つめてしまう習性があるのだ。

これが、静止状態の「中吊り広告」や「壁面広告」と一線を画す、まさに画期となったのだ。
どうせ暇なら車窓の景色でもボンヤリ見ている方が、よほど健康によい。

ちなみに、人間の目線は、上下運動が左右の運動よりも優先するようになっている。
この意味でも、縦書きの日本語は合理的なのであるが、今どき、電車で読書をしているひとを見るのが困難になった。

これほどまでに勉強をしない民族が、かつてのGDPを維持できなくなるのは当然だ。

さてここで一例として取り上げるのは、役目を終えた路線バスを、なにか別の利用方法で「再利用する」という紹介番組である。

それが、「サウナ」というわけだ。

いま、東京の銭湯は、サウナ愛好家によって混雑している。
入浴料520円に、別途サウナ料金はだいたい400円ほどとなっている。

入浴料は、「統制料金」になっていているけど、別途にかかるサウナはどうやら「自由料金」のようである。

統制料金は、1946年(昭和21年)の「物価統制令」がまだ生きているためで、銭湯経営者は入浴料金を自由に決めることができないのである。
それで、いつものように、都道府県単位による「審議会」ができていて、知事が答申を受けて、決定することになっている。

当然だが、審議会メンバーは、専門家とか銭湯組合の代表とかという、選挙で選ばれることがない、有職故実に基づいて役人が任命することになっているのだから、実際には、役人が料金を決めていて、上司たる知事に提案決済されるようにできている。

そういえば、コロナ関連の審議会・研究会委員は、就任選定時に500万円/年を超えなければ、製薬会社からとかの寄付を受けた実績は問われない、という過去ルールが国会で明らかになったけど、行政側はこれを「問題なし」としているのは、「利益相反」としたら誰も委員になれないからだろう。

つまり、ここでも「議会」はスルーされるので、しっかりとした社会主義国家としての風情を残しているし、だんだんと地球上のふつうの国家に見られる賄賂に対する鈍感さという腐敗が我が国でも進行している証拠なのである。

なお、念のため、物価統制をやらせたのは制服者(これを、「占領軍」といったり、よりマイルドに「進駐軍」という征服された本質を隠す用語が多用されている)であるGHQの命じたところによるから、あたかも日本人が自分で決めたと思ってはいけない。

21世紀の銭湯に物価統制があるのは、いまでも占領中だということなのであるけれど、そうやって利得を得るひとたちの利益を守ることが、自民党的「保守」ということになって安定の制度化をしているのである。

神奈川県(役人のことである)の東京に対する恨みともつかぬ変な意識で、東京の銭湯よりもずっと設備で劣るくせに、料金だけは10円高く、とにかく「日本一の高額」銭湯にしているのは、警視庁に対抗してやまない神奈川県警の呪いなのか?とわたしは冗談抜きで疑っている。

もちろん、警視総監も県警本部長も、おなじ警察庁採用のキャリア国家公務員なので、彼らにはローカルな対抗意識はないのだろうが、それを無視しては「組織がもたない」という、マネジメント力の欠如から、長いもの(地方採用プロパーたち)にあえて巻かれて、「いいひと」を装っていることが、「肝要」という思想および訓練によって統括しているにすぎない。

それで、統制から外れている「サウナ」をバスの再利用対象にしたこのアイデアが妙に光るのである。

しかし、全国でいったい年に何台の路線バスが引退・廃車されていて、何台がサウナになってあちこちを移動しているのか?についての情報は一切ないし、改造にかかわるコストや運用費に対しての得られる収益との関係についても一切ない。

しかも、高温の室内温度に耐えうる窓や天井になっているのかの情報もないので、なんだか「なんちゃってサウナ」ではないかと思うのである。
もちろん、熱源はなにか?とか、水風呂はどこに用意されて、更衣室もどこにあるのか?と気になるのである。

つまるところ、制約がたくさんあるだけの与太話を、あたかも「美談」とする騙しのテクニック満載の事例なのだ。
なので、この映像を観ることで得られる効用は、「情報免疫」の鍛錬にほかならないけど、ボーッとしていると逆に洗脳される。

いくらだか聞いたら腰を抜かすにちがいない、「水素バス」(購入費はふつうのバスの5倍する1億円)が、公営交通やたっぷりとした補助金での民間運用が始まったら、バス料金がいくらになるのかとか、また地方税負担が増えるのかとかに関係なく、どんどん投資していけば、水素サウナ・バスが誕生するのだろうか?

この無意味を超えた狂気さえ感じる水素バスの運行維持費も、ふつうのバスの3倍かかっている。
とにかく、地球環境のため?になるかどうかもしらないが、生身の人間の生活が苦しくなることしかしないのを喜ぶのは、どこまでマゾヒストなのかと怖くなるのである。

それもこれも、本当は共産主義者だったケインズ(妻はロシア人で新婚旅行だけでなく複数回ソ連に行っているし、ケインズ自身はカミングアウトしてゲイであることを認めていた)の、「有効需要の創出」こそが、なんでもムダな公共投資が、最後は共産化に役立つとトロツキーは見抜いていたのである。

これが、福祉国家にも通じる、諸悪の根源だ。

けれども、ぼんやりとして画面を追えば、自分でかんがえることを放棄したひととか、かんがえると気持ち悪くなるように訓練されたひととかは、本気で素晴らしいアイデアだと思い込むにちがいない。

それでもって、利用料金が行政によって統制されていたら、もうほとんどお笑い種なのであるけれど、電車の中で吹き出したらこちらが周りから変人だと疑われるので、やっぱり観ない方が得策なのである。

政府の「国民生活の安全・安心の確保」

24日、内閣官房内閣感染症危機管理統括庁が所管する、「新型インフルエンザ等対策政府行動計画(案)」についての、パブリックコメント募集が開始された。
なお、締め切りは、5月7日18時までとなっている。

いよいよ、全体主義の実現に向けた具体策が、「政府案」として公表されたのである。

このような重大案が、ゴールデンウィーク終了と同時に締め切られるのは、阿呆な国民が遊んでいる間に、突っ走ることを画策した役人の、まじめな、しかし、恐ろしく狭い思考の結果であり、さらにこれを許す、内閣官房の堅い意思すら感じるところである。

しかも、24日から7日までのGWだということには、28日の、「主権回復の日」がしっかりと含まれていることに注意しないといけないのである。
当時、天皇誕生日の「前日」としたことに、祝意ではなく悪意を感じるのは、「独立」なんかさせるものか!というGHQの意志を感じるからである。

にもかかわらず、野党は一斉に反発してはいないのは、野党もGHQの枠内にあるからだ。

さてそれで、ニュースとしては、次の2本が降ってきた。
政府が「誤情報」常時監視 6月にも閣議決定へ 感染症対策の一環で 言論統制の恐れも
厚労省、偽情報対策の報告書2700頁超を不開示 ワクチン接種促進「世論形成」目的で3年間実施

アメリカ民主党がやっていることを、日本支店だからそのまま真似るのは想像していたが、ここまであからさまな「憲法違反」を政府がシラッとやる姿は、かつてみたことがない。

ずいぶん前に、復刻された『日本人のための憲法入門』(2006年)について書いたが、元は、小室直樹の『痛快!憲法学』(2001年)の絶版をうけてのことだった。
小室はこの本の中で、シュテファン・ツバイクの『人類の星の時間』(初版は1961年)に収録されている、「エルドラード(黄金郷)の発見」の話を紹介している。

いわゆる、サン・フランシスコの現在の市域のほとんどが、ひとりの移民・ズーター氏の所有する土地であったのに、ある日の朝に使用人が「砂金」をみつけたために、あっという間に人々によって土地を奪われたばかりか、家族も殺されてしまうのである。

もちろん、ズーター氏は官権と裁判に訴えるが、欲に目がくらんだひとたちが多数となったので無視される羽目となる。
かくして、家族を失い独りになったズーター氏は、ついに絶望のあまり発狂してしまうのである。

著者の小室は、どんなに立派な憲法をもっている国でも、人々が憲法を護る気を失えばこうなる、という事例としてこの話を挙げたのだった。

すなわち、いま、わが国で起こらんとしていることは、日本国民が選出し絶対安定多数を与えた与党の欲に目がくらんだひとたちによって、自由な国民生活が破壊されることが、憲法を蹂躙しても「合法」だという悲惨になっているのである。

もちろん、国民に対する甘言の、「安全・安心の確保」というのは、政府に都合のよい詐欺の言葉遣いであって、余計なお世話なのだ。

しかし、政府依存を当然とする国民があんがいと多数いて、「やさしい政府」に感謝するむきもいるだろう。
このひとたちは、ヒトラーのナチスや、スターリンのソ連がなにを国民にしたかをしらないか、興味もないのである。

他人事だからだし、そんな厄災が自分にやってくるとは夢にもおもっていない。

結論からいえば、無能なバカである。
しかし、このようなひとたちが投票権を持っているので、ただの迷惑どころか、まことにこれらのひとたちこそが、厄災のタネなのである。

そらに加えて、巨大な「無関心層」が存在する。

ヒトラーも、レーニン、スターリンも、じつは国民全体的な「数」のうえでは、圧倒的に小数派だったのである。
いまの自民党も、国民の少数からしか票を得ることはできていないが、絶対多数の無関心層が投票行動もしないから、圧倒的多数の議席が取れてしまうのである。

そうやって、20世紀は、一般人が政府によって殺される時代となったのだった。
これを、イタリア(ファシズム誕生)の歴史として描いた、5時間16分に及ぶベルナルド・ベルトルッチ監督の超大作、『1900年』(1976年)がある。

寝正月ならぬ、GWの過ごし方もわからないひとには、せめていまどきのレンタルビデオ店に駆け込んで、たっぷりと鑑賞するのも悪くない。

いま、100年の時を超えて、再び、いや、もっと悲惨な状況になろうとしているが、GWはなにをして遊ぼうかとしかかんがえない国民によって、政府の野望は着々と実現に向かっているのである。

簡単ではない「卒業の定義」

日本の常識は、世界の非常識といわれて久しい。

いい意味でいえば、「日本人の優秀性」という自画自賛となる。

それはたとえば、世界に冠たる「理想的官僚制」の構築に成功したからだ、ともかんがえられてきたことでもわかるし、日本国民も、超難関校(たとえば「東大」)に入学して官僚になった人物こそが、超エリートなのだと信じてきたからである。

しかし、有名なアクトン卿の言葉、「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」にあるように、わが国の官僚も、この言葉どおりに腐敗してしまった。

ただ、日本が絶好調だった70年代まで、政治家もそれなりの人物がまだいたために、官僚のコントロールをしていた、はずだったかに見えた。
それで、真似っこしたのがカーター政権のアメリカで実現した「SES」だったとは前に書いた。

ついでに、EUの「制度設計」思想も日本の官僚制を強化して採用したアメリカに倣ったもので、これらはさっさと腐敗していまがある。

逆に、わが国の官僚は、ようやくにして一般国民にも腐敗臭を晒すようになったけど、明治新政府成立時点より腐敗はとっくにはじまっていた。

小池百合子東京都知事(それ以前は、防衛大臣やら環境大臣も歴任した)の、学歴詐称問題がぶり返しでてきて、いよいよご本人には政治的に致命的な「追い込み猟」がはじまっているようだ。

決定的なのは、今月号の『文藝春秋』に発表された、元側近にして、元環境省(庁)官僚でいまは弁護士の資格をもつひとからの告発である。

背景に、小池氏の後ろ盾だった、二階氏の引退(じつは彼女は「小沢チルドレン」のひとりでもある)による、パンドラの箱が開くがごとくがあることは、素人でもわかる。

つまるところ、旧田中派の生き残った二枚看板によって、「虎の威を借る狐(タヌキではない)」の化けの皮が剥がれだしたのだともいえる。

天邪鬼なわたしなので、告発者の側のトンチンカンが気になるのは、当初、小池氏の学歴についてなにも疑わなかったことにある。

東大を三番(どうして順位がわかるのかしらないが)で卒業したという、ご本人からしたら、相手がカイロ大学だということも、東大とおなじ事務能力だと思いこんだらしい。

この程度の社会常識が、わが国のエリート官僚の世間知らずなのである。

大政治家の神通力が消えたからか?朝堂院大覚氏という「本命」が現れた。

この御仁は築地移転騒動のときに、「女将さん会」にこうした情報を提供していたというから、今回がはじめての証言ではない。
氏は、小池氏の父(勇二郎氏)の借金を肩代わりして、エジプトでの一家の生活を支えていたのだと証言し、百合子氏がカイロ大を卒業したはずがないことに切り込んだ。

日本レストラン『なにわ』にまつわる話は、わたしがしる話と合致している。
逆に、この店の名前の元になった「浪速冷凍機工業」との関係がようやくわかった。

そんなわけで、この「詐称」についての定義は、日本的感覚とはことなる部分と、「国内法」にてらした部分とに分解できる。

日本的感覚とはことなるのは、人脈(コネ)とカネでなんとでもなる世界が、あんがいと世界では「ふつう」であることが重要な基本認識だ。

たとえば、同時代で世界でもっとも腐敗していると評価されていたのが、ウクライナであって、これはいまもおなじだ。
ちなみに、ゼレンスキー氏の母語はロシア語で、このひとは、ウクライナ語を話しても、第二語学レベルでしか話せないのである。

40年程前にわたしが暮らしたカイロも、なにかといえば袖の下を、相手から要求されるのがふつうであった。
上の、朝堂院氏の発言にある「ドクター、ハーテム氏」というのは、わたしもしっている有名なエジプト政界のフィクサーで、大統領だけではない、政官民へ果てしない影響力を行使していた人物である。

そんなわけで、朝堂院氏が、ハーテム氏を通じて百合子氏を「2年生に編入」というのは、カイロ・アメリカン大学からの編入という意味だとおもわれ、1年後に全科目で落第して退学したというのは、進級試験を受けた、という意味で意外だった。

わたしは、聴講生だとばかりおもっていたからである。
聴講生は、百年学ぼうが決して卒業はできないからだ。

よって、彼女がいう、「卒業証書」やら「卒業証明書」の真偽が問われるのは当然として、重要なのが、「本物」である可能性がある、ということなのである。

すると、日本的には絶対にあり得ない事態となるのだが、彼の国の実情からしたら、「本物」を裏ルートから入手することは、いがいと容易だとおもう。
しかし、どうしてこのような「不正」がはびこるのか?と問えば、こたえはいがいと単純で、「本人の実力を評価せよ」という思想があるにちがいないのである。

たとえば、中東世界の伝統的な買い物で、定価あるいは表示価格でそのまま買う者はいない。
値切ることが重要なのではなくて、買う側が示す金銭的価値と売る側が示す価値を一致させる手間をかけるのがふつうだからである。

自分が定価通り100で買った同じモノを、横の人が50で買っているのだってふつうにある。

それで返金してくれっこないのが、店主のいう「あなたは100だと評価した」というひとことでおわるからである。
ならばもう1単位を追加で、25で売れと要求したら、店主はニヤリと笑って応じてくれてるような国なのだ。

この計算を、エジプト人の店主はちゃんと暗算でやる。
日本人が交渉ベタなのは、骨髄反射的な暗算もできないからで、儲けたつもりで損をしていることにも気づかない。

小池氏は、エジプトの価値観を利用して「本物」を手にしたかもしれないが、その実力がぜんぜんないことがバレだして、彼女を利用してきたものたちの化けの皮までもが剥がされているのである。

驚くのは、彼女が用いた最強の武器が、アラビア語ではなくてただの「女の武器」だったことの証言である。

さて、ここは日本という、特殊な事情の国だから、「法」をもってすると、「私文書偽造」が刑事罰の対象となる。

すでに、股分の千代田区長は雲隠れして、彼女にまつわる者たちの悪事が晒されだした。

もう、これは、ただの「学歴詐称」なんてものではなく、政界・民間をまたにかけた大スキャンダルになるかもしれないのだ。

浄化は、いがいなところからはじまっているけれど、半世紀も彼女を利用してきた者たちの「被害」が絶大なので、とかげの尻尾切りもはじまっているにちがいないのである。