アメリカで「赤狩り2.0」がはじまる?

アメリカ民主党の崩壊がはじまった。

各地で猛威をふるった「BLM( Black Lives Matter)」から急転直下、あたらしい「BLM(Biden’s Laptop Matter)」になった。

バイデン氏一家の悪行曝露と思いきや、とんでもない展開になってきたのは、民主党の幹部がことごとく「関与」していたことがわかったからである。
「身から出た錆」では済まされない、大失態。
それも歴史的な崩壊のはじまりだ。

これを暴いているのが、まるで、『バットマン』の「ゴッサム・シティ化」していたニューヨーク市を清浄化させた、ジュリアーニ元市長である。
弁護士でもある彼は、勇気ある「腐敗の洗濯」の経験者であり、第一人者なのである。口先だけのひとではない。
なめてはいけない理由がここにある。

彼は、ネタを小出しにすることでひとびとの目を離さない戦略をとっている。
ただし、有言実行を決して曲げない。
だから、毎日、なにが飛び出すかわからない。

元市長の身の安全が心配されるのは当然だけれど、「バイデン一家」こそ危険なのではないか?それは、PCのなかのデータにあった。
どうやら次男本人が、パソコンショップに持ち込んだことが本当なのは、捜査当局の公式見解があるものの、なにより本人が「返還請求」したことで証明された。
なんだかものすごく「間抜け」なのだ。

しかし、数万通の電子メールの解析から、恐るべきは前大統領、ヒラリー元国務長官、現職州知事、現職市長といったひとたちが、あらゆる悪事に荷担していることがバレだしたことだ。もちろん、ハリス副大統領候補の名前もある。

このバカ息子に、オバマ氏の子女やペロシ下院議長、それにケリー元国務長官の子までが絡んでいることも判明した。
子から親への金の流れは、なにもバイデン一家だけではなさそうだ。

もはや、民主党の崩壊である。

その大元の、バイデン氏一家こそ、もっとも危険ではないのか?
FBIは、バイデン一家の身の安全をはかる措置をしているのかと、海の彼方から心配したくなる。
そのためには、選挙なんかしている場合ではないだろう。

一方、わが国にとってのアメリカ民主党は、疫病神的存在である。
戦前から戦後の占領期を通じ一貫して、わが国にかかわったのはルーズベルトの民主党政権だった。

アメリカ合衆国大統領には、過去ふたりのルーズベルトがいた。
ひとりは、第26代セオドア・ルーズベルトで、このひとは共和党。
テディベアのモデルでもある。
そして、もうひとりが第32代フランクリン・ルーズヴェルト。じつは、セオドアとは血縁になる。

血はつながっていても、思想は別で、大恐慌後の経済無策と評された共和党フーバーの後を襲って就任し、「ニューディール政策」では、「国営企業」による投資を活発化させた。日本ではこの政策をやたら「褒め」て、あたかも大恐慌からの脱却に成功したかのような錯覚を植え込んでいる。

ヒトラーが採用してドイツを再生させたケインズの政策で、政府が有効需要をつくりだすという一種の社会主義政策を推進した。
アメリカの経済統計をみれば、1941年の12月から、V字回復しているのは、アメリカも戦時体制に入ったからである。

つまり、ニューディール政策で究極は、「戦争の有効需要」を創出することであった。

彼は、初代ワシントンが3期目を辞退した「故事」にちなんで、3選しないはずの大統領職に、生きていれば「5期20年」もやることになった、変な記録さえもっている。

ルーズベルトは、戦争末期に死去するけれど、その後の残存任期をトルーマンが引き継ぎ、2発もの原爆を使用した。
広島型はウラン、長崎型はプルトニウムなので種類が違う。
これに、3月10日の「東京大空襲」やら各地の空襲をくわえると、いかほどの市民を焼き殺したのか?

ナチスのホロコーストは糾弾されたけど、アメリカ民主党政権がやった日本人の虐殺はいまだに放置されているのは人種差別か?
その民主党のオバマが、現職ではじめて広島に来たのを大喜びしているナイーブなひとたちが大勢いるけど、このとき彼は、核兵器の大増産を指示していた。

いまの共和党政権や共和党多数の上院がいう、党と国民は別、という論理でいえば、民主党とアメリカ人は別ということになる。
ただし、アメリカ人が選挙で選んでいるから、民主主義の恐ろしさを日本人はもっと警戒していい。

ルーズベルト政権の「邪悪さ」が、いま様々に明らかになってきているなかで、こんどは、「バイデン氏一家」の邪悪さが、党全体へと拡張しはじめた。それは、オバマ政権の邪悪さの糾弾でもある。
いま起きていることは、過去の政治スキャンダルとは比較にならない、おそるべき「腐敗」の曝露である。
しかも、金銭授受だけでなく、諜報員や特殊部隊の全滅など、最高機密情報漏れによるアメリカ国民の生命が失われていることも疑われる。

すると、このひとたちには、「国家反逆罪」が適用されることになる。
これは、連邦法で、最高刑は死刑だ。

もしや、前大統領や副大統領、その政権幹部たちが連座するという事態になれば、民主党の崩壊だけではすまされず、保守派による「赤狩り」がはじまる可能性だってある。
こうなると、アメリカは内乱状態になるかもしれない。
つまり、「南北戦争2.0」ならぬ、「共和党革命」になることも想定できる。

大義を失った民主党支持者は、覚悟できているのだろうか?
トランプ氏は、内乱を回避し、国民融和がはかれるのか?
であれば、彼は、現代のリンカーンになる可能性だってある。

勢いあまって太平洋を越えれば、「赤い自民党」だって平穏ではいられない。
トランプ氏から信頼を得ている日本人は、安倍氏だけだから、まさかの第三次安倍内閣、あるいは血縁からの岸内閣もあり得る。
けれども、そのときは自民党も縮小するかもしれない。

日本版「赤狩り」がはじまるからだ。
石破氏の突如の派閥代表辞任とは、まさかこれか?
「理由」がわからない「理由」かもしれない。
だとすれば、もうはじまっている。

騒然とした時代がやってくる。
アメリカで起きるのだ。
他国の騒乱ではすまされない。

滅亡の所信表明演説なのに

菅新政権の所信表明演説の「肝」は、コロナに立ち向かうやる気のなさをベースにした、亡国の「温暖化ガス2050年ゼロ」である。

やる気のなさは、議場の演壇に立って「演説する」ときもマスクを着用しまま、というお行儀よさに表れている。
少なくても、アメリカ合衆国大統領選挙における両候補と司会者は、討議中にはマスクを外し、ちゃんと顔を見せたのだ。
国民に向かって行う、発足した内閣にとって大事な、「施政方針」をマスク着用のまま行う、というのはコロナとの闘いの気概すらないという「暗黙の表明」であった。
元の生活に戻ることを優先させるトランプ氏の気迫をみた目には、大統領の無策を責める割に、自分の「プラン」は、マスク着用の強制とPCR検査の徹底というバイデン氏のお粗末に、拍子抜けしたのは日本人だっておなじだ。

つまり、管氏の態度はバイデン氏とかわりないのである。
だからか、こんな肝っ玉の小さな人物が掲げたのが、温暖化ガス2050年ゼロという、まったくもってアメリカ民主党のなかの極左と主張が変わらない。
バイデン氏よりも、副大統領候補の、カマラ・ハリス氏とおなじだ。
日本人なら、あの宇宙人、鳩山由紀夫内閣と同等以上の「そっち」への舵を切ったことになる。

トランプ氏と結束しているのは、オーストラリアのモリソン首相である。
このひとは、オーストラリア自由党(Liberal Party of Australia)の党首である。
「リベラル」が、「自由」だとちゃんと党名になっていて、わが国の左翼を指す「リベラル」とは意味が真逆だ。
わが国ではちゃんと、用語として、「社会主義者」と表記すべきである。

さて、モリソン氏は、オーストラリア国会で、温暖化対策に無関心なことを野党から質問されて、以下のようにきっぱりと答えている。
わがオーストラリアが排出している温暖化ガスは、世界の排出量の1%程度である。
もっとも排出している、米中2国で50%を超えるのに、両国ともほとんど対策を立案もしていない。
よって、わが国だけが巨額の対策予算を計上する意味は、効果という意味においてムダである、と。

この論でいけば、残念ながらわが国も、世界の工場の地位を失ったかわりに、温暖化ガス排出量のシェアも落して3%程度なのである。
だから、こんなものに国家予算(=税)をつかう意味はない。
しかも、今回の演説で想定している額は、10兆円にものぼる。
じつは、わが国はすでに温暖化対策費として、200兆円を投じているのだ。

まったく、地球という惑星に対する奢りとしかかんがえられない。
果たして、人類が地球をコントロールできるという、自然への敬意の微塵もない思想なのである。
1個の台風のコントロールすら不可能なのに、なにをかんがえているのか?
ムダな税を投じて、国民を窮乏させ、よって革命に導きたいとする人間の都合を、地球環境という美談で誤魔化しているだけだ。

そんなポンコツな内閣だけど、なぜか「核兵器禁止条約」は、ちゃんと「批准しない」と繰り返し表明して、左翼のひとたちを刺激している。
いったいぜんたい、どういう基準で政権運営するのか?「方針」がさっぱりわからない。

そもそも、核兵器禁止条約のなにが「いけない」のか?
第一に、核保有国がこれに加わらないことである。
第二に、人類は絶対に核兵器の廃絶をしないからである。

つまり、この条約は、「国際法」ではなくて、「文学」なのである。
ジャンルは、ファンタジー小説だ。
ノーベル財団は、国連にノーベル文学賞を差し出すとよい。

なかなか、「絶対」という言葉は使えないものだ。
しかし、人類は絶対に核兵器を廃絶しない。
保有コストから、ロシアのように数を減らすことはある。
でも、ゼロにはしない。だれか独りでも核を持てば、どうなるか?ということである。

70年代だか80年代だったと記憶にあるのは、ひとりのアメリカの大学生が原爆の設計図を独自に書いて、これが大騒ぎになったことだ。
なぜなら、それが「本物」だったからである。
つまり、当時ですら理系大学の一般学生が、授業と図書館にある資料で設計ができてしまうことが証明されたのだ。
ないのは、材料だった。

もちろん、核爆弾の運搬方法がもっとも重要な技術になっている。
当初の飛行機で運ぶ方法から、とっくにロケットエンジンを使うミサイルになった。
いまは、マッハ8という超音速で飛んでくる。
ただし、命中精度はしらない。
目標よりかなりズレても、核なら精度の許容範囲が広くなるので実用にしているのだろう。

ロシアのプーチン氏が、初めて大統領に就任したとき、大変重要な演説をしたのだが、例によってわが国のマスコミはあんまり報道しない。
「外交とは、核保有国が互いに話し合いをすることだ。核をもたない国は核保有国の決定に従うしかないから、これらの国は外交をすることはできない」
核の価値は、抑止力だといわれている。
人口が急激に減少するわが国は、若者の数が減るので通常兵器だけでの防衛は現実的ではない。

ではどうするか?
温暖化が喫緊の脅威ではないことは確かだ。
いったい、わが国はなにをしたいのか?
おそらく、本人もわかってやしないことがわかった。

コロナ全体主義の恐怖

マスク着用の義務という強制は、全体主義の実行である。
これを推進するのは、アメリカ民主党だ。一方で、都議会の独自政党「都民ファースト」も、マスク着用義務を条例化しようとしている。
こうした政党の支持率が高い、というのもあまりにも情けないので書いておこうと思う。

本稿では10月8日に、WHOのコロナ特使であるデビット・ナバロ氏が、「ロックダウンを推奨しない」と述べていることを前提にする。
これは、日本時間で23日(現地では22日)に行われた、最後の大統領候補者による討論会で、トランプ氏も「前提」にしていたからだ。

国内では、さいきん、過剰なコロナ対策による「犠牲者」がふえている。
マスク着用による、「脳障害」が、全世代に警告されているのは、「酸欠」を原因とするからである。
とくに、乳幼児には「危険」なので、日本小児科会は、「子どもにマスクをさせない」ように警告告知した。

この警告から2ヶ月以上して、文科省も通達を出したが、緊急事態宣言以来、中央集権が効かなくなったので、各地の教育委員会は結構無視しているから、学校でのマスク着用が「事実上義務化」されたままでいる。

一方で、ちゃんとしたアルコール消毒剤が世の中から消えたことで、家庭用の漂白剤が代用できるという情報から、「濃度」についての調整を無視して原液やほとんど薄めずに大量使用して、手指の皮膚が荒れるのはもちろん、吸い込んだ体内の細胞も荒れて「肺炎」を誘発している。

コロナで肺炎にならずに、消毒剤で肺炎になる。
マンガのようなはなしだが、まったく笑えない事実である。
1000倍に薄めて使う、という意味がわからないとは、義務教育でどんな授業体験をしてきたのか?さっぱりわからない。

あるサイトでは、999mLの水に1mLの原液を加えれば1000倍になると、驚くことが記載されている。
ネットが玉石混交とは、このことをいう。
1000mLに1mLを入れないといけない。

式にすれば、希釈倍率=水量 ÷ 原液量(1000mL ÷ 1mL)
だから、できあがりは1001mL、になる。
ちなみに、「リットル」の国際記号は、「L」であって、「l」や「ℓ」ではないから、わが国独自の「記号」であると意識しておきたい。

行われた「討論」自体は、変えようのない事実であっても、新聞社やテレビ局、あるいはひとによって、「評価」がぜんぜんちがうから、これを比較するだけで結構な、「エンタメ」になっている。
どうして、そんな「評価」になるのか?という「ズレ」が、ほとんどギャグになっている。

この討論会の直前、会場にむかうトランプ氏の姿がネットでは動画になっていて、なんだか大勢いる支持者たちに向かって「これから不利な闘いに行く」といって、警備で閉鎖された会場の大学の庭から大声で語りかけ、独り歩き始める。
まるで、決闘に向かうヒーローのようなのだ。

どういうわけか、一回目も今回も、司会者は「民主党員」を表明しているひとなのだ。
このような、前条件も日米のメディアは指摘しない。
観る価値なし、を自分たちで強調しているのも、ギャグである。

討論の最初のテーマが「コロナ」だった。

トランプ氏自身があれだけ批判していたWHOではあるものの、冒頭のナバロ氏の発言をしっかり踏まえていた。
初期の頃は、誰にもわからなかった対処法がだんだん明らかになって、いまではこの病気の実態が見えてきている。

少なくても、アメリカでも50代以下のひとは、感染しても99.9%が回復するし、それ以上であっても自分のように元気になれる。
しかも、自分は免疫さえも取得した、と。

さらに、民主党の知事や市長の州や市のおおくが、厳しいロックダウンを実施したのに、被害はこれを「しなかった地域」とは比較にならないほど「大きくなった」という事実も、具体的数字をあげて重ねて指摘した。
そして、元の生活に戻すことが最優先だと主張したのである。

さて国内では、都議会最大会派となった都知事の与党は、東京都自民党よりも「保守」だとして、おなじく「保守」と観られている都知事が主導してできた地域政党だ。あっという間に広がりながら、もう下火のようではある。
とはいえ、選挙結果はジワリと効いてくるのだ。

「コロナ感染対策」として、「マスク着用の強制化」を条例にするという動きは、「保守」かどうかはしらないが、少なくとも「自由主義」ではない。
憲法違反の疑いも議論されているけれど、わが国の憲法解釈は歪んでいるので、盛り上がらない。

ここではっきり明らかになったのは、「保守主義」は、必ずしも「自由主義」ではない、ということである。
そして、もう一度アメリカを向けば、「民主党(Democratic Party)」の掲げる「デモクラシー(民主主義)」も、必ずしも「自由主義」ではない、ということがわかるのである。

そういえば、ヒトラーもスターリンも、毛沢東、金日成も、全員が、「民主主義」を理由に、全体主義を達成した。

なるほど、コロナの毒の下解毒剤は、ただひとつ、「自由主義」という発想なのである。

「ロシア疑惑」と「日本疑惑」

今後の世界情勢が事実上決まる、アメリカ大統領選挙の天王山、投票日前最後の「テレビ討論会」が、昨日終わった。
とはいえ、期日前投票がかつてなく多いという状況もあって、当落予想も過熱している。

大統領選挙も重要だが、アメリカの連邦政治制度で重要なのは、大統領選挙と同時におこなう、上・下両院議員選挙である。
わが国の衆議院にあたる下院は、任期は2年で「解散はない」。
また、わが国の参議院にあたる上院は、任期6年は同じだが、半数改選のわが国と違って、3分の1が2年ごとに改選される。

このブログで何度も書いているように、アメリカはわが国と「違って」三権分立しているから、行政府の長である大統領と、立法府の両院はそれぞれが「独立」している。
法案は、議員立法「しかない」ので、わが国で主流の「内閣立法」とはぜんぜん違う。

つまり、議会の趨勢がどうなるか?によっては、弱小大統領が誕生することだってあり得る。
大統領が、どんなにがんばっても、議会で否決されたらどうにもこうにもならないのがアメリカ合衆国という国なのである。

ソ連が崩壊して、米ソ冷戦が終結したとき、誰もが、アメリカの一人勝ち状態が永続すると思った。
しかし、好敵手たるライバルを失うと、自己評価ができなくなってしまい、結局は衰退がはじまるものだ。
これは、企業にも、個人にもあてはまる。

この法則に、アメリカ自身も逃れることができないでいるのも確かだ。
しかし、そうはいっても、やっぱりアメリカは強大である。
米中の新冷戦とは、アメリカがアメリカ自身を「偉大だ」と、再確認するために必要な、ライバルづくりともいえるのである。

さてそれで、わが国を中心にして考えれば、わが国の繁栄にとって、アメリカがどうあるべきなのか?あるいは、どうあるとわが国の繁栄に都合がいいのか?を想定することは、これ以上ない最重要事項である。
わが国の、全産業が影響を受けるからである。

これは、「親米」とか、「反米」といった感情とは別の、「損得計算」なのである。
しかも、我々には、「投票権がない」という冷然とした条件がある。
ならば、どうするべきなのか?

まずは、現状認識の確認である。
わが国を取り巻く外部環境と、わが国のなかでの資源配分を冷静に分析しなければならない。
これを、「面」としての現状分析とすれば、立体的にする要素は「時間」を加えた分析で、一方は過去の歴史、一方は将来となる。

将来には二通りあって、ひとつが「成り行き」で、ひとつが「あるべき姿」となる。
ついでにいえば、「あるべき姿」とは、不可能を承知で描く「理想像」をいう。それで、成り行きとのギャップを埋める方策をかんがえるのが、「セオリー」というものだ。

そこで、かんがえるにあたってのベースとなる「思想」によって、「理想像」が変わる。
これが、政党でいう「理念」や「綱領」と直結する。
だから、有権者には、理想像がどんな理念で描かれているかを説明する義務が政党にはある。

この義務を、ほとんど果たしたことがない、のがわが国の「政党」であり、わが国の「政党政治」なのである。
すると、わが国には「政党がない」ということになる。

そんな調子なので、わが国の繁栄に必要なことに近い、アメリカの大統領候補になる人物が誰で、どちらの政党だとより有利なのか?についての合意づくりも何もしない。

政権政党の内部だけでなく、官僚機構にも指示をださない。
だから、外務省がなにをしているのかもわからないのだ。
外国の選挙に介入してはいけません、などとお坊ちゃま面をしていられるのは、自分たちの優雅な生活をしたいだけで、国益は考慮しないという伝統的習慣がそうさせるのだろう。

「ロシア疑惑」とか「中国疑惑」が出てくるのは、それだけ普段から「仕事をしている」ということなのだ。
絶対に「日本疑惑」が起きそうもないのは、ただ現地にいるだけでよしとする、本国の生温い政治体制があるからである。

ちなみに、ロシアのGDPは、わが国の3分の1以下である。
外交力を2倍とすれば、6倍も頑張っている換算になる。

少なくとも、マスコミ報道における「左傾化」で、汚職まみれのバイデン氏と、いまや「冤罪」となったトランプ弾劾を強行した民主党へのあからさまな「贔屓」は、わが国の繁栄を下敷きにしたとは思えず、記者や報道機関の「身内の思想」がそのまま反映されていると思われる。

安倍内閣を責め立てた、「疑惑」のスケールと、数千億円単位の収賄をした疑いのバイデン一家を比べれば、潔癖症のわがマスコミが知らんぷりする理由がわからない。
もしや、第三国からの要請があるのだろうかと「疑惑」もうまれる。

理想とした目標に向かって、あらゆる方面に統合された手を尽くす。
これぞ、戦略思想の具現化である。

唐突ではあるけど、「カジノ」を運営するのは、この思想と具現化のノウハウがないと不可能だ。
なるほど、国産カジノが輸出もできない理由がここにある。
法規制のため国内で開業できなかったから、は理由にならない。

少しは見習ったほうがいい国が、わが国周辺にはある。

衰退の日欧は復活できるか?

むかし、日本経済が絶頂だったとき、碩学・小室直樹は、シベリアに円を流通させよ、と叫んでいた。
ウラル山脈の向こう(西)側で、ドイツ・マルクが流通すれば、日独(西ドイツ)でロシア(ソ連)を牛耳れる、と。

あまりの「絶頂」だったから、ソ連の崩壊に興味がなくて、千載一遇のチャンスを逃したばかりか、その後自壊したのは、宮沢内閣による「総量規制」の一律適用だった。
ソ連の経済政策を日本でやった。

ソ連は体制まで転換したが、わが国はバブル崩壊「だけで」済んだ。
ソ連よりはるかに強固な官僚の事務体制が、テッパンの計画経済を維持したのである。
これを真似たのが、中国だから侮れないことになった。

いまのあちらの体制が、日本人から異常に見えるのは幻想である。
自分たちの本当の姿のおぞましさが、「鏡」に映っているだけなのだ。

この時期は、西ドイツも、東ドイツの合併に全力投球したから、こちらもチャンスを逃して、その後は統合ユーロの普及に向かってしまった。
「戦後」の西側国際社会の経済は、徹底破壊されて敗戦した(敵だった)、日本と西ドイツが機関車の二重連のようにけん引した。

日独両国の全体主義計画経済の経験が、本家のはずのソ連よりうまくいったのは、きめ細かい「役人」の(この場合)優秀さが、ロシア人の性格的荒っぽさを上回っていたからである。
それが、東ドイツをして、東側の優等生にさせたのだった。

ヨーロッパの統合が、「EU」という名の官僚体制になったのは、対抗するベンチマークとしての日本と、地域内のドイツの双方が採用する、「官僚制・計画経済」が、美田に見えたからだろう。
だから、中国の体制との親近感があるのも、日本とドイツ(EU)の特徴なのである。

それで、いまとなって地団駄踏んで悔しがっても、あの(統合の方法を決める)とき、ヨーロッパ各国を「ステーツ」とする、アメリカ合衆国・モデルにしなかったのが、衰退の原因だと本気で気づいたのか?が問われるのだ。
けれども、ヨーロッパ人の心に中に、人工的新興国アメリカへの「侮蔑」があると思われるので気づかない振りをするしかない。

よって、EU(欧州)の衰退は、EU解体まで終わらない。

アメリカの二大政党は、ヨーロッパでの貧困から逃れたひとびとの系統と、イギリスを中心とした、ジェントルマン(教養のあるひと)が投資のためにやってきた系統とが、そのまま政治勢力に発展したともいえる。
前者が民主党で、後者が共和党である。

民主党がいよいよ社会主義・共産主義的になってきたのは、もともとの「先祖帰り」ともいえる。
だから、この表面「だけ」を真似て、わが日本でも「二大政党」を理想とするのは、お門違いなのである。

国民の半数以上が農民だった戦前の二大政党は、地方に重点を置く政党(政友会)と、都会(工業地帯)に重点を置く政党(民政党)であった。
いまの細分化された時代なら、どうなるか?
なかなか二大政党に集約できないのが現状だから、わるい意味の「なんでもあり」がある、自民党が勢力を維持できるのであろう。

しかし、残念なことに、「共和党」に匹敵する政党が存在しない。
これが、ひとつのヒントを与えてくれる。

振り子のように「揺れ戻し」があるから、政治力学というかんがえかたが説得力をもつ。
英米は、政権があんがい連動していて、保守党と共和党、労働党と民主党がそれぞれの時代に首相と大統領をだしている。

サッチャーとレーガン、ブレアとビル・クリントン、だが、オバマ時代はねじれて、英国は保守党政権がいまにも続き、トランプ政権でまた元に戻った。

英国の変化は、労働党のブレアが「サッチャリズム」を前提にする、と断言したことにある。
かつて、福祉充実(典型的社会主義政策)がトレンド(英国病発症)だった時代、保守党もこぞって福祉政策に重点をおいたから、英国の揺れ戻しは「波長」が長い。

対して、人工国家(政治理念で建国された)のアメリカは、政権交代による変化がドラスティックなので、こちらの揺れ戻しの波長は短い。
その象徴的スローガンが、「大きな政府」か「小さな政府」であって、大きな政府には「増税」が、小さな政府には「減税」がついてまわる。

大きな政府とは、福祉国家のことなので、財源としての増税が必須になるし、小さな政府とは、自由主義重視なので、自分のおカネが税に獲られることも「自由の侵害」とかんがえている。
もう1年が経過した、消費増税の名分が「福祉の充実」だったことを思いだせばよい。

「巨大」な中央政府をもつ、日本とEUは、アメリカ人から観たら、民主党永久政権のように映るだろう。
だから、わが国の政権交代の意味は薄い。
自民党も民主党も、アメリカ人にはどちらも同じで左派色の濃さの違いだけにみえるだろう。

レーガン時代、わが方の中曽根政権もそれなりに連動したけど、徹底できず相当な腰砕けだった。もっとコケたのが小泉政権であった。
トランプ再選後のアメリカは、よりパワフルに「小さな政府」を追求するにちがいない。

減税は、予算縮小を意味し、自動的に行政権の縮小を促す。
これが、アメリカ経済発展のパターンで、余裕ができると民主党に政権交代して、「福祉」をやるのである。

この繰り返し行われている「成功事例」をどう観るか?が鍵なのである。

候補者辞退の大統領選挙?

バイデン親子は「詰んだ」。

結論から先にいえば、今回のアメリカ大統領選挙は、前代未聞の事態となりそうである。
つまり、野党民主党が指名した大統領候補のバイデン元副大統領が、投票日前に「辞退する」という事態である。

問題は、「どっちの」投票日なのか?
すなわち、11月3日に予定されていて、すでに期日前投票もやっている「一般投票日」なのか?それとも、12月の「選挙人投票日」なのか?
合衆国憲法では、選挙人投票日の前に大統領候補が「死亡」した場合、政党が全国委員会を開催して、新たな候補者を指名することになっている。

だから、「辞退」はまったくの想定外にある。

しかし、彼はもう「辞退」するしかない。
すさまじい汚職が明らかになったので、放置すれば法に定めのある、建国史上初となる「候補者失格」の汚名を、合衆国栄光の歴史に永遠に刻むことになるからである。

これは、アメリカ「民主党」の崩壊をも呼びかねない大問題だ。
なぜなら、彼の汚職に関係するひとびとは、オバマ前大統領やヒラリー・クリントン元国務長官をはじめとした、民主党政権の中枢が芋づる式に連座することになるためだ。

はっきりと証拠があがっているのが、いわゆる、「ウクライナ疑惑」であるけれど、もう「ウクライナ事件」といって差し支えない。

彼の次男(長男は事故で亡くなっている)の、ハンター氏が、副大統領だった父の威光を傘に、ウクライナのエネルギー会社の社外取締役になって、高額報酬を受けていたのは、この会社が組織ぐるみでやっていた「汚職」のもみ消しにあると噂されていた。

バイデン氏は、息子の海外事業について、親子といえどもなにも語っていない、と弁明していたが、この会社へのウクライナ検察当局の捜査について、副大統領として来訪した際、当時のウクライナ大統領に多額の軍事援助と引換に、検事総長の解任を要求している。

驚くことに、彼は演説でこの件の「自慢」をしていたのだが、あろうことかこの脅迫のやりとりについての電話での会話を、相手の大統領が密かに録音しており、それが9月に公表されたのである。
まさに、決定的証拠である。

一方で、昨年話題となった、トランプ大統領に対しての「ウクライナ疑惑」は、民主党が多数の下院議会での「弾劾成立」という事態となった。
合衆国の歴史で3人目の不名誉だが、上院で否決されたのはご承知のとおりである。

けれども、ことの真相は、バイデン親子によるものだから、この「事件」は、トランプ氏をおとしめるための陰謀として、「オバマ・ゲート」と呼ばれ、政権の中枢が連座する威力がある。
ヒラリー氏の私的メール公開命令で、証拠がでてきたから、民主党そのものが根底から疑われることにもなっている。

もはや、オバマ氏とヒラリー氏も、絶体絶命の崖っぷちにある。

であれば、人間のかんがえることはだいたい一つに集約されて、誰かを「犠牲の羊」にすることしかない。
そうやって、「逃げを図る」のだ。

くわえて、ハンター氏のノートパソコンが、あろうことか修理に出された。
盗まれたものなら、証拠能力が疑われるのだけれども、どうやら本人がパソコン修理店に持ち込んだらしい。
それを、放置したのはなぜか?

彼は、元モスクワ市長の未亡人から、なぜか350万ドルも受け取っていて、そのうちの30万ドルを東欧に拠点を置く、国際麻薬・売春組織に送っている。
これは、「ツケ」の精算か、はたまた「前払い」か?それとも、「デポジット」か?

第一回目の討論会で、トランプ氏がハンター氏に言及したとき、彼が軍を除隊させられた理由は、「コカインの常習」だと明言した。
また、別途、ハンター氏はアルコール依存症であることもしられている。
すなわち、どちらかが原因でラリっているときに、パソコンを修理に持ち込んだと推定できる。だから、忘れて放置してしまった。

そして、そのパソコンにあったデータには、数々の不正取引の電子メールだけでなく、少年少女をふくめたいかがわしい写真が大量にみつかっている。
つまり、全部つながるのである。

果たして、父バイデン氏が認知症を疑われたのも、もしや息子と一緒に麻薬をやって、ラリっているのが「認知症」に見えたのかもしれない。
けたはずれの腐り方である。

上院情報委員長は、本日22日までに調査報告せよとFBIに命じている。
いったい何が飛び出すのか?

にもかかわらず、この一連のスキャンダルに、バイデン陣営は何もコメントしていない。
「認めた」と解釈するのが、あちらでの常識だろう。
それに、バイデン氏の選挙集会では、ひとびとからの「質問」という「ヤジ」が飛び交い、集会が継続できず途中で終了している。

もはや、これまで。

それでも、有権者の怒りはおさまらず、民主党の牙城カリフォルニア州で、かなり珍しい「トランプ支持の大規模パレード」が、陸と海とで行われているありさまだ。
参加者は、一様に「報道しないマスコミ」にも怒っている。

アメリカの自浄能力が、発揮されているのである。

『哀しみの「ソレアード」』

原曲は、14世紀後半のイタリアで活躍したひとの作品といわれていて、1974年にイタリアのグループが復活演奏して大ヒットした。
しかし、この曲には歌詞がなく、その後さまざまな国で、「詩が」あてられている。

特に、英語版は『When A Child Is Born』で、クリスマスソングの定番になっている。
日本で、「インスツルメンツ」としては、ポール・モーリアやフランク・プールセル、ニニ・ロッソのアルバムでも親しまれている。

 

「ソレアード(SOLEADO)」とはスペイン語で、陽だまり、とか、日当たりのよい場所、という意味だという。
原曲は、そのまま「ソレアード」であるけれど、日本語では「哀しみ」を加えているのは、曲想に哀愁が漂うからであろう。

さてそれで、いま横浜では、ひそかにリバイバルがかかっている。
映画『ヨコハマメリー』は、2005年制作のドキュメンタリー映画である。
当時見逃したので観てきた。ネタバレに注意されたい。

「メリーさん」というのは、伝説の娼婦といわれているだけでなく、その特異な風貌で、ひとつの風景としての「横浜名物」をなしていた人物である。
はたしてそれは、クイーン・エリザベス1世と似た、白塗りで、衣装も白のレースのドレスを好んで着ていた。

  

「白塗り」による、素顔の仮面化は、日本の花街の伝統だけど、あんがい世界共通なのは、人間の心理だからだろう。
そうやって、別人になれる。

当時横浜一の繁華街、伊勢佐木町の夜の闇に浮かぶ白い影の不気味さは、この世の物ではない気がしたが、まったく悪びれずに歩く姿は誰でも一種の畏敬の念を抱く迫力があった。

彼女がいる場所は、瞬間に別空間になっていた。
あれは、何だったのか?
日中によく見かけたのは、横浜高島屋であったのは、彼女の行動パターンよりも自分の方にたまたま合致していたからだろう。

高島屋の店員さんが、見て見ぬ振りをしていたのは、彼女が「顧客」だからであるともいわれていた。
そういえば、往年のデパート、伊勢佐木町の松坂屋や松屋でも見かけたから、あんがいデパート好きだったのかもしれない。

だから、子どもが歩かない「夜の街」で見かけるようになったのは、おとなになってからだった。
「時間は残酷」なので、わたしがおとなになるのに使った時間分、メリーさんも歳をとるから、「娼婦」といわれても困るのである。

彼女の生い立ちからして、詳しいことはわかっていない。
しかし、「お父様が亡くなって」から、どういう事情か横須賀で娼婦になったことは間違いない。
ただし、兵を相手とすることはなく、常に「将校」だったという。

その気高さは独特だ。
メリーさんの自筆の手紙は達筆で、なお、文章に格調がある。およそ現代人にはもう書けないものだ。
高等女学校の出か中退ではなかろうか?と想像させる。

世界的舞踏家、大野一雄氏の次男で、やはり世界的舞踏家、大野慶人氏の証言は、舞台で固まってしまって以来の中断中、横浜シルクセンターで妻が経営する薬局の店長をしていたとき、当時珍しかった舶来の香水ボトルを棚に陳列していたところ、メリーさんがやってくる。

大野氏は「キラキラさん」と呼ぶ、その本人が、なんともいえない麗しそうな姿で瓶を眺めていて、その姿が後の、舞踏作品『マクベス』の「オフィーリア」役をこなすのに役だったという。
なるほど、と思った。

わたしは大野父子の競演を、慶應義塾大学の日吉校舎で観たことがある。
満員の会場の熱気もさることながら、終演後のわずかな時間だったが、二人の舞踏セッションがあって、観客の多くが舞台にあがって指導を受けていた。
それが、なぜかゾンビの集団のようで、まるで舞踊とは遠かったけど、まじめさは伝わった。

人間は、訓練しないと自分の肉体を自在に動かすことができないことをしった。
父子とも故人になったので、文字どおり「夢の競演」となった。

しかし、齢を重ねれば冷酷な事実が娼婦という職業にはやってくる。
家がないので、ビルの椅子で眠るしかしない。
そんな休息場所を、黙って提供した横浜人がたちがいた。
すると、盆暮れにメリーさんからビル・オーナーに贈答品が届いたという。

このひとは、施しを受けなかった。
たとえば、きっちりとエレベーター・ガールのようなことをしてチップを稼いだり、かならずなにかの仕事の報酬として金銭を得ていた。
それが、頼まれた仕事でなかったとしても。

エイズが恐怖を呼んでいた時代、行きつけの美容院から出入り禁止を告げられる。
常連客からのクレームに、耐えられなかったという。
「どんなに消毒していても」、汚いといわれた、と。

まったくもって、いまのコロナと同じである。
残念だけど、映画館もマスク着用を義務化していて、上映中もとるなと、冷たい声で注意があった。
美容院の経営判断と同じなのである。

困窮した彼女を見かねたひとが、実家への切符を差し出す。
そして、我々には「忽然と消えた」ようにみえたが、本人は老人ホームにいた。
こうして、ヨコハマの「素顔」の戦後も消えた。

まことにピッタリの音楽が、『哀しみのソレアード』であった。

餃子店と堀江氏の正義の衝突

ことの発端の前提は、餃子店が「マスク着用義務」をしていたことにあった。
そこに、ホリエモンこと堀江氏一行がやってきて、このメンバーにマスクを着用していないひとが「入店拒否」されたのが、トリガーとなって、堀江氏がSNSに投降し、これが、「炎上」した。

堀江氏の主張に賛否両論があるものの、店の主張を否定する「電話」が殺到し、恐怖で体調を壊した女将さんのために、とうとう休業に追いこまれてしまった。まったく気の毒なことである。
そこで、いま、トリガーとなった堀江氏へ糾弾の大合唱となっている。

ずいぶん前に社会理念としての、「みんな平等」に対して、あえて天邪久になってかんがえることを書いた。
本件も、あえて天邪久になってかんがえるとどうなるか?を試みたい。

はじめにお断りしておくが、ここで試みることは、あくまで「思考実験」なので、現実からいったん離れる。つまり、餃子店や堀江氏という具体的対象ではなく、抽象的対象として議論するのでご注意願いたい。
本稿は、裁判的なジャッジを両者にするものでもなく、あくまでも天邪久になってかんがえる「だけ」である。

冒頭に、「ことの発端の前提」と書いたが、そのまた前提に「新型コロナによる疫病蔓延」がある。
ここから、天邪久が顔をもたげるのである。
つまり、「新型コロナウイルス」とはなにか?だ。

すると、「旧型」とは、SARSやMERSを指すのだろう。
なぜなら、その辺にふつうに存在しているという、コロナ・ウィルスが地球上に何種類いるのかを人類はいまだしらないからである。
しらないから、見当もつかない。だが、万の単位あるいはそれ以上の種類のコロナ・ウィルスがいるとかんがえられている。

何種類のコロナ・ウィルスがいるかを誰も調べないのは、ほとんど人間などの動物に、「無害」だからである。
無害な物を分類してどうするのか?となると、博物学のなかの分類学となる。

だから、いま流行っているのは、既存のなかの一つが突然有毒になったから「新型」なのか?それとも、本当にこれまでにいなかった「新型」なのか?すらも分類できていない。

すると、すさまじい種類のコロナ・ウィルスが、はるか昔からとっくに人体に取り憑いていて、われわれのほとんが「なにも気づかない」で何世代も生活してきていることになる。
だから、PCRで陽性になるという意味に気をつけないといけない。

そこで、国際便を停止して、ほぼ「鎖国」していることから、9月までの国内の患者(感染者ではなく発症したひと)をかんがえると、死者数も重篤者数も、えらく少ない、という事実がある。
2月から8ヶ月間の累計の死者は、1,500人ほどなのである。

昨年のわが国で生まれた新生児は約90万人で、わが国人口の自然減は約40万人だから、死者数はざっと130万人となる。
毎月10万人強、半年で65万人という勘定になる。
すると、コロナで亡くなったというひとの割合は、0.17%になってしまう。

これを、「パンデミック」といえるのだろうか?

「咳エチケット」だったはずのマスク着用の「推奨」が、いつの間にかに「義務」と変容したのは、とくに地方にみられる現象で、主に「都道府県」レベルで「指導」している。
政府の緊急事態宣言による大幅権限委譲が、終息宣言において「返上されず」、県が「藩に変容」した効果だ。

つまり、「藩・知事」となったので、名称は「知事」でも内容は「藩主」になった。
言ってみれば、江戸時代に戻ったのである。
それで、罹患者を「村八分」にする、かつてのハンセン病患者への差別が復活した。

そうして、夏のお盆ですらふるさとへの帰省を「自粛せよ」との「お達し(命令)」を、藩主がだしたから、都会に出た地方出身者の「根無し草化」(分断)を謀ったのに、それが「正義」に転換された。

すなわち、わが国の中央集権構造が、「パンデミック」の名の下に崩壊をはじめたのである。
これに対抗するのが、政府による「GO TO」で、都会人を「藩」に送り込むことでの中央集権維持を画策している。

こうした点をふまえると、「パンデミック」を長引かせて権限を返したくない「藩の正義」(分断)と、「終息宣言」をして権限を戻す「中央の正義」(集権)が、飲食店というピンスポットでぶつかったといえる。
この意味で、両者はそれぞれの立場の「エージェント」なのである。

さてそれで、店に本当の圧力をかけたのは、匿名のひとたちであった。
SNS発信者とのバーチャル空間での議論から、現実界に飛び出して、一方的罵詈雑言を与える。

これは、社会の分断によるアトム化した個人が、取り憑かれたようにする威圧であって、その手段が「電話」という過去の媒体であった。
組織化されてはいないのが幸いだけれど、もしや一歩間違って「組織化」されたら、それは全体主義へと一気に変わる可能性がある。

その意味で、トリガーを責めるのは安易であって、分断を支持する意思表明であると見られても文句はいえない。
一方、トリガーはどうすべきだったか?
卑怯な威圧をやめさせるように働きかけるべきなのではあるけれど、自身の発言の暴走におののいたのではないか?

SNSとは、ほんとうは個人の分断のための最適手段なのである。
個人データが抜かれる、という次元の問題ではない。
「絆(きずな)」ではなくて、「絆(ほだ)し」なのである。

以上、天邪久でした。

日本で大統領選挙はなじまない

「首相公選制」とは、首相を直接選挙で選ぶ、という発想で、このたび「半国葬」となった、中曽根康弘氏が最初に提案したけど、当時も誰からも相手にされず、いまに至っている。
ようは、わが国を、「大統領制」にしたい、ということだった。

故人に鞭打つようになるのは本意ではないけれど、中曽根氏の胡散臭さは、弱小派閥の長が総裁になるためのプロセスにもあった。
ただ、このひとのラッキーは、「行政改革」がブームになりはじめた中で、当時の行政管理庁長官のポストが与えられたことによる。

それで、当時は発言力があった経団連から、しかも人格高邁な土光敏男氏を引きずり出すことに成功したことが、その後の「首相」への最短ルートをつくりだした。

「万事は人事」の典型例である。

このときの財界は、いまとは違う、経済4団体だった。
経団連と日経連とがあって、日本商工会議所と経済同友会であわせて4団体となる。
2002年に、経団連と日経連が合併したから、3団体になった。その後、2012年に楽天の三木谷氏が発起人となって、「新経済連盟」を発足させたから、あえて本稿では、「4団体」といいたい。

新経済連盟は、既存の経済団体の「古さ」に対する「アンチ」からスタートしているところが特徴である。
なお、経団連は、大正11年に発足の「日本経済聯盟会」が母体で、国家総動員法の成立の後、「重要産業統制団体懇談会」となった。

また、合併によって名称が消えた、「日経連」は、財界の「労務部」といわれるほどに、労働組合と対峙し、春闘における財界側の交渉相手でもあった。
いわば、経団連が「力業」をもってするのに対して、「頭脳集団」であったのだ。

だから、わが国の労働組合をかたるとき、一方の日経連の存在は無視できない。
むしろ、わたしは、日経連が経団連に合併されたのは、労働組合にとっても、わが国にはよからぬことになったとかんがえている。

それはさておき、中曽根氏の胡散臭さは、やっぱりその経歴にある。
海軍主計少佐で敗戦を迎えたとは、その「思想背景」を疑うからである。
すなわち、海軍ならずも陸軍もしかりの、軍組織内における共産主義の蔓延を指す。

教科書に記載されていても、昭和史は授業におけるタブーになっているから、三学期になってもここはやらない。
「教科書検定」という世界にまれに見る「因習」で、大騒ぎになるのは、授業でやらない範囲の記述ばかりとなっている。

陸軍参謀本部中佐だった瀬島龍三氏は、中曽根内閣の首相顧問として、ふたたび「参謀」を勤めた人物であり、「評伝」として、『不毛地帯』の主人公と信じられてきている。

    

これは、『忠臣蔵』と同じく、「講談ばなし」なので、主人公を瀬島氏だと信じてはいけない。
巧妙に、史実と作りばなしを混ぜているから、ようは「作りばなし」の「エンタメ小説」なのである。

そんなわけで、この二人の元「少佐」と「中佐」は、「海軍」と「陸軍」ではあるけれど、怪しいオーラが輝いている。
中曽根氏は、常にマスコミから「タカ派」といわれていたことも、宣伝工作(プロパガンダ)なのだと思うと、妙に辻褄があうのである。

たまたま、世界で「大統領」が揺れている。
辞任に追いこまれるひとや、その座にしがみ付いているばかりに長期デモが止まない国もある。

日本に大統領制がなじまないのは、国民に民主主義の精神がないからであるけれど、そんなことを熟知しているはずの中曽根氏が、どうして「大統領制」をいいだしたのか?不思議である。
言動は「右翼」とされたけど、やっぱり「じつは、、、」の部類におもえてならない。

世界を仕切るアメリカ合衆国大統領選挙では、バイデン親子の所業に関する、驚愕の電子メールが出てきたし、前回の選挙にあたって、オバマ大統領、クリントン国務長官の政権による、トランプ氏をおとしめるべく捏造した「ロシア疑惑」を指示するメールも公開されたので、大スキャンダルの曝露がある。

こんなことがわが国の選挙で起きたなら、マスコミがどんな反応を示すのか?
アメリカの大手と同様に、都合がよければ大キャンペーンを張り、都合が悪ければ報道しない自由を選択して、ほんとうに報道しないだろう。

すなわち、アメリカでさえ、ということをかんがえると、日本で大統領選挙をやる素地がないのは、マスコミ報道の公平・公正がぜんぜん期待できないからである。
ただし、わが国と違って、議会がすでに調査を開始している。この点、「さすが」といえるのだ。

それに、アメリカのメディアは立ち位置を明確にして示していることにある。
「我が社の論説は民主党支持です」とか、「共和党支持です」と書くので、読者をミスリードすることすら、一種の「正直さ」を残している。

また、読者だって旗幟を鮮明にするのは当然なので、自分の「見たい、聞きたい」記事を買いたがるのは、どこの国民もおなじだ。
ようは、「売文」が「エンタメ文化」になっている。

わが国は、「売文」が「啓蒙」の上から目線で、これを有難く「天の声」とするので、話しにならないのである。

フードファディズムからの異常行動

フードファディズム(Food Faddism)とは、食べ物や栄養が健康に及ぼす影響を過大に評価する考えのことだ。
これが嵩じると、「食品の善し悪しを単純に決めつけ」て、これらを「過度に食べ分けるような行為を誘発」してしまう。

つまり、「過大」と「単純」と「過度」という三点セットを発想の元にさせて、人間行動をある一定の方向へ「誘発」するのだから、本人は「間違いはない」と思い込んでいても、他人からすると、あるいは、「論理的に考えると」、大変おかしなことをしでかしているように見えるのである。

そもそも、「◯◯を食べる(飲む)と、どこそこの細胞やら臓器が活性化して、健康になる」というたぐいの情報のほとんどが、「フードファディズム」そのものを「誘発」しているのである。
しかも、これが、あんがいと「専門的な用語」でオブラートされている。

物質の成り立ちからはじまって、様々な「結合」や「反応」により、あたらしい物質がつくられるのを、われわれは中学の「理科」や、高校の「化学」で学ぶことになっている。
高校全入といわれて久しいけれど、だからといって、フードファディズムが流行るのだから、知識が「身についている」とはいえないのである。

逆にいえば、知っているつもり、がかえって助長させているのだろう。
食べものの「消化」とは、化学反応によって行われるが、それが生体内でどうなっているのか?は、とうてい全部解明されてなどしていない。

もうすぐ出版から20年にもなる、高橋久仁子『食べもの神話の落とし穴』(ブルーバックス、2003年)という本には、わかりやすい説明があふれている。
こういう本を書くひとが「専門家」なのである。

若いひとには知る由もないけど、ずいぶん前からフードファディズムの事象は発生している。
上記の本では、以下の3種類があるとされている。
まずは、第1種が、
1.健康効果をうたう食品の爆発的流行
 「紅茶きのこ」(1977年頃)
 「酢大豆」(1988年頃)
 「野菜スープ」(1994年頃)
 「ココア」(1996年)
 「低インスリンダイエット」(2002年頃) などである。

なんだか懐かしいのが、紅茶きのこである。
わが家でも、ガラス瓶に自家製のを作っていて、おとなたちがこれを有り難がって飲んでいた。
子どもには、実に奇妙な光景であった。

昼の「ワイドショー」で毎日、別々の食品を「特集」していて、店からなくなったのが「ココア」とか「黒砂糖」だった。
気の利いた個人商店主は、朝刊でテレビ欄を確認して、大量発注していたものだけど、そのうち「記載」がなくなったので、いちばん熱心に番組を観ていたのは個人商店主だった。

流行ったのが、10年毎からだんだん短くなってきている、という特徴も、「情報化」といえるのだろう。
ただし、廃れるのもはやい。
「次」に飛びつくからである。

たとえば、「プロテイン」。
日本語にすればただの「タンパク質」のことである。
これが、次の2種類目や3種類目にも関係する。

2.いわゆる健康食品(栄養補助食品)
 ほかの努力はいっさい不要で、「それ」を食べさえすれば、「元気になる」、「若返る」、「病気が治る」。

今日もおおくの「通販番組」で紹介されているし、ネット上での広告も飛び交っている「現役」そのものの「商品」である。
消費者庁が管轄する、「特定保健用食品(トクホ)」だって、この仲間に入っているから、50歩100歩なのである。

3.食品に対する不安の扇動
 食生活を全体としてとらえることなく、特定の食品を身体に悪いと決めつけ、非難攻撃し排斥する一方で、ある食品は身体によいとして推薦したり万能薬視したりすること。

特に3をこの著者は、「不安扇動ビジネス」、「不安便乗ビジネス」を呼んでいる。

なんだか、いまだに終息しない「コロナ」に似ている。
コロナ感染者(といっても「無症状」の検査陽性者)の排斥や、ペラペラのマスクが感染予防に万能だとして、マスク着用の事実上の「義務化」といった愚策が、民間でおこなわれている。

都会より、地方で厳格なのだから、これも「不安の扇動」による効果だといわざるをえないものの、むしろ、「コロナの時代」とは、とっくにフードファディズムが「素地」を社会に作り上げていたのではないかとおもう。

「永遠の生命」を求めた逸話は、世界の歴史に刻まれている。
たとえば、古代バビロニアのくさび型文字に残された、『ギルガメシュ叙事詩』や、エジプトのミイラ、それに、秦の始皇帝の命を受け、日本に不老不死の仙薬を探しに来た徐福のはなしなど。

しかし、これらの例は、英雄や特定の身分にあった為政者個人の願望をかなえるための物語であって、こうしたはなしを一般人は「愚かなこと」として嗤っていたのである。
なぜなら、この世に生を受けたものは、一人残らずいつか死を迎え、誰も免れ得ない真実だと知っていたからだ。

ところが、20世紀の後半から、人類史でまれに見る「中産階級の繁栄」を経験したわが国では、ほとんどの国民が「永遠の生命」を希求するという、人類史のはじめてが社会現象になったのである。
かつての戦争犠牲者を、「精霊」といわずに「犬死に」といえる根拠であろう。

それは、個々人の「精神」を尊ぶ個人主義では到底なくて、「物質的」にただ生きのびたいという「犬も考えぬ」ことを希求する、貧困なる精神からやってくるのである。
経済的に貧困であったかつての日本人は、しかし思想では、尊かったのである。

人間は、機械のように食べものを「消化」しているのではない。
著者は、フードファディズムに対抗すべく、「さしたる根拠もないまま」に続けて「多様な食品の摂取」を勧めてきたことの「裏付け作業」が着々と進行している、という。

たまには、根拠のないことが正しいこともある。