欲求不満が事故の元

企業活動で「安全」といえば、スローガンがうたわれる。
これが、月替わりで掲示されるものだ。
「安全第一」は、うそではなく、会社にとっても働くひとにとっても基本にあって、当然とされている。

ところが、事故が絶えない。
安全が第一ではなくて、「なんとなく」ないがしろにされている。

これを「工学」としてかんがえるひとがいる。
人間は間違える動物であるから、「絶対」はないのは仕方がないけど、事故を容認するするわけにはいかない。
それで、事故を防ぐ技術をかんがえるのである。

しかし、「うっかりミス」ということが事故原因のほとんどだ。
この「うっかり」を研究しないといけない。
すると、やっぱり機械の方ではなくて、人間の方が問題になる。

慣れ親しんだ作業だと、からだが覚えていることもあって、あまり深くかんがえずに「なんとなく」やっていることがある。
これが、「注意1秒、ケガ一生」につながる「うっかり」を生む。
しかし、人間は集中や緊張感を持続させることがむずかしいので「ついうっかり」がでてしまうのだ。

だから休憩時間が必要なのである。
強制的に休憩させることまでするのは、過酷な環境での作業や危険作業ではあたりまえだが、軽度の作業だっておなじである。
つまり、作業スケジュールのなかに、休憩時間を無理なく強制的にふくめる段取りが重要で、必須のことになる。

しかし、これがなかなかできない。
きまったルーチンならいいが、変則作業のなかにあらかじめふくめるのは、あんがいと面倒なことだ。
この一種の「手抜き」が、事故につながるのである。

いま、さかんにいわれている「AI」への期待とは、従来ならば複雑で優秀な機械をうごかすのに「プログラミング」が必要だったものを、これからは、機械が勝手に学習してじぶんで動いてくれることである。
つまり、人間の側の「手抜き」が正当化されることへの期待だ。

残念だが、このような機械に代替できない、おおくの作業の現場では、なにも変わらない、ということが発生する。
つまり、本当の手抜きがまかり通ることになるし、それをまた深くかんがえてはいないのが実情である。

俺たちの仕事は仕方がない。

というあきらめでもある。
それでも事故を防ぎたいなら、毎度の変則作業であっても、機械に「プログラミング」をするつもりで作業分解し、危険や事故が予想できる作業上の注意点をあぶり出しておくことは無駄ではない。

これを、仲間で共有して、声かけを心がけながら、じっさいに声かけをおこなえば、かなりの安全性が確保できるはずである。
しかし、現場によっては一人での単独作業になることもままある。
であれば、指差点呼をふくめ、自己チェックの訓練をほどこすことが効果的だ。

たとえば、路線バスの運転手は、安全のためにこうした訓練を受けている。

さらにいえば、安全帽や安全眼鏡の着用をうっかりしないで事故になるケースもある。
ちょっとだけ追加作業をするような場合であったり、着用が面倒くさいといった場合である。

このときの本人の「心理」は、着用の手間と不快感に対して、安全性の比較をしているものだ。
このときの「基準」は、過去の経験による。
だから、ベテランほど危険で、実際の事故も、この道何十年のベテランが引き起こすことが目立つのだ。

こうなると「うっかり」よりも、さらに「確信的」になっている。

「まぁいいか」

上述の比較判断を瞬時でおこない、その判断ミスが事故になっているのである。

では、なぜこのような判断をしたのか?
そこにひそむ「心理」にこそ、経営者は注目しなければならない。
それは、表面上の「自己過信」である。

しかし、これを「慣れ」からくる「自己過信」として結論づけてはいけないのだ。
その深部には、「自分は特別だ」という心理があるからである。

なぜこのような心理になったのか?
周辺との立場や、経営者たちへの感情すなわち「不満」が、「俺様は特別なのだ」という感情を形成する。
もちろん、こうした場合、「周辺」とは後輩や自分より能力が低いとみなす同僚たちを指す。

その感情が、ルールを破っても問題ないという理屈になるのである。
けれども、大きなルールを破るわけにはいかない。
それで、極々小さな、しかも、現場だけにあるルールを破るのだ。
結果的に、安全帽や安全眼鏡を着用しない、ということになって、とうとう事故を引き起こす。

これを「欲求不満行動」という。

だから、上司は、こうした行動をみつけたら、その場で注意するのは当然だけど、しっかり「心理」の深読みをすべく、行動観察や面談をして、おおもとにある「欲求」を満たすか、なにかで代替することで本人の「欲求不満」を削除するか低減させることが必要なのである。

人間の心の側面は、個々人によってちがう。

だから、AIがすばらしい、とはいかないのである。

自治体広報誌の記事

3月は「春」のイメージと「年度末」が重なる妙な月である。
これを歌ったのが、天才中島みゆきの『春なのに』だった。

どうしてこうなるのか?
それは、わが国政府の会計年度が4月からはじまって翌年3月で終わるからである。
これに、学校も引きずられることになったのだ。
しょせんは「カネ」をあつかう「予算第一主義」である。

世界でみると、政府が暦年を採用しているのは、ヨーロッパ、中国、韓国。
10月からはじまるのが、アメリカ合衆国。
4月開始が、わが国ということになっている。
あんがい、「暦年」が多数なのである。

そんなこんなで、年度末、毎月配付される自治体の広報誌にどんなことが書いてあるのかのぞいてみた。
ふだんは、ポストからストレートに古新聞箱にいくものたちだ。

まずは神奈川県。
横書きなので、新聞とは逆のページが「一面」にあたる。
『かながわ気候非常事態宣言』という物騒な文字のうえには、昨年の台風19号の巨大な渦巻きを、気象衛星からの写真で大写ししている。

記事の内容は、知事の署名があるから、本人によるメッセージなのだろう。
いちおう、このひとは政治部とはいえ元報道記者だった。
どちらの報道機関も社内で「政治部」は、他部よりも格上になっているらしいが、「政局」しか書かない、書けない集団なので、頭脳がなくても字が書ければ勤まるだろう。

オーストラリアの森林火災を例に、「地球はすでに持続不可能な悪循環に陥ってしまったのではないかと心配になってしまいます」と、心配しているのだが、個人ならいいが知事という公人としてだと、こちらが心配になってしまう。

そこで、大写しの衛星写真に言及して、「今の地球の異常な気象からすれば、今後はこういった規模の台風が毎年襲ってくるという前提でさまざまな災害対策を考え直さなければなりません」とは、「前提」がおかしくないか?

わが国を襲った台風の強さや大きさは、いま衛星写真でみることができるからといって、昨年の19号が特別だったわけではない。
むしろ、ヘクトパスカル(むかしは「ミリバール」といった)で比較すれば、巨大な台風は「昭和の時代」の方がたくさんきていて、昨今のほうが「小型化」しているのだ。

それで、「こうした危機感を県民の皆さまと共有し、ともに行動していくことを目的に(タイトルの「非常事態宣言」をだした)」といい、なぜか「SDGs」の理念が突然でてきて「いのちを守る持続可能な神奈川を目指してまいります」と結んでいる。

「SDGs」とは、国際的NGO(非政府組織)である「WWF(世界自然保護基金)」という組織がかかげているもので、2015年の国連総会で採択された、2030年までの行動指針になったものだ。

「国連」というお墨付きがあるから、とうぜんに日本政府が取り組む課題にもなっている。
すなわち、神奈川県知事は国に依存しますと「宣言」しただけのことである。

なお、WWFの世界本部有力者たちは、事故を起こした化学メーカーのトップだったりして、この活動による「免責」を期待していることでもしられ、わが国を震撼させた「ロッキード事件」に関与した人物もふくまれていることに注目したい。

すなわち、あやしいのである。

これは、科学を無視した「政治活動」そのものである。
なるほど、政治記者だった知事の政策としては、本人にとって魅力的だが、県民にとっては「ゴミ」である。
こんなものに血税予算を投じる愚挙を、愚挙といわない愚挙がある。

つぎは横浜市。
林市長はピンクの衣装に身を包んでの写真で、「お花見」を推奨している。もうすでに「お花見気分」で、瀬谷区が候補の「世界花博」が待ち遠しいのだろう。
首相の花見のことは、すっかり他人事である。

「広報よこはま」のいい点は、横浜市のデータとして毎月「人口」と「世帯数」が直近の数字で発表されることである。
しかし、むかしは「市職員数」もあったはずだが。

裏面には「新型コロナウィルス」の「予防」として、イラスト付き解説がある。
こまめに手を洗う。
咳がでるひとはマスクを着ける。(アルコール消毒も有効です)
よく眠り、バランスよく食べる。

「手袋の着用」がないけれど、おおむね文句はない。
けれども、世間には消毒用アルコールもマスクも消えた。
ならば、どうするのか?の広報がひつようだから、「役に立たない記事」なのである。

政府が感染症対策のマニュアルをつくっていないという事実が、自治体にもないという事実をつきつけるから、この広報誌のページを埋める「記事=役所の活動」のほとんどが、やめてもいいものになる。
税金の無駄どころではない、職員雇用の無駄なのだ。

横浜IR(統合型リゾート)のパブリックコメント募集の記事が、ウィルス対策の下にあるけど、前ページには「横浜市新たな劇場整備検討委員会」が、劇場をつくれといっている。
IRのなかにできるのとは、あたかも「別」のようで無駄である。

そして最後のページの最後は、「改正健康増進法」による、4月1日からの「原則屋内禁煙」の記事である。
これは、「法律」だから横浜市のせいではないが、「禁煙ファシズム」のさらなる推進ということで、おおくのひとが「自由を失う」はじまりを告げる記事である。

たばこを吸う自由を失うのではない。
「自由を失う」最初の事例が、「たばこ」であるだけなのだ。

さては来年度からも、自由を失う、住みにくい国や地域をつくる迷惑な努力が止まることなく推進されることだけは確かなようである。

広報誌を読めば、よくわかる。

「技術」と「技能」の喫茶店

うまいコーヒーがのみたい。

むかし、「味」でのませる喫茶店がたくさんあった。
けれども、点在していた。
それで、電車に乗って行ったものだった。

どういうわけか、よく父とふたりで出かけたのは、母を出しぬく理由をつくっていたのかもしれない。
コーヒー好きの父は、喫茶店のコーヒーを飲んではその店で豆を買って、自宅でサイフォンをつかって再現していた。

これを、母に飲ませていたのは、種明かしなしの「勝負」を楽しんでいたのだろう。
子どものわたしは、もっぱらケーキがうれしかった。
店名にもなっている、自由が丘のモンブランの味はわすれられない。けれども、ここの洋酒たっぷりのサヴァランがたまらなく好きだった。

注文すれば、かならず「呑兵衛」になるな。と呑兵衛の父にいわれたものだ。

コーヒーについてくる、クリームがはいった小さなカップは、その小ささが妹のママゴト用食器ににていて、区別がつかなかった。
それに、牛乳とクリームの区別もつかなかった。
ブラックで味見して、クリームをいれたときの交わりかたが、なんだか不思議な模様をしていて、じっとみているとスプーンでかき混ぜられた。

おとなに近づいて、友人に誘われたのがカウンターだけの喫茶店だった。
「ここのコーヒーが横浜でいちばんうまいんだ。」
どうしてそんなことをしっているのか?けっきょくわからずじまいになったが、たしかに「うまかった」。

しかも彼は、カウンターのなかの主人と親しげに話している。
豆のことや焙煎方法、それに挽き方。
それぞれにうんちくがあって、とてもついていけない。
わかったのは、その組合せの無限さが、喫茶店という「店」をつくっているということだった。

同年代で、あんなコーヒー好きに出会ったことがなかった。
もしや、彼は喫茶店のおやじになったか?
ふと入った店で、「おう、ひさしぶり」と声がかかたっら、と想像するとそれは愉快でもある。

生豆から販売する、コーヒー豆専門店ができてきた。
生前の父が、近所にできたことをしってずいぶんかよっていた。
若かったら、彼とおなじぐらいに凝ったことだろう。

はたして、ホテルのコーヒーはどうか?
あんがいぞんざいにあつかわれているのは、大量生産大量消費のためである。
一日で、何百人ものひとたちがコーヒーをすすっている。

サービス業のえらいひとたちは、工業をバカにする傾向があるけれど、ことコーヒーに関していえば、まったく工業的なのがホテルである。
しかも、いまではとっくに時代遅れになった、大量生産大量消費そのものだから、たちがわるい。

ホテル内高級レストランの業績改革で、よくいらっしゃる常連客の好みをきいて、それを管理し、自由にブレンドが可能にしたらどうかと提案したことがある。
食事の最後のコーヒーを、じぶんの名前がついた番号で、今日は5番で、とかいえたら素晴らしくないかと。

これは、米屋の発想で、店内で各ブランド米をブレンドしてあげて、お客の好みのごはんが炊けるようにする。
スーパーの袋入りではない、「専門店」の生き残り作戦だ。
この技術を応用したらどうか?と。

けれども、ここは高級レストランで喫茶店ではないといわれて、この案は却下された。
それからしばらくして、この店自体が業績不振で営業を終了してしまった。

東京の南千住に、喫茶店の世界でしらぬものはいないという名店がある。
平均律を採用した大作曲家、あるいは「ドイツの三B」の筆頭のひとの名前がついている店で、ロゴもこの作曲家の肖像をデザインしている。

オーナーは、元ボイラー技士。
よって、焙煎は自作の焙煎機をつかっておこなう。
いまや、電器メーカーと自動コーヒーメーカーの開発までおこなっている。

「技術」と「技能」のちがいはなにか?
「技術」は、再現性で数式などに置き換えることができるもの。
「技能」は、人間の能力のことなので、パーソナルなものになる。
そこで、技術者に技能がくわわると、だれにもできない世界がつくれる。

このお店のオーナーが、それである。
もてる技術と技能を、「うまいコーヒー」という主観に集中させたら、だれにもまねできないことになったのだ。

あぁ、理系の力。

店名がついた「ブレンド」をいただいた。
渾身の一杯。
つぎから次に訪れるお客の注文をこなす手際の、惚れ惚れする「切れ味」も観賞しながら、この一杯にいたる「組合せ」をみつける作業はどんなものだったのか?

百杯も、千杯もつくっては「ちがう」として、廃棄する。
そんなことを通過してできたのだとおもえば、お客はとんでもないノウハウを買っているのである。
さも簡単にコーヒーを淹れていることで、この値段ではない。

しかも、この店は、ケーキやパンも自家製なのだ。

けっして立地にすぐれているとはいえない場所に、どこからともなくお客がやってくる。
しかし、このひとたちは「長居」しない。
まるで「寿司屋」のごとく、コーヒーで一服してさっと帰る。

江戸っ子だねぇ。

お店の趣旨を理解したお客とともに、別世界がつくられている。

デマがまかり通る阿呆国

街からマスクが消えたとおもったら、トイレットペーパーも、ティッシュペーパーも消えている。
石油ショックのとき以来の、愚挙がはじまった。
この「集団心理」とは、いったいなにか?

結論からさきにいえば、政府が信用できないことからの「自己防衛」である。
そして、これをあおるのが、愚劣なマスコミであり、愚かな政府が油をそそぐ。

福島第一原発のときは、「マニュアルをみない」ということによる「人為的災害」になって、数万年におよぶ厄災をもたらした。
今回は、「マニュアルがない」という、やっぱり「人為的災害」になったけど、「ある」ものをみなかったというのとちがって、あるはずのものが「ない」という現実をみせつけられた。

厚生労働省をはじめとした「日本国政府」には、危機管理マニュアルが「ない」のである。
こんな「まさか」が、露わになったから、国民が自己防衛に邁進して、じぶんさえよければそれでいい、という戦後的価値観がむき出しの社会になった。

これを「顕在化」という。

紙でできている「簡易マスク」が、いつまでたっても供給されず、それがあらぬ妄想から、「紙がなくなる」になってはじまったのが、トイレットペーパーとティッシュペーパーの買いだめによる「不足」である。

突然に、この事象がテレビで放送された。
すると、たちまちにして人びとが「一斉行動」にでたのである。
それであわてたテレビが、こんどは「デマ」だといっても、もう信じないどころか、行動に拍車がかかっている。

わたしの驚きは、いまの時代、世の中にこんなにテレビの影響を受けているひとびとが存在していることの方にある。

そもそも「マスク」だって、ウィルス感染の予防には役に立たない。
けれども、これをしないことが「排除」の対象にまでなってしまった。

九州の鉄道車内での「くしゃみ」や「咳」を、マスクをしないでしていたら、緊急停止ボタンがおされた「事件」も、ガマンができない社会が「排除」をもって対処しようとしたものだ。
ボタンを押した高齢者は、「くしゃみ」=「緊急事態」と発想したのである。

こんなことで電車がとまって動かない状況に耐えられなくなった若者が、高齢者に悪態をついたから、動きだした電車の次の駅で両者が降車させられたという。
はたして、くしゃみや咳をしたひとは、どうしたのかは不明である。

すると、とうとう、紙のマスクを洗濯してつかうひともあらわれている。
マスクを着用しないことが、社会からの排除原因になることを怖れるからである。

まさに、このようにして「ユダヤ人」は、ドイツ社会から排除されたのだ。

現実に、わが国は「無政府状態」になりつつある。
それは、政府が崩壊するのではなくて、国民が崩壊しだしたからである。

いまさらアリバイをつくりたい政府は、なんでもありの政令を乱発して、すすんで「無秩序」な行動を率先垂範しだしてしまった。
過去の感染症流行の経験をもって用意する、行動マニュアルがなかったことをごまかすための欺瞞行動である。

自立の努力をおしまない台湾と、かくも「逆転格差」が生まれたのは、政府とはなにかをかんがえたことがなかったことの「ツケ」である。
すなわち、国民の劣化が政府の劣化をまねくというセオリーどおりがおきただけである。

学校が休みになっても、親は仕事を休めない。
それで、こんどはインスタントやレトルト食品が不足することになった。
子どもが自分でつくれる食事を用意するのは、親の責任であるからだ。

パニックがパニックを呼び込む「連鎖」がはじまっている。

「風が吹けば桶屋が儲かる」のように、政府が計画する発想とはことなる「自由発想の次元」での連鎖反応は、いったいどこまで進むのか?

一方で、ニューヨークでは、「マスクを着用していた」アジア系の乗客がボコボコに暴行された事件は、わが国とは真逆の反応になっている。
すなわち、マスク着用者が「保菌者」あつかいされて社会からの排除を受けている。

一歩まちがうと、みごとな人種差別となる。

すると、マスクを着用していると排除されるのではなく、アジア系は「マスクをしろ」に転換されるかもしれない。

マスクをしない快適は白人に。
マスクをする不快と経費はアジア系に。
こうなると、時代は一気に19世紀的となる。
そこには、忌まわしい「黄禍論」が横たわっている。

われわれ日本人も、黄禍論から逃れることはできない。

もはや「デマ」がまかり通る阿呆国は、国内だけの問題ではなくなっている。

帰りの駅弁考

JR秋田駅。
城下町だった地方都市の典型で、駅が中心部の外にある。
そうかんがえると、城下町をつくった大名たちの都市計画は、鉄道をつくった政府の都市計画の上をいく。
それが悔しかったのか、たいがい城を破壊して県庁にしているものだ。

その典型の変形が秋田市で、県庁も市役所も、城址とは別の場所に隣接して建っている。
全国のどちらも地方最大の産業が、「お役所」になっているから、衰退はまぬがれない。

お役所産業が、全産業を支配して命令し、その見返りが補助金を与えるやり方だからだ。
タコがじぶんの脚を喰らう姿になっている。
だから、役所ががんばればがんばるほど、その地方は衰退する。

秋田県のイメージが全国的に悪化したのは、秋田杉をつかった住宅の販売だった。
県の公社が売ったものが「欠陥住宅」で、訴訟となって広がった。
おそれをなした県は、公社を切り捨てて逃げたから、より一層の「悪質さ」が知れ渡ったのであった。

けれども、秋田県は「教育県」である。
小中学生の学力は全国一。
なのにそれからは、急速に減速して伸び悩むことがしられている。
どうしてなのか?どなたかおしえてほしい。

県立大学は、ふたつあって、「秋田県立大学」と「国際教養大学」。
どちらも「優秀」。秋田県人比率はいかほどか?
国際教養大学は、悪名高い偏差値で東大を抜き去っている。
そんなことから、国立の秋田大学が妙に地味だが、こちらは「国内唯一」の鉱物学を中心にした「国際資源学部」がある。

鉱物学で有名なのは、アメリカのスタンフォード大学である。
こちらの卒業生には、大恐慌のときの大統領だったハーバート・フーバーがいる。
彼は、入学を一度断られたが、個人教授で猛勉強の末に入学したという逸話がある。

日本の「入試制度」は、世界的には珍しいものだ。

スタンフォード大学は、鉱物資源の学問的成果だけで有名なのではなく、鉱物資源によってどうやって「儲けるか」までをカリキュラムにおいている。
実際、これで、彼は若くして財をなす。

さらに、コロンビア大学から『アメリカ史上二人の偉大な技術者』として表彰されたひとりで、もうひとりはトーマス・エジソンである。
フーバーの表彰理由は「工業の規格化」であった。
「規格化」こそが、現代生活をささえる工業の真髄である。

そんなことをおもいながら、秋田駅に着いた。
帰宅予定は5時間後だから、夜の10時をまわる。
つまるところ、駅弁を買わないと空腹になること確実だ。
けれども、やっぱり出発時刻までの時間がすくない。

秋田駅は立派な売り場をかまえるビルと連結している。
それでまず、こちらに飛びこんだが、土産物はあっても「弁当」がない。
どうなっているのか?

それで、ここを出て通路を改札横まで移動したら、「駅弁」の看板をみつけた。
なんだ、やっぱりあるじゃないか。
ところが、店内には土産品がたくさんあって、どこに駅弁があるのかわからない。

一周してみたら、ちいさな手書きのポップで、駅弁は店内奥の左側にあります、と書いてある。
どこだ?
すると、仕切りのない「待合室」側に向けた冷蔵ケースがあった。

なので、店内側からだと「裏側」になっていて、そのまま手にすることができない。
待合室の椅子の裏にまわってみたら、なんと残り二個しかない。
はたして、早い者勝ちである。

出発時刻20分前に、無事駅弁をゲットした。
残り一個だ。
お店のひとは、補充する様子がぜんぜんないから、タッチの差での争奪戦になるのだろう。

しかし、この待合室の先に、コンビニがある。
どんな弁当があるのか?余裕があるこころで見にいった。
すると、いつものおにぎりとサンドウィッチが置いてあった。

せっかく秋田にきて、帰りの一食がこれでいいのか?
あぶないところであった。
なにせ、新幹線だけでも東京まで4時間も乗るのだ。

そして出発すれば、例の放送である。
ワゴンサービスはあっても弁当の販売はない、と。
「みなさま、どうぞご利用くださいませ」が白々しい。
このアナウンスをさせられる従業員が気の毒だ。

きっと、汚い言葉をあびせられることもあるだろう。
なにせ、腹が減ってしまっていれば、冷静さをうしなうこともある。

それでもJR東日本は動じない。
へんてこな「規格」が社内にあるにちがいないのは、嫌がらせが得意なひとたちが経営しているにちがいないからだ。

秋田にある大学をでたひとたちではないはずだ。
すると、思い浮かぶのは、やっぱりこの鉄道会社の幹部たちは、鉄道をつかって移動なんてしておらず、「社用車」の後部座席にふんぞりかえっているにちがいない。

自分がこのシチュエーションにおかれたら、一体なにを感じるものか?
人間ならおなじだろう。
すると、社用車にのっているひとたちは、乗客のシチュエーションを「想像もできない」のだと告白しているも同然だ。

こんなひとたちなら、秋田の弁当屋にも、小数発注しかしない。
あまった弁当が、「コスト増」になるとだけかんがえているのだろう。

秋田新幹線は全席指定である。
当日の販売数のデータから、どのくらいの需要があるかを予測できないことも告白している。

弁当屋がわるいのではない。
鉄道会社に愚か者がたくさんいるということである。

ここに宿でのビジネスチャンスもひそんでいる。
朝、荷物を預かって、弁当の注文をとればいい。
駅であわてることがなくなるのは「ざまー」である。

駅弁考

自分が横浜市民だから、ということになるのを承知で、「駅弁」についてかんがえる。

久しぶりに東北新幹線に乗っての出張なのに、自宅最寄りの在来線の遅れから、東京駅での乗り換え時間が逼迫してしまった。
駅ナカの各店で、駅弁を物色しようにも時間がない。
座席予約した電車は、12:20発なのであるが、JR東日本という鉄道会社は、国鉄の真逆をいく「同類」だから、車内販売で駅弁を売るのをやめた。
おかげで、ほとんど夕食時間に到着予定だと、一食抜くことになってしまう。

これを「自己責任」だというなら、在来線の「事故責任」をどうしてくれる?
そんなわけで、プラットホームの駅弁売り場で、時計を横目に買ったのが『大船軒 アジの押し寿司』である。
わたしが利用する最寄り駅の改札前にも大船軒の売店が長らくあったけど、今年になって閉店してしまった。
たしかにこのところ購入していなかったから、ちょっとは自分のせいかとも思ったものだ。
だから、今日、アジの押し寿司をみつけて即決したともいえる。

地元が横浜だから、『シウマイ弁当』は絶対の定番である。
むしろ、駅弁というジャンルで、かくも「完成された」商品は他にあるものか?
以前、地元ローカルテレビ局の経済番組によばれた崎陽軒の社長も「完成」といって、いかに「守りつづけるか」だと発言していた。
「完成」を公言する経営者はめったにないが、ものが「シウマイ弁当」だと、観ていても同意するしかなかった。

この弁当にまつわる話はたくさんある。
シウマイの数とか、どうして「シュウマイ」でなくて「シウマイ」なのかとか。
しかし、いま鶏の唐揚げになっているものが、エビフライだったこともある。
一個170円だったときから値上げされたときだったか?それが、唐揚げになるとしばらくしてエビになって値上げとなることをくり返した。

けれども、シウマイ弁当の絶対的魅力は、ごはんの美味さにあって、それを「経木」の弁当箱とフタが守っている。
この「容器」こそが、いまや「特別」になってしまった。
理由はどうであれ、シウマイ弁当は経木の箱に入っているべきものなのだ。

はたして、他の駅弁も「経木」をつかうなら、世の中に「経木やさん」がふえるのか?
是非そうあってほしいものだ。

しかし、これを阻むのは鉄道会社でもある。
なにをしても儲からなかった国鉄が、JRになったら、儲かればなにをしてもいいことになった。
国民資産を使っているくせに、なにを勘違いしているのか?
NTTと、おなじである。

それで、国鉄清算事業団の負債返済はどうなっているのか?
もはやJRは、知りませんと他人事である。
どちらも、一方は国民が負担していて、一方は毎日利用しているから、国民にはなにもかわらない。
変わったのは、清算事業団とJRとが「分裂」しただけだ。

こんな発想をしているから、昼時に車内販売で弁当を売らないで平気なのである。
腹を減らす国民は、やっぱり「ガマン」するしかない。
みごとなわかりやすさである。
車内販売のワゴンには、弁当に替わって「ビール」が山積みだ。

ようは、純粋に需要をみないで「供給」だけする。
これが、国鉄と真逆だけど「同類」だということの理由だ。

横浜駅にはかつて、『加登屋(かどや)バッテラ』という名作もあった。
加登屋は健在だけど、弁当をやめた。
だからもう「幻の味」である。
やめた理由をしらないが、記憶に残るストーリーがあった。

祖父が大好きな弁当だった。
サバすしの上に、薄い紙のような昆布が引いてある。
子どもからしたら、紙ごと食べているようで気持ち悪かった。
祖父が亡くなって、あるとき思いだして食べてみた。
酒の味を覚えてからだったが、世の中にこんな美味いものがあるかと驚いた。

大船軒のアジの押し寿司は、『バッテラ』とはまた趣がことなる美味さがある。
作家の檀一雄が、東京の自宅から着流しで散歩に出たとおもったら、帰宅するなり自室に隠って内側から鍵をかけるという。
不審におもってあるとき覗いたら、ギクッとした形相で押し寿司をほおばった父が見返した、と娘の壇ふみが話すのをきいたことがある。
当時なら、大船駅にしか売っていなかったはずである。

おいおい、大船なら鎌倉市になるだろう?
ご疑念ごもっともなれど、大船駅の戸塚よりは、ホーム下に川が流れていて、これが市境になっているのだ。
それで、駅の北口は、ちゃっかり横浜市なのである。

東京駅でも『シウマイ弁当』やアジの『押し寿司』が買えるのは、なんだか旅情を薄める。
けれども、他社さんには申し訳ないが、「完成度」がちがう。

全国に『シウマイ弁当』があれば、どんなに幸せか。
地方から帰るとき、駅弁を買ってはみるが、なかなか「あたり」がない。

駅ビルのデザインやどこにでもあるテナントなど、旅情を壊してなんぼのJRさんなら、全国でシウマイ弁当を売り出しても「儲かる」ならやるかもしれない。
いや、崎陽軒さんが断るのだろう。
もしや、ふるさと創生大臣もダメ出しするかもしれない。

「予備選挙」があるから民主主義が実現する

アメリカ合衆国という国のことを、わたしたち日本人はあんがい知らない。
向こうからすれば、建国以来、唯一領土を侵された相手国がわが国なので、きっちりわが国を研究している。
占領政策からして、その研究成果が発揮されいまにいたっている。

よくアメリカ人に世界地図をみせて、日本を示すようにいうと、わが国がどこにあるかを知らないといって嗤うのが日本人だ。
この感覚は「小中華思想」そのもので、世界の中心に日本があると思い込んでいる証拠である。
長崎県や佐賀県のひとには申し訳ないが、横浜人のわたしは、この両県が九州のどこにあるかを地図で正確に描くことができない。
西北にあるのだが、形状が複雑でなんだかわからない、のである。
それに、佐賀に行くなら佐賀空港ではなく福岡空港の方が交通機関が便利だという事情もくわわる。

あたりまえのようにアメリカとつき合って70年以上。
敗戦して卑屈かと言えば内弁慶である。
ほんとうは「卑屈」しかないのだが、それでは存在価値を失うからと「内輪だけなら」なんだかえらそうな発言をする。
そんなふうにかんがえると、白洲次郎という御仁が、わたしには信用できない。

それに「敗戦利得者」という一家もたくさんいる。
「公職追放」という、勧善懲悪の「プロパガンダ」のために、おおくのひとが「職をうしなった」が、その周辺の「小物」を「大役」につけて、占領政策という「革命」を実施した。
それで、思わぬ形で「利得」をえたひとたちが「ジャパニーズ・エスタブリッシュメント」を形成している。

文部科学省の前身の文部省が、どうして発足したのか?
ヨーロッパ列強に倣った「近代化」を、強力に推進するために、「国民」をつくらなければならない。
それが、全国一律にカリキュラムを統一する必要になったのだ。
わが国の歴史で、ひとびとが「日本国民」という感覚も、「人民」という感覚も、一度ももったことはなかった。

すると、占領軍は、なぜ「文部省」を存続させたのか?
わが国の「弱体化」という基本方針が貫かれたのが占領政策であるからだ。
そして、文部省が命令する「学習指導要領」に、同盟国であるアメリカ合衆国にたいする多方面からの「指導」がない、不思議もある。
一個の国として「連邦政府しかみない」というのも、各州の連合体である「アメリカの本質」を無視している。

そのアメリカには、主に「二大政党」というものがある。
現職のトランプ氏は共和党。だから、いまは民主党が野党である。
再選を目指すトランプ氏が所属する共和党は、すでにトランプ氏で「一本化」されている。
しかし、ちゃんと「党内予備選挙」は実施され、それで決まった「一本化」だ。

対する民主党は、候補者選びの真っ最中である。
このところ、絶好調なのは、バーニー・サンダース氏(バーモント州から選出の上院議員)だ。
彼は、前回の大統領選挙でも、最後までクリントン氏とあらそっていた。
だから、「もしや」がある候補である。

けれども、このひとは、民主党員ではない。

ここが、不思議なのである。
「党」として候補者をきめるための選挙に、「党員ではない」ひとが立候補してしまう。
それだけでなく、得票数でトップになってしまうのだ。
はたして、サンダース氏は党員になるのか?なれるのか?

わが国なら、そもそも「予備選挙」ということ自体がないけれど、党員でないひとが特定の党だけの「推薦」で候補者になれるか?
とかんがえると、あんがいなれる。
地方選での「全党相乗り」というほどの「異常」ではない。

また、アメリカの政党には、総裁も幹事長も、委員長や書記長もいない。
いったい誰が政党のトップなのか?
どんな仕組みになっているのかの「解説報道」もない。

もしや、解説しないのではなくて、しらないかわからないのではないか?

すると、わが国の政党は、かなり共産党の仕組みに似ていることがわかる。
それでか、自民党の政策が、サンダース氏の主張よりも「左」になっても、だれも異常だと気づかなくなった。
異常が日常になった証拠である。

ところで、先日まなんだMTPの「M」は、マネジメントのMである。
アメリカ人のエリートは、ドラッカーを言い出すまでもなく、マネジメントとはなにかをしっている。
日本だと「経営」と訳してしまうから、なんだかえらいひとたちの話に限定されると勘違いする。
自分のことを自分でする、というのもマネジメントだ。

組織なら、どんな組織にだって人がいる。
人間の集団が組織だからである。
その組織運営方法も、マネジメントである。

日本人のおおくは、この意味で、マネジメントをしらない。
マネジメントをしらないひとが、会社や組織を「経営」しているから、まとまらない。
日米の経済における「彼我の差」とは、こんなところに原因があるとかんがえられる。

マネジメントの重要な要素に、「リーダーシップ」がある。
ひとを「強引に引っぱる」のがリーダーシップだと、勘違いしているのが日本人である。
本来のリーダーシップは、勝手にメンバーたちが自分の役目を果たし、それに満足できる組織をつくることである。

この「勝手に」が重要なのだ。
ここに、「自由」がある。
他人から命令されないで、自分からおこなう。
そのように他人を仕向けるには「人柄」がなければならない。
だから、アメリカ人の選挙は「人を選ぶ」選挙になる。

「人」を重視するから「民主主義」が成り立つ。
それぞれが、自分以外の人のちがいを見分けるからである。
これが、「個人主義」なのであって、自己主張だけをするのが個人主義ではない。

わが国は、政党を選んでいる、というより選ばされている。
最初から「命令」なのだ。

ここが、ぜんぜんちがうことに注目したい。

政府がホテルの品質をきめる

昨年暮れに官房長官から発表されたので、業界人なら知らぬものはいないだろう。
まったく「とち狂った」としかいえない日本政府は、客室の「スイート・ルームが多いこと」を「世界レベル」といい、それをやる「高級ホテル」を各地に50カ所「新設」するそうである。
しかし、主だった「反対」がなかったのでどうしたとおもっていたら、やっと昨日「ビジネスホテル大手」のオーナーが異論を発表した。

残炎ながら、この異論は、問題の核心を突いたモノではない。
その意味で、「政府に配慮している」ともいえる。
このひとの主張は、面積なら自社のように「狭いホテル」が外国人観光客に好まれていること。
そして、それこそが「エコ」である、と。

わたしが指摘している問題とは、「政府の介入」のことである。
「自由であるべき経済」を政府が介入してコントロールする。
これこそが、社会主義なのである。
わが国の著名経済学者たちも、思い切った表現として、社会主義「的」といって、「的」をつけて政府に配慮する。
しかし、もはや現行の安倍政権(=官僚政府)にはちゃんと「社会主義だ」と決めつけてあげた方がいい。

たまたま、桜のはなしかなにかが「内閣支持率を下げている」ようにみえるからといって、おおくの国民が、野党を支持しているわけでもない。
それは、「社会主義の薫り」に、体質的な違和感があるからである。
けれども、あまりにも「社会主義」が浸透してしまったので「薫り」ぐらいにしか反応できなくなっている。

本来、こうした「政府」に対抗すべきは、経営者たちがつくる「経済団体」のはずである。
初期のころの「経団連」は、その意味で「自由主義の牙城」で、官僚出身なのに石坂泰三は立派だった。
おかしくなったのは、「稲山会長時代」からか?
理論をもって支えたのが「日経連」(日本経営者団体連盟)だったが、2002年に経団連と「合併」した。

これから、日経連時代にあった「財界の理論」が陰を薄くするようになったと感じるのは、偶然ではあるまい。
すると、ライバルをうしなうと、うしなった側も衰退する、という原理から、労働組合側も弱体化するのだ。
これは、なにも「労使対立」をあおっているのではない。
むしろ、労働組合も「理論」を鈍化させてしまったといいたいのである。

労使の双方が、政府に寄り添って依存する。
これぞ、完全なる社会主義である。
国による公的社会保障制度の維持のため、という消費増税に、財界も労働組合も「賛成」したのは、確かにそれぞれの思惑はあるけれど、果たしてこの一致点の示すものはなにか?

わが国の経済界が、「国営企業化」しているのだ。

冒頭のホテル・オーナーはいう。
ホテルというものは建設すれば、何十年もホテルとして経営・運営されるものだ。
だから、投資には慎重かつ緻密な計画がひつようだと。

すなわち、需要と供給、という原則から、投資の決定をおこなうのが「経営」の本質なのである。
これを、政府が推進するとは、一体どういう意味があるのか?
投資リスクについて、政府保障をするということである。
すると、これは投資家にとって「ノー・リスク」ということになる。

こんなことが現実におきていいものか?
つまるところ、こうしてできたホテルの経営リスクを、「国民が負う」という意味だ。
そして、おそらく役人たちは次のようにいうはずである。
「わたしたちが責任をもって経営を監視する」と。

ちょっとまってほしい。
相手は、「需要と供給」という原理なのだ。
役人が経営を監視したところで、ホテル経営が成功するという保障などどこにもない。
むしろ、既存のホテル経営者たちを、徹底的にバカにしている態度である。

かつて、絶対王政の時代でも、王様が「景気よ良くなれ」と命令したところで景気は良くならない。
それで、経済学という学問が発達したのである。
いま、わが国政府は、役人が「景気よ良くなれ」といえば、良くなるものと信じている状態だ。

はたして、これはまともな思考であるか?

財界も労働界も、目を覚ますべきだ。
賃金が下がりつづけている理由は、生産性が落ちているからである。
なぜ、生産性が落ちるのか?
政府が経済に介入して、社会主義経済になってしまったからである。

そうしたら、生産性革命を政府がやるといいだした。
政府にやらせてはならないのに、財界も労働界も政府に期待している。
「働き方改革」という愚策で、どんどん働きにくくしているのは誰だ。
まるで、レジ袋有料化で、どんどん生活を不便にするのとおなじ、無駄な努力をさせるのが政府だ。

もはや「ソ連共産党」が「自民党」になった。
こんなやつらに任せてはおけぬ。
けれども、見渡したところで政界に替わりがいない。

あぁ、ポーランドの自由化を果たしたワレサ大統領がなつかしい。
彼が委員長を勤めたのは「独立自主管理労働組合『連帯』」だった。
当時「グダニスク」といわれた『連帯』本拠地の地名も、いまは「グダンスク」になった。
「レーニン造船所」が、この労組の職場である。

いまは、自由化運動の記念公園にもなっている。
そこには、この「革命」の犠牲者がたたえられた碑があって、賛同するわが国の労働組合名もその名簿に刻まれている。
何に「賛同」したのか?
ワレサ(いまは「ヴァウェンサ」)氏が1994年に国賓として来日し、帰国後に「ポーランドは日本のようになるべきだ」と発言したことは、現地では有名な逸話になっている。

はたして、いま、わが国は自由化したポーランドよりも社会主義経済の国になった皮肉がある。
「自由主義革命」が、わが国で必要なのだ。

MTP公認インストラクター

5日間の合宿を二回、合計で10日間。
昨日、この日程を終了し、公認インストラクターに認定された。
資格の元締めは、一般財団法人日本産業訓練協会である。
略して「日産訓」。あの自動車会社とは関係ない。

詳細は、協会のHPをご覧いただくとしても、「MTP」について書いておこうとおもう。

Management Training Program の略である。
カタカナにすれば、マネージメント トレーニング プログラム。
これの「先生」に認定されたわけである。

日本におけることの発端は、アメリカ空軍立川基地だったというから、終戦直後である。
占領軍として、東京の立川市にあった立川基地で、日本人従業員を募集し、たくさんのひとが就職した。

しかし、それは「烏合の衆」で、ぜんぜん効率がわるい。
こんなひとたちと死闘を繰り広げていたのかと唖然としたのは、アメリカ人将校たちであったという。
そこで、「教育」することになった。

対象者は、日本人でも管理職になった、あるいは、管理職にしたいひとたちで、組織運営のかんがえ方を体系立てて教える、というものだった。

それが、基地へ航空機の部品などを納入する企業にもひろがって、ついには「マッカーサー指令」にもなる。
すなわち、わが国製造業への学習指導が「命令」になったのである。

基地に納入する物品の品質基準を守らせるには、その会社のなかで、マネジメント体系のルールに従った活動がきっちりできなければ、製品の質に影響するとかんがえられたからである。
いまの日本からすればウソのようなはなしだが、「安かろう悪かろう」とは、メイドインジャパンの証だった時代のことである。

OECDの資料によれば、日本経済の伸び率とMTPの企業への普及率が一致していた時期が、一般に「高度成長」といわれる時代である。

バブル経済の頂点のとき、MTPの導入企業も頂点だった。
さすれば、MTPをわすれた日本企業の衰退とは、理屈どおりの事象であるともいえる。

基地での逸話がしめすように、MTPは、「初級管理者向け」の研修プログラムである。
しかし、だからといって侮ってはいけない。

それには「順番」が隠れているからだ。
立川基地という組織のトップは、当然だがアメリカ空軍の「将官」である。
その下の「佐官」や「尉官」たち将校は、みなMTPをしっている。
だから、日本人従業員のうち、初級管理者に実施して効果があがったのである。

つまり、組織のトップをふくむ上位者たちがMTPをしらないで、自社の初級管理者だけに実施すると、問題が発生する。
このプログラムの精密な設計は、組織のマネジメントについて網羅しているから、受講すれば組織マネジメントの「あるべき姿」がかならずインプットされるのだ。

それで、自社にもどれば、トップや上位者(上級管理者)が、マネジメントの「素人」にみえてしまうのである。
もちろん、それは「事実」だ。
この訓練を受けていない、トップや上位者は、まちがいなくマネジメントの「素人」である。

これは、「滑稽」でもある。
昨日まで上位と信じたひとたちが、たんに権威をかざしているだけで、中身がないことが歴然とする。
こんな素人たちに、なんで自分が従属しなければならないのか?

こういう「副作用」が、このプログラムにはある。
だから、本来の順番における対象者は、トップや上位者が先に受講していることなのである。

まるで「織物」を織るように、トップや上位者が、すでに織り上がっていて、そこに、新任管理職の横糸が一本織り込まれる、というイメージだ。
わが国を代表するメーカーは、数十年もこれをくり返してして、MTPを企業文化という「織物」にしている。

逆にいえば、トップや上位者が別の模様で織り上がってきているのに、新任管理職の横糸が別の素材や色だったら、浮き上がってしまう「ノイズ」になる。
どちらの立場からも、不幸をつくることになるのだ。

だから、この「順番」は、ものすごく重要である。

MTPの「凄み」は、組織の活性化にある。
つまり、組織が良い(上手な)方法で運営されれば、当然に企業目的や目標が達成される度合いが高まる。
裏返して、組織が悪い(下手な)方法で運営されれば、当然に無駄がふえて効率が落ちるから、業績も自助によって向上しない。

単純な原理なのである。

これは、MTPが「あらゆる組織に有効」な理由だ。
営利目的の民間企業はもちろん、町内会から部活まで、はては労働組合だって、「組織」なのだから有効なのは当然である。

すると、あとは「やる気」だけだ。
トップがみずから率先垂範して、幹部とともに受講してもよし、業界団体として、トップ同士だけで受講するもよし。

先ず隗より始めよ。

ご相談はお気軽に。

教育出張

製造業にはあるという「教育出張」は、人材育成のツールとなっている。

内田百閒の名作とも迷作の『阿房列車』のごとく、「なんにも用事はないけれど、出張に行く」ことで、大きな会社なら全国の工場見学、小さな会社なら社会見学に社員が出かけるのである。
自社工場ばかりではなく、全国の他社工場でもいい。
とにかく「見聞をひろげる」ことが目的だから、べつに工場見学でなくてもいいから、「教育出張」なのである。

予算があろうがなかろうが、行きたいと思ったら社員が手を挙げる。
上司が「必要性」をみとめるので、ちゃんと「日当」もでるのである。
ただし、通常出張の「半額」が相場のようである。

しかして、どんな「必要性」を上司が感じるのか?は、かなりあいまいだ。
内心で「そろそろ順番だ」ということもあるし、見学先がユニークだから、ということもある。
このご時世なのに、続いているのは「無駄」ではないからなのだ。

マーケットの状態をみにいくから、マーケティングの担当者が行く、ということではない。
技術者だろうが、工場勤務者だろうが、はたまた事務屋だろうが、「行く」と言ったひとが行く。
そこに「新鮮な発見」が期待されているからである。

たとえば、鉄鋼メーカーのひとなら、ある意味どこでも対象があるから、どこへでも行く。
「鉄」は、文明生活のあらゆる場所にあるモノなので、どこでもいいのである。
それで、メーカーでは考えつかないようなアイデアがみつかれば、それはもう「儲けもの」である。
逆に、どこでもいい、ということがないと「発見できない」リスクが生じる。

鉄という製品は硬いけど、頭脳は柔らかさが要求されている。

ひるがえって、ソフト産業であるサービス業で、「教育出張」という用語を聞いたことがない。
あんがい、石頭なのがサービス業である。

さいきんでは、業績のよい旅館が、「休館日」をもうけて、全館で休んでいる。
予約の問い合わせに、「満室です」といって断るから、ふつうの利用客にはわからない。
むしろ、「満室なんて人気の宿の証拠」とおもわれて、いっそう都合がいい。
休んで都合がいいとは、なかなかの「発見」である。

それで、オーナー一家だけでなく、従業員も引き連れて、競合あるいは評判の宿にお客として宿泊するのである。

むかしからの旅館は、年中無休があたりまえだったから、ほんとうは自分がお客になったことがない。
それを「おもてなしの宿」とかいっておだてられた。
はりきって新しいサービスを追加するけど、自分がお客としての素人なもんだから、余計なサービスを自画自賛する神経がある。
季節労働で、あちこちの宿での勤務経験がある女子学生のほうが、よほどこのへんの価値基準はしっかりしている。

そんなわけで、休館日があって「教育出張」する宿と、そうでなく年中無休で「貧乏暇なし」の宿の差が目に見えて開いてきた。
そのうち、どちらさまもまねっこして、わが国から年中無休の宿がなくなってしまうのではないか?

中途半端に開けておくなら、閉めてしまったほうが楽でかつ経費もかからない。
けれども、どのあたりのレベルが判断の基準になるかは、ちゃんと「計算」しないとわからない。
じっさいに、こうした「計算」ができないでやってきた。
それで、やっぱり「計算しない」で、横並びにするだけしても、元の木阿弥ではないか?

こんな心配をしないといけないのが、宿である。

まだまだ、工業の世界から学ぶことがたくさんある。