先祖帰りした部下育成の精神

OJT(On-the-Job Training)は,おおくの企業で採用されている教育方式であるが,ここから「TWI(Training Within Industry)研修」がうまれている.
「Industry」という語がはいっているため,製造業と一線を画したがるサービス業ではなじみが薄いかもしれない.

TWIとは,職場教育(企業内教育)の手法の一つで、主に、監督者向けのものをいう.
監督者とは,「現場」がつきものだから,いわゆる「現場責任者」の育成手法のことだ.
英語表現がはいっていることでわかるが,人材育成手法として戦後,米軍が日本に伝えたものである.
これは,「進駐軍」の功罪のうち,確実に「功」となったもののひとつであった.

当時の日本企業が,どのくらいの驚きと衝撃でこの手法を受け入れたかについては,導入した企業内では「伝説」になっているはずである.
だから,導入しなかった企業には,なにもないのは当然で,さいきんはOJTやOFF JTでさえ主旨をとり違えたあやしい企業はたくさんある.

その証拠に,目的と内容の合致ではなく,入札方式という「金額の多寡」で研修講師を選定している本末転倒を散見することができる.もちろん,単に安いほうが落札できる.
経営者が「人財」という経営資源に無頓着で,人事や研修担当に丸投げしているのがよくわかる事例である.
業界はなんであれ,利益をだしたければ人財育成「しかない」ことをしらない人物の所業でもある.

「後進の育成」という名目で,役職定年制や定年退職者の再雇用がおこなわれたが,かなりの企業でそれは文字どおりの「名目」であって,「実質」がともなっていないことが認められる.
「後進の育成」ではなく,引き続き現役時代と同程度の「作業」を命じられ,しかも年収は半減させられるのが実態だろう.
「方便」もここまでくると「うそ」になる.

過日は,ベテランドライバーが再雇用によって命じられた,社内清掃業務への従事を「不当」と訴えた裁判で,原告敗訴の判決がでていることでも,「名目以下」の状態を国が認めたかたちになっているから嘆かわしい.

高齢者雇用で人手不足の「人手」が,安く手に入から「得」だとかんがえる愚かさは,社内の高齢者層がひととおりいなくなったときに気がつくだろう.
そのときの若年者数は,数年前の半減レベルになっているから,争奪戦もはげしいだろう.そうなれば,選ぶのは若者のほうになるはずで,その企業で高齢者がどんな境遇におかれているかも将来の自分にてらして選択基準となるのは必定だから,愚かな企業は採用が困難になってしまう.

そのうち,人材紹介業界が,高齢者の働く満足度や企業内文化の比較調査をやって,ランキングをつくるはずだ.それが,株価に反映されてもおかしくない社会になる.
だから,いまの経営者が引退して逃げ切れたとしても,後任から突きつけられる経営判断の甘さの汚名だけは避けられない.
もっとも,いま「得」だとうそぶく人物は,自己の名誉すら気にしない神経だからできるだろうから,本人はさしおいて,組織の傷はより深くなるだろう.

はたして,「後進の育成」とはいかにあるべきなのか?

TWIが現場責任者向け,ということで,以下の四つのポイントを骨子にしている.
TWI-JI(Job In-struction):仕事の教え方
TWI-JM(Job Methods):改善の仕方
TWI-JR(Job Relations):人の扱い方
TWI-JS(Job Safety):安全作業のやりかた

どの項目も,みただけで「ハッ」とさせられるような気がする.
この四点がさいきんの「不祥事」の発生ポイントにもなっているからである.

本稿では,最初のJI:仕事の教え方の「精神」に注目したい.
それは,つぎのことばに集約されている.

「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」

これをアメリカ軍が教えてくれた.
スポーツ根性ものよろしく,日本人は「スパルタ式」がだいすきで,できないのはできない本人が悪い,という思想の真逆にあることにも注目したい.

名将ということになっている山本五十六提督の名言.

「やってみせ,言って聞かせて,させてみせ,ほめてやらねば,人は動かじ.
話し合い,耳を傾け,承認し,任せてやらねば,人は育たず.
やっている,姿を感謝で見守り,信頼せねば,人は実らず.」

最初の一行が「有名」で,一瞬,TWIのようなのは,さすが当代随一の親米派のいったんをみるようだが,ごらんのように下に「余計な」二行がつづく.
よく読むと,米軍の「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」という思想とはぜんぜんちがう,上から目線であることに注意したい.
つまり,教える側は「つねに正しい」というかんがえがにじみ出ていて,そこに「反省」の精神がないのだ.

山本提督の名言は,いまでも「名言」としてしられており,学のある管理職ならよく口にすることばであろう.
つまり,この名言の思想が,精神基盤の深いところに染み込んでいるのが日本人の本質ではあるまいか?
であればこそ,米軍がもたらした「TWI研修」の真逆が,衝撃的だったのだ.

昭和20年代の半ばから,「TWI研修」がはじまるから,受講したもっとも若いひとたちは国民学校世代になる.
戦後の製造業の発展につくしたこの世代が,定年したのはバブル崩壊後の95年あたりからなので,TWI研修の精神も,バブルのイケイケで傷ついたのではないか?

そしてその後,企業が自社研修の余力をうしなって,とうとう山本提督への先祖帰りをしてしまった.
「名言」が名言たるゆえんは,凡人には実際にできないからである.
ことばだけが空虚をかさね,「部下の手柄は上司のもの,上司のミスは部下のせい」という本質があらわになっただけでなく,それが「外資のよう」だと勘違いする.

アメリカは,いまだに世界最大の製造業大国であることをわすれているのも,勘違いの深さである.
そのアメリカで,TWI研修は三洋電機から逆輸入されて息を吹き返し,近年では医療というサービス分野にもひろがって実績をあげている.
反省の「精神」が健全な証拠なのだ.

今日は秋分の日.
秋のお彼岸である.
これからの四半期は,冬至にむけて昼がみじかくなっていくから「秋の夜長」になる.
先祖帰りさせてはいけない,後進の育成について,じっくりかんがえるのにもよい時期だろう.

ハイテクだけがイノベーションか?

先端分野の高度な技術体系のことを「ハイテク」という.
一方,対義語には「ローテク」があって,こちらはいかにも地味だが,重要度ではけっしてハイテクにひけはとらない.
2000年に出版された「ローテクの最先端は実はハイテクよりずっとスゴイんです.」が参考になる.

サービス業にとって「イノベーション」というと知の巨人,シュンペーターのお家芸だから,なにやらむずかしいものとおもいがちだが,そんなことはない.
むしろ,わが国では理系の先端技術である「ハイテク」の開発と一緒くたになって,間口がせまくなっているとかんがえられる.

ふつう,人的サービス業では「接客」を重視するから,伝統的な日本旅館などで「イノベーション」といってもピンと来ないだろう.

しかし,どうしたらお客様がより快適に過ごせるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発したら,それは「イノベーション」である.
また,どうしたら従業員が楽してお客様の快適さを確保できるか?をかんがえ,その結果,あたらしいやり方を開発しても,それは「イノベーション」である.

だから,あんがい「イノベーション」は身近にあるものだ.
それを発見する努力が,組織的におこなわれていれば,それこそ「革新的」なのだといえる.
不思議なことに,昨今,こうした努力がないがしろにされている傾向がみられるのはどうしたことか?
伝統的な大組織にこそ,この傾向があるようにおもえるのも特徴だ.

それは,「現状維持」という価値感のまん延であり,「組織防衛」ともいえそうだ.
つまり,コンサバ,すなわち「保守的」といってよい.
問題は,なにを保守するのか?ということの定義あるいは合意が組織的になく,個々の構成員にまかせられているから,かならず一体感をうしなって,結果的に組織が崩壊の危機にさらされる.

疑心暗鬼をうむのだ.
あつく語るひともいれば,冷めているひともいる.
あつく語るひとからみれば,冷めているひとは「保守」すべきものを持っていないと映り,冷めているひとからみれば,あつく語るひとのことばが,あるべきものに対してうわついているとおもえるものだ.

だから,リーダーが必要なのだが,昨今の大組織にふさわしい見識のあるリーダーが不在だから,基盤となる価値感の共有さえできないでいることがある.

こんなときにこそ,外部コンサルタントの出番なのだが,リーダー不在の伝統的大組織ほど外部に依頼したがらず,また,依頼のポイントが整理できない.
依頼したがらないのは,リーダーがビジネスではなく「恥」とおもうからだ.
依頼のポイントが整理できないのは,問題山積で,優先順位すらつけられないからである.そしてそれが,恥の上塗りになって,さらに状況が悪化してしまう.

一方,コンサルタントの方は,いよいよ状況が悪化してから登場する.
それが金融機関や支援機関からの依頼になるから,あろうことかいつもの「経費削減」プログラムの策定と実行になってしまう.依頼者が理解できる安易な方法の提示こそ,成約のパターンだからだ.

こうして,本来のイノベーションとはほど遠い,患部摘出がはじまるのだが,痛みの割に効果がないのは当然でもある.
依頼者がなぜこんな効果が薄いのにワンパターンでの方法を選ぶのか?
それは,外部コンサルタントの経費を負担するのが,依頼者ではなく対象企業だからである.
つまり,依頼者に責任はない.

むしろ,本来のイノベーションが対象企業の業績を回復させようものなら,依頼者の依頼前の経営指導が問われてしまう.
安易な方法で,そこそこの成果がちょうどよいのである.
だから,バカをみるのは経営者になる.
それでそんなコンサルタントへの支払が無駄だと気がつくのだ.

こうして,近所の同業の様子をながめれば,ますますイノベーションをうながす外部コンサルタントの存在には気づかず,現状維持につとめてしまうのは人情だ.
しかし,なによりも,自らかんがえてイノベーションを起こすことが大切である.

節約すると貧乏になる

日本ではあまり有名ではないが,ドイツの大経済学者にゾンバルトというひとがいる.
このひとは,マルクスに傾倒したために忘れかけられているけれど,主著にはユニークな「恋愛と贅沢と資本主義」がある.
恋愛をすると恋人にプレゼントをすることになって,そのプレゼントがこうじて贅沢品になると,資本主義が発達するというのだ.

これは,フランス革命の原因追及になっていて,宮廷文化の絶好調から資本主義になって,それから革命がおきて社会主義になるという論である.
数学モデルを重視する近代経済学の立場からみれば,そんなバカなというはなしだが,さいきんはやりの行動経済学からすれば,プレゼントの効果は無視できないはなしである.

日本の経済がバブルの崩壊以降,なんだか停滞しているうちに,気がつけばずいぶん貧乏になってしまった.
月額給与もボーナスも,かつての「伸び」はないし,大企業にあっても「イケイケ」の雰囲気はない.
もちろん,すでに人口の二割が年金頼みの高齢者になったから,巨大な人口が国家のお世話になっている.

こまったことに,企業のおおくが安易な経営者によって運営され,そのひとでなくてもできる「経費削減」を命じるから,社会にお金がまわらなくなった.
個人の生活も,給料が減ればしぜんと節約モードになるが,むかしとちがってボーナスがでてもつかわずに節約する.そんなことをしていたら,節約モードがふつうになって,「安いものがいいもの」になった.

それで,企業も値段を下げると売上が増える,という成功体験が,これまただれでもできる経営判断でつづけたから,仕入れ原価の理不尽な値引きも限界になった.
そしたら,大地震がやってきて,電気代が値上げになった.
売値を下げないと売れないという「すり込み」が完成してのことだったので,だれでもできる経営判断の延長で,人件費を削減した.

社員の給料の削減もしたが,派遣や業務委託がより簡単だとかんがえて,自社のビジネスを他人にまかせ一息ついたら,人手不足がやってきた.
仕事のやり方の工夫もせずに,これまでどおりをつづけていたら,残業代がたまっていって,払えないものは払えないとほっかぶりし,あげくのはてに従業員から訴えられた.

なんて俺は不幸なのかと,自己の無能をかえりみず嘆くばかりで,どうしたらよいかがわからない.
不幸なのは従業員で,こんな会社にいても未来はないとわかっちゃいるけどやめられない.
中小企業のはなしではない.日本の大企業も同様の循環になっている.

これに無能な政府が輪をかけて,民間活動に直接手を出して失敗をくりかえす.
半導体しかり,携帯電話しかり,航空機しかりである.
社会の仕組みの根幹を「合理化」する必要があるのに,それにはいっさい触れずにいる.
企業が活動しやすい仕組み,お金がまわる仕組み,要は民間が儲かるようにする仕組みのことだ.
すなわち,自由にすることだ.

「仕組み」だが,補助金の仕組みのことではない.
補助金で事業が成功した事例もないからだ.

アベノミクスに規制緩和が欠けているばかりか,強化していないか.
緩和したのは日銀の金融緩和だけだが,これだけではお金がまわる仕組みになっていない.
与党や政府が頑張るほどに,窮屈な経済になっていく.

何故か?
仕組みを作らず,だれでもできる節約ばかりをしているからだ.
節約をやめてカネをばらまけといっているのでもない.
むかしながらの「業界」が儲かる仕組みでもない.
規制緩和による自由な経済にせよといいたいのだ.

だから,業績不振企業の政府による救済も必要ない.
ちゃんと倒産させればよい.
経営者が経営責任をとるのは,社会にとって健全なことなのだ.
従業員にも,他社や他業界への転職の道がある.いざとなったらそのために,やるべきことがあると意識できるし,意識があれば準備もできる.

ゾンバルトは,贅沢なプレゼント消費の資金を得るために,貴族が領地民を搾取して革命になるといったが,そのプレゼントをつくる職人には大金が舞い込む.なんであれ,その職人は製品の材料の調達をしなければならないから,そこにもお金がまわるのだ.

お金持ちを羨んでも,ひがんでも,なんの得にもならない.
にもかかわらず,金持ちをひがんで憎むように仕向けるマスコミは,社会の不安を増幅させるからあやしい意図すら勘ぐりたくなる.日本のマスコミはゾンバルト信者なのか?

お金持ちにはしっかり消費してもらうことが重要なのだ.
だから,政府が一定以上のお金持ちに強制して消費させろというのは間違いだ.
ましてやそれが,累進課税の成果として政府=役人の収入にさせてはいけない.引退した役人が肥る仕組みにつかわれるだけだ.

お金持ちがこれ見よがしに消費する社会こそ,じつはみんなを幸せにする.

ゾンバルトが発見し,見落としたことである.

グランドツアーを許せない国

「グランドツアー」は,おもに18世紀英国における「卒業旅行」のことである.
英国貴族の子弟だけでなく,ひろくヨーロッパ文化人にもひろがった「旅」で,目的地はなんといってもいまの「イタリア」であった.
もっとも,われわれがいま知っている「イタリア」は,第一次大戦のあとに統一されたから,「グランドツアー」時代は小国ばかりであったことに注意したい.

ヨーロッパ人にとっての「ローマ」は,都市としてのローマよりも「ローマ帝国」のローマをさす.それで,都市の「ローマ」がふくまれないけど,西ローマ帝国の後継として「ローマ」と名付けた帝国が「神聖ローマ帝国」として誕生し,ナポレオンによって消滅してもハプスブルク帝国として生きのこって,そのハプスブルク帝国が第一次大戦で終わると,今度は「ローマ」をふくむイタリアが統一されるというややこしさである.

長靴半島とシチリア島の歴史の複雑は,日本史の素直さとは一線を画すが,芸術の奥深さは小国の繁栄を背景にするから,日本の各藩のご城下が栄えたごとく,パトロンの存在なくしてはかんがえられない.その意味では,地方分散に利があるというものだ.

英国がグランドツアーの発祥といわれる理由に,大学の質の悪さ,といういまでは信じがたいはなしがある.その質が悪い大学とは,とうぜんケンブリッジやオックスフォードのことで,ある貴族の記録に,英国の大学に進学するくらいならイタリアへの旅行がよほど将来の役に立つとして,子息を進学させず旅行にだしたとある.

どうやら,当時の大学は新しいことを教えるのではなく,伝統的な決まりごとを教えるだけになっていて,教授職で積極的な態度をとると職が危ぶまれるほどだっという.
それで,当時としては月に行くような危険をもともなうけれど,人類遺産の宝庫であるイタリアを目指したらしい.そして,若様にはかならず教師が同行したから,知的刺戟としてかなりの成果もあったのだ.

もちろん,ダメ大学の卒業旅行としてもグランドツアーは行ったから,それなりの年齢幅がある青年たちが,ある意味大名旅行をしていた.そうなると,家格というものも幅をきかせて,随行員の人数もきまったというから,参勤交代の格式のような暗黙のルールもできた.
長男は二年から数年,次男以下は数ヶ月という待遇差も,日本とかわらない.

日本では,「卒業旅行」として,80年代に大ブームになった.就職がきまってから卒業式前の期間に二週間から一ヶ月程度の外国旅行をこぞってしたものだ.インド旅行で人生が変わった若者の話題もにぎやかだった.
60年代からはじまったというが,当時は国内旅行が主で,貧しい学生たちのつつましい旅だったろう.21世紀のいまは,小旅行を何回かするようで,海外旅行よりも国内がえらばれるという.

投資銀行勤務時代,英国人学生の「卒業旅行」のことを聞いた.
就職がきまると,人事担当者からどのくらいの期間の旅行にでるのか質問されるのがふつうで,たいがいの学生は「二年」とこたえるのもふつうだといっていた.長いと四年や五年もいるが,驚くことにおおくは許可されるらしい.
彼は,お金がなかったので「半年」とこたえたら,人事担当者が不思議そうな顔をしたという.

それで,どこに行こうが勝手だが,月に一回かならず会社に連絡をいれるというのが条件で,出社日も指定されるから,まさに現代にも「グランドツアー」の伝統はいきている.
どうしてそんなに長い期間,入社の延長が許されるのかを聞いたら,会社の経費とは関係なく本人が世界を観に行って経験することは,会社にとって悪いことはひとつもない,というかんがえだそうだから,「グローバル」が前提になっている.大英帝国の残滓であろう.

それにしても,二年でも驚くが四年や五年も海外を歩いて,入社が遅れても問題ないことがピンと来なかった.すると,「会社もしっかりしていて,ときたまレポートを要求している」から,あんがい無料で現地調査をやらせている.犯罪や事故以外,めったなことで採用中止にはならないが,あまりにひどいレポートだと,旅行期間の途中でも会社への出頭命令がでるから,放任はしても放置ではないのが立派だ.

会社としては,大学では得られない知識と経験値をもった新入社員に期待していて,本人の人生で家族がないまま外国を渡り歩くチャンスは一度だけだから,互いにメリットがある制度だとして成り立たせている.まさにグランドツアーの伝統だ.

つまり,たとえ新入社員でも対等あつかいなのである.
だから,常識として学生もふざけたレポートなど書きはしない.それこそ,人事記録に汚点をのこしてしまうと知っている.それで,旅先で知り合った他国の学生とネットワークをつくって,情報網として利用しようと行動するが,それを会社も期待しているという構図だからしたたかだ.

日本企業でこんなことをする会社はあるのだろうか?
一斉入社で取り囲み,網から洩らすまいとするのが日本企業だ.
どうやら,心理学でも負けている.
「同期」の競争という発想すらない.

日本でも,グランドツアー,おおいに結構,という文化になってほしい.

子どもとおとなの区別ができない

ばかばかしいはなしだから,みんなの話題になる.
それが他人の不幸だと,たまらなく楽しいとかんじるのが世間というものだ.
これを提供するのは,むかしは「文屋」といってさげすんだ.
売文家業である.横文字にすれば「ゴシップ」だ.

金で動くきたならしい怪しげな雑誌記者というのは,あいかわらずいろんな作品に登場するが,大新聞の記者が別物だというひともいない.
ただし,大新聞の記者はいまだに社旗をひるがえしたハイヤーに乗ってあらわれる.
JALの搭乗員がそうだったように,大新聞の経営が傾いて「経費削減」になったら,さぞやハイヤー業界はこまるだろう.

べつに三田佳子にはなんのうらみもないが,その息子である高橋某という38歳になる「おとな」が,今月4度目の逮捕をされたという.
日本では「逮捕」が事件になるが,刑事裁判での結果が重要なのだ.その刑事裁判も,起訴されれば99%有罪になる国だから,捜査が優秀なのか裁判所が仕事をサボっているのかはわからない.

それで,このひとの場合は,一回目が高校生で保護観察処分に,二回目は執行猶予つきだが有罪判決で,三回目は実刑判決で収監されている.そして、今回だが,容疑はすべて覚醒剤だから,みごとな常習犯である.当然だが二回目以降は「成人」である.
なお,三回目には薬物依存治療を受けてからの収監となっている.

この「事件」が興味深いのは,親の子離れと子の親離れという双方からのバランスが狂っているからであると同時に,世間が「おとな」を子ども扱いすることの違和感があるからだ.
前者は親子間のことなので,他人が介在するはなしではない.小遣いが月額で70万円だの日額15万円だのだと騒いでいるが,おなじく母親から月額で1000万円もらっていた元総理大臣だっている.
だから,報道の義務としては,贈与税の課税状況が適正かどうかだけだろう.

母から見れば子どもは何歳になろうが,一生「子ども」である.
今回の逮捕で三田がだしたコメント「自らの責任と覚悟をもって受け止め,そして罪を償って,生き抜いてもらいたい」というのは,おとなになった子どもに対する母からのことばとして違和感はない.逆に,二度目のときに言えなかったのが悔やまれる.

似たようなはなしが,高畑淳子親子にもあったのは記憶にあたらしい.
このときは,母親が成人の息子の不祥事を全面謝罪していた.
「業界」で活躍する先輩でもある母が,おおきな傘になっていたのは,三田の一回目,二回目にみられた現象とおなじである.

なんのための子育て教育か?と問えば,「自立」につきるとおもうが,それができていない.
また,この二例では,父親が不在なのも共通している.
さいきんのCMで,あんがい父親がでてこないものがあるのは,いつからかトモダチのような親子が理想とされるようになったからか?

それも,成人した子とのトモダチのような,ではなく,幼児からである.
つまり,子どもがおとなになれないというよりも,おとなが子どものままなのだ.
大学の入学式や卒業式,果ては,入社式に親がついて来るようになった.
ちょっと前ならかんがえられない.

2022年4月1日から,この国では18歳から民法上の成人になる.

あるときは子ども扱い,あるときはおとな扱いの「法的」なはじまりでもある.
飲酒や喫煙,ギャンブルなどは,18歳ではいけないことになっている.
企業でも,18歳から20歳までの扱いがいろいろ面倒になるはずだ.

はっきりしない国である.
おとなが「覚悟をもって生き抜く」ことを放棄しだしているからではないのか.
国や自治体が助けてくれる.
ファンタジー国民の夢は覚めない.

「敬老」をかんがえる

重陽の節句とのかさなりもあって,敬老の日が9月であるのは,農閑期でもあるからだという.
わが国は,農業国であった.
五節句のなかでも重陽はなぜか地味である.
1月7日,3月3日,5月5日,7月7日、そして9月9日.

暦について以前書いたが,なぜか「観光」にもあまり利用されていないのが重陽である.
この時期,菊人形ぐらいで,優雅に菊酒をたしなむことをしたことがない不思議がある.
ただし,旧暦の9月9日は,ことし10月17日になる.

戦後,敬老を記念日とする運動は兵庫県に起きた.このときの「敬老」の対象は「55歳以上」だった.
当時の寿命にちかく,企業の定年も55歳で,いまでも自衛官は55歳で定年する.
もっとも,戦争で若年から壮年がおおく亡くなったから「寿命」といっても自然死だけではない.

欧米で軍が就職先として人気なのには,定年が早いから,という理由も重要だという.
つまり,はやく現役からはなれて,余生が自由になるという魅力がつよいのだから,やはり「勤労観」も「人生観」もちがう.
自衛官でこんな理由をおもいつくひとがどのくらいいるのか?

どのくらいいるのか?という点でいえば,55歳から「敬老」にされたことをいまの50代で意識しているひとはどのくらいいるのか?と問えば,まずいないはずだ.
現役最後の仕上げ時期,でもあるだろうが,年金支給開始年齢がズルズル延びて,これに連動して「雇用延長」もズルズル延びているから,年収が激減しても会社にいつまでもいられるようになってしまった.

この年金支給開始年齢の延長は,まるで計画停電のような政府の脅しで,必要もない停電を故意に実行して国民に不便を強いるかのごとく,年金会計が破綻すると脅して払うべきものを払わないもっともらしい理由にしている.

もらう側も,家系における数代前からの支給をわすれて,自分の分をよこせという「権利」を主張するが,掛け金という政府の詐欺で,自分のご先祖が先にもらった分の返済をしただけであることが忘却の彼方となっている.

しかし,忘れたふりをすれば,自分の分がもらえると信じるから,選挙では「社会保障の充実」を要求してはばからない.
つまり,自分の家系収支以上のものをよこせと要求している,おそろしく強欲な老人の姿が出現してしまった.

これらの老人のおおくが,昭和10年生まれからなるナチスドイツに真似た国民学校世代を先頭に,その後は戦後教育世代となるから,いかに「教育」が国家の重要事であるかがわかるというものだ.
つまり,年金制度よりもはるかに早い段階で,教育の破綻があった.
それは,いま学校に通う子どもたちではなく,いま生きている祖父母の世代からの教育の破綻を意味する.

「教え諭す」という方法の利点は,均一化した人材の育成にある.
これは,大量生産大量消費という時代の要請でもあったから,「工員」育成プログラムとしては優れている.
このなかから抜きん出たものが,エリートとして指導層に仲間入りするシステムだった.

ところが,どうやって抜きん出たものを選ぶのか?となったとき,考えついたのが「データ化」であって,それが「偏差値」の利用だった.
ここまでは,学校教育という場でのことだが,企業では別途人材教育が実施されていて,かつ,人材を発掘する仕組みもあった.

それで発掘されるひとと,企業内文化だけに染まるひとに分化させて,発掘されたひとが指導層に仲間入りできた.
残念なことに,企業体力の低下から,かつてのような企業内教育ができなくなって,それが結果的にさらなる企業体力の低下をまねいてしまった.

こうして,意図せざるも未必の故意のごとく,あとから気づけば企業に有利な「社畜」が大量生産された.
「社畜」は,応用力に根本的に欠けるから他社では役に立たない.
それで,転職しようにも需要がないことに気づき,自らの汎用的な可能性を放棄するのである.

こうして,いま,日本の老人は,かつての「社畜」が齢を重ねている.
雇用延長で,おなじ仕事をしているのに,年収を半減させることが企業にできるのは,「社畜」の存在あってである.

だから,若者は汎用的な技能をみにつける努力をしなければならないと,気づくだろう.

こうして,「敬老」というのは反面教師としての意味を重くするだろう.

野菜を買うとプラゴミがふえる

海洋生物にもプラゴミの悪影響が報告されてきている.
なかでも深刻なのは,「マイクロプラスチック」や「ナノプラスチック」で,食物連鎖からヒトへも影響がでているという.
歯磨き粉の研磨剤にもふくまれていて,それが海洋に流れ出るというから,知らないうちに海を汚している.

ひとは見えないモノを「なかった」ことにする傾向がある.
それで,たまにまじまじと見つめると,妙にがてんするものだ.

「一族郎党」で一緒に住む生活など,とっくに歴史のかなたにおいやって,いつの間にか三代以上の同居すら「大家族」といわれるようになってしまった.
だから,順番どおりなら,同居の祖父母の「死」に直面する経験は,孫にはあんがい希になって,お葬式がイベント化する.

十年前の映画「おくりびと」がヒットし日本アカデミー賞を受賞したのは,むしろ「遅い」感もあった.
おなじ意味で,日本版タイトル「おみおくりの作法」(2013年)は,より突っ込んだ内容になっている.

人糞を堆肥にする,というのは日本の風習で,畜産がさかんだったヨーロッパにはみられない.
彼らは,川に流すのがふつうだった.
日本の田舎にいけばたいがいあった「肥だめ」は,発酵過程をとおして「発熱消毒」もかねたから,おそろしく科学的な設備で,完成したものは水でうすめて使用したが,なんと千年の歴史がある.
納豆や醤油・味噌だけが,わが国の発酵文化ではない.

ところが,「水洗」というヨーロッパ文化に席巻されて,同時に「化学肥料」の普及もあって,「下肥」は絶滅過程に入っている.
それで,レバーを押せば水とともに消えてなくなるから,「なかった」ことになった.
だから,「下水処理場」は,現代文明をささえる重要施設にまちがいなく,小中学校の生徒にはかならず見学させるとよい.
消えてなくなったのではないから,「なかった」ことにはならないことが学べる.

「地球環境」などという壮大な環境よりも,身近な生活環境がどのようにして人為的に「作られている」か?は,おとなだって知りたいだろう.
その「下水処理場」すら,電気がなければ稼働しない.
平凡な日常という,現代文明は,強固なようでじつは脆弱だ.

石油という便利な物質は,エネルギー資源であると同時に材料資源でもある.
燃料として燃やせば,電気ができたり自動車が動く.
一方で,さまざまな化学反応から「プラスチック」や「タンパク質」までつくることができる.
燃料としての石油が,ほかの方法に置き換えられても,材料としての石油がほかの物質に置き換えられるかといえば,素人でもそうはいかないとわかる.

現代文明が石油に依存しているのは,以上のことで確認できる.

「現職で将来ある科学者だったら絶対に発言しない」といって「発言した」のは,武田邦彦教授である.研究費の配分を確実にしなければ,科学者としてやりたい研究ができない.その研究費は,国から支給されるので,国にさからったことを発言をしない.つまり,「沈黙は金」なのだ.
自分は研究者としては「引退」し,いまは「教育者」に専念すればよいから,科学をもとに発言するのだ,という意味である.

「リサイクル幻想」(文春新書,2000年)は,記憶に残る武田教授の著書である.
なぜかというと,1975年の「海洋投棄に関するロンドン条約」(日本は80年に批准)の,あたらしい議定書が96年に結ばれて,まさに海洋投棄の全面禁止となった時代背景があったからだ.

当時勤務していたホテルの排水溝にたまった汚物は,海洋投入処分の対象だったから,この議定書による対策を研究していた.それは,陸上処理の方法の模索で,費用負担増の予測が主だった.
そんなこともあって,事務からのふつうゴミ,調理場からの生ゴミについても,対策の検討をしていたのだ.

この本が出版されて18年.
武田教授の発言はとまらないが,なかなか教授のいう「科学」が,浸透していない.
「科学」よりも「制度」を優先させる体質が変わらないからだろう.
その「制度」が「利権」と直結するから,絶望的なのだ.

野菜を買うとプラゴミがふえる.
消費者は,そろそろ声をあげるべきではないか?

鳴り物入りではじまった「民泊」だが,オーナーにとって最大の問題が「ゴミ分別」なのである.
外国人が「分別できない」.
また,都区部でも分別のルールがちがうから,おなじオーナーの「民泊」でも「区」がちがうと,リピートした外国人客が「混乱」するのだ.

そうして,マンションの管理組合や自治会から目の敵にされる.

「科学」を基準に「制度」にしないツケでもある.

ウィンドウズ画面の風光明媚

ウインドウズというパソコンのオペレーション・システムが2015年に刷新されて,だいぶ時間がたった.
立ち上げ画面には世界の絶景写真が自動的にでてきて目を楽しませてくれる.
こうした写真画像の「風光明媚」に,どのくらい「日本」があてられているのだろう?

外国人観光客のいう「日本は美しい国」とは,幕末から明治初期に訪れた外国人がのこした「美しい」とおなじなのか?ちがうのか?

おなじなのは「清潔」という意味の「美しい」だろう.
道路端も,公衆トイレも,この国は概ね「清潔」だ.
このことは,かのシュリーマンも,相当に賞賛している.
舗装道路も自動車も,電気や近代的な下水道もなかった当時の横浜や江戸をみての感想である.

いまでも観光地にある「観光馬車」の馬には糞を受けるものを装備しているが,むかしはそんなものはなかったから,道には馬糞が点々とあったはずである.しかし,よい肥料になるため,ちゃんと始末していたのが日本人の行動だった.
人糞とて貴重な肥料として,現金で売買される対象だった.世界に類例がない糞尿輸送については,西武鉄道の創始者,堤康次郞の「苦闘三十年」(三康文化研究所,1962年)にもある.

ヨーロッパのふるい街並みにつきものの「石畳」は,下水がなかったときに,人々が窓から棄てた汚物を流すためというから,人畜ともに相当量が道に「あった」のは事実だ.
ロンドンブーツと紳士の傘は,これらを避けるためというはなしもある.
東京台場にあるトヨタメガウエブのヒストリーガレージで,「パリ」に行けば床に精巧な犬の糞があるほどなので,ヨーロッパから日本に来たひとが「清潔で美しい」と感じたのは,当然だった.

当時とちがうのは,「スカイライン」の美しさだったのではないか?
電柱も電線もなかったけど,高層建築物は「お城」だけだから,おなじ高さで,似たような瓦の屋根が連なっていたはずである.
だから,街から少し離れた丘や山からの景観は,美しかったと想像できる.

いまは,地方の城下町にいっても,そんなものは猫の額ほどの保存状況だ.
かつての「お城」さえ,その跡地が公園ならまだしも,無粋このうえない建築の県庁や,復元とは名ばかりのコンクリートでつくった城が建つ無様を,観光資源だとかんがえる想像力に,ただただおどろくばかりである.

また,場所が「自然の景観」になると,たちまち日本の景色で邪魔をするのは「高圧線」である.
どんな「山」にも,高圧線が設置されているから,その「産業優先思想」のすさまじさが見てとれる.
デジタルカメラ時代になって,トリミングすれば消せることにはなったが,肉眼では消せないから,意識から消すしかない.すると,あんがい気にならなくなるという特技を,日本人は習得した.

スカイラインの美しさにこだわっているのは,英国のチャールズ皇太子であると前に書いた.
こういう美的センスを見習いたいものだ.

いまは,「インスタ映え」するとなれば観光地になる.
この夏に訪問した,城崎温泉の街並みが,その理由で若者や外国人観光客の人気を呼んでいた.
浴衣に下駄をつっかけて街を歩き,湯をめぐる.
ふるい日本的な情緒がのこる街並みと,浴衣が「インスタ映え」するのだ.

しかし,「統一感」ということでいえば,櫛の歯が欠けたような街並みで,ある意味「日本的バラバラ」になっている.
それでか,撮影スポットが限られるから,似たような画像が氾濫する.
これではすぐさま飽きられてしまうのではないか?

日本観光の印象が,「退屈」になる道理である.

もっと,ウィンドウズ画面の風光明媚を,じっくりながめて,そこにあるかんがえ方を思考するとよいのではないか.
それが,もっともこの国の観光に欠けていることだとおもう.

100円グッズは自慢できるか?

郵便配達を平日限定にすると効率があがるという見出し記事がでた.
誰の効率なのか?というと,郵便局の効率だろうから,利用者の効率があがるわけではない.
その最大の理由が,人手不足だ.
「人手不足」の理由は,ほんとうに「人口減少」だけなのだろうか?

たしかに,人口減少や超高齢化,子どもの減少がある.だから,ひとの供給面からみれば,ひとの奪い合いとなって,それが人件費単価を上昇させるから,わが国は,いよいよ「高コスト社会」に突入している.
すると,これは生活コストの上昇を意味するから,実質的なインフレが発生していることになる.
政府や日銀は,インフレ率2%を目標としたがぜんぜん達成できないままだ.しかし,その計算根拠は大丈夫なのだろうか?

いわゆる,セーフティネットが,もしかしたら頑強になっていて,働くよりも働かない選択が,生活者にとって「正解」になってはいないか?
専業主婦が「働く」と,損する仕組みになっているのは,「限度額」が変更されても変わらない.
働く自由を損なっても保護しようとした対象が,多数だった時代から変化したら,こんどは制度が対応できなくなった.

この国の議論は,つねに「提供者」の側からが主流であるが,世界が常識とする「消費者」の側からの議論がほとんどない.あったとしても,話題は至近のミクロ的で,「供給者」のいうマクロ的な議論とはかみあわないことがおおい.

日本は先進国の先端を走っているといまでも信じているから,「遅れた外国」に「100円グッズ」を持ち込んで,それがどんなに便利かを自慢するTV番組がある.
相手の外国人に感心させると,そのグッズのお値段を質問し,かなり高額な回答をえる.そこで,「いえいえこれ100円なんです」というと,外国人がビックリする画像をとるという趣向である.
そして、「さすが,にっぽんじんは発想がすごい」とか,「日本の物価がそんな安いなんて意外」という感想がお決まりである.

「価格破壊」という点において,日本の「100均」には及ばないが,そのデザイン性(センス)と価格遡及で世界展開しているといえば,デンマークを拠点とする「Flying Tiger Copenhagen」だろう.フライングタイガーも100均も,ほとんどは「中国製」で,自国製のものは皆無だ.
消費者に,高級品からフライングタイガーや100均まで,さまざまな選択があるのが豊かな社会である.
だから,日本は本当は「豊かな社会」のはずである.

にもかかわらず,そんな実感がないのはどうしたことか?
「もの」と「ひと」が一緒くたになって,どちらも「安ければよい」になってしまったからではないか?
しかし,「もの」とても,超高級ブランドがあるから,「ひと」の「価格」だけが一方的に下がってしまった.

この意味するものは,価値ある商品やサービスを「安く提供しすぎ」ているためだ.
だから,「しすぎた分」は,消費者に「所得移転」してしまっている.
しかし,消費者の家計が好転しないのは,自身の労働という価値も「安く提供しすぎ」ているからだ.
つまり,これが「デフレ・スパイラル」である.
これを,「金融政策」という,かなり本筋から「遠い」政策で解決しようとしたのが政府・日銀であって,効果がぜんぜんない,ことの理由でもあろう.

こうしたことが,ずっと30年も,この国「だけ」で起きていて,どの国にも「波及しない」のはなぜか?
日本がみえない「鎖国」をしているからである.
これは,ちょっと前に話題になった「内外価格差」の存在のことである.

さまざまな「規制」によって,業界が他国から守られているから,国内での競争はあっても国際競争を国内ではしていない.
それで,気がついたら「世界」の働き方における労働の価値まで,国内だけでの評価になってしまった.

もちろん,100円グッズはありがたい.
しかし,人間の労働という「サービス・グッズ」にまで,安さだけをもとめたら,結局は最後,「高品質」という価値まで失わないか?
これが企業の不祥事が続発する遠因になっているのだろう.
スポンサー企業が「しぶちん」になれば,お金をパトロンから引き出せるひとが君臨するようになるから,スポーツ界にも,全国の「お祭り」にも波及するのではないか?

「有能な人材をもとめる」くせに,報酬は用意しない.
「有能な人材」は,ふつう「高額」なのだ.理由は「有能」だからだ.
ならば,「ふつうの人材」は,いくらなのか?
この金額が,わからないのが日本の「労働市場」である.

ならば,世界はどうなっているのかを調べたらいい.
賃金にみあった売上単価をどうやって達成するのか?
高賃金でなり立つモデルは,どういうものか?
これを,はやく構築しないと,「人手不足」で事業が継続できなくなる可能性がある.

それは逆に,高賃金を払えるならば,「人手不足」にならないことでもある.
ここでいう「高賃金」とは,「有能な人材」だけでなく「ふつうの人材」もふくまれる.
さらに,「はたらきやすい」もふくまれる.
手取りが少なくても,「はたらきやすい」が魅力になるウェートが増すだろう.
これは,経営者には「コスト」だが,働く側には,切実なメリットだ.

もはや「高賃金化」は避けられない.
その対策が,人件費削減では,意味不明だ.
日本の経営者は,100円グッズの「ビジネス・モデル」を研究すべきで,100円グッズを真似してはいけない.

実務者ほど哲学を

経営者が経営者の役割を放棄して,ただの社内発注者に成り下がり,その発注根拠すら部下に丸投げするから,部下は発注そのものの意図から紐解かなければならないことが見られる.
大企業病のなかのひとつの症状だが,中小中堅企業が,これをまねてしまっていることがあるので,ウィルス性の伝染病かもしれない.

罹患した経営者の治療方法は,本人の気づきをきっかけにして,自己免疫作用の発揮しかないのだが,そもそもその才に欠けるから罹患するので,あんがい治療は難しい.
そこで,気の毒な部下が奮起するしかなくなるのである.
しかし,こうした部下にとっては,将来の反面教師として,また,問題解決の経験が職業人生に重要な示唆をあたえてくれることもある.

「こともある」というのは,確率のはなしである.
マイナス評価を企業文化にする体質なら,波状攻撃のなかのひとつでもしくじれば,かなりの確率で裏街道にまわされる.
「プラス評価が基準です」と声高の企業ほど,実際はマイナス評価をするから,なかなか一筋縄ではいかないのが現実である.

これは,評価をする側の裁量範囲と能力の不一致からくる.
結局,上司次第,という他力本願が部下に生じるのだが,一方で,その上司も部下を選べないことがあるから,はなしが複雑になる.

「適材適所」ほど困難なものはない.

「適材」とはどういうことで,「適所」がどこかを深くかんがえ,今だけでなく将来まで,自社の人員をどう配置するのか?をまともにかんがえると,まさに夜も寝られないことになるだろう.
だから,一貫してちゃんとできている企業はすくない.

そんなこともあって,経営者の集団は「優秀な人材」をもとめるのだが,困ったことに,この国の経営者の集団は「優秀な人材」とは,安易に偏差値によると理解しているから,大学から順番に高校,中学へと「偏差値『偏重』」が伝染し,ついに逆流し,果ては幼稚園から大学という順番に変化した.
その結果生じたのが,「教育問題」である.

答がきまっているから採点できる.だから,「偏差値『偏重』」のエリートは,答がきまっていない問題を解けない,とずいぶんまえから指摘されている.
これは、重大な問題で,ビジネスシーンにおいては,答がきまっているものなど存在しないし,そもそも「正解」すら,だれにもわからない.

ある課題を解決する方法をみつけて,それを実行したら業績が改善した.
それならば,その「解決方法」が「正解」かといえば,確実にちがう.
「おそらく正解に近い」としかだれにも評価のしようがない.
なぜなら,もっとうまい方法があるかもしれないからだ.
「経営活動」とは,正解の「近似値」に近づける活動のことである.

だから,成功体験が豊富な企業ほど,貪欲に「もっとうまい方法」をいつでもかんがえている.
残念ながら,成功体験がすくない企業は,かんたんに「正解」と決めつけて,改善案を拒否するから,たいがいが「ジリ貧」になるのである.

経済界が「学校教育」に口をだすのは理解できる.
社会人になるための準備をする機関であるからだ.
ところが,どうもわれわれは「教育」を勘違いしているかもしれない.

日本の「教育」は,江戸時代の寺子屋以来,「教え諭す」という概念で一貫している.
だから,いまだに教師を「教諭」という.
ところが,「エディケーション」は,「可能性を導き出すのに手を貸す」というニュアンスが強い.

この違いは,決定的だ.
しかして,わが国に「エディケーション」の文化も伝統もなく,「教え諭す」が行きついた先が「偏差値『偏重』」だったのは必然でもあろう.

すると,社会にはいってからの「エディケーション」しかチャンスがない.
「かんがえる訓練」を,最新のIT企業が重視して,新入社員からベテランまで一貫して社内研修のテーマとしているのは,しごく当然なのだ.

「二進法」でしられるコンピュータを扱うには,「ロジック」がなければならない.
だからといって,小学校から「プログラミング」を「教え諭す」のは,「エディケーション」になるのか?といえば,残念ながら,そうはいくまい.
順番がちがう.「エディケーション」のなかに「プログラミング」がなければならない.

かくして,企業内で問題解決をはかる「部下」にとって,もっとも重要なのは,「哲学」のリテラシーとなる.
若くて経験が浅いうちは,「ノウハウ本」でもなんとかなるが,中堅以上になると行き詰まる.
職業人生で40代がピークであると,なかなかわからないものだが,ピークを越えたら「維持」だけでも大変なのだ.
だから,入社から20年でどこまで経験を積み上げ,経験という「資産を増やす」かが,その後を決める.

「自己啓発」のおおくが「かんがえ方の伝授」なのも,この理由による.
すなわち,実務家にもっとも重要な基礎をなすのは,「方法」ではなく「哲学」なのである.
それは、経営者に「哲学」がなくなったからでもある.