反日種族主義打破放送

さいきん、韓国で「反日種族主義」を打破するための「正論」が、YouTubeでシリーズ放送されている。
出演者は、韓国では「反主流」の研究者たちであろうが、論理は明確で、正当な証拠にもとづくその論証は、われわれ日本人の主張に近い。

親日が「罪」になる国での活動だから、その覚悟は深刻で、シリーズ第一回の「校長(ソウル大学名誉教授)」による開講のことばは、李承晩のことばを読み上げながら「嘘で塗り固めた国の滅亡」についてとうとうと語りかけている。

すなわち、もうガマンの限界だ、ということだ。

しかし、彼のことばには重みがあって、これからのシリーズで単なる「親日」の論を張る、という意気込みとはちがう。
あくまでも、自分たちの歴史をタブーなしで、ときには耐え難いほどの屈辱の物語であっても、目を逸らさないで直視することをなによりもはじまりとしているのだ。

都合がいい「種族主義」の排除である。
そのご都合主義が、一方で中国にたいする「事大主義」となり、一方で日本に対する「反日」となるのは、どちらも、韓国の将来をかんがえると間違っていると指摘している。

日本語字幕がついているから、じっくり観れば、日本ではしられていない「反日」の話題のかずかずが「間違っている」と訂正されていく。
ここまで根深いものかとも思うが、政府の役人によって「反日」が創られていく様は、なかなかの迫力だ。

なるほど、もはや論理ではなく国内の統治目的に利用されているのだが、利用する側とされる側が一体となって「自己満足に浸る」から、日本人には理解できない「種族主義」がそこにある。
これこそが、民族統一の熱情になって、親北政権がうまれる背景である。

ところで、反日の理論的根拠はどこから出たのか?といえば、じつは、日本の学者からなのである。慰安婦は、作家からだった。
「親北」の日本人学者が「発見」したかなにかした「資料」が輸出されて、これを韓国政府が採用し、教科書にもした。

ある意味、いうことを聞かなくなった韓国政府とは、反日をかかげる日本人がつくった、特大ブーメランなのだ。
だから、韓国では、そうとうに日本人の発信が、ある意味無条件に信じられている、という逆説もなりたつ。

すると、この「校長」たちが、もうガマンの限界という中に、日本人の発信源もふくまれていることになる。
このことは、われわれ一般の日本人もしっていた方がいい。
校長たちからすれば、日本人が「反日種族主義」を煽り、日本人から「嫌韓」されるのは、どういうことなのか?になる。

このシリーズを観ていて、このように真剣に国の将来を憂う、ちゃんとした学者が立ち上がるのが、うらやましくなった。
わが国で、このような発信をしている学者は片手でも足りそうだ。

どちらさまも、研究費がほしくて、御用学者にならないと、商売にならない。
科学技術系では、最先端の研究計画を提出して、ものになるもの、でないと予算がつかない。

最先端で「ものになる」と予想できる研究とは、とっくに見通しがたつ研究のことだから、じつはぜんぜん最先端ではない。
こんなことをしていたら、とうとう世界の最先端テクノロジーの研究から遅れだしてしまった。

ところが、より深刻なのは、文系の学者なのだ。
たとえば『自由の国 平等の国』という「哲学書」がある。
哲学者が書いたから、哲学書とする。
その内容の薄さが記憶にのこったが、けんかをしないためになる本という評価もある。子ども向けだから「薄い」のではない。

しかし、日本人のわかき哲学者は、平等がお好きらしい。
このたびの、韓国人の学者たちの深刻度が理解できるひとであろうか?
わたしには、いっときつかんだ「豊かさ」が、永遠なるものとして認識された、大甘の哲学、だとしかおもえなかった。

日本のながい歴史から観れば、いまこそ「特異」(とくにことなる)な時代はない。
イランではやったドラマ「おしん」のような、貧困こそが、日本の真の姿なのである。

絞り出すような哲学をうめなくなった日本は、まさに精神の貧困に陥っている。
この「校長」たちの目論見どおり、韓国人が「反日種族主義」を克服したとき、かならずや彼我の差は逆転するにちがいない。

その貧困の日本より、もっと貧困だった「日帝時代」を韓国人が正面からかたるのを観るのは、初めての経験である。
ぜひ、お勧めしたい。

未決のG20

「大山鳴動して鼠一匹」よりもなにもかも、なんにも決まらなかった。
議長国日本が、主たることは決まらないと、あきらめて張り切ったのが、プラスチック・ゴミの規制だったが、これも決まらなかったのは、世界人民にとってご同慶の至りである。

世界の首脳は、日本の役人ほど、バカではなかった。

決まらないのは、このほかに、会議場の机で、まさか各国首脳が町内会館にもある「五尺テーブル」に、きっちり三人づけされたことだ。
しかも、さいきんの町内会館の五尺テーブルは、キャスター付きで足下が隠れる板もある。

各国首脳が、足下までさらして座るのを、はじめてみた。
日本人事務局の「貧乏根性」が、みごとに表現された会議場のしつらえであった。

「もはや日本は先進国ではない」と、自分から宣言したような潔さであるから、これを期に、次回から参加を見送るのがいいだろう。

けれども、参加国の首脳だって、G20でなにかが決まるとは、最初からおもっていない。
ではなぜやってくるのか?といえば、個別会談がしやすいという、一カ所集中のメリットしかない。

ほんらい、これは「国連」の役割だから、なにも「G20」などといって各国持ち回りなどにせず、ニューヨークの国連本部か、ジュネーブの国連ヨーロッパ本部で開催すれば、警備による大騒ぎもないし、会場に事欠かないから、ちゃんとした会議室が最初からある。

国連という場のマンネリが、とうとう機能不全になってひさしいから、「G20」もおなじだと印象づけたくない、という理由しかかんがえられない。

すると、なんとか決めることができた時代はなんだったっけ?と記憶をたどれば、「冷戦」という東西両陣営が対峙していたときで、東西ともに「決めていた」。
緊張感のちがいである。

米中による対立は、この意味で重要だ。
「中」を包囲して封じ込めたい「米」は、冷戦構造をつくりたいだろう。
これにロシアがどっちつかずを演じて、とっくに経済弱者になっているけど、主導権を握りたいと志向するのは日本の野党に似ている。

わが日本は、御殿女中の思考で、とにかく目先の「おもてなし」をきっちりこなして、無事に予定の日程を終了すればそれでよい。
のんきな大阪のコンビは、「大阪の格があがった」とよろこんでいるらしいが、なんの「格」をいうのか意味不明である。

さて、決まらない、とはいかなる事情か?をもうちょっとかんがえれば、決まっていた時代と比較して、なにがどう違うのか?
いわゆる「グローバル化」が、決まらない世界をつくった。
それで、あたらしい冷戦を志向して決めようというなら、これは「反グローバル化」のことである。

今回もふくめ、ここ数回のG20は、すでに「反グローバル化」を模索している。
つまり、世界のグローバル化、といういいまわしはもう古いのだ。

そんななか、国内ローカルニュースで、東京理科大学が、「グローバル化」に対応した、学部の再編とそれにともなう各地のキャンパスを再整備するという記事をみた。

あたかも、日本国内では「グローバル化に対応した」という言葉を念仏か題目のように唱えれば、もっともらしくきこえるようになっているが、世界の潮流はとっくに逆転している。

「最高学府」にしてこの程度。
ちゃんとした学者はいないのか?

べつに理科大「だけ」が問題なのではない。
きっと、「グローバル化に対応せよ」と、命じている役所があるのだ。
このこと自体が、すでに世界標準ではない。

「粉もん」を首脳がよろこんで食べるすがたで、日本はいい国だと自画自賛する「引きこもり」も困ったものだが、時代潮流を読めないのは、決定的に損をする。
もはやトラック一周遅れなのに、先頭にいると思い込んでいるのは果たして幸せか?

出すぎた「中」をたたくため、安保条約を「片務から相互」へすべきというトランプは、とうとう日本がほんとうに「独立してよい」といった戦後はじめての大統領になった。
これも、グローバル化への反旗である。

どこまで読書をしているひとかしらないが、読み聞かせてくれるひとがいるのだろう。
トランプ氏の言動には、おなじ共和党の大統領だったフーバー氏の『裏切られた自由-フーバー大統領回顧録-』を読んだ、確信をかんじるのはわたしだけではあるまい。

 

せめて日本で指導的立場にあるひとなら、上記の翻訳者が要約した『誰が第二次大戦を起こしたのか』は、もはや必読書なのではないかとおもう。
日本を独立させるとしたトランプ氏と、そうでない70年前からの固定を支持する現状維持派(属国のまま)との戦いが、再選をかけたかたちで我々にはみえることだろう。

はたして、マッカーサーが決めた戦後秩序を、あたかもわが国の「国是」だとする奴隷根性にまみれたわが国マスコミは、親中の旗もおろせずにトランプ批判を繰り広げるのは、まさに「逆神」のごとくである。
しかも、日本は自分で決められない。

マッカーサーもトランプも、当事者の日本抜きで、属国か独立を許可するのかを決めるのだ。
日本国民にとっては、どちらも空中戦で、B29をみているしかなかったのと、状況はまったくかわっていない。

しかも、日本人の歪められた根性は、永遠の属国を望むという、世界人類が想像もしない「常識」がある。
新聞を読むとバカになる。
わざわざ購入する価値が、とうとうなくなった。

ドメインのおそろしさ

ネット世界に参加しようとしたら、取得しなければならないのが「ドメイン」である。
個人ならまだしも、企業の営業ツールとしてなら、もはや必須になっている。

ネットでのドメインはネットで取得する。
最初に取得するドメインなら、ふつうはオリジナルがほしい。
そこで、既存のドメインにかさならないものを「生成して」、自社のビジネスにつかう。

しかし、商標とおなじで、有名企業やらにまつわるドメインを、素早く生成して、これを売ろうという商売もある。
あんまり有名でないなら、これでちょうどいいドメインを購入することもあるが、ほんとうに有名企業なら、なかなか面倒なことに見舞われることもある。

今月は、「サークルKサンクス」の「本物」のドメインが「オークション」にでて、そのおどろきの落札価格が話題になった。

ことのはじまりは、サークルKサンクスがファミリーマートに経営統合したことによるのだろう。
それで、これまでつかっていた「サークルKサンクス」のドメインの使用期限がきても、使用料の更新がされなかった。

つまり、企業内における「経費削減」が、きっとネット担当者にも浸透していて、もうつかうことがない(とかんがんられる)古くなった「サークルKサンクス」が不要であるということと重なって、維持費がムダだと判断されて更新しなかったのだろう。

ところが、ネットの世界では、信用できるドメイン、という概念があって、それは、従来からの「実績」で評価されている。
評価するのは、検索エンジンと呼ばれるコンピューター・システムだ。
かんたんにいえば、「Google」のことである。

つまり、そのドメインが育ってきた(企業からすれば「育てた」)、リンク数や一般人からのアクセス数と、それにともなうネット上の販売実績とかが、「評価」されるのだ。
だから、たんにネット上の「住所」ということではない。

東京都千代田区千代田一番地は、皇居を指す。
それで、あんがいここを「本籍」にしているひとはおおいのだ。

これに似て、事業の発展とともにドメインも成長し、そのドメイン自体が信用をうみだす。

そんなわけで、ある日突然、リアル世界で経営統合されたとはいっても、そのドメインの評価が、検索エンジンというコンピューター・システムがつけた評価として無意味になることはない。むしろ、そのまま固定されて残るのだ。

このルールを、あろうことか、大企業たる組織人がしらなかった。

それで、使用者がいなくなったことをしった、ドメインの仲介・売買する会社が気がついて、これをすぐさま自社購入し、即座に自社が運営するインターネットでのドメイン・オークションに「出品」した。

容赦ない世界である。
このドメインの仲介・売買する会社とて、東証一部上場企業である。
「もしもし、お宅のドメインが、どういうわけか『使用権利者不在』になっていますよ」と、おしえてすぐさま買い戻すようにアドバイスしなかった。

しかし、こうした行為は、もはや「正義ではない」のだ。
どんな事情があったとしても、市場に「使用権利者不在」ででてくれば、それは善意の第三者からすれば、ただただ「使用権利者不在」という事実しか存在しない。

だから、本業として、このドメインの仲介会社が、オークションにかけて、なにがしかの利益をえることが、株主に対しての「正義」なのである。

けっきょく、オークション当初、気がつかなかっただろう当事者が、途中からこのオークションに参加したとおもわれるのは、そのやりとりを「オークション参加登録者ナンバー」から想像することができる。
途中から、特定の参加登録者が、不特定の参加者からの入札のたびに、かならず入札を繰り返しているのをみることができるからだ。

このだれもが「ファミリーマート」とおもう参加登録者のミッションは、やっぱりだれもが絶対に「買い戻す」とおもったはずである。
ただし、「ファミリーマート」の広報は、オークションに参加していない、と表明している。

なぜなら、「もうつかわないから」。

しかし、このドメインの価値は企業統合しようが、その企業のなかで保持することで発揮されるもので、第三者にわたることは、「悪意」を想定すれば、とんでもない企業価値の毀損原因になることまちがいない。

けっきょく、落札価格は、約6,000万300円だった。

ドメイン使用期限切れは、事前にあんがいしつこく警告される。
これを承知で手放した「担当者」が、当該企業内でどんなあつかいを受けているのかしらないが、組織としてかんがえれば、担当者「だけ」が責任を負うはなしではない。
ましてや、広報の否定とは?

ではいったい誰が落札したのか?
第三者なら、どんなつかいかたをかんがえているのか?

経済記者には、ちゃんとした続報を期待したい。

ベトナム留学が自慢になった

わが国のIT業界のことである。
世界のIT最先端技術を研究しているのは、なんといってもシリコンバレーだ。
シリコンバレーとは、事実上「スタンフォード大学」の街である。

アメリカ合衆国には、国立(連邦)大学がない。
あえていえば、陸軍士官学校のような軍の幹部養成校ぐらいがそれにあたる。
州立大学が日本の各県にある国立大学にあたるのだろうが、一部の大学をのぞけば、そのほとんどが職業訓練校的な存在である。

だから、ふつうは「私立大学」である。
さて、その授業料は?といえば、おおよそ700万円/年である。
上述した一部の有名州立大学も、これとかわらないのは、日本のように憲法違反(89条)がうたがわれる「私学助成金=税金の流用」がないからである。

アメリカがつくった憲法だからか、日本の役人は多くの条文を無視するか都合のよい解釈をして、とっくに骨抜きにしている。

このブログの読者なら、しつこい、といわれるかもしれないが、民主主義国の憲法とは、国家=政府を規制する国民からの命令書だから、守らなければならないのは、国民ではなくすべての役人である。
ただし、勤務外の役人も国民にもどるから、公務中の役人だけが憲法を守る義務を負う。

日本国憲法第89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」

ということで、「公の支配に属しない」教育事業には公金は出せないから、「公の支配に属する」ことで、「合憲」にした。
これが、文部科学省の役人による許認可権という利権の「合法的」な理由になった。

正々堂々と国が、私学にもおカネ(税金)を与え配分するから、とうとう、日本の私学はこのおカネをもらわないと、経営が成りたたなくなった。おカネをもらうために、授業料をさげろと命じられてさげたからである。

すると、役人の配下に成り下がるものかと頑張っても、授業料の安いライバルに学生の人気があつまるから、頑張るのをやめて、こんどは一番もらえるように努力した。
それで、おそろしく歪んだ競争の結果として、日本の大学は、授業料が「安い」のである。

この見返りが、役人のいうことを聞くことになったから、建学の精神まで絵にかいた餅になってしまった。それで、偏差値順という序列だけができた。
それでも懲りずに、大学まで無償化するという政府与党は、他人の子どものために税金を払えと国民にいっているのとおなじだと気がつかないふりをしている。

年に700万円もするということは、生活費をふくめれば1,000万円かかるから、親にとって4年で4,000万円は確実な出費となる。また、自動車がないと生きていけないから、自動車の購入費が加算される。
とどめは、アメリカの有名私立大学の授業料は、もっと高いことだ。

留学生がアルバイトで収入を得ることをゆるしているのも、日本ぐらいで、アメリカでは許可されない。
ただし、日本の大学とちがって、アメリカの大学はそら恐ろしいほど授業前に指定された学術書を読破しないと授業に出席すらできない。つまり、アルバイトにうつつをぬかす時間がないのだ。

そんなわけで、日本人の留学生は「珍しい」ということになった。
ここにも、わが国の国力が「衰退」していることを認めることができる。

それで、圧倒的に有利になったのは「共産国」で、国家が率先して留学させている。
トランプ大統領は、中国人の留学生を大幅に規制しはじめたが、ベトナムからの留学生はそのままだ。

こうして、わが国のIT企業にとって、コストがかかるアメリカ留学ではなくて、ベトナム留学を選択するようになってきた。
アメリカで学んだベトナム人から、最先端技術を学ぼう!ということになって、自社から何人ベトナムに留学させたかが、業界内の序列に影響しているのだ。

じっさいに、ベトナムに進出した日本企業で、日本人駐在員の人件費がいちばん「安い」という状態になっていると前に書いた。
先端技術を駆使する、若きベトナム人が最高額の賃金を得ている。

一方で、日本に出稼ぎにやってきたベトナム人が、日本で奴隷のような労働を強いられている。
その理由は、人件費を安くしないと儲からない、というかんがえが、バブル崩壊以来「常識」になってしまったからである。

そのうち、日本でのうらみをベトナムで敵討ちされるようになるだろう。

それにしても、競争論理を利用して単価をあげる努力をしているのが共産国で、平等論理をとにかく理想とするのがわが国だから、どっちがどっちだかわからなくなってきた。

このかんがえ方のちがいが、繁栄か衰退かの分岐点なのである。

コンビニに命令したがる経産省

今日(28日)から、どちらの省庁もなんとかのひとつ覚えである「有識者検討会」がはじまる。
その名は「新たなコンビニのあり方検討会」といって、来年1月に中間報告をまとめる予定らしい。

検討するのは、労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すための指針作りだというから、どうかしている。

労働環境の改善や持続可能なコンビニ業界を目指すのは、当事者である各社の問題であって、国家公務員が介入するテーマではない。
これを、ムダ、というのである。

しかも、全国8カ所で、8月から9月にかけて、コンビニ8社の加盟店オーナー計120人に対面調査をするらしい。
これは、統計的に「有意」な調査なのだろうか?一社あたり15人だ。
しかも、コンビニは全国に「約5万軒」ある。

そこから、たった120人のオーナーに聞き取り調査をして、何になるのか?
うざい、邪魔である。
調査のことではない。「国家行政」がかかわることが、うざいのである。

すでに、最大規模のコンビニ本部と一部オーナーは裁判で係争状態にある。
行政ではなく、とっくに司法の出番になっている。
もちろん、民事裁判だ。

そもそも、労働環境の改善なら、厚生労働省の管轄ではないか?
すなわち、地元労基署の仕事だ。
これを無視して、経産省さまが直々にお出ましになる理由はなにか?

労働環境の改善は、ダミーで、持続可能なコンビニ業界、がメインなのだろう。
「倒産しない」という意味ではなく、意味のないプラスチック・ゴミ、すなわちレジ袋有料化に積極的でない業界を締め上げるため、だと推測する。

この検討会の出席者は、まちがいなく「御用学者」たちである。
メンバーひとりひとりが、いったいどんな補助金や研究資金を経産省から受けとっているのか?
この国に、ジャーナリストが存在するなら、是非とも読んでみたい記事である。

いよいよはじまった大阪市内を大混乱にさせている「G20」。
開催国の日本が議長国だけど、いまさら「G20」をやっても、まとまる政治的課題などない。
来年に「国賓」でくる予定の国は、香港問題を議論するな、と命じてきた。

その国が、大量に輸入していたプラスチック・ゴミの輸入を禁止したから、「リサイクル」できなくなってしまった。
そこででてきたのが、プラスチック・ゴミのはなしだ。
これなら、いまだに「京都議定書」をやったと自負する日本の役人たちがはりきれる議題になる。

そこで、昨日(27日)、環境省は廃棄プラゴミの国内保管上限を二倍に引き上げるとして、例によって法律ではなく関係「省令」の改正で対処するという。

まさに、万全のG20対策だ。

科学と化学を無視すれば、政治はなんでもできる。
化学者で自由主義者だったサッチャーが生きていたら、こんな議案は議論に値しないといったはずだし、香港返還の当事者だったから、香港問題をガンガンやれといいだすはずだ。

おなじ化学者だけど、旧東ドイツ育ちのメルケルには、化学と政治は別物だ。
ドイツでは、「再生可能エネルギー」なるペテンを推進して、電気代が四割増しになった。それでも、なにかに取り憑かれたようにもっと推進するというから、おそらくドイツの電気代はかつての二倍になる。

これで、ドイツの中小企業・工場は、青息吐息になったけど、地球環境にまさる価値はないという、あたらしい不幸をつくる思想にがんじがらめになっている。
国家主導がだいすきなのは、さすがかつての日独同盟国である。

そこに、歴史的な熱波がヨーロッパを襲っている。
気温は40度。
サハラ砂漠からの熱風を、気圧配置の関係で呼び込んでいるらしい。

「この極端な気温の上昇は、石炭、石油、天然ガスの燃焼による温室効果ガスの増加が引き起こす地球温暖化の結果として、まさに科学的に予測されたもの」とポツダム気候影響研究所の気候学者が語ったという。
各国が温室効果ガスの排出量をすぐに削減しなければ、今回のような熱波は悪化し続けると科学者たちは警告している。

果たして、おカネがほしい科学者が、世界中で笛を吹いている。

ほんとうは、地球という星のことなんか、ぜんぜんわかっていないけど、わかったふりをするとおカネがもらえる。
ひとびとの恐怖心が、おカネのつかいみちをきめるからである。
かつて、中世の時代に、カソリック教会がやった手口である。

あたかも神妙に、みなさんのためです、といって命令し、従わなければ火あぶりにする。

なんのことはない、経産省も中世の教会のような役割を自負しているらしい。
はやく、こんな役所はなくしてしまえ、と、そのうちプロテスタントが出現するのを待つしかないか。

パリのパン屋さんと銭湯

かつて、パリでご町内の商売といえば、パン屋さんだった。
各町内には、かならず一軒のパン屋さんがあって、住民はこのパン屋さんから「しか」パンを購入できなかった。
そういう「統制」があったのだ。

もし、となりの町内に、おいしいと評判のよいパン屋さんがあっても、そこでは買えない。
ただし、パン屋さんからすれば、どんなに努力しても、おなじ町内の住民にしか売れないから、ふつうはそんな努力はしない。

それに、おいしくない仲間のパン屋さんたちから、組合を通じて文句をいわれるので、だいたいおなじような「まずさ」に調整した。
こうして、絶対につぶれないパン屋さんは、家業としては安泰だったが、仕事としては張り合いがないから、後継者不足が深刻になった。

そんな世の中になっていた、70年代、大型スーパーが登場した。
パン屋がパン屋であるのは、粉から練って発酵させる工程を職人が全部やるという前提の「パン屋保護法」だったけど、大型スーパーの店内で焼くパンは、冷凍食品であったからこの法律が適用されずに許された。

店内で「焼くだけ」でできる冷凍パンは、当初、冷凍技術が中途半端でベシャベシャだったから、街のパン屋の相手にならなかった。
ただ、安かった。

ところが、日本の技術を採用した冷凍パンが焼かれるようになって、業界地図が塗り変わってしまった。

町内のパン屋さんより、はるかにおいしくて安いパンが、スーパーで買えるようになったからである。
それが、後継者不足と重なって、町内のパン屋さんの廃業が続出した。

「統制」の保護下にあったパン屋がなくなれば、まじめな住民はスーパーのパンしか買えない。
あわてて法律をかえて、廃業したパン屋の代わりに近隣の町内のパン屋さんでも買えるよう許可したが、もはやスーパーのパンにかなわない。

困り果てた「全フランスパン屋組合」の組合長が、激論の末、このままでは日本のパンに我々が殺される、という危機宣言をだして、パン屋の自由化を政府に要求した。
背に腹は代えられね、ということである。

社会主義統制経済をむねとするミッテラン政権は、しぶしぶこれを認めて、自由競争がはじまった。
すると、世の中に、おいしくて安いパンが出まわって、経営に積極的なパン屋さんは、各町内に進出して規模の拡大を目指すようになった。

そうなると、冷凍パンでは勝負にならない逆転になったから、政府による統制とは脆いものなのだ。

これが40年前のフランスで起きたことだ。
しかし、わが国の「統制」は各方面に連綿とつづいている。
個人経営の酒屋は壊滅して、日本の町内といえば、銭湯が残っている。

タクシーもおなじで、地方によっては街からタクシー会社が消滅の危機をむかえて、市民の足がなくなりそうなところもではじめた。
たとえば、神奈川県の三浦市がそれだ。

もっといえば、医療・介護系はみな国家統制でがんじがらめだから、どちらさまの病院も赤字でこまっている。
市立病院が閉鎖に追い込まれるのも、国家統制のおかげだから、病人がいちばんこまることになっている。

こうした国家統制をのぞむ業界団体があって、おもいだせば獣医師会がそうだった。
この団体が、文部科学省という役所をまるめこんで、あたらしい獣医学部をつくらせない、と決めさせた。

文部科学省は、なぜだか省庁におけるランキングが低く、国家公務員試験の成績順位ビリ組が入省するといわれている。
それでかしらないが、少子化がわかっているのに大学設立を自由化したのは「快挙」ではあった。

もともと自由競争をさせればいいからで、たとえ少子化でも、設立したいと申請するのは勝手であるから認可をしたまでだ。
ところが、あたかも乱立した大学の経営が行き詰まったのを、文部科学省のせいにするという論調がたって、役所が批判の矢づらにたたされて怖じ気づいたのだろう。

もっとも、私学助成金でがんじがらめにするのが常套手段だから、おおいに役所にも経営責任がある。
これもやめていたら、学校経営者の責任だけしかないのに。

そんなわけで、ことしは東京都の銭湯組合が入浴料金10円の値上げをきめたそうだ。
このうしろには、東京都というお役所がいる。

パリのパン屋に遅れること、半世紀がたっても、おそらくこの制度は続くのだろう。
新規参入の形態が「スーパー銭湯」ばかりで、銭湯組合に入会しないのはこのためである。

業界人は、鉄壁の社会主義統制経済がだいすきなのだ。

新潟と石川県の知事のちがい

なんども表明しているが、わたしは横浜市民なので、全国的に有名な質問「あなたの住んでいる『都道府県』はどこですか?」に、躊躇なく「横浜」とこたえるくちである。
神奈川県と縁遠いくらしをしているのが横浜市民である。

しかし、これは、一般住民目線からで、神奈川県の役人からしたら、おおくの恩恵を横浜市民だってうけているはずなのだから、なにをかいわんとおもっていることだろう。
しかし、この「距離感」がちょうどいいのである。

同じ日のニュースに、たまたまがあって、それがきのう、石川県知事と新潟県知事の発言が対照的だったから目立った。
もちろん、かれらをやり玉にあげたとて、神奈川県知事の低能ぶりに変化がおきることではない。

石川県知事の発言は、話題の「JDI(ジャパンディスプレイ)」についてであった。
2016年10月に完成したばかりの県内白山市にある工場の一時休止が検討されていることを懸念して、「世界的に見ても、最新鋭の工場をスクラップにするのは企業にとって大きな損失だ。企業経営者の常識としてあり得ないのではないか」と、いまさらあり得ない発言をしている。

JDIについて、このブログでなんども書いたから、いまさらだが、経産省の役人が「日の丸ディスプレイ」を「絶やしてはならない」という意味不明の理屈で、たっぷり税金を注ぎ込んでも、どうにもならなかったものを、とうとう中台の企業にたたき売りが決まっているのだ。

だから、知事の発言にある「企業経営者の常識」が、経産省のことだとすれば、さいしょから「あるわけがない」し、買取予定の中台企業の経営者からすれば、儲からないものははやくやめる、という常識がはたらいているだけだ。

知事は、JDIという会社がどういう会社なのかご存じないのか?
そこで、経歴をみたら、なんと京大法学部出で1968年に自治省のお役人さまになったひとだった。
自治省から石川県副知事に出向中に、現職知事が逝去したため、知事選にでて当選し、いまは全国最多7選中なのであった。

選挙という制度は、事実上の「官選」をごまかす制度でもあるのだ。

神奈川県にいるから、石川県のひとたちの苛立ちがなにかわかるような気がしたのは、同類相哀れむということだ。
きっとなんど選挙をやっても候補者に「ひと」がいなくて、知事を「選べない」という、哀しさなのだろうと。

ひるがえって、新潟県のほうは、県財政から「縮小はやむを得ない」という発言があった。
税収の大幅増が見込めないなか、県職員の給与削減も視野に「身の丈をダウンサイジングしていく」そうである。

残念なのが、県職員の「給与」削減になっていることだ。
給与は削減しなくてよいが、「人員」削減をしたいにちがいない。
これができないのが「公務員の身分」が確定されているからである。

江戸時代なら、幕府への「返納」という方法があった。
「未遂」に終わったが、有名なのは米沢藩の上杉家である。
もともとは、鎌倉幕府からつづく上杉謙信の家だから、おおいに新潟県に関係ある。

家康に従わなかったおとがめで、120万石から半減、跡目相続に失敗して60万石から半減、そしてとうとう15万石になってしまった。
それで、上杉家の窮乏は限界にきて、重臣会議で「返納」が決議されたのが、中興の祖「鷹山」が九州から婿入りする直前だった。

「返納」とは、上杉家の領地を幕府に差し出す、ということだ。
これは、「本領安堵」の逆である。

そんなわけで、新潟県知事が職員削減のタブーに手をつけられるのか?
おおいに期待したいところだ。

そういう意味で,「財政難」というのはよい現象である。
「自治体」という得体の知れない組織が、勝手気ままにつかっていたおカネがなくなる、というかんたんな理由で、「できない」ことばかりになる。
だから、重要度の「棚卸し」が重要になる。

ところで、新潟県知事も佐渡島出身の運輸省のお役人さまだった。
司法試験に不合格して入省したというから、東大と役人の世界でいう価値感では、運輸省が相応だったのだろう。
しかし、このひとは、係長時代に国鉄改革を担当している。

「係長」だったことが幸いしたのではないかともかんがえられるが、「JR」になる歴史的事業の渦中にいたことはまちがいない。
当時、日本一腐っていた会社をしっている。
その後観光庁総務課長もやっている。

新潟県の副知事時代、新潟空港にLCCを呼び込んで、その後知事の不祥事から知事になっているから、どことなく石川県と似ているが、なかみがちがう。

県庁のしごとをどんどんなくして、新潟県人の「役所依存」を治療できたら、後世に語り継がれる知事になるだろう。

入院して現代医学の限界をしる

睡眠中だったからよくわからないが、突然に「悪寒」がやってきた。
全身がブルッとしたら、それから震えがとまらないのでこの時期なのにふとんをかぶった。
朝になって体温をはかると、40.1度あった。そんなバカな?ともう一度はかったら39.9度だった。

近所のかかりつけ医にいこうにも、からだが立たない。
昼近くになって、ようやく診てもらうと、そのまま紹介状をもらって基幹病院にいくよう指示された。
バス停まであるいてみたが、日陰の歩道縁石に座りこんで待つ時間がながい。

たった一晩で容態がかわるのは、むかしエジプトのカイロにいたころに罹ったアメーバ・赤痢で経験したことがある。
前夜、わが家でパーティーをしたが、おわりがけに微熱を感じた。
それで、お開きにしたものの、それからしばらくたって強烈な下痢にみまわれた。

昨夜のメンバーが病院にいくために迎えにきてくれたが、なんと、玄関ドアまでが遠いことか。
さらに、ドアノブに手がとどかないからカギがあかないのだ!
こんな状態になったので、乗用車の後部座席にひとりで乗車できなかった。

今回はここまではひどくないから、人間、いちどはひどいめにあっておくと、どこで精神的に楽ができるかわからない。
万事塞翁が馬、だと実感できる。
こうしたはなしを高校の漢文の授業でおしえてくれれば、すこしは役に立つだろうに。

病院での検温は、38.4度だったから、ずいぶんと下がったが、それでも8度越えだ。

そんなわけで、「検査」がはじまり、造影剤入りCTまで撮影した。
それでも40度という高熱の原因がみえず、とうとうインフルエンザがうたがわれ、「隔離」されての入院となった。

入院ははじめてではないが、ずいぶんとシステム化されている。
パジャマやタオル、それに洗面セットなど、身の回り品も購入・レンタル契約をするから、むかしのように自宅からのもちだしや売店で購入する手間がいらない。

今回のように、急に入院と決まっても、なにも困ることがない。
患者のためという裏に、看護師の負担軽減が重要なのだとわかる。
それに、身の回り品にかんする料金は、退院後自宅に別途請求がくるようにできていた。

そういう意味で,病院のシステムは、医師・薬剤師・看護師・管理栄養士・各種技師という主たるサービスにおけるシステム化と、会計システムにおける迅速性が問われることになっているから、二系統にわけられ、さらにサブシステムとして病院からは別系統のレンタル会社がぶらさがっているのだ。

だから、会計システム系統(管理系)について、外部委託している病院もおおいのだろう。
各種資材の発注・納品にかかわる業務も、こちら側になるから、専門事業として成立する。

この業務範囲における宿泊業との類似性は、いまさらいうまでもないけれど、宿泊業の事業領域に病院の管理系事務があると気づくことはなかった。

「寝汗」がこんなにもでるとはおもわなかったが、ベッドのシーツが濡れるほどで、レンタルのパジャマを惜しげもなく交換してくれた。
発汗によって体温がさがるのは実感できる。
水分補給は点滴だけだ。

翌朝には、すっかり「平熱」になってしまった。
ここでもう一度インフルエンザの検査をしたが、残念ながら「陰性」だったから、高熱の原因がわからなくなった。
それでまた、血液検査となったが、やはり不明なままである。

経過観察のためもう一晩入院となったが、夕方からは点滴すら中止となって、ただベッドにたたずむばかりとなった。

こうして、無事退院のはこびとなったが、症状軽減によることであって、原因がわからない事態にかわりはない。
これが、現代医療の限界なのだ。

とかく機械論的な発想で健康や病気のことをかんがえると、人間という動物の複雑さがわからなくなる。
じつは、現代の西洋医学で「治せる」のがわかっているのは、外科手術、抗生物質、ワクチン、というたったの三分野しかないのである。

これをなんとかしようとしているのが、「最先端」ということだ。
大騒ぎになった「STAP細胞」では、騒ぎの渦中に当事者の理研が特許申請していたり、ハーバード大学が世界各国に特許申請していたりした。
とくに、ハーバード大学の特許申請の「戦略性」が話題になったのは、利益に対する貪欲性からであって、これだけでも理研の敵ではない。

さてさて、退院時のお会計はなかなかの金額になっていた。
これで、わが国の病院のおおくが経営危機にあるとはどういうことなのか?

それは、タクシー業界に似ていて、国の役人が料金体系を決めてしまうから、実態はぜんぶ「国営」だからである。

お客様は神様の神様とは誰か?

オリンピックのチケット抽選がはじまって、つぎは大阪万博だという気分の盛り上がりは、担当する役人にはあるだろうが、あまりの手続きの面倒さに、チケット抽選申込みをあきらめたわたしはいま、かえってしらけている。

過去の栄光に「しがみつく」日本経済を象徴するのがこのふたつのイベントの現代的意味であろうけど、それにしても無頓着な大盤振る舞いは、おカネが天から降ってくるとしか想像できない役人ならではである。

これに「地元経済界」がいっしょになって盛り上がっているすがたをみせるのは、まるで学校の文化祭でお化け屋敷をやるときめて張り切る側で、一般人は、なんで文化祭でお化け屋敷なのかがわからない側のようである。

経済成長まっただ中だった前回の大阪万博のテーマは「進歩と調和」という社会主義の栄光がうたわれたから、ちゃんと「ソ連館」もできた。
だから「全方位外交」の成果なんてことではなかった。
冷戦期のあだ花のような祭典だった。

これを企画した通産省の担当官は、堺屋太一だったから、わたしは彼の発想をずいぶんと疑っていた。
こんどの担当官はだれで、どんな発想の持ち主なのだろうか?

ただただ、快晴の青空に抜けるような三波春夫の「こんにちは、こんにちは♪」だけがいまも耳の中できこえる。

その三波春夫といえば、「お客様は神様です」という名文句がある。
彼の歌手(エンターテナー)という商売からすれば、舞台を観に来てくれたお客様をうらぎったら、どんなことになるのか?という意味だったかにおもえるが、あまりのわかりやすさに、例によって言葉の上っ面だけがひとり歩きしだしてしまった。

それで、どちらさまも、「お客様は神様です」といわないと、なんだかすわりがわるくなった。
ところが、そこがことばの本質で、ことばにしていっているうちに、だんだんと意識が同化してしまう。

そして、日本語でいう「神様」とは、八百万神のことを指すので、神頼みすると、人間のいうことをかなえてくれる感覚ともかさなるようになる。
だから、お客様の要望なら「無条件」にききいれれば、そのお客様がじぶんたちの願いをかなえてくれる、と信じたのである。

いっぽう、お客様の側も、さいしょはなんだか気恥ずかしかったが、だんだんと持ち上げられてきて、それが「あたりまえ」になったら、正々堂々とクレームをいうことが当然になってしまった。

こんなことから、神様と持ち上げる → だんだん神様になる をくりかえして、とうとうほんとうに「神様」になってしまった。

ところが、いぜんとしてその神様たちから願いごとの御利益がやってこない。
きがついたら、所得移転してしまって、提供者が貧乏になった。
この提供者に、材料を提供しているひとも、理不尽な値下げ要求に屈したから、やっぱり貧乏になった。

それがしゃくにさわるとおもった流通業が、レジ袋を有料にしたのだろう。
「環境問題」というあさってのトンチンカンで、流通業を後押ししてくれる役所は、流通業からなんとおもわれているかしらないが、レーニンふうにいえば、「役にたつ白痴」ということだろう。

英国で発祥して米国にも移転した資本主義は、キリスト教的清貧の精神が転化したものだという論がある。
よくみれば、アメリカの有名大学のおおくは私立大学で、そのまたおおくがキリスト教系ばかりなのである。
そんな学校が、世界のMBAを養成している。

キリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も、旧約聖書をおなじくするから、「神様」といえば、これらのひとたちからすれば「おなじ神様」しかうかばない。
この神様は、絶対神だから、人間のいうことをきいてくれることはほとんどない。

神様がかってにきめたことのなかに、たまたまいくつか人間にも都合のよいことがあっただけだ。
だから、「あゝ神様、神様はどうしてこんなにも神様をお慕しているわたしのいうことをお聞き及びにならないのでしょう」となげいても、せんない相手なのである。

そうすると、三波春夫のいう「神様」だって、「そっちの」神様のことではないか?

だから、御利益など最初から期待してはいけない。
一歩引いてみないといけないのだ。
すると、たまに神様と一致点があるかもしれない。

ならばこれを、たまにではなくて「いつも」に近づけたい。
これが、マーケティングの発想である。

三波春夫は、自身のマーケティングとして、「お客様は神様です」をやったのであって、全員がまねしてはいけないものなのである。
いいかえれば、マーケティングの「三波春夫モデル」となる。

げに恐るべき大スターではあった。

動物愛護法改正案の混乱

なにやら不思議な法律があって、5年に一回の改正パターンが「決まっている」のが動物愛護法である。
どうして5年に一回となっているのかしらないが、役人が起草する政府案がもとではなく、議員立法だという「決まり」もあるから「はてな」がつづく。

どういうわけかわが国では、議員立法というと「格落ち」の感がある。
立法府にいる議員の主たるしごとは「立法」なのであるから、議員立法こそが本業発揮のバロメーターになるはずなのだが、役人案である政府案の追認こそがしごとになっているという本末転倒が、政治の貧困のわかりやすい例である。

何期も連続して当選しても、生涯一回も議員立法の提案をしたことがないひとはだれか?とか、ことし上半期の議員立法提案議員ベストテンとか、ワーストテンを報道するのが報道機関(政治部)のせめてものやくわりではないか?

そのうえでの「政局」ならまだしも、新聞の政治欄が政局「だけ」だから、週刊誌とかわらない。
新聞は週刊誌よりも高級だというのなら、ちゃんと「戦略」をかたれる政治家を育ててほしいが、明日の戦術「しか」質問しないから、その程度の集団におちついてしまう。

外国人記者のような「戦略」をきく鋭い質問をするひとが記者会見場にだれもいなくて、パソコンのタイピングの音しか聞こえない不気味さは、なんなのだろうか?

ICレコーダーで録音した音声を、あとで自動的に文字おこしさせればよくないかとおもうが、きっと自分がそこにいる意味がないからタイピングのはやさと正確さを競うしかないのだろう。
日本の記者は、ろくに質問もしない、たんなる高速タイプライターでつとまるようになっているので、AIに代替される職業になるだろう。

前回の動物愛護法改正で残った問題も、たくさんある。
なかでも、「ペット(愛玩動物)」の流通がおおきな問題になっていた。
もはや、人間の子どもよりペットの犬や猫のほうがたくさん生きているのがわが国の実態である。

それで、ペットといっしょに旅行もしたい、という要望から、ペットと泊まれる宿が、全国にひろまった。
そこでは、ほとんど人間並みのサービスが要求されるから、ペットがよろこぶ宿でないと、リピートしてくれないことになる。

「ペット流通」の問題点は、供給面とアフターケアという入口と出口にある。
供給面では、子犬や子猫の「販売」にかかわることで、アフターケアとしては、飼い主の高齢化と老犬・老猫の対策であって「動物愛護センター」での殺処分ゼロと里親さがしのはなしになる。

こんかい炎上したのは、供給面である。
およそペット先進国といわれる外国の「常識」に、「8週齢規制」がある。

これは、うまれたばかりの「子犬」や「子猫」における、母親と兄弟たちとの生活における「社会化」が、「8週齢」までのあいだに形成されるから、それまでに引き離して個体のあつかいをしないというルールである。

このルールによって、社会化を経た個体とそうでない個体への躾(人間社会で暮らす方法の教育)の効果がことなるという。
だから、しあわせなペットとしては、社会化経験の有無が、その後の一生を左右する問題になる。

人間の寿命が延びたけど、犬の寿命も延びている。
人間が80歳をこえるレベルで、犬は15歳から20歳ということになるから、犬にとっての時間は人間の4倍以上ですすんでいる。

だから、8週齢とは、たったの1週間×4×2、という計算ではなく、さらに4とか5以上を掛けないと、人間と比較できない。
つまり、ほとんどヒトの1年に相当するのだ。

この8週齢規制を、日本犬(6種:柴、秋田、甲斐、北海道、四国、紀州)は除外して、7週齢でも取引を可能とする「付則」をつけることが急遽きまったというニュースから、各動物愛護団体が猛反発したのだ。

理由は、「天然記念物」だから、ということだから、よくわからない。

それにくわえて、この規制「緩和」をしたのが、公益社団法人「日本犬保存会」(会長=岸信夫衆院議員)と同「秋田犬保存会」(会長=遠藤敬衆院議員)だと明記して「報道」した。

理由の取材があいまいなままで、安倍首相の実弟の名前をあげている。
あたかも、供給者の都合に配慮したようにおもわせるが、実態が報道からはわからない。

つまり、緩和の理由がよくわからないままで、ある方向に仕向けることをしているのだ。

もちろん、字面をよめば動物愛護団体の猛反発はわからないではないけれど、なんだか踊らされている感もある。

まことに報道の質のわるさが、社会に迷惑をもたらすものだ。
これを「偽善」というのではないか。