マニフェスト・デスティニー

訳せば「明白なる天命」という.
アメリカ人の西部開拓「正当化」の標語だった.
このことばで,「インディアン」の虐殺が正当化されたことは,歴史のしめすところである.
いま,「ネイティブ・アメリカン」と呼んだところで,かれらに土地を返還したことはいちどもない.

大西洋と欧州旧大陸には関与しないのが,「モンロー主義」でしられるアメリカの引きこもり政策だから,西海岸のその先における太平洋について,「モンロー主義」は対象範囲ではない.
それで,ハワイを落とし,フィリピンを落とした.

西へ西へ,とにかく西へ.
ベトナムをこえてイランからアラブ中東に向かって,アフリカのリビアにたどりついたとき,地球は丸いことに気がついたのか,ここでアメリカの西方移動の動きが止まった.
リビアの悲惨は,イタリアによる支配からはじまる.

この映画「砂漠のライオン」は,史実に基づいていて,ずいぶんと長い間イタリアで上映禁止になっていたから,観ておいて損はない.
イタリア人のなかに,ムッソリーニがどれほど残っているのかを聞いたら激怒するだろうが,戦勝国になった戦後も政治的判断が優先できる国であった証拠のひとつである.

あのカダフィー大佐がイタリア訪問したときに,史実だから主人公の写真を衣服につけ,主人公の子息を同伴したというエピソードまであるが,はたしてこの物語の主人公がカダフィーに与したかは疑問である.

そんなアメリカと正面から戦った「西方の国」は,「インディアン」をのぞけばこれまで日本だけだったが,ここにきて中華人民共和国と貿易戦争に突入している.
先月9月26日,ニューヨークにおいて安倍首相とトランプ大統領の首脳会談でだされた,7項目からなる日米共同声明の6番目には,日米が欧州も味方に巻きこんでこの貿易戦争に立ち向かうことがかいてある.

「第三国の非市場志向型の政策」というかきかたは,外交文書として直接名指しはしないものの,あきらからに国名が特定できるから,かなり踏み込んだものになっている.
過去,日米貿易戦争をしかけられたわが国からすれば,どんな方法が「痛い」のかを知っているから,今回ほぼ名指しされた国からすれば,かなり嫌な感じのはずである.

それでか,こまったときだけ擦りよる性格の彼の国が,やっぱり擦りよってきたのか,韓国済州島での国際観艦式に「旭日旗」問題で不参加としたわが国にあわせるように,理由不明なまま不参加とした.
まさかとおどろいたのは,韓国側だったろう.
あちらの外交部は,先月の日米共同声明を読んでいなかったのだろう.

弱小国として,外交の重要性は軍備以上であることは常識であるから,残念をとおりこした状態だといえるだろうが,それが「国民の要請だから」ということなら,だまって受けいれるしかない.

結局,アメリカは第二次大戦の日本との戦争理由になる,中国市場がほしいのにままならぬ,という状況がいまでも解決されないことにイラついている.
だから,その北に鎮座するロシアがじゃまで,価値感がことなる中共をいじめるのである.
この状況は,この150年間,おおきく変化していない.

変化したのは,唯一,わが国がしゃしゃり出ない,ということだ.
清国が中共になったのも変化に見えるが,軍閥という目線での変化はないからだ.
しかし,今回の共同声明では,ずる賢いことをアメリカに指南する役になったから,陰湿なわが国官僚にとっては,薄笑いと舌なめずリしたくなるようなステージが用意されたわけである.

おそらく,中国に入れ込んでいるドイツが,日米に反抗する素振りをみせるだろう.
ドイツ銀行の筆頭大株主は,中国企業だからだが,その中国企業の資金はアメリカに預けてある.
アメリカがこれの凍結をほのめかせば,ドイツは喉元のとげが抜けて万々歳なので,日米欧の連携が強化される素地はある.

これから年末にかけて,さまざまに入り組んだドラマが展開される.

デパートは本当に不要なのか?

国内だけでなく外国でも「デパート」という業態が,ネット通販におされて苦戦を強いられてひさしい.
ずいぶんまえから「斜陽産業」といわれてはきたが,ここにきて国内大手が地方都市の店舗閉鎖をあいついで発表し,「不要産業」とのレッテル化がすすんでいる.

本ブログでデパートを最初に書いたのは,昨年,旅館の売店との比較を論じたときである.
「欲しいものがない」という状態を共通とした.

それは,デパートが自分で商品を仕入れることを忘れて,売り場面積を売るという不動産業化した時点で,「デパート」というカンバンを自分たちで降ろしたことにはじまる.
これに,「消化仕入れ」という日本ローカルの商慣習が,デパートを仕入れ先支配の構図において,一方的有利な「商売」を可能にしたから,ちゃんとした競争にさらされなかった.

一時期,有利だと誰もが信じた商習慣が,市場の実態から遠ざかる原因となって,真綿のようにじっくりとやさしく時間をかけて首をしめつけられれば,確実に死ぬ,というおそろしさである.
まさに「ゆでがえる」.
デパートの凋落は,他業界の経営者に,大変貴重な教訓をあたえてくれるものだ.

国内大手の縮小均衡がどこまで続くのか?をかんがえると,意外な意思表明をしているのは最大手の「三越・伊勢丹」である.
他社が,従来のやりかたのまま縮小をつづけているのに対して,自社仕入れを増やす,という方針をあきらかにしているからだ.

これは、買い物客として期待したい.

そこで,「再生」という視点でもかんがえてみたい.
「万年赤字」という状態は,市場から遠ざかったことを意味する.
だから,経営理念というその企業の存在理由(最上位概念)にさかのぼって再考するのが「再生」のセオリーである.

なんのために百貨店は存在するのか?
生活者の豊かな生活を実現するための,物質面からの支援であったはずだ.
だから,ものがない時代,自動的にデパートは繁栄した.

それから,人々の所得がふえると,より質の高いものを「高価」という代償を負担して追求するひとと,コモディティ化した物品ですませるひととに分化して,圧倒的有利にたったのが総合スーパーだった.

ところが,高品質のものも,コモディティ化した物品も,その範囲が拡大して,ものがあふれる時代になると,「選択」という手段がとれるようになって,さらに,生活時間の拡大から,コンビニが成隆する.
ものだけでなく,時間も選択できるようになった.

そして,ネット通販という究極があらわれた.
物理的な商品展示スペースを必要とせず,あらゆるものが揃うようになったのだ.
しかし,ここにきて,その巨人であるアマゾン.コムが,リアル店舗を開店させている.
これはどういうことか?

リアル店舗での買い物とは,ネット注文である.
だから,リアルなこの空間は,人気商品の展示場なのだ.
その「人気商品」とは,ネット販売におけるデータから分析されたものだろう.
訪れた客は,現物をみて納得できれば「ポチッと」スマホから購入する.

すると,あらためて既存デパートの「自社仕入れ」とは,どうするのか?気になるところである.
もしかすると,階毎にちがう売り場になっている概念から変えるのか?
根本的見直しなら,そんなことが起きてもおかしくはない.
むしろ,生活シーンにあわせた高品質な提案があっていい.

もっとも,大型雑貨店という業態もすっかり定着しているから,その困難さをおもうとデパートの苦難はつづくだろう.

身も蓋もないはなしだが,わが家には思わぬ金額のデパート商品券があることに気づいた.
デパートがなくならないうちに,なにかと交換しなければとおもいついた.
それで,家内と何年かぶりにデパートに出かけた.

お目当てはハンディーなコーヒー・ミルである.
旅先や出張先の部屋で,くつろぎながらお気に入りのコーヒーを飲みたい,というのが当面の一致した要望だったからである.
それで,当然にネット検索し,事前知識をもって出かけたのである.

電車賃を払って,横浜を代表するデパートに向かった.
生活雑貨フロアーは,面積は広大だが種類がどこまでのバリエーションなのか?
たどり着いたコーナーには,5,6種類のコーヒー・ミルがあって,そのうちハンディーなタイプは2種類だった.

たったこれだけ?
事前知識が崩壊する.
もしかして他の場所にもあるかもしれないと,係のひとに聞いてみると,やはりこのコーナーだけだった.

結局,大型雑貨店に足が向いた.
エスカレーターからいきなり目に飛び込んだのは,ハンディーなコーヒー・ミルの納得の品揃えだった.
ここでは,デパート商品券がつかえない.しかたなく,現金での購入だ.

我が家のデパート商品券は,デパートという業態があるうちにつかいきれるのだろうか?
家内は,地下の食品売り場でつかう手があると冷静だった.

口に入るものではない.
なにかいいものはないのか?
デパートのバイヤーにエールを送りたい.

優秀な役人は火事場太りする

静岡県の銀行がしでかした「不正融資」問題に,金融庁というお役所が「(一部の業務に対して)業務停止命令」をだした.
「不正」をしていたやからが,創業家をふくめ多数排除されたものの,不正ができた土壌をキレイにするまで,不正に関係した仕事をしては「いけない」,と犬に命令するようなことがおきている.

たしかに,監督官庁の「行政」として,当然のことのようにみえる.
しかし,これとて釈然としないのは,不正をして「損をしたのは誰か?」ということをかんがえると,貸したカネが回収できなくなった銀行と,甘い見通し(ここにも不正がある)で借りたカネで事業をやって儲からなかったひとではないか?
銀行の損は預金者と株主という出資者に対してどう責任をとるのか?という問題であって,一方,不正で借りたひとの損は自分でなんとかするのが「おとなの社会の掟」である.

だから,銀行の損はやらかしたやからたちが,私財をもってその損害を賠償するのが筋だ.
つまりこれは,「民事事件」である.
それで,銀行という会社組織に対しての「不正行為」そのものは,「刑事事件」として罰するのが筋だ.
釈然としないのは,この「民事」と「刑事」がいまだに曖昧なままだからだ.

それに,当然だが、企業としての銀行に対する社会的責任も問われる.
一部の経済誌では,金融庁に廃業命令をだすように期待する記事まであるが,まったく見当違いもはなはだしい.
どうして,国家に依存するのか?

こういう記事が書ける記者の脳内構造が,政府を「御上」とみる前近代の価値感に犯されていると自己分析すべきだ.
預金者が預金を別の銀行に移したり,株主が株を売却したり,別の銀行が借入をしている取引先に営業をかけたりして,結果的に立ちゆかなくなって「破綻」すれば,それまでのはなしである.
自由主義における「市場」からの「制裁」,という機能を機能させずに,国家が制裁機能をもつほうが異常である.

つまり,利用者が自由に判断すればよくて,国家が決めることではない.
よしんば,この銀行だけに取付け騒ぎがおきても,それがわが国の金融システムに決定的ダメージをあたえることはない.
むしろ,こんなことで役人に万能な廃業の権限をあたえることが,わが国金融システムの健全性にきずをつけるだろう.

こんな「依存体質」が国民にあるから,金融庁という役人集団(長官も政治家ではなく役人である)が,やけに張り切って,この夏に代わったばかりの長官が,本件の「反省」の弁を述べた.
それはそうだろう,このひとの昇格まえは「検査局長」だったのだから,事前に「内部告発」が役所にもたらせれていたのにこれを活かせなったのは直接的な「落ち度」にちがいないからだ.

この銀行の不正が発覚したのは,ことしの年初だった.現長官にとって,アリバイはない.
マスコミはここにツッコミを入れて,いつもの「責任問題」にするのかとおもったら,あんがい「冷静」で,きもちが悪い.
長官を「泳がせ」て,より強力な金融機関支配をやらせようというのだろうか?

10月9日の報道によると長官の発言は,

何が金融庁に欠けていたのか,改めて体制を構築する.
第三者の目で取締役会の議論を確認し,経営者の目指す理念や戦略が営業の現場で生かされているかも検証していく.

である.

まさに余計なお世話だ,というよりも,企業のガバナンスそのものを信用しないという態度は,まったく資本主義の制度の無視ではないか.
金融庁のどこに,こんなことができる権限があるのか?
「欠けていた」ものが問題なのではなく,「有り余る権限」が問題なのだ.

株主から委嘱された個々の取締役と,その取締役で構成される取締役会の決定事項が,社内に浸透するかしないかは,取締役およびそれをささえる各種役職者の業務そのものである.
これでは,まるで「ゲシュタポ」ではないか?

  

金融は経済の要である.
これを自由に民間が経営するのが,資本主義の基本中の基本だが,国家がこれに介入し,役人が経営責任をとる仕組みもないまま,勝手に監視し,命令をくだすのが許されるというのは,資本主義の放棄である.

その証拠が,金融庁が銀行の監督官庁なのに,不正をみつけられず(ちゃんとタレコミがあったのに握りつぶして),その責任を一切とらないばかりか、担当責任者が昇格するのである。
まさに火事場の焼け太りではないか。
そして,責任回避のために企業を痛めつける構図は,原発事故の始末とまったくおなじである.

そして、資本主義を憎み、国家転覆による社会主義化・共産主義化をもくろむ左翼マスコミがこのお先棒をかつぐ姿は、絵にかいたようなグロテスクである。

内閣どころか、国の自由経済体制がひっくりかえるような無謀な論に、だれも反対しないのか?

こんな原理原則が平然と蹂躙されて、なにが景気対策で、なにが消費税問題なのか?
とうとう、政府が役人によってむき出しの社会主義(全体主義)経済体制への舵をきってしまった。
じつはこれとて,いまにはじまったことではない.

平成時代とは、将来、日本国が資本主義の矛盾という歴史的必然によって、流血革命をせずに「維新」という民族の歴史的知恵をもって社会主義を選択した、人類史上画期的な偉業をなしとげた、と絶賛されるのだろう。

ほんとうは、担保価値しか融資の判断にできない前資本の「質屋」を、近代的資本主義下の「銀行」と呼んでごまかしていたところに、マイナス金利という人類史上初めての「厄災」と呼んでもいい事態打破のために、無駄に貸し付けることを選択しただけのお粗末を、資本主義の矛盾、といって熱狂する奇人たちのファンタジーである。

そして、もちろん,わが国の金融機関を近代的銀行ではなく,「質屋」のまま進化させず固定させる方策を推進したのがノーパンしゃぶしゃぶにうつつをぬかした旧大蔵省銀行局であって,金融監督庁から今につづく金融庁そのものである.

この根底に,役人からみた愚かな国民がいるのである.能力がないから質屋のままでいろ.あとは,なんとかしてやるから,という発想だ.
だから,マスコミがいう,「護送船団方式」は放棄された,ことはなく,役人が面倒をみれなくなったら廃業させて,関与した役人たちに責任という被害がおよばないようにしただけである.

しかし、こんな歴史解釈もないままに、日本経済は二度と復活しない社会主義(全体主義)経済を選択してしまった。
どん底まで落ちて、その後,東欧自由革命のような変革が起きればいいが、その保証もいまはない。

陛下が退位をご希望されたのは、こんなこともあったのではないかと、畏れ多くも拝察するしかない。
次の時代の困難は,かつて経験のない過酷なものになるだろうことだけは確実性がたかまっている.

「2円」のために失う「自由」

「仰天するニュース」というのは,天変地異いがいめったにあるものではないが,消費税率を10%にしたばあいの「軽減税率」適用のために,コンビニなどのイートインコーナーを廃止せよという命令を国がするという記事をみた.
目を疑うとはこのことだ.

100円の飲料なら,いまは8%の消費税率だから,「108円」.
10%になっても,飲食料品には軽減税率が適用されて,いまの「8%」がそのまま据え置かれることになってる「はず」とおもっていたら,「飲食する場所」によって税率がちがうという「珍奇」なことを政府が本気でやるという.
差額は「2円」である.

つまり,店内のイートインコーナーで飲食したら,軽減税率の適用はしない,というお国の嫌がらせである.
どこの誰が思いついたかしらないが,精神を病んでいるひとの仕業としかおもえない.
レストランとの違いを「区別できない」というのは,ふつうではない.

こんな馬鹿げたことを想定した問答集を,国税庁がちかくだすというから,わが国の生産性が上がらないのである.
国税庁職員の業務のムダに,イートインコーナーのスペースのムダ.
もし,このスペースを改修するなら,店舗を一時閉鎖しなければならない可能性もふくめてのムダもある.工事費と工事中の売上機会損失である.

しかし,そんなことよりも,あきらかに大問題なのは,レジをとおして支払が済んだものは,購入者に絶対の所有権があるはずで,それをどこでどう処分(この場合は飲食)しようが,所有者の勝手である.

もちろん,他者の迷惑をかえりみないような「処分」ではいけないが,それが店内であろうがなかろうが,所有者の自由であることにかわりはない.
ましてや,この議論の対象は,飲食スペースとしてすでに店が用意したイートインコーナーなのである.

なんのどんな権限で,営業の自由ともいえる範囲に命じることができるのか?
たとえ税を徴収するという,崇高な目的であっても,自由の侵害が許されるものなのか?
そんなことはありえないだろう.

ふだん,国防上のことで意見がかまびすしい「憲法学者」は,どんな見解なのかうかがいたい.
本件は,他国からの侵略や自衛についてかたる以前の,「国民の自由」にたいして国家権力の介入そのものではないか.
日本国が保障する「基本的人権」が,風前の灯火状態になっている.
まさに,あってはならない暴挙である.

弁護士資格を有する野党第一党の党首は,「景気悪化懸念」を第一の理由にして消費税率の引上げに反対すると発言しているが,とんちんかんも甚だしい.
ちゃんと法律の勉強をして,本当に司法試験に合格したのか?を問いたい.
あんたの専門は経済じゃなくて,法律だろうが.

人権について熱心な,日弁連もどういう見解なのか?あらためてうかがいたい.
イートインコーナーの廃止命令は,あきらかに人権問題ではないか?
社会的弱者や,不法移民の擁護が対象ではなく,一律,日本国に住む「人間の自由」の蹂躙である.

消費者は負けてはいけない.
バカにするな,と.
「2円」を惜しむ貧乏人は店外で食え.
イートインコーナーは,レストランか?日本から「豊かさ」がうばわれてゆく.

食品は,生活必需品のトップである.
150年前の日本なら,8割以上の国民が農民だったから,食べ物は自分でつくっていた.
いまは,たったの5%が一次産業従事者である.
だから,どこかで購入しないと,生活が成り立たない.「食っていけない」とは,食品を買うことができないという意味になった.つまり,生活ができない.

そんな食品だけは特別にしよう.
これが,「軽減税率」の趣旨だったはずだ.
繰り返す.
購入した食品は,購入者本人の自由処分の対象である.
それを,どこでならよくて,どこでならダメだと,役人が決めて命令するはなしでは絶対にない.

これを「馬鹿げている」と阻止しない国会議員は,自由を憎む全体主義者である.
まさに,本件以上の「踏み絵」はない.
なにがあっても,反対しない議員は,次の選挙で落選させなければならない.
日和った者も同罪である.

こんなことが許されるなら,「蟻の一穴」となって,わが国は地獄に落ちてしまう.
なんと恐ろしいことか.

とうとうこの国は,政府によって基本的人権が犯されるまでに追いつめられた.

政権は,憲法改正を「悲願」というが,いったいどこをみているのか?
民主主義・主権在民の憲法とは,「『国民から』国家・政府への『命令書』」なのである.
これをもって,憲法を「最高法規」という.
だから,憲法を守らなければならないのは,唯一「公務中の公務員」だ.

命令書をだした主権者たる国民は,公務中の公務員の仕事を監視する役目を最高裁判所にあたえた.

このままでは,この国は,「三権分立」してはいないことがバレてしまう.
すなわち,「近代国家」ですらない,ということだ.

わたしたちは,とんでもない国に住んでいる,かもしれない.

360億円のヨット

報道によると,ロシアの富豪が所有する全長119m,5959トン,乗組員50人のモーターヨットが,台風25号を避けるため,天橋立がある京都宮津に寄港した.家族は,内部にあるクルーザーに乗り換えて上陸し,丹後の海の幸を楽しんでいるという.

ありがたいことである.
外国の「超お金持ち」が,わが国を訪れることはめったにないから,こうしたニュースにもなる.
訪日客の「人数」ばかりを,なぜか「目標」にしている観光行政にかかわる役所の存在価値がいかにないかの示唆でもある.

日本の沿岸には,2866の漁港があるが,「漁港」なので,プレジャーボートの入港はできない,と思いがちだが,水産庁はこれを否定しているし,公益社団法人全国漁港漁場協会で「フィッシュアリーナ」という漁港をレクリエーションの場にしようという試みがおこなわれている.

しかし,以上のはなしは建前で,個別の漁港では,漁協が事実上の管理をしていて,つまり,裏を返せば役所が管理を漁協に丸投げしていて,おいそれと利用できないのが実態のようである.
事前に申し込めば,根拠不明な利用料が請求され,入港時に「現金での支払い」をその場で要求されて,領収書もくれない,などということがあるそうだ.

税金でつくったコンクリートのかたまりである堤防をふくめた漁港は,いったい誰のものであるのか?をかんがえると,占有者が所有者になる,という鎌倉時代の習慣がそのまま残っている.

また,高圧的態度で接するから,楽しいはずの入港がだいなしになるとも聞く.
一方,漁協の言い分にも一理あって,ボートオーナーの我が物顔での横柄な態度や,業務に差し障る場所への勝手な立ち入りなどがあるというから,ある意味どっちもどっちであるが,ボートオーナーの全員が対象者にはなるまい.

それで,これを「分離」するための,「フィッシュアリーナ」ということなのだろうが,これも例によって例の如く,建設予算がつくから,「事前の利用ルール確立」による,紳士的でおだやかな利用をいたしましょう,というお金をかけない「おとな」の発想がない.
さすがは「子どもの国 ニッポン」である.

だから,特定の漁港しか利用できないように仕向けているのは,役所の方になる.
水産庁のHPは,自己矛盾も甚だしい.
こういうのを「マッチポンプ」というのだ.

入国のための交通手段で,主たるモノが航空機になってひさしいが,そのなかでも贅沢なのは「プライベートジェット」といわれる,小型のジェット旅客機だ.
ホンダジェットが,販売開始してすぐに100機の注文があったというのは有名なニュースなったが,どんなひとが注文したのかの突っ込みがない.

一機3億円以上する「自家用機」だから,陸を走る超高級車が10台以上買えるお値段である.
しかし,自動車のガレージは自宅にも持てるが,飛行機の格納庫を自宅に用意できるひとは,すくなくても日本ではいないだろう.飛行機だから,動かすには飛行場が必要だ.
だから,結局どこかの飛行場に用意しないといけない.

すると,駐車場ならぬ駐機のための費用もばかにならず,運転免許ならぬ操縦免許だって,取得するには大変な訓練を受けなければならないし,そもそも,オーナーはプライベートジェットの客室に乗ることを想定するから,運転士ならぬ操縦士を雇わなければならない.
ビックリするほどの維持費がかかるのが,プライベートジェットだから,高級車のオーナーがちいさく見えるのも納得できる.

外国人の成功したビジネスマンは,「見せびらかしの消費」のために,こぞってプライベートジェットを購入するという.

 

ところが,スピードでは亜音速の最新大型ジェット旅客機にぜんぜんかなわないから,太平洋を横断して日本に来るには,それ相応の割増時間をかけてやってくる.

それでも,たとえファーストクラスをつかっても,一般人扱いされる入国審査とはちがって,プライベートジェットには国賓向けの特別室の利用もできるから,この「特別感」がたまらないのだという.用意した自動車が玄関に待機しているから,人目につかずにすばらしく快適な入国,および出国ができるというのは,たしかに特権である.

ところが,羽田や成田の駐機場がいっぱいで,なおかつ駐機料がこれまた「日本特別価格」で高いから,さすがのオーナーもひるむそうだ.
そこで,東京に用事があるオーナーが降りると,機体は「富士山静岡空港」にむかうという流れができた.

この飛行場も県知事の鳴り物入りでつくられたものだが,定期便がほとんどこないので,格納庫に空きがあったのだ.
いまでは,プライベートジェット用の格納庫があるというから,収入という「カネ」は重い腰のはずの行政だってかんたんにうごかすのだ.

あるとき,オーナーが機長に,どこに「駐車」しにいくんだ?と質問して,「SIZUOKA」とこたえたら.「Where is(Izu) SIZUOKA?」となって,地図をみた.
地元にくわしくなった機長が,「ONSEN」があると言ったから,たちまちオーナーがくらいついた.

伊豆半島の修善寺には,むかし修善寺町営の有名な「菖蒲園」があったが,菖蒲が咲く季節だけでは勝負にならないと,第三セクターという破滅的な組織で「修善寺虹の郷」というテーマが不明のテーマパークをつくった.

先に「修善寺町」が合併で行政地域として消滅したが,ふつうの「町名」になって残った.
パークの方はいじらしく,いまも営業している.
それで,第二駐車場をヘリポートにして,静岡空港からの連絡便を飛ばしたのは正解だった.

こうして,修善寺の高級温泉旅館は,プライベートジェットのオーナーが常連客になったので,一般客をとらなくなった.
超お金持ちの「一組」に全力をかけて接遇すれば,一晩で十組以上の売上よりも得るものがおおきいからだ.
正しく,楽して儲ける,とはこれをいう.

これが,生産性革命になる,ということを政府は絶対にみとめない.
たくさんの数を,いかに「効率的」にさばくかが「生産性向上」だと,高度成長期の製造業(大量生産大量消費)しか頭にない.
その製造業はとっくに,多品種少量生産に移行したのをしらないのか?

半世紀前の製造業の成功を,サービス業でやらせようと躍起になっている姿は,じつにお気軽で,しかも邪魔である.
その政府の介入を受け入れようと努力する「業界」も,どうかしているとおもうがいかに?

仕様なのか?バグなのか?

うまくいかない,どうしよう?
とかんがえたとき,その理由を追求するのがふつうで,犯人さがしは感心しない.
それは,犯人を排除すれば問題が解決する,という問題ならば,それは「バグ」であるだろうけど,おおくの場合,「バグ」の排除だけですむことなどめったにないからである.

たとえば,組織で「不正」があって,それを実行していた「犯人」がいるとして,その犯人を排除すればもう不正がなくなって問題が解決する,にはならないことでわかる.
不正を可能にした「仕組み」を,できない仕組みに改善しなければならない.

仕組みとは「仕様」にふくまれる.
そうなると,やっぱり重要なのは「仕様」だと気づく.

ひとりで事業をやっているなら,「仕様」は経営者のあたまのなかにあればいい.
ところが,二人以上の「組織」になると,経営者のあたまのなかにあるものを形にしないと,だれにも理解できなくなる.
それで最初につくるのが「経営理念」の表示になるのがふつうだ.

だんだん従業員のかずがふえてくれば,就業規則や退職金規程などのルールを書いたものがほしくなる.
いらぬトラブルを避けるためだし,賞罰のかなめになる.

経営者としては,初期のころには思いつきでよかった「賞」も,だんだん公平を期すようにしようとすれば,やっぱりルールが必要になって,たとえ経営トップでも,これらルールを曲げるわけにはいかなくなる.

だから,規模拡大の「踊り場」あたりで,じっくり考え直したくなるのは人情というものだし,組織の要請でもある.
こうして,経営の構造と仕様がセットになって再構築され,その後も何度か見直しの対象になるのは,実態とシンクロさせる必要があるからだ.

こうした進化の過程をへた企業組織は「強い」.
めったなことで「負けない」からである.

では,これらのことを「やる」エンジンはなんだろう?
それは,組織を公平に維持し,結果,業績の向上をしたい,という「意志」である.
つまり,端的にいえば「儲けたい」という欲望にいきつく.
すなわち,しっかり儲けつづける「強い」組織は,内部的にはちゃんと仕様が設計されて,その仕様どおりちゃんと動く仕組みができている.

だから,こうした組織を真似れば,即席にできるかといえば,そんなものではない.
むしろ,慎重につくられたことがわかればわかるほど,簡単ではないことに気づく.
そんな気づきがあればこそ,時間をかけてでもやらなければという「意志」が重要なのだ.

にもかかわらず,おおくの企業組織が病んだままでいるのがいまの日本になってしまった.
「儲けたい」という意志が弱いのではないか?
あるいは,むき出しの「儲け主義」と見分けがつかなくなってしまって,自社の「儲けたい」を隠そうとしていないか?そんな態度が,いっそう意志薄弱にみせるのだろう.これを「草食系」というかもしれないが,本物の食欲旺盛な草食動物に失礼だろう.

むき出しの儲け主義の特徴は,「バグ」を排除すればそれで済ませるという意志がみてとれることである.
しかし,この方法では,短期間で業績をあげることができても,長期間ではかならず無理が生じる.

社内に,「排除」の論理という文化が根づくからである.
すると,かならず人間関係がギスギスしだして,内部崩壊をおこしかねない.
まるで,巨星が自分の膨張圧力と重力のバランスが崩れて大爆発をおこすようなものだ.
つまり,それは「物理法則」であって,「運」ではない.

だから,短期で稼げる,と判断できたら,こういう組織にいる意味もあるが,それはふつう「処世術」の習得というもので,トップではなく部下としての生き方の選択の問題だ.
未来永劫,組織の繁栄を意図するトップであれば,残念だが愚かな方法である.
自分の組織を内部崩壊させた人物に,次のチャンスはめったにこない.

さて,さいきんは,自社の根幹に関わる業務を「委託」する企業が役所も含めて続出している.
この国は人手不足という慢性病をかかえてしまったが,他社に委託すれば人員募集の手間が省けるという考えがあるというからおどろいた.
つまり,「人手不足」という実態がある大問題をなんと,「バグ」だとみているお気軽があるのだ.

人手不足による人件費上昇圧力は,時間とともに高くなるだろうと予想できるのは,出生率からも想像できる.「バグ」であるはずがない問題だ.
そこで,これを「仕様」として考えるなら,ポイントは二つあることに気づくだろう.

1.上昇する人件費を吸収する売上をどうするか?
2.おなじ人件費で,結果をだすひとと,だせないひとの区別をどうするか?

1.は,欧米先進国が経験済みで,販売単価を上げる,ことに徹することになるが,過当ともいわれる競争下で,自社だけ値上げはできない.だから,品質向上による単価増しかない.
2.は,結果をだせないひとを「バグ」扱いするのか?という問いに,「排除」の論理がつかえるのか?という二重の問題がある.排除した欠員を募集しても応募があると期待できないなら,いっそ結果をだすひと,になってもらうしかない.そうすれば,上記1.と連結する.

もはや,人材育成のための「仕様」が,絶対に必要になっているのである.
かんたんに真似はできないが,せめて,以下の書籍を参考に,かんがえ方だけでも,日本一世界一の会社から学んでみてはいかがだろう?
それは,自社の「生き残り戦略」そのものである.

 

人情とまさかのキャッシュレス化

中央計画経済の計画策定をめぐる困難さは,1921年に創設されたソ連の「ゴスプラン(国家計画委員会)」がどうなったかでわかる.こたえは,国家の崩壊であった.
しかし,その創設一年前の1920年にミーゼスが発表した「社会主義共同体における経済計算」という論文で,その「不可能性」がはっきりと指摘されていたことにもっと注目すべきである.

青山学院大学の故吉田靖彦教授の「社会主義経済計算論争再考」(1991年)に詳しい.
また,ミーゼスの著作なら「ヒューマン・アクション(人間行為の経済学)」(春秋社,2008年)が,大著だが読みやすい.しかし,古書で50万円の値がついているから,電子書籍版か図書館に頼ることをおすすめする.

わが国における「経済学」が,マルクスに脳髄を冒されたまま,なんとかの一つ覚えよろしくいまだに先進国のなかで唯一ケインズ一辺倒を維持しているのは,ある意味いじらしくもある.
完全な勘違いにもかかわらず,経済官僚たちによる戦後経済復興の「成功体験」という幻が,夢うつつのまま忘れられないからだろう.

あのサムエルソンの有名な教科書「経済学」は,米ソが「対等に」対峙していたという,これもおおきな勘違いだったことの前提から,「混合経済」という資本主義と社会主義を「混ぜた」いいとこ取りを提唱するという「猛毒」だった.

ところが,訳者であって,わが国経済学会を牛耳っていていたマルキスト都留重人が,これを東大で積極的におしえたのが効果てきめん,各大学の教師と官僚がみごとに染まってしまった.
いまだに大学の経済学部にはいるのに,受験で数学を要しないのは,マルクス経済学という「文系」を前提としたからである.

そういう意味で,さいきんになって再評価されてきている上述したミーゼスが代表する,オーストリア学派(ウィーン学派ともいう)の「経済学」は,なるべく早い時期に取り込んでおけば,免疫力をたかめるワクチンでもあるし,もし「発病」しても解毒剤としての効能もおおいに期待できるのである.

だから,影響力のある大学の先生や経済官僚を自負する人たちやその予備群には,はやくミーゼスなりのオーストリア学派を飲み込んで,自浄作用を期待したいのだが,そうはならないのがわが国の宿痾である.

その病気が,「キャッシュレス化推進」という政策にあらわれて,経産省さんのお役人たちが中国で普及したという「バーコード式」に飛びついて,これを使えと民間に命令しようと準備をはじめた.
命令はムチだが,例によって補助金というアメも用意する,いつもどおりのワンパターンである.

ところが,これまで景気を気にして優柔不断を繰り返した「消費税率」の問題が,いまだにはっきりしないから,レジと連動したクレジットカードの処理端末すら普及しない.
もちろん,税率変更に対応したレジの更新もしないのが民間における経費削減のすさまじさである.
補助金をやるやから「やれ」と命令したが,正式に決まるまで動かないのは「人情」だ.

静岡県の銀行の不祥事や,九州の県をまたぐ地銀の統合問題の公取委の判断など,AIだけでなくこのところ銀行をとりまく話題が豊富だ.
将来をみれば,人口減少とAIが脅威となるが,足下はなんといっても日銀の「異次元緩和」というむちゃくちゃで,マイナス金利という人類史上はじめてがとびだして久しい.

銀行があまったお金を日銀に預金すると,利子をくれるのではなく手数料をとられてしまうから,誰かに貸さなければならないが,金融庁が「担保をとれ」と命令するから,不動産でうまい貸出先はないかとさがしたら,でてきたのが「かぼちゃのばしゃ」だった.

誰でもいいから貸さねばならぬが高じたら,てきとうに書類をつくればいいことになったのだろう.
それで,不正がばれたら,こんどは金融庁が,不動産融資を「監視する」というむちゃくちゃで,銀行の稼ぎはどうしたものかになって今がある.

半沢直樹のドラマのような展開で,自己目的化した役所に振り回されるお気の毒な銀行だが,その後始末はかならず一般国民がかぶることになっている.
それで,10月から銀行だけでなく郵貯も,キャッシュカードの取り引き手数料を「値上げ」して,小銭を稼ぐことになった.

預金者は気がつけば,自分のお金を引き出すのにお金がかかる事態になる.
そんなバカな,と防御策をかんがえたら,キャッシュレス化がもっとも合理的だ.
クレジットカード系,流通系,交通系も,携帯だって,つかえばポイントをくれるから,現金を引き出す手数料との差額分が「お得」になる.

主幹の役所がやろうして命令してできないことが,別の役所の命令から「まさか」のキャッシュレス化がすすむに違いない.
それが「人情」というものだ.
ミーゼスのいう「人間行為の経済学」がとっくに教えてくれている.

「持続可能」というかんがえ方

わが国漁業において,「持続可能」というかんがえ方がないことを前に書いた
これは,残念だが,政府にも国民にもないかんがえ方である.

わが国が民主国家であるとすれば,国民にないから政府にもないという順番になる.
中央政府の独裁的国家であれば,政府にないから国民にもないという順番になる.
どちらかというと,後者のほうがなじむから,わが国の民主主義を疑うのが正常だろう.

このあいだの北海道地震で,あろうことかわが国ではじめてブラックアウトが原因の大停電が発生した.
これについても書いたから,重複はさけるが,太陽光発電の無意味さが図らずともクローズアップされることにもなった.

この問題を,科学の目線から解説しているのは,なぜか武田邦彦教授ひとりである.
太陽光発電パネルをつくるためにもエネルギーが必要だが,これをまかなうのは太陽光発電ではなく火力などの「安定」した発電方法からの電気で,残念ながら太陽光発電パネルの発電力では,太陽光発電パネルをつくることができない.

これは,研究者ならだれでも知っている物理科学の常識だと教授はいう.
それなら,どこかがおかしいではないか?
すると,教授は,法学部とかの文系のお役人は,エネルギーの付け替え,という技をつかって,太陽光発電パネルをつくるときのはなしと,太陽光発電パネルが発電するときのはなしとを「分離」してしまうことからくる,お伽話であると説明する.

「屁理屈」をもてあそぶ法学部だというのは,なかなかの名言である.
だから,おなじ論法をもちいると,電気自動車や水素自動車も,科学的にはぜんぜん「持続可能」なものではないということがよくわかる.
ガソリンや軽油を燃やす,既存の技術に飽きた研究者たちの「おもちゃ」にすぎないという.

その究極が,原子力で,福島の事故の始末をどうするかさっぱりわからない科学技術水準なのに,政府は「安全が確認された」と明言していることも前に書いた.
そんななか,昨年,資源エネルギー庁は「安全性を向上させる」という驚くべき発表をしている.
通常の火力発電所が壊れるのとは意味がちがう原子力を対象に,こうしたことが言えるのは,やはり文系法学部のお伽話であるとしかおもえない.

どうせお伽話なら,原子力船もつくれなかったわが国にあって,原子力潜水艦や原子力空母の原子炉を,大地震でゆれても大丈夫なように海に浮かべれば,よほど安全だろうにとおもってしまう.
退役したこれらの艦船を,もらってくることはできないのか?
機動力がある発電所になるだろう.

結局のところ,「持続可能」という議論に,前提となる定義がないのだ.
だから,文系がてきとうな屁理屈をかんがえついて,それを政策にしてしまう暴挙が平然とおこなわれ,研究予算が欲しい科学者がだんまりを決め込み,あわてた科学者が細々と反論するありさまになってしまった.

これは、文明国のやることではない.
野蛮な独裁国家がやってきたことだ.

学校での理科教育はどこにいったのか?
自然科学の法則が,かんたんに書き換えられてしまうなら,決算書の書き換えなど,もっとかんたんだ.

「文と理」が分離して,とうとう社会が分裂してしまった.
早稲田大学の経済学部が,数学を受験科目にくわえると発表したのは,ようやく離れる方向から反対のベクトルがでてきたのだと期待したい.

制度をつくるのは人間だから,まず人間が持続可能でなければならない.
人材の使い捨て,などということをしていると,その組織は持続不可能になる.

月次資料はゴミか?

統計用語に「ゴミ」という表現がある.
ろくでもない雑でいい加減なやり方で収集したデータ「らしきもの」を,どんなに精緻な計算で加工しても,でてくる答はつかいものにならない.
材料がさいしょから腐っていたら,最新の調理器具を用いたところで,それは食べることができないのとおなじだから,「ゴミ」からは「ゴミ」しかできない,という意味である.

文春新書に,谷岡一郎「『社会調査』のウソ(リサーチ・リテラシーのすすめ)」(2000年)という本がある.

マスコミ報道など,ふだんの生活でよくみかける「統計」数字や,グラフ表示に,結果ありきのインチキが多々あることを,具体的におしえてくれる.

これをもって統計なんか「役に立たない」と決めつけてはいけない.
ちゃんとしたデータの収集方法をまもって,検討された適確な方法で計算されたものは,役に立つものだ.
もちろん,計算が正しくなければならないが,統計計算機能つき関数電卓やパソコンの表計算ソフトが計算をするのがふつうだから,データ入力さえまちがえなければ,計算は機械がやってくれる.

「発見的教授法」について,以前書いた.
はじめに目標を設定して,それからどうやって目標を達成するかの思考方式を「演繹法」という.
これをベースにしているのが,発見的教授法のポイントである.

ところが,わが国では,あいかわらず一段一段積み重ねる方式の「帰納法」が主流で,これを変えようとしない.
統計がどんなに世の中で役立つかを先に教えず,無機質な計算方法をとにかく教えるから,生徒は苦行的勉強を強いられて,結果がでなければだれだって面白くない.そうして,「理解したい」けどぜんぜんわからない子どもに,脱落するように仕向けているかのようである.
じつにサディスティックなのである.

だから,ほんとうに頭のいい子と,深くかんがえない要領のいい子がフルイに残るようになっている.その深くかんがえない要領のいい子が,大挙して高級役人や経営者になっているから,国力が落ちたのではないか?
「理解したい」という欲求をもたせて,おもむろにやり方を教える方法では,脱落者が減ると予想できるから,結果的に全体の底上げができる.それが,国力になるのは当然ではないか.

生徒の成績があがらないのは,教える側の教え方が下手なのだ,という発想法が予備校にしかない.
だから,学校が部活の場になって,塾が勉強の場になった.
それで,教え方が下手な教師が部活でパワハラするなら,生徒は学校にいく理由がない.
わからない子どもがゴミなのではなくて,教え方が下手な公務員教師がゴミなのだ.

ところで,「数学」という教科の不思議は,三角関数を重視しているようにみえることだ.
経営者が欲しい知識に三角関数はふくまれない.
むしろ,微分と積分のほうがよほど重みがあろうが,いまどきの「文系」の高校生には選択の自由がない.なぜか「理系」の生徒しか習わなくっているから,三角関数と順番が逆ではないか?
これも,世の中でどんなに役立つかを教えずに,計算方法だけに突っ走るからだとかんがえられる.そういえば,公務員教師はビジネス経験をもちようがない.

なんどもこのブログでは損益計算書を批判の対象にしてきているが,損益計算書にはもちろん罪はない.それをありがたがるひとが問題なのだ.
業績がダメな企業ほど,損益計算書をありがたがっている.
それで,こういう硬直した企業ほど「経理部」がしっかりしているから,確定数字しか目にできない.

これは規模の大小に関係ない.
大企業なら自前の経理部,小規模企業なら,顧問税理士からの資料に依存しているのがふつうだろう.
それで,どちらも「3週間」かかる.「3週間」である.先月の数字が確定するのに「21日」を要するのだ.

すると,こうした企業では定例の月次幹部会が開催されるが,社長も含め幹部が先月の数字を,今月の残り10日しかないなかで「議論」している.
いったいなにを「議論」しているのか?3週間前におわった,先月の反省なのである.
たしかに反省は結構だが,どんなに反省しても先月の売上や現金がふえることはない.

各人の時給を足し算すると,おどろくべきコストがこうした反省会にかかっているのに,こうした企業ほど鉛筆一本,紙一枚を惜しむのだ.
そして、残りの10日間で今月をどうするのかを「検討」する.
当日から10日で効果のある対策がとれるなら,先月の反省は,もっと早く対策をとるべきだった,の繰返しにならなければならないが,そうはならないのが業績不振企業の不思議である.

深くかんがえない要領のいい子が,集団でおとなになった成りの果てである.

3週間後の「月次資料」は,ゴミである.

民間に「智恵」はめったにない

役所がこまったときにつかう逃げ口上に,「民間の『智恵』の活用」がある.
ふだんは上から目線で,民間をバカにし尽くしているので,これほど歯が浮くはなしもないが,そらみたことかと言われた民間がよろこんだりするから,役人はうしろを向いてベロをだすばかりだ.

この国の民間企業のたいはんは「赤字」である.
だから,きっちり納税している企業の数は,おどろくほどすくない.
もちろんなかには「智恵」をつかって赤字にして,税金をはらわない企業もあるだろうけど,その智恵とは「悪知恵」だから論外である.

お役所のアルバイト仕事に,各種の「現業」がある.
たいがいが,実質子会社の財団や公社などが直接運営するか,その財団などをつうじて指定管理者に孫請けさせている.
おおきな都市になれば,直営の交通局などもある.

バブル前後に流行って設立された,「第三セクター」はみごとに全国で全滅状態で,とうとう一例も「黒字」はなかった.
第三セクターこそ,民間の智恵の活用ではなかったか?
つまり,これでわかるのは,民間に智恵がなかったことである.

しかし,一方で,官営事業の特徴に,「儲けてはいけない」という妙な決まり事がある.「民業圧迫」というまっとうな批判をかわしたいだけなのだろうが,儲けなくてはいけない「民」からすれば,儲けてはいけない「官」は,たんなる「楽勝事業」になって,やっぱり民業圧迫をする.
だから,共同事業者に「官」がくわわると,とたんに儲けることが「罪」になってしまう.

収支トントンをもってよしとする.
赤字なら,血税の投入で,より価値がたかい事業にみえる.
指標が「収支」というフローだけだから,土地や建物といった不動産にくわえ,業務に要する設備などの動産といったストックになる「資産」は,設立時にしかみない.

「官」には減価償却という概念がないから,ときがたてば修繕だけではすまない更新が発生するけれど,その積立というかんがえもない.
なぜなら,それは別会計の予算という,財布がもともとちがうからである.
ところが,いざとなるとその予算が組めない.税収不足と社会保障制度が,自治体にも重くのしかかるからである.結局は,一緒の財布なのだが,そんなことは事業のあいだ気にしない.
こうして,官営事業のほとんどが,最初の投資の償却がおわるころに,だいたい息絶える運命がまっているのである.

では,智恵があるはずの民間はどうか?
わかっているのは一部の企業である.
たとえば,トヨタ自動車.
もはや,わが国をささえる唯一の業種であるなかのトップ企業だ.

トヨタ自動車の影響力は自動車業界だけでなく,わが国製造業に多大な貢献をした.
もっとも有名で重要なのは,故大野耐一副社長による「トヨタ生産方式(脱規模の経営をめざして)」だろう.1978年の初版で,40年たったいまでも新刊書として入手できる名著である.

ホテル勤務時代に手にして,衝撃をうけた一冊である.
あたかもよくあるノウハウ本のようなタイトルだが,とんでもない.
これは、技術の本ではない.中身は深遠なる経営思想と哲学にあふれているから,「人文科学」の本である.
だからこそ,観光立国とおだてられ,人手不足になやむ人的サービス業に,重要な示唆をあたえてくれるだろう.サブタイトル「脱規模の経営をめざして」がそれを物語っている.

ところで,いい旧されてはいるが,トヨタ生産方式といえば「ジャスト・イン・タイム」で,在庫を持たないことが有名であり,各企業がこれを真似ようとして,おおくが挫折を強いられていることでも有名だ.
その理由が,「なぜを5回繰り返す」という思考法の実践における成否なのである.

現場における問題を解決するにあたって,とにかく「なぜを5回繰り返す」.
これを愚直に50年間やってきたら,かってに世界一の自動車会社になっていた.
世界一という結果がすごいのではなく,「なぜを5回繰り返す」ことを全社でつづけたことがすごいのだ.

かんたんに真似ができない理由である.
3回までならなんとかなるが,あと2回がでてこない.
宿泊業の場合,とりあえず3回でもいいから「なぜ」を繰り返すことを指導している.
じっさいにやってみると,はじめはとにかく「苦痛」なのだ.

しかし,これを全社でやって,それを自社の「社内文化」にまで昇華できるかとなると,さらなる苦痛がやってくる.
おおくはその苦痛を経営者があじわうことになるから,つづかない.
こうして,智恵のある企業とない企業が分岐して,残念だが苦痛に耐える企業が圧倒的にすくないから,智恵のある企業がかぎられるのだ.

昨今の不祥事も,智恵を絞り出す苦痛ではなく,相手を罵倒してこころを疵付ける苦痛のほうになってしまった.
それは,安易さというぬるま湯が変容した苦痛だろうから,企業文化の劣化にほかならない.
経営者の劣化を鏡に映したものだろう.

それで,役所がパワハラを禁止する法案をつくるときた.
民間に知恵などないとかんがえている証拠である.
これに財界が反発しないのは,自らの知恵のなさを認めたも同然である.
むしろ,パワハラをするような不逞のやからを自社から排除できるとよろこぶのか?
雇用主としての責任放棄もはなはだしい.

そうかとおもえば,トヨタの社長は自動車保有に関する消費者の税負担が世界標準に照らしても高すぎると政府に文句をいってくれた.
これぞ,民間の智恵というものだ.
トヨタしかないとは,嘆かわしいばかりである.