ピカソ『ゲルニカ』と日本

349.3x776.6cmもある、巨大な壁画である。

いまはマドリードの「ソフィア王妃芸術センター」に所蔵されているけれど、紆余曲折があっていまの場所に落ち着いた。
「レプリカ」は、徳島県鳴門市の大塚国際美術館にあるし、東京駅丸の内オアゾ1階には、陶板製のものがある。

ずいぶん前だが、マドリードで実物を観た。
遠目からでないと、大きすぎてなにが描いてあるのか、「ピカソ」ゆえになおさらなのだ。

「この一枚」のために、ずいぶんな数のひとたちがいたけれど、その鑑賞には時間をかけていて、なかに、「涙する老婆」がいたことが印象的だった。
おそらく、バスク地方から観に来たか、姻戚関係者だったのかもしれない。

芸術鑑賞の奥深さは、作家の意志や意図をどこまで理解しているかという「予備知識」にかかってくる。
だから、インスピレーションだけに頼るものでもない。
といって、個々人それぞれに「好み」があるから、難しいのである。

1937年(昭和12年)年4月26日は、あんがいと日本人にはノーマークになっている「記念日」である。

この年の出来事一覧を見ると、わが国では悲喜こもごもが混在している。

2月に林銑十郎内閣が成立したかと思えば、6月に近衛文磨内閣が成立して、その中間にあたる4月に、ヘレン・ケラーが来日している。
5月に双葉山が横綱になって、7月には、浅草国際劇場ができて4日後、盧溝橋事件があって、9月に後楽園球場が開場した。

1914年から4年もやった、第一次世界大戦の「大戦景気」を知っている日本人は、いまなら「平成バブル」を思い出すまでの時間とおなじで、「戦争は儲かる」と擦り込まれていた。
これが、国民こぞって「戦争を望んだ」ことの背景である。

しかして、「第一次」世界大戦を「欧州大戦」といったのは、まだ「第二次」大戦が起きる「前」だったからで、はるか世界の裏側でやっている戦に、ほとんど他人事でいられたこともあって、この当時の「スペイン内戦」のことも、日本人が意識するまでもないことだった。

この4月26日が、「記念日」なのは、人類史上初となる「無差別攻撃(爆撃)」が行われた日として、その後の日本人にも多大なる影響があることになったからである。

すなわち、この日を境にして、軍人同士の戦いであるはずの戦争が、一般市民を犠牲にする「虐殺」を内包する事態になったのである。

この「ゲルニカ爆撃」の悲惨を描いたのが、ピカソ渾身の「ゲルニカ」なのだ。

この「空爆」をやったのは、反乱軍のフランコを支援した、ヒトラーのドイツ空軍であった。
これより、後の連合軍は、敵地の無差別攻撃を「戦略爆撃」と名前を変えた。

戦略爆撃とは、地上軍を支援するものでもない。
むしろ、一般人を大量殺戮することで、敵の「戦意喪失させる」ことを目的とする。
要は、「虐殺の方便」なのである。

そしてそれが、行き着いた「究極」が、「核」なのである。

「核」とって「核兵器」とはいわないのは、「兵器」とは「兵」を相手にする「武器」を指すからだ。
この意味でいえば、「戦術核」がギリギリで「兵器」の概念にとどまる。

この意味で、わが国はまさに「無差別攻撃」の前に屈したことになる。
そしてその「被害」の「甚大さ」が、戦争反対の重要な根拠になったのである。

一方で、日本帝国陸海軍による、「重慶爆撃」は、やった側の問題となっている。
当初は、無差別攻撃を避けるための「ピンポイント」を厳命していたものの、爆撃精度が伴わない技術的問題から、一般人に犠牲を出した。

そしてそれが、「絨毯爆撃」へと変容したことは、わが国側の汚点となっている。

そんなわけで、戦時国際法という戦争のルールは、無差別攻撃を禁止できない点で、無力化してしまった。
それはまた、世界が民主主義ではないことを示してもいるし、もし民主主義ならば、国民道徳の堕落が民主主義を無意味にすることの証左となる。

一般人への無差別攻撃こそが、邪悪な態度なのである。

ただし、技術をいったん得た人類は、これを放棄することができないという宿命も持っている。
なので、「核廃絶」とは、不可能なスローガンになることも認めないといけない。

すると、いかに「使わせないか」ということに絞られるのだ。

広島・長崎以来、実戦で使われなかった理由が、フクシマで確認できたのは、「核汚染」の意味を、核のボタンを押す権利をもったひとが理解したからだろう。

いったん核汚染をしたならば、その地を占領しても、なんの価値もないことになるし、それがどんな形で自国への世界からの報復となるかを「計算」すれば、「無価値」という結論に至るからだ。

ゆえに、「脅迫の手段」としてしか機能しない。

さてそれで、ピカソは「鳩」の絵をサイン代わりにしていた。
オリーブの葉を加えた、シンプルそのものの「絵」は、誰にでも描けそうなデザインだ。

ノアの箱舟伝説をモチーフにしたこの「絵」は、みごとなデッサン力を示したピカソらしく、真似して描いたらわかる難しさがある。
ちょっとやそっとの技倆では、決して描けない。
ピカソをして、万回単位の繰り返しの結果なのだ。

そうやって、『ゲルニカ』を眺めたら、涙がこみ上げてくるのである。

骨粗鬆症の「骨太方針」

6日、「経済財政運営と改革の基本方針2022 新しい資本主義へ~課題解決を成長のエンジンに変え、持続可能な経済を実現~」(骨太方針2022)が閣議決定された。

小泉政権時の2001年度にはじまったので、もう22回目となった。

政権の重要課題や翌年度予算編成の方向性を示す「方針」のことで、「官邸主導」だということが、「あたしかった」けど、どこが「骨太」なのか?は、国民にはよくわからないという、特徴もある。

言いだしっぺは、「ダボス会議」で日本人理事である、当時の竹中平蔵慶応義塾大学教授だった。
このひとは、TBSテレビの日曜定番の「政治ショー番組」でレギュラーとなって、「平蔵」ではなく「構造改革」だけを訴えていた。

その舌鋒は鋭くも意味不明という、煙に巻かれたごとくの「後味」の悪さはあったけど、視聴者に出演者の人事権はないから、番組を観るものは彼の論を聞かざるを得ないように仕向けられた。

いまからすれば、典型的プロパガンダであった。

それでか忘れたが、「この手」の番組を視聴することをやめた。
ただ、彼のような経済学者がペテン師だというイメージを、日本でも一般人に植え付けた「功績」だけはあった。

彼以来、「まとも」に経済を語るひとが増えて人気を得たのは、騙されない日本人の視聴者がたくさんいたからでもあった。
その中でも、「的確な解説」をしていた、たとえば植草一秀氏の「冤罪」も、本人がいうまでもなく「怪しい事件」であった。

ちなみに、わが国のテレビ局(戦後すぐのラジオ局も)は、基本的にGHQとその配下にあったCIAのプロパガンダ機関だということは、知っていていい。
もちろん、「親会社」である新聞社は、戦後に「改造」された。

世界に類をみない、新聞社とテレビ・ラジオの「系列化」は、田中角栄がやった「政策」であった。
彼が伸してきたのと失脚したのとの間に、CIAが存在することは陰謀論ではない。

もちろん、A級戦犯で死刑を免れた「岸信介」とは、「コードネーム」があった最高ランクの「要員」だったことは、公開されている「事実」であるし、対するソ連側の最高級「要員」は、瀬島龍三氏で中曽根康弘氏のブレーンでもあった。

さてそれで、先月行われた「ダボス会議」では、「一波乱」があった。

それは、「ウクライナ」をめぐる、ジョージ・ソロス氏の主張とキッシンジャー氏の主張が、「真っ向対立」したことにある。
加えて、ビル・ゲイツ氏の「WHO条約」に関しても「なにかあった」模様だ。

このような、世界との関係から、わが国の「骨太方針」との関連はどうなっているのか?に注目すると、このような「政権と政府運営のやり方」が、とっくに「制度疲労」していることがわかるのである。

「骨太方針」の「骨太」たるゆえんは、「複数年」にわたるものだからだ。
いわゆる、「単年度主義」の転換のことを「骨太」と言い換えたのである。

このこと自体は、政策の連続性という意味で合理的ではあるけれど、政府の予算制度そのものが「単年度主義」だから、わかりにくいし、トップの内閣が交代したら、「複数年」の意味も失せるのである。

すると、ずっと「複数年」にわたって「計画」を「管理」して「実行」するのは、「官僚だけ」になる。
ここに、「与党」が影響力を行使できない構造ができている。

すなわち、竹中氏が小泉政権で導入させた「骨太方針」とは、将来の歴代内閣を縛る「絆(ほだ)し」の機能を持つだけの、官邸ではなく官僚主導の「計画経済」を具現化させる、みごとな「制度設計」であったといえる。

つまるところ、「骨太」とはいいながら、さいしょから「骨粗鬆症」を抱え込んだ、ダブルスタンダードの「ニュースピーク」だったのである。

それでもって、「今年」のは、「増税」を折り込んだことが「骨太」になっている。
財務省の頭文字「Z」をもって、「Z会内閣」といわれるゆえんだ。

自民党も一応「政党政治」をやっている風情を醸し出したい意図はあるから、「政策」については、「政務調査会:略して政調会」での「決定」がないと、「党」としての政策にはならないというルールがある。

だから、政府よりも党が「優先」されるので、絶対安定多数を衆議院(下院)で保持する自民党の決定こそが、政府を動かすことになっている。
それが、「党総裁=首相」としての「立場」をつくる構造だけど、党総裁の意向とは異なる「政策」が党内で決まれば、これを実施せざるをえないのが「首相」の立場になってしまうのだ。

そんなわけで、「Z会」に真っ向対立する「政調会長」を、党総裁が指名して「党内体制」としたから、いまの首相はさいしょから「片肺飛行」を余儀なくされることになった。

こうして、「国民不在」のままで「政策決定」されることも含め、「非近代政党」に政権を委ねること自体が、もはや国民の「不幸の種」どころか、「不幸の果実」になっている。

だから、政府の骨太方針が骨粗鬆症であることは、実行に困難を伴うので、国民の不幸を和らげる効果があるのだ。

この「機能不全」が、戦後政治の「制度疲労」であって、いったん「ご破算」にしたい要望が国民に湧いてきた。
初の国政選挙に臨む、「参政党」が全国45選挙区に候補者を立てるまでの資金を、「個人からの寄付だけ」でやり遂げたエネルギーが「これ」なのだ。

骨太もなにも吹っ飛ばす、マグマが噴火するかもしれない。

中間管理職の悲惨

誰が「中間管理職」なのか?といえば、あんがいと「幅広い層」を指すのだ。

それは、「肩書き」だけで判断する場合もあれば、組織上での「部下」あるいは「下部組織」の有無を問うこともある。
けれども、一般化していえば、経営層以外で「長」などの役職あるいは資格があって、できれば部下がいるひと、のことをいう。

わたしが勤務していた会社の場合、長くその制度上、係長までは労働組合員という位置づけであったために、「新任係長研修」の場で、「管理職昇格おめでとう」と講師がいってもピンとこなかった。

けれども、わが国の「労働組合」が発足した「終戦直後=占領中」の歴史をみれば、「課長級」も労働組合を組織したかあるいは一般組合員になったという事実がある。

このことと、「公職追放」との関係は密接で、国家総動員体制で民間企業もお国に奉仕した「報国思想」から、「職域奉公」というかんがえ方が常識になっていた。
これを、「悪く言う」のは簡単だけど、あえて「良く言えば」、「企業は一家」だったのである。

このとき、経営者は「家長」として振る舞うのが常識でもあったから、奉公先・勤務先の、「職場環境」は、家長の家長たる資質に左右されるのは当然で、それをまたテクノクラートたる「番頭」が支えたのであった。
だから、パターナリズムによる「人治」が優先されていた。

それゆえに、「手に職がある=職人」は、自身の技術力に自信ができる「熟練工」ほど、独立心が強く、勤務先の企業への忠誠心は薄くなるので、気に入らなければ何度でも「転職」したのがふつうであった。

それが、「変化」したのは、経営者の力量が高まったから「ではなく」て、工業機械の性能向上による、「非熟練工」でも十分な時代になったことによる。

それで、職場の原始性が残った「庖丁人=板前」は、ずっと後になっても「包丁1本」あれば、職に困ることがなく、「流れ板」になっても生活ができたのだった。

そんなわけで、大企業の課長職が労働組合員になる、という事態の根源に、公職追放で家長がいなくなって跡をついだ「三等重役=同僚」たちが、大混乱の戦後社会でのビジネスが満足にできないというハンデもあったけど、急速なインフレで「喰えない」という現実を盾に、そのお粗末さに反抗したという意味があった。

その「表層」が、「生活給」という概念として、わが国の賃金制度のもとになったのである。
したがって、戦前の「労働争議」と、戦後の「労働争議」とは、下地となる問題の意味がぜんぜんちがう。

とくに戦後の「労働争議」を、政治思想的に煽ったのはGHQの「本音=日本弱体化」でもあったので、その「サヨク性」が長く日本社会の基礎をなす、いわば「底流:通奏低音」に仕向けて成功したのである。

それが証拠は、1938年(昭和13年)に、アメリカで出版されて、「近代経営学の祖」といわれる、チェスター・バーナードの名著『経営社の役割』における、「付加価値創造」の説明にある。

経営者も労働者も、それぞれ「別の目的」があって企業にある。
しかし、マルクスが「宣伝」したように、これら両者は「対立」するのではなくて、「協働」によって付加価値を高めれば、それぞれの「目的達成が可能になる」と論じたのである。

経営者は企業利潤の最大化が目的で、労働者は賃金取得の最大化が目的だ。
この「別々の目的」が、「付加価値創造」という「一点」だけで「合致する」ということの意味は、あまりにも重要な「発見」だった。

なお、付加価値の計算には、「賃金=人件費」が、「含まれる」ので念のため。

さてそれで、わが国企業の特徴に、「社内昇格」という経営者になるための「制度」がある。
よほどの場合でないと、企業外部から経営の専門家を呼んできて、トップに据えるという「習慣がない」のだ。

ゆえに、将来の経営者層は、いまの労働組合員の中にいる。
すると、労働組合は、付加価値創造についての強い意志を、組織内で浸透させなければならないはずだ。

さすれば、バーナード理論の実現が可能になる。

アメリカの優良企業が、あんがいと(かつての)日本企業の真似をしているのは、労使対決では企業活動が活性化しないから、だけでなくバーナード理論の追及のためである。
それが、「日本的経営システム」の強みだと知っている。

だから、ライバルの日本企業に、ぜんぜんちがう「経営システム」を輸入・導入させたのである。
こうして、日本企業は見事に「弱体化」した。

すると、やっぱり「経営者」の不勉強が目立つだけでなく、その「家長」としての「資質」もないのは、進化の必要がない、という「経営層=勝ち組」の側の「絶望的」な精神の貧困があるからである。

となれば、現場と経営層の「中間」にある、「管理職」の「悲惨」は、まるでかつての「小作人」のような「制度」によると理解できる。

しかして、徳川時代から敗戦まであった、「五公五民」の収奪制度が、いまや「国民負担率」に言葉を変えて、実質「六公四民」の、江戸期なら一揆が起きておかしくないまでになっている。

この「従順さ」こそが、「奴隷化」の国的達成を意味するのである。

崩壊をはじめたアメリカ民主党

邪悪な心で盤石の体制を築いて、それが達成され、世の中を我が物として君臨しようものなら、「盛者必衰の理り」という「大原理」が機能しだして、あれよと「崩壊」してしまう。

これは、「人文科学」の原理なのではなく、むしろ人間の脳にセットされている「自然科学」の原理ではないのか?

おなじパターンを何度も繰り返すから、通して読むと「退屈さ」を感じるのが「中国の歴史」だ。
ゆえに、古代から現代まで、時代感覚がわからなくなる特徴がある。
なぜにかくも、おなじパターンなのか?

これも、人間の脳にセットされているからではないかと疑うのである。

われわれが「アメリカ」をイメージするとき、その「広大さ」もあるけれど、一様に「統一国家」としてのアメリカとアメリカ人をイメージするようになっている。

これは、「日本人」の脳が、統一国家と均一な国民性を当然とするようにできているからではないのか?
「建国神話」を否定しようとも、地上に類がない2千年間も同一王朝が継続していることが、とっくにDNAレベルになっているはずだからである。

しかも、わが国は「自然発生した国」だけど、アメリカ合衆国は、「人為的・人工的設計で創った国」という、その「成り立ち」すらぜんぜんちがう。

なので、「伝統主義」を「保守」というなら、わが国の「保守」とアメリカの「保守」も、意味が異なるのは当然だし、そもそも人為的なアメリカにおける「保守」ということすら、意味不明だという常識があった。

なぜならば、「建国の理念」で創られた国なので、建国の理念が壊れるという「前提」がなかったからである。
すなわち、建国の理念を「保守」するのは、アメリカ人の共通した常識だから、わざわざ「保守」という概念を必要としなかったのである。

しかし、建国からの時間経過のなかで、建国(前)当時からアメリカ人だったひとたちの系統はまだいいけれど、「その後」に移民してきたひとたちのなかに「温度差」があるのは当然だ。

この「温度差」が、だんだんと政治的温度差になるのも当然だから、共和党と民主党の「分立」が起きた。
それで、東西の海岸沿いが新たな移民の受け入れ地になるために、民主党が支持されて、自立できる内陸部が共和党の基盤になったのである。

アメリカ合衆国が、自信のない弱小国だという自意識から抜けたのは、その圧倒的な工業力によるところが大きく、また、独立戦争以来、直接的に外国の軍事力による攻撃を受けたのは、「真珠湾」がはじめてだった。

それで、武器製造と販売による「利権」ができて、民主党と共和党・主流派が、これに乗ったのである。
建国の理念を「保守」するひとたちは、この利権には縁がない農家が中心なので、そのまま「保守派」といわれるようにもなった。

地方の農業県が、「保守王国」というわが国と見た目は似ているけれど、何を保守するかを定義しているアメリカ人の確信は、日本人とは比較にならない。
「人為的な国」と、「自然発生的な国」とのちがいがここにもある。

「アメリカ合衆国憲法に従う」ことを信念にしている、トランプ氏の出現が、どれほどアメリカ人に衝撃的だったかは、そんな「自然発生的」日本人にはわからないほどの強烈さだった。

アメリカ人の「保守派」が熱狂するのと裏腹に、武器やらの様々な「利権」を優先させるひとたちが、かくも「敵視」して「憎む」のは、建国の理念よりも利権をとるひとたちの「不道徳」が暴かれるからでもある。

そのトランプ氏を、なんとしても追い落としたいと図ったのが、「ロシア疑惑」という「でっち上げ」だった。

しかも、そのトリガーとなったのは、最大の政敵ヒラリー・クリントン氏の国務長官時代を通じてやっていた「私的メール問題」を、選挙の論点からはずすためだった。

しかしながら、これらに関する「捜査」と「裁判」で、さまざまな「証拠」が提出されて、オバマ政権での邪悪さが徐々に明らかになってきた。
今般、ふたりの共和党下院議員がそれぞれのルートから得た、民主党顧問弁護士事務所とFBIとの「不適切な関係」は、民主党の崩壊につながる可能性まである。

なんと、この弁護士事務所内に、FBIの特別オフィスが「入居」していて、事務所パートナー弁護士が、FBI機密情報を直接「検索」することが可能になっていたことが発覚したばかりか、この疑惑をあっさりと弁護士事務所が「認めた」のである。

しかも、検索ログから、共和党関係者への検索が全体の8割もあったので、個人情報保護の観点もすっ飛ばす、「監視」だったことがわかる。

弁護士事務所として、自分たちの「生き残り」のために、あっさりと認めたことは明白だけど、FBI側にその責任を転嫁させる作戦でもあろう。
それで、「歴代長官」に疑惑の目が向いていて、その先にオバマ氏が控えている構図になってきた。

つまるところ、民主党顧問弁護士事務所が民主党を裏切る可能性がでてきたのである。

中間選挙まであと5ヶ月。
その前に、アメリカ民主党は持ちこたえるのか?という歴史的事件になるかもしれない。

これは、世界秩序が変わることを意味するのだ。
アメリカ民主党と事実上の「提携」をしている、自民党の崩壊も引き起こす可能性まででてきたのである。

縄文人のアジア展開

GHQによる日本の占領目的については、国立国会図書館HPにある、『日本国憲法の誕生』シリーズにおける、「資料と解説」に、アメリカ国立公文書館所蔵の原資料をマイクロフィルムにコピーして保管してあり、これを「公開」している。

全日本国民は、少なくともこれら一連の資料に目を通すべきだ。

日本人は日本国政府をGHQによって間接支配されたため、マッカーサーが最高司令官だと勘違いしている節がある。
マッカーサーは、単なる「現場指揮官」で、ときの政権のアメリカ民主党が「最高指導部」だったことを忘れている。

具体的にいえば、マッカーサーは、「1945(昭和20)年11月1日に国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が承認し、3日に統合参謀本部が承認した日本占領に関するマッカーサーへの正式指令(JCS1380/15=SWNCC52/7)と、米国政府の対日政策である「降伏後における米国の初期対日方針」(SWNCC150/4)とを実行せよとの命令を受けたひとだったのである。

にもかかわらず、あたかもマッカーサーが神のごとくの存在だと、戦後の日本人が思いこまされたのも、プロパガンダなのである。

「組織人」であれば、こんなプロパガンダに欺されるはずはないけれど、信じ込まされたふりをしないと生きていけないようにもしたのが、「公職追放」だったから、その悪意に満ちた「計画」は、およそ日本人の発想の外にある邪悪に満ちていた。

すまわち、マッカーサーの上位者たちが出した命令と、これを咀嚼してマッカーサーが出した命令との「合作」が、「日本占領」だったのである。

残念なことに、占領時代の日本政府こそ、正しき「行政」をやっていた。
立法府に成り代わって出す、GHQの命令「実行機関に過ぎなかった」からである。

なので、いまのような官僚が政策の企画立案をすることは、できなかったために、正しき行政、というのである。
それでもって、官僚は、GHQとの「窓口」における少数精鋭の「交渉人」となるしかなく、その少数精鋭たちが独立した後の政府を牛耳ったのである。

つまり、占領政策から置いてきぼりのわが国会は、GHQが去ってみたら、国会もそのまま機能不全のままにおかれて今に至っているのである。
国会が機能するのは、内政の小さな分野に限ることで、この「ごっこ状態」を国民から隠したのだった。

GHQの機能は、「日米合同委員会」に移されただけなので、在日米軍からの命令を引き続き窓口の少数精鋭の官僚が聴くことになったのだった。

これを77年間やっている。
その抵抗として、ようやくさまざまな分野からの議論がはじまったのは、コロナについての「変」に、国民が気づいたからである。

万事塞翁が馬、なのだ。

それでもって、「縄文時代」の研究が注目されるのは、もしや「人類最古の文明」かもしれないという説に、遺跡や遺物の発見で、信憑性がでてきたからでもある。

もちろん、GHQが作った「学術会議」は、一向に認めていないけど、その頑なさがまた「信憑性」を裏づけるほどに、ペンキが剥げてきているのも、国民には幸いしている。

縄文時代といえば、考古学と思うけれども、火山学が重大な発見をしている。
それが、7352年前の「鬼界カルデラ大噴火」だ。
これで、九州の生物はいったん絶滅していて、人間も含まれる。

正確に年数をいえるのは、若狭湾に臨む三方五湖の一つである「水月湖」の湖底堆積物が「年輪」のようになっていて、世界が認める「時計」の役割をしていて、この中に、上記噴火の火山灰が含まれることが確認されたからである。

そして、不思議なことに、約7300年前に「忽然と現れた文明」が、世界に二箇所あるのだ。
それが、「長江文明」で、もう一つが、「シュメール文明」である。

ことに、「シュメール人」だけでも、歴史に忽然と現れたひとたちで、どこからやってきたかはわかっていないし、その後も忽然と姿を消しているのだ。
なので、その「文明」もおおくは「謎」とされている。

昨今、これら二つの文明は、縄文人の移動によるもではないか?という説がいわれている。

これが荒唐無稽ではないのは、南北アメリカ大陸、それに南洋諸島、豪州大陸などから発見された「縄文土器」の「土」が、日本のものだと成分分析されているから、縄文人は「大洋航海」が可能だったとしか説明できない。

学術会議が困ったのは、これら縄文土器を各地で発見し、成分分析したのが、オーストラリアの学者だったから、国内「封鎖」ができないし、これが「机上の空論」ではなく、「科学的裏付け」があることだからなのである。

すると、これまでの常識だったことが、ひっくり返ることになる。

なんと、自然科学の分野から、人文学の(戦後の)歴史学者が作りだした物語が書き換えられようとしている。
これを妨害・阻止したいとする、学術会議は学術を無視する「政治団体」であるという本性を浮き彫りにさせている。

少なくとも縄文人は原始人ではない。

また、最新のDNA分析から、縄文人が弥生人に滅亡させられた「形跡がない」ことも分かってきた。
現代日本人までつながる性染色体の「断絶がない」からだ。

同様に、「米の遺伝子」から、稲作は日本から朝鮮半島に伝わったことも「確認」された。
もちろん、「天皇家の騎馬民族説」も、いまでは「完全否定」されている。

それもこれも、外国人学者の「縄文研究」があってのことなので、ひそかな「黒船」が、学術分野にもやってきていて、情報鎖国をつくった「GHQ体制」を壊しはじめているのである。

義経のジンギスカン伝説

「日本史」ではなくて、「国史」という分野がある。

ただしむかしは、「国史」がふつうで、「日本史」はなかった。
戦後のGHQによる「教育改革」で生まれたのが「日本史」で、「国史」は相手にされなくなったのだ。

いわゆる「学歴社会」も、GHQがやった「改革」であった。

これと、「農地改革」で小作がいなくなったのはいいけれど、そもそも小作が借りていた土地自体が狭かったので、「地主」にはなったけど喰えないための口減らしで、相変わらず子供を「奉公へ出した」のが、「金の卵」になって都市部の工場労働者になったのだった。

それで、余裕があろうがなかろうが、なんとか「大学へ」という気運は、「これから学歴社会になる」という宣伝工作のなせる技だった。
しかし、ここでいう「大学」とは、「新制大学」のことだった。

「旧制」と「新制」のちがいを、当時のひとがどこまで知っていたのかはあんがいと疑問がのこる。
それで、旧制中学と高校、新制中学と高校が混乱した。

かんたんにいえば、旧制中学が新制高校。
旧制高校が新制大学で、旧制大学は日本から消えたのだった。
理由は、アメリカ人に対抗する日本人を育成させないためだった。

そんなわけで、GHQによる日本弱体化計画の手先となった日本人たちがいて、これを、「敗戦利得者」というのである。

もちろん、意図的な「分断工作」である。
こうした手法は、典型的な共産主義・全体主義のやり口なので、GHQをコントールした、「本国」のアメリカ民主党の正体がしれるのである。

いまならもっとわかりやすく、スターリンとの権力闘争に敗れたトロツキー派がアメリカに逃げて、民主党を乗っ取ったこともわかっている。
なので、わが国の敵は、いまもむかしも、アメリカ「ではなくて」、民主党なのである。

さてそれで、ジンギスカンである。

義経がジンギスカンだという「説」は、戦前からあって出版もされている。
しかし、最初の言いだしっぺは、なんと「シーボルト」なのだ。

シーボルトといえば、オランダ人だとイメージされるが、彼は神聖ローマ帝国の司教領ヴュルツブルク(現在はバイエルン)の生まれなのである。
本名は、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトで、名前のなかに「フォン」があるから、ドイツ貴族だとわかる。

しかして彼は、医者だとされているけれど、江戸で面会した渡辺崋山は「プロイセン政府の内偵探査(スパイ)」と言ったと書き残している。
じっさいに彼は、オランダ領インド陸軍の参謀部付「名誉少将」にまでなっている。

彼が出版した、『NIPPON:日本』(1832~1882)は、その後日本語訳も出ているけれど、「内偵探査の成果」となっていることが注目される。

そしてここに、「義経=ジンギスカン説」の記載があるのだ。

田中英道東北大学名誉教授(西洋美術史)が、先月14日に、日本国史学会で講演している動画が公開されている。

田中教授は、パリ大学およびローマ大学などで留学研究された「美術史家」ではあるけれど、ルネサンスの絵画に東洋人が多く描かれていることに注目した最初の研究者だ。

そして、絵画にある「モンゴル文字の発見」は、イタリア人研究者も驚愕させた功績で、バチカン・システィーナ礼拝堂のフレスコ画修復現場での実地研究を許された数少ない学者だ。

モンゴルによって征服されたヨーロッパ側のモンゴル研究は、戦後とまったわが国の研究とはちがって、あらゆる面に及んでいるという。
そこで、田中教授が気づいたのは、モンゴルの「体制づくりの妙」だという。

あたかも世界史に突如あらわれたモンゴル帝国も、初代ジンギスカンの時代は、「内政」のかために忙しい。
それで見つけた資料が、高麗の王が差し出した服従の手紙だという。
そこに、「天皇=朝廷」を彷彿される体制があったことがわかるのだ。

じっさいに、ジンギスカンの幼名、「テムジン」とは、「天神」のことではないのか?
なんと、モンゴル語に「テムジン」という言葉はなく、「名前」としても聴いたことがない珍しさなのだ。

さらに、源義経という漢字を、「じん・義・すかん」と読めるとも。

はたして、シーボルトの「結論」にいたる研究は、ヨーロッパ側でもやっているというから、どんなに「日本史」側から文句がきても止まらない。

このことをわれわれは、「多様性」という言葉を好む「日本史」側が、一方的に無視するか反論するなら、そこにも「二重思考:ダブルスタンダード」があると認識できるから、これがまた「踏み絵」の役割もなすのである。

そんなこんなで、義経=ジンギスカン説は、あたらしい展開を見せている。

マスク氏はWHOを買収する?

国際連盟も、国際連合も、腹黒くて野蛮な欧米人がつくった「隠れ蓑」のシステムである。

日本人は、敗戦での言論統制とその後の洗脳で、これらの「隠れ蓑」を、けっして「隠れ蓑」とは言えずに、「正義のシステム」だと信じ込まされてきた。

しかし、ここにきて世界を支配する「5大国=安保理常任理事国」のバランスが崩れて、ただの「簔」になって見えてきた。

「国際連合」が、安保理常任理事国の中華民国を棄てて、中華人民共和国に乗り換えたのは、1971年10月25日の総会決議2758号で決まった。
これからの「歴史」は、世界がしるところである。

しかし、この「決議」は、当然ながら当時の「共産諸国」と、「非同盟諸国」だけが賛成したのではなくて、常任理事国のイギリスとフランスも賛成したのである。
それで「本命」の、アメリカは翌72年に米中国交正常化をしたのだった。

つまり、露払いでお膳立てをしてから、横綱が土俵に上がるような手順になっていたことは、日本人は覚えておいたほうがいい。
これに慌てたわが国は、田中角栄首相の北京電撃訪問となったのである。
一連の「土俵入り」を、傍観していた外務省がそこにいた。

次の大変化は、「ソ連崩壊」による、「ロシア誕生」での「引き継ぎ」だ。
厳密には、「政権交代」だったので、国連での位置づけはロシアがそのまま正当な政府として引き継いだのだった。

さて、この二大変化についてかんがえれば、共通点がひとつ見えてくる。
それが、西側における「利権の確保」だ。

そもそも、西側が蒋介石・国民党を支援したのは、大陸利権の「独占」を図る日本に対抗するためであったのに、その腐敗ぶりから毛沢東に追い出されてしまったのである。

中華人民共和国建国後、毛沢東がすでに存在しない「日本帝国陸軍」に「感謝」を表明したのは、日本が戦った相手が国民党「だけ」だったことを表したのだった。

その日本帝国・陸海軍は、ベトナムからフランス人を追い出したので、戦勝国のアメリカは、「戦利品」としてのベトナムに触手を伸ばした。
これが、「ベトナム戦争」だった。

フィリピンを支配していたマッカーサーが言った、「アイシャルリターン」は現実にならず、日本軍がいなくなってもフィリピンは独立してしまって、マッカーサーは父が残した広大な農場に帰ることもできず、行き場を失っていたのだ。

ソ連とアメリカが世界を二分したように見えたので、そのソ連と敵対した毛沢東の中華人民共和国とアメリカが手を結んだのは、「敵の敵は味方」という論理からだといわれている。
北ベトナムの後ろ盾が、ソ連だったからでもある。

しかし、蒋介石・国民党のように、南ベトナムの腐敗ぶりから、結局ホー・チ・ミンに全土を取られたのは、まったく中国大陸とおなじパターンなのだ。

すなわち、アメリカはドジッたのである。
もっといえば、欲に駆られて見えなくなる、ということだろう。

それをまたまた繰り返したのが、「ソ連崩壊」のどさくさに紛れてやった「火事場泥棒」で、私欲にかられたエリツィンを騙くらかして、石油やガス利権を貪ったのだ。

これに気づいたプーチン氏が、「国営化」して、資源利権を独り占めしたかに見えたけど、利益を国民に還元したから話がこんがらがるのである。
あきらめきれない強欲なひとたちが、プーチン追い落としを図ってやったのが「ウクライナ」だ。

さてそれで、強欲なひとたちは、知らぬ間にWHOのオーナーになっていた。
アメリカがスポンサーのはずの国際機関であったものが、気がつけば「民間」が拠出する資金によって運営されている。

いまやWHOは、ビル・ゲイツ財団が筆頭の出資者なのである。

それでもって、ビル・ゲイツ氏が、WHOを世界政府にして、各国政府の上に君臨させると言っているから、「ちょっとまった!」となってきた。

「国民の健康」を最大優先政策事項としたのは、政権奪取前のナチスであった。
がん撲滅と禁煙、それに、ドイツ医学への重点的予算配分を謳い、ナチス党員のパン屋は、「黒パン」しか焼かなくなった。

「白いパン」は、食べたひとの健康を害するからである。

この「伝統」を、ビル・ゲイツ氏は、もっと「強権」をもって実現したい、と公言している。
世界人類は、あまねく漏れなく、WHOの命令に従わなければならない、と。

オーナー様のこの発言に、Twitterを買収して、ゲイツ氏と大バトルを展開中のマスク氏に、「あんたがWHOを買収したら?」とつぶやいた、アメリカでは有名という精神科医に、なんとマスク氏が直接につぶやいた。

その意味深な返信に、フォロワーたちが期待感を示している。

国家はどこへ行ったのか?
国家を超える超大富豪によるこうした動きは、完全に「中世」とかわらない。

人類社会は、中世に戻ったのではなくて、はじめから中世のままだったのではないのか?

まったくもって、民主主義もなにもない、お金持ち本人の資質と気分で左右される、「良い独裁」に期待する、すさまじい時代になったのである。

寝返ったカソリック

驚愕の情報がでてきた。
5月15日、英国のカソリック司教であるリチャード・ウイリアムソン氏がポーランドのワルシャワを訪問し、重要な発言をしたことが話題になっている。

ただし、このひとは独自の見解をもっていることでも知られ、ローマ法王庁との関係も「よくはない」。
1988年から2009年まで、「破門」されていた事実がある。

このことはまた、英国人らしい、ともいえる、「伝統主義」ゆえなので、「教会の近代化」にも強く反対しているのである。
それで、カソリックの伝統主義を主張する「聖ピオ十世会」に所属していたが、2012年に「追放」処分とした。

つまるところ、過激な伝統主義、ということなのだ。

これはなんだか、ファシスト党をつくったムッソリーニが、イタリア社会党の急進左派(共産党も超えた過激)だったために、とうとう「除名」されたのと、立場は真反対だが似ている。

ちなみに、「ファシズム」の語源がファシスト党なので、国家主義だから「右翼」だというのは嘘のプロパガンダで、ほんとうは共産党とおなじ立ち位置かもっと左なのが、円周上で回転して「右」にまで来た、というのが正しい。

そんなわけで、ウイリアムソン司教の発言は、読まないといけないのだ。

もちろん、ポーランドはカソリックの国で、社会主義時代を通じて教会は活動できた、というほどの信仰が厚いことで知られる。
これとまた「真逆」だったのが、世界遺産になったブルガリア正教会の「リラの聖ヨハネ修道院(「リラの僧院」ともいう)だ。

宗教が禁止された社会主義時代、この修道院も事実上閉鎖されて、ひそかに地元民が保存していたのが、いまや国を代表する観光地になったのである。

つまり、「おなじソ連圏」でも、その内部の「温度差」はかなりあった。
ポーランドを「弱腰の社会主義」といったり、「緩慢な社会主義」というひともいるけど、強権でもっても宗教弾圧ができなかった、とかんがえないとポーランド人に失礼になるのである。

だから、いまのブルガリアでも、ときの政府の「住民相互監視制度」をもってしても保存活動をしていたひとたちは、「地域を挙げて」やっていたと証明できるので、国民からの尊敬も受けている。

そんな事情を踏まえて、リチャード・ウイリアムソン司教は、その保守性の過激さで、かつてポーランド出身の教皇、ヨハネパウロ二世を、「キリスト教への理解不足」と批判したことがあるので、ポーランド人からどう観られているのかは、厳しいだろうと予測するのである。

もちろん、前任のヨハネ・パウロ一世教皇の、その任期の短さ(33日間)がさまざまな憶測を呼んで、バチカンの闇、となったままなのである。
これがまた、『ゴッドファーザー PART Ⅲ』にもなって、世界を驚かせたものだった。

現実には、バチカン銀行の「マネーローンダリング」の闇をいう。

そんなこんなで、リチャード・ウイリアムソン司教は、知りすぎたひと、でもある。

それで、ポーランドで何を言ったのか?といえば、なんと世界の指導者でもっとも「まとも」な人物は、プーチン氏だと名指ししたのである。

これは、プーチン氏を名指しして批難したローマ教皇と真逆になる発言だ。
もしや再び「破門」になるやもしれぬ。

「彼は『世界政府』に立ち向かった」と。
しかも、ポーランド・カソリック教会の婦人部の皆さんとの対談では、彼女たちは「プーチン氏支持」を表明していたとも語った。

この「戦争」について、プーチン氏は、「目的」を明確に述べているとして司教は、つぎの二つを挙げた。
・ウクライナの「非」ナチ化
・ウクライナの「非」軍事化

しかしながら、「阿呆」の集合体と化したヨーロッパは、バイデン・民主党政権(グローバル全体主義)の言いなりとなって、ロシアを潰そうとしているので、今後さらに悪化する可能性がある。

その悪化に、「人為的な飢饉」を作り出す陰謀がある。
「世界政府」は、新型コロナを策略して、対ロシアのために、ウクライナを利用する準備は2014年(「マイダン革命」)からやっていた。

そして、アメリカにはクリスチャンが多いけど、これらは悪魔に欺されている、と。
しかしながら、アメリカ人の愛国者たちは、ロシアの資源をアメリカが得ることは、愛国的だとしている。

こうした痛烈な批判をした司教は、バイデン氏について一言も触れなかったのは、バイデン氏が国家元首であると認めていないため、とも解説されている。

マイダン革命で政権を失って、ロシアに亡命したヤヌコヴィッチ氏は、ウクライナが「国家主権を失う」かもしれない、と先月発言した。
そして、「ポーランドとの併合」に触れたのだった。

これは、先月初めに、ウクライナ・ポーランド両国大統領が会談した際に合意した、「国境の廃止」の意味を言ったもので、ゼレンスキー氏は、ポーランド国民にはウクライナでの「特別な地位」を与えるとも表明したことに合致する。

日本人なら「ピン」とくる、「特別な地位」だ。
だれが仕掛けているのかも、「ピン」とくる。

しかし、ポーランドにどんなメリットがあるというのか?

そんなか、いま収穫期にあるウクライナ産小麦の輸出港マウリポリは、ロシアに制圧された。
プーチン氏は、ロシア制裁解除を条件に「輸出許可する」と発表している。

司教のいう「飢饉」を造りだしているのは誰なのか?
日本人にも、他人事ではないのである。

観光業の自滅宣言

参政党の共同代表をつとめる、松田学氏は、言わずと知れた元大蔵・財務官僚で、元・次世代の党⇒元・たちあがれ日本に籍を置いた衆議院議員であったひとだ。

ふつうのひとになってから、「松田政策研究所」を立ち上げて、YouTuberとして、さまざまな情報発信を行ってきている。
とくにその「対談」においては、「立場を超えて」各方面のひとを呼ぶことで知られ、保守系としては「異例」だとの評価も高い。

「聞き上手」だとの評価がある一方で、相づちが嵩じて「迎合する」こともあるから、おそらく事前にシナリオがない「ぶっつけ」ゆえのリスクもある。

それがまた、対談としての魅力なので、最後まで観ないと主旨がわからないこともある。

参政党ウオッチャーとしていえば、5月19日配信の「公式ライブ配信」における、武田邦彦氏との論争(「言い争い」)にひとつのポイントがあったと思っている。

あくまでも「国民・生活者目線」で発言する武田氏に対して、「官僚・政府の目線」で論じたゆえのすれ違いになったのである。
これはあんがい「発想の違い」という「決定的」な結果なので、この場をなんとか収めた吉野敏明氏のハラハラ度合いが、かえって視聴者にもよくわかった。

この「バトル」が、参政党の「正直さ」として好評を得て、党員数拡大にもつながったというし、後に武田氏が折れて「大人げない」としたことが、「おとな」の対応にもなって好評価の原因にもなったと街頭演説でも説明されている。

興味のある方は、是非「実際の場面」をご覧になるとよいかと思う。

さて、武田邦彦氏が口癖のようにいう「うそは絶対にダメ」の根源は、氏が科学者であるからだと自身も繰返し述べている。
「自然科学」の分野では、自然の法則を解明するのが科学なので、うそは必ずばれる、という運命にある、と。

しかも、氏は、新卒で民間企業(旭化成)に就職している。
つまり、民間の研究所でうそをついたら、会社はとんでもない損失を被ることになるのだ。
ゆえに、科学者としてだけでなく、社会人としても身についたものだ。

松田氏の方は、経済学を修めて官僚となり、さらに経済学をドイツに学びに行かされた経歴であるから、明治以来のエリートである。
官僚の問題は、本人に回帰しない、その「組織」にあることは、このブログのテーマにもなっている。

つまり、巨大化した政府官僚機構という組織の「幹部」ではあるけれど、その前に「組織人」としての「分をわきまえる」ことが、だれでもない「組織」そのもの(あえていえば「空気」)から要求されるのである。

それが、「省益」だし、官僚社会主義という「体制」下にあっては、すべての産業を牛耳ることが、国家発展のための「合理的帰結による近道」だと信じ込まされる。

その中の「最強」が、内務省なき戦後においては、大蔵省だったのである。
それゆえ、松田氏の「お里」は、いまだに大蔵省にある。

参政党のブレーンあるいは今後できるだろう「シンクタンク」に重要な役割を担うのは確実だけど、マックス・ヴェーバーが言ったように、最高の官僚は最低の政治家になる、ことの典型ではないかと疑うのである。

さてそれで、2日(昨夜)、『特番「大打撃の観光業!世論追随の岸田政権で日本は大丈夫か?』として、岩崎芳太郎・岩崎産業社長との対談が配信された。

岩崎産業といえば、鹿児島を中心に南九州にグループがある、観光コングロマリットである。
その「総帥」が、どんな発言をするのか?は、わが国観光業界の重鎮の発言として注目されるのは当然だ。

結論から先に言えば、乞食だった。

「コロナ禍」を経営悪化の外部環境としていまだに捉えているのは、東京都に裁判で挑んだ、グローバルダイニング裁判の判決もみていないのか?と疑わざるを得ないし、武田氏や徳島大学の大橋眞名誉教授による「解説」についてもご存じない様子であった。

それに、「外資に買われる」ことを参政党は「国まもり」として重視していて、ニセコや蔵王などの例を挙げている。
しかしながら、「外資に買われる」のが問題ではなくて、「内資が買わない」のである。

その最大の原因は、国内にリスクをとる投資家がいないことと、再生させるためのノウハウがないからだ。
再生させるためのノウハウとは、通常運営するためのノウハウも含まれる。

よって、コロナ直後に廃業した観光業は、通常運営するノウハウの欠如がそうさせたといえるのだ。
だから、昨今の岩崎産業の業績不振も、社長の発言で理解できる。

岩崎氏は、どこもおなじの外資系高級ホテル、と言ったけど、これはよくいう「金太郎飴」だと批判した、マクドナルド(1971年開業)や東京ディズニーランド(1983年開業)の進出を言ったときとぜんぜん進化も進歩もしていない。

半世紀もおなじことをいうのは、まったくの驚きでしかない。
それでもって、コロナ対策に協力したのだから「政府はカネをよこせ」というのは、乞食以下の脅しなのだ。

松田氏は「積極財政」を「売り」にしているからか、武田邦彦氏ならすかさず指摘するだろう「発想の貧困」が窮乏の原因だとは言わない。

しかも、岩崎氏は、「観光大臣」が欲しいという、無い物ねだりを言ってのけた。
ここまで「政府依存」に脳が冒されているなら救いようがないので、資本主義の最大効果、「市場からの退場」をもって新陳代謝を促し、あたらしい経営者を迎えるべきだ。

就職予備群の学生を持つ親が観たら、こんな無様な業界に就職させてはならないと思うだろう。
観光学科とかの学校は「業界に抗議」しないのだろうか?
あるいは、同様に政府依存するならば、もう自滅しかない。

まことにお粗末な対談であったけど、「本質」をみごとにえぐり出したのは、視聴者にとってのラッキーである。

ゲイツとマスクの大バトル

かんたんにいえば、「内ゲバ」である。

グローバル全体主義者たちという、「内輪」から、イーロン・マスク氏が「裏切った」ことに端を発する。
もちろんマスク氏が、「仲間」と見なされていたのは、彼の会社が「テスラ」という、地球環境に優しい電気自動車の世界最大企業だからだ。

しかも、株価で計算すれば、マスク氏が所有するテスラ社の価値で、トヨタ以下わが国自動車メーカーの「全社」を上回ることになったのである。
これで、もう一つの「内輪」である、「大富豪会」の会員という側面もできた。

マスク氏の裏切りは、民主党から共和党への鞍替えをわざわざ表明して、「言論弾圧」を旨とするGAFAの「内輪」から、弱小のTwitterを買収して、それから「自由媒体」にさせると買収目的にある「抱負」を語ったことによる。

Twitterがやった歴史的暴挙とは、現職大統領で、しかもフォロワーが9000万人もいた、トランプ氏のアカウントを一方的に永久停止したことだった。

Twitterが「弱小」扱いされたのは、万年赤字企業なのに、株価が高いという不思議を背景に、あたかも「今をときめく企業」とのイメージづくりに成功したとはいえ、そのビジネス・モデルは「広告収入依存」という脆弱があるからだった。

だから、9000万人ものひとが群がるトランプ氏のアカウントは、企業経営にとっては、一種の「ドル箱」であったはずなのに、経営者の政治的価値観で、これを追放したのは、まったく資本主義の原則にあっていない「暴挙」なのである。

よって、こんな企業を買収して、経営再建するには、創業時からの「自由媒体」への回帰と、収益のための「有料会員制」というマスク氏の構想は、奇をてらうばかりか、まったくもってオーソドックスだといえる。

しかしながら、GAFAの「内輪」の本質が、グローバル全体主義にあるので、そのための「言論弾圧」をすることが、また彼らの大富豪としての資産も増えるメリットになる。

それでもって、ビル・ゲイツ氏が中心になって、23もの団体がTwitterの「自由媒体になる」ことに「反対」の表明をしたばかりか、広告主たる企業には、ネガティブ・キャンペーンをすると、白昼正々堂々、脅迫をしているのである。

すなわち、「言論弾圧の継続こそ力」という、かれらにとって都合のよいことが、あたかも広告主の企業や、その企業の製品を購入する一般消費者にとっても都合がいいのだという、小学生でもわかる「詭弁を弄する」赤っ恥を「恥」とも思わないほどに追いつめられたのだった。

気色悪いのは、こうした詭弁を真顔でいえるビル・ゲイツ氏の神経で、とうとう、テスラ社の株式を「空売り」するという暴挙までやっている。
これをマスク氏から指摘された、ビル・ゲイツ氏は、あっさりとこれを認めて、空売りの利益はビル・ゲイツ財団の福祉活動資金にあてるとやり返したのだった。

けれども、株式市場の状況は「逆」で、この間のテスラ社の株価は「上昇」してしまったから、ビル・ゲイツ財団は数億ドルの含み損をかかえることになっている。

ましてや、マスク氏の「空売り」という手法に関する、不道徳さの指摘は当を得ている。
なぜならば、地球温暖化に貢献するとあれだけいっていた電気自動車の推進に、「空売り」は逆行させるからである。

つまり、ビル・ゲイツ氏とその財団が主張するのは、地球温暖化の政治利用「だけ」だという「図星」をいいあてたのである。

ところで、共同声明をだしたこれら23もの団体とは、どんな団体か?について、イギリスの新聞が「調査報道」している。
その「資金源」をみれば、ビル・ゲイツ財団を筆頭に、ジョージ・ソロスの財団、それに、クリントンとオバマの財団だった。

ため息が出るような、腐臭が漂う「民主党」の本体たちだ。

これらのひとたちの言い分の共通は、アメリカ合衆国修正憲法第1条にある「言論の自由」なのである。
「言論の自由」があるから主張できる「言論弾圧の自由」とは、完全に全体主義の「ダブルスタンダード:二重基準」である。

言論弾圧に自由はない。

人類は、こんなことすら確認を要するにいたるほど劣化した。
しかし、グローバル全体主義を推進して、一部の大富豪による全部の民衆の奴隷化という目標達成のためなら、なりふりかまわない。

宇宙は、回転によってできている。
大星雲がゆっくり回転していても、その中心に集まれば集まるほどにエネルギー密度も高まって、そしてそれが限界を迎えれば、突如「柱が立つ」ようなエネルギー噴射がおきる。

それがかつての「革命の物理法則」だったけど、グローバル全体主義に対抗する民衆の蜂起こそが、いまどきの「回転」の理由なのである。
いつエネルギー噴射が起きるのか?

まだわからない。