全米一の肥満都市

テキサス州の最南端、マッカレンという町が6年連続で全米一の肥満都市と認定されているらしい。

この町のふつうの食生活を、BAPPA SHOTAさんが詳細リポートしてくれている。

日本人には異常としか見えないけれど、町民の全員がこれを「ふつう」だと認識しているらしいし、それがいかほどか健康を蝕むものなのか?という疑問すらないというのでただ驚くのである。

しかし、案内人を務めてくれた人物は、目覚めた小数派のひとりで、自身の兄弟姉妹も、糖尿病によって失明や死亡の憂き目にあっていて、本人も糖尿病であると告白している。

食の改善(食事療法)によって30㎏痩せたというが、インスリン注射などの薬物療法での経済的負担が重すぎるために、食事療法と運動療法に依存しているという。

なお、保険によって医療機関に行けば、大量の薬物を与えられるだけで、飲めば体調が却って悪くなり、別の医療機関にいっても追加で別の薬物が与えられるらしい。

テキサスはアメリカ合衆国で唯一の独立国が連邦に合併した州だ。
それでも、一度離脱して再び合併していまがある。

なので、独立の気運というものが強く、共和党の支持者が多数だと思っていた(州政府は共和党)が、民主党の邪悪な魔の手は、着々と浸透しているらしい。

げに政治とは、こちらから関わらなくとも、向こうからやってきて、個人が絶対に逃れることができないものなのである。

どんな善政でも、法律や制度をつくられて、社会に強制するのが政治だからである。

もちろん邪悪(悪魔)さは、誰にでもわかりやすいあからさまな方法をとらず、じわーっと個人の生活に浸透するように設計・計画されるという特徴がある。

それで、まさに糖尿病のように、症状のないままに潜伏し、ある限界点を超えた途端にとんでもない合併症(失明や神経症、腎臓病など多数)が本人の自覚となって、気がついたときには概ね「手遅れ」なのである。

わたしは、糖尿病を「血管破壊病」と言い換えた方がいいと想っている。

甘いジャムがそうであるように、なぜに腐敗しにくいかといえば、大量の砂糖が果実の組織内に入り込んで、極度の糖尿病状態になっているためなのである。
つまり、細胞組織が糖によって破壊されたので冷蔵庫がなかった時代の冬の保存食となるのである。

だから、生身の人間の血管細胞が、糖によってジャム化するのが超尿病なので、全身の血管が破壊される。
血管に神経がないから、これを自覚することがなく、毛細血管が集まった網膜とか腎臓がやられる症状となるのだ。

日本には学校教育における給食で、「食育」をしていると錯覚させられているけれど、もっと酷いのはこの町のように、なにも情報がない状態に置かれることである。

いまどき、情報がないのはおかしい。
ネット検索もしないのか?

と思うだろうが、なんの情報も与えられないと、アクティブ(自分からの能動的)な検索すらしなくなる。
この状態がすでに異常だが、それは為政者や食にかかわる経営者、そして医療業界によってつくられているからである。

自分たちさえ儲かれば、他人はどうなっても構わない。

すると、この町の住人たちは、「飼育されている」状態にあることがわかるのである。

しかして、低所得者ほど、病気になる。

低所得者ほど、高価なオーガニック食材は買えないし、健康保険に加入していないのは、日本とちがって公的健康保険がないからだけど、ここで日本人が「国民皆保険制度はやっぱり素晴らしい」とかんがえていいのか?も問題なのだ。

なぜなら、大不評だった手厚い公的健康保険制度の「オバマ・ケア」が、どうして大不評だったのか?をかんがえないといけないからだ。

いわゆる、福祉国家とは社会主義化・グローバル全体主義と直結することを自覚できていないのが日本人だからである。

上記の小数派のひとが、公的保険制度を求めずに、自己責任における治療を自ら課している姿に、感銘を覚えるのはこのためだ。
ゆえに彼は、絵本を製作して、食と健康についての教育を町の子供にやっているのも、素晴らしい。

世界的ハンバーガー・チェーンやらフライドチキン店が、子供をターゲットにした宣伝に注力するのは、「味の記憶操作」によって、一生涯を通じて購買させるためである。

国民を病気に追い込み、その間に儲かるひとも巻きこんで、最後はグローバル全体主義に誘導する。

まことに、おそろしいことが現実のレポートになっているのだけど、その制度が完成しているわが国の方が、よほど恐ろしいことになっているのである。

昔のように「藪医者」がいなくなったのは、健康保険点数表に従うシステムが、本当に電子化・システム化されたからで、この点数表(価格表)に外れた治療は、保険機構から医師への入金がなくなるから「ムダ」なことはできない。

こうして、藪医者も名医もいなくなったのである。

国連は持ちこたえるのか?

日独伊三国同盟を敵に回した、「連合国」が勝ち残ったので、そのまま連合国と言えばいいものを、「国際連合」と日本語で言い換えた。
当然ながら、英語表記では、「UNITED NATIONS」のままである。

日本外務省のHPをみても、基本的にポリコレのウィキペディアで「国連」と検索しても、日本語では、「第二次大戦を勃発させた反省から設立された」というプロパガンダが冒頭に書いてある。

どうして完全勝利した側が、反省などするものか。

むしろ、驕り高ぶって敗戦国へのリンチを開始したのが連合国の邪悪である。

「鬼畜米英」とは、日本国内の戦争プロパガンダではなくて、正直な国民感情であった。

邪悪にまみれた連合国からしたら、日本人の病的潔癖症ともいえる強固な道徳観こそが、潰すべき確信的かつ核心の対象だったのである。
ドイツに対しては、東西ヨーロッパ分割統治の複雑から、また別の対策をとるけれど、「国民を骨抜きにする」ことでは一致している。

つまり、「アンチ道徳」こそが、連合国の思想的中心にある。

それを、日本人にはあたかも美しい世界政府の理想にすり替えて、日本人の道徳観を利用した。
こうして、いまの日本人で国連が邪悪に満ちているというものはほとんどいなくなったのである。

ジェノサイド(虐殺)についての嫌悪感を、ナチス・ドイツに向けさせて、ポーランドにあるアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪問する日本人は多数いるが、日本人がジェノサイドの対象であったことに非難の声をあげない。

各地の空襲に東京大空襲、そして広島・長崎と続く、一般人を対象にした一連の虐殺を連合国は詫びの一言も発しない。

むしろ、邪悪な日本軍の政治的暴走がこの被害の原因だという、天才的なプロパガンダを通して、肝心の日本人を籠絡してはばからず、「敵国条項」も残存させている。

人類の敵扱いされている日本及び日本人が、なぜに国連第一主義の政策を支持するのか?の病理は、ストックホルム症候群(1973年の銀行立てこもり事件)と同様であるが、はるかに大規模な現象はわが国がずっと古い。

だから、人質が犯人に協力するという、この精神状態を、「日本症候群」と言い換えるべきなのだ。

あまりにも素直にアメリカに従うことを疑わないものだから、元来邪悪な連合国は完全に味をしめた。

それで、戦争屋たちが引き起こした世界各地での戦争の占領政策の基本が、日本でのやり方をもって成功体験のワンパターンとしたら、とんでもない現地人の抵抗で、ことごとく失敗している。

すると、日本人がぜんぜん逆らわないことが、世界各地に悲劇を巻きおこしている、ともいえるから、「敵国条項」が撤廃されないのである、とかんがえた方が合理的だ。

おそるべき自虐の構造がみえてくる。

偏差値教育の問題点は、こうした自虐の構造が教育分野にも当然ながら入り込んでいるので、かんがえる力を失った、教師や教科書にある通りを信じ込むことが、学歴エリートを創り出すので、まっ先に「学者」が汚染されることになっている。

それでまた、汚染された学者が弟子を汚染するので、時間の経過とともに際限なき汚染の連鎖で社会が覆い尽くされるようにできている。

そんな典型的人物のひとりが、ケンカ太郎の異名をもった、日本医師会のドン・武見太郎の息子にして厚生労働大臣の武見敬三元東海大学教授(国際政治学)である。
なんだか国際政治学が信用ならないのは、桝添氏しかり、三浦瑠麗氏しかりで、学問といえるのか?大疑問の似非分野におもえてくる。

日本医師会の開業医絶対優先運動が、当時の厚生省と全面戦争になったのは、まだ民主主義らしきものがあってのことだった。
しかして、武見氏の医師会が勝利したのは、大臣が先にコロコロと替わるからであった。

この意味で、武見敬三氏が厚生労働大臣に就任したのは、自公政権が完全に医師会(あらゆる業界団体)に屈服したということの象徴でもあってわかりやすい。

そんな大臣が、来年5月に開催されるWHO総会で、パンデミック条約の議決は困難でも、規約の改定はできるだろうとの見通しを言ったのは、広い意味での失言である。

世界政府の実現に向けた決定的なWHO規約改定問題は、内閣がすっ飛ぼうがやる、という意思表明である。

そんな中、邪悪でしられるUNESCOが、国際情報統制(検閲)基準を各国に求めだしている。

言論統制を地球規模で国連がやるという意味である。

こうした情勢のなかでの自民党の日本国憲法の改正案による基本的人権の蹂躙(緊急事態条項)は、政府が人民を支配するためだけでしかないが、とっくに憲法違反がはびこって、国会における大臣職の答弁拒否が日常化している末期症状がある。

国連も、それにぶら下がるわが国政権与党も、強権行使があからさまになっているのは、焦りの印でもある。

そんなタイミングで、CIAの手先、東京地検特捜部が自民党の全派閥に裏金の問題で襲いかかったのは、アメリカでなにが起きているのか?をかんがえないといけないのである。

真珠湾攻撃から82年の日に。

必修は「軍事」

大学全入を達成したのがいいことなのか?と問えば、手に職をつけさせる価値観からしたら、間に合わない、という意見も根強い。

江戸末期・明治の初めからしたら、40代だった寿命が倍の80代に伸びたので、修行時間に余裕ができて間に合わないということはなかろうとかんがえたくなるけれど、五感(味覚、臭覚、聴覚、視覚、触覚)の発達時期(10代のはじめ)に繰り返し訓練することで、身体に覚え込ませる必要性からの間に合わないだから、寿命が伸びたこととは関係ない。

むしろ、むかしのひとが成人するまでの10年で覚えたものを、20年かかってその間の収入が覚束ないとなれば、職人稼業を選択することのリスクは、大きくなってしまう。
それで、職人(その道のプロ)が足りない=人手不足、という事態にもなっている。

働かせ方として、丁稚奉公の合理性はここにあった。
むろん今どき、丁稚奉公を復活させることをいいたいのではないが、一流の職人になるなら中卒でも間に合わない、という名人級の意見を無視するのもいかがかとおもうのである。

最終工程で人間の触覚を頼りにする精密機器のメーカーが、どうしたら次世代の名人(名機ではない)をつくれるのか?に苦心しているのは、10歳の子供の手が覚える超精密な感覚を、20代になった大卒技術者がぜったいに修得できないことの事実からの悩みなのである。

女性に深刻なお肌の衰えとおなじで、人間の触覚(味覚や臭覚も同様)も、10代をピークにして退化をはじめるからである。
これは、食品工業での味覚や臭覚による官能検査員でもいえることだ。

戦後GHQによる新制学校制度が、それまでのドイツ型複線制度から、単線リニア型に強制変更させられた悪意の意図が、70年以上の時を経て顕在化して見えるようになってきた。

もう40年以上も前になる、「行政改革」(第二次臨時行政調査会:土光臨調)からずっと、なにかと「改革」をしてきた成果が、日本経済の衰退であったのだから、これもふつうにかんがえたら失敗と認識して、元に戻すような路線変更をするべきが、だれもいわない不思議がある。

とくに学校制度は、どんどん悪い方向に向かって、とうとう高等学校無償化という共産主義政策が白昼堂々と議決されるようになってきている。

前にも書いたが、マルクス、エンゲルスが書いた悪魔本、『共産党宣言』に、きっちりと教育の無償化が記載されている。

その意図とは、教育費を負担する国家(行政府)が、教育(機関と内容)を一元管理して、ひとつの価値観だけを子供に擦り込むことを目論むからである。

それで共産主義者たちは先回りして、学術界を占領した。

これが、日本学術会議という、ルイセンコ型科学アカデミーであって、会員は国家公務員扱いとなる。

ここが話題になったのは、軍事技術に関わる可能性があるとして、ある大学の科学研究を中止させたことであった。

しかし、このことよりも、菅内閣が新規会員に推薦された数名を拒否したことの方が大々的に報じられたのは、「学問の自由」をたてにした屁理屈だったからである。

全体主義者たちのお家芸ともいえる、ダブルスタンダード(二重規範)はここにもあって、学術会議メンバーになることの学問の自由と、大学での研究を中止させる学問の自由が共存することだ。

これに、教えない、話題にしない、言論封鎖する、という学問の自由が加わる。

その典型が、軍事である。

平和国家だから、わが国の生徒や学生(将来の日本人)には、軍事を教えてはならないと決めるのも、学問の自由をいってはばかるどころか強く主張するひとたちの言動なのである。

しかし、クラウゼヴィッツを読めばすぐさまわかる、「外交の延長に戦争がある」こととは、戦争とは外交のひとつの結末なのであるし、停戦するにも外交がひつようなのである。

にもかかわらず、全体主義者たちは、なにがなんでも外交努力で戦争を回避せよという。
あたかも、クラウゼヴィッツをしらないかのようだが、そんはずはないわざとである。
そうやって、敵の手に落ちることを望んでいるからである。

これを、売国奴という。

軍事を学ぶことは、歴史や戦略を学ぶことと同義だ。
これを日本人の若者に教えないと決めるのは、歴史や戦略を学ぶな、ということである。

日本経済衰退の原因がみえてくる。

学問の自由を主張するひとたちが主張して矛盾を一切感じないのは、やっぱりバカだからか?

Twitter買収の「拡散」と「暴動」

あのTwitter社が、あのイーロン・マスク氏によって買収されることが決まった。

既存役員たちがもっと抵抗するかと思ったら、なんだかあっさりとあきらめたことに不信感を持ってしまう。
「出来レース」を疑うからである。

いま、世界情勢に詳しいひとほど、これを「プロレス」と呼んでいる。
ひとつは、「検閲」されて、発言ごと「削除される」ことの「防止」としての「隠語的比喩」だ。
しかし、ほんとうに「事前にシナリオ」がある「プロレス」と、構造が同じだからそう言うのである。

では、これらの「事件」を、事前に計画して実行している、「主催者」は誰なのか?
もちろん、世界的プロレス組織「ではない」けれど、もっと巨大で強権的なトップ集団がいる。
それが、「陰謀論」でお馴染みの、「国際金融資本家たち」なのである。

興味深いことは、このブログでも何度か書いた、「世界経済フォーラム:ダボス会議」や、コロナのことなら、「イベント201」という組織体が、積極的に「公表している」のに、「陰謀論」と決めつけるひとたちがいることだ。
もはや「陰謀論」ではなくて、もっと「あっけらかん」として、主催者たちは「顔出し」して「陰謀」を語っているのに。

これは、「脳科学的」には、自分の思い込みが否定されたときの、「自己防衛反応」だと解説できる。

「陰謀」をまじめに語るのは、「学者」として学会から相手にされなくなる、という社会的恐怖も、自己防衛の中に含まれる。
つまり、「保身」だといえるのであるけれど、それが「一定社会の掟」として、歴然として存在すれば、多くのひとが「保身」を選ぶから、大上段に語っても意味はないのである。

それで、「陰謀」が公表されて、とっくにただの「シナリオ」になっているものを、「陰謀論」として扱うことで、結果的に一般人をミスリードする。
これが一般人をして、専門家への不信となって、ついにはそんな「専門家の意見」ばかりを伝えるメディアも、信用をなくすことになった。
ならば、こうしたメディアの「動機」は何か?
それこそが、「ポリティカルコレクト」(ポリコレ)なのである。

メディアは、メディアの役割をかなぐり捨てて、「活動家になった」のである。

では、どうしていまなのか?
世界革命の千載一遇のチャンス到来、と判断したからに相違ない。
それが、既存メディアにとっては、自己否定にもなる、「ソーシャルメディア」の創始者たちが、「ここ一番」での「活動家」としての顔と牙を剥き出しにしたからだ。
このことだって、ダボス会議はちゃんと「グレートリセット」(世界政府樹立の革命)をすると、「発表」している。

さて、ソーシャルメディア創成期における、「保護」と「育成」をもって、情報産業における覇権を狙ってできたのが、「通信品位法」である。

しかして、まったく不可思議なのは、この法律は、アメリカ合衆国の法であるにもかかわらず、世界中で「適用」されてしまっている。
つまり、アメリカ合衆国の「国内法」が、世界基準になっているのだ。

ゆえに、我が国においても、プラットフォーム企業が勝手に策定する「規約」だけで、もっとも重要な国民の権利であるはずの、「言論の自由」が制限されても、国家はこれを取り締まることを放棄している。
それが、行政権の問題ではなくて、立法府の国会でも議論されないことが、あたかも「常識」にまでなってしまったかのようだ。

そこで、現代の大富豪のひとり、イーロン・マスク氏が自己資金にて「買収」するに至ったので、もしや「氏」が、「言論の自由の回復」をさせるなら、それは、国家権力の上を「個人」が保証する、という「革命」に他ならない。
もちろん、Twitter社が「どうするのか?」は、氏の心根に依存することになったのである。

これは、言論の自由という「普遍的価値」の、富を持つ「個人への拡散」を意味する、歴史的事件なのだ。

さて一方で、マクロン氏が「再選」されたという、フランスでは、早速に暴動が起きている。
これを一切伝えない我が国の既存メディアを見るだけでは、国民は「鎖国状態」に置かれているのと等しい事態にもなっている。

しかして、「予想通り」、グローバリズムの代表選手たるマクロン氏を、全力で支えたのは、世界経済フォーラムを中心にしたひとたちに相違ない。
しかも、開票速報での、「マクロン・ジャンプ」なる、どこかで見たような「票操作」が出現したのは、やっぱり「偶然」でも「陰謀論」でもなくて、しっかり「公表した」ということだ。

フランス大統領選挙の後、というタイミングでのTwitter社買収だって、全体スケジュール調整の結果とも見えなくはない。

世界は、「右」と「左」の対決を装って、「ナショナリズム」と「グローバリズム」の戦いになっている。
この戦いは、「国民主権」と「国民支配」の戦いでもあるから、「国」を越える。

何がなんだかわからない世の中だから、いろいろと考え事が増えるのである。

観光は「産業連鎖」の頂点

「食物連鎖」の頂点に君臨する、のは百獣の王「ライオン(肉食動物)」だと習う。

むかし、テレビで散々やっていた「大自然もの」(もちろん今でもやっているらしいけど)は、各社が独自製作のものと外国から買ってくるものと、いろいろあった。
その中で、重要なフレーズが、「人間が食物連鎖を壊している」だった。
悪いのはぜんぶ「人間」だから、これが嵩じて「機械に人間が殺される」というS Fがたくさんできた。
それでか知らないけれど、ウィルスを利用して人間の虐殺を実行する人間が出てきたのは、ただの「金持ち」ではなくて、「良心」だということになったのである。

まぁ、とりあえずこないだ書いた、英国の弁護士が、首相以下をI C C(国際刑事裁判所)に提訴して、受理された件がそれである。

今回の話は、昨日書いた「観光立国はあり得ない」ことの補足だ。
それが、「産業連鎖」の頂点に君臨するのは「観光業=人的サービス業」である、ということだ。

ライオンをはじめとする、肉食動物「しか」いない状態になったら、野生の動物界は成り立たない。
これと同じで、すべての産業からの恩恵を受ける、「観光業=人的サービス業」だけでは、産業界が成り立たないのである。
だから、結論をはじめに言えば、重要なのは「産業の裾野」だと言いたいのである。

これは、「六次産業」という概念を意味する。
「産業分類」のことである。
食糧や食料に深く関するのは、第一次産業たる「農林水産業」である。
文明の利器を生産しているのは、第二次産業の「鉱工業」だ。

「鉱工業」に「鉱」の字があるのは、材料を「鉱山」とかの「資源」に求めるからである。
また、その「資源」を採取するにも、「工業力」の賜物である機器がないといけない。

我が国は、明治のむかしから資源がない国とされてきたけど、たとえば、世界最大だった「佐渡金山」を江戸時代だけで掘り尽くしてしまった。
それに、「国際海洋法」ができて、「領海」と「排他的経済水域」を足せば、極東の小国どころか、世界6位の面積となるのである。
もっと言えば、メルカトル図法の「歪み」を修正するソフトを用いて、たとえばヨーロッパ大陸に日本地図を移動させたら、実は我が国の「巨大さ」、逆に言えばヨーロッパ(旧大陸)の「狭さ」が確認できるというものだ。

つまり、「小さい」「狭い」国土だという思い込みを、子供のときから刷り込まれている。
これは、一種の「危機感」を煽って、「努力せよ」というポジティブな発想ならまだ良いけれど、卑下するようなことになったら現実逃避になってしまう。

小さくて狭い、という思い込みが、海洋資源を放置して、本来の国際取り決めである、「資源管理義務」まで放ったらかしにしているのである。
それで、思い出したように「南鳥島の水没阻止」とか、外国船による勝手な資源採取を問題にする。
前提となる常識が、ズレているから、そのときそのときの「都度、都度」になるのは、「法治」の概念からしたら異常なのである。

そんなわけで、一次産業と二次産業は、分かりやすい「分類」となっている。
逆に、第三次産業が分かりにくいのは、第一次産業と第二次産業「以外」という、荒っぽい分類だから、第三次産業「自体」のせいではない。
どうしてこうなったかは簡単で、今でこそ「三次産業」と言われる「産業」が、産業分類を作るときに「産業」とは言えないレベルだったから、「その他」になっただけである。

ところが、今や「先進国」の産業構造は、就労者の6割、産出価値の「7割」を、第三次産業が担っている。
それで、もっとも効率よく稼いでいる「金融」と「I T」を除いて、「人的サービス産業」と再分類している。
そして我が国では、国際比較でのその生産性の低さ、が問題視されているのである。

一次産業+二次産業+三次産業=六次産業 これを「掛け算」にしてもいい。どちらにしても、「全産業に君臨する」という意味は、「六次産業」ということでもわかる。

しかし、よくよく考えれば、食物連鎖の頂点に君臨する肉食動物の生産性は「高い」のか?
草食動物の数を適正化させる、という意味での「生産性」という意味だ。
基本的に「大自然」というときの「自然」は「放置」の意味だから、人間の価値観である「生産性」はあてはまらないけど、「かわいそう」だからと言って草食動物しかいないのも、「自然破壊」になるだろう。

すると、ライオンのような観光産業を持ち上げるのは、「百獣の王」と同じで、「産業の王」といえばそれでいい、としか意味はない。
けだし、ライオン自身がそんなことを「思考する」能力を持ち合わせてはいないだろうけど。

結果的に、「票が欲しい」というだけになるのは、就業者がたくさんいるからだ。
観光業を「補助金漬け」にするのは、公的「買収」だといえるし、業界ごと網掛けされた「奴隷化」ともいえる。

これが、「観光立国」の正体なのである。

豚コレラのトンチンカン

犯人探しがはじまっている。
どうやら、衛生に優秀な「養豚県」の主張そのものが「犯人」と決めつけられそうな勢いである。
いったいどういうことかなのか?

問題のはじまりは、「ワクチン接種」の賛否である。
豚コレラ自体は、昨年9月、26年ぶりに発生したから、ちょうど一年が経過した。
そこで、ようやく農水省がワクチン接種をはじめることになった。

なんだ、例によって「決められなかったのか?」という単純なはなしではない「背景」がある。
それは、国際ルールにおける『清浄国認定』を維持するかしないかということと直結していることだ。

『清浄国認定』は、豚肉の輸出において必要な条件になっている。
つまり、輸出先の消費者への「安心」のために必須なのだ。
日本の豚肉を輸出する、ということにおける国際競争上でのスタートラインともいえる。

すなわち、ワクチン接種とは、清浄国認定の「返上」を意味する行為なので、スタートラインにすら立てなくなることを意味するのだ。

じっさい、前回26年前の豚コレラ発生から、『清浄国認定』を得るのに10年かかっている。
逆算すれば、16年間しか維持できなかった、ということであるが、輸出にかけた肉質の品質管理への努力もすっ飛ぶことになる。

わが国の豚コレラとの闘いは、1888年(明治21年)から、27年前の1992年(平成4年)までの104年間もあったから、16年間しか維持できなかった、という言葉の意味は重いのだ。

現在の清浄国は以下のとおり。
アイスランド、アイルランド、イタリア(サルジニア島を除く)、英国(グレート・ブリテン及び北アイルランドに限る)、オーストリア、オランダ、サンマリノ、スイス、スウェーデン、スペイン、スロベニア、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、フィンランド、フランス、ポルトガル、アメリカ(アメリカ大陸部分、 ハワイ諸島、グアム島に限る)、カナダ、コスタリカ、チリ、パナマ、ブラジル(サンタ・カタリーナ州に限る)、メキシコ、オーストラリア、北マリアナ諸島、ニュー ・カレドニア、ニュージーランド、バヌアツ。

なお、近年の大問題、アフリカ豚コレラ発生によって清浄国から非清浄国に転落したのは以下のとおり。
チェコ、ハンガリー、ベルギー、ポーランド。

つまり、今回のワクチン接種によって、わが国はアフリカ豚コレラ発生ではない、豚コレラ発生ということでの非清浄国への転落となるのが注目される。

じっさい、豚コレラについては「地域限定」という条件付けがあるから、衛生先進県である鹿児島県や宮崎県は、なんとか『清浄国』として残れないものかとおもう。
これらの県のワクチン接種反対が、いまでは「犯人」となっているのだ。

しかして、その衛生管理への並々ならぬ努力が水泡に帰すということが、「犯人」だとするひとたちにどれだけあるのか?
まさに、グレシャムの法則『悪貨は良貨を駆逐する』ではないのか?

すると、どこかで見聞きした「事例」が思い出された。
大手自動車会社の検査不正である。

三十年ものあいだ、自社で「不正」がおこなわれていたことすら気づかなかったという不始末は、いったいなんだったのか?
しかも、検査義務は国内販売向けだけで、輸出向けには必要ない制度だから、輸出相手国からのクレームもない。

企業は糾弾されたが、監理者の国土交通省はこれ見よがしの上から目線を演じ、批判から逃れたではないか。
三十年ものあいだ、不正を「指摘しなかった」監督官庁はなにをしていたのか?は、いまも放置されている。

なんだか、構図が似ている。
突出した努力をした県(地域)が、あたかも悪者になるのは、不正義である。
全国一律というのは「幻想」にすぎない。

豚コレラの発生には三つの要因があって、一つは人的な衛生管理。もう一つは野生動物(イノシシ)からの感染。それに、外国から持ち込まれる食品等にふくまれる「ウィルス汚染」である。
人間が食べても発症しないから、安易な持ち込みを排除することは困難だ。

だから、現場における「防疫」が、最終防衛ラインでありながら、もっとも重要な要素になる。

くわえて、東欧の国々が非清浄国に転落した「アフリカ豚コレラ」は、ワクチンさえ存在しない脅威である。
すでに韓国まで発生していて、わが国への「上陸」が危ぶまれている。
中国では、大量の殺処分のため豚肉価格が暴騰しているという。

東京オリンピックでの食事提供に、多大なる影響も懸念される。
清浄国の豚肉を輸入する必要の可能性もあるからだ。

冷静な要因分析による徹底的な対策をうつことが喫緊の課題なのだが、政府に依存してできるのか?
もはや他人ごとではない。

トーマス・クック倒産の危機管理

現存する世界最古の、といえばなにかの遺跡のようだが、日本ではかつて「トラベラーズ・チェック」でお世話になった、イギリスの旅行会社トーマス・クックが今週23日に破産した。
創業178年の老舗の倒産をBBCニュースの記事から再考してみる。

イギリス政府とイギリス民間航空局は、「マッターホルン作戦」と名付けた、日本人には「痛い」作戦名でイギリス人観光客の帰国作戦を開始した。
また、倒産前日の22日から、旅客機を「回送」させていることも注目される。

この作戦でチャーターした航空機は45機で、15万人以上の旅行客を無事帰国させるというが、ツアー客にとってはできるだけオリジナルの旅行日程を終えてから帰国できるようになっているのは、トーマス・クックのパッケージツアーは、航空旅行信託基金をつかって、現地のホテルなどへの支払が保証されているからである。

もちろん、イギリス民間航空局は、海外の当該各ホテルに、「保証されている」ことを「連絡している」ので、ホテルとのあいだでの混乱はないという。

はたして、わが国でこういうことが起きたらどうなるのか?
マスコミが混乱をあおるのは容易に想像できるが、例によって「想定外」などという他人ごとを持ちだして、あわただしく「対応する」ことになるのだろうとかんがえられる。

さらに、この「倒産劇」のはなしはつづく。
国内9000人、海外13000人のあわせて22000人の雇用に影響することは必至であるから、野党の労働党や労働組合は同社支援を政府に働きかけている。

しかし、ドミニク・ラーブ、イギリス外相は22日に、「よほどの国家利益が伴わない限り、企業が破綻したからといって政府が当然のように支援するというものではない」と話した。

じっさい、トーマス・クック社は政府に2億5000万ドルの資金援助を要請したが、それだけの資金を注入しても同社は数週間しかもたないと判断したというから、ずいぶん前から「検討」されていたようだ。

同社は今年の8月に、最大株主である中国の民間(国営でない)投資会社複星国際(フォースン・グループ)から9億ポンドを獲得していたので、この時期の前から「危なかった」のだろう。

そんなわけで、ボリス・ジョンソン首相は旅行先で立ち往生するイギリス市民を支援する方針を打ち出したが、同時に「こういう問題をなんとかする意志」が同社重役陣にはなかったのか疑問視した、という。

しごく当然のはなしが混じっているから分解しよう。
要は、外国旅行中に立ち往生しないよう国民を救出することと、会社の経営責任は別だということだし、経営陣の倒産したらどうなるかの想像力の欠如が無責任だと批判しているのである。

つまり、国がやることとやらないことの区別が、最初からついている。
わが国だと、一斉に国がやること「だけ」になってしまうから、資本主義の祖国、大英帝国の面目躍如ということだ。

逆にいえば、わが国政府の立ち位置は、より支配的なのであって、「政府がすべての業界を支配している」という前提に立てば、ぜんぶ政府のせいになるのは「当然」なのである。

もちろん、日本政府はそんな「支配」ができるはずもないのだが、ならば日常的な役所からの指導という「支配」はどうなのか?となる。
いざとなると役に立たないが、ふだんは威張っているのが日本政府の伝統なのだ。

それにしても、用意周到な「作戦」である。
こうしたことができるのが、アングロ・サクソンの特徴だ。
「論理によってものごとを区別できる」ということのメリットがある。
国民にこうした発想方法の素養があるから、政府もできるのである。

さて、わが国最大の旅行会社といえばJTBである。
この会社の「赤字体質」について、あまり議論されることがないけれど、かなり深刻なのだ。
最大企業にして「これ」だから、その他大手も、さらに中小となればより深刻なのはだれにでも想像がつく。

そこで、イギリスの新聞、インディペンデントの旅行業界担当者は「21世紀に対応する用意ができていなかった」とトーマス・クックを評価した。

これは、なにもトーマス・クックだけのことではないし、旅行業界だけのことでもない。
なにをかくそう、新聞社だっておなじである。

世界でおなじ危機がやってきているのだ。
これが「グローバル」ということであって、地球上で文明生活をおくるのなら、もはやだれも逃れようがないことになった。

明日は我が身。

トーマスクック倒産からの教訓は、危機管理、なのであった。

心理サスペンスをオペラで

今シーズンのメトロポリタンオペラ・ライブビューイングでの楽しみに、「新作」があることだ。
それも現代劇で、しかも、ヒッチコック監督が映画化した「マーニー」なのだ。

よくしる作品の「新演出」も興味深いが、「新作・初演」はこれからの歴史を一層かんじることができる。
当然だが作曲家も演出家も生きている。

主演のメゾソプラノ、イザベル・レナードは、美貌と美声、それに舞踏出身というキャリアがくわわって、演技もすばらしいをこえて「凄み」すらある。
こころに傷をもつ、おそろしいまでの美人が、連続窃盗犯で、しかも、その現場を目撃した人物から脅迫され結婚する。

登場人物たちがだれも真実をかたらない、ものすごく異常な設定の物語なのだが、嘘のなかから真実があらわれる。

演出も物語の中断とならないように、流れるような「場」をつくる。
歌舞伎の「黒衣」と「後見」をかねるひとたちが、タキシード姿で存在しているのにおどろいた。
主人公は歌舞伎の「狐」に対抗する早変わりで変装すること15回。
「七変化」の倍以上をやってのけるのは、みごとな研究成果である。

二幕の狐狩りのシーンでは、彼らが「馬」になって駈け抜ける表現を、まるでモーリス・ベジャールの舞踏のように表現したのは圧巻である。
壁を飛び越えるのに失敗した馬と、それにまたがる主人公が宙を舞って落馬する表現は、まさに「歌舞伎」そのもののスローモーションであった。

なんというダイナミックな表現なのだろう。
これは本家の歌舞伎でも逆輸入すべきではないか?
しかも、演じているのは、オペラ歌手、なのである。

ふと、このシリーズを多忙とはいえ、配給元とおなじ松竹に所属する歌舞伎役者たちが観ていないとしたら、これはとんだお粗末であるとおもってしまった。
現代の歌舞伎役者には、時代のアバンギャルドとして、おおいに「かぶいて」ほしいのだ。

主人公の母親役を演じた、当代一の「カルメン」役デニース・グレイヴスへの幕間インタビューでは、彼女が卒業した芸術高校に、このライブビューイングを鑑賞できる施設が完成したとあった。

「若いときに、世界トップレベルの芸術を観るのはとても大切なこと」、と彼女はあっさりいったが、そんな高校は日本のどこにあるのだろうか?
芸術大学にも、ないのではないか?

箱物としての視聴覚室があっても、上映することがなければ宝の持ち腐れであるから、彼女がいう完成した施設とは、箱物のことではない。
生徒たちが鑑賞できるようになったことが重要なのだ。

METをささえる財団からの援助ではなく、卒業生たちや地域からの寄付があるにちがいない。
すくなくても、国家予算や地方予算に依存などしていないはずだ。

ちゃんとした学校には寄付があつまって、成績がかわらないなら寄付がおおい家の子を優先的に入学させても、文句をいわれる筋合いはない。
日本の平等主義はこれを否定するが、「機会の平等」と「結果の平等」とをとりちがえ、結果の平等を重視するから停滞するのである。

どのみち学歴ではなく、芸術は才能と実力の世界なのだ。
世界の舞台芸術は、オーディション漬けになるのが常識で、どの芸術大学を卒業したか?は審査の主たる対象ではない。
端役でも観ているひとは評価をちゃんとするから、キャリアを積めるようになっている。

若いがすでに有名な英国人作曲家のミューリー氏は、少年時代は国教会の音楽活動にふかくかかわった経験があるといっていた。
これも、何気ないインタビューでの一言だったが、なるほど、終盤、主人公の母の葬儀の場面で、その言葉の意味がわかった。

キリスト教的なら、どこでもなんでもおなじ、と日本人はスルーしてしまいそうだが、英国国教会のスタイルを音楽にもとりいれて、当地を舞台とする物語に齟齬がないようになっている。
このあたりは、ほんとうに「呼吸」したことがなければ、なかなか読み取れない。
インタビューにも、観客に理解をうながす仕掛けがある。

今シーズンは、イザベル・レナードが主演する作品がもう一本ある。
『カルメル会修道女の対話』という「史実」の物語である。
予告編では修道女になったイザベル・レナードの美貌が光るが、どうやらこちらも複雑で理不尽なフランス革命末期のはなしのようだ。

「カルメル会」とはどんな派なのか?や、フランス革命のながれをしらないと理解が難しそうだから、またいろんなことを知りえるだろう。
「史実」だから、従来の娯楽としてのオペラにはない迫力も期待できる。

かつて、2011年のシーズンで、ゲーテの『ファウスト』(第一部)をオペラ化したグノーの作品を観た。
超有名なソプラノ歌手が、演出内容をきらって降りてしまったため、代役としてマリーナ・ポプラフスカヤが演じ、絶賛された。

ファウストによって妊娠し、生まれた子をみずから始末するマルグリートの狂気を、恐ろしいまでに表現したのがわすれられない。
「眼がイッていた」のだ。
これは、劇場の座席からどう見えたのだろうか?

ライブビューイングという映画だからこその「アップ」で、狂気にかられる人物を目の当たりにできた。
歌いながらの、狂気である。

だが、エンディングでの爆発的拍手がわすれられない。
劇場の観客には、狂気のオーラが観えたのだろう。
これで、彼女はこの作品の「第一人者」に認定された。

世の中にはすごいひとたちがいるものだと、感心するしかない。
どういった教育と訓練とを受け、それをこなしてきたのか?
その感心のために、また劇場に足をはこぶのである。

「一年の計」だけでよいか?

2019年の年頭にあたって

経営理念から経営ビジョン、事業コンセプト、経営戦略、経営計画と、上位概念からだんだんと地上におりてくるような構造を、わたしは「経営の背骨」とよんでいる。
経営計画には3年ほどの中期計画から、年度や半期の「予算」があるから、さいごは日常業務にたどりつく。

この順番を日常業務からはじめれば、経営理念の実現には、日常業務がちゃんとできないと砂上の楼閣になることがわかる。
つまり、一直線でつながっているといつでもイメージできるかが、経営者の条件でもある。
経営の背骨について、あれはあれそれはそれ、といったご都合主義は通用しない。

業績不振企業とは、この「経営の背骨」のどこかがゆがんでいるか、ズレている箇所がかならずある。まさに、一種の「法則」になっている。
まったく、人間のからだとおなじなのである。
だから、わたしは経営の背骨を矯正する整体師でもある。

ほんとうの整体師にも治せないことがあるように、経営コンサルタントという整体師にも限界がある。
それは、本人が症状を認めないとか、治すときの痛みに耐えられないとか、あるいは、あくまでも症状の原因を他人(景気や従業員)にもとめるなどの場合である。

もっとも深刻なのは、本人が症状を認めないことだ。
これには、ときとして法的な権利義務にも議論がおよぶから、外部であるコンサルタントだろうが、内部からであろうが、なかなかの困難がともなう。
ましてや本人がオーナー経営者であれば、なおさらである。

そういうオーナー経営者なのに、どうしてコンサルタントが接触するのか?といえば、おおきく二通りある。

ひとつは取引先銀行からの「あっせん」だ。
たいがい「リスケ」状態で、例によって「金融検査マニュアル」に抵触(銀行が引当金を計上させられる)しないようにするため、相手企業になかば強制的にコンサルタントをいれて改善をはかるばあいだ。
それでも、コンサルタント料金は、当該企業が負担するが、それが銀行がリスケに応じる条件になるから、経営者にはしかたがない。

もうひとつは、「経営支援機構」からの要請である。
こちらは、バンザイした企業が駆け込んで、あるいは、銀行から強制されて、資本金に「支援」を賜るから、実質オーナーチェンジなのだが、たいがいは元のオーナーの家族が新社長になるという「温情」がある。
コンサルタントは、資本金をいれた側からの依頼となるが、支払は資本金からというかんがえ方なので、当該企業が負担するようにみえる。

なにが重要かと簡単にいえば、こうした事態にならないこと、である。
優良企業は、ただしい自己判断ができるから「優良」なのだ。
だから、自社は優良ではないが「ふつうの企業」だというばあい、はやく「優良」になれるようにしておくことが、経営者の才覚でもある。

つまり、早期発見・早期手当のことである。
自力であろうが他力をつかおうが、それ相応のコストがかかる。
しかし、すべてのコストとは「投資」のことであるから、「費用」だとかんがえてはいけない。
このブログでもしつこく書いているが、損益計算書は納税や株主向けの「計算書」であって、経費削減で経営そのものが復活した事例はない。

コスト・パフォーマンスは、あたりまえで、「コスト=投資」に対する「パフォーマンス=リターン」の良し悪しが、経営の業績を決定する。
これは、食材原価とておなじだ。
食材仕入れというコスト=投資をして、調理人がする調理活動で付加価値をつけた料理を販売して、なんぼかの利益=リターンを得る。

食材仕入れだけでなく、調理人の人件費も「投資」なのだから、人件費を削減すれば、調理活動のレベルが落ちる可能性があるから、結局はリターンが減る可能性が高くなる。
だから、経費削減で経営そのものが復活しないのだ。
しつこいが、厨房設備に投じるだけが「投資」ではない。

ここで、個人の経営、をかんがえると、あんがい企業活動ににている。
自分に投資しないと、リターンが減る可能性があるからだ。
しかし、個人と企業では決定的なちがいがある。
それは、「寿命」だ。

わが国は世界でもっとも古い企業があるし、創業100年をこえる企業数でも世界でダントツなのだ。
つまり、うまい経営をすると、企業には寿命がつきない、という特性がある。
しかし、生身の人間はそうはいかない。

人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり

信長一生一代の大勝負、今川義元との決戦にむかう覚悟で有名な、いまではどうした拍子でどんな音階だったかも不明という幸若舞の一節である。

「人間」は「じんかん」という。
「下天の内」とは「天界の時間」を指すから、五十年でも百年でも意味はおなじ。
この世は、はかないのだ。

さすれば、一年の計でよいのか?
お屠蘇で夢うつつになる前に、ちょっとだけでもかんがえをめぐらしたい。

明けましておめでとうございます。

後か?先か?順番が問題だ

ものごとの順番がちがうと,結果もちがう.
よく「数学は論理的」といわれるが,もっとも基礎的な算数でも,計算の順番がちがえば答えもちがうから,論理的であることはまちがってはいない.
2+3×4=14 が正解で,20はまちがいである.もし,20を正解とするなら,式は,(2+3)×4 と書かなければならないのがルールである.

子どもにできることが,どうしておとなになるとできなくなるのかわからないが,かんがえる順番がちがうひとはあんがいおおい.つまり,ルールのまちがいがわからなくなったおとなを指す.
そういうひとが企業組織の上層に数人でも複数いると,とたんにこの組織は判断力をうしなうから恐ろしい.

むかし,鈴木健二アナウンサーが司会をしていたNHKの討論番組で,学校の安全がテーマだったことがある.
主婦のAさんとBさんが,当時としてははげしい議論をくりひろげていたので覚えている.

Aさんは,過去の事故事例分析があまく,的確な安全策がとられていないことを批判したが,Bさんは,対策には完璧は期待できないからそれに拘泥してもしかたがないと主張していた.

Aさんの反撃はするどく,的確な安全策の実施がそれぞれの学校任せで,統一的な施策がないため,事故があった学校に「だけ」,とりあえず予算が配分されることを心配していたのだ.しかも,その「とりあえず」が他校への波及がなく忘れられて,事後対策でしかないことを憂いたのだ.

すると,Bさんは,「保険に加入しているから安心」だと発言して,この議論はAさんの圧勝で終わった.
事故の内容によっては,一生の不覚にもなるし,最悪は死亡事故だってありうるから,親が保険金を手にしてハッピーエンドにはならないと,さしもの司会も黙ってはいられなかった.

外国ではこの手のテレビ討論番組がいまだに人気だというが,それには,討論参加者の論理が明確だから,みごたえがあるのだろう.
日本では,討論番組じたいがすくなくて,しかも論理的というよりも感情むきだしの情緒番組になるから,みごたえがない.

それでも,たまに「放送事故級」に遭遇することがある.

厚生行政の局長,医師会副会長をゲストにして,全国都道府県の医療行政担当課長級が集まった討論番組があった.
そこで,都道府県単位で発表する医療計画が,奈良県だけ発表されていないと,国の局長が名指しして批判した.おそらく,発表のまえに国への「提出」義務があるのに,だしていないことを叱ったのだ.

ところが,奈良県の弁明は,「調査中」のため計画自体の策定が間に合わなかった,ということだったから,この局長は薄ら笑いさえ浮かべて「毎年提出義務があるのに,いまさら何を『調査』しているのか?」と罵ったのだ.

すると,その調査のVTRが流されたから,放送局側の準備は周到だ.
内容は,県の担当者がなんと全県の医療機関を直接訪問して,どんな病気のひとがどこにどのくらい住んでいるのか?という調査だった.カルテの分析まで要するから,これを拒否する医療機関もあったが,とうとう病気ごとの分布と対応する医療機関の分布が一枚の地図になったのだ.

この調査でえられた実態から,患者にとっての不便と,医療機関にとっての経営効率が明確になった.そしてこれが医療費の削減を図ろうとする意図の計画策定の基礎だった.
おどろいたことに,こうした「実態調査」をしたのは,このときの奈良県が全国初のことであったから,その他の都道府県がなにを根拠に「計画策定」しているのかが宙に浮いた.

実態に基づかない「作文」だけを提出させていた,国の局長は大恥をかいて,医師会副会長の目は宙を舞った.
もちろん,奈良県の課長を冷たく見下ろしていた同僚のはずの都道府県の担当課長級たちも,まぬけな口が開くとはこのことだ.期限内に内容無視の適当な作文をだせば事足りる,公務員の無能を全国放送でさらけ出してしまった.

これぞ,公共放送とおもうが,いまはしらない.
それぞれがそれぞれの「タコツボ」に帰れば,放送局にはめられた,と息まいたのだろうが,世の中になんのためにもならないことは,子どもでもわかる.

その奈良県で,県下一番の名門,県立奈良高校の校舎が耐震基準未達どころではない状態で十年も放置されているというニュースがあった.
教育委員会→奈良県→文科省 という,いやな予感しかしないブラック構図がみえる.

順番をまちがえると,ちがうこたえになる.
奈良県のひとはしっているはずだから,この顛末はウオッチしていきたい.