「ゼロCHINA」の損得勘定

かつての「満蒙開拓団」の悲惨が、現代の「ゼロCHINA」論になってきた。

ずっと、中国投資を煽っていたわが国を代表する「経済紙」を自称する、プロパガンダ紙は、中国からの輸入停止で「53兆円消失」と恐怖を煽っている。

ついでに、中国から別の地域からの調達に切りかえるにも、年間で13兆円のコスト増になると、脅迫しているのである。
「しかし」と、アップルとかダイキンとかの「中国離れ政策」についても言及して、あとは「読者=経営者の判断」と逃げている。

つまるところ、「リスク管理」のはなしなのだ。

「管理」と書くが、正しくは「コントロール」のことである。
多くの日本企業の経営者は、自己判断力が劣化して鈍っている「偏差値エリート」という木偶の坊が多数となったので、「コントロール」を放棄して、「リスク回避」を志向する。

しかしながら、「リスク」はまた、「利益率」をも意味するので、「回避」ばかりしていると、「利益率」もゼロに接近するのだ。
そうやって、日本企業の利益率が消失したので、「53兆円」どころのはなしではないはずだ。

これを計算した、早稲田大学の先生には、悪気はないだろうから、プロパガンダ紙に「切り取り報道された」ということだとかんがえる。

さてそれで、「リスク・コントロール」のはなしである。

まずは、どうやってコントロールするか?の前に、自社は何がしたいのか?を確認する必要がある。
あんがいと、日本企業はこの「確認」を端折る傾向がある。
「いまさら」というわけだ。

しかし、「常に動いている」のが、「経営環境」というものだから、「常に確認する」ということは、基本中の基本だ。
犬すらも、自身の群れの中の順位を、常に確認しているのであって、常にあわよくば上位を狙っているのである。

つまり、「いまさら」という企業は、犬以下の行動をしていることになる。
上位を狙うなんてできっこない。
いまの業界(群れ)の安定すらないではないか?と。

これで、本気で国際競争のなかで生き残れるとかんがえていたら、はやく「廃業」した方がいい。
従業員の生活や取引先に迷惑をかけずに、計画的に清算するのが、せめてもの経営責任というものだ。

リスク・コントロールの次の手順には、現状把握がある。
自社はこうしたいけど、それで実際はどうなっている?ということだ。
それではじめて、したいことと現実のギャップを確認するのである。

このギャップの「埋め方」のシナリオ作りが、リスク・コントロールの中心部分で、それが「計画」だから、出来上がった計画の複数案から「チョイス」して「実行」するという手順になることは、業界を問わない。

つまり、記事から、アップルやダイキンはこれを愚直にやっている、と読めるのである。
そうでない企業は、トップが犬にも劣るので、組織をあげて「(主君)押込め」をするのが、鎌倉以来の日本的伝統なのである。

さてそうはいっても、というのは、一企業レベルではどうにもならない、たとえば「国家レベル」でのリスク・コントロールが問題になる。
すると、なんのための業界団体なのか?とか、商工会なのか?とかになるのだけれど、これがまた木偶の坊が多数なので動かない。

それでもって、総じて自民党を支持してしまっているから、先見性があるひとほど無力感と絶望感に苛まれることになっている。

そこで、目先を変えてみると、宗主国たるアメリカで、パトリック・J・ブキャナン氏(84歳)の言動がいま注目されている。

このひとは、ニクソンやフォード、レーガンといった歴代大統領のシニア・アドバイザーだったけど、1992年と96年には、自身が大統領選に共和党から立候補もしている「保守」の大物論客でも有名なのだ。

何度も書くが、アメリカで「保守」という概念が生まれたのは、あんがいと新しくて、その原因が民主党の共産化だったのである。
アメリカの「保守」とは、「建国の理念」を守るひとたちのことをいう。

彼が指摘したのは、アメリカの戦略の3つの失敗について、歯に衣着せずにハッキリと言い切ったことで話題になっている。
・ソ連崩壊後のロシア政策の失敗(ロシアをあくまでも敵視したこと)
・中国政策の失敗(経済発展が民主化を促すという幻想)
・中東政策の失敗(エネルギー同盟の崩壊)

著作家として、多数の出版をしているけれど、「日本語」になっているのは、次の二冊である。
『病むアメリカ、滅びゆく西洋』は2002年。
『超大国の自殺――アメリカは、二〇二五年まで生き延びるか?』は2012年。

 

さてそれで、「CHINA」とは何者か?といえば、「国家ではない」ことを意識しないといけない。
いまの「CHINA」とは、「中国共産党」のことである。
この党が、国家を支配しているからだ。

その内部での「抗争」は、習派と江派の死闘になっている。
ブキャナン氏が指摘したのは、鄧小平⇒江派という流れでの、民主党による利権政治と「Republican In Name Only」のブッシュ家からの失敗だ。

「フランケンシュタイン」を作ってしまったのだ。

すると、「ゼロCHINA」とは、ただの損得勘定で表現はできない。
こんどは、こちら側が「襲われる」立場になったからである。
どうやって、フランケンシュタインを倒すのか?が、最大のリスク・コントロールになったのである。

「ガラパゴス化」していてよかった

日本が世界(欧米)と「ちがう」ことが、「遅れている」と発想することの間違いがハッキリしてきた。

むしろ、その「ちがい」は、「日本文明」が「先進」のゆえのことだったか、あるいは、「異なる文明」としての特徴が残っていることだから、ぜんぜん卑下することではない。

けれども、「明治維新」そのものが、当時の「欧州列強」による植民地化の「カモフラージュ」として利用されたものだったので、「維新政府」はこれを隠すための行動をする勢力と、日本文明を活かす勢力とに「分裂」したのである。

これが、当時の支配層だった武士たちが起こした「反乱」で、主に九州で盛んだったのは、外国勢力に「近い」からである。
だから、単なるノスタルジーでの反乱ではない。
最終戦が、「西南戦争」であった。

わたしが注目したいのは、「維新の元勲」を輩出した「長州」である。
そもそも、「当時」長州という呼び名はなく、「萩藩」、「長藩」と呼んでいたのだった。

なんだか、「大東亜戦争」を、戦後になって「太平洋戦争」と呼ばされることになって、大東亜戦争が「禁句(タブー)」になったのと似ている。
「長州」と主張する、ウィキペディアが、信用ならないことの証左でもある。

それで、萩藩では、西南戦争の1年前に「萩の乱」が起きている。

維新の元勲たちにとっては、郷土の「元上司や同僚たち」の反乱で、それでか実質「皆殺し」にしたことが隠されている。

ここにも、「勝てば官軍」の論理があって、郷土愛にあふれる現代萩人たちが、どうして林芳正氏とか、その前までの河村建夫氏とかの、媚中・媚韓の人物を「保守」として選出するのかがわからない。

この意味で、山口県は、故安倍晋三氏と岸信夫氏の兄弟に対して、林氏がいるから、「真っ二つ」の政治風土がいまも続いている。
ちなみに、おそらく年内か年明けぐらいに、安倍晋三氏の「補欠選挙」があるはずだけど、誰が立候補するのだろうか?

さてそれで、初代首相になった伊藤博文は、萩藩の下級武士ではなくて、「撫育(ぶいく)局」という、藩主直属の「少数精鋭秘匿部署」にいて、幕府には絶対内緒の「裏金の運用」をやっていた。

「松下村塾」は、「表」の「藩校」という「普通科」ではなく、撫育局員たちのための「陸軍中野学校」のような存在だった。
なので、撫育局員たちと、「表」の武士団との交流はぜんぜんなかったという。

伊藤ら「長州5(ファイブ)」たちは、極貧の「表財政」から受けた、英国留学資金を出発前に一晩で飲み明かし、「撫育局」からの十倍もの資金でもってロンドンに渡った。

そうやって、シティでの国際金融を学んだのである。

帰国した伊藤は、新政府の「大蔵省」に入ったけれど、最初から「局長」待遇であった。
それで、彼はまっ先に「特別会計」つまり「裏金づくり」をやって、いまに至っている。

現代日本国民も、伊藤博文のつくった「裏金」をしらないで生きているので、「萩藩の表側」とおなじ立場にいる。
これで、もし国民が反乱を起こしたなら、それは「第二次萩の乱」と呼んでもいい。

ただし、皆殺しの目にあう可能性が高い、ということだ。

さて、そんなチャッカリ者の伊藤ではあるけれど、欧州の「小切手」と、江戸時代の商人が発明した、「為替」との「ちがい」をどうするか?に悩んだにちがいない。

小国が乱立する欧州は、各国が独自通貨を発行していたから、日帰りすら可能な近隣との取り引きには、ユダヤ人が経営する「銀行」が発行する「小切手」をつかわないと「決済」できなかった。

だから、商人も一般人も、いまだに銀行の口座開設とは、「当座預金」のことをいう。
対して、わが国の一般人で当座口座をつくるひとは珍しく、「普通預金」がふつうだという「ちがい」が、彼らと決定的なちがいになるのである。

詐欺と掠奪がふつうな社会なので、現金を持ち歩く危険は、命の危険に直結する。
これは、いまもまったくおなじなのである。

一方で、日本文明は、中央政府たる幕府が通貨発行権を持っていたので、流通する通貨が、東西で「金と銀」というちがいはあったけど、通貨単位は統一されていた。

それで、「為替」が発明されて、いまでも「郵便為替」だって残っている。
「現金書留」よりも、よっぽど安全な送金方法だ。

外国との交易で、港には「国際銀行」が必須になったのは、「小切手」取り扱いのためであったともいえる。
しかし、国内で一般の日本人をあいてにするなら、「為替」で間に合う。

小切手がプラスチック・カードになったのが、欧米人がもつクレジットカードで、おなじデザインでもわれわれ日本人がもっているクレジットカードは、為替がプラスチック・カードになったのである。

見た目がおなじでも、仕組みがちがう。

欧米人がクレジットカードをつかうと、自身の当座預金からの引き出しとなって、われわれがクレジットカードをつかうのとは意味がちがう。
「信用」が減るのである。

それで、欧米人は生活消費のためにある、普通口座から引き落とされる「デビットカード」を重宝する。
われわれ日本人に、ポイントが付与されないデビットカードの便利さが「ピンとこない」のは、このためだ。

けれども、あたかも電子マネー的な決済が、なんだか「先進的」という勘違いを頭の軽い政治家とか役人が信じ込んでいて、現金をつかうことを「遅れている」と定義した。

「ポイント付与」しかインセンティブがないから、県単位とかで割引ポイント制度を実施して、現金派を差別する「憲法違反」を実施している。
悔しかったら、スマホ決済にしろ、という行政命令に飛びつくのは、これも「乞食化」の一環なのである。

それでも動じない日本国民は、「貨幣の匿名性」という便利さの本質をしっている文明人なのである。

嘘に嘘で答えていたら

自分がいっていることが、自分でわからなくなってしまう。
なぜなら、「嘘」と「本当」の、「区別」がつかなくなるからである。

そのために、人間社会では、「嘘」は嫌われて、いつでも本当のことをいうようにしなさい、と躾けられるのである。
だから、「嘘」と「方便」はちがうのだけれども、おとなになると「方便」と「嘘」の区別が曖昧になるものだ。

ところで、これは言語の世界での話である。
人間が高度な文明社会を築けるのは、「言語」を介した「情報交換」が高度に発達したからである。

パスカルの一言、「人間は考える葦である」は、「考える動物」としての人間の価値を示したものだが、人間は言語(基本的に母語)をもって「考える」から、言葉を失うと思考も止まる。

すると、「言葉の乱れ」とは、すなわち「思考の乱れ」になるのは、当然すぎる。
この原則を心得ていて、悪意があってひとびとの思考の乱れを利用したければ、まずは「言葉の乱れ」を誘発させることが必要なのである。

戦後間もなくの、たとえば、小津安二郎監督の名作映画の数々に残る、日常生活での何気ない「会話」も、いまこれを再現したら、とんだコメディになりかねない。

けれども、演じる俳優よりも、台本を当時の話し言葉で書けるひとが絶滅したにちがいない。

わたしにはまだ、耳の記憶があるけれど、もう50歳ぐらいのひとたちには、これらの会話での日本語の「懐かしさ」はなくて、なんともまどろっこしい話し方に聞こえるかもしれない。
もっと若ければ、なおさらだ。

国語の授業で、「敬語の使い方」が、すっかり「テストの点数」をとるためのテクニックになったのは、敬語をつかう「場の消失」が先にある。
社会的「上下関係」が、「主従関係」だった長い時間で完成したのが「敬語」なので、「平等関係」になったとたんに「破綻」したのである。

こうしてみると、たった半世紀あまりで、日本文化の「核心」は破壊されたことがわかる。
しかし、たった半世紀あまりとはいえ、意図的にかつ、それなりの時間をかけてだったから、一般生活者はこの「犯罪」に気づかないのである。

それでもって、外国人、とくに白人を招いて日本料理を食べさせたり、日本の伝統文化を学ばせる「番組」や「動画」がたくさん配信されているけど、彼らが感心する「日本は伝統と近代が共存している」という共通の褒め言葉に、単細胞的に自慢して気持ちよくなってはいけないのである。

それよりむしろ、彼らが「学びたい」、「体験したい」という要望の方が、よほど「珍しい」ことに注意がいる。
現代日本人の多くが、すっかり忘れ去った伝統工芸の存在を、外国人から教えてもらっているからである。

誤解をおそれずに書けば、「お上」の権威が大好きな日本人の習性を、ある意味「悪用」したのが、「伝統工芸士」という国家資格であるし、「伝統的工芸品」という国家認定制度である。

伝統的工芸品を製作する「職人」に、階級をつくり、伝統的工芸品という「枠」を設けたのだ。
これらの「価値」は、本来、消費者が決めるものである。
それが、「自由競争」というものだ。

なので、国が作るこれらの「制度」は、自由競争に対する国家の介入である。
そうやって、当事者たちを「おだてながら」じつは、衰退させている。
「褒め殺し」ということだ。

それで、地方に行けば行くほど、行政やらが介入して、地場の伝統的工芸品や名産品を「販売」する店舗まで提供していて、その店舗の運営者を「指定業者」として競争入札までしている。

しかし、「製造組合」や「商工会」がこれをやっていることもあって、その店舗の雰囲気は、まったく旧社会主義国のあの時代の雰囲気を残す、化石のような店舗にある「やる気のなさ」が充満している。

わたしは、ウラジオストクの食品売店と、ブルガリアの首都ソフィアの百貨店「グム」で経験した。
ただし、「グム」は、宮殿のような建物に、わずか数店舗しか入居していないただの「空間」という不思議があった。

日本でも、店員のパートさんに商品知識はほとんどないため、学校のバザーが常設されているようなものだ。
自分が何を売っているのか?に興味もない店員さんをみるにつけ、かつて「勤勉」といわれたことが、かくも壊れるのかと確認するのである。

もちろん、本人たちの「せい」よりも、これをやらせる側の「不誠実」こそが問題だけど、それもこれもなによりも「嘘に嘘で答えていたら」こうなったまで、なのである。

つまりは、「やっている感」を出せば、やっていることになる、という嘘をいう。

それで、大半ではない、一部のひとが「その嘘を信じる」風情を演じて、表面をもって「クレーム」をつけるので、「お客様は神様」だという嘘の上塗りで、「クレーム予防」のための「嘘」を考案したら、クレームが減ったので「よし」としているのである。

ところが、大半のひとたちは「なにもいわない」から、結局のところこの大半のひとたちが、無言の「被害者」になったのである。

日本人は、ヒトラーが政権をとった「経緯(いきさつ)」を学ぶべき点が、ここにある。
大半のひとたちの「無関心」が、一部のひとたちの熱狂に負けたのだ。

選挙にいかない日本人が半数いることで、与党が政権を維持できていることとは、まさにこのときのドイツ人とおなじなのである。

パロってる「宇宙大統領」

CMの作成には、そんなにも!というほど、さまざまなひとが関わるので、たかが30秒の「作品」であろうが、とんでもない時間と労力すなわち「おカネ」がかかっている。

企業の宣伝部という部署は、この意味で莫大な予算を手にしている。
なので、「発注者」として「受注者たち」には、絶大な権限があることになるので、なんだか「偉く」なったような気がするものだ。

もちろん、「気がするだけ」なのだけど、たまに「自分が偉い」と勘違いして失敗する人物が登場するのは、なんとも「マンガ」のようで、これはこれで上司の指導がなっていないことの「犠牲者」ともいえる。

消費者からしたら、自分が当該商品の購入をしたからできる「CM製作」だから、なにも宣伝部という部署のひとに気を遣うことはないけれど、宣伝部という部署のひとが消費者をどこまで気遣っているのか?は、消費者にはわからない。

それが典型は、「CM大賞」とか「広告大賞」という「賞」を、「受注者たち」が作って、「発注者」を表彰することだ。
ここに、「消費者」は関与しない。

もちろん、大賞受賞作だからといって、当該商品が売れたとは限らない。
多くは、「話題性」とかで、これを、「専門家」たる「審査委員」たちが選ぶことになっている。

そういえば、「プロが選ぶ宿」とかなんとかいう「賞」もあるけど、受賞した宿だからといって「宿泊客が良い」と評価するものでもないから、「CM大賞」と似ているのである。

ビデオテープでの録画を自宅でやるようになったら、「自動CM飛ばし機能」というものがついた。
テープの長さを「節約」するためだったかと思うけど、「テレビのCM」がないテレビ放送を観ていると、物足りなさがあったものだ。

年数が経つとなおさらで、あんがいとCMが「本編」よりも「世相」を語るものだと気づくのである。

そんなわけで、企業宣伝部といえば有名なのは「サントリー」さんだ。

日本人には違和感のない「缶コーヒー」だが、外国人には「コーヒーの缶詰」が手軽に自動販売機で買えることの珍しさは、日本に来ないとわからない「ジャパニーズ・カルチャー」なのである。

念のために、上の文でいいたい「珍しい」のは、三つ。
・コーヒーの缶詰(外国語で「缶コーヒー」という表現はない)
・現金投入の自動販売機(日常的に、商品と現金が狙われる)
・これがセットになった、珍しさ、である。

さてそれで、中島みゆきが演じるのは、「宇宙大統領」だ。

唐突に彼女が押したのは、「働くのを禁止するボタン」であった。
これはまったくの「驚き」だ。
なぜなら、あの「世界経済フォーラム:ダボス会議」が掲げる「アジェンダ」が、まさに「これ」だからである。

そして、労働禁止に従った者には、「ベーシック・インカム」を与える。
最終的には、すべてのひとはなにも持たない幸せ、を体験することになると宣言している。

なにも所有しなくて良い。

必要品は、世界政府がドローンで配達してくれる。
家も、衣服も、ぜんぶ世界政府が供給してくれるから、所有する必要がないのだ。

もちろん「世界政府」はエリートたちによって運営されるけれど、A.I.の活用で驚くほど効率がよいから、エリートの必要人員数はわずかでよい。
北欧で一部はじまったように、腕などにチップを埋めこむので、すべての生活記録が保存されるのである。

これを子供のころにやれば、一生の記録がとれる。
これを、「便利だ」と宣伝している。

なので、商店にはレジがない。
本人が欲しいと思った商品は、そのまま持ちだして良い。
本人の身体の中にあるチップが、自動精算しているからだ。
けれども、そのときの商店がどんな品揃えかはしらない。

公共交通機関しかり。
もちろん、「自家用車」という概念はなく「シェアリング」で自動運転車だ。
しかし、本人に設定されたグレードによって、「行き先」はコントロールされる。

ただし、本人には情報もコントロールされるから、自分が行ける場所が制限されていることに気づかないのだ。
生まれてこの方、しっている地図の他に、多の地域があることを教えなければ、不満になることもない。

一部の支配者による、人類奴隷化計画は、決して陰謀論ではない。
なぜなら、ちゃんとHPに掲載している「公開情報」なのである。

そんなわけで、調査員ジョーンズは、宇宙大統領が居眠りしているあいだに、「禁止ボタンを解除」した。
すると、みるみるうちに人々は一斉に働きだして、「働くことの歓び」を実感する。

ナレーションは、「宇宙大統領はもうこの星には二度と来ない」。

これはまったくの、「アンチ」なのだ。

サントリーさんは、潰されないだろうか?と心配になる。
あちらの手先は、驚くほどの「世界大手」ばかりだ。
たとえば、「ネ◯レ」とかなんとか。

ならば、このメッセージに、消費者としても呼応しないといけない。
なるべく、サントリーの商品を買うことにしよう。

そういえば、「予想通り」ではあるけれど、とうとう英国新政権が、「減税策」を取り下げるまでに追いつめられたのも、決して「陰謀論」ではない、「陰謀」なのである。

この決定打ともいえるのが、『ビルダーバーグ倶楽部』(バジリコ、2006年)だ。
作者は、暗殺されかけた、という実績もあるひとだ。

もはや入手困難。
しかし16年前の分析を、いま読むと、現実の「計画」として、そら恐ろしいことが準備されていたことがよくわかるのである。

図書館を利用されるべし。

懐かしの『借王シャッキング』

1997年(平成9年)から2002年(平成14年)にかけて日活が製作したドラマのタイトルである。
原作は、リイド・コミックで連載されていた、平井りゅうじ・土山しげるの漫画作品だった。

いわゆる、「バブル後」の混乱期が背景にある。
それは、「昭和的」高度成長の残滓(ざんし:残りかす)であって、「借金」に対する警戒と、「貯蓄」に対する正義のことだ。

稼いだおカネをせっせと貯める。
これぞ、人生設計の王道だったのである。
そうやって、最初の大型支出は、住宅ローンの「頭金」で、まずは「マイホーム」を手にいれて、現役時代を通じて返済する。

これが「苦」ではなかったのは、インフレのおかげで、時間とともに返済額の「重み」も減ったのだった。
それがまた、ローンを返済しながら貯蓄ができた理由でもあるし、その貯蓄とは、教育ローンや生命保険などに形を変えたものだった。

これが、「借金も資産のうち」といわれた理由である。

ところが、デフレの時代になって、時間とともに返済額の重みが増えた。
一方で、低金利が背中を押して、住宅購入の意欲は衰えなかった。
それでも、「頭金」を貯めないと厳しいことに変わりはない。

こうして、「アベノミクス」がやった唯一の「効果」である、日本株の上昇が、「頭金作り」に貢献したのである。
そのために、日銀に日本株を買わせたのだった。

その方法は、バブルの「反省」で政府から独立させた「新日銀法」を「旧」に戻すぞという「脅し」であった。
このあたりの「凄み」が、安倍氏にはあったから、ずっとむかしから「御殿女中」と揶揄された日銀は、すぐさま「従順さ」を示したのである。

すると、哀川翔が演じる「エリート銀行マン」の「背徳」とは、日銀や2000年(平成12年)に設立された金融庁に対する「背徳」のことではないのか?

彼が重要顧客の預金を「使い込んだ」理由はどうであれ、はたまた、ギャンブルの借金で首が回らない警部補とか、同様に経営に失敗したクラブのママとかという、一種「自業自得」に陥ったひとたちが、あろうことか、「もっと悪徳な輩」を騙してカネを奪い取ることが、「正義」になっているのだ。

つまりこれは、「資本主義」ではない。

世の中には、資本主義批判のドラマだという解釈をするひとが「多数」なのだろうけれど、そんなわけがない。
結論から先にいえば、「経済学史」の大権威・大塚久雄教授が指摘した「前資本」のことなのである。

資本主義成立前の、「中世以前」までの人類社会のことだ。

しかして、全人類が信じている「資本主義」は、本当に「成立したのか?」という大疑問が、この「ドラマ」に一貫しているといってよい。

「私見」だが、わたしは資本主義が成立した「世界で唯一の事例」は、江戸期から第一次大戦までの日本だとかんがえている。
その「論」の、証拠のひとつとして『借王シャッキング』があるとかんがえるのである。

もちろん、産業革命のイギリスも、アメリカでさえも、「資本主義」は一度も成立なんかしていない。
「前資本」のまま、科学技術が爆発的発展をした「だけ」だとかんがえる。

大塚久雄教授がいう、「前資本」の特徴は、
・詐欺
・掠奪
・冒険

これが、「富を生む社会」だ。
だから、「欺すより欺される方が悪い」ということが、むかしからの「常識」なのだ。

しかし、対等な取り引きとして、契約を絶対視する「資本主義」は、詐欺や掠奪を、「犯罪」として認定する社会なのだから、絶対的に許さない。
前資本時代の常識であった「欺すより欺される方が悪い」は、完全否定されないといけないのである。

でも、そうなっていない。
資本主義とは、えらく「道徳的」な社会でないと、成立しないのである。
そんな道徳的な歴史があった国は、世界を見渡すと、江戸期を中心とした日本しかないことに気づくのである。

『借王シャッキング』よりも前、アメリカなら『スティング』があった。
1973年(昭和48年)の「犯罪コメディ映画」で、第46回アカデミー賞作品賞受賞作品なのである。
しかも、合衆国・国立フィルム保存委員会がアメリカ国立フィルム登録簿に2005年(平成17年)に新規登録までしている。

国家が、「犯罪」を「保存」しているのである。

 

なお、イギリスなら、文豪ウイリアム・サマセット・モームの短編『アリとキリギリス』がある。
雑誌『コスモポリタン』に連載されたものを集めた読み切り短編集の一冊のなかにある。

こうしてみると、イギリスにもアメリカにも、資本主義なんてはなからない。
すると、やっぱり「劣化した」のは、第一次大戦から現代までの日本がただ一国「当てはまる」のだ。

おそらく、これからもずっと「劣化」し続けるのである。
そうやって、「欺すより欺される方が悪い」が、常識であり続ける。

さてそれで、一気にコントロール不能のインフレに世界は突入した。
ならば、ここぞとばかりに「借金」をしておくのが、「借金ができるひと」には有利な時代がやってきた。

ただし、自分が住むための「住宅」を買っても、いいことはなさそうだ。

SONY高級イヤホンの残念

ノイズキャンセリング機能の、「BOSE」有線イヤホンを持っているけど、スマホに無線接続のためのレシーバーが劣化してしまった。

そこで、新しいレシーバーを購入するか、それとも無線イヤホンにするかという、相変わらずの困難な選択になった。
別にオーディオ・マニアを自負しているわけでもなく、音へのこだわりはあんまりない。
ただ、ノイズキャンセリングの凄さと便利さが、悩ましい選択になっているのである。

この手の選択で、こだわりのあるひとは、いろいろ「検索」して、「研究」するのだろうけど、なんだか面倒なお年頃になってしまった。
それこそ、中学・高校のころは、マニアックなそれでいて「オタク」ではない友人がいて、両親の豊な財力でもって凄まじい研究と購入体験をしていて、圧倒されたものである。

その後、彼は、公共放送のエンジニアになったから、好きこそものの上手がそのまま「天職」になった。

わが家ではそんな「贅沢」は許されず、ましてや「和室」に置くステレオだから、はなからこだわることには無駄があった。
それでも、「ソノシート」をかけていた、「ポータブル・レコード・プレイヤー」とはレベルがちがう。
そんなこんなの時代に、『ウォークマン』が新発売されたのである。
これによって、「ダブル・ラジカセ」が大人気になった。

レコードから録音したカセットテープを音源に、ふだん遣いのカセットをもう一本作っておきたいからであるし、深夜ラジオをタイマー録音していたのである。
このときの「タイマー」とは、「電源タイマー」のことで、なんとも原始的なことをしていたものだ。
それと同時に、ヘッドホンが必需品になったのは、和室で大音量では家族の迷惑という事情があった。

「CD」が登場したのは、わたしが大学生のころで、CDプレイヤーが高額だったから、LPレコードがまだ主流ではあった。
もはや「CD」すら、よほどのファンでないと買わない時代になったのは、本当に隔世の感がある。

さて、ノイズキャンセリングの便利さは、特に飛行機の機内で実感できたものだ。
10時間を超えるような、長距離の国際線ともなれば、自前のお気に入りヘッドホンを機内で使うことが流行った。
座席のイヤホン・ジャックが、それまでの「特殊形状」でなくなったことが大きい。

別に音楽を聞いていなくとも、ノイズキャンセリング機能をONにすれば、エンジン音の騒音が消えて「静寂」になるのである。
ただし、この機能のために、イヤホンには給電が必要なので、「電池」の大きさから「有線方式」になっていた。
それが昨今の技術で、無線イヤホンでも給電が可能になったから、一気に需要が高まってきたのだろう。

とはいえ、ジェット機の騒音を消し去る実力で、歩行中や自転車での利用は危険だ。
近づいてくる自動車などに気づくのが遅れれば、当然に事故につながる。
高校生が、両耳にイヤホンをつけて加害者となった自転車接触死亡事故では、被害者家族へ億円単位の賠償命令が出ている。

こうした事例を、学校で教えないのかどうか知らないけれど、両耳イヤホンの自転車をよく見かける。

だから、所有している有線のイヤホンの機能を歩きながら使うことはできない。
ところが、最新作は、スマホのGPSと連携して、道路を歩いているならノイズキャンセリング機能を自動的に落とすのだ。

また、自分の声に反応させて、設定した時間内は音楽演奏を停止させるだけでなく、外部の音も取り込むようになっている。
ちょっとした買い物での、店員さんとの会話に支障がないので、その都度装着し直すこともない。

何よりも驚くのは、その音質の良さだ。
しかも、「3D」での再現を可能にしたという「売り」もある。
サンプルを聴けば、「臨場感」が、まるで劇場にいるようだ。

けれども、そうした方式での「コンテンツ」が、驚くほど「少ない」のである。
なんだか「4K」とか「8K」のテレビに似ている。

あたかも、有料のサービスに加入しないといけないようにできているけど、聞きたいものがない。
3ヶ月とか4ヶ月間「無料」ということだけが「救い」なのだ。

もちろん、これからどんどんコンテンツを増やします、ということだろうけど、どうなの?というのが率直な感想だ。

クラッシックファンのわたしとしては、今は亡き「巨匠」たちの名盤をなんとかしてほしい。
あるいは、昔買ったCDを、3D化するコンバーター的機器、もしくはソフトを作ってはくれないものか。
もうあるのかもしれないけど、やっぱりなんだか調べるのが面倒なお年頃になってしまった。
過去の膨大な「遺産」を活かす、という戦略をお願いしますよ「SONY」さん!

そんなわけで、無線接続のためのレシーバーも新規購入した。
3000円だった。

PCが普及すると生産性は?

わが国の生産性がもっとも高かったのは、製造業の場合、1990年から95年にかけてで、「世界一」だった。
残念ながら、サービス業などは世界比較をしてもせんないほどに、「低い」のであるけれど、これは「いま」も変わりがない。

「政府」という、生産性とはおよそ縁のない組織が、民間のサービス業の生産性の「低さ」を日本経済の「お荷物」として大問題にしたけど、業界はその「深刻さ」にまったく対応できているようには見えない。

それで、「専門家」を集めて、いつものように「委員会」をつくって、サービス業に生産性を上げるべく「提言」をつくらせて、「予算」をつけたけど、ぜんぜん「効果がない」という生産性のないことをしている。

これにイラだって、役人の三段階の資格制度である、上級・中級・初級に見合った「人材育成」をやりだしたら、なんと「経営者のレベルも低い」と認定したのである。

そんなこんなで、わたしは、政府のIR誘致とは、異次元のサービス業を輸入して、既存サービス業を駆逐させようという、かつての「エネルギー転換策」とおなじだが、炭鉱における一大労働争議のようにはならない「うまい手」としたのではないか?と自著に書いたことがある。

しかし、邪悪な思想はもっとすさまじい「うまい手」を実行した。
それが、コロナ禍を利用した「サービス産業自滅化」であった。
たしかに、「経営者のレベルが低い」ために、『羊たちの沈黙』のごとく、自らすすんで「屠殺」されている。

これに抵抗したのは、わずか「グローバルダイニング社」のみなのである。

実際に、2018年6月15日には、「骨太の方針2018」が閣議決定されて、翌19年4月より外国人(単純)労働者の25年までに50万人超を目標と定めれて、「経営者のレベルが低い」ために、業界は「人手不足解消」の施策として「歓迎した」のだった。

しかしながら、それで「生産性が格段に向上した」ということは、寡聞にしてしらない。

さて、昨年末に行われた日経BPコンサルティングのアンケートシステムにて、同社保有の調査モニター2319人を対象に「PCの普及調査」を実施した結果が発表されている。
これによると、企業の普及率は90%を超えおり、1000人以上の大企業では97%超になっている。

では、1990年はどうだったのか?
1989年に発売された「東芝ダイナブック」は、最初のノートパソコンだったけど、そのスペックは、標準メモリが「1.5Mb」で内蔵ストレージはなく、フロッピーディスクという仕様だった。

なお、日本で初めてインターネットサービスが開始されたのが、1992年であったから、1990年当時は「パソコンは単体でつかうもの」だった。
1998年(平成10年)になると、「企業」の60%以上がインターネットを利用していると回答しているけれど、なおも40%は使っていないのである。

これは興味深いことで、パソコンの普及と生産性が「負の相関」を示しているのである。

わたしは、上に書いた、サービス業における生産性の低さやパソコンと生産性の負の相関について、「働き方」の問題よりも、「働かせ方」の問題ではないかとかんがえている。

それが、わざわざ政府から指摘されるまでもない「経営者のレベルが低い」ことと関連しているとかんがえるからである。

なお、政府は「政府のレベルが低い」ことを一切無視するばかりか、あろうことか「政府=官僚は、いまだに優秀だ」という、信じがたい思い込みをしているのだが、ここでは触れない。

その「経営者」の話だ。

わが国のサービス業は、ざっくりおおよそ「3タイプ」の経営者がいる。
・創業者と創業家
・外部招聘(外資系ファンドなど)
・社内昇格

創業家が創業者とややちがうのは、創業者の経営理念や経営手法が、どのように「伝わっているか?」あるいは、「伝える努力をしているか?」で異なる。

「老舗」の「家訓」があんがいと合理的なのは、「伝える努力」の方にあたる。
それで、次世代をどうやって一人前にするか?をちゃんとかんがえてやっているかで、将来が決まる。

残念ながら、この「継承」に失敗したり、先代が急死したりして、次世代への引き継ぎと覚悟の訓練がなされていない場合、「倒産・売却」あるいは、「廃業」となる。
なので、「士業」がいう、「事業継承」とは意味がちがう。

こうなって、外部からの経営者になると、主に「外資系ファンド」の場合、経営の専門家をトップに据えることでの「事業再生」となる。
もちろん、不足資金も投入するが、最大のポイントは経営者の交代なのである。

こうやってみると、業界全体で多数、はては影響力があるとみられるのは「大手」だが、その大手企業こそ、「社内昇格」で経営者になるという特徴がわが国の習慣になっている。

海外だと、株主が経営者を外部から招聘するのがふつうなのだ。

これには、わが国に「労働市場がない」という大問題があるために、「できない」という問題もある。

そんなわけで、働かせ方が下手なので、PCの普及と生産性が「負の相関」になっているのだ。

ECBのイタリアいじめ

予想通り、ヨーロッパ中央銀行(ECB)はEUに逆らいそうなイタリア新政権に対して、嫌がらせをはじめた。
これは、英国新政権に対する嫌がらせとおなじだが、ECBだけでなく世界の金融亡者たちが、何かに取り憑かれたように英ポンドと英国国債を奈落に追いやったから、イタリアはまだ「序の口」である。

とはいえ、イタリアの新政権は、まだ発足していない。

この意味で、英国政権発足後の「大減税」発表直後からはじまった「暴落」とはちがって、政権発足前からの「仕掛け」がはじまったので、よりイタリアへの「制裁」感がある。
ブレグジットした英国とは、一線を画すやり方だけど、そのいやらしさは、イタリア国民の選択を無視した凶暴さがあるのだ。

しかし、「報道」や金融専門家の「解説」は、ほぼEU及びECBの方に日和っているから、寄らば大樹の蔭っぽい「忖度」が見え隠れする。
「体制側に付く」のが、ハイエナ的根性のあらわれなのだろう。

じっさいに、イタリアは戦後から一貫して「左派政権だった」ので、その「ツケ」と「アカ」が全身に廻って、万年財政赤字であった。
それゆえ、「イタリア国債」の引き受け手は、EU統合以来、ECBしかいない状態になったのである。

そこで「救世主」として登場したのが、ECB総裁として手腕を発揮したドラギ氏であったけど、元の木阿弥どころか、あれよと財政赤字を「増大」させてしまったのだった。
もちろん、ドラギ氏もグローバル全体主義者だ。

IMFの専務理事から、女性初のECB総裁になったラガルド女史は、やっぱり女性で初のEU委員長のフォン・デア・ライエン女史とタッグを組んでいるので、いまヨーロッパを支配する両巨頭は、奇しくも「女帝コンビ」になっている。

選挙中から「介入発言した」ライエン委員長のことは書いたが、この「脅し」にも屈しなかったのは、イタリアの有権者なのである。
この視点が、報道にも解説にも見えないのは、まったく民主主義を守る気がないグローバル全体主義の正体だ。

そんなわけで、イタリア国債の下落は、エネルギー危機がヨーロッパ最悪のドイツよりも、さらにイジメにあっている英国よりも悪い(金利上昇)のだ。
10年国債でこの3ヶ月の「75日移動平均」をみると、8月中旬には3.2%の最高値だったけど、9月直近では4.2%程度に下落した。

おなじ時期で10年ドイツ国債は、1.2%から1.4%への下落でしかない。
英国では、2.2%から2.7%ほどへ「暴落」しているのである。

やっぱりイタリアの無様が引き立つ。

しかも、ECBは、過去からの保有分の償還について、選挙のあった9月に早速、償還分と見合いでも新規の追加購入を「しない」ことを決めた。
これは、ECB保有のイタリア国債残高が、自動的に「減る」ことを示唆するので、新政権が「公約」とした「財政出動」に対する「財源」を止めた、といえる。

英国の新政権が「折れた」ように、イタリアの新政権は、政権発足前に「折れる」のだろうか?

もちろん、ECBとEUに日和る「マーケット関係者たち」は、「折れない」ならば、追い打ち的な「制裁」を行うとも示唆している。
つまり、なにもしないうちから「詰んだ」ようになっている。

なので、ここからはわたしの「妄想」である。

そもそも、「極右」という表現も意地悪で、むかしなら「保守」とか「伝統主義」とかと呼んだはずだ。
もちろん、「イタリア・ファスト」の、ナショナリストの政権なのだ。
どうしてイタリア人が「政権選択した」のか?
それは、EUとNATOの「悪政」からではなかったのか?

イタリアの選択肢は、日和るひとたちからは「異常」と非難されるだろうけど、国債を買ってくれる相手を探すしかない。
ECB以外「誰も買わない」と決めつけているようだけど、むかしから「カネは天下の回りもの」なのだ。

アメリカ民主党とEUのグローバル全体主義者がつくった、自滅のエネルギー危機は、各国経済を破壊することが目的の「革命」なのだと定義すれば、「敵の敵は味方」になるのも、マキャベリを産んだイタリア人の発想にないわけがない。

もちろん、仕掛けたひとたちが勝手に「舌なめずり」しているのは、ロシアの資源である。
しかし、ロシアはその資源をもって戦費にも充てているので、「資源高」の恩恵はむしろロシアが一番得ている。

とうぜんに、イタリア人は、ロシアからの資源供給を望んでいるから、ロシアとさまざまな「交渉」をしているはずだ。
ロシアは、資源が売れるに越したことはないから、イタリア国債を引き受ける、という「ウルトラC」がかんがえられる。

そうなれば、イタリアはロシアの「債務の罠」に自ら飛びこむことになると非難されるだろうけど、背に腹は代えられない。
もしやこれに、OPECだって乗るかもしれない。

なにせ、バイデンをして「失望」といわしめた、「OPEC+」による「石油減産」の決定が痛い。
この「+」が、ロシアなのである。
しかも、サウジはあの皇太子を首相に据えた。

そんなわけで、これに英国が乗ることはないだろうけど、ドイツが涎を垂らすほどになるはずだから、EUの自滅とは、EU委員会とECBの内部崩壊的自滅になるのではないのか?と、希望的観測をいってみたい。

トルコのダラーライゼーション

「ダラーライゼーション」とは、自国通貨の「ドル化」のことである。
これが、トルコで起きている。
つまり、トルコ・リラから、米ドルに自国通貨のシフトが起きたのだ。

実際に、トルコでは、対前年比で80%を超えるインフレになっているけど、なぜかエルドアン大統領は中央銀行に「利上げをさせない」政策を貫いていて、過去3人ほどの総裁を「利上げを図った」として解任している。

それで、こんな強烈なインフレ下でも、なんと中央銀行には、二度も「利下げ」をさせて、リラの紙クズ化を促進しているのである。

しかも、奇妙なことに、トルコの景気は「好調」で、特に、「家計支出」の伸び率が、インフレ率を「上回る」という現象が起きている。
ほぼ倍の物価になっているはずなのに、消費はそれを上回って好調なのはどういうことか?

「リラ」ではなくて、「ドル」による支出なのだ。

トルコ人は、とっくにリラへの信用を失って、ドルに逃避した。
それがまた、「リラ売り・ドル買い」となって、リラの価値はゼロに向かって落ち込んでしまったのである。

ドルへの換金を終えた国民は、かえって強くなったドルで買い物をすれば、リラ建てよりも日々安くなっているように感じるのである。
つまり、ぜんぜんインフレなのではなくて、かえってデフレに思える。

それで、大統領がリラの価値をもっと低くするようにすることが、国内「保守系」からの支持を強固にしているのである。

すると、もはや「リラ建て」の統計も価値がない。

すなわち、トルコは国をあげて、国内通貨を抹殺する努力をしている、大実験国になったのである。
だから、そのうち「トルコ・リラ破綻」のニュースになるのだろうけど、トルコ人には知ったことではない、ことになる。

逆に、新興国通貨として、リラ建てで投資をしてきた外国人には、紙クズになるショックがやってくる。
はやいところで、「損切り」した方がよさそうだが、このタイミングでは遅すぎたかもしれない。

これがまた、なにかとお騒がせな「クレディ・スイス銀行」への、嫌なニュースになりそうでもある。

さてそれで、わが国はどうなのか?

来年の春に任期が終わる、黒田日銀総裁が、どうしたことか「向こう2・3年は大規模金融緩和を維持する」と、これまた奇妙な発言をした。
それでかどうだかしらないが、「20年もの」長期国債の入札が、記録的「軟調」で終わった。

「軟調」というのは、日銀にとっては「金利上昇」という意味である。
おっかなびっくりで、誰も買いたがらないから、国債の価格低下(金利上昇)になるのである。

国債の基準となる「短期」から「10年もの」までは、事実上日銀が独占しているので、「市場がない」という世界的に物珍しい状態にある。
しかし、そこは官僚国家のわが国で、「20年もの」以上の長期国債には手を出さないことにして「市場」を確保している。

それで、あたかも日本国債(全部)には市場がある、という定義にした。
「集合論」がめちゃくちゃな、文化系官僚の頭脳のなせる技だ。
けれども、もともと「国債市場」に個人投資家は参入できないので、「(長期)国債市場」といっても、参加者全員が「機関投資家」なのだ。

そうやって購入した国債を、個人に分けて販売している。

しかも、「50年もの」ともなれば、機関投資家でもおいそれと買えないから、数社、もっといえば1~3社くらいしか購入・保有していない。
それだから、「20年もの」が、もっとも入札者が多いボリューム・ゾーンになっている。

前にも書いたが、政府と日銀はこの30年間、ずうっと金融緩和してきた。

それでもって、誰がいつ、「出口戦略」を立ててそれを実行するのか?が問題になるのは、とっくに「薬物中毒状態」になった日本経済を、誰が「毒抜き」するのか?ということだから、やってくるのは未知の「禁断症状」なのである。

つまるところ、この「禁断症状」が怖くて、誰も出口戦略を立案もしない。

その禁断症状のもっとも容易に想像できるものは、将来の金利上昇にともなって起きる、過去に発行した超低金利(マイナス金利分もある)の残債である「国債の暴落」なのだ。

これは英国新政権の「減税」に対する嫌がらせ的な、ポンドと英国国債暴落による、市場からの脅しで、とうとうイングランド銀行が無理やり金融(量的)緩和策をやらされたことを「前例」にすれば、わが国の「出口」の難しさを先取りしたようなことになっている。

つまり、ロスチャイルドが仕切るイングランド銀行がこのありさまなのだから、日本の偏差値エリートには解決不能かもしれない超難関の問題なのだ。
もちろん、最高責任者は日銀総裁人事もする総理大臣だ。
たまたまいまやっている岸田氏に、出口が見えているとは思えない。

高橋是清のような、実力と胆力がある大蔵大臣もいない。

ならば、アメリカを引きずり込んで「ドル化」するのが、最後のわが国の生き残り戦略になるのかもしれない。

靴はひとを選ぶ

日本人が靴を履き始めて、150年あまり。
ほんとうは、縄文時代から靴を履いていたのに、どうして廃れたのか?については、高温多湿と家の中で靴を脱ぐ習慣の二つが原因だといわれている。
それで、草履や下駄が主流になったと。

ならば、どうして家の中で靴を脱いだのか?
きれい好きもあるだろうけど、「玄関」という「結界」を設けたことに、宗教上の強い理由があるかとおもう。
もちろん、ずっと靴を履いていたら、足が蒸れるのは高温多湿ゆえである。

「結界」とは、外と内の区別でもある。

魔物がひそむ危険な外に対して、安全な内(「家」を「うち」と読む)は、まさに「家内安全祈願」の通りで、その家内安全を取り仕切るひとが、奥を支配する「主婦」たる人物であったから、外からは「奥様」、内からは「家内」になった。

だから、外部のひとは、相手の妻を「あなたの家内」とはいわないで、「奥さん」というし、いわれた側は「うちの奥さん」とかいって、二重表現をしたりするのは、「神(様)さん」を畏れるのとおなじに「恐妻家」を自称するのである。

まあ、そんなわけで、靴を履かない時代=時間が長かったのが、日本人なのである。

一方で深い森林のなかで狩猟生活をしていた、ゲルマン人は、靴を履かないと行動できない縄文人とおなじであったけど、高温多湿ではないからずっと靴を履いていたのは、他部族からの襲撃に備えるためでもあった。

縄文人が大規模な戦争をした痕跡を残していないのは、どうやらそんなに食べ物に困っていなかったかららしい。
青森の三内丸山遺跡には、低木化の品種改良された栗林が出土している。
しかし、ゲルマン人はそうはいかず、ヨーロッパの寒さは過酷であった。

それでもって、地球寒冷化によって、「大移動」して、ローマと激突した。
靴を履いているゲルマン人は、サンダルのローマ人よりずっと強かったので、「世界史」が変わったのである。

この意味で、「ドイツ靴」には、森の生活からの驚くほどの長い時間をかけた「伝統」があって、たいがいのドイツの靴メーカーは「整形外科医」が創業者になっている。
「足の骨格」の専門家が靴を作っているのだ。

では、日本ではどうなのか?
残念ながら、靴メーカーは、例によって例のごとく、「大量生産」に走った歴史から抜け出せていない。

それにしても、どうして「鼻緒」の履物ばかりだったのか?
鼻緒がくい込んで痛くなかったのか?
「編む」技術に優れた「ワラジ」さえも、前は「鼻緒」で、後はかかとを止められるようになっている。

足の甲を覆うサンダル方式にしなかった理由はなんだろうか?

もしや「ナンバ歩き」か?
なぜ「ナンバ」というのかも、「難儀な場所」とかいろいろあるらしい。
呼び方はどうであれ、「歩き方」としては、なんと「二軸歩行法」なのである。

「股関節」というよりも、骨盤を利用する。
足の繰り出しと手の振りが「おなじ」という解説があるけれど、「相撲」のような動きとはちがう。

たしかに、右足を出すときに、右手も動かすのだけれども、どちらかというと、「体幹」に沿ったイメージなので、右手を「前に振る」よりも上下運動させて、上から下に動かすのだ。
だから、歩行していて身体の正面が揺れない。

さらに、腰を落とした感じとなる。

これは、鍬を振る農作業では、ごく「ふつう」の動きだという。
腕だけでは、疲労がたまるので、「腰を入れる」。
そのとき、身体は正面を保って左右にブレることはない。

忍者ならずとも、たとえば、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多コンビの「脚力」を意識して読むと、お江戸日本橋を早朝に出立したふたりは、「のんびり」と「寄り道」しながら歩いているはずなのに、初日の泊まりは、「保土ケ谷」なのだ。

健脚なひとなら、戸塚泊まりが当たり前だったという。

東海道に近い、都営浅草線の営業距離は、日本橋-泉岳寺で6.1㎞。
泉岳寺-横浜が、京急で23.4㎞。
横浜からJR横須賀線で、保土ケ谷が3.0㎞なので、合計32.5㎞。
12時間かかったとして、平均2.7㎞/hだ。

ちなみに、保土ケ谷-戸塚間は同じくJR横須賀線の営業距離で9.1㎞ある。
すると、32.5+9.1=41.6㎞。
12時間で、約3.4㎞/hになる。

鉄道路線の距離だから、実際の「東海道」は、距離的にもっとある。
すると、寄り道ばかりの弥次喜多コンビにしても、歩くのが速くないか?
ましてや、当時の「健脚」なひとをや。

スニーカーもなにもなく、足袋とワラジでの踏破スピードなのだ。
プロの「飛脚」に至っては、現代人の想像外になる。

やっぱり、身体の使い方が、「ナンバ」なのだ。
「ナンバ」のもう一つの特徴が「ベタ足」で、地面を「蹴る」動作がないから、鼻緒がくい込むようなことにはならないし、かかとも擦って血豆にもならない。

そんなわけで、日本の靴がドイツのように「発達しなかった」のは、単に大量生産だけでなく、どうやら日本人の歩き方が、靴を選ばないでよかったのではないのか?

しかし、昭和初期にはもうそんな歩き方はできなくなったから、科学的に分析・設計された「高価」なスニーカーを履かないと、歩けないようになってしまった。

すると、ひとが靴を選ぶのではなくて、靴がひとを選ぶようになっているのだ。

あわない靴で足を痛めるのは、なにも女性に限らない。
かくいうわたしも、若いときに履いていた靴を、痛みをこらえてむりやり履いていたら、右足が軽い外反母趾になってしまったのである。

これを、熱心な靴屋さんで、左右の足のサイズがちがっていて左が大きいために右足が靴の中で動いたことが原因ではないかと指摘された。
すると、そのまた原因が、体幹の左右のズレで、骨盤に問題があるかもしれないから整体院にいくことを勧められた。

それで、この靴屋さん自慢の柔らかい鹿革の靴はあわないと、販売してもらえなかったのである。
革の加工は奈良県宇陀市、製靴は大和郡山市の逸品だった。

残念。