動物愛護法改正案の混乱

なにやら不思議な法律があって、5年に一回の改正パターンが「決まっている」のが動物愛護法である。
どうして5年に一回となっているのかしらないが、役人が起草する政府案がもとではなく、議員立法だという「決まり」もあるから「はてな」がつづく。

どういうわけかわが国では、議員立法というと「格落ち」の感がある。
立法府にいる議員の主たるしごとは「立法」なのであるから、議員立法こそが本業発揮のバロメーターになるはずなのだが、役人案である政府案の追認こそがしごとになっているという本末転倒が、政治の貧困のわかりやすい例である。

何期も連続して当選しても、生涯一回も議員立法の提案をしたことがないひとはだれか?とか、ことし上半期の議員立法提案議員ベストテンとか、ワーストテンを報道するのが報道機関(政治部)のせめてものやくわりではないか?

そのうえでの「政局」ならまだしも、新聞の政治欄が政局「だけ」だから、週刊誌とかわらない。
新聞は週刊誌よりも高級だというのなら、ちゃんと「戦略」をかたれる政治家を育ててほしいが、明日の戦術「しか」質問しないから、その程度の集団におちついてしまう。

外国人記者のような「戦略」をきく鋭い質問をするひとが記者会見場にだれもいなくて、パソコンのタイピングの音しか聞こえない不気味さは、なんなのだろうか?

ICレコーダーで録音した音声を、あとで自動的に文字おこしさせればよくないかとおもうが、きっと自分がそこにいる意味がないからタイピングのはやさと正確さを競うしかないのだろう。
日本の記者は、ろくに質問もしない、たんなる高速タイプライターでつとまるようになっているので、AIに代替される職業になるだろう。

前回の動物愛護法改正で残った問題も、たくさんある。
なかでも、「ペット(愛玩動物)」の流通がおおきな問題になっていた。
もはや、人間の子どもよりペットの犬や猫のほうがたくさん生きているのがわが国の実態である。

それで、ペットといっしょに旅行もしたい、という要望から、ペットと泊まれる宿が、全国にひろまった。
そこでは、ほとんど人間並みのサービスが要求されるから、ペットがよろこぶ宿でないと、リピートしてくれないことになる。

「ペット流通」の問題点は、供給面とアフターケアという入口と出口にある。
供給面では、子犬や子猫の「販売」にかかわることで、アフターケアとしては、飼い主の高齢化と老犬・老猫の対策であって「動物愛護センター」での殺処分ゼロと里親さがしのはなしになる。

こんかい炎上したのは、供給面である。
およそペット先進国といわれる外国の「常識」に、「8週齢規制」がある。

これは、うまれたばかりの「子犬」や「子猫」における、母親と兄弟たちとの生活における「社会化」が、「8週齢」までのあいだに形成されるから、それまでに引き離して個体のあつかいをしないというルールである。

このルールによって、社会化を経た個体とそうでない個体への躾(人間社会で暮らす方法の教育)の効果がことなるという。
だから、しあわせなペットとしては、社会化経験の有無が、その後の一生を左右する問題になる。

人間の寿命が延びたけど、犬の寿命も延びている。
人間が80歳をこえるレベルで、犬は15歳から20歳ということになるから、犬にとっての時間は人間の4倍以上ですすんでいる。

だから、8週齢とは、たったの1週間×4×2、という計算ではなく、さらに4とか5以上を掛けないと、人間と比較できない。
つまり、ほとんどヒトの1年に相当するのだ。

この8週齢規制を、日本犬(6種:柴、秋田、甲斐、北海道、四国、紀州)は除外して、7週齢でも取引を可能とする「付則」をつけることが急遽きまったというニュースから、各動物愛護団体が猛反発したのだ。

理由は、「天然記念物」だから、ということだから、よくわからない。

それにくわえて、この規制「緩和」をしたのが、公益社団法人「日本犬保存会」(会長=岸信夫衆院議員)と同「秋田犬保存会」(会長=遠藤敬衆院議員)だと明記して「報道」した。

理由の取材があいまいなままで、安倍首相の実弟の名前をあげている。
あたかも、供給者の都合に配慮したようにおもわせるが、実態が報道からはわからない。

つまり、緩和の理由がよくわからないままで、ある方向に仕向けることをしているのだ。

もちろん、字面をよめば動物愛護団体の猛反発はわからないではないけれど、なんだか踊らされている感もある。

まことに報道の質のわるさが、社会に迷惑をもたらすものだ。
これを「偽善」というのではないか。

「出エジプト記」のニッポン

旧約聖書をどのくらいの日本人が読んだことがあるのかといえば、あんまり読んだことがあるひとはいないだろう。
日本でも、高級ホテルのナイトテーブルやベッドボードに、聖書と仏典が置いてあったものだが、それらホテルの経営者が、これらの「本」を読破したはなしを聞いたことがない。

経営者にとっては「インテリア」のひとつなのかもしれないが、これで「思いとどまる」ひとがいるのは事実のようだから、客室管理者からすると重要な「本」なのだ。

もちろん、「本」を寄贈してくれる団体は、それが布教活動の一環でもあるし、すでに信者になっているひとへのアフターケアでもある。
厳しいビジネスの世界にいきるひとたちが、高級ホテルの顧客だから、つまずいたとき、自室で「本」を手にしてこころを落ち着かせるひともいることだろう。

そんな信仰をもったひとが、ある意味うらやましいとおもうこともあるが、まず、日本人のおおくは外国人のいう「信仰」を意識的にもってはいない。

娯楽と教育がむすびついて、映画全盛期にはいろいろな「名作」がうまれたが、なかでもこの手の作品のトップは『十戒』(1956年、アメリカ)であろう。

63年前の大スペクタクルは、いまでも一見の価値は十分すぎるほどある。
この作品を鑑賞してから、「本」を読めば、よりいっそう理解がふかまること、まちがいない。

わたしは、この作品にでてくる「モーゼ山」に四回ほど登ったことがあるけど、映画で描かれている山のかたちがおなじだったことに感動した。
ふしぎと、「モナ・リザ」の背景も、モーゼ山にみえるのはなぜだろう?

聖書では、この山頂で「十戒」を授かる。
ところが、下山してみるとエジプトからいっしょに逃げてきた人びとが、浮かれて好き勝手なことをやっていた。
それで怒ったモーゼは、神が十戒を書いた石板を投げると、そこから大地が裂けて、わるいかんがえの人びとを滅ぼすというシーンになる。

まったくおそろしい神様で、創世記の「ノアの箱舟」もそうだったが、全滅させられるのである。
日本映画だと『大魔神』が1966年からの三部作であるが、こちらは、わるいひとだけをやっつけるから、人間に奉仕する神様だ。

これが後世「予定説」となって、カルヴァンが提唱することになる。
つまり、決めるのは「神」であって、ひとではないから、生前に善行をつもうが、最後の審判に影響しない。
そのひとが生まれたときに、神は天国か地獄行きを「予定」したからだ。

ここから、マックス・ヴェーバーの世界的に有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が構成されていく。
ところが、大権威のマックス・ウェーバーのこの説をひっくり返したのが、『マックス・ヴェーバーの犯罪―『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊-』だった。

 

そんなわけで、資本主義はどうやってうまれたのか?
ということが、いまだにわからないことになっている。
人類史の不思議のひとつに、「資本主義の成立」があるのだ。

この「よくわからないもの」を批判したのがマルクスたちだったけれど、こんどは未曾有の厄災を人災としてまねいてしまった。
けれども、伝統的に日本のエリートはマルクス親派だから、よくわからないままの資本主義が大嫌いなのである。

エリートとはどんなひとたちなのかをかんがえると、ちゃんとしたひとたちのはずなのだが、その思想基盤にマルクスへの親近感があるから、じつはちゃんとしていない。
このなんちゃって状態につけこんでいるのが、お笑い芸人たちで、マルクス親派の発言をするとそれっぽくきこえるようになっている。

これを、マルクス親派のマスコミが電波をつかってたれ流して、国民のおおくをマルクス親派に仕立て上げている。
これは、国家をあやつる官僚たちにも都合がいいから、放送法で放送局をイジメたりしない。

これは布教活動なのだろう。
けれども、その対象となる「神」は、聖書の神ではなくて滅ぼされる人びとが信じた「神」だろうから、あぶないのである。

どんな饗宴や狂宴をしていたのか?
映画『十戒』のシーンがおしえてくれる。

20Wで一本5000円の蛍光灯

年末の大掃除からずいぶんと季節はずれの話題だが、リビングの蛍光灯を1年で交換する家はおおいだろう。
電気屋さんにはふるい管の回収箱があるから、棄てるのと購入が同時にできて便利だ。

たいてい「白昼色」だろうが、「電球色」をえらんでいるひともいるだろう。
じつは、こだわると、蛍光灯はけっしてあなどれないほど種類が豊富なのである。

さいきんはLED照明がノーマルになってきて、ちょっと肩身の狭い蛍光灯である。
日本政府は例によっての上から目線で、白熱電球の生産をやめさせた。
こんなことは、作り手のメーカーがじぶんで決めればよいことだから、お節介ではなくて、たんなる余計なお世話である。
どうしても、民間に「命令したがる」習性がかわらない。

白熱電灯を伝統の吹きガラスでつくっていた会社は、倒産の危機をのりこえて、いまでは「うすはりガラス」としてグラス類で有名になったけど、このグラスの愛用者なら吹きガラスの白熱電灯をほしいとおもうが、なにせ「つくってはいけない」と役人がきめた。
まったく自由がない、変な国にわれわれは住んでいる。

あるとき、むかしからつかっていた電気スタンドの電球がきれてしまった。
白熱電球なら百均にあるけれど、たしかに「熱」を発して熱いから、なにげなくLEDに交換してみた。

すると、本の余白が「まぶしい」のである。
しばらくすると、目が痛くなる。
どういうわけかと調べたら、「波長」の問題がみえてきた。

「白」にみえるLEDの光源は、あんがい「青色LED」がつかわれていて、それを黄色蛍光体にあてて白くしているものがある。
つまり、眼精疲労で話題の「ブルーライト」が光源だということなのだ。
どうりで、目に突き刺さるような光である。

さいきんの自動車のヘッドライトも、LEDが採用されているので、夜間の運転にはそれ用のサングラスを着用している。
JIS規格に、夜間の運転に適合したサングラスがあるから、それなら違反にならない。

それでもこのところ運転免許の更新講習で、ハイビームの活用が指導され、ひとの話を早合点したり、応用がきかなくなったひとたちが、都市部でもハイビームのままにして対向車の運転手を幻惑させている。
夜間運転用サングラスをしていても目がくらむから、警察はこの指導をやめてほしい。

それにくわえ、LED照明はほとんど熱を発しないから、冬場の降雪がヘッドライトに付着しても熱で溶けない。
そのまま付着すれば、とうとうライトの役にたたなくなるから、寒冷地では敬遠されているという。

「適材適所」は、こんなところでもただしいのだ。

人間の目には、「虹彩(こうさい)」があって、人種によって目の色がちがう原因だし、その模様のかたちが一生変化しないから、セキュリティ・ドアなどにも応用されている。

この機能は、目にはいってくる光の量を調節することだ。
白人の目が黒くないのは、虹彩がそうなっているからで、かれらは強い光に弱い。

暗くて長い冬がある緯度の高い地域で何世代も暮らしていたり、土地は平坦なのにおそろしく深い森のなかにいれば、うっそうと茂った緑で薄暗い環境にずっといることになるからだろう。

だから、照明にどんな灯りをえらぶのかは、われわれ日本人にはかんがえられないくらい敏感かつ慎重なのだ。
このあたりまで気配りできている宿泊施設は、白人客からかなりの好印象をえるはずだ。

一個の裸電球の下で、一家が夕食をとる光景は、電気から灯りができるという世界史的状況下では、あんがい全世界共通だった。

電気のまえは「ガス」で、横浜の馬車道には、わが国最初のガス灯、として記念碑と復刻したガス灯二本に灯がともっている。
周辺のあかりがあるから、夜になってこのガス灯をみても、いまでは感動の一かけもないだろうが、当時は「昼のようだ」として、見物客があふれ露店がたったという。

若いころ電気工事をしていた父のはなしでは、東北のいなかにはじめて電気がとおって、各家に配線工事をしていたら、ある家の当主から、娘をやるから村で一番最初に電灯をともしてほしいといわれたことがあったといっていた。

35年以上まえになるが、エジプト最大のオアシス「シワ」を冒険したことがある。
カイロから自動車で二日がかりの場所で、クレオパトラがはいったという温泉跡があったけど、ちょうど、この地に電気がきた時期だった。

住人たちは、夜になると煌々と灯りをつけて、まぶしいほどの明るさをたのしんでいた。
毎夜22時に当局が街の電源をおとしたので、暗闇になれてくるにしたがって見えた天の川がわすれられない。

一個の白熱電灯のあかるさが、いかほどのものだったかを感じていたひとたちは、しあわせであったろう。

蛍光灯が発明されると、日本人は消費電力のわりにあかるい蛍光灯をこのんで、どの家も蛍光灯が白熱電灯にとってかわった。
しかし、蛍光灯のあかりを「まぶしい」と感じる目をもった白人は、これを嫌って室内に設置しなかった。

夏になると、太陽をもとめてやってくる北欧のひとたちは、とにかく「太陽光」がだいすきなのだ。
どうやら白人のDNAに、太陽光への欲求がうめこまれているようだ。
それで、太陽光とおなじ波長の蛍光灯をつくりだす。

これが、20Wで一本5,000円の蛍光灯だ。

読書用電気スタンドでもつかえる、同種のグルグル巻きの蛍光管を買ってつけてみたら、すこぶるよい。
まぶしくないから、本が読みやすいのである。
それで、わが家はリビングの器具にこれをつけた。

命令したがる「習性」の経産省が、白熱電球の製造をやめさせて、つぎは一本数百円の蛍光灯をターゲットにしたようだ。
未来の世の中は「LED」を大量生産させれば、付加価値もつくだろうという、あいかわらずの産業優先である。

この発想が、集積回路やパネルで大失敗したことをまだわからないらしいから、おつむのいかれ具合は深刻である。

個人優先で、とっても「高い」蛍光灯をアメリカの会社が東ヨーロッパの国でつくらせていた。
これを輸入して買うから、うそみたいに高価になるが、欲しいものはほしいのだ。

日本メーカーにも、「博物館・美術館用」とか、「色評価用」、「高演色」という種類の蛍光灯があって、ふつうのものより高価である。
目に悪くてものすごく高価なLEDなどつかうのをやめて、こうした理にかなったそこそこの値段の「蛍光灯」を情報強者層はえらんで自宅でつかっている。

つくるときの材料や工程を無視して、LEDの「省エネ」をおしつける経産省の法学部出は、どうしても科学となじめないようだ。
ハイブリッド自動車も、燃費はよいがその前にあるリチウム電池の製造と廃車後の回収を考慮して「エコ」だと定義しているとはおもえない。

「上質な」蛍光灯も輸入品をつかわないといけないのか?
それとも、国産のメーカー在庫があるうちに買いだめしておくか?

どうやら製品をつくることはできても、マーケティングができない無様が日本のようだ。
企業がマーケティングに疎いのではなく、役所がそもそもマーケティングをしらないからだ。

個人優先の思想体系がマーケティングだからである。

このようにしてソ連は滅んだ、を地でやっている。

もらって困るビール券

むかしは町内に一軒以上の酒屋があったが、個人営業の酒屋をほとんどみなくなったから、もらった「ビール券」がどこでつかえるのかをかんがえだすと、けっこう面倒くさいことになっている。

安売りのチェーン店が出てくる前は、チケットショップで購入したビール券をつかえば、なにがしかの「お得」があったのだが、この方法はビール券がつかえない安売り店では効力をうしなった。

いまでは、大型スーパーでもビール券をつかえる系統とそうでない系統があって、コンビニでも同様な系統があるから、ちょっとやそっとでおぼえられない。

しかたがないから、つかうまえに「このお店ではビール券はつかえますか?」と確認してから商品選びをするのだが、「つかえますよ」といった店で、ビールに「しか」つかえない、といわれることもある。

発泡酒やスピリッツ類も対象外だとレジでいわれれば、「???」がつきまくって、ぜんぶの購入をやめたくなるし、こんな店で二度と買い物をするものかと八つ当たりもしたくなる。

はたして、ビール券とはなにものなのか?
全国酒販協同組合連合会が発行する商品券である。
それで、この連合会のHPでは、「券面表記の商品とお引き換えいただける商品券です」と説明されている。

なるほど、券面表記されているのは「ビール」なのだから、ビールに「しか」つかえません、ということはただしいのだろう。

けれども、おなじHPに、小売店向けの案内もあって、「全国の酒類を扱う小売店様でのご利用を特約しておりますので、お客様が交換に来られましたら当該商品との交換をお願いいたします」とある。

つまり、「ビール」と表記せずに「当該商品」という曖昧な表現になっている。
さらに、小売店での利用を特約している、ということだから、そのお店の商品とも交換できそうな雰囲気がある。

発行者の免許として、登録番号 関東財務局長 第00090号/社団法人 日本資金決済業協会、と明記されている。
まずは、岡っ引きである一般社団法人のHPをみると、「前払式支払手段」についての説明がある。

これによると、「ビール券」は、資金決済法の「第三者型前払式支払手段」に該当し、発行者である「全国酒販協同組合連合会」は、第三者型前払式支払手段発行者として、管轄する財務局長あて登録申請をして、発行者としての登録をしなければならない。
それが、上述の登録番号の意味である。

ちなみに、ホテルや旅館、あるいはレストランなどが、じぶんの店舗や資本関係のある店に「かぎって」つかえる前払式支払手段(宿泊券や食事券)を発行するばあいで、基準日という、毎年3月末と9月末に発行残高が1,000万円を超えると「自家型発行者」として法の適用をうけることになる。

これの適用対象になると、基準日における発行残高の半分以上の額を、供託金として最寄りの法務局に供託しなければならない。
供託方法はいろいろあるが、手数料をなるべく安くするなら、日銀本店(各道府県にある支店でもよい)に行って、直接国債を購入して、その国債を法務局に持ちこむ方法がある。

これなら、基本的に交通費だけですむが、係の従業員がそのまま逃走するリスクはかんがえておいた方がいい。
日銀には、現金をもっていかないといけないし、購入した国債だって、かんたんに現金化できるからだ。

政府は「電子決済」を推進するといって、例によって民間に負担を強要しているが、日銀と財務局というおおもとでは「現金主義」を貫いているのだから、なにをかいわんと笑えるはなしである。

だから、経営が弱小なのに宿泊券や食事券を、安易に発行すると、供託金という経営にとって重要なキャッシュの一部を国に有無を言わせず預けなければならないから、慎重な検討がひつようだ。
ホテルやレストラン企業の決算書で、資産の部に「国債等」とあれば、この供託金のことだとおもえばよいし、二倍にすれば発行残高がわかる。

もっとも、こうした制度をつくっているのは、発行者が倒産したときの購入者や、もっているひとが困らないようにするための「保険」になっていることだ。
ならば、ほんとうの保険でいいではないかとおもうが、政府は保険業界も信用していないという「無間地獄」にはまりこんでいるのが日本である。

さて、それで、ビール券はどこでどうやってつかうのか?
消費者としては、ビール以外の酒類も、おつまみも、その他その店舗で売っている商品にも適用してくれたらうれしいものだ。

これが鷹揚にできていたのは、お店のレジがたんなるレジスター(金銭登録機)だったからで、酒屋のおじさんやおばさんが、ある意味厳密な売上・在庫管理をしていたのではなく、組合に持ちこめば現金になるということだけだったからだろう。

ふるきよき時代の適当さが、あんがいサービス面でのまとを得ていて、家にちいさい冷蔵庫しかなくても、人寄せでこまらなかったのは、電話一本で配達してくれる近所の酒屋が冷蔵庫代わりだったからだ。

これがややこしくなったのは、レジスターがPOSレジに進化して、さらにそのシステムのなかでの決済機能と金種管理機能が、ビール券との相性の一致・不一致という設計のバラツキを生んで、結果としてサービス内容を決定するようになったのだともかんがえられる。

すると、レジ係のひとに八つ当たりしてもしかたなく、そんな機能しかないPOSレジの機種を選んだ経営者が、ぜんぜん客サービスに徹していないということになるから、やっぱりそんな店で買い物なんかするものかと、こんどは確信にかわるのである。

平成17年9月から、ビール券には有効期限がついている。
期限内につかわないと「紙切れ」になるから、なるべくはやくつかわないといけないし、どの店でつかえるのかまで「Google先生」にきかないとわからない。

やれやれである。

マグネシウムをたべる

ずいぶん前に「現代の栄養失調」というタイトルでかいたし、このブログではけっこうミネラルについてふれている。

国立がん研究センターの発表で、マグネシウムが注目されるようになっているから、くわしくはそちらで検索されることをおすすめする。

「ミネラル」というと「ミネラル・ウォーター」が連想されるほどに、日本人の生活に普及したのがボトル入りの「水」である。
「おいしい水道水」の普及があったから、わざわざお店で清涼飲料水ではなく、飲料水そのものを買うという発想があまりなかった。

「外国じゃ水道の水がまずくて飲めないらしいよ」
といって、日本にいることの幸せをかんじたものだ。

じっさい、エジプトのカイロでくらしていた35年前もいまも、彼の地の水道水をそのまま飲むのは、免疫力に自信がないと勇気がいる。
生活しているのだからと、着任後半年ほどしてから、多少の下痢はかくごして慣らしたけれど、観光旅行ならやめたほうがいい。

概して、地層の形成から、日本は石灰質の岩盤があまりないので、湧き水や井戸水にミネラルがはいっていない。
こうした水を「軟水」という。

反対に、欧州などの地層には大理石の産出があることでわかる、石灰質の岩盤があるから、カルシウムたっぷりのミネラル・ウォーターが湧いてくる。
こうした水を「硬水」とよんでいる。

それで、WHOは以下の基準をもうけている。
軟 水:硬度0~60未満
中軟水:硬度60~120未満
硬 水:硬度120~180未満
超硬水:硬度180以上

富士山の名前がついている日本の伝統的な「ミネラル・ウォーター」は、なんと硬度28という「軟水」であって、ミネラル・ウォーターといっているのに、ミネラルがあんまりはいっていない。

フランスの有名なミネラル・ウォーターは、硬度300をこえるものもあれば、軟水に分類されるものもあるから、表示で確認しないとわからない。

日本の水道水は、ほとんどが軟水だが、サンゴがある沖縄や鍾乳洞で有名な山口県では硬水なのが特徴だ。
ミネラルの多少が、酵母の活動に影響するから、酒や醤油づくりには、製品品質をきめる大事な要素になってくる。

さて、人間をふくめて、生命の起源をたどれば、海だったから、わたしたちの体内にも、海での生活のなごりがあることはしられている。
成分として、「塩(塩化ナトリウム)」がもっとも有名で、かつ、欠乏すると生命にかかわるから、宿敵どうしであっても「敵に塩をおくる」ことがある。

それに、カルシウムというミネラルも、骨や歯の主成分だから、不足するとこまったことになる。
そうやってかんがえると、マグネシウムは地味なミネラルである。

しかし、海水にふくまれるマグネシウムの量は莫大で、ほぼ無尽蔵という資源でもある。
だから、海からやってきたわれわれのからだには、マグネシウムは必須なのである。

人間もふくめた生命体の体内活動は、ほとんど無意識な化学反応である。
この化学反応を、スムーズに促進させるために「触媒」という役割の物質がさまざまに存在しているが、なかでもマグネシウムが、触媒として重要な役割をはたしているという。

その役割は、300とも700種類ともいわれる化学反応に関与しているというから、おどろきである。
だから、マグネシウムが不足すると、おもわぬ病気をひきおこすことがわかってきた。

がん、高血圧、糖尿病などがあげられているから、いいかたをかえれば「生活習慣病」そのものである。
それで、もしや「マグネシウム不足」が原因か?というはなしになってきているという。

マグネシウムを取り入れる方法はふたつ。
ひとつは、「食べる」ことである。
サプリではなく、食品からとりましょう、と推奨されている。
その食品とは、伝統的日本食におおいのも特徴だ。

蕎麦、海苔、ヒジキ、豆、雑穀、抹茶、ゴマ、ワカメ・昆布、青野菜、魚、椎茸、牡蠣、芋、トウモロコシ、果物。

なにげない食品にふくまれている。
それなのに、マグネシウム不足なのは、これらの「なにげない食品」を、そういえばあんまり口にしていない。

もうひとつの摂取方法は、入浴。
マグネシウムがはいっている入浴剤で、皮膚からとりいれる。
なるほど、むかしの海水浴の意味がわかる気がするではないか。

すると、これは、いがいと宿泊施設で応用できそうだ。

「マグネシウム摂取プラン」というアイデアになる。

なお、豆腐をつくるときの「にがり(塩化マグネシウム)」をそのまま飲む、というのは危険だという見解がある。
タンパク質を凝固させる作用があるから、そのまま大量に飲むと、内臓のタンパク質が硬化するからだというし、腎臓病患者には御法度だ。

伝統食の見直しは、地域観光の要であるから、やはり食品を料理してさしあげるのがよろしかろう。

従業員に本当のことがいえない

業績がふるわない企業ほど、従業員に業績発表をしない。
けれど従業員も、興味がない、から気にしない。
なぜ従業員が興味をうしなったのか?
いわれたことだけをやればいい会社だから、余計なことに興味を失っている。

会社の業績が従業員にとって「余計なこと」になったら、将来の業績の回復も見込めない。
もし、業績が回復しそうだとなっても、これらの従業員はけっして喜ばない。
「ああ、仕事がふえる」としかかんがえないからである。

もちろん、従業員に業績発表をしない会社なら、資本関係がない取引先にもおしえない。
それどころか、「秘密」あつかいにしていることだろう。

しかし、世の中のおカネをむかし「御足(おあし)」とよんだように、足がはえて勝手に歩きまわるような感覚があった。
経済は、連動しているのだから、「御足」といういいかたは、経済を適確にとらえた言葉遣いである。

だから、取引先は、入金だけでなく、自社が納入している物品の量と質をみれば、相手先がどんな状況かは把握できる。

これは、政府統計という巨大なデータでもおなじで、信用できない巨大な隣国政府の統計だって、「輸入」の量と金額はごまかせないのとおなじである。
輸出した元の国々の情報から、全体像がうかびあがるからだ。

そんなわけで、二流以下の経営者は、取引先からながれる正確な情報に、自社から「秘密」が漏れていると疑い、とうぜんに嫌疑を従業員に向ける。
こうして、人間関係まで崩れれば、組織の崩壊は目前となる。

業績の良し悪しにかかわらず、ちゃんとした経営者は業績発表に躊躇はない。
業績発表は、ある意味経営者の通信簿だというが、たとえオール1でも、恥を忍んで発表し、次期以降のバネとする。

納入業者もつかう従業員出入り口に、毎月の業績と将来予測を張り出すホテルがあった。
そこでは、パートさんも時間中に招集して、業績の「紙のみかた」をレクチャーし、どうしたらよくなるのかアイデアを募集すると公表もした。

どんなアイデアでも出したひとには金一封、そのアイデアが採用されたひとには表彰制度をもうけた。
それで、まずは「他人ごと」を排除したのだ。

すると、このはなしが取引先にも「漏れ」て、取引先からもアイデアがでてきた。
シーズン前に、地元名物の一次産品を集めたフェアをやるという「おふれ」をだして、あたらしい取引先まであらわれた。

さて、そうかんがえると、よくいう「情報の共有化」が、どれほど実務に役立つかの両極のはなしが上述のとおりである。
しかし、世の中には、まん中の事例もあるのだ。

現在の業績がそこそこ好調でも、「情報をださない」という爆弾をかかえている事がある。

なかでもそれが、就業規則や賞罰規定にかかわることだと、事あるばあいに示しがつかなくなることは容易に想像ができる。
にもかかわらず、これらの情報を従業員に提供しないのには、「中小企業」の甘えの構造がみてとれる。

従業員をもって一家を成す、という「家族主義」は、日本人のこころの琴線にふれる感涙主義でもあるのだが、うらをかえせば「なぁなぁ」なのである。

政治の世界なら、桂園時代という一時代がはるかむかしにあったものだ。
桂太郎と西園寺公望が、交互に総理大臣をつとめた時代をいう。
桂は陸軍出身で大将にのぼりつめたひとだったが、「ニコポン」というあだ名があった。

ニコッと笑って相手の肩をポンとたたく。
「頼んだよ、よろしく」という合図であって、けっして言葉にはしない。
それで、ことがなった時代だけど、いまでもあんがいかわらない。
言ってないから「忖度」ということになるからだ。

いわゆる「家長」としての社長が、わるいようにしない、と家族である従業員に約束すれば、それでよしとしたからで、あからさまに文句をいうなら、文句をいうほうが悪者あつかいされたのだ。

しかし、いまは、典型的な「家長」としてパターナリズムの権化だった、医師までもが、患者から「セカンドオピニオン」を請求されたらことわれないし、治療方針についてのわかりやすい説明と患者の同意である「インフォームドコンセント」が普及してしまった。

ならば、会社だって役所だって、ききたいことは確認する、というあたりまえがあたりまえになった。
それで、先回りして「説明責任」をはたすほうへ行くひとと、何もなかったかのようにするひととにわかれたのだ。

それで、後者たちは、ついに従業員から質問されることをこころのなかで「痛い」と感じるようになった。
そんなわけで、こわくて本当のことがいえないのである。

これは、父権の喪失ということとおなじで、「家長」の立場放棄なのである。

業績のよい会社ほど、傷が深くなる。

社長のリスクと部下のリスク

人間だから、だれでも「じぶん中心」に物事をかんがえる。
「自己中」は、あたりまえなのである。
しかし、そこで、一歩たちどまって再考することができるか、できないかが、ほんとうに物事をきめる。

社長にもとめられる「無謬性(まちがえないこと)」は、カリスマ性につながっているから、この間まで従業員だった人物が「社長」になったとたんに、神様のようなふるまいを要求されるようになる。

そして、社長に選ばれるような「まじめ」な人物であるほどに、その要求を「理不尽」とせず、きちんと受けとめようとして、「権威主義」の誘惑に負けるのである。

あたりまえだが、上述の誘惑をものともしない「人物」もいる。
「社長」とは、なにをする役割なのか?について、たちどまってかんがえたひとである。

こういうひとは、情報に敏感でかつ飢えている。
いわゆる「丸投げ」を嫌う。
それで、会社に持ちこまれるさまざまな情報に、みずから直接接することを「ふつう」だとかんがえるのである。

資本集約的な産業(高度な機械設備などを要する)にいれば、その導入について部下まかせにしない、という意味だ。
みずから積極的に良否を判断するための勉強をする。
そんな会社は、「小田原評定」をきらうのはあたりまえである。

労働集約的な産業(人間による仕事が主になる)では、ひとの採用について、担当者まかせにしない、という意味だ。
ホテルや旅館業は、土地と建物がないと成立しないから、資本集約的な産業であるけれど、接客のための従業員が不可欠だから、労働集約的な産業でもある。

だから、ほんとうは製造業の社長よりも、かんがえなけれなならない範囲がひろいのだ。
これに、かんがえる深さもあるから、ものすごく難易度がたかい。
その責任者としてのリスクもおおきいのだ。

一方で、社長以外の「部下」をみると、自己中でいられる立ち位置でもある。
じぶんは社長になる、とおもわなければ、よりその立場がはっきりする。
だから、現状維持が重要なのだ。

たくさんいないはずの、じぶんは社長になる、とおもっているひとは、もちろん現状維持を優先などしない。
それよりも、じぶんのしごとにおける失敗をきらう。
これは、社長のイスが近くなればなるほどにでてくる傾向で、さいごは同僚の失敗を歓迎するのである。

あたかも、現状維持とそうでないひとのかんがえかたはちがって見えるのだが、じつは本質的にはおなじなのだ。
つまり、失敗をしてはいけない、という強い思いがあるということだ。

これが、「大企業病」の病根である。
その病気をより悪化させるのが、トップによる権威主義の存在である。
だから、トップがみずからの役割に忠実で、かつ誠実ならば、大企業なのに大企業病に罹患すらしないでいられる。

ひとは、こういった会社を、尊敬をこめて「優良企業」とよぶ。
たんに、業績がよい、という意味ではないから、区別のために「超」をつけることもある。

大企業でないのに「大企業病」になってしまっている会社もたくさんあるのは、上述の「メカニズム」がおなじだからである。
だから、規模の大小はとわない。

すると、どうやって「優良企業」のようになれるのか?ということの方法論がみえてくる。

「失敗をしていい」という風土を、トップがつくればいいのだ。
しかし、これだけでは言葉遊びになってしまう。
「もの」や「こと」の本質をみるめをやしなう訓練が、組織的に必要になる、という認識がなければならない。

たとえば、「もの」の売りこみならば、採用したばあいのメリットとデメリットのかんがえられるかぎりでの比較検討だ。
ふしぎなもので、かんがえられるかぎりでの比較検討、を繰りかえしていると、かんがえる範囲の「かぎり」がひろがるのだ。

その「もの」を導入した部署いがいにも、影響がおよぶことがある。
すぐれた「もの」ほど、影響がつよい。

すると、人物評価や査定における基準が、従来の「あたりまえ」ではなりたたない、という影響もみえてくる。
その「あたりまえ」が、「失敗はゆるされない」をつくるからだ。

そうやって、居心地のよい、けれども業績がふるわない企業ができて、従業員から見放されれば、人材もあつまらないという循環になる。
人口が減っているからしかたがない、のではなくて、そういった循環を自分たちでつくっているのだ。

なぜなら、応募がたえない会社はたくさんある、という事実がしめしているからである。

ドレスコードがない

日本人は、自由の「はきちがえ」をしている、とずいぶんまえから指摘がある。
「本来の」自由と、「にせものの」自由とは、なにがどうちがうのか?

ガラパゴス化した日本の自由とは、なにをしてもいい自由、のことで、枕詞に「他人に迷惑をかけないかぎり」がくっついて、親が子どもにいいきかせる小言とおなじになる。

自由の本場、英米を中心とした国々では、「他人からおしつけられることなく、じぶんでじぶんの人生を決める自由」をいう。

これが行きついたのは、スイスにおける麻薬摂取所の開設だった。いまでは、30カ国、オランダやドイツ、カナダ、スペイン、デンマーク、そしてフランスにもある。

スイスではもちろん「国民投票」できまったから、行政が各町の町はずれに、あたかも日本の交番のようなちいさな建物をたてて、ここに専門家を配置し、やってきた常習者が希望する麻薬を無料で打ってあげる。

その後は、この施設内の休息所にて至福の時間をすごすことになっているから、幻覚がある時間、本人は外にでることはない。
「乱用」となって急死しないような配慮と、入手のため犯罪に手を染めることを防止する、という社会的機能が必要だとみとめられたわけだ。

しかし、この決定には、じつにドライな概念があって、麻薬常習者を救うというよりも、社会に対して安全に、しかも確実に世を去ることを、本人の選択だ、としていることである。
いうなれば、社会が「廃人」を認めたのである。

誤解がないように添えるが、もちろん、本人が悔いて「治療したい」と希望すれば、すぐに病院に行けるが、中毒症状の完治まで病院から出ることはできない。それも、本人の選択だからだ。

自由の「本家」たちは、自由について厳しいのである。

これを裏返したのが、ソ連にあった「自由剥奪」という刑罰だ。
人間が動物として持っている「欲(生理的・本能的:食欲・飲水、排泄、睡眠、体温調節)」に対しての自由を国家がうばう、という刑罰とは、人間性の否定でもあった。

つまり、たんに「自由」といっても、たいへんに守備範囲がひろいことばなのである。

そんなわけで、電車の床に直接座りこんだり、車内で化粧をしたりするのが「自由」だという主張は、自由の「本家」からしたら、たんなる「マナー違反」にすぎない。

電車の床は人間が座る場所ではないし、電車の車内は化粧室ではない。

マナーとは、人間社会における相手を思いやる最低限のルールだ。
だから、マナー違反は、他人に迷惑をかけているから、「自由」にしてはいけないのである。

お行儀よくすることと、マナーが混同されて、ぐちゃぐちゃになってしまったのが昨今の日本社会である。
それが、自己主張と権利という概念につながって、もはや、こうしたマナー違反を他人が注意することもはばかれることになった。

注意した側が、相手からどんな攻撃をされるかわからなくなった。
いきなり刺されることだって起こりうるのである。
とにかく、みなかったことにする、なかったことにする、ということが、もっとも安全な対策になったのだ。

そんなわけだから、高級ホテルに「ドレスコード」がない。

服装というものは、身だしなみだけでなく、TPOに応じた場所ごとのルールがある。
酷暑なら、短パンにTシャツでいたいところだが、そんなときの婚礼や葬儀にそんな格好で参列するひとはいない。
周囲からあやしまれて、じぶんが恥をかくからだ。

中身のじぶんは変わらないのに、服装が決定的な役割をになっている。
だから、一方で「コスプレ」が世界的に認知されるのだ。

このことをわかりやすく書いてあるのが、マーク・トウェインの傑作『王子と乞食』である。

児童文学だからといって、ほんとうに子どもの時分に読んだものは、「原作」に忠実な訳だったのか?というと、あんがいあやしい。
かなり省略されていることもある。

その省略は、現代の(日本の)価値感が基準になっているばあいもあるから、それなりにおとなになってから読み返すのは、意味のあることだし、あたらしい発見もある。

たとえば、『ロビンソン・クルーソー』もその好例だ。

 

見よ、この分量とページを埋めつくす段落なき活字の海を。
絶海の孤島から、アヘン貿易で儲けた主人公は日本をめざす冒険もする。
これが、「児童文学」なのか?

もちろん、『王子と乞食』の時代背景を理解するには、シェークスピアの『ヘンリー八世』は不可欠だ。

こうした、歴史から、カーライルの『衣装哲学』がうまれたのだろう。

かんたんに「衣装」とはいうものの、奥が深いのである。

先進国の高級ホテルで、ドレスコードを明確にしない、できない国になっいるのは、恥である、という「恥」をもわすれてしまったのか?

世界に通用することではない。

日本の中途半端なやさしさを否定したWTO

日韓関係は「最悪」になっているが、政治ではなく「科学」でかんがえると、本件はまっとうな判断なのではないか?
むしろ、これをそれぞれの政府が政治に利用したがるだろうし、それを支持するひともでてくる。だから、やっぱりまっとうなそれぞれの国民には迷惑なことだ。

日本では相手が韓国だからという理由なのか、このたびのWTOの「逆転敗訴」が、あたかも「不当」のような主張がなされている。
しかし、福島原発事故による八県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物輸入にかんして、いまだに禁輸措置をしている国・地域は23もあるのだ。

ほんとうに「不当」なのであろうか?

問題の核心は、「安全性」にあるのは当然だが、「日本政府が『安全』宣言している」から安全だということは「科学的」にいえない。
さらに、日本政府は「科学的」だと一審で事実認定されたこと自体は維持されているともいっている。

「科学」にもとづいているから、「安全なのだ」という「主張」なのであるが、今回の上級委員会は、「WTOでは食品の安全性について科学的証拠が不十分な場合、暫定的に規制を認めている」との韓国の主張に対し、日本は反論しなかったとも指摘」しているのだ。

すると、あたかも「反論しなかった」日本側の落ち度が「痛い」ことに矮小化されそうだが、「反論『できなかった』」のではないか?という疑問すらうまれるのである。

なぜそんな疑問がうまれるかというと、日本政府は事故以来一貫して(民主党政権から現行政権になっても「一貫して」)、放射線物質による汚染状況をほとんど発表していないどころか、隠蔽しつづけているからである。

この態度は、100億円以上かけて開発していた「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information、通称:SPEEDI)」というものの存在すらひろく国民が認知していたわけでもなく、しかも、「試算」であって「誤解をまねくおそれがある」という理由で、事故後に計算結果の発表もしなかった。

のちに、政府は発表もしなかったことを「謝罪」しているが、放射線による影響という問題だから、「ごめんなさい」ですむはなしではない。
国民の「被爆」について、まったくの無責任を貫いただけであった。

さらに、愕然とさせたのは、事故後、放射線の安全基準が「変更された」ことである。
「一年間に1ミリシーベルト」まで、を金科玉条のごとくまもってきていたはずなのに、なんの根拠かわからないうち(いまだにわからない)に、「20ミリシーベルト」になった。

この根拠不明のあたらしい基準で、ものごとがかたられるようになったけど、国内では「基準内だから安全」となって、マスコミもこの情報をたれながした。

いわば、「大本営発表」になったのである。

むかしの戦争の「反省」などぜんぜんしないで、ただ「戦争はいけない」と唱えれば戦争にならないという「宗教」だけでやってきたから、あっさり「大本営発表」にのってしまうのは、脳の劣化である。

日本政府は国内がおさまれば、あとは関係ないという「鎖国」をモットーとしているから、国内情報操作に成功してホッと息をついたら、おおくの外国が「安全性に疑問がある」と、「禁輸」の措置をとったので、あわてて国内での「成功体験」で押したのである。

それで、とうしょ禁輸を54カ国がしたが、上述のようにいまは23に「おさまって」いる、という具合である。
大親日でしられる台湾すらいまだに禁輸していると、韓国を前面に出すマスコミは「そっと」伝えるのも、いかがなものか?

そんなわけで、われわれ日本国民は、どんなふうに「汚染」されているのかもしらず、基準値の「科学的根拠」もしらず、政府や農協が「安全」というから「安全」なのだ、といってWTOがおかしいといっているのだから、冷静にみればどちらがおかしいのかはあきらかだろう。

これは、中途半端な「やさしさ」が諸悪の根源なのである。

漁業従事者の生活をどうする?
農業は?水は?なかんずく除染ができない山中の山菜や野生動物は?
そもそも、ひとが住みつづけていいのか?

事故後のネット上のニュース番組で、保守系論客を自認している有名女性ジャーナリストと、自由な報道をめざす若いジャーナリストとの対談があった。
若者が、「放射能の影響を報道しないのは犯罪的だ」と発言したら、「そんなことをいったら当人たちが可哀想だから、ぜったいに報道してはいけない」といいきって、若者が絶句していた場面がある。

すくなくても第一次産業はなりたたないとか、もう住めないから永久避難だとかいったら、可哀想だということだ。
それに、汚染でどこまで「放棄」しなければならないかを「厳密」にしめしたら、東日本全体になるかもしれないし、そうなったら「パニック」になって国家がもたない。

この有名ジャーナリストは、政府のお先棒をかつぐのが「『保守系』ジャーナリズム」だと自己定義しているにちがいない。
それなら、わが国の報道機関のありようが、たしかに見えてくるから「失言」ではないが、こんな人物の発言をありがたがることはない。

可哀想なのは、なんにもしらないで発病してしまうひとたちである。
もちろん、このなかにわたしもふくまれる。
かつての「水俣病」や「イタイイタイ病」の教訓が、ぜんぜんいかされていないどころか、ガン無視されているのだ。

こころを鬼にしてでも、事実を事実として伝えるという愚直さがなければならないが、もうそんな気概すらないのだろうか?
最初から無責任な政府に期待はできないが、気概をもって国民が求めないからこうなるのだ。

健康な国民がいるかぎり、国家がもたない、という理屈はないのだ。

ことばだけで科学をいう国が、これからの将来、「科学技術立国」などできるはずがない。
そんな基盤がない国で、もっと高度な「観光立国」など、夢のまた夢である。

Capitalization Rate がしめすバブル

金融における異次元緩和という「麻薬」をたっぷり吸い込んだために、じぶんでかんがえることができなくなった日本の経済は、財界もなにも、こぞって政府依存していると批判をくり返してきた。

日銀の金融緩和「しか」中身がない、「アベノミクス」なるものは、たんなる「イリュージョン」であるし、むしろ政府が富を分配する役割を負うことを推進するから、社会主義経済を強化する「トンデモ」政策である、と。

だから、アベ左翼政権が、「一強」になっているのだとも書いた。
もともと左翼政党しかない「野党」にあって、かれらの主張を丸呑みしているのがアベノミクスだから、政権批判の対象がスキャンダルしかなくなってしまうのだ。

そういう意味で,「野党はアベノミクスにかわる経済政策をしめせ」という、もっともらしい有名評論家の「評論」は、的を外している。
野党の本音は、アベノミクスの「もっと強力な推進」になるからである。

すなわち、もっと「麻薬をくれ」という、悲劇的な叫びになる。
だから、野党の支持がぜんぜんない、ということになって、まるで自民党の一人勝ちにみえるが、単純に「選択肢」がない、というだけの、やっぱり国民には悲劇的な現象なのだ。

アベノミクスの「イリュージョン」は、おカネを市場に大量供給すれば、デフレからインフレになる、という説明だが、この目的にみあった現象が実現しないから、いつのまにか看板をさげた。

その前に、あまったおカネで株価があがって、株式投資しているひとたち「だけ」が、得をしたようにみえた。
ところが、いろんな事情から株価が「やばく」なって、株価を支えようと大量買いして、とうとう日銀が日本株の「大株主」になってしまった。

こうして、市場に供給された、ヘンテコなおカネが、企業の設備投資ではなく、例によって不動産にむかっている。
しかし、静岡の銀行がしでかした「不正融資」で、事業用不動産に貸し出すな、という命令を金融庁さまがだしたから、居住用不動産に集中しているのである。

人口が減るトレンドが消えるわけもないわが国で、とっくに新築住居が世帯数を超えているのに、みなさまのご近所では住宅建築のつち音も消えていないだろう。

自動車に次ぐすそ野が広い産業は、住宅産業である。
家具などの動産をふくめ、さまざまな物品の需要がうまれるからだ。
それで、これが「景気対策」になっている。
「空き家」には、目もくれないのが特徴だ。

Capitalization Rate というのは,いわゆる「キャップレート」といわれるもので、不動産投資の利回りをしめすものだ。
用語として、「還元利回り」とか、「収益還元利回り」とか、「期待利回り」ともいうが、みな「キャップレート」のことである。

計算方法は単純で、純利益(年間) ÷ 不動産価格、である。
これを、逆算して、年間「期待」利益 ÷ キャップレート、で「収益から見込んだ不動産価格」が計算できる。

なお、「純利益」とは、必要経費を差し引いた利益のことだから、あいてが不動産だと「管理費」や「修繕費」などの大物経費を引き算する。
これらは、人手不足の昨今、増加傾向にあるから、いくらぐらい稼げるのか?という「期待」との関係では、マイナス要因になっている。

いま、東京の居住用不動産のキャップレートは、リーマンのころから半減して、おおむね3%台にある。
これだけ金融緩和してもインフレすなわち物価があがらない、物価のなかには「賃料」もふくまれている。

つまり、賃料はかわらないかむしろ下がっている状況にあるから、キャップレートが下がっているということの理由は、不動産価格が上昇している、という意味になる。
すなわち、バブルではないか?

政府がバブルをつくりだす、というのはあんがい伝統的な政策手法だから、いまさら感があるのだが、昭和の終わり=平成のはじまりの「バブル」をおもいだせば、この「政策のワンパターン」に、あきれるほどのお気軽さを感じずにはいられない。

令和における「バブル崩壊」は、どんな事態になるのだろうか?
もはや余裕のない金融機関が、はたして耐えられるのか?どころか、日銀すら耐えられるのか?

ちなみに、キャップレートをもちいる「収益還元法」は、投資家にとっての正攻法だから、不動産売買の対象ににもなる旅館やホテルにさんざん適用された。

いまどき、自社ホテルが、簿価で売れる、とかんがえる経営者はいないだろうが、純利益がいくらだから、いくらの不動産価値になるという計算はたまにでもやっておくとよい。

周辺のアパートやマンション賃貸業より利回りがわるいなら、よほど経営がうまくないという指標になる。
また、簿価が現実に役に立たないことをしれば、なんのための「簿価」なのか?ということにも気がつくものである。