いつまで「茶番劇」を続けるのか?続けることができるのか?
ロシアを経済的に追いつめる、むかしでいったら「水攻め」のような包囲戦をしかけているのが、あろうことか「自由主義陣営」ということになったのである。
しかし、これら「自由主義陣営」という国家群は、ほんとうに「自由主義」なのか?
ソ連・東欧の「体制転換」とは、じつは「西側」にも体制転換を促して、気がついたらグローバル全体主義という共産主義の変形にとって代わられていた。
そのグローバル全体主義の別名は、「儲け主義」だと断定できる。
何が何でも「儲けること」を基盤にしている。
残念ながら、「ディープステート」と口にした途端に、「陰謀論」だとして相手にされなくなるということになっている。
しかし、富が小数の個人に集中して、それらのひとたちが数名でも陰謀を企てたら、自国政府だって動かせるようになったのだ。
これをまたスムーズにさせるのは、いつの時代でも「情報操作」が重要だけど、その媒体そのものを資金によって支配できたら、世の中を好きなようにできる世界になってしまった。
支配されている側が、支配されていることにすら気がつかないで、幸せに生きていると思っている。
だから、経済的に生活が苦しいとか、寂しいとかということは、自分のせいだとも思うのである。
これには、政府依存という、伝統的な社会主義が役に立っていて、グローバル全体主義がこうした「旧来」の全体主義も、すっかり応用しているのである。
それが、「福祉国家」という個別全体主義のことだった。
EUが決めた、ロシア産石油の拒否がもたらすものは、EUのエネルギー危機にほかならず、中東産原油の高騰を確実にする政策でもある。
つまるところ、世界はインフレになるのではなくて、インフレに「させる」のである。
ふつうの政治家なら、こんなことをしたら自国民の生活が困窮することぐらい簡単に想像がつく。
しかし、「ロシアが悪い」という情報操作で、国民を騙せると判断できるし、それを支持すれば選挙資金も手に入る。
それだから、こんな「愚策」に文句をいわない。
また、国民に文句を言わせないことが、政治家の政治家たる役目だと、大富豪からいわれたら、その通りを演じるのである。
わが国でもそうだけど、「俳優」や「タレント」が議員になる理由がこれなのだ。
選挙で有名だからといって票が入るだけでなく、「その後」も、お人形さんとして、与えられた役を演じればよいのだ。
すると、割を観るのは国民しかいない。
なので、世界中で「我慢大会」がはじまった。
こまったことに、日本人は我慢強いから、世界でいちばん我慢するかもしれない。
この点、ラテン系は我慢できない性分だから、きっと、ギリシャ、イタリア、フランス、スペインあたりで暴動が起きるかもしれない。
日本人と性分が似ているドイツだって、秋になればどうなることか?
長くて寒い冬が迫ってきたら、「凍死」のリスクをかんがえずにはいられなくなる。
もちろん、石油はエネルギー源であるだけでなく、プラスチックをつくる原材料なので、「化学工業」もたちいかない。
食料をつくるための、化学肥料も、農薬も、みんな石油からできている。
「産業連関表」という便利なものをかんがえついたのは、レオンチェフ博士で、当然ながらノーベル賞を受賞(1973年)している。
これをもって、世界経済をいう経済学者がいないのは、いないのではなくて「しゃべらない」のだ。
それは、学会という「たこつぼ」にいないと生きていけない悲哀からくる。
「ほんとうのこと」を一般人に向けて語ったら、学者生命が危険にさらされるからである。
カネでマスコミを牛耳ることの意味は、かくも広大な言論のすそ野をもコントール下におくのだ。
そんなわけで、フランスあたりから、EU離脱論がでてくる可能性がある。
そうでないと、冬が越せない。
ナポレオンは、モスクワを目前にして冬将軍に敗退したけど、EUもおなじ目にあうのではなかろうか?
ただし、日本人にはそうなることが望ましい。
さてわが国もそんなEUと背後のアメリカ・バイデン政権につき合わせられた結果、さんざん苦労して開発していた「サハリン2」を手放すはめになって、インドがこれを購入しそうである。
結局、インドが手にしても、開発技術はないから、「下請け」としてわが国企業が関与せざるをえないだろう。
これをまた「漁夫の利」といえるかどうか?
それ以前に、ロシア政府から「敵国認定」されたことがどうなっているのかが気になるところである。
どちらにせよ、尖閣周辺を含めた日本海でも小笠原あたりの太平洋でも、巨大油層(田)が発見されてはいるけれど、これを「守る」軍事力がないために、「試掘」もできないのがわが国の素顔なのである。
食うや食わず、凍死が目の前に迫ってきたら、もう「我慢大会」はやめようというしかないのに、直前までこれができずに犠牲者が出るかもしれぬ。
これをふつう「阿呆」というのである。