「家族」という文化の基礎単位

家父長制の大家族から子供単位の核家族に変化したのが、わが国の近代史の特性である。

それから少子によって、超核家族という「おひとり」になったので、「墓仕舞い」のみならず、次世代の相続人がいなくなったのである。

むかしは長男が一括相続するのがふつうだったから、次男以下には「大部屋暮らし」の憂き目が予定されていた。
それでも多産だったのは、幼児死亡率がいまより格段に高かったための保険であったからである。

長兄が相次いで亡くなって、紀州藩を相続したかとおもいきや、本家にあたる将軍家まで相続したのが「八代将軍吉宗」である。

ために、「お庭番」を創設した吉宗には闇の噂が絶えないのである。

結局、徳川幕府は、家康が最大のライバルと目されていた、加藤清正の血を引く吉宗から、彼の血を継ぐ「御三卿」へと相続権が移行して、とうとう「御三家」の地位は沈没して、最後の最後になって水戸藩が注目されるにおよぶ。

それから明治新政府の文化革命が激しく展開して、いつからだかわからないほど古い、「太陽太陰暦:旧暦」が廃棄されて、いまの「太陽暦:新暦」が採用されたが、しっかりと「家族(制度)」は維持してきてつもりが、GHQによって完全破壊されるにいたる。

ついでに、言語の統一(「国語」の誕生)で、なんだかわからぬ「標準語」なる基準をもって、あとはぜんぶ「方言」という差別をつけていまにいたる。
どこかのローカル放送局が、「ご当地ことば」による「ニュース」を放送したのが、ニュースになったのは、150年前の常識が戻ったことの快挙だからである。

なお、ネットでラジオ放送を流している「radiko (ラジコ)」には、「方言ニュース」という貴重な番組がある。

日本語の統一を強制する組織なのに「多様性」を強調しているNHKと真逆の存在があることは、まさに「多様性」なのだ。

ヨーロッパ起源の「人類学的」からすると、家族の構成のちがいが、民主主義を生んだり、権威主義政体を生むというから、その民族がどんな家族構成を制度として保持してきたのか?によって、社会として重大な結果を生む。

アングロサクソンの核家族から生まれた個人主義から発生した民主主義が、家族制度とそれを支えたキリスト教の信仰衰退が、民主主義すら殺してしまう「ニヒリズム(虚無主義)」に席巻されると警告したのは100年とすこし前のニーチェで、だからこそ「あたらしい価値創造」を訴えたのだった。

しかし、それが簡単ではなく、むしろ全体主義へと向かうのは「ニヒリズム」の恐ろしさなのである。

そのニーチェは、ドイツの出なので、核家族ではなかったゲルマン・ドイツの伝統から、異質な個人主義の源泉を意識できたのであろう。
おなじく、核家族ではない日本とドイツの親和性がここにあるし、ロシアも同様なのである。

しかし、いまのドイツの都市部では、もはや二世代以上の大家族が暮らすことは皆無となって、ドイツ人のドイツのはずがぐちゃぐちゃになった。
日本は、「自・公・立憲共産」政権による家族破壊工作が推進されている最中なので、これらの政党を解党に導く必然が生まれている。

むろん、それとの時間競争が発生していて、「自・公・立憲共産」などが生き残って全体主義となるのか?それとも、もはや大家族には形式的に戻れないとしても、核家族であっても維持して民主主義を継続できるのか?が日本人の未来を決する大問題になっている。

未来の国家指導者、弱冠31歳のチャーリー・カーク氏を失ったアメリカの動揺は、家族の維持努力への攻撃に防御ができなかったことによる。
アメリカ大手メディアは、「カーク氏のヘイト活動がこうした結果になった」と報じ、その後、放送局社長が謝罪する事件にもなった。

このことも含めて、「動揺」しているのがアメリカなのである。

トランプ大統領は、アメリカ合衆国政府として「喪」にふすと発表し、全世界のアメリカ政府施設は日曜まで「半旗」とすることを発表した。

移民問題の根本に家族の崩壊がある。

よって、次の世界的な反グローバリズムの闘いは、家族を守れ!になるのだろう。

【速報】チャーリー・カーク氏暗殺

現地時間10日、チャーリー・カーク氏がユタ州ユタバレー大学での講演中に、何者かに銃撃された。
本件について、トランプ大統領が自ら「亡くなった」ことを発表した。

これが正しい情報なら、享年31歳という若さである。

7日には、初来日し、東京で参政党主催イベントに登壇したばかりだった。

日本での報道によれば、犯人はFBIを含めて現地警察と捜査中で、何者かもわかってはいないと、カシュ・パテルFBI長官が直接発表している。
また、銃撃といっても現場状況から「ライフル」が想定され、正確な射撃からプロの仕事を想像させる。

ドイツでは、AfDの州議会議員候補が相次いで7名も亡くなる事態で騒然としているが、当局は自死を含む自然死だと発表している。
だが、アメリカでの今回のことは、明らかに「暗殺」なのであって、政治的にはご当地としてトランプ政権2.0に対する「テロ」であるけれど世界的な意味がある。

フランスでは内閣が短命ばかりでもたず、いよいよマクロン政権の崩壊まで視野に入ってきたこの時点で、チャーリー・カーク氏を欠くのは、反グローバリズムの闘い上おおきな痛手であることは間違いないが、かくなる手段が許されるはずもなく、なりふり構わぬグローバル全体主義の自殺行為ともみることができる。

トッド氏が挙げる「西洋」に、広義で含まれるのは「英・米・仏・独」に加えて、「日・韓」があり、狭義では「英・米・仏」の三カ国だとしている。
どこも、政権がグズグズな共通があるのは、トランプ政権2.0を除いて、グローバル全体主義の政権・政府と、国民との軋轢(我慢の限界)が原因だからである。

しかして、そこに「ニヒリズム(虚無主義)」があると喝破したのだ。
ようは、政治家・政権側が大衆化してニヒリズムに堕ち、国民を家畜化しようとしてどこが悪い?と開き直った状態なのである。

これに逸早く気づいたカーク氏が創設し率いた団体、「ターニング・ポイント」が今後どうなるのか?が注目される。

組織を創設した人物が突如いなくなることの衝撃は当然だが、組織を継続・維持・拡大するという明白な故人の遺志を、組織自体がどのように乗り越えるのか?
もちろん、新代表には自身への暗殺リスクを引き受ける気概がなければならないので、たいへんな覚悟を求められる。

それでも、立ち向かう、これが「MAGA」だとすればかえって団結するという、ネットでの消去は拡散するの法則のごとくなのである。

まずは、哀悼の意を表したい。

総理候補の絶望感

石破首相の辞任会見があって、いよいよ「次」に注目が集まっているというのは、お祭り状態にしてとにかく視聴率を稼ぎたいマスコミだけだろう。

一般国民はシラケている。

一応、衆・参の両院で少数与党になったのだから、なにが悲しくて新自民党総裁=次期首相と、パブロフの犬のごとく決めつけているのかしらないが、この話にアメリカのトランプ政権の意向を完全無視しているところもミソなのである。

たとえば、初訪米した韓国の大統領は、嬉々として入室したオーバルオフィスで世界のマスコミを前にして「親日になれ!」と詰められて一言も返せずに大恥をかかされた挙句、在米ヒュンダイ工場の韓国人従業員が300人余りも不法移民として逮捕される始末となったのである。

この政治デモンストレーションは、韓国向けではなくてどうみても日本向けである。

つまり、トランプ政権は、かつての民主党のようなあからさまな命令によるコントロールをせずとも、日本の政・財・官の各界に水面下からの強力なメッセージを送出しているとみる。

財界では、経済同友会のトップかつ世界経済フォーラムの重鎮が突如辞任することになったが、その文脈には「フェンタニル」の日本経由輸出があることはゲスの勘繰りではないだろう。

それでも「同友会」で、いきなり「経団連のトップ」ではない、ことも揺さぶり策としての常套手段なのだ。

むろん、捜査当局へのプレッシャーもかけたろうから、突如福岡県警が動いたことにして、「家宅捜査」しても空振りとしたのは、間抜けな県警という演出で勘弁してもらうはずだったのに、勘弁しないトランプ政権はやっぱり厳しいのである。

舐めてかかった警察庁幹部は、青くなっているだろう。

それもこれも、石破政権の国家公安委員長が承知のことだし、首相や官房長官がしらないはずもない。
あえていえば、福岡県知事が蚊帳の外か?

そんなこんなで、福岡県の麻生太郎が我慢の限界をこえたのだとすると、まったく「みぞゆう」の低次元なのである。

アメリカからみたら政権ばかりか官界トップの抵抗があったと判断しているにちがいないので、日本側の姑息はとっくに見破られていることだろう。

「辞任表明」した石破首相は、「首相を辞める」とはいわず自民党総裁を辞めるといったのだし、なんとその自民党総裁選の最中に首相として国連本部への外遊スケジュールがはいっているのだ。

そうなると、性格が特異な石破氏を使って、いきなり衆議院を「解散」させてしまうかもしれないのだ。

それが大方の日本人の民意であるからだ。

こうして、わが国は、ヨーロッパ型の少数政党による連立政権時代が到来するかもしれない。
ここに、自公政権の出番は完全にない断絶がやってくる、といえる。

つまり、正真正銘の「戦後体制の終焉」なのである。

「もはや戦後ではない」と経済白書が書いたのは昭和30年だった。
それから70年の時を経て、本当に「戦後」が終わるとしたら、ひとり無血クーデターをやった石破首相の名前は永遠に歴史に刻まれることとなる。

これを、深慮遠謀というのかはしらないが。

政党内シンクタンク

7日、3カ所の地方選挙(三重県議補選、大阪府柏原市議、大阪府羽曳野市議)で全勝した勢いをふまえて、翌8日、参政党の人事が発表された。

注目は、政調会長補佐、として事務局入りした元自民党衆議院議員で元厚労省官僚だった豊田真由子氏の採用報告及びボードメンバーとしての就任報告だった。
党勢拡大する参政党のボードメンバーに、新規にどこかの議員ではない人物が登用されるのは初のことだろう。

そこで、現時点での外部から見え方について書いておく。
なお、他党のことはここまで気にしたことはなく、自民党ですらよくわかってはいないことをおことわりする。

まず、参政党には「事務局長」という役職と、「幹事長」がある。
実質設立オーナーの神谷宗幣参議院議員が設立時より一貫して事務局長であって、党代表を兼ねるのは最近になってのことである。

わたしには、事務局長と幹事長のちがいがわからない。

それから、幹事長にある議員が政調会長を兼ねている。
なので、豊田真由子氏は、事務職員採用とはいえ、配属先が政調会長補佐という、いってみれば教育委員会における教育長のような立場だということなのか?

すると、参政党は、党内シンクタンクの構築を目指しているのか?という疑問がわいてくる。

アメリカのばあいは、「系列」の外部シンクタンクが多数あるが、これらはまたわが国とは別の「寄付(制度)の文化」によって成立している。
1955年設立以来、自民党は、党内シンクタンクを設立せずに、官僚機構にそのままシンクタンクの役割をもたせ、ついに政策を乗っ取られた経緯がある。

これは、全国の「自治体」も同様で、役人が予算を含む政策を企画・立案し、議会が単なる承認機関となったので、首長に対抗する議会が全国から消滅した。
もちろん、議会事務局も議会の独自採用ではなく、市職員としての身分なのである。

ちなみに、わが国最大の自治体である横浜市の組織図は、世界共通の肥大化でPDFにして264枚となっている。

以上から、わが国は基本的に学校で習う「三権分立」などしていなくて、行政が立法を支配する構図であり、司法はそんな行政に日和っているから、行政訴訟でめったに原告が勝訴できないのである。

むろん、刑事のばあい、検察が被疑者・被告の生殺与奪の権限を握って、裁判の前に「起訴猶予」とか「不起訴」を決めれば、裁判にならず、よしんば「起訴」されたら、97.5%が有罪になることで、実質的に裁判所はなにもしないことをあらわしている。

そんなわけで、いまは小党でしかない参政党が、他党とちがって「近代政党」を目指していることはまちがいないが、その成立要件にある「(政策)シンクタンク」をどうするのか?という本格政党としての領域にようやく到達した、ともいえる。

内作と外注の両方だということになるのだろうけれど、「やめ官僚」をシンクタンクに採用するというのは、日本的な方法として興味深いのである。

ただし、豊田真由子氏が、次期衆議院総選挙に打って出ることも視野にあるはずなので、いよいよシンクタンクの運営をどうするのか?という問題が、政調会に発生するのだろう。
現実に、参政党は参議院通常選挙での議員増員で、「法案提案」の数を満たしたために、参議院法制局を通じて法案策定をおこなっている。

当然に、与党ではないから全官僚組織からの人員で構成される強力な「内閣法制局」を使うことができないのだけれども、両院にある法制局を使うというのは、「議員立法」のためにあることなので、国会議員が自らの法案を提出するのだとする「憲政の常道」としては望ましいことなのである。

国民としては、立法府の法制局が開店休業状態なのが異常なのである。

しかして、法制局をシンクタンクとして利用するのは、あまりに当然のことではあるけれど、狡猾な官僚群は、国会職員が全員「特別職国家公務員」であることも無視して、行政官僚を国会職員に「出向」させるという手もつかうことをしっていていい。

そんなわけで、豊田真由子氏の人事から、やめ議員ではなく、党理念に適合するやめ官僚の大量採用による独自シンクタンクの創設が期待でき、政府と対峙できる体制を構築することは、完全に他政党との棲み分けとなる大事なのであることがわかる。

地方組織の強化・拡充と、シンクタンクこそが、政党としての車の両輪なのである。

これが、これまでのわが国政党にはなかった、あたらしいが本来の姿だといえる。

悔しかったら真似っこしてみなさい。

14インチipadは欲しいけど

機種の棲み分けという観点からすると、ipadのラインナップはよくできている。

動画編集などといった「重い」作業をしないなら、高スペックにこだわらなくとも、できることはおなじ、というのもipadの特徴である。
ために、作業面積のちがい、というポイントしかない、ともいえる。

咄嗟のメモとか、ふだんからの持ち歩きなら、やっぱり「mini」がいい。
とはいえ、本格的に勉強やら読書をしながらのメモ作成ともなれば、大画面ゆえにマルチに分割が有効に機能する13インチすら狭く感じるから、今度こそ発売されそうな「14インチ」がほしくなるのである。

ところが、新型がでるたびに注目されるのがディスプレイの品質進化なのである。

そうやって高精度化での高額化がされてきた。
これに為替での加算があるから、えらく高いデバイスになっている。
まったく別に、eインクを用いたipadがいつまでたっても出てこないのは、長時間画面をみつめる側にとっては、重い問題なのである。

利用者の目の健康をどうかんがえているのか?という企業姿勢が問われているといいたい。

そこで、カラー化という進化をしてきた、eインクタブレット、なる商品群をみると、おおかたが「アンドロイドOS」を採用しているものの、たとえば、ipadでは定番のノートアプリ、『GoodNotes』が搭載できない恨みがある。

どうやら、メモリが足らないようなのだ。

基本的に『GoodNotes』をアンドロイドOSでつかうには、eインクではない『Galaxy』のタブレット端末を用いて、ダウンロードするしかない。
すると、ipadとなにがちがうのか?になって、目に優しいeインクでもない機種を選ぶ動機に欠けるのである。

対して、Amazonの『Kindle』端末が、とうとうカラーeインクに対応した。

しかし、わたしは『Kindle』から卒業してしまった。
手書きメモも書ける「Kindle Scribe」も、その独自の保存形式から汎用性に乏しい決定的な不便さで利用を遠慮している。

もちろん、eインクの特性上、動画視聴や激しいページ送りを繰り返すようなネット検索などは不向きなので、よしんばipadのeインク版がでても、サブ的な使い方になるのは承知の上での要望なのだ。

しかし、ここでいう「サブ」というのも厳密にはちがっていて、上で書いたような利用をメインとするなら、断然その価値からはずれる動画視聴などが「サブ」なのである。

むろん、アップル系の端末なら当然の、「iCloud」と連携がとれる「eインクipad」でなければならないのは、iCloudの遣い勝手をそのままにしたいからである。
もはやそのiCloudのサブスクも、50ギガ150円/月では足りない状況となって、200ギガ450円/月にしなしといけない直前にまでなっている。

50ギガの次が200ギガという落差がある。

ところで、この秋、アップルはOSの大バージョンアップをすると発表している。
なかでも、ipadOSでは、なんと電話機能が加わる。
これで、いま持っているスマホを機種変更する必要性が薄れた。

そんなわけで、開発の方向性がわたしの要望とはちがうけれども一層ipadの必要性が増す。

だが、ipadのeインク版はおそらく永遠にかなわぬ夢であろう。

となると、アンドロイドOSであろうが、カラーeインクタブレットで『GoodNotes』がつかえる機種がいつ出てくるのか?に興味が移るのである。
このとき、そのサイズが14インチなら、かなり理想的だ。

読書・学習・勉強用に特化した端末、というジャンルの開発はないのか?

いまの自分の年齢を考慮すると、早くでてこないと、こちらの寿命が尽きる切羽詰まったことになっている。

トッドの『西洋の敗北』と『西洋の没落』

『西洋の敗北』は、エマニュエル・トッドによる2024年の書籍で、『西洋の没落』は、シュペングラーによる1918年(上巻)1922年(下巻)の書籍である。

この二作品は、ザッと100年の時を超えて、ザックリ別方向からおなじことを書いているのだが、著者はどちらも「歴史家」だという共通に注目してよかろう。

「歴史は繰り返す」を格言として記憶していても、それを論じることの深さは凡人にはできないことである。
それは、政治学者や経済学者のいう浅いレベルともまったくことなるので、読む価値がある、からお薦めしたい。

現在では、エマニュエル・トッドのことを「予言者」と評する無責任なファンもいるらしいが、歴史家の本分からしたら迷惑な呼ばれ方にちがいない。
凡人があたかも「予言者」だと断じるのは、歴史家の思考範囲が哲学に及ぶからの必然であって、けっして占い師や予言者ではないのである。

しかして、かくなる思考が、結果として未来をいいあてる。

その「あたり方」が、ズバリ!だから、予言者という評価になるだけのことなのである。
つまり、エマニュエル・トッドもシュペングラーも、霊感商法をやっているのではない。

日本人からみたらこのふたりはヨーロッパ人である。

しかし、トッドは現代のフランス人で、シュペングラーはドイツ帝国のひとであった。
独・仏の関係のきな臭さとややこしさは、海で隔たる島国日本の歴史とは比較にならない。

そんなふたりが、100年の時間を超えて、西洋のズブズブで一致している。

ところが、現代日本人にとっての西洋はあくまでも、「米・英・仏・独」といったいわゆる「欧米」を思い浮かべるのだが、シュペングラーの時代からずっとグローバル化した現代では、日本も韓国も西洋とするのがトッド流の思考なのである。

つまり、トッドの『西洋の敗北』とは、日本や韓国が含まれたうえでのはなしになっていることに十分な注意を要するのである。
そして、彼らの「西洋」に、ロシアが含まれていないことも、現代的には十分に重要なことなのである。

彼の特徴に、家族形態から政治志向を読みとることがある。

西洋は核家族からの個人主義を、ロシアは大家族主義からの権威主義を志向するという視点は、われわれ日本人がかつてはロシアに近かったことを想起させる。
それをGHQによって、「民法」から破壊され、とうとう昨今の完全なる西洋化を果たしたのである。

ようは、敗者(ウクライナ=西洋)に対する勝者とは、ロシアのことであることが本旨となっている。

そのウクライナを例にして、プーチンのロシアは早い段階で西洋に見切りをつけ、自国の金融システムを中心に、将来の経済制裁に備えるための時間稼ぎをしていた。
このことは、西洋の金融従事者幹部なら衆知のことのはずが、なぜか「 SWIFT:Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication:実態はベルギーにある協同組合)」からロシアの銀行を外すだけでの経済制裁が有効だと信じられていた妙がある。

そればかりか、西洋はロシアを制裁するといいながら、自国経済を制裁してしまった。

この典型が、トッド氏の母国フランスで、マクロンの迷走が不況を呼び、アフリカ植民地からの収奪でも間に合わない慢性的な政府赤字による貧富の差が拡大し、それがマリーヌ・ル・ペンの台頭となったのだし、ドイツもロシアからのガス供給が絶えるエネルギー危機からの絶望的産業衰退がAfD台頭の原因となったのである。

ようは、身から出た錆、なのである。

そのドイツのデュッセルドルフがある州議会選挙で、AfD候補者が相次いで7名も亡くなるという奇妙な事態になって、選挙そのものの実施が危ぶまれる前代未聞がおきている。

しかして、西洋に与した日本も、これから多額の復興支援を負担することとなる。
まさか、国内同様に、巨大公共事業によるキックバックを期待している政治家が仕込んだとかんがえたくはないが、その上に、本場西洋の貪欲な者たちがよだれを流しているにちがいない。

そうやって、日本国民の生活と政治家やらの支配層の分離で、とうとう民主主義は、一般人の生活をかえりみない者共に権力を奪われて、とうとう大衆が反逆するというオルテガの予言通りが世界トレンドとなったのである。

むかしのような豊かな未来をえがける生活をしたい。

これが、いま日本でも起きている大衆化した自民党政治家と本物の大衆との軋轢になっている。
「石破やめろ」と「石破やめるな」の対立こそ、西洋にすっかり変身しきった日本の没落の象徴的できごとなのである。

しかして、一度破壊された文化はもとに戻ることはない。

ミレイ大統領アルゼンチンの成果

2023年11月に自由主義経済学者から初当選した、ミレイ氏の政権は、過去の社会主義を一掃する大胆さで政府のスリム化を図った。

公約通り省庁の数を半減させたばかりか、国家公務員も万人単位で解雇したのである。
それで旧政府系の批判は、消費と雇用の悪化が国家経済を窮地に追い込むといういつも通りの「予想」であった。

ところが、長年の社会主義政府の市場介入による余計なお世話的な規制を大胆に撤廃(「緩和」ではない)して、急速に自由化をし、さらにトランプ関税(「ベース関税10%」と「追加関税」の二本立てからなる)では、なんと世界唯一の「ゼロ関税(「ベース関税」もゼロ)」を勝ち取ったのである。

もちろん、トランプ政権による自由主義への支援である。

統計的にいまアルゼンチンでは、失業率が過去よりも悪化しているようにみえる。
しかし、これは日本ではピンとこないが、雇用の歴史的な拡大に伴う、就業希望者の急速な増大に対する「数字」なのである。

なんと、生活保護が手厚かったアルゼンチンでは、そもそも就業意欲すら国民になかったのだった。
これを、就任してたったの1年ほどで逆転させ、国民が仕事を求める国に変貌したのである。

つまり、生活保護で寝て暮らすよりも働いた方が確実に豊で安定した生活ができるという「当然の価値観」が回復したのである。

これがどんなに「画期的」なことか!

約100年前の20世紀初頭、アルゼンチンはGDPで世界10位内に入る先進国だった。
それが、豊かさゆえの余裕から、社会主義(福祉国家)を目指すようになって凋落したのである。

IMFから、とっくに「途上国」と認定され、いまのアルゼンチンがIMFから最大の資金提供を受ける恥ずべき状態にまでになって、ようやくにしてその厳しい取り立てがアルゼンチン国民を覚醒させたともいえる。

これは、1997年の通貨危機で、韓国がIMF管理になったことを彷彿とさせる。

まさに、英国を嚆矢として、日本もいまその福祉国家政策によって自滅しようとしている。
その英国は、極左の労働党政権になったが、たった就任1年ほどでいまの支持率は最低となり、大規模な「総選挙要求デモ」が繰り広げられている。

民放からスポンサーが消えたわが国では、頻繁に流れる公共広告機構の「食べるもののない子供の貧困」を訴える内容は心が痛むしかないけれど、目先の支援よりもはるかに重要な、国民経済の立て直しにあたっての「政府の無策」こそが原因なのであると気づく。

その無策とは、補助金の拡大という福祉政策ではなくて、政府の介入をやめるという「策」の無さをいう。
つまり、かつての常識だった「国民経済のための政策」から、「国民」が消えたのである。

50%超えをしているトランプ関税の国が、中共と極左政権のブラジルだと気づけば、同盟国なのに高い日本への関税の政治的な意図も自動的に明らかである。

すると、もしわが国に自由主義政権が誕生したら、そのボーナスとしての大幅な関税引き下げ(ゼロ関税)が実施され、日本国民に安堵を与える効果も覿面となるようにはじめからセットされているとかんがえるべきだろう。

逆に、トランプ政権2.0は、「自・公・立憲」政権を敵対する民主党と同じで、社会主義だと認定しているのである。

これは、日本人への社会主義に対する憎悪と自由主義に対する正解をすり込むための経済を用いた教育なのである。
無論、トランプ政権が主導するこの教育は、かつての民主党が支配したGHQによるものと真反対の価値観である。

ところが、愚かにも戦後の日本人は、アルゼンチン国民よりも劣化が激しく、ミレイ氏のような指導者を選択できないでいる。

その原因に、旧来の御用経済学者による社会主義礼賛があるのである。

間違い?ハイエクのEU崩壊論

ヨーロッパ連合(EU)が正式に設立された(1993年11月)をみずに亡くなった(1992年3月)のが幸いだったのか?
とはいえハイエクは、EUが設立された場合でも、その崩壊は「共通通貨ユーロ」の維持困難にあると予測していた。

しかし、本質的にEUとはグローバル全体主義の国家集合体としての連合だから、自由守護者ハイエクの立場からはあり得ない存在だったにちがいない。

設立から32年となるEUも、英国の離脱があってガタついたのは、なんといっても「移民」による実質的な「民族大移動」に疲弊していることにある。

ヨーロッパ人ならローマ帝国の分裂がゲルマン民族の大移動だったことを知らないはずもなく、だから当のドイツ・メルケル政権がその移民受け入れ側に立って熱心だったのだろう。

これを冷たくみているのが、ローマがあるイタリアだという皮肉は、メローニとマクロンの不仲にも象徴される。
所詮、ローマ(イタリア人)からしたら、フランスは「ガリア」なのだ、と。

ドイツに併合されたオーストリア=ハンガリー帝国のハンガリーで、あらたに「ストップ・ソロス法」が可決された。
その前に、「反ソロス法」も成立していたので、ハンガリー人は元ハンガリー人のジョージ・ソロスが根っから嫌いなのだろう。

けれども、もっと嫌われているのがフォン・デア・ライエンである。

彼女の行くところ、デモ隊が「ナチス!」と叫ぶいつもができているのだ。
ナチス幹部だった先祖の家系が暴露されているようだけど、思想は遺伝しないので、本人が選んだものなであろう。

なんにせよ、ヨーロッパは、選挙で選ばれないEU委員会の独裁体制である。

その官僚たちが、移民を推進して民族文化バランスを破壊している。

これをそっくり真似ているのが日本政府と役人たちである。

EUは崩壊しても構成国は残るけれども、わが国は消滅する。
この重大なちがいこそ、もっとも危険なことなのであるが、世界最古の王朝国家が永遠に続くという幻想もまた危険なのである。

この意味で、ハイエクの通貨崩壊の方がはるかに軽い論であった。

日本がIMF管理になる日

まさか?

残念ながら笑い事ではない。

よしんば、笑い事としても、一度でもかんがえてみることは有益である。

「GDP」や「1人あたりのGDP」、あるいは、「(付加価値)生産性」とか、「1人あたりの(付加価値)生産性=労働生産性」といった、主要指標で、わが国はOECD加盟国での位置を、安定のビリ、として張り付いていることの深刻さをみれば、あんがいと考慮に値しないといったことではない。

むしろ、このままの減衰が継続すれば、IMF管理になることもけっして悪い冗談ではない。

ここで、よくある「政府依存症=社会主義」の発想(残念ながら現代日本人の思考パターン)になると、あたかも政府の政策が悪い、というムリでムダな議論がスタートするお決まりがある。

安倍晋三政権での、「賃金アップ」が、いつの間にか、「働き方改革」となって、それが、「残業削減」へと矮小化して変容したのは、政府が民間にむけてできることが「少ない」という、当たり前があるからだった。

しかし、消費税なる付加価値税の導入で、正規雇用の人件費に税が課せられるために、企業外部へ依頼する非正規雇用(消費税の控除対象)にシフトさせたうえでの残業削減政策だったから、賃金があがるどころか却って下がることを意図的にやったのが「自・公・立憲」政権の社会主義なのである。

しかも、こんな政策に喜々として従ったのが経営者なのではあるが、郵政民営化に象徴されるように、日本企業の株式が外資に大量保有されて、経営者は「ものをいう株主」に逆らえなくなった。

政府は、日本的経営のうちの、日本企業同士の「株式持ち合い」を事実上禁止して、いよいよ外資が日本企業株を買いやすいように企図したのである。

つまり、日本経済の凋落におおいに貢献しているのが日本政府なのである。

これに気がつけば、日本政府に経済政策を求めるのは、自殺行為なのだとわかる。

むかしのケインズ政策が政府の経済政策だとワンパターンに信じていたら、有効需要だけでなく、最重要な「乗数効果(投入した資金よりも乗数倍の見返りがあること)」こそが狙いであったのが、政府の財源確保優先思想(国民経済を放置すること)に拘泥して、事実上の政策なしを続けている。

ここで、ECB(ヨーロッパ中央銀行)総裁の、ラガルド氏がIMF専務理事だったときに、消費税の増税を求めたのは、IMF管理に仕向けるためのことであって、日本人奴隷化の目標達成を狙ってのことだとかんがえられる。

しかし、そのラガルド氏も、ほんとうに自身の脳でかんがえたものなのか?と疑問がたつのは、グローバル全体主義の手先としての地位を確保してきたことによる「保身」だともかんがえられるのである。

そのお仲間のイングランド銀行総裁をやったという経歴の、有名な「無能」が、いまやカナダの首相なのである。

ときに、あのマッキンゼーが、現代の「日本的経営」を理論的に嘲笑している。

とにかく、アメリカ企業と比較したら数倍の「非効率」が企業内の運営で認定できるという。
これは、何事も決められない、ことにあるのだが、その原因が、組織にある人間の「無責任」だと断定している。

とにかく責任をとりたくない。

よって、何事も先送りされ、決定のタイミングの遅さが国際競争下における致命傷となっているのだが、「わかっちゃいるけどやめられない」状況が延々と続いているのである。
そうして、とっくに気づいている「非正規職員」たちには、完全に意志決定のプロセスから疎外されているので、「見ざる、聞かざる、言わざる」の叡智が発揮されている。

この指摘は、わたしが経営再生に立ち会った破たん現場における状況をあらわしている。

つまり、日本企業のおおくは、すでに組織運営における「破たん」状態にあるのだが、過去からの特権的な取り引きが残るために、特段なにも経営判断などしていないのに「利益が出る」ために、驚くほどの鈍感さが組織にはびこっているのである。

このことは、管理職育成、の場面でも十分にその「無責任」がにじみ出ていて、数日間を要する練られたカリキュラムをこなすこともできず、ただ教育時間の圧縮こそが「効率化」だと信じる、おそるべき本末転倒があるが、経営トップも含めて、このことに異論を述べる者もいない悲惨がある。

つまるところ、組織とは人間集団から成っている、という基本中の基本すら忘れているのである。
それとも、忘れさせられている、とでもいった方がいいのか?

自動詞であろうが他動詞であろうが、結論はおなじだ。

しかし、既存の金融支配をぶっ壊す!と叫んでいるのが、トランプ政権2.0なので、まことにラッキーな時期に置かれていることも、日本という国の歴史的な数々ある幸運のひとつになっている。

FRBから、IMF,さらにはBISヘと続く、金融支配体制こそ盤石に見えるが、そこかしこに脆弱性が隠されているというのも、歴史が示している。

だがしかし、他力本願ではない自助努力なくしてなし得ないのである。

いかにして、無責任(文化)、から逃れるのか?だけでも、経営者の責任なのである。

波紋をよぶケネディ.JrのCDC所長解雇

8月27日、アメリカ合衆国厚生福祉長官のRFK.Jrによって、CDC(Centers for Disease Control and Prevention:アメリカ疾病予防管理センター)の所長が解雇され、この「暴挙」に抗議して、複数の幹部職員たちが連鎖的に辞職をしている、という。

これで、CDCが機能不全になる、といった報道がされているけれども、「逆神」だと気づいたアメリカ国民は動じることがなく、むしろ支持しているという。

Dr.ファウチの犯罪を暴くことも行われているが、行政長官としてのRFK.Jrの立場からしたら、足元の大掃除を優先させているとかんがえられる。

もっとも、解雇された所長を指名したのは二期目のトランプ大統領であった。

明らかにRFK.Jrの方針とことなる人物をあてたのはなぜか?から、「思いつき説」が拡がっているけれど、バイデン政権から現職までのCDC所長には一貫した組織内の政治色がある。

だから、わたしは「根こそぎ排除」を狙った、恐るべき人事だったとみる。

つまり、あたかもトランプ大統領ひとりの「思いつき」に見せかけて、スタッフたちが仕込んだシナリオ通りのことになったのだとかんがえるのである。

トランプ政権2.0における、用意周到なチームワークを侮ってはいけないし、そうしたチームをつくる名人がトランプ氏なのだ。

連鎖的な辞任が続いているのは、RFK.Jrからすれば自動的に掃除が進む、喜ばしくも効率的な事態となっているのである。
それもこれも、左翼の行動規範を逆利用したのではないか?と推理する。

その行動規範とは「偽善」であって、まさに左翼の世界的なスタンダードである。

別のいい方をすれば、腐った「頭」を切り落とすことで、周辺部の腐敗も処理できるという、組織構成上の常套手段でもある。

こうした動きに、えらく鈍感なのが、いまの日本である。

昨年の2月5日に、アメリカ大使館内に、「CDC東アジア・太平洋地域事務所」が開設されている。
つまり、民主党の重鎮で極左の、ラーム・エマニュエル大使が巣くったアメリカ大使館であって、いまのアメリカ大使とは分けてかんがえないといけない。

なんにせよ今回の解雇劇は、かならずわが国にも影響すること絶大なのである。

しかし、マスコミは無視を決めこむ。

この都合の悪いニュースは、日本国民にとって都合がいいからだ。

さてそれで、RFK.Jrの役所とどのような連携が日本でとれるのか?となるのだが、「自・公・立憲」政権では、動かない、のが確実なのは、解雇された側と同じ穴のムジナだからである。

そんなタイミングのなかで、今月7日にはトランプ政権2.0誕生に大貢献した、チャーリー・カーク氏が初来日して、講演をすることになっている。

これはけっして偶然ではないとかんがえる。

「同盟国」と口先ではいいながら、トランプ政権2.0にあくまでも反抗するわが国の現政権をどうするのか?は、トランプ政権2.0にとって重要な課題であることは間違いないからである。