外国の高級ホテルにアメニティはない

一般に「五つ星」以上のホテルを「ラグジュアリー・クラス(高級ホテル)」といって、それ以下のクラスとグレードにおける区分をする。
わが国の業界はこの区分導入に失敗しているから、「公式」に星の数を自分から表示する宿泊施設は存在しない。

どうして失敗したのか?
ホテルのサービス水準と経営者の質を混同したからである。
だから、外国ならビジネスホテルクラスの「四つ星」にガマンできず、「五つ星」でなければならないという話がでる。

出張族に人気で御用達ともいわれたホテルほど全国展開していて、企業規模としては、よほど高級ホテル単体の企業よりもおおきく、またそのおおくは上場企業でもある。
それなのに、「四つ星」となったら「経営の恥」と思考したひとたちが経営していた。

つまり、どこにも「おもてなし」の精神などないのだが、そんな程度で成りたっていたのは、ある意味しあわせな時代ではあった。
当時、「外資」といえばヒルトンホテルしかなかったからである。

船をつかった外国旅行といえば、週単位、月単位での船上生活を余儀なくされるので、とてつもない荷物をともなったのは、不便さの裏返しである。電気洗濯機やガス乾燥機がない時代だから、着替えだけでもたいへんだ。

それに、嗜好品ともなれば、自分の気に入った所持品を持ち歩かないと、旅行先では手に入らないとかんがえるのがふつうだろう。
女性なら化粧品、男性ならひげ剃り用品は、紳士淑女の身だしなみとしてこだわらないわけにはいかない。

とくにむかしの紳士は、髭を蓄えることが身だしなみとしての常識だったので、各自そのスタイルは権威の象徴的な意味まであった。
また、長距離航海の船上では真水が貴重品になるから、乗客といえども使い放題ではない。

体臭と身だしなみとのバランスで、やはり香水に依存することになる。
だから、自分の分身としてのオリジナル調合が、紳士淑女につよい需要をもたらしたのだ。

こんな文化的素地があるなか、アジアのホテルにおけるアメニティが発達したのは、ヨーロッパ・ブランドを用意することで、顧客層の趣味に近づく心構えの表明だったのだ。

すなわち、むかし気質だけでなく、じっさいにいまでも自分用の調香を依頼しているようなひとは、どんな短い旅にでも自分用を持ち歩くから、ホテルに用意されているアメニティをつかうことはない。

さらに、男性のおしゃれは毎朝のひげ剃りに集約されるので、シェービング石鹸とローション、これにシェービング・ブラシとカミソリという「四点セット」は、あたかも書家における「文房四宝」のごとくこだわり抜いた位置づけがある。

男女の共通は、オーラルケアである。
これにも、現代の紳士淑女は、「自分用」にこだわっていて、おいそれと一般市販品をつかわない。
高所得者ほど、歯科におカネをつかう傾向があるのは世界共通だ。

体液から感染する病気が発見されて、欧米人の一般人まで、旅行には普段づかいの「自分用」をかならず持ち歩くようになった。
ホテルでは、感染の心配がないシャンプーやリンス(コンディショナー)ぐらいしかつかわない。

そんなわけで、アジアの高級ホテルでは、ずいぶん前にアメニティの設置を廃止している。
これは、1992年の地球環境サミット「前」からだから、いわゆるさいきんの「エコ」や「持続可能性」の議論とは一線を画する。

ところが、そんな高級ホテルを利用したがる日本人客には、上述したこだわりが、とくに男性客にすくない。
自分用のカミソリも持ち歩かず、ディスポーザブルのカミソリで気にしないばかりか、アメニティの持ち帰りを「土産」として楽しみにしている。

だから、客室にアメニティが「ない」と、とたんに清掃不備と勘違いして、フロントにクレームがはいるので、「日本人セット」という特別サービスを指示して、日本人客がチェックインする予定の部屋に、あらかじめ設置するようになっている。

おそらく、ホテル側の「イヤミ」なのだが、そういったアメニティが入っている袋には、日本語だけの表示があるものだ。
「あんたたちだけだよ」という意味である。

いまや飛行機で移動する時代に、セキュリティから液体の扱いが厳しくなってきた。
自分用にこだわると、没収の憂き目にあいかねない。

ところが、プライベート・ジェットという手段なら、とことんこだわれるから、とうとうそういう所得層は、公共の航空機にも乗らない時代になっている。

もちろん、こうしたひとたちは、高級ホテルにも泊まらない。
「超」高級ホテルというグレードができたからだ。

さて、超高級ホテルでは、アメニティはどうしているのか?

資生堂が撤退して、お困りモードになった日本の宿泊施設は、すでに周回遅れになっているけど、遅れているのは利用客の方なのだ。

貧乏根性では、優雅なひとときは過ごせない。

「世論形成」されていいのか

マスコミによる「世論形成」という機能は、一歩まちがえると大変な勘違いを社会に形成してしまって、結果的に不幸を招くことは歴史が証明するところである。
だから、マスコミ報道には「公正さ」と「公平」が求められるのは当然だ。

けれども、だれが「公正さ」と「公平」を決めるのか?というと、とたんにあやしくなる。

これを「政府」にもとめる「愚」はいうまでもない。
それなら、マスコミ自身がきめればよい、ということでも、自画自賛、手前味噌、特定思想の宣伝といった「記事」で読者が洗脳されてはたまらない。

厳しいが、「公正さ」と「公平」の判断は、情報の受け手がきめるしかない。

すなわち、受け手である国民の「練度」とか「民度」が発達しているという条件のもとで、はじめて「公正さ」と「公平」が達成できるようになっている。

自画自賛、手前味噌、特定思想の宣伝といった「記事」でも洗脳されない、という「読者の質」こそが、先にひつようなのである。
そういう読者なら、自画自賛、手前味噌、特定思想の宣伝といった「記事」ばかりを書く記事を買うことがなくなるから、国営ではないかぎり、マスコミといえども経営が成りたたなくなる。

これが、いわゆる「淘汰」である。

ところが、「悪貨は良貨を駆逐する」という名言どおり、無責任でひどい情報が、事実をつたえる情報を駆逐してしまうことがある。
ふつう、これを「デマ(デマゴーグ)」という。

しかし、上手に書けば、デマをデマとも気づかせない文章テクニックで、世論操作が可能になるのである。
「読者の質」をもってしても、ある意志がはたらけば、これに乗せられてしまう怖さがあるのだ。

近代化の途中、わが国の一般人は、新聞記者を「文屋」とよんでいた。
文章を売ることを職業とするひと、を指すのだが、農業国家から工業国家への転換期だったので、どちらも労働には「汗」がつきものだった。

「文屋」は、「冷や汗」以外けっして「汗」をかかない。
すなわち、「チャラい仕事」とみなされて、まともなひとの職業とは思われなかった。
その典型が、「事件記者」で、売文が嵩じれば「ゴシップ」になる。

いつの世も、他人の不幸を書きたてる「ゴシップ」は、読者に幸福感を呼び起こして、自身のちいさな幸せが相対的に確認できるから「売れる」。
これを、技術がすすんだテレビでやっているのは、人間の性としてむかしからある欲求を満たす意味では新味がない。

社会から「卑しい」とさげすまれた「文屋」のなかで、事件記者はとくに下層にあったが、ここでも「悪貨は良貨を駆逐する」原則がはたらいて、政治記者や経済記者にも「伝染」したのは、「楽」だからである。

そんなわけで、日本の新聞における政治記事とは「政局」に特化したし、経済記事すら財界の広報に成り下がった。
どちらさまも、馴れ合い、という居心地のよさが、そうさせる。

「記者クラブ」という「制度」があるのは、自由主義を標榜する国ではわが国「だけ」の独自文化でもあるが、「検閲」を有効にするための手段であった。

近代の「検閲」は、戦前・戦中期において「軍」によっておこなわれたのは、この当時をあつかう文学作品や映画・ドラマなどの映像でしることができる。

ラジオと新聞しかなかった時代は、録音もできなかったから、新聞がなんといってもマスコミの華であった。
しかし、ラジオは「言わない」ことですむが、新聞は活字である。
新聞の検閲では、記事中で不適切な表現の場所の活字を抜かせたので、印刷すると「伏せ字」という穴があいた。

読者は、穴の文字数をかぞえて、どんな字が削除されたのか?というパズルを「楽しんだ」という。

一方、軍の命令下、新聞社が検閲を受け入れた理由は、経営問題だった。
物資の不足から、紙とインクという新聞の原材料の供給が「配給」となって、検閲に応じなければこれを止められた。
緻密な官僚支配のなせるわざである。

さらに、「発禁」という処分をくらえば、会社としての新聞社が立ち行かなくなる。
それで、情報源の統一として記者クラブだけに情報の独占をゆるしたのである。

戦後、すぐに、占領軍がこのやり方に磨きをかけて、「伏せ字」などという稚拙な方法ではなく、記事自体を最初から占領軍の都合で書かせることにした。
それが、いまも生きている「プレス・コード」である。

記者クラブ制度とプレス・コードの二本立てが、この国の報道を「不自由にしている」のだ。
国連のひとが「日本の報道は不自由」だと言ったのを、鬼の首を取ったように「政府のせいだ」としきりに報道するマスコミは、プレス・コードは「まずい」とはいわない。

マスコミによって世論形成ができる、という前世紀的な発想が否定されずにつづくのは、以上二つの仕組みがあるからだ。

記者クラブという政府に都合がいい制度と、プレス・コードという特定思想に都合がいい制度との「馴れ合い」がつくる居心地のよさで、我々国民の居心地はわるくなっている。

民生委員がいない

「人手不足倒産」が話題になってひさしい。
どんな事情であれ、経営に失敗した証である「倒産」は、社会にとって必要な「機能」でもあることを忘れてはいけない。
とかく、日本人は優しいから、役所が「倒産をさせない努力」をすることに強い反論がでてこないものだが、これは優しさではなく、資本主義を理解していないことの証明である。

企業の死を意味する倒産に価値があるのは、残念な経営者が市場から「退場」することと、その残念な経営者の元で働かされていたひとたちが「解放」される、という二つの側面がある。
働き手については、職を失うことになるから、もちろん楽なことではない。けれども、あたらしい職が幸福を呼ぶ可能性もあって、そのための準備は、いまの職のなかですることが重要なのだ。

日本ではジョブディスクリプションがないから、とかく働くひとに「プロ意識」が希薄なことがある。
これが、役所のおかしな介入を許す土壌になっている。
いまの残念な経営者の元であっても、どうせ能力がないひとたちだから、失業するよりは「まし」という決めつけを役人がするからである。

人手不足倒産というのも、いろいろな「要因」で起きるが、自社のビジネスに募集をかけても応募がない、ということがそもそもの原因で、どうして応募がないのか?は話題にならず、仕方がないから廃業することを「人手不足倒産」といっている。

ようは、「割に合わない」から「魅力がない」という価値感がはたらいて、応募がないのである。
これを賃金の面に注目すれば、「魅力がない」のは「低賃金だから」になって、ならば賃金を上げればよいから「最低賃金」を政府が命令して上昇させればいい、というはなしになる。

しかし、この議論はもっと厳しいはなしにつながる。
すなわち、上昇した最低賃金を払えない企業は「廃業=倒産すべし」という意味の命令でもあるからだ。
こうして、世の中に出てきた労働力を、生産性が高い別の事業者が採用すれば、社会全体の生産性も上がるのだ、という理想論もある。

ところが、生産性の高い仕事のやり方についていけるスキルをもったひとばかりではないから、結局のところ再就職できなくなれば、どうするのか?という問題につきあたる。
わが国の職業訓練は、百年の伝統がある「工業」の技能を中心にしているから、すでに職業訓練分野すらとっくに時代遅れになっているのである。

この意味で、働き手は、自己防衛をどうするか?について、従来とはべつの危機感で対処することをかんがえないと、かならず不幸になる、という可能性が高くなっている。
残念ながら、日本の公共機能で、個別の職業能力に対応してくれるところは存在しないからである。

その時代遅れの公共分野における典型が、民生委員の不足になっている。
町内の、あるいは、昨今のタワーマンションなど、数百世帯が入居する巨大「長屋」において、自治会活動とてままならぬ状況になりつつあるが、専門性だけでなく、厳しい「守秘義務」を負う民生委員は、ますますなり手がいない。

家族・夫婦もふくめた「守秘義務」だけでなく、生活保護などの手続きや児童相談もあるから、ばあいによっては強烈な「クレーム」すら受けるときがある。
あいてが町内やおなじマンションの住民なので、一歩まちがうと住みづらくなるというリスクまである。
当然だが、自身の高齢化の問題まである。

よかれとしてはじまった民生委員制度だが、だんだん限界に近づいてきている。
「割に合わない」のだ。

地域の要的存在だから、行政側だって楽をしてきた。
役人は快適な市役所や区役所の庁内にいて、汗をかくのは民生委員だった。
トラブルになっても役人は直接でてこない。

そんなわけで、「魅力がない」からやり手がますますいなくなる。

民間は倒産すれば「解放される」が、役所は倒産しないから解放されないどころか、業務が強化される。

さてさて、民生委員をどうするか?
頭の痛い問題である。

長期戦略の基礎は人口減少だ

ビジネスにおいても、私生活においても、これまで、幸せなことに人口を意識することはあまりなかった。
基本的に「増加」していていたからである。
ところが、今世紀にはいって、じつは「予定どおり」、人口が減りはじめたのである。
「予想」ではなく「予定」である。

21世紀になればこの国の人口は減りだす。

これは、ずいぶん前から計算されていて、その「確実性」は高かった。
なぜなら、小学生が「ねずみ算」をならうように、人間のばあいも夫婦にどのくらいの子どもができるかを計算することは可能だからだ。
「予想」としてちがったことは、計算で想定した子どもの人数が、現実にはもっと「少なかった」ことだ。

予定どおりの人口減少だが、減るスピードが速い、ということがはっきりした。

一国の人口が「平時」において減少に転じることは、人類史初のことである。
しかしながら、偶然にも、東アジアの国々で、人口が減る。
韓国、台湾はもとより、大陸中国ではかつての「一人っ子政策」の影響で、おどろくほどの「ボリューム」で人口が減る。

だから、日本国内だけでなく、従来の東アジアの秩序すらあやふやになるの要因になる。

おおきなおおきな、とてつもなくおおきな歯車が、逆回転をはじめた。
性に関して、さまざまな自由が主張されるようになったのは、個人にとってはよろこばしい。
しかし、いまのところ生物として人間をとらえれば、女性しか子どもを産むことができない。
だから、女性、それも出産可能な数が、ある集団の人口を決定することになる。

「特殊出生率」というのは、ひとりの女性が生涯に出産する数をしめす。
アダムとイブのように、ひと組の男女しかいない世界を想定すれば、イブは二人以上産まないと、この世界の人口は増えない。アダムとイブという両親がさきに寿命をむかえるからだ。
現代日本の医療水準による乳幼児の死亡率と、成人するまでの事故率を勘案すると、2.07以上でなければならないと計算されている。

小数点二桁を丸めれば、2.1という数字になる。
人間の数に小数点はないから、四捨五入ではなく切り上げるひつようがある。
だから、夫婦に三人以上の子どもがいて、はじめてその世界の人口は増加するのだ。
いわれなくてもあたりまえなのだが、2.0を下回ると、そうはいかなくなってきた。

いま、この国の特殊出生率は、1.4レベルなのである。つまり、1人なのだ。
これを2.1にもどすのはもはや「不可能」とかんがえられている。
安全に出産できる年齢を、ざっと18歳から38歳までだとすれば、いまこの年齢帯にいるひとと、将来、この年齢帯にはいるひとが、それ以外のひとの分を背負って産まなければならない、という条件での計算になる。
すると、ざっくりではあるが、「5人以上」を要求されてしまうのだ。

もはや「維持」すら不可能なので、政府目標は、1.7。
減ることは覚悟して、減少スピードを遅らせようという意味でしかない。
しかし、現実は0.3ポイントの上昇すら、残念ながら達成の見込みはない。

したがって、わが国の人口減少は「確実」かつ、思わぬスピードで「減り続ける」という結論になる。
2004年にでた『人口減少経済の新しい公式』は、基本的な問題を網羅している良書で、さいきんの「人口減少もの」の嚆矢となる一冊だ。

「ルールが変わる」のではなく、ルールをかたちづくる「条件が変わる」のだから、じつは「ルールを変えなくてはならない」のがいまなのである。

にもかかわらず、この参議院議員選挙の各党・各候補の主張は、教育費の無償化をはじめとする、「合法的買収」が叫ばれていて、根本的な議論をだれもしていない。
これは、衆議院のサブシステムに落ちた参議院の姿ではあるが、これとても、人口が増加している時代の産物であった。

社会が維持できなくなる可能性が高い人口減少社会に、とうとう対応できなかった、ということは、国民を見殺しにしても仕方がないということでもあるが、その殺される側の国民がこのことに気づかず、滅亡の選択をし続けるなら、現在の時点で「対応する気がない」と未来人から糾弾されても、言い訳ができない。

日本の歴史には、国民を皆殺しにする宗教が存在したことがなく、むしろ、日本の宗教は「人間に奉仕する神々」がイメージされる。
「困った時の神頼み」とは、そんなひとに優しい神様を信じる習性をいっている。

しかし、旧約聖書の神様は、人類を滅亡させるも救うも、人間のおこないとは関係なく、絶対神が勝手に決めるという思想である。
どんなに良きことをしても、地獄に落とされる可能性がある宗教。
どんな悪事をはたらいても、天国に行ける可能性がある宗教、なのだ。

滅亡のイメージがない、われわれは、こうやって滅亡するのだろうか?

あたらしい資本主義は資本がいらない

日本における「経済通」のほとんどが、資本主義がきらいで社会主義がだいすきだ。
だから、自由主義も新自由主義もきらいで、政府がなんでも仕切るように要求する。

このひとたちの学歴がそうとうに「高い」特徴もおなじなのは、わが国の最高学府における経済学部のおおくが「マルクス経済学」を研究・教育主体としたからである。
そのため、経済学は「文系」というくくりになっていて、受験に数学は必要ない。

早稲田大学が経済学部の受験に数学を課す、というのが「事件」になるのはこのためである。
ただし、ほんとうにアメリカ主流派経済学者のいうように、世の中の経済法則が「数学」抜きに語れないかというとかなりあやしい。

この本で、著者の数学者は、数学が表現できるのは、論理、確率、統計の三分野でしかないといい、現代数学は幸福の数値化ができるようにできていない、ともいっている。
すなわち、経済学が人間の幸福を追求する学問だとすれば、数式だけで表現できないという限界に、かんたんに突き当たるという意味になる。

だからといって、マルクス経済学が人間を幸福にすることはなく、おそるべき不幸にすることだけが、歴史をもって証明された。
これがちがう、というなら、そのひとこそが「歴史修正主義者」だ。

こういう奇妙な土壌に日本人は住んでいるから、あたかも政府に依存すればよく、自分がおもうとおりにならないのは政府のせいにもできる。
ほんとうは、政府が余計な口出しをするからうまくいかないのだから、政府がわるい、というフレーズだけは誰にとっても正解になるようになった。

その奇妙な「経済通」のひとたちは、資本主義の時代がおわったといいたがる。
では、どんな時代がくるかというと、それには一言も触れない。

じつは、資本主義が情報革命によって「進化」してしまったのだ。
これを認めたくないひとたちが、従来型の資本主義をして「おわった」といっているにすぎない。
だから、半分当たっていて、半分おおはずれなのである。

それではどんな進化なのかといえば、ネット空間という別次元に資本主義の本体が移行してしまったといえるのだ。
ここでいう「資本主義の本体」とは、「金融=資本調達機能」のことである。

従来型の資本主義では、現実に店舗をかまえる銀行や証券などの金融機関であり、資本市場である株式市場や為替市場が欠かせなかった。

ところが、ネット空間上で、これらに替わる機能が提供されだした。
すると、わざわざ資本市場に自社を上場させることすら、ムダにみえてしうものだ。

たとえば、株主への情報提供に重きをおいたため、上場企業には膨大な報告書類の提出が義務づけられた。
残念ながら、これらの書類を四半期(三カ月)ごとに提出し、発表したところで、企業業績自体が伸張することはない。

だから、株主たちはこれらのコストを、自分の配当が減ることで支払っている。
非上場企業の経営者からすれば、バカバカしいほどのムダに見えても仕方がないだろう。

それに、東芝のような企業でみられたように、上場を維持するために、優良子会社を売却するということまでしている。
ほんらいの資本主義の原則からすれば、継続して利益を出しつづけることの方が優先順位が高いはずだが、これと逆のことが起きるのである。

従来なら、バカバカしいと思うけど、非上場企業が上場することで得られる「社会的信用」のほうに魅力があった。
ところが、いまは、これすらも余計なものになりつつある。
ネット上で信用が維持されれば、自社の業務は安泰だからである。

いま、パソコン本体の値段は数万円で、かんたんにいえば、パソコンとネットにつながる通信手段さえあれば、起業しようとおもえば起業できる。
資金は、クラウドファンディングで十分だ。
それよりもなによりも、なにをするのか?が重要なのだ。

こうした無数のアイデアに、資金を投じるという「目利き」こそがあっての経済になった。
すなわち、仕組みでいえば、ほんらいの資本主義となんら変わっていない。

むしろ、特別なひとが起業するのではなくて、だれでもにチャンスがあるという、広がり、こそがいまという時代の特徴になった。

なにをするか?を見つけて、それが利益を生む仕組みであれば、巨額の資本金を要しないのが現代の資本主義である。

「論理力」と「論理を構成する力」のふたつが求められている。

すなわち、これは読解力を基本としているのである。

経営者は経営者が書いた本を読まない

経営者は本を読まない、のではない。
経営者は、他人の経営者の本を読まないのである。
では、どんな本を読むのか?
あんがい哲学書を読んでいる。

日本人は会社を「共同体」と認識する傾向がつよい。
つまり、「家族」というイメージだ。
これは、学校時代から育まれるようになっていて、自分が所属する組織にたいする「忠誠」をなによりも重視するように仕向けられている。

その頂点が高校野球だ。
自校以外は「敵」であって、野球というゲームを楽しむという目線より、勝敗こそが全てになるのである。

日米のプロ野球でも、その応援スタイルのちがいは顕著で、さいきんではアメリカから日本の特定チーム応援ツアーがあるのは、アメリカにおける伝統的「共同体」の喪失がそうさせるのかもしれない。

いっぽう、日本でも地域における「共同体」は、農業をつうじて連綿とつづいてきたが、産業構造が農業を見捨てたと同時に、もはや消失してしまった。また、下町とても、商工業を自宅でしていた人口がなくなってしまえば、同様に「共同体」は失われる。

これを、続いているように見せかけるのが「祭り」である。
全国の自治体が、祭りに予算を投じるのは、近代以前への郷愁であり、またそれが、幕藩体制における地方に中心があったことの誇りでもある。

どちらにせよ、喪失したものを喪失してはいないという方便のために努力するのは「共同体」の「共同体」たるロングテールのゆえんであろう。

したがって、安定の時代の日本企業の経営者には、「共同体」の主宰者であることが要求される一方で、経営者としての経営能力自体はあまり問われないという特徴がでてくる。
すなわち、ここ一番の出番は、めったに要求されないのだが、ここ一番では浪花節がものいう。「ウェット」といわれるのはこれだ。

ところが、キリスト教共同体を長い間保持してきた欧米にあっては、宗教という共同体がなんだかんだ維持されているから、会社が共同体にみなされることはほとんどない。だから、日本人には「ドライ」にみえる。
もちろん、あちらの文化に浪花節はつうじない。

しかしながら、あちらの成功した経営者の本を読むと、かなりの確率で、浪花節のようなことをいっていることに気がつくものだ。
いったいこれはどうしたことか?

国籍や宗教がちがう何びとであろうが、ひとは人である。
成功した経営者というのは、たいがい有名大手企業の経営者だ。でなければ、本を出さないし、その本が日本でも出版されはしない。

こうしたひとたちの経歴には、それなりのエリート性があるもので、有名ビジネススクールの卒業生も多々みられる。

ビジネススクールを誤解してはならないのは、やはりジョブディスクリプションがあるのが前提の社会とそうでない社会の差になって、「ある」社会では「経営の専門家」として扱われることである。日本のように「ない」社会では、たんなる「学歴」として人事票に記載されるだけだ。

「エンジニア」ならこういうちがいがすくないだろうが、なぜか「経営の専門家」という扱いにはならないのは、年功序列制度のせいにみえるからだろう。

しかし、たとえ欧米企業で、「経営の専門家」として入社して、その専門性が評価されなければ、容赦ないことになることはあまりいわれない。いい悪いではなく、それが、ジョブディスクリプションを基本とした採用と評価そして退職のプロセスなのである。

つまり、成功した経営者の本を書くようなひとは、この過程において瑕疵がないか、あるいは失敗の経験をその後活かせたひとでしかない。
日本におけるエリート・サラリーマンとは、まったくちがう体験をするようにできているとかんがえたほうがいい。

日本のサラリーマンとは、階段をじょじょにあがって、役員となり、その後も役付役員となって最後は、、、というようになっている。
しかし、かれらのジョブディスクリプションでは、MBA保持者なら、すぐに経営者としての職務がはじまるのである。

あたかも、日本のエリート・サラリーマンが、経営者(=役員)昇格をひとつのゴールとみるような目線はもっていない。
逆に、かれらにとっての出世とは、経営者としてのキャリアを積むことにある。

ここに、制度として、もっといえば思想としてのちがいがはっきりするのである。

80年代から90年代にかけて、日本がアメリカを凌駕したようにみえた経済力が、みるみるうちに逆転されてしまったのは、「経営者の経営力」という実力差がおおきいのだ。

成功した経営者の本には、かならず従業員をその気にさせた話がある。
まるで浪花節のようなことをいっているようでそうではない。
人心掌握とその気にさせる「仕組み」をつくっているのだ。

日本の経営者は、これを人事部にやらせている。
「共同体」だった時代にはつうじたが、会社が共同体でなくなりつつあるいまの日本企業で、つうじないのは経営者そのひとになってしまった。

こういうタイプが連綿とつづくのが、サラリーマン経営者しかでない日本企業の限界なのだと、経営者の本はおしえてくれる。

アマゾン・レンディングの威力

古いタイプの金融商品を、古いタイプの売りかたをしたのが「簡保」だった。
金融庁さまが罰をくだすかも、という話があるが、それよりも被害をうけた契約者が、集団訴訟を起こすのがもっともうまいやり方だろう。

基本的に、報道されていることが事実なら、あきらかに「詐欺」だからである。
しかし、あんがいバブル後の生命保険会社はどちらさまもおなじ手口で、契約更改をしてきたから、金融庁さまも悩ましいだろう。

生命保険は、基本的に長い期間の契約になる。
それで、保険料率の計算につかう「金利」は、ふつう契約時点の金利が採用されて、その後変更されることはない。
つまり、「固定金利」での契約になる。

これとはちがって、金利が変動するのを「変額保険」といって区別する。
金利が上昇局面なら「変額保険」が契約者に有利になるが、契約時点がもともと高金利のときならば、ふつうの保険がだんぜん有利になる。

いまはなき公定歩合でみても、二度の石油ショックでは9%、30年前のバブル時は6%ほどだったから、いまではかんがえられない高金利だった。

このときの契約は、平成の低金利時代になって、保険会社の経営を圧迫する、とんでもないお荷物になったのだ。すなわち、契約者にとっては、いまでは夢のような金利がつく状態だった。

そんなわけで、保険会社の経営を安定させるには、高金利の契約を低金利の契約に更改させることが、もっともうまいやり方になる。
で、いろんな「特典」をつけたようにして、とにかく低金利商品に切りかえた経緯がある。

民営化されたから、いまどき日本郵政を国営だと信じているひとはいないだろうが、なんとなく国営の匂いがするのは否めない。
それで、(民間の)保険会社ではなく「かんぽ生命」という保険会社に加入するひとがまだいるのだろうが、今回の「事件」はなんだかものすごく「遅い」のだ。

この「遅さ」こそが、むかしの「国営」のあかしであろう。
つまり、民営化されたから、いまどきになって契約更改に積極的になったのではあるまいか?

もちろん、「産業優先」というわが国政府の立ち位置は戦前からまったくかわっていないから、ぜったいに生命保険会社を破綻させたくない金融当局は、これを容認したか積極的に「やれ」と命令したかしたはずである。

こうした経緯からすれば、まったくもっても今さら感がするのだが、上述のように「国営」だったから、民間が焦ってやった危ない橋を渡らなかった。
だから、「かんぽ生命」も、ようやくふつうの生命保険会社になった、ということではある。

かんぽの有利性をしっているひとはたくさんいたから、その分社会的な「事件」になったのだろう。

「犬猿の仲」というほど仲がわるかった千葉銀行と横浜銀行が、なんと「提携」するというのも、金利が低すぎて(というより)「マイナス金利」という、人類史上初体験状態がつづいて、もうガマンの限界になったということだ。

マイナス金利をやっているのが、日銀で、これをやらせているのが「アベノミクス」といわれる政府の「政策」だ。
もともと、低金利政策実施に抵抗した白川総裁を、バブルの反省で政府からの独立を明文化した日銀法を元に戻すぞと脅して辞職させ、言うことをきく「財務官」だった官僚を後任とした人事も、一貫した「政策」であった。

横浜銀行は、歴代の頭取が大蔵省・財務省のOBが天下ってくる銀行だったから、こちらもいまさら国を相手に裁判を起こしたくても起こせない。
それで、巨大化するしかない、という恐竜のような生き残り戦略になってしまうのだ。

もっとも、この国の「三権分立」はとっくに絵にかいた餅だから、訴えたところで裁判所は政府にへつらうだけである。
マイナス金利は、憲法にある国民の財産権侵害だと、最高裁がいわない理屈を考えだすだけになる。

そんなわけで、銀行という経済の心臓機能が、まさに「不全」になっているのが日本経済で、おカネを貸してくれるのは「政府系金融機関」だけになってしまった。

ところが、アマゾンという別口の巨人が、ネット出店している人たち向けに「レンディング(貸出)」サービスをやっているのだ。
どのくらい売れているのかは、アマゾンがよく知るところで、さらに誰に売れているのかまで把握できるのが、ネットでの取り引きである。

ここに「信用」がうまれる。
融資というのは、借りるがわからすると「スピード」(時は金なり)が重要だ。
最短で申込みから三営業日で実行される。

アマゾン内の取り引き実績が基準になるから、融資枠は画面上で都度表示されるようになっていて最大5,000万円までである。
金利は、高めの設定で、返済は元利均等方式である。

銀行から借りるのが一番金利が安いのだが、スピードと提出書類、それに担保というハードルが高いため、アマゾンに出店している事業主は、銀行から借りない。

つまり、あたらしい銀行が生まれているのである。

古い銀行の生き残りは?
(-)×(-)=(+)だが、このばあいは掛け算ではない。
似たものどうしの足し算だから、(-)+(-)=(-)となって、マイナスは大きくなる。

恐竜のように絶滅する可能性がある。

ガソリンには産直安がある

産地直送だから安い。
これはなにも一次産品だけのはなしではない。
ガソリンだって産直があるのだ。

石油製油所は、かつて全国にあったのだが、わが国産業の衰退と需要減で製油所の能力があまる事態になってきた。
そこで、石油元売り各社の「事業再編」が必須となったのはしかたがないとして、なぜかこれに経済産業省という役所が口をだすのがわが国の特徴である。

どうしてこういうことに役所が口をだすのかといえば、民間の事業者間では決められない、という決めつけがあるからだ。
それで、過当競争になれば、共倒れして、国民がこまるというふうにかんがえているらしい。

おおきなお世話である。
過当競争になって得をするのは国民だし、共倒れしないように調整するのが株式会社の宿命である。

株主をさしおいて、役所が廃統合を命令する、ということが、どうして株主たちから訴えられないのか、こちらの方が不思議である。
公正取引委員会は、経産省を独禁法違反で取り締まるべきで、そのまま解散させるがよろしい。

さて、そんなわけで、ビジネスをしらない役人が、どういう根拠かしらないが製油所の製油能力にまで文句をたれて、全国に数カ所の製油所を残して、あとは廃止がきまった。

わたしが住む横浜市には、かつて原三渓という粋人がいて、三渓園という庭園を本牧の海岸につくったが、ちょうど小学低学年のころに、この海岸を埋めたてて、国内最大級の製油所(石油コンビナート)をつくったから、庭園の借景には無粋な煙突がみえるようになった。

廃止になるなら、その後の利用はどうするの?
まさか海岸に戻すわけがないから、借景だけが改善されるかもしれない。

関東だと、千葉港の製油所が生き残ったのは、きっと成田空港に航空燃料を供給するための基地でもあるし、ここからパイプラインで成田まで直送供給しているからだろう。

だから、千葉の製油所近辺のガソリン価格は成田あたりまでかなり安い。
たまに横浜から成田にいくと、その安さに驚くものだ。
慣れれば、なるべく多く千葉で給油できるように調整するのは、ややせこいが、これは人情だ。

ついでに、横浜港よりずっとあとに整備された千葉港は、入港した船舶への燃料供給も、製油所からのパイプラインをとおすから、タンクローリーで運ぶ手間がない。

そんなわけで、横浜港よりもずっと安い値段で重油の給油ができる。
リッターで40円ほどもちがうから、ちいさな船舶でもキロリットル単位での給油をすれば、あっという間に万単位の差になるのだ。

もちろん、横浜港の船舶給油所は、タンクローリーによる供給体制のままだから、運送手間賃が加算されている。
本牧の最大規模の給油所にも、横浜港へのパイプラインはなかったらしい。

すなわち、横浜港の燃料供給が千葉港より高価なことの負担は、ぜんぶわれわれ最終消費者が負担しているという意味になる。
まったくもって、とんでもない話なのだ。

なお、羽田空港は海に面しているので、タンカーが接岸して航空燃料を供給しているが、その数、60隻/月というから、長い目でみればパイプラインが有利ではないか?投資をケチって、どことなく、貧乏くさいのである。これは、輸送業者への実質補助金提供ではないのか?

船だって、燃料がなければ運航できないから、どうしてパイプラインが用意できなかったのか、くわしいひとの説明を聞いてみたい。
こんど、横浜にLNG(天然ガス)の船舶供給基地をつくるというのは、重油の失敗のあだを取り返そうという魂胆か?それとも、輸送会社への配慮か?どちらにせよ、最終消費者の負担になることだ。

ただし、例によって、LNGは環境にいい、という妄想がセットだから、世界でLNGを燃料にする船舶がどれほど普及するのかはわからない。
おなじ理屈なら、原子力船がもっとも環境にいいはずだが、けっしていわないというダブル・スタンダードがある。

ちなみに、LNGを燃やして動かす船舶はいまは全世界でたったの200隻でしかない。
きっと「LNGファシズム」の風がこれから吹くにちがいない。
日本政府はまた、この分野に税金をそそぐのだろう。

そうかんがえると、どうせなら内陸の山梨県や長野県にも、パイプラインで石油やLNGを供給すれば、どうなるのかが気になるところだ。
ちまちまと国道をタンクローリーで運ぶのとでは、ずいぶんなコストの差になりそうではないか。LNG船への投資より、ものになりそうだ。

山梨県知事には、是非、国からの予算をこの分野でぶんどってきてほしい。
エネルギーコストの削減で、県内産業をてこ入れしたらいかがか?

関西でおなじ状況がいえるのは、岡山県である。
倉敷にある石油コンビナートがそれだ。
だから、岡山県のガソリン価格も、全国的に安価なのである。

移住するなら、千葉か岡山が有利のようにおもえる。

横浜はとうとう産直の有利を発揮せずに操業を終わりそうだ。
いったいなにをしていたのか?
というよりも、どんな規制があったのか?
ただ、東京のベッドタウンとしてだけで人口は増加したから、いまさらではあるが。

市民に恩恵をあたえることは、けっこう重要なことなのだが、搾り取ることしかかんがえない「役人の性」が、とにかく邪魔をする。

たまには、産直のガソリンを入れに、遠出の旅でもしてみてはいかがだろうか?
これも、ひとつの「産業ツーリズム」なのである。

けだし、千葉のひとも岡山のひとも、そんな恩恵を得ているとは露ともしらないかもしれない。

地元は過小評価されるものだ。

生けにえになった「7pay」

前に、この国では「電子マネーが普及しない」理由を書いた。
それでも、国が命令すればなんでもできると勘違いしている(社会主義的)役人と、役人の本質である、表面上をつくろえば本質はどうでもいいという特性があわさって、「7pay」が生けにえになっている。

経産省という役所の、底抜けの浅はかさが、また露呈した。
こないだは、「コンビニに命令したがる経産省」を書いたばかりだし、太陽光発電でも大滑りした。

さて、コンビニ業界のリーディングカンパニーが、大キャンペーンのすえにはじめてみたら、いきなり「不正利用」という洗礼をうけた。

セキュリティに関しての「甘さ」が指摘され、「基準」を守っていないことを原因にして、こんどは「守れ」という命令の通達をだすという。
のんきな役所というか、事後処理に一生懸命なのは自動車会社の「検査不正」とおなじである。ただし、こちらの主人公は国土交通省だった。

犬は犬であるのとおなじで、「役人」は、省庁を超えても「役人」なのである。
つまり、対面さえ維持できればよく、それは「無謬性(むびゅうせい):けっして間違えない」という神話を信じる宗教団体のごとくである。

じぶんたちを「神話」の対象にしてしまったから、この国の基準点にあるはずの「天皇」をないがしろにして、ぜんぜんこころがいたまないのは、きれいさっぱり宗旨変えに成功したからである。

いわゆる「天皇の人間宣言」は、GHQによる究極の天皇の政治利用であったが、これを利用した高級文官たちが、立場をすり替えてしまったのである。

日本の近代化における思想的支柱が、なぜ「天皇」だったのか?
そして、このことがわが国と国民をして近代資本主義に邁進できたことの、巧妙に仕組まれた文化的な基盤であったのだ。

「対談」という形式における、わが国出版界の最高峰は、『日本教の社会学』だと言い切れるのは、上述した「仕込み」の解析が丁寧かつ奥深くおこなわれていて、この本以外でこの本を超えるものをみないからである。
山本七平と小室直樹の最高傑作といわれるゆえんである。

いかにして日本を衰退させるか?
この当初の占領における基本政策をもって「天皇の人間宣言」という、おそるべき「文化の破壊行為」を実行したことは、いかに敗戦国であれ当時もいまも、国際法的に許させるものではない。

しかし「現人神」という「虚構の設定」こそが、資本主義導入の「決め手」であったし、天皇以外の国民はすべからく「平等」という位置づけにすることでの「自由」(たとえ出身身分によっても他人から命令されないという意味)がはじめて確保できる。

これが、身分制が千年以上もあったこの国における近代化でのスローガン「四民平等」が、ほんとうに達成できた「仕掛け」であり、わが国が資本主義をアジアで唯一採用し成功した理由だったのだ。

つまり、マックス・ウェーバーの「プロ倫」が解明したという、資本主義発生のメカニズムにおける、プロテスタントの役割を、天皇を中心とした「日本教」に置き換えたのが、明治政府、なかでも伊藤博文の慧眼であった。

すると、敵とはいえ鋭い日本研究をしていたのはアメリカという国になる。
日本が有色人種として唯一、欧米白人群と肩を並べるまでの発展をとげた理由の解明、すなわち「日本教」の存在に気がついた。

よって、これを破壊すべくした「天皇の人間宣言」こそ、日本という国(自由と平等を基礎におく資本主義)への死刑執行だったといえる。

こうして、この国は、役人支配というゾンビの国となって戦後の発展をとげてしまった。
しかし、その発展も、じつは敗戦による官僚機構の再建に要した「空白の時間」を利用した民間の力だった。これが、高度成長の正体である。

田中角栄内閣をして完成した官僚機構が、政治家にかわって国家を簒奪(民間に命令をはじめる)すると、みるみるうちに経済が不調になった。
バブル以降は長い時間をかけて、日本のソ連型社会主義化ができてきたのだ。

この流れのうちに、電子マネーの普及もある。
わが国の金融制度(銀行が信用創造しない)と紙幣の完璧な管理をもってすれば、ヨーロッパ(銀行が個人の信用創造をふつうにやっている)と、中国(紙幣の汚染と偽札疑惑)で普及した電子マネーを必要とはしていない。

ならば、ヨーロッパ型の信用創造を日本の金融機関にやらせるのか?といえば、金融庁の金融業界支配をやめたくないし、そんな能力がある銀行マンが日本の金融機関のどこにもいないのでできない。

日銀が従来の完璧な紙幣管理をやめて、粗雑な紙幣に変更し、手で触りたくないおカネが、もしや偽札かもしれないという中国型になれば、国民は電子マネー利用に殺到するだろう。
にもかかわらず、技術の粋をあつめた新札を発行するというのだから、いったい何をしたいのか?

7payのキャンペーンで、いろんな「特典プレゼント」を用意していたのは、なにが便利かわからないひとたちに訴求するためで、「働き方」で疲弊しているオーナー店長たちは「おもわず笑った」という不謹慎な記事がでるほど現場は荒んでいる。

それもこれも、ぜったいに責任をとらない役人が、経営権に口出しするからである。

株主よりもえらいのが役人とは、もはや資本主義ではない。
またまた専門家という御用商人たちをつかって、あれこれと命令することが確定した。
電子マネーが、経産省の利権になった、ということである。

寝具という基本機能

宿泊施設の基本機能には、「衣・食・住」のうち、「食」と「住」は欠かせない。もちろん、寝間着を用意していれば「衣」だってあるし、広くかんがえれば「タオル」だって「衣」の範囲になる。
しかし、とかく「食」だけが重視される傾向があって、利用客は滞在時間のほとんどの時間を「寝ている」ことを忘れている。

それでか、経費削減がだいすきな経営者は、唯一おカネの出所であるお客様が、ふだんどんな寝具に包まれて眠っているかなぞ、想像もしないから、とっくにヘタってしまった敷布団とちいさな枕を交換しようと発想することもない。

それに、こういうひとにかぎって、自分の寝具も気にしないだろう。
なぜなら、自分と商売上の顧客の価値観が、なぜか一致しているとかんがえているからだ。
つまり、自分の生活水準で商売をかんがえている。

バブル崩壊以来30年間、ずっと販売単価を下げてきて、ある意味トラブルがなかったのは、自社の顧客層と経営者の生活水準が近づいたからともいえる。

また、リピーターのリピート具合を定期的に調べることもしないから、「そういえばA様、さいきんみえないなぁ」程度でおわってしまう。
ところが、A様、B様、C様。。。と、かつて、のお得意様の姿がみえない。

「ご高齢だったから」という想像で済ませるのも典型的で、誕生日や記念日の記録もないから、おいそれと葉書もだせない。
こうやって、経営者と生活水準が似ているひとびとに顧客層が入れ替わってしまっても、ぜんぜん気がつかないのである。

上客は、だまって去るのだ。
そして、生活水準がひくい利用者の数が増えても、それが経営者の生活水準と似ていれば、どちらにしてもクレームやトラブルにはならない。
だから、サービス全体も、この程度で十分なのだ、と勝手に思い込めるのである。

もちろん、むかしの高級店だったころのサービス水準を維持している。
ところが、あたらしいコンセプトで開業して、それが評判の高級店であれば、どんなサービス水準なのかを確かめにいくこともしないから、自社のふるいやり方がとっくに陳腐化していることにも気がつかない。

安心材料はたくさんあって、なかでも分かりやすいのが、大手旅行代理店がつくる「パンフレット」である。
おなじ地域で、同等の予算レベルのお宿が、きれいな写真つきで紹介されている。

むかしは表紙や最初のページで特集されたものだが、だんだんと、徐々に、時間をかけて、しかも確実にまん中以下のページになって、似たようなお宿と料理写真だけで比較されるようになっている。
この似たようなお宿も、かつてのライバルで、表紙になったことがる。

旅館料理というジャンルは、なぜか会席料理になっていて、一品ずつ運ばれるから、一枚の写真でみるようにはならない。
けれども、大手旅行エージェントのパンフレットには、一枚しか掲載されないし、載るのは料理写真に限定される。

そんなわけで、一枚の写真になったときに「見栄え」のする料理にしないといけないから、現実にどんな段取りで一品ずつ提供するのかという手順と人員と原価をイメージしながら、調理長は悩むのである。

旅慣れたひとが、大手旅行代理店にみずから足をはこんで、パンフレットを手にいれても、魅力ある宿を見つけられないのは、何度かこれで経験を積めば、自分の好みとパンフレットの記事が一致しないことに気がつくものだ。

残念ながら、大手旅行代理店の発信する情報は、「昭和」の「高度成長期」のパターンを基礎に、バブル後の低単価で「お得」と表現しているにすぎないから、ネットで検索して「発見」することからしたくなる。
そんな、「発見」の対象になる宿ほど、マスコミにも登場したことがない。

ちゃんとした宿の寝具はちゃんとしている。
しかし、「寝心地」を、寝具メーカーがどのように競っているのか?
これを知らずして、寝具選びは困難になるだろう。

「食」へのこだわりが、調理長まかせにして困難になるように、「住」のなかで重要な寝具を誰が選定するのか?
これを決めるだけでも、あんがい困難だろう。

お客がみずからの身をゆだねる、医療とは別の「宿」という商売の奥深さである。