「維新の会」のちょとした内紛

4月29日、国会議員を擁する「公党」たる政党の党首に、どうしたわけかSNSを介した「公開情報」として、組織内部での「パワハラ」なる問題を、直訴した地方議員がいると「ニュース」になっている。

ことの詳細には触れないが、ことの「構造」は、以下のとおりとなっている。
・この政党の「県・選挙対策責任者」たる衆議院議員から、
・今夏の参議院選挙立候補予定者たる、現職県議会議員を、
・本県にある市議を務める人物に、「応援」を「強要した」というもので、
・逆らえば、次期当該市議選において「別人物を公認」するという話だ。

それで、この県議を妥当な候補者だと思わないこの市議は、「パワハラ」だとして、党首に直訴した、というのが大まかな「ストーリー」である。

維新の会は、創設者といわれる橋下徹氏の、昨今の発言がなにかと物議を醸しているようだけど、わたし個人としては、ほとんど興味がない。

橋本氏に興味がないだけでなく、維新の会という政党にも興味がないからであるけれど、その理由は、「保守」を仮面とした「グローバリズム」にして、「グローバリスト」集団だからである。

ちなみに、「保守」という立場も好まない。
基準や尺度が、右往左往する「曖昧な用語」だからである。
なので、上の「保守」とは、一般的にいわれているという意味に過ぎないので念のため。

ズバリ言えば、「全体主義政党」と断定できるし、もっといえば「利権政党」だともいえる。
自民党で表現したら、旧田中派(現茂木派)よりも社会主義との親和性があって、よりグローバリズムが強い位置だということになる。

ゆえに、「親中」なのは当然だし、世界経済フォーラムやアメリカの外交評議会がいう、「グレートリセット」に近しい。
このことが、「親米的」な側面を見せるので、ロッキード事件で潰された旧田中派とは異なって、あたかも「保守」に見えるのである。

政党としての主義・思想が「いただけない」のは、もっと大きな「原因」がある。
それは、「維新」の名付け親、いまは参政党事務局長の神谷宗幣氏がいう、設立の本旨が、「大阪ベイエリア開発の利権獲得」だったことである。

それで、「後付け」で、「都構想ができた」というのは、当時、神谷氏が「内部のひと」だったゆえに知る事実で、これを各地の街頭演説で発信している。
この重要な発言に、維新からクレームがない、と氏は発言している。

つまり、「なっちゃない政党」なのだ。

実際に、ベイエリア開発は進行しているから、「大阪万博」や「IR」が終点となって、自民党に合流すると神谷氏は「予想」している。
「うまみがとれた」ら、維新という組織が「だしがら」になるからである。

しかして、この内輪の事件は、もっと興味深い、わが国の「政党」の、「非近代ぶり」を端的にあらわしていることに注目したいのである。
そして、このことは、既存の「公党」ぜんぶに適用できる「非近代ぶり」なのである。

第一に、候補者を選ぶ、という手続きが不明瞭ということだ。
「近代政党」ならば、党内で候補者を選ぶ「予備選挙」をおこなうのが「ふつう」なのである。

第二に、党内予備選挙に立候補するときに、さまざまな「身体検査」を、党員が決めたルールでおこなうことも、付随した「手続き」になる。

第三に、予備選の候補者とは「党員」からの「互選」となることを意味する。
維新の会には3万人ほどの党員がいるけれど、自民党の「後援会組織」とおなじ構造のため、党員は近代政党の党員とはいえないから、発言権はない。

この「互選」を無視したのが、アメリカ民主党の大統領選予備選挙だった。
党員ではない、バーニー・サンダース氏が「辞退」しなければ、民主党大統領候補になっているところだった。
しかし、どうして彼が予備選挙に参加できたのか?がある。

現代日本もアメリカ民主党も、「公党組織」におけるこのような「お粗末」が、「常識」なのである。
民主党は「堕落」したといえるけど、わが国側は一度も「制度化」されていない。

なお、「近代政党」に近しい、公明党と共産党は、組織はあっても「選挙がない」という、非民主ぶりを「体質」として内在させていて、これを変えると組織がもたない脆弱性が「泣き所」になっている。
これを一般に、「独裁体制」という。

そんなわけで、今回の市議会議員からの「パワハラ被害」の訴えとは、自分が属する組織が、「非」近代政党である、という「前提」を無視しているお粗末に聞こえるのも確かなのである。

なぜならば、この現職市議会議員だって、党内予備選挙を経て公職に立候補し、当選した、という手順になって「いない」はずだからである。
すると、なんだか、「子供じみている訴え」なのである。

自分は「正しい」のに、これを上が無視して命令し、あげくに「脅す」のはパワハラだ、といいたくなる気持はわかるが、組織人としてかんがえ、訴えるべきは、「そこではなくて」近代政党として脱皮することなのである。

しかして、「保守系」言論人は、維新の会が参議院選挙でも「躍進」して、「野党第一党」になるのでは?との、プロパガンダ、あるいは「希望的観測」を流している。

こんな予測は、有権者を誤誘導するので、有害である。

上に書いたように、この政党の邪悪さは、自民党より酷いのである。
正義感は強いけど、おつむが弱いこの市議は、次期選挙に「公認」されないかもしれないけれど、それならそれで、ひとりでも立てばいいのである。

そんなに維新の会にいたい理由はなにか?とききたいのであった。

おまけとしていえば、上記の神谷宗幣氏がつくった、「参政党」は、わが国で「最初」となる、本格的近代政党である。
今夏の参議院選挙で議席をとれば、それだけでも、政界の「近代化」になるので注目している。

メーデーをやめる労働運動妄想

昨年暮れに公開された映画『マトリックス』が、あんがいと「難解」なのにもかかわらず、あいかわらずの人気であった。
第一作が1999年だったから、シリーズの「息の長さ」にも驚く。

そもそもが、「現実世界」と「バーチャル世界」という二つの世界を、行き来して、バーチャル世界を支配するコンピュータと人間の闘いを描いたものだが、コンピュータの「プログラム」を作ったもの(ひとりの人間)が、究極の支配者であった。

すなわち、二つの世界全体をデザインする、ということを「アーキテクチャ:構造」と呼んだのである。

すると、レビ・ストロースが中心となった、「構造主義」がヨーロッパからアメリカに伝播して、それが本作の「物語設計」の骨格を作ったともいえそうだ。

レビ・ストロースは、「神話の構造」を分析してみせたが、「構造から神話」をつくったのがこの映画だったといえる。

第一作で主人公「ネオ」の人生を変えた「分岐点」を印象づけ・それが能動的なものであると強調したのが、あんまり飲み込みたいとは思えない大きさと色合いの、「赤いカプセルと青いカプセルの選択」場面だ。

「現実世界」に「目覚める」効能がある、赤いカプセルを、劇中では「赤いピル」と表現していた。
そして、いままで通りの「深い眠り」でいられる効能があるのは、「青いピル」であるから、これを選べば、この選択をしたことも忘れる。

しかして物語は、主人公が「赤いピル」を選択したことでの、想像を絶する展開をみせるのであった。
それもこれも、「自分で選んだ」ということに端を発するから、人生は見事な「自己責任」だという常識が前提に組み込まれている。

ここに、本来の「個人主義」がある。
ひとりで生まれて、ひとりで死んでいく。
その間の人生は、個人と個人の「つながり」が網のようにできている。
「自分勝手」とか「ひとりよがり」が、「個人主義」ではない。

しかしながら、発展しすぎた近代文明社会の、とくに自由主義先進国で一般的となった、「なんとなく生きている」という「ふつう」からしたら、「赤いピル」を選ぶという行為自体が、もはや「英雄伝」になる。

別にいえば、「なんとなく」でも生きていけるから、贅沢にも不安になるのだ。
「食う」ことが先決だった人類史が行きついた、逆説世界なのである。

また、そうではない、途上国における、たとえば「貧困」に生まれたら、どこにも「選択肢もない」という冷厳な事実がかんたんに予想できるようにもなっている。

そして、「グレート・リセット」を、堂々と標榜して、その趣旨である、あたかも「優生学」的な、富豪による人民支配を理想とした政治活動が、リアルな世界で計画・実行されていることすら、「知らないひと」・「信じないひと」対「気づいたひと」という構造ができている。

公開されたホームページに「書いてある」から、みないひとが悪い、という状態は、あたかも、国民への周知徹底を条約締結国に義務化した、(戦時における文民の保護に関する)「ジュネーブ4条約」を、締結国であるわが国では、防衛省のホームページをみにいかないとわからないのとおなじだ。

不毛の「専守防衛」論とおなじく、この4条約を国民に政府が積極的に知らしめることも、「戦争を受け入れる」と解する、残念な思考構造のひとたちからの批判を、面倒くさいがために、国民全体への周知徹底を積極的にしない、と決めたにちがいない。

よって、日本国民は、戦時における文民の保護に関する国際ルールを知らない。
ウクライナ大統領が、自国民に向けて発した「命令」は、民間人が戦闘に加わるようにしたから、完全に「このルール違反」なのである。

すると、対する敵国軍隊によって、自国民間人が殺戮されても、「国際法」は、文句をいえないことになっている。
そんな状態の国に、日本人善男善女がさまざまな「支援」をするのは、敵国認定されても文句はいえない、戦争加担行為なのである。

しかるに、統治能力を失った日本国政府は、国民にこの「危険」を知らせないから、確信犯だといえる。

さてそれで、今日はメーデーだ。

はじまりは、ソ連でも毛沢東の中国でもない。
1886年(明治19年)に、アメリカはシカゴで行われた「統一ストライキ」であった。

ちなみに、ロシア革命へとつながる「2月革命」は、1917年(大正6年)のことである。
日本では、1920年(大正9年)に、上野公園で開催されたのをはじまりとするから、ロシア革命「後」にあたる。

果たして、さまざまなことが「仕組まれている」とばれてきたのが、「コロナ後」のいま、なのである。
欧米でほとんど「収束」し、各種規制もほとんど撤廃されているのに、なぜかわが国では「2類のまま」放置されているけど。

それで、ロシア革命さえも、西側大富豪による資金提供なくして達成できなかったことも、「史実」としてみえてきた。
彼らの「サジ加減」で、さまざまな「ストーリー」が計画されて、実行される。

「本家本元」の、カール・マルクスさえ、この大富豪の家系にあることも発表されて、ぜんぜん「貧困にあえいで」なんかいなかった。
むしろ、「書かされた」といっても過言ではないほどなのである。

すると、「赤いピル」を飲んだつもりになってみたら、労働者と資本家は、ほんとうに「対立する構造」にあるのか?という、大問題が浮かび上がるのである。

そうやってみると、「労使双方」ともが、「対立しているもの」と思いこまされていないか?
とくに、失われた30年を振り返れば、従業員から昇格するわが国の企業経営者が、強く「思いこんでいる」ふしがある。

そんなひとたちが、「労使協調」を臆面もなく口にするのは、いったい新入社員時からの「組合員」として、どんな教育を労組がやったのか?

双方で、おおいに反省すべきなのである。

そして、双方共通の「敵」とは、金融(=虚業)資本主義という、外部の第三者が、実業を支配することができるようになった(した)、株式取得を中心とした「構造」にこそあることに気づかないと、はなしにならない。

こんな話を、メーデーにしてほしいものである。

「主権回復の日」だってさ

4月28日は、わが国が「主権回復」をした「という日」だと、いわれている。

もちろん、「サンフランシスコ講和条約」が「発効した日」にあたるから、これだけをみれば、国際法上での「主権を回復した」ことになるけれど、「同日」、自動的に「日米安全保障条約」も「発効した日」になるので、なんだかよくわからない。

さいしょの安保条約第3条に基づくのが、「日米行政協定」で、その後の60年に締結した安保条約第6条に基づくのが、悪名高き不平等条約の証拠となる「日米地位協定」である。

戦争の終結については、1945年8月15日が、「終戦記念日」となっていて、日本人の一部はこの日をもって、「敗戦記念日」というひともいる。
しかし、15日は、天皇による「ポツダム宣言の受諾」と同時に「停戦命令」をしたのである。

よって、「終戦の日」とは国際法上は、「降伏文書」に「調印した」9月2日である。

なお上でいう「天皇」とは、「大元帥陛下」のことをいう。
すなわち、大日本帝国陸海軍の最高司令官としての命令発出である。

ちなみに、「帝国(ラテン語の「インペリウム」が由来)」とは、複数の地域や民族に対して君臨する国家と定義する。

「大日本帝国」は、台湾(原住民族)と朝鮮(朝鮮族)、それに、樺太・千島交換条約(1875年:明治8年)があったから、「樺太アイヌ」も統治下だったし、南洋諸島も領有していた。
ゆえに、「帝国」という国名は定義通りとなる。

いまからしたら信じがたいが、わが国は「多民族国家」であった。

いまだ台湾の帰属問題があるので、岩里政男(李登輝)氏がいったように、台湾が日本領に「回復」したら、また、パラオが独立したとき(1981年)の、最初の国会「日本帰属決議」がいまだ先方では有効なことも踏まえれば、わが国は再び「帝国」の定義にあてはまる。

明治憲法(「大日本帝国憲法」)は、天皇を国家元首と定めただけでなく、軍を統帥する立場を別途定めたので、どのお立場なのか?ということを意識しないと、正確性に欠くことになる。

現憲法(「日本国憲法」)における「天皇」は、国家元首であることさえも「議論の対象」になるほどに、曖昧な書き方をわざとしているのは、改憲時の国民感情を意識したことだったにちがいない。

このブログでは何度か書いたが、「無条件降伏」ということも、わざと間違えていうことが横行して、間違えの方が正しいことになってきている。
「無条件降伏」したのは、「帝国陸海軍」のことである。

これを、「あたかも」日本国(政府)が「無条件降伏」したという「与太話」が「事実」になってきた。
占領下においても、日本国政府があったのは、日本国政府が「無条件降伏」したのでは「ない」からである。

無論、日本国政府の「上に君臨」したのは、GHQ:連合国軍総司令部なる軍事組織であった。
ゆえに、日本国政府は、「天皇の地位」を人質にされたうえ、丸腰でGHQからの命令に従わざるをえなかったのである。

ただし、そのGHQの最高司令官たる、マッカーサーを配下にしていたのは、アメリカ合衆国大統領であって、アメリカ軍組織であった。
つまるところ、マッカーサー自身も「アメリカ軍組織の一員」なのである。

日本人には戦前の天皇をも超える、巨大な権能をマッカーサーが有したから、まるで「本物の神が降臨した」と見えたけど、アメリカ合衆国大統領からしたら、ただの「軍幹部のひとりの将軍」にすぎない。

ときの大統領は、トルーマンで、二発の原爆使用も、トルーマンの「許可」をもって実行されたから、トルーマンは日本人をジェノサイドした「a.級戦犯」にほかならない。

※「A級」という表記は、原文にはなく、日本式箇条書きの「い.」「ろ.」「は.」にあたるから、「順不同」の表記法である。よって、あたかも、「a.」が「c.」よりも「重い罪」とするのは、マスコミのプロパガンダである。

なお、ルーズベルトが死去したのが1945年4月12日だったから、3月10日の「東京大空襲」は、ルーズベルトによるジェノサイドである。
トルーマンは、同年1月20日に副大統領に就任しているので、どちらにせよ責任は免れない。

戦闘の勝者が裁く「東京裁判」という「茶番劇」は、現代日本人がもっとも意識すべき歴史的重大事だけれども、その根幹に、トルーマンが被告人になることがあり得ないことにある。

また、「占領時代」についての「研究」は、いまだに日本人には「タブー」となっているから、アメリカ側の「研究」に依存している。

この不思議。

さてそれで、「ウクライナ」から見えたのは、「核の傘」そのものが「幻想」だったことである。
すると、在日米軍は、どんな目的で日本にいるのか?が、日米地位協定を並べてかんがえれば見えてくる。

すなわち、「日本占領の継続」なのである。

明治時代は、徳川幕府が結んだ「不平等条約」を撤廃させるために、一世代かかったけれども、戦後の日米での不平等条約は、70年経っても「不動」の状態にある。

一部に、この日を「国民の祝日」にすべし、という運動があるけれど、ぜんぜん「祝えない」のが実態だ。
ただゴールデンウィークの休日が1日伸びる、ということだけが、強制的に休ませないと休めない国民には、うれしいだけになるだろう。

ただし、だからといって、賃金が増えるわけでもない。

それもこれも、主権を回復して「いない」ことに遠因がある。

むしろ、この「重大な日」を祝日に「しなかった」昭和のひとたちの「想い」をかみしめるべきなのだ。
だから、主権回復を「いつかしたい」日、という「悲願」にして、これを国民議論の日にすることに意義がある。

プーチンの「石油戦略」発動

軍産複合体(軍事産業)の決算は絶好調だったアメリカで、28日、第1四半期(1~3月)の成長率は、マイナス1.4%と発表された。

軍産複合体の「代理人」としての、民主党(旧トロツキー派)政権にとって、軍産複合体以外の経済は目にないことのあらわれが、あからさまになったのである。

しかし、日本の経済紙による「解説記事」によると、貿易赤字が主たる原因で、これにインフレリスクが高まっている、とある。
つまり、FRBによる「利上げリスク」だ、と。

なんだかよくわからない「解説」になっているのは、わが国経済のリスクと、アメリカ経済のリスクが、ごっちゃ混ぜになっているからではないのか?

文章に「主語」を書かないから、ともいえるので、この記事を書いたひとは、作文能力が低い。
頭脳で描いた論理を、文章展開できないのは、優秀さの印ではあるけれど、それをふつうは「舌足らず」とか、「手抜き」とかというのである。

あるいは、読者に理解させようとする気持がなくて、自分で納得してしまえばそれでいい。
すると、新聞が、「ブログ」のような記事を印刷している、ということになる。

日本の経済紙であろうが一般紙であろうが、「マスコミ」による報道の劣化が、近年著しいものになったのは、記者それぞれの能力もあるけれど、「社の方針」という意味での「編集方針」が、劣化を促進させているとしかかんがえられない。

つまり、「わざと」だ。

すると、まともな読者は購買意欲をなくすので、宅配契約を解除するだろうから、発行部数が減る。
発行部数が減ると、広告料をとれなくなるので、本来ならダブルパンチになって、新聞社の経営を圧迫する。

だから、「経営」を優先させる経営者なら、売れる記事を出さないといけないから、そのための「編集方針」にするはずだけど、これを「しない」のは、売れなくともよい、という発想があるからとしか思えない。

どんな場合でも、経済原則が働くので、賃金をはじめとした労働条件が悪化するだろう新聞社に入社を希望する学生が減ってくるので、時間の問題として、コントール不能の劣化がやってくること「確実」になる。

28日には、ロシアの「エネルギー資源戦略の発動」に対して、被害を受けるヨーロッパが「脅迫」だと猛反発したことを「大見出し」にして、アメリカ大統領府は、「ロシア、エネを兵器化」と批難したと書いた。

まったくもって、一貫して、ロシア側の主張を「書かない」という、「偏向」ぶりは、情報として「学級新聞」にも劣ることが、「商業」として行われているのである。

すると、1973年の、「中東産油国による石油戦略の発動」とは、いったいどういうことだったのか?が「わかる」、というものだ。
それは、国際石油資本が産油国を焚きつけて、「大幅値上げに成功した」という意味にほかならない。

もし、ほんとうに「中東産油国だけの暴挙」ならば、西側世界への「脅迫」だとか、「石油を兵器化するな」と書いただろうからである。

ロシア側の事情がぜんぜんわかならないので、どうして「この時期」なのか?も推測になってしまう。
明らかに、ウクライナ情勢における、欧州のウクライナ支援に対抗した制裁、とはいえるけど、ならばもっと早い時期でもよかった。

「春」になってから、やった、ということの意味をかんがえるべきだろう。
すると、ロシアはヨーロッパを凍えさせる「最悪は避けた」という、ありがたいことになるのである。

大統領選挙には敗れたとはいえ、40%もの得票をした、マリーヌ・ルペン氏は、「ロシアと仲直りすべき」と主張したことの意味も、なへんにあるとみてよい。

しかして一方のヨーロッパの雄、ドイツの深刻さは、旧東ドイツ出身のメルケル氏による、「再生可能エネルギー・ファシズム」による一方的なロシア依存がほぼ完成していたからでもあるけれど、政権交代したとはいえ、現政権は「緑の党」と連立しているのである。

よって、にっちもさっちもいかない。

しかも、プーチン氏の過去の言動では、「地球温暖化は(事実であれば)、寒いロシアにとって好都合だ」という通り、このひとの「ロシア・ファースト」は本物なのである。

すると、「再生可能エネルギー」による「利権」を狙うヨーロッパ(EU)の邪悪に対する、ロシアの対抗とは、なんとわが国の産業界にも「都合がいい」ことになる。

その典型が、もはやわが国唯一の「稼ぎ」となった、「(内燃機関の)自動車産業」を、実質的に守ることになるからである。
「EV:電気自動車」とは、逆立ちしてもトヨタ(の省エネエンジン)に勝てないヨーロッパの自動車産業が仕掛けた「ルール変更」にすぎない。

それが、ドイツ車を中心として発覚した、「燃費の検査不正事件」だった。
日本人がしっている、ドイツの高級自動車から、国民車まで、ほぼ全部がこれをやったのは、トヨタ車のデータに歯が立たないからだった。

そんなわけで、ロシアの「石油戦略発動」とは、じつは、SDGsにも対抗している。

「SDGsバッジ」をスーツに付けているひとは、これが意味する「もの」と「こと」が、自然科学に合致しない「政治利用」だと気づいている「節」がない。

わたしはバカです、といっている「たわけ者」にしか、わたしには見えないのである。

「不滅」という概念

漢字表記のそのままに、滅びない、という意味である。

「滅びる」とは、絶えてなくなる、という意味だから、「不滅」には、永遠に継続する、というポジティブな意味も含まれる。
企業活動でいう、いわゆる、「ゴーイング・コンサーン:継続性の原則」も、一種の「不滅」を前提としている。

わたしの好きな映画、『不滅の恋 ベートーヴェン』(1994年)では、恋が不滅なのか、ベートーヴェンの生き様とそこから生まれた音楽が不滅なのかが掛けあわさって、「音楽」に至っては、サー・ゲオルグ・ショルティがロンドン交響楽団とサウンドトラック全曲をこの映画のために録音した豪華さもある。

音楽は作曲家の思想を表現したものだ、という説明をベートーヴェンに言わせるセリフは、そこにすでに「不滅」のタネが仕込まれている。
されど、並み以下もふくめた作曲家の楽曲全部が「不滅」になるわけでもない。

あの大バッハでさえも、歴史に埋もれて、メンデルスゾーンによる復活演奏がなかったら、いまごろどうなっているものか?
この復活演奏会の聴衆たちは、バッハの音楽をすっかり忘れたひとたちだったから、メンデルスゾーンの技倆を信じて参集した「だけ」だったとかんがえるのが妥当なのだ。

そして、その見事な演奏をして、聴衆たちはバッハの「あたらしさ」に感涙したのである。
すると、バッハの音楽さえも、いったん途切れた、という事実に、われわれはもっと注目しないといけない。

インド発祥の仏教だって、その近くのイラン発祥で人類最古のゾロアスター教の影響を受けている。
それが日本に、「大乗仏教」として伝わったけど、最初に灯したのが、「不滅の法灯」で、その灯りの「火」をもって拝んだのである。

信長の比叡山焼き討ちによって、この不滅の法灯が絶えたかどうかは知らないけれど、オリンピックの聖火のように、なにか別のものに移して保持したことも十分にかんがえられる。

前回の東京オリンピックの聖火も、いまだに灯されていて、そのための燃料を絶やさないように管理しているひとがいらっしゃる。
つまり、いったんつけた火を絶やさないことでの「不滅」とは、まことに「人為的」な行為なのである。

すると、人類=人間とは何者か?ということを「定義」しようとすると、「火を扱える動物」となる。
これが、「物理的な火」だけでなく、心のなかにも「灯す」ものがあるのが「人間」となって、他の動物を圧倒するのである。

そして、「心のなかに灯すもの」のことを、「精神」といって、「さまざまな思想を統括する」から、もはや他の動物の能力を完全に凌駕する。
この「精神」が、他の人間にも共鳴して、それが社会的な精神になると、また宗教に回帰して、それを「たましい:魂」と呼ぶのである。

すると、「魂」は世代を超える。
世代を超えるとは、時間を超えることになって、「不滅」となる可能性がでてくる。

モーツァルトやベートーヴェン本人が、いかほどに自分の作曲した音楽が、人類に共感されて、それが、「不滅」になると思って意識していたのか?
おそらくは、そんな意識はうすくて、自分のなかでの一番を「更新する」ことしかかんがえていなかったのではないか?

当時の「宮廷」における、作曲家の立場は、料理人=シェフの配下にあった。

それは、音楽とは、貴族たちの食事の「BGM」だったからである。
室内楽こそがそれで、それから大編成を要する楽曲に移行したけど、「作曲家=芸術家」という職業が社会的認知をされていたわけではなかった。

むしろ、「パトロン」という、スポンサーがいる時代の作曲家こそが芸術家になれたので、パトロンが絶滅した現代では、成功している作曲家も絶滅危惧種になっている。

すると、不滅とは「結果」であって、「原因」ではない。

しかし、人間は、自分の目の前にあるものを「不滅」だと認識する、「癖」があるから、それがおそろしく「流動的」で「うつろうもの」だと気づいたときに「愕然」とするのである。

そもそも社会そのものが、固定的だったむかしとちがって、流動的になってきたので、その「愕然」なるショックに「慣れる」ことが、ニヒリズム(虚無主義)を呼んだ。

すべては「虚無」である、とすれば、なにがあっても動じない。
けれども、それが自己の存在も否定するようになると、「漠然とした不安」になって、とうとう自殺するひとがでてくる。

いま、わが国が「先進国」といえるかどうかは疑問だらけになったけど、一応「OECDの加盟国」としてかんがえれば、「若者の死因」でわが国だけ、「自殺」がトップになっている。

この不幸の原因は、ニヒリズムの蔓延だとおもわれる。

すると、それはもう、「システム」の問題なのである。

 

上記2冊は、「日本」が先進国だったときの話だけれど、このシステムが世界に蔓延したのが、いま、である。
ならば、これは、「不滅か?」を問えば、そんな結果は用意されてはいない。

おおくの人間を不幸にして、一部が幸福になるシステムを、不滅にしたいとするひとたちがいる「だけ」なのである。
よって、「多勢に無勢」の多勢にこそ、チャンスがやってきている。

ローマ教皇の「祈り」

今月4日、バチカンでローマ教皇がウクライナ国旗を掲げて、祈りをささげた。
ブチャ事件を受けてのことである、と解説された。

由々しきことが起きたのだけど、日本メディアのウクライナ応援態勢を支える報道になったのは、まちがいない。
もちろん、わが国にはわずかなカソリックしかいないから、別段、ローマ教皇の話が「直接」日本人の心の琴線に触れることはない。

けれども、「権威」とも「世界的有名人」だらかともいえる、「教皇」のニュースは、信者としてではなくて、「えらいひとが言った」というだけで影響力を発揮するのである。

もちろん、このローマ教皇の祈りは、誰に対してのものなのか?をいえば、第一義的にはウクライナの犠牲者のため、になるのは当然だ。
ならば、きっとカソリック信者の犠牲者を指すのだろう。

しかし、ブチャのあたりは、ユダヤ人が多いのである。

ユダヤ人の定義は、「ユダヤ教を信仰するひと」なので、人種は問わない。
なぜにユダヤ人が多いのか?は、ウクライナの歴史をたどれば明確で、概ね支配地の宗教には「寛容」だった、モンゴル帝国が、唯一厳しかったのがキリスト教だった。

そこで、「国ごとユダヤ教に改宗した」ことの名残なのである。
このときの国とは、「ハザール王国」のことだ。

ここで、いわゆる「バビロン捕囚」で世界に広まった、『旧約聖書』の「民」であるユダヤ人とは、別系統のユダヤ人(教徒)ができた。
もちろん、このころの「キリスト教」も、ローマ帝国といっしょに東西に分裂していた。

西ローマ帝国の滅亡は、国教だった「ローマ教会」にとっては、最大の危機だったけど、国家の庇護を失った不幸が幸いして、独立した「教会組織」の構築に成功した。
それが、教皇をトップに置く、「ヒエラルヒー構造」だ。

「小さな政府」をモットーとする「自由主義」による統治機構の、発想の原点になっているのが、この「ローマ教会の生き残り戦略」なのである。
すなわち、その条件である、国家の庇護をなくす、ことの意義である。

この「論」には、ちゃんと「反面教師」があって、それが、東ローマ帝国とその強力な庇護下にあった「東方教会=正教」だ。
もちろん、東ローマ帝国は、分裂後さっさと崩壊・滅亡した西ローマ帝国よりも、ずっと長生きした。

独立独歩を余儀なくされたローマ教会に対して、この贅沢な国家による庇護の結果は、教会ごとに独立する、という「カタチ」にあらわれた。
すなわち、「激しく分派」して、本家本流がわからなくなったけど、国からの支援で、どこもかしこも生き残ったのであった。

それの典型を、面倒だから大雑把に、「ギリシャ正教」と「ロシア正教」といったり、「東方教会」とまとめてバッサリと呼んでいる。

ローマ帝国が東西に分裂したのは、教会の分裂でもあったので、いまだにローマカソリックと東方教会の仲は「よくない」状態で、ローマ教皇はほとんど東方教会を無視しているし、イスラムによる「ビザンチン陥落」で、ローマ教会に救援を支援しても、一切の支援がなかったこともあってか、東方教会は東方教会で、ローマ教会を逆恨みしているのである。

そんな事情からしたら、ローマ教皇が、ユダヤ教徒がたくさんいるはずのひとたちに向かって、さらに御自ら国旗を掲げて祈りをささげたことは、強烈な「政治的」メッセージに見えるのである。

教皇にこんなことをやらせたのは、誰がどんな「喜捨」をしたのか?とかんがえたくなる。

きれい事でできている「宗教団体」も、霞を食って生きているのではないから、「ご寄進」はありがたく頂戴するものである。
その額がおおいほど、「功徳もおおい」ということで、「利用」をかんがえるひとがいるのも、古今東西の歴史なのだ。

だから、宗教の価値が下がった現代でも、それを利用しようするひとがいたって、ぜんぜんおかしくない。

もちろん、戦争には、当事者双方で犠牲者がでるから、宗教としての普遍性をいうなら、「双方の犠牲者に祈りをささげる」のならわかる。
しかし、これを「しない」のは、どういう了見からか?と疑うのである。

つまり、そんな祈りの後に、「戦をやめなさい」と説教するのが、教皇としての「本筋」だといいたいのである。

紙の護摩札を「印刷」して、これを信者に強制的に売りつけて、自分たちは貴族以上の贅沢な暮らしをしていたことが、ルターの宗教改革になったのだった。

これから、ローマカソリックの凋落がはじまったのに、ローマ教皇がやったことは、その反省が微塵もない。

プーチン氏は、敬虔なるロシア正教徒を自称している。
つぎの闘いのステージは、1000年を超える西方教会と東方教会の、正統性を争うことになるかもしれない。

これを、ユダヤ人とイスラム教徒が「傍聴」することになるのだろう。

わが国は、ぜんぜんちがう立場で、不毛な争いはやめないさい、というべきだけど、そんな「宗教家」もいなくなってしまったのである。

ファンタジー作家の司馬遼太郎

「司馬史観」という言葉ができたほどの、「歴史通」が、司馬遼太郎という作家であった。
その「人気」から、「国民作家」とも呼ばれて、1993年の文化勲章受章者となって、96年に没した。

一部に、「わたしは司馬遼太郎のよい読者ではない」という、自己紹介のフレーズがある。
少なくとも、全面的に信用しないで「読む」ことを主張していて、もしや「否定」もしているといいたいのだ。

この意味で、わたしも「司馬遼太郎のいい読者ではない」といえる。

いわゆる、司馬遼太郎ファンのひとたちがいう、「司馬史観」なるものの「あやしさ」は、「史観」なる「マルクス史観」用語をスライドさせた用法であるから、ツンとした危険な匂いがするのである。

こまったことに、「司馬史観」を受け入れてしまうということは、彼の小説(物語)世界があたかも、「事実」であったと思いこんでしまう。
人間というモノは、いったん思いこむと、じつに厄介な頑固さにまで変容して、これをそぎ落とすのは困難になる動物だ。

もちろん、他の動物にはこんなことができないのは、「本能以外の知性」の発達が、脳の構造上の無理だからだ。

想像上の「物語作家」という意味での「小説」を思えば、池波正太郎という恐るべきストーリーテラーがいる。
彼の机の横には、「江戸古地図」がかならずあって、これを観ながら脳内に構成できた立体映像を、そのまま書いた、と書いている。

彼は、古地図の中に、想像だけで暮らしていた。
その想像の暮らしから、物語を書いていたのである。

すると、必然的に物語は、「ミクロ」な世界になっている。
その場、そのときの人間模様の物語になるからで、背景にある「時代の事情」は変化しないのである。

だから読者は、特別に、「池波史観」とはいわないで、「池波正太郎の世界」というのである。
それゆえに、「エンタメ」として読んでいて、「史実」だと読者を思いこませるような仕掛けはない。

これが、池波正太郎の誠実さなのだ。
そして、時代背景を借りながら、人間模様の機微を描くから、人気が絶えないのである。

ところが、司馬遼太郎にはこれがないばかりか、「史観」といわれる「解釈」の押しつけがある。
このことが、読者をして二分させるのだろう。

だから、司馬遼太郎の小説世界が「史実」だと信じる読者と、あくまでも「眉唾」あるいは「作りばなし」だと思って読むひととに分けることができるのだ。

テレビの「歴史物」でいえば、司馬遼太郎はNHKの常連だった。
そこでさまざまな「解釈」を語っていた。
しかし、これは、改めてかんがえるまでもなく、NHKという「作り手」が、司馬遼太郎に「語らせた」という番組構成なのである。

どんな「台本」があったかしらないが、あるいは、この「台本」も司馬遼太郎が書いていたかもしれないけれど、最高学府を出たディレクターが、司馬を「多用」したのは、「制作意図」に合致していたからに相違ない。

『笑っていいとも!』に出演した、橋田壽賀子が、この番組ディレクターが「一橋大学」の出身者であることをしって、思わず生放送中に、「あなた一橋を出ていて、こんなことしていたらダメでしょ」と言ってしまった記憶がある。

「こんなこと」、とは、エンタメ番組の制作のことだろう。
しかし、その、橋田壽賀子が書いた「脚本」だって、「エンタメ」だから、なかなかに「自己矛盾」した発言であった。

もちろん、橋田だって、日本女子大学文学部国文学科卒業で、その後、早稲田大学第二文学部国文科に入学し、芸術科に転科して演劇専修に移り、中退した「エリート」なのである。

しかし、彼女には、一橋大学が別物に思えたのは、「商学」か「経済」の専門家に対するエンタメ側からの「敬意」があったからだろう。
それで、「もっと社会の役に立て」と言いたかったのだと。

話は変わって、GHQが定めた、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム:WGIP:戦犯裁判広報計画」というものがある。
原文は、国立公文書館にあるというけど、アメリカ側にもある。

ウィキペディアが「都市伝説」とした記述を変えないのは、「これぞネットの玉石混交」なのであるし、WGIPが現在も「有効」なゆえんかもしれない。

さてそれで、敗戦までNHKは、いまでいう「一般財団法人」であった。
つまり、一般企業とあまりかわらない存在だったけれども、GHQによって、「公共放送」になったのである。

もちろん。NHK「だけ」でなく、その他のテレビ局も、ぜんぶ「WGIP」に基づく「認可事業」だ。
この「認可権」を、いまは「総務省」が引き継いでいる。

そんなわけで、露骨な「反日放送」をやっているのは、「当時」の世代が物故したことをいいことに、宣伝のギアをさらにアップしたからだ。
これに、司馬遼太郎が加担していた。
もちろん、橋田壽賀子もである。

彼らが「オブラート」に包んでいた「本音の反日」の、オブラートが溶けてむき出しになったのが、いま、なのだ。

そうすると、一橋を出たという『笑っていいとも!』のディレクター氏は、「良心的」だといえるのである。
そもそも、職業選択の自由があるから、橋田の一言は、「お里がしれる」ものだった。

その上の「高度」が、司馬遼太郎なのである。

幕末より悲惨かも

江戸幕府がどうして「倒れた」のか?
あるいは、どうして薩長による明治維新が成功したのか?

第一に、「経済戦争」に「自覚なく」負けたのだった。
当時の日本人がしらなかった、世界一の金・銀保有国だったのに、幕府の「軍需」によって大量流失した。
それで、国内は「大インフレ」になったのである。

それが、「お陰参り」と「ええじゃないか」という、モラル崩壊にあらわれて、自暴自棄になったのである。

なんと、相手はこの時点ですでに、国際金融資本だったのである。
いまでいう「長州ファイブ:井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人」が、大英帝国はロンドンに留学したのは、国際金融資本の「手先」としての「訓練」が目的だった。

われわれは、学校で、幕末のゴタゴタを習うことは習うけど、なんだかよくわからないうちに、「大政奉還」となって、明治新政府ができる。
それでも、いろんな反乱と政変があって、とうとう西郷隆盛が討ち死にするけど、実弟の西郷従道は偉くなる。

むかしからあった「連座制」が通じない不思議が、明治政府の「あたらしさ」をいうのか?という細かい疑問は、庶民の暮らしに目線をやれば、その「貧乏さ」に唖然とするほどの貧乏なのである。

このどうしようもない「ギャップ」をどうみるのか?

そのたまったエネルギーが、米騒動の「打ち壊し」になったりする。
あくどい商家が襲われるという、物騒なことが全国で起きる「ふつう」も、現代日本では「異次元の世界」になっている。

すると、現代日本の方が「異常」なのかも?ということになってしまうが、「世界標準」が大好きなひとたちは、この異常を「日本的美徳」という。
いまの世界も、暴動が「ふつう」なのだ。

つまり、「日本的美徳」という「むかしから」は、こと暴動についていえば、まちがいなく「戦後」の価値観なのである。
少なくとも、100年前の「大正」までは、江戸期からの「打ち壊し」は「ふつう」だったからである。

江戸期なら、幕府(お上)は、「喧嘩両成敗」をもって裁いた。
打ち壊しの実行犯も、打ち壊された商家も、両方が罰せられたのである。
これができたのは、お上が「経済的無力」だったからである。
つまり、「他人事=第三者」でいられたのだ。

それが、近代ヨーロッパの「所有権の絶対」が輸入されて、明治政府(お上)に、「経済的優位」ができて、納税する余力がある商家のあくどさを免罪するように変化した。
江戸期になかった、「全国規模」の打ち壊しになった理由である。

裁判官も、庶民の暮らしとは別世界の暮らしになったのである。

しかして、打ち壊しの決定的理由は、どうにもこうにもならない「貧乏さ=貧困」だったから、殖産興業が重要政策になったのではあった。
また、ロシア革命が、理論的に「打ち壊し」を支えたので、そんな政府にとって「アカ」が「悪」にもなった。

大学は、別の意味での「権威主義」があったので、教授も学生もロシア革命の「大義名分」に引き込まれた。
それが、「軍」にも伝染して、とうとう、海軍の「5.15」、陸軍の「2.26」になって「破たん」の双子山ピークができたのである。

発展途上国なら、余剰人員(失業者)を吸い込む「働き先」(口減らし先)として、「軍」がある。
軍には指揮をする役割の「将」、命令を実行する役割の「兵」がいて、農業国なら農民の長男を除く男子が兵となる。

就学できないほどの貧乏ならば、陸軍の「兵隊」になって、「肉弾戦」をするための「消耗品」とされた。
読み書き算盤ができたら、海軍の「水兵」になった。
こちらは、艦ごと運命共同体なので、「資産」扱いされたのである。

ゆえに、陸・海軍とは、性格がことなる組織になる。

よって、陸軍の「兵隊」募集での最大特記事項とは、「白米が腹いっぱい食える」ことだった。
海軍の、「世界を股にかける技能集団」とはちがうのである。

けれども、発展途上国・日本の軍隊における「兵力消耗」の最大の敵が、「脚気」になった。
ビタミンが発見される「前」でのことである。

「弱肉強食」の世界で、生き残るための闘いは、本当の戦争だったから、人間の命が軽んじられたのではなくて、ほんとうに「命がけ」だったのである。

それが、「戦後」、もっけの幸いだったのは、強大なアメリカの保護国(属国)として、本当の戦争を回避できたことであった。
それは、戦争が「技術的に」も、「核の傘」という論理で、わが国に「降ってこなかった」からでもあった。

しかし、この「技術」が、おどろくほどに「進歩して」、それに、バイデン政権の「わざと」で、とうとう「核抑止」という論理が、「核保有国」だけのローカル・ルールになってしまった。

だから、即座にわが国も核武装せよといいたいのではない。

わが国は、核武装することで目的が機能する、指揮命令系統ばかりか、「国防」のコンセンサスさえとれない状況にある。
この空恐ろしい「現実」の状況が、「霧が晴れる」ように、ウクライナの問題から見えてきた。

資源高騰時の円安とは、経済戦争の敗北を意味する。
これを、日銀がやっていて、それを政権与党がやらせている。

明治維新と敗戦に加えて、三度目の「売国」が、はじまっている。

激しい選挙の攻防戦

フランスの大統領選挙は、24日が決選投票だ。
定義が不明の「中道」からは、マクロン氏。
同様に定義が不明の「極右」からは、ルペン氏が立っている。

マクロン氏の5年間をみれば、フランスで「中道」とは、「左翼全体主義」を指すことがわかる。
すると、この「計算尺」なら、「ルペン氏」がずっと左にずれて「中道」という目盛りにあてはまってくるのだ。

こんな「計算尺」を、日・米にあてはめると、民主党員でもない「極左」のバーニー・サンダース上院議員が、民主党大統領予備選挙で事実上の勝利者だったことを思い出せば、わが国の自民党は、サンダース氏よりも「左」の目盛りになってしまう。

彼が最終局面で「辞退」したのは、予備選挙で鳴かず飛ばずだった、バイデン氏を推すための、党本部からの「邸宅寄贈」が理由だった。
日本ではかんがえられないこんな「公然たる買収」を、なにしろ、「本人」が支持者に説明してはばからないのがアメリカの「正直」なのである。

ヨーロッパが、「危機」なのは、ウクライナではなくて、「EUの結束」があやしくなったことをいう。
「EUの結束」が弛むとは、NATOの緩みでもあるのだ。

その「決定打」になるかもしれないので、フランス大統領選挙が注目されている。

もちろん、「NATO脱退を公約する」ルペン氏の勝敗のことだけど、その前に、ヨーロッパを支えるドイツが「転けている」から、フランスがEUをひとりで担ぐことになって、いまやEUの重心はフランスだけにある状況ができた。

なお、「前回」ルペン氏は「EU脱退を公約」にしていたけれど、今回は「マイルド」になっていて、実父の前党首がこれに異議を唱えたら、なんとこのお嬢様は、党創設者の実父を「除名処分」してしまったのである。
ちょっと「家具屋姫」の話に似ている。

ドイツが自爆したのは、「ナチスは悪」を貫いたら、どんどん引き寄せられて、「環境全体主義」に堕ちてしまったからだった。
いまのドイツ人は、ゲーテの『ファウスト』を読んでいないのか?を、ドイツ人に聞いてみたい。

結局のところ、「嫌い嫌いは好きのうち」だった、ということだ。
だからかしらないが、ウクライナの「ナチス」を、いまや正々堂々とドイツが支援している。

いまのヨーロッパのややこしさは、第一次世界大戦後のポーランドが、西ウクライナを攻めて自国領にした経緯があると書いた。
フランス語でいう、「アルザス=ロレーヌ」、ドイツ語でいう、「エルザス=ロートリンゲン」のごとく、「国境線は動く」のがふつうなのだ。

第二次世界大戦になって、ポーランドがドイツになると、西ウクライナ地方もドイツになった。
ドイツはここから、ソ連を攻めてモスクワ攻防戦になったのである。

その間に、西から「本国」が攻められて、「ナチス本部」は、ベルリンから西ウクライナに「移転した」のだ。
よって、こうした事情を、ドイツ人が知らないはずはなく、ひいてはヨーロッパ人が知らないはずはない。

これを知っているハンガリーは、ウクライナ政府に一切の同情をみせないし、ルペン氏も同様なのである。
これを、マスコミは「親ロシア」だと、「宣伝」している。

その「宣伝」を仕掛けているのが、バイデン政権だ。
案の定、アメリカの軍事産業は、空前の利益を「四半期決算」で公開していて、見事な「株高」にもなっている。

けれども、プーチン政権を倒すべし、というアメリカ人よりも、バイデン政権を倒すべしというアメリカ人が「多い」という、衝撃的な「世論調査」も発表されて、さらに、「でっち上げ」がほぼ確定した、トランプ氏にかけられた「ロシア疑惑」の裁判で、窮地に追い込まれているのがヒラリー氏になってきた。

「戦時の大統領は選挙に強い」というのが、なんだか「伝説」になりそうなのは、ウクライナが長期化すると、バイデン氏の支持率も「元の木阿弥」になってきたからである。

11月の中間選挙まであと半年あまり。
それで、今月と来月は、「予備選挙」による各党の「候補者選び」が佳境になってきた。

とくに、野党・共和党の予備選挙における攻防は、かつてない激しさになっている。
党内での、トランプ支持派(保守派:キリスト教長老派)と、「RINO(Republican in name only):名ばかりの共和党員:軍産複合体の代理人」との対立が、「歴史的」なレベルにまでなっているからである。

それが、「選挙資金集め」の攻防になっているのが、アメリカらしい。
テレビのコマーシャル枠を買わないと勝てない、という「テレビ依存」がまだあるのだ。

不幸にも、わが国では自民党をはじめとして「全党」が、「党内予備選挙」という「制度」をもたない、「非・近代政党」ばかりなので、どういった経緯で立候補するのか?を、党員すら知らないひとが「候補者」になる。
これは、「現職」もおなじなのだ。

そんなわけで、夏の参議院選挙の運動が、ぼちぼちはじまっている。
この選挙のあと、わが国は「黄金の3年」という、国政選挙の予定がない状態となって、政権与党には「なんでもできる」状態がうまれる。

「参議院」だから、「関係ない」とはいかないのである。
しかして、フランスとアメリカの選挙の影響を受けないわけにはいかないから、やっぱり「外圧」がないといけないのか?

じつは、今回の参議院選挙が、わが国の運命を決定づけるといって過言ではない、未来の国民生活にとって重大な「選択」となるのだけれども、これを理解できる国民が少数派かもしれない。

自浄ができないのは、残念ながら国民に原因がある。
それが、「民主主義」というものだ。

変な「円安」130円

歴史的なインフレが襲っているアメリカなのに、デフレが続く日本の「円」が一方的に「安く」なっている。

インフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が低くなることだから、「物価高」で、デフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が高くなることをいうから、「物価安」になる。

だから、二国間でいえば、インフレの国の通貨は、デフレの国の通貨よりも価値が下がって、デフレの国の通貨の価値があがるのが、「ふつう」なのである。

すると、いまの「円安」は、「変なこと」になる。

この「変なこと」を、「理論的」に説明するのは、「通貨量」だけになっている。
つまり、アメリカで発行された通貨量と、日本で発行された通貨量との「比」が、為替レートを決定している、というものだ。

これを、「マネタリーベース」という。

インフレになったアメリカのドルよりも、たくさんの円が発行されている。
日本円の発行体である、日本銀行の意志で決まる、ともいえる。
しかし、それなら日本はアメリカ以上にインフレにならないといけない。
どうしてデフレなのか?

市中にあるはずの円が「ない」からである。

日銀はたくさん刷ったお札で、国内の金融機関に国債を買わせた。
融資先がない金融機関は、預金者から集めた預金につける利子が払えなくなるので、利子がつく国債をよろこんで購入したのである。
こうして、市中のおカネを吸い上げた。

しかしそれから、「異次元」の金融緩和という、「魔法」をつかって、その国債を日銀が「買い上げる」ということをした。
銀行の銀行に当たる日銀が「買い上げる」とは、各金融機関の日銀「当座預金」残高が、「増える」だけのことだ。

当座預金には、利子がつかないので、金融機関の経営はより苦しくなった。
それで、どちらさまも大規模「リストラ」をしないといけなくなった。
行員の人員整理のために、「支店」の整理をしただけでなく、あらゆる「手数料」を値上げして、利用客の利便性を悪化させて不便にさせることをした。

それでも立ちゆかないことをいいことに、外国の資本を導入して、という「言い方」で、わが国の銀行は、事実上の「外資」に買われている。

いまさらだけど、これと似た「手口」が、「郵便局」で実施された。
資金が豊富だった、「郵便貯金」と、「簡易保険」が、それぞれ分離して、永久赤字の「郵便」を別物にしてから、外国資本が購入したのだった。

このときにつかわれた用語は、「提携」だ。
それで、体よく郵便局にあった日本人の金融資産が外国へ移転したのだった。
当時の郵便貯金と簡易保険は、「世界最大」だったのである。

それで、永久赤字の郵便は、日本人のものの「まま」になっている。

つまるところ、日銀は、わが国の「バーゲンセール」をやっているのである。

この「由々しき問題」について、日銀総裁に質問するものがいない。
もちろん、もっと「上」にいるのは、自民党・公明党という「政権与党」であるから、あえていえば「真犯人」は、これらの政党になる。

とくに自民党は、ほとんど言い訳ができない「確信犯」だ。
戦後一貫して、ゆるぎのない「支配」をしてきたからである。
短命だった「細川護煕政権」とか、「民主党政権」に、この「テッパン」を崩す能力も気力もなかったからである。

さてそれで、「マネタリーベース」の話にもどる。
円とドルの為替レートを、マネタリーベースのグラフとつき合わせると、85年以前は、ぜんぜん一致しないで、86年までの一年で急速に「収束」するのである。

これが意味するのは、85年の、「プラザ合意」の威力以外かんがえられない。
すなわち、日本円とドルは、360円の固定制をやめて(71年)も、それぞれが「独自性」を持っていたのである。

「$1=360円の終わり」を決めたのが、71年の「スミソニアン協定」(ニューヨークのスミソニアン博物館で開催された会議)であった。

つまり、わが国の「経済的独立」の、最後の時代が、71年~85年だったのである。
だから、この後の「バブル」すら、「あだ花」なのは、戦後自由経済が終わったことで「咲いた」からであったと解釈すべきなのである。

戦後経済の延長上でバブルになったのではない、ということだ。

それは、「日本買い」開始の派手な「のろし」だった、と解釈すれば、その後の不良債権処理というスピード感ある「叩き売り」の説明がつくし、失われた平成の30年間の説明も可能だ。

「ハゲタカ」が猛烈なスピードで企業を買い漁ったのは、ちゃんとひそかに「準備」して、「狙い」を定めていたからである。
それは、「崩壊時」からではなく、「崩壊前」からの準備なのは当然だ。
そのための「日本法人」をいつ開設したのか?

肥らせて、弱らせて、安く買って高く売る。
ハゲタカとは、究極の「転売ヤー」なのである。

すると、この不可思議な円安とは、「バーゲンセール」だけの意味ではなくて、日本「閉店売りつくしセール」の意味合いが出てくる。
それが、外資による「日本企業買収」であり、「不動産買収」なのだ。

「生産要素」とは、「資本」「労働」「土地」だから、企業買収と不動産買収の意味は、わが国の「生産要素」の買収なのである。
「企業」には、銀行も含まれ、「資本」と「労働」がそこにある。

おそるべき、日本人総奴隷化のはじまりに見える。

残念ながら、全員「逃げ場」はない。