「一年の計」だけでよいか?

2019年の年頭にあたって

経営理念から経営ビジョン、事業コンセプト、経営戦略、経営計画と、上位概念からだんだんと地上におりてくるような構造を、わたしは「経営の背骨」とよんでいる。
経営計画には3年ほどの中期計画から、年度や半期の「予算」があるから、さいごは日常業務にたどりつく。

この順番を日常業務からはじめれば、経営理念の実現には、日常業務がちゃんとできないと砂上の楼閣になることがわかる。
つまり、一直線でつながっているといつでもイメージできるかが、経営者の条件でもある。
経営の背骨について、あれはあれそれはそれ、といったご都合主義は通用しない。

業績不振企業とは、この「経営の背骨」のどこかがゆがんでいるか、ズレている箇所がかならずある。まさに、一種の「法則」になっている。
まったく、人間のからだとおなじなのである。
だから、わたしは経営の背骨を矯正する整体師でもある。

ほんとうの整体師にも治せないことがあるように、経営コンサルタントという整体師にも限界がある。
それは、本人が症状を認めないとか、治すときの痛みに耐えられないとか、あるいは、あくまでも症状の原因を他人(景気や従業員)にもとめるなどの場合である。

もっとも深刻なのは、本人が症状を認めないことだ。
これには、ときとして法的な権利義務にも議論がおよぶから、外部であるコンサルタントだろうが、内部からであろうが、なかなかの困難がともなう。
ましてや本人がオーナー経営者であれば、なおさらである。

そういうオーナー経営者なのに、どうしてコンサルタントが接触するのか?といえば、おおきく二通りある。

ひとつは取引先銀行からの「あっせん」だ。
たいがい「リスケ」状態で、例によって「金融検査マニュアル」に抵触(銀行が引当金を計上させられる)しないようにするため、相手企業になかば強制的にコンサルタントをいれて改善をはかるばあいだ。
それでも、コンサルタント料金は、当該企業が負担するが、それが銀行がリスケに応じる条件になるから、経営者にはしかたがない。

もうひとつは、「経営支援機構」からの要請である。
こちらは、バンザイした企業が駆け込んで、あるいは、銀行から強制されて、資本金に「支援」を賜るから、実質オーナーチェンジなのだが、たいがいは元のオーナーの家族が新社長になるという「温情」がある。
コンサルタントは、資本金をいれた側からの依頼となるが、支払は資本金からというかんがえ方なので、当該企業が負担するようにみえる。

なにが重要かと簡単にいえば、こうした事態にならないこと、である。
優良企業は、ただしい自己判断ができるから「優良」なのだ。
だから、自社は優良ではないが「ふつうの企業」だというばあい、はやく「優良」になれるようにしておくことが、経営者の才覚でもある。

つまり、早期発見・早期手当のことである。
自力であろうが他力をつかおうが、それ相応のコストがかかる。
しかし、すべてのコストとは「投資」のことであるから、「費用」だとかんがえてはいけない。
このブログでもしつこく書いているが、損益計算書は納税や株主向けの「計算書」であって、経費削減で経営そのものが復活した事例はない。

コスト・パフォーマンスは、あたりまえで、「コスト=投資」に対する「パフォーマンス=リターン」の良し悪しが、経営の業績を決定する。
これは、食材原価とておなじだ。
食材仕入れというコスト=投資をして、調理人がする調理活動で付加価値をつけた料理を販売して、なんぼかの利益=リターンを得る。

食材仕入れだけでなく、調理人の人件費も「投資」なのだから、人件費を削減すれば、調理活動のレベルが落ちる可能性があるから、結局はリターンが減る可能性が高くなる。
だから、経費削減で経営そのものが復活しないのだ。
しつこいが、厨房設備に投じるだけが「投資」ではない。

ここで、個人の経営、をかんがえると、あんがい企業活動ににている。
自分に投資しないと、リターンが減る可能性があるからだ。
しかし、個人と企業では決定的なちがいがある。
それは、「寿命」だ。

わが国は世界でもっとも古い企業があるし、創業100年をこえる企業数でも世界でダントツなのだ。
つまり、うまい経営をすると、企業には寿命がつきない、という特性がある。
しかし、生身の人間はそうはいかない。

人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり

信長一生一代の大勝負、今川義元との決戦にむかう覚悟で有名な、いまではどうした拍子でどんな音階だったかも不明という幸若舞の一節である。

「人間」は「じんかん」という。
「下天の内」とは「天界の時間」を指すから、五十年でも百年でも意味はおなじ。
この世は、はかないのだ。

さすれば、一年の計でよいのか?
お屠蘇で夢うつつになる前に、ちょっとだけでもかんがえをめぐらしたい。

明けましておめでとうございます。

後か?先か?順番が問題だ

ものごとの順番がちがうと,結果もちがう.
よく「数学は論理的」といわれるが,もっとも基礎的な算数でも,計算の順番がちがえば答えもちがうから,論理的であることはまちがってはいない.
2+3×4=14 が正解で,20はまちがいである.もし,20を正解とするなら,式は,(2+3)×4 と書かなければならないのがルールである.

子どもにできることが,どうしておとなになるとできなくなるのかわからないが,かんがえる順番がちがうひとはあんがいおおい.つまり,ルールのまちがいがわからなくなったおとなを指す.
そういうひとが企業組織の上層に数人でも複数いると,とたんにこの組織は判断力をうしなうから恐ろしい.

むかし,鈴木健二アナウンサーが司会をしていたNHKの討論番組で,学校の安全がテーマだったことがある.
主婦のAさんとBさんが,当時としてははげしい議論をくりひろげていたので覚えている.

Aさんは,過去の事故事例分析があまく,的確な安全策がとられていないことを批判したが,Bさんは,対策には完璧は期待できないからそれに拘泥してもしかたがないと主張していた.

Aさんの反撃はするどく,的確な安全策の実施がそれぞれの学校任せで,統一的な施策がないため,事故があった学校に「だけ」,とりあえず予算が配分されることを心配していたのだ.しかも,その「とりあえず」が他校への波及がなく忘れられて,事後対策でしかないことを憂いたのだ.

すると,Bさんは,「保険に加入しているから安心」だと発言して,この議論はAさんの圧勝で終わった.
事故の内容によっては,一生の不覚にもなるし,最悪は死亡事故だってありうるから,親が保険金を手にしてハッピーエンドにはならないと,さしもの司会も黙ってはいられなかった.

外国ではこの手のテレビ討論番組がいまだに人気だというが,それには,討論参加者の論理が明確だから,みごたえがあるのだろう.
日本では,討論番組じたいがすくなくて,しかも論理的というよりも感情むきだしの情緒番組になるから,みごたえがない.

それでも,たまに「放送事故級」に遭遇することがある.

厚生行政の局長,医師会副会長をゲストにして,全国都道府県の医療行政担当課長級が集まった討論番組があった.
そこで,都道府県単位で発表する医療計画が,奈良県だけ発表されていないと,国の局長が名指しして批判した.おそらく,発表のまえに国への「提出」義務があるのに,だしていないことを叱ったのだ.

ところが,奈良県の弁明は,「調査中」のため計画自体の策定が間に合わなかった,ということだったから,この局長は薄ら笑いさえ浮かべて「毎年提出義務があるのに,いまさら何を『調査』しているのか?」と罵ったのだ.

すると,その調査のVTRが流されたから,放送局側の準備は周到だ.
内容は,県の担当者がなんと全県の医療機関を直接訪問して,どんな病気のひとがどこにどのくらい住んでいるのか?という調査だった.カルテの分析まで要するから,これを拒否する医療機関もあったが,とうとう病気ごとの分布と対応する医療機関の分布が一枚の地図になったのだ.

この調査でえられた実態から,患者にとっての不便と,医療機関にとっての経営効率が明確になった.そしてこれが医療費の削減を図ろうとする意図の計画策定の基礎だった.
おどろいたことに,こうした「実態調査」をしたのは,このときの奈良県が全国初のことであったから,その他の都道府県がなにを根拠に「計画策定」しているのかが宙に浮いた.

実態に基づかない「作文」だけを提出させていた,国の局長は大恥をかいて,医師会副会長の目は宙を舞った.
もちろん,奈良県の課長を冷たく見下ろしていた同僚のはずの都道府県の担当課長級たちも,まぬけな口が開くとはこのことだ.期限内に内容無視の適当な作文をだせば事足りる,公務員の無能を全国放送でさらけ出してしまった.

これぞ,公共放送とおもうが,いまはしらない.
それぞれがそれぞれの「タコツボ」に帰れば,放送局にはめられた,と息まいたのだろうが,世の中になんのためにもならないことは,子どもでもわかる.

その奈良県で,県下一番の名門,県立奈良高校の校舎が耐震基準未達どころではない状態で十年も放置されているというニュースがあった.
教育委員会→奈良県→文科省 という,いやな予感しかしないブラック構図がみえる.

順番をまちがえると,ちがうこたえになる.
奈良県のひとはしっているはずだから,この顛末はウオッチしていきたい.