幕末より悲惨かも

江戸幕府がどうして「倒れた」のか?
あるいは、どうして薩長による明治維新が成功したのか?

第一に、「経済戦争」に「自覚なく」負けたのだった。
当時の日本人がしらなかった、世界一の金・銀保有国だったのに、幕府の「軍需」によって大量流失した。
それで、国内は「大インフレ」になったのである。

それが、「お陰参り」と「ええじゃないか」という、モラル崩壊にあらわれて、自暴自棄になったのである。

なんと、相手はこの時点ですでに、国際金融資本だったのである。
いまでいう「長州ファイブ:井上聞多(井上馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(伊藤博文)、野村弥吉(井上勝)の5人」が、大英帝国はロンドンに留学したのは、国際金融資本の「手先」としての「訓練」が目的だった。

われわれは、学校で、幕末のゴタゴタを習うことは習うけど、なんだかよくわからないうちに、「大政奉還」となって、明治新政府ができる。
それでも、いろんな反乱と政変があって、とうとう西郷隆盛が討ち死にするけど、実弟の西郷従道は偉くなる。

むかしからあった「連座制」が通じない不思議が、明治政府の「あたらしさ」をいうのか?という細かい疑問は、庶民の暮らしに目線をやれば、その「貧乏さ」に唖然とするほどの貧乏なのである。

このどうしようもない「ギャップ」をどうみるのか?

そのたまったエネルギーが、米騒動の「打ち壊し」になったりする。
あくどい商家が襲われるという、物騒なことが全国で起きる「ふつう」も、現代日本では「異次元の世界」になっている。

すると、現代日本の方が「異常」なのかも?ということになってしまうが、「世界標準」が大好きなひとたちは、この異常を「日本的美徳」という。
いまの世界も、暴動が「ふつう」なのだ。

つまり、「日本的美徳」という「むかしから」は、こと暴動についていえば、まちがいなく「戦後」の価値観なのである。
少なくとも、100年前の「大正」までは、江戸期からの「打ち壊し」は「ふつう」だったからである。

江戸期なら、幕府(お上)は、「喧嘩両成敗」をもって裁いた。
打ち壊しの実行犯も、打ち壊された商家も、両方が罰せられたのである。
これができたのは、お上が「経済的無力」だったからである。
つまり、「他人事=第三者」でいられたのだ。

それが、近代ヨーロッパの「所有権の絶対」が輸入されて、明治政府(お上)に、「経済的優位」ができて、納税する余力がある商家のあくどさを免罪するように変化した。
江戸期になかった、「全国規模」の打ち壊しになった理由である。

裁判官も、庶民の暮らしとは別世界の暮らしになったのである。

しかして、打ち壊しの決定的理由は、どうにもこうにもならない「貧乏さ=貧困」だったから、殖産興業が重要政策になったのではあった。
また、ロシア革命が、理論的に「打ち壊し」を支えたので、そんな政府にとって「アカ」が「悪」にもなった。

大学は、別の意味での「権威主義」があったので、教授も学生もロシア革命の「大義名分」に引き込まれた。
それが、「軍」にも伝染して、とうとう、海軍の「5.15」、陸軍の「2.26」になって「破たん」の双子山ピークができたのである。

発展途上国なら、余剰人員(失業者)を吸い込む「働き先」(口減らし先)として、「軍」がある。
軍には指揮をする役割の「将」、命令を実行する役割の「兵」がいて、農業国なら農民の長男を除く男子が兵となる。

就学できないほどの貧乏ならば、陸軍の「兵隊」になって、「肉弾戦」をするための「消耗品」とされた。
読み書き算盤ができたら、海軍の「水兵」になった。
こちらは、艦ごと運命共同体なので、「資産」扱いされたのである。

ゆえに、陸・海軍とは、性格がことなる組織になる。

よって、陸軍の「兵隊」募集での最大特記事項とは、「白米が腹いっぱい食える」ことだった。
海軍の、「世界を股にかける技能集団」とはちがうのである。

けれども、発展途上国・日本の軍隊における「兵力消耗」の最大の敵が、「脚気」になった。
ビタミンが発見される「前」でのことである。

「弱肉強食」の世界で、生き残るための闘いは、本当の戦争だったから、人間の命が軽んじられたのではなくて、ほんとうに「命がけ」だったのである。

それが、「戦後」、もっけの幸いだったのは、強大なアメリカの保護国(属国)として、本当の戦争を回避できたことであった。
それは、戦争が「技術的に」も、「核の傘」という論理で、わが国に「降ってこなかった」からでもあった。

しかし、この「技術」が、おどろくほどに「進歩して」、それに、バイデン政権の「わざと」で、とうとう「核抑止」という論理が、「核保有国」だけのローカル・ルールになってしまった。

だから、即座にわが国も核武装せよといいたいのではない。

わが国は、核武装することで目的が機能する、指揮命令系統ばかりか、「国防」のコンセンサスさえとれない状況にある。
この空恐ろしい「現実」の状況が、「霧が晴れる」ように、ウクライナの問題から見えてきた。

資源高騰時の円安とは、経済戦争の敗北を意味する。
これを、日銀がやっていて、それを政権与党がやらせている。

明治維新と敗戦に加えて、三度目の「売国」が、はじまっている。

激しい選挙の攻防戦

フランスの大統領選挙は、24日が決選投票だ。
定義が不明の「中道」からは、マクロン氏。
同様に定義が不明の「極右」からは、ルペン氏が立っている。

マクロン氏の5年間をみれば、フランスで「中道」とは、「左翼全体主義」を指すことがわかる。
すると、この「計算尺」なら、「ルペン氏」がずっと左にずれて「中道」という目盛りにあてはまってくるのだ。

こんな「計算尺」を、日・米にあてはめると、民主党員でもない「極左」のバーニー・サンダース上院議員が、民主党大統領予備選挙で事実上の勝利者だったことを思い出せば、わが国の自民党は、サンダース氏よりも「左」の目盛りになってしまう。

彼が最終局面で「辞退」したのは、予備選挙で鳴かず飛ばずだった、バイデン氏を推すための、党本部からの「邸宅寄贈」が理由だった。
日本ではかんがえられないこんな「公然たる買収」を、なにしろ、「本人」が支持者に説明してはばからないのがアメリカの「正直」なのである。

ヨーロッパが、「危機」なのは、ウクライナではなくて、「EUの結束」があやしくなったことをいう。
「EUの結束」が弛むとは、NATOの緩みでもあるのだ。

その「決定打」になるかもしれないので、フランス大統領選挙が注目されている。

もちろん、「NATO脱退を公約する」ルペン氏の勝敗のことだけど、その前に、ヨーロッパを支えるドイツが「転けている」から、フランスがEUをひとりで担ぐことになって、いまやEUの重心はフランスだけにある状況ができた。

なお、「前回」ルペン氏は「EU脱退を公約」にしていたけれど、今回は「マイルド」になっていて、実父の前党首がこれに異議を唱えたら、なんとこのお嬢様は、党創設者の実父を「除名処分」してしまったのである。
ちょっと「家具屋姫」の話に似ている。

ドイツが自爆したのは、「ナチスは悪」を貫いたら、どんどん引き寄せられて、「環境全体主義」に堕ちてしまったからだった。
いまのドイツ人は、ゲーテの『ファウスト』を読んでいないのか?を、ドイツ人に聞いてみたい。

結局のところ、「嫌い嫌いは好きのうち」だった、ということだ。
だからかしらないが、ウクライナの「ナチス」を、いまや正々堂々とドイツが支援している。

いまのヨーロッパのややこしさは、第一次世界大戦後のポーランドが、西ウクライナを攻めて自国領にした経緯があると書いた。
フランス語でいう、「アルザス=ロレーヌ」、ドイツ語でいう、「エルザス=ロートリンゲン」のごとく、「国境線は動く」のがふつうなのだ。

第二次世界大戦になって、ポーランドがドイツになると、西ウクライナ地方もドイツになった。
ドイツはここから、ソ連を攻めてモスクワ攻防戦になったのである。

その間に、西から「本国」が攻められて、「ナチス本部」は、ベルリンから西ウクライナに「移転した」のだ。
よって、こうした事情を、ドイツ人が知らないはずはなく、ひいてはヨーロッパ人が知らないはずはない。

これを知っているハンガリーは、ウクライナ政府に一切の同情をみせないし、ルペン氏も同様なのである。
これを、マスコミは「親ロシア」だと、「宣伝」している。

その「宣伝」を仕掛けているのが、バイデン政権だ。
案の定、アメリカの軍事産業は、空前の利益を「四半期決算」で公開していて、見事な「株高」にもなっている。

けれども、プーチン政権を倒すべし、というアメリカ人よりも、バイデン政権を倒すべしというアメリカ人が「多い」という、衝撃的な「世論調査」も発表されて、さらに、「でっち上げ」がほぼ確定した、トランプ氏にかけられた「ロシア疑惑」の裁判で、窮地に追い込まれているのがヒラリー氏になってきた。

「戦時の大統領は選挙に強い」というのが、なんだか「伝説」になりそうなのは、ウクライナが長期化すると、バイデン氏の支持率も「元の木阿弥」になってきたからである。

11月の中間選挙まであと半年あまり。
それで、今月と来月は、「予備選挙」による各党の「候補者選び」が佳境になってきた。

とくに、野党・共和党の予備選挙における攻防は、かつてない激しさになっている。
党内での、トランプ支持派(保守派:キリスト教長老派)と、「RINO(Republican in name only):名ばかりの共和党員:軍産複合体の代理人」との対立が、「歴史的」なレベルにまでなっているからである。

それが、「選挙資金集め」の攻防になっているのが、アメリカらしい。
テレビのコマーシャル枠を買わないと勝てない、という「テレビ依存」がまだあるのだ。

不幸にも、わが国では自民党をはじめとして「全党」が、「党内予備選挙」という「制度」をもたない、「非・近代政党」ばかりなので、どういった経緯で立候補するのか?を、党員すら知らないひとが「候補者」になる。
これは、「現職」もおなじなのだ。

そんなわけで、夏の参議院選挙の運動が、ぼちぼちはじまっている。
この選挙のあと、わが国は「黄金の3年」という、国政選挙の予定がない状態となって、政権与党には「なんでもできる」状態がうまれる。

「参議院」だから、「関係ない」とはいかないのである。
しかして、フランスとアメリカの選挙の影響を受けないわけにはいかないから、やっぱり「外圧」がないといけないのか?

じつは、今回の参議院選挙が、わが国の運命を決定づけるといって過言ではない、未来の国民生活にとって重大な「選択」となるのだけれども、これを理解できる国民が少数派かもしれない。

自浄ができないのは、残念ながら国民に原因がある。
それが、「民主主義」というものだ。

変な「円安」130円

歴史的なインフレが襲っているアメリカなのに、デフレが続く日本の「円」が一方的に「安く」なっている。

インフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が低くなることだから、「物価高」で、デフレとは、モノの価値よりも通貨の価値が高くなることをいうから、「物価安」になる。

だから、二国間でいえば、インフレの国の通貨は、デフレの国の通貨よりも価値が下がって、デフレの国の通貨の価値があがるのが、「ふつう」なのである。

すると、いまの「円安」は、「変なこと」になる。

この「変なこと」を、「理論的」に説明するのは、「通貨量」だけになっている。
つまり、アメリカで発行された通貨量と、日本で発行された通貨量との「比」が、為替レートを決定している、というものだ。

これを、「マネタリーベース」という。

インフレになったアメリカのドルよりも、たくさんの円が発行されている。
日本円の発行体である、日本銀行の意志で決まる、ともいえる。
しかし、それなら日本はアメリカ以上にインフレにならないといけない。
どうしてデフレなのか?

市中にあるはずの円が「ない」からである。

日銀はたくさん刷ったお札で、国内の金融機関に国債を買わせた。
融資先がない金融機関は、預金者から集めた預金につける利子が払えなくなるので、利子がつく国債をよろこんで購入したのである。
こうして、市中のおカネを吸い上げた。

しかしそれから、「異次元」の金融緩和という、「魔法」をつかって、その国債を日銀が「買い上げる」ということをした。
銀行の銀行に当たる日銀が「買い上げる」とは、各金融機関の日銀「当座預金」残高が、「増える」だけのことだ。

当座預金には、利子がつかないので、金融機関の経営はより苦しくなった。
それで、どちらさまも大規模「リストラ」をしないといけなくなった。
行員の人員整理のために、「支店」の整理をしただけでなく、あらゆる「手数料」を値上げして、利用客の利便性を悪化させて不便にさせることをした。

それでも立ちゆかないことをいいことに、外国の資本を導入して、という「言い方」で、わが国の銀行は、事実上の「外資」に買われている。

いまさらだけど、これと似た「手口」が、「郵便局」で実施された。
資金が豊富だった、「郵便貯金」と、「簡易保険」が、それぞれ分離して、永久赤字の「郵便」を別物にしてから、外国資本が購入したのだった。

このときにつかわれた用語は、「提携」だ。
それで、体よく郵便局にあった日本人の金融資産が外国へ移転したのだった。
当時の郵便貯金と簡易保険は、「世界最大」だったのである。

それで、永久赤字の郵便は、日本人のものの「まま」になっている。

つまるところ、日銀は、わが国の「バーゲンセール」をやっているのである。

この「由々しき問題」について、日銀総裁に質問するものがいない。
もちろん、もっと「上」にいるのは、自民党・公明党という「政権与党」であるから、あえていえば「真犯人」は、これらの政党になる。

とくに自民党は、ほとんど言い訳ができない「確信犯」だ。
戦後一貫して、ゆるぎのない「支配」をしてきたからである。
短命だった「細川護煕政権」とか、「民主党政権」に、この「テッパン」を崩す能力も気力もなかったからである。

さてそれで、「マネタリーベース」の話にもどる。
円とドルの為替レートを、マネタリーベースのグラフとつき合わせると、85年以前は、ぜんぜん一致しないで、86年までの一年で急速に「収束」するのである。

これが意味するのは、85年の、「プラザ合意」の威力以外かんがえられない。
すなわち、日本円とドルは、360円の固定制をやめて(71年)も、それぞれが「独自性」を持っていたのである。

「$1=360円の終わり」を決めたのが、71年の「スミソニアン協定」(ニューヨークのスミソニアン博物館で開催された会議)であった。

つまり、わが国の「経済的独立」の、最後の時代が、71年~85年だったのである。
だから、この後の「バブル」すら、「あだ花」なのは、戦後自由経済が終わったことで「咲いた」からであったと解釈すべきなのである。

戦後経済の延長上でバブルになったのではない、ということだ。

それは、「日本買い」開始の派手な「のろし」だった、と解釈すれば、その後の不良債権処理というスピード感ある「叩き売り」の説明がつくし、失われた平成の30年間の説明も可能だ。

「ハゲタカ」が猛烈なスピードで企業を買い漁ったのは、ちゃんとひそかに「準備」して、「狙い」を定めていたからである。
それは、「崩壊時」からではなく、「崩壊前」からの準備なのは当然だ。
そのための「日本法人」をいつ開設したのか?

肥らせて、弱らせて、安く買って高く売る。
ハゲタカとは、究極の「転売ヤー」なのである。

すると、この不可思議な円安とは、「バーゲンセール」だけの意味ではなくて、日本「閉店売りつくしセール」の意味合いが出てくる。
それが、外資による「日本企業買収」であり、「不動産買収」なのだ。

「生産要素」とは、「資本」「労働」「土地」だから、企業買収と不動産買収の意味は、わが国の「生産要素」の買収なのである。
「企業」には、銀行も含まれ、「資本」と「労働」がそこにある。

おそるべき、日本人総奴隷化のはじまりに見える。

残念ながら、全員「逃げ場」はない。

絶滅危惧種・豆腐屋の豆腐

いろんな「当たり前」が、どんどん「絶滅危惧種」になって、気がつけば閉業しているので、その都度寂しい思いをするものだ。
心が寂しくなるのもあるが、うまい豆腐が食べられなくなる「口の寂しさ」もあるのが、わたしにとっては「豆腐屋の豆腐」なのである。

豆腐屋がない、新開発地の街に住んで30年以上が経過した。
引っ越してから気がついたのは、どこにでもあると思いこんでいた豆腐屋が「ない」ことだったのである。

子供のころから近所にはいくつも豆腐屋があって、とくに「町内」の豆腐屋がわが家の「いつも」だった。
小学生のときには、祖父が飲む豆乳を、二日に一度ウイスキーの空き瓶を持っていって買いに行くのが、登校前の仕事だった。

手に握りしめていたのが「200円」だったことをいまでも覚えている。
それからオイルショックで300円になった。
「当時」からしたら、というよりも、「いま」からしたら、あんがいと「高価」だった?

そこで計算してみると、

740㎖で200円だったのを、現代の豆腐屋の豆乳が200㎖でだいたい200円だから、740㎖÷200㎖=3.7倍なので、200円×3.7=「740円」が比較対象の価格になる。

この50年間での物価上昇率を3%とすると、200円×1.03^50=877円となる。(「^」はべき乗)
おなじ計算を、2%ですると、538円。

元値を300円にしたら、3%で1315円、2%で807円。
740円を基準にしたら、当時の値段は「そこそこ」だし、いまのちゃんとした豆乳が、「爆上がり」している、ことにはならない。

ビンに入れるとまだ「熱い」から、布の袋にビンを入れていったけど、店内の蒸気と甘い匂いが好きで、豆乳なるものこそがうまそうに感じたけれど、子供にはそのまま飲んでうまいものではなかった。
「濃厚」すぎたのである。

いまからしたら、「プチ贅沢」というものだ。

子供のころに「味覚」ができる、という話を、ずっと後のおとなになって聞いたときに、思い当たる節があったのはやっぱり「豆腐の味」だった。
スーパーで買う豆腐が、どうしても納得できない。
もちろん、スーパーのパック詰めの豆乳も、「あの味」とはちがうのである。

当然だけど、油揚げだって厚揚げだって、がんもに焼き豆腐も、納得できない。
それゆえに、隣の駅にある豆腐屋まで、往復の電車賃を払っても買いに行っていたけれど、こちらも廃業してしまったのである。

それでわたしは、なんと、「豆腐難民」になったのである。

しかも、実家近くの町内だって、あんなにあった豆腐屋が、とうとう「全滅」してしまった。
ウイスキーの空き瓶で買っていたお店が、最後の砦だったけど、数年前に力尽きた。

そんなわけで、町歩きをして、豆腐屋を見つけると、買わずにはいられない。
なので、リュックには「保冷バック」を入れている。
いつ何時でも、豆腐屋を発見したときの準備だ。

豆腐の材料は、大豆とにがりと水である。
だから、味の決め手は、これらの組合せとなるけれど、凝固させるときの加減が食感を決めるから、素人がかんたんに作れるものではない。

なんでこんな豆腐マニア的になったのか?を自己分析すれば、20代前半における、エジプト・カイロ暮らしの2年間も大いに影響しているにちがいないと思い当たるのである。

彼の地で豆腐を食したのは、2年で1回だけ。
日本から持ってきた、『ほんとうふ』というインスタント・豆腐の素をつかった豆腐をいただいたときだけだ。
食べ方は、「湯豆腐」だった。

それに、材料の「水」は、「エビアン」だった。
そのまま飲めない、「水道の水」を使うわけにはいかない。

大豆があっても、にがりがあっても、清涼なる「水」がないと作れない。
だから、日本の当たり前は、世界では「貴重」なのである。
「エビアン」で作るのは、ミネラル豊富なために、たとえインスタントの「素」でもうまくいかないことがある。

日本の「軟水」を使うことが、最初から想定されているからだ。

じつは、ミネラル(「酸素、炭素、水素、窒素」の主要4元素以外の「無機質」)がほとんどない、「軟水」が身近で豊富な地域は、世界的に「珍しい」のである。
石灰質の土壌でできているヨーロッパも、「硬水」だらけになる。

中国の豆腐と日本の豆腐の決定的なちがいは、ここにある。
大豆の「ちがい」だけではない。

神奈川県には、「県内産の大粒大豆」を使う豆腐屋は3軒しかない。
これ以外にないのは、この種の大豆の生産量がないためだ。
だから、なるべくこの3軒で購入したいけど、「いつも」はやっぱりスーパーになる。

ただし、この3軒以外だって、「名店」はある。

横浜の中心部は、ぜんぶ幕末からの「埋めたて」なので、「周辺部」の河岸台地付近に井戸水が出る。
丹沢・相模川水系の近代水道という恩恵もあるけれど、横浜以外の県内には豆腐屋の名店がいくつもあって健在だ。

これらの豆腐を、地元の旅館や飲食店が使っている。

付け合わせに出てくる豆腐がうまいと、思わず仕入れ先をきいてしまうのである。
うまい豆腐をつかう旅館や飲食店の料理がまずいはずがないのは、うまい豆腐に負けない料理を作っているからである。

さて、新年度の今月1日から、さまざまな「制度」もはじまって、「食品表示」もあたらしくなった。
「遺伝子組み換え」に関しては、「若干の」変化だと政府はいうけれど、一般人の生活からしたら、来年の23年からは「一新される」とみてよい。

興味深い説明に、「安全が確認された遺伝子組み換え」という「分類」があることだ。
大量生産される弁当などの食品に使われている、「ph調整剤」なる「防腐剤」も、「安全が確認され」ていることになっている。

もちろん、原子力発電所も、「安全が確認された」ら再稼働することになっている。

食品の場合、どんな基準で「安全が確認」できるのか?という問題は、新開発の添加物や遺伝子組み換え品を、長期間にわたって食べたひとが「いない」ことから、ほんとうは「わからない」のではないか?という根本的な疑問がある。

「時間」という、人間にはコントロール不能な要素があるからだ。

町の豆腐屋さんの事業継続が困難になるような、原材料管理の厳格化という手間が準備されているけど、一体全体「誰のため」なのか?という問題があるのであった。

そんなわけで、消費者は、無農薬だけでなく、遺伝子組み換え品やら添加物やらと、「化学知識」が必須となったが、高校における「化学」を選択をする生徒は、もう1割程度なのである。

これも、政府の都合で「仕込まれ」ている、のかもしれない。

削除されたゼレンスキー発言

「録画」が普及して、いったん放送された内容が、あとから削除されても不死身のように「復活」する時代になった。
もちろん、ネットでも、「痕跡」を全部消去することはできない。

だれかがダウンロードの「手間」をかけていたら、容易に復活が可能だからだ。
この「手間」とは、クリックの手間よりも、ストレージ容量を消費することの「覚悟」のことをいうし、ネットにアップする「手間」をいう。

また、ネットにあげても「バン」されるリスクもあるので、「バン」されたときの被害も「手間」のうちに入る時代になった。
場合によっては、アカウントごと消されるので、そのときの「手間」は、取り返しがつかない意味となる。

アメリカでは、「一応」保守系ということになっているのが「FOXニュース」だ。
「一応」というのは、「完全」にという意味ではないからである。

しかも、アメリカにおける「保守」とはなにか?というと、これが「古い国」ならまだしも、人為で建国されたアメリカという国での「定義」は、あんがいと簡単な概念ではない。
なぜなら、「建国の理念」だって、いくつかに分類できるものが「統合」されているからだ。

だから、なにを保守するのか?というのは、アメリカ「ゆえに」かえって難しくなるのだ。
「自由」の保守「だけ」では、範囲が広すぎる。

たとえば、英国から独立したので、アメリカの保守は英国の保守とおなじはずがない。
ましてや、わが国でいう「独立戦争」とは、オリジナル英語表現を直訳すれば「独立革命」すなわち「レボリューション」なのだ。

日本人は、「革命」というと、英国の「名誉革命」を習っても、その意味が複雑なので、クロムウェルを暗記する程度でよしとして、次の「革命」は、もっと複雑な、「フランス革命」を習い、アメリカ革命を飛ばして「ロシア革命」になっている。

アメリカ革命の「アンチテーゼ」がロシア革命ともいえるけど、共産党内の権力闘争に敗れた「トロツキー一派」がアメリカに移民して、民主党を「乗っ取る」ことに成功したことも習わない。
なお、トロツキー本人は、メキシコに亡命している。

この意味で、アメリカ民主党は、ソ連共産党の継承者であるから、アメリカをソ連にしたい政策の「源流」がわかるのである。
この「歴史」を「知っている」はずの、プーチン氏をなんとしても失脚させたいとかんがえるのが、民主党の一致した「汚点」なのだ。

さてそれで、国際政治系YouTuberで有名な及川幸久氏(幸福実現党国際局長、幸福の科学の宗教家)が、FOXニュースが削除したゼレンスキー氏へのインタビューを取り上げている。

英語も話すはずのゼレンスキー氏は、英語のインタビューにウクライナ語かロシア語で答えているために、英語の通訳が入っていることに「違和感」なしとはいえないけれど、ここできわめて重要な発言をしているように聞こえる。

だから、「眉唾物」ともいえなくはないと、念のため書いておく。

それは、アゾフ大隊とウクライナ軍が、「ナチス」だということを認めていることなのだ。
「ネオナチ」ではなくて、「ナチス」である。

FOXニュースがこれを放送して、ネットで削除した理由は、想像に難くないけど、正式に理由を発表していないから、「想像」になる。

状況証拠はたくさんあるけど、アメリカ議会をはじめ日本の国会でもやった、各国議会での「ゼレンスキー演説」は、特に、イタリアとギリシャ議会の反応が注目される。
これをまた、ぜんぜん報じないのがわが国マスコミの悪辣がある。

この両国の国会議員たちの「ほとんど」が、実質的に「ボイコット」したのである。
その理由は、「ナチの言い分」を聞く意味がない、というものだった。

国会議員のボイコット、という点では、韓国もおなじような事態になったけど、どうやら理由がちがうので参考にならないし、主催者はいまの「与党」だったから、「国会演説」と同列に扱えない。

日本では、まちがいなく「衆参両院」の主催であった。

それに、ロシアがわが国を「ネオナチ認定」したと発表したのも、自民・公明両党の主催ではない「国会の公式」だったからだといえる。
ナチスをもっとも憎むはずのドイツも、ゼレンスキー演説を受け入れたけど、ムッソリーニを処刑したイタリアの反応は、妙に「冷静」なのである。

わが国では、共産党までゼレンスキー演説を評価したので、「挙国一致」してナチスを支持しているようにみえるのは無理もないどころか、「ふつう」だといえる。

冷静さを失って、感情でロシアを一方的に批難し、威勢のいいことをいうのは、知性のかけらもない愚行である。

だから言ったことではない、と「ハンガリー」がいうだろうから、ブダペスト在駐の日本大使は、どんな報告を本省に送っているものか?
送っていても、本省で握りつぶしているなら、それは「誰」なのか?
国民には知る権利がある。

これを、国会で質問してくれる勢力が、外国からナチス扱いされる国民の「死活問題」として重要になっている。

利他主義と個人主義

難しい話である。

利他主義の反対語は、「利己主義(egoism:エゴイズム:エゴ)」で、これから「利他主義(altruism:アルトゥルーイズム)」を造語したのは、フランスの哲学者にして社会学者、数学者でもあるオーギュスト・コント(1798年~1857年)である。

「社会学」というのも、彼自身の造語であるから、当然に「社会学の祖」だ。

ちなみに、パソコンの「Altキー」は、「Alternate key」の略で、「Alternate」とは、「交互」や「代用」を意味している。
接頭辞の「Alt]は、ラテン語 altus、印欧祖語 al- が由来で、「高い」という意味だった。

さて、「利他主義」には、「エゴ」のような日本語がない。

これは、「altruism」が日本語訳されるとき、仏教用語の「利他」をあてはめたからで、これがそのまま「利他主義」ということになったからだ。
つまり、ぜんぜん「いわれ」がちがう語をあてはめた。

このときの「いわれ」とは、自動的に、「仏教」に対する「キリスト教」になる。
しかも、キリスト教の、『旧約聖書』に起点を置くことになるので、ユダヤ教やイスラム教とも共通する。

それが、日本人にはなかった、「原罪」の概念なのである。

「原罪」とは、アダムとイブが、禁断の木の実を食べたこと、であって、これが原因で、「楽園追放」となり、人類は「労働」をしないと「いけない」ことになったのである。

そしてそれが、さらなる「悲劇」を生んだ。
アダムとイブの二人の息子、カイン(農耕者)とアベル(牧畜者)の間で起きた、「殺人」である。

人類の祖先は、アダムとイブである、という「教え」とは、「系図」でいえば、殺人者カインの子孫であることを示す。
これが、旧約聖書を原典とする宗教の、根本概念になっているから、旧約聖書をしらない日本人と、「根本的なちがい」となるのである。

しかしながら、いつの時点で計画されたのかわからないけど、「日本占領」の基本プランに、「原罪」を埋めこんだのである。
それが、「戦争の絶対悪」という概念で、日本国憲法「前文」と「第9条」に「書き込んだ」のである。

明文憲法を、日本人にとっての「旧約聖書」にしたから、憲法改正ができないのは当然で、だれが聖書を書き換えることができようか?も、同時に埋めこまれたのだった。

つまり、「利己主義」に、「エゴ」という日本語をあてて、これを、道徳として「憎む」ようにしたのは、「個人主義(individualism)」を憎むようにすることの「本音」を隠蔽するためでもある。

「individualism」は、ラテン語の「individuus(不可分なもの)」に由来するから、「利己主義(egoism)」とは、まったく「いわれ」がちがう別物なのに。

したがって、戦後の日本人は、「利己主義=個人主義」にされてしまったことにも気づかないでいる。
つまり、隠された「個人主義」の「独立心」を日本人に持たせないための、「しかけ」がいまでも有効な証拠なのだ。

そして、「原罪」だけは有効だ。

すると、「利他主義」の本質とは、この「原罪」につながって、「他人のため」という道徳が、おどろおどろしい「全体主義」に結びつくことも、隠されていることに気づくのである。

自分のためから、他人のために変質すると、為政者にとって「コントールしやすい社会」になる。
しかも、「自分のため」すら、「個人主義」をいうのではなくて、「エゴ」のことにするので、より一層、「他人のため」が道徳だと勘違いする。

占領政策で、なぜこんな「ややこしい仕掛け」をしたのか?
日本を占領する計画者は、日本人以上に日本人を知っていたにちがいない。
すさまじい「日本研究」を、戦前からしていないとできっこないのだ。

この点、現代日本人は、すさまじい「アメリカ研究」をしていない。

日本人は古来、「お互い様」という概念で、「個人主義」を知っていた。
「自分は自分」だから、「相手も尊重」することが道徳だった。

そのことの言語システムが、「尊敬語」の用法だった。
尊敬語がフラット化したのは、「平等主義」だからではなくて、日本人から「個人主義」を奪うのが目的だ。

日本人に個人主義があること、それが、占領目的にとって「まずい」のである。
たとえば、民間人を虐殺した、日本各地への「空襲」や、その究極の「核」の使用だって、「お互い様」を言われたら論理破たんする。

重要かつ必須なのは、「個人主義」に起点をおいた、「利他」であることを意識しないといけないことだ。

自分や自分の子孫のため、という「個人」の優先が、「お互い様」となればいい。
ただ自分を棄てて、他人のため、を言うと、為政者は「国家のため」を金科玉条に、都合よく支配することを可能にする。

まさに、「個人」が壊されるから、全体主義になるのである。

ここに「紙一重」の難しさがある。
だから、意識しないと「いけない」のだ。

スリランカのデフォルト

1948年の英国からの独立以来「最悪」の経済危機となって、とうとうデフォルトしたのが、スリランカだ。

今月4日の政変が落ち着いたわけではなく、国民の怒りは暴動になっていて、強権をもって抑えようとしている政権を長く担ってきた、ラジャパクサ家への怨恨は深まるばかりだ。

外貨不足によって、ほとんどの物資を「輸入」に依存する、島国だから、あらゆる必需品の在庫が枯渇してしまった。
石油、電気、医薬品、食用油、などなどで、インフレが30%を超えた。

とくに電気の供給がとまって、ほぼ半日の停電が続き、赤道に近い国で冷蔵庫が機能しなくなった。
ただし、農産物についての自給率が高いことがあって、「飢餓」には至っていないことが不幸中の幸いだ。

IMFの支援融資がありそうな中で、インドと中国の両国が「援助競争」を演じ始めている。

もちろん、「IMF」の背後にはアメリカが存在する。
中国が99年間の港湾を借り受けることになったのも、インド洋への軍港を確保する、対米戦略的には重要な「楔」となったから、アメリカとしては「巻き返し」のチャンスともいえる。

だが、バイデン政権にチャンスを活かすことができるのかは疑問がある。

このデフォルトの「被害」は、債権者にとってどのくらいなのか?
対象額の元本は110億ドルと報道があって、利子の半分、元本の2割、さらに償還期間の10年程度の延長を「予想」している。

利率が発表されていないので詳細は不明だし、政府側の正式要請も未発表である。
よって、元本だけでみれば、22億ドル+利子分、ということだ。

あれれ、ずいぶんと「小さい」のである。
つまり、これが原因で、「世界金融危機」になる可能性は、ほとんどない。
元本全部、としてもだ。

これはある意味、もっともで、スリランカの人口は2000万人。
東京都と神奈川県をあわせた程度の、小国、なのである。

とはいえ、おなじ「島国」のわが国にとっては、教訓となることがあって、それが、「観光立国」の失敗事例であるからだ。
それと、「AI」との競争、という「先進的」な面もあったのだ。

名門コロンボ大学は、「会計学科」に力を入れていた。
英語が公用語でもあることから、また、民度が高い正直な島国人の特徴があったため、お金を扱う「会計人育成」を、国家プロジェクトとしていたのである。

それで、旧宗主国の英国やアメリカの公認会計士資格を取得させるための「教育熱」が沸騰していた。
また、プログラミングに優れた技術で、ロンドン・シティの証券取引所プログラムが、スリランカ製であるように、コロンボ証券取引所を、シンガポールと並ぶアジアの国際金融センターにする野望もあった。

じっさい、歴史的にアジア初の証券取引所は、コロンボ証券取引所なのであって、シンガポール、香港、東京よりも「古い」のである。
それで、政府はシンガポール証券取引所に人材留学させて、第二のシンガポールを意図していたのである。

これを支えるための、「会計士」育成が、セットだった。

スリランカの会計士は、オンラインで英国やアメリカ企業の企業会計を請け負ってもいたのだ。

これは、日本では「違和感」がある話だ。
日本で、会計士などがオンラインで業務を完遂できるものか?と。
しかし、「できる」のである。
伝票類が、とっくに電子化されているからだ。

しかも、これらの国は、わが国とちがって「制度」がはっきりしている。
企業会計だけでなく、税制も「単純明快」だ。
よって、わが国ではかんがえられない「はやさ」で、「AIとの競争」になって、すでに人間のする業務では「なくなった」のである。

これが、優秀なスリランカ人エリートの生活を圧迫した。

外国からの投資についても、中国の強引な進出で、西側が躊躇したから、証券取引が活発になることもなかった。
それで、「観光立国」しか残らずに、世界的パンデミックが襲ったのである。

しかも、欧米からの観光客の激減に対応すべく、ロシアとウクライナにキャンペーンをかけた矢先の「事件」が、ロシアのウクライナ侵攻だったのである。

三重、四重にもなる「政府の失敗」こそが、わが国への「教訓」なのである。
いまのスリランカは、未来のわが国、かもしれない。

しかして、スリランカの正式国名は、「スリランカ民主社会主義共和国」だ。
わが国の「実態」と、よく似ている。

日本が元気なら、110億ドル程度のことならば、「円借款」にして借り換えをさせてあげてもいいほど、戦争直後にはお世話になった国なのだ。
インドのパール判事が、東京裁判で「日本無罪論」を言ったのは、スリランカ人からしたら、「パクられた」理論であった。

かつて、スリランカの「親日」は、筋金入り、なのであった。

島国は、一般的に近接する大陸国家とは仲が悪い。
放置すれば、「飲み込まれる恐怖」があるからだ。
英国にとってのフランス、台湾や日本にとっての中国がそれで、スリランカにとっては、それが、インドなのである。

そのインドは、わが国にとって中国包囲網の要となっているから、やっぱりわが国が間に入るのが、「恩返し」にもなるのである。

外務大臣を長くやった岸田氏がこれに気づかない「不幸」が、日本人の心をここ一番で表現できない残念なのである。

ニーチェという虚無

ニーチェは思想家なのか?それとも、哲学者なのか?という論争がある。

そもそも、哲学は一般人の生活の役に立つのか?といわれたら、一般人の多くは、興味もないからあっさりと「役に立たない」と答えるだろうと、容易に想像できる。

このことは、「経済学」には「逆に」あてはまる。

とにかく大学に進学すること「だけ」をかんがえたら、あるいは、まったく大学がどんなところかを知らないで、「進学」=「大卒という学歴」にしか興味がないなら、「なんとなく」希望するのが「経済学部」だったりした。

ほかの「学部」つまり、学問分野よりも、「つぶしがきく」という、あの「うわさ」が原因である。

「つぶしがきく」とは、なにか?
よくいえば、「応用がきく」という意味になるし、「現代人の基本的知識」ともとらえられる。
わるくいえば、「どうでもいい」という意味になる。

日本における経済学の問題は、政府や自治体の「経済政策」に、「役に立たない」という経験を、一般人がしているからである。

このあたりが、複雑怪奇になるのは、「経済政策」を「立案」するのが、政党や政治家ではなくて、「官僚機構」になっているという事情があるからだ。

その官僚たちは、おおくが「法学部」の出であって、「経済学部」は少ないし、官僚機構の内部では「格下」にみられる傾向が強い。
それが、日本的「法治システム」になっているのだ。

加えて、「学位」についても「同様」で、「修士号」や「博士号」についての取得方法で、官僚機構独特の「格」が決まる仕組みにもなっている。
それは、官僚になってから取得する、というルールである。

公務員は、採用年次で基本的な序列化がされて、公務員試験の「成績順位」で各省庁からの「スカウト」がある。
よって、大学2年生や3年生で、「合格」した者が、とにかくは上位になるから、修士課程やらを経て公務員になることのメリットはなく、むしろ、「年次」でのデメリットになる。

なお、「外務省」は、別途、外交官試験があるけど、それ以外は「おなじ」である。

それで、役人の身分をもって「国費留学」し、外国の有名大学にて学位を得ることが、その後の役人人生にとって、おおきな「キャリア」になるのである。

だから、大学時代に「自腹」で留学したり、「大学院生」になるのは、官僚世界では「御法度」で、「公費」でまかなうことが重要なのだ。

そんなわけで、公務員も民間も、「哲学」なる学問を学ぶことは、ほとんど「ムダ」なことになったから、その後に、「政治家」に転じても、哲学を語ることができないのだ。

そうやって、哲学を知っている評論家から餌食にされて、評論家は「売文」ができるようになっている
一方で、「哲学者」があまり世情の批判をしないのは、「学術研究予算」が、官僚によって牛耳られているからである。

よって、現役を引退した、「名誉教授」が、手弁当で批判を開始する構図ができたのである。

ところで、経済学部が、「どうでもいい」という理由の一つに、日本の経済体制が、現代経済学の主流である、「アメリカ経済」とはちがっているからである。

ソ連崩壊後、日本の経済学の主流だった「マルクス経済学(マル経)」が、廃れて、教授陣は別分野の教授に転向した。
もちろん、人生をかけた「マルクス主義」を棄てたわけではないので、大学内で「潜行」したのだ。

数学を多用する、近代経済学なのに、「経済学部」が文系である理由は、1920年代に、ミーゼスが数学的にはとっくに破たんしていることを証明しても、生きのびた「マル経」が、わが国の主流だったからである。

法学部、経済学部といった「文系」の柱となるのは、文学部だ。
哲学はたいてい、ここに属する。
それでもって、西洋哲学とか東洋哲学というふうに、各専門に分科する。

なぜか、「日本哲学」はなく、日本史を排除した、無機質を極めた「J哲学」なるものはある。
「史」にからませれば、「日本思想史」、「日本哲学史」になって、「国学」はまた別にあるようだ。

ギリシア以来の西洋哲学を一種「完全破壊」した、ニーチェは、しかし、「答え」をひとつも見出さなかった。
ニーチェは、「巨大な問題提起」をしただけで、死んでしまったのである。
なぜなら、ニーチェが見出した答が、そのまま問題提起だったからである。

よって、ニーチェこそが、なんの役にも立たない哲学を提示した。

ニーチェが提起した問題を、誰も解いてはいない。
むしろ、「解けない」のである。
これは何百年も解けない、数学の問題ともちがう。

人類に、「解けない問いがある」ことをニーチェは示した。

すると、この世は「すべてが仮置き=虚無」となるのだ。
「テッパン」と思われている「制度」も、しょせんは「仮置き」だ。
それが、政治や行政の制度であれば、なんと「小さな」問題だろう。

ゆえに、「突破口」は必ずある、という結論になる。

しかして、その「突破口」も、「仮置き」にすぎない。
だからなにをしてもムダなのか?
それとも、やっぱり「突破口」を探り出して「突破」を試みるのか?

これが、「西洋人」の発想法の原点だ。

日本人が太古よりもっていた「智恵」とは、どうやら「系統」がぜんぜんちがう。
一点突破という発想ではない、もっと緩やかでやんわりとした、しかし、なにがあっても動じない意志の発揮がそれだ。

アメリカ主流経済学は通じないこの国で、突破が通じるようになったのか?それとも?が問われている。

「政策」をかんがえるひと

現代は「民主主義の危機」の時代、となった。

近代の民主主義は、自由主義とセットになって機能する。
何度でもしつこく書くが、自由主義の自由とは、他人から命令されない自由を指して、自分勝手の自由をいうのではない。

民主主義と自由主義が不可欠なのは、資本主義社会という「経済体制=ひとが喰っていく(=稼ぐ)ための体制」のために必須となるからだという。
しかし、われわれは、資本主義とはなにか?についての「定義」をいえない。

マルクスは、資本主義は矛盾に満ちているから、歴史の発展と共に社会主義に進化すると「断言=予言」した。
この矛盾に満ちているから、ということが、「悪」だとしたし、ついには共産主義社会になると「根拠なく」予言したのだった。

しかして一方、アメリカ人が聖書の次に読んでいるという、日本では不思議と「無名」な、国民作家、アイン・ランドは、資本主義の成立には「道徳」が必要だとして、人類は一度も資本主義が成立するほどの「高い道徳性をもった社会」をつくったことがないから、資本主義は「未完」で「未来のシステム」だと主張した。

ならば、いまはどんな時代なのか?
それは大塚久雄がいう、「前資本:前期資本」という、ふつうは「中世」の経済システムを指すときの定義を、若干発展させた「だけ」の時代なのではないか?といえるのである。

つまり、人間社会を「そのまま」にして、「科学」と「技術」が先に進化してしまった。
よって、人間が「置いてきぼり」になっているのである。

マルクスはこれを、「疎外」だと、鋭く指摘した。
この「一点だけ」が、マルクス理論の「正解」だから、なかなか廃れない妖艶さをもっている。

けれども、マルクスの根本的かつ致命的エラーは、この「置いてきぼり」状態の社会を「矛盾に満ちた資本主義」だと、早とちりしたことだ。
勉強脳に犯された、ヒューマニズムの善男善女が、やっぱり「早とちり」して、人生をムダにする残念の原因となったのである。

さらに、マルクスの「家系」は、あの陰謀論の巣窟、ロスチャイルド家に直でつながる。
すなわち、貧困にあえいだ「苦学のひと」ではなくて、いまよりずっと身分制がはっきりした社会における、「富裕層」かつ「エリート層」の意図的成果なのである。

社会不安が社会的大儲けのタネになる。

すると、「ご本家筋」からしたら、マルクスとは、「マッチポンプ」の「マッチ」にあたる役割をした、ということになる。

さてそれで、民主主義の政治体制における政策は、だれがかんがえるのか?ということになると、「国民」しかいない。
これを忘れさせて、あるいは覚え込ませない「努力」がされて、国民は自分以外の他人に依頼することが、あたかも合理的だと思いこませられるのである。

誰に?
国民を支配したいひとたちに、である。

さて、アイン・ランドがいう「(完成された)資本主義」が、「うまくいく条件」が、むかしは整っていた。
・いまより高い道徳が国民にあったこと
・いまより公平・公正さの重視が政府にあったこと

どちらも、いまは、カネによって堕落させられて、中世の支配者が「武力」でしたようなことを、「財力」でされることになったのである。

では、うまくいった「むかし」とはいつのことなのか?
日本なら江戸は元禄時代(「近世」という)の繁栄をいう。
少なくとも、いまよりずっと「高い道徳」がふつうにあった
支配者の武家は、公平・公正さに注力した。

なので、山本七平が「発見」した、「資本主義の精神」があったのだ。

すると、アジアで唯一、欧米的近代化に成功したのが日本だ、ということは間違っていて、世界で唯一、資本主義を完成させたのが日本人だった、のではないのか?

それが、明治の開国によって、未完の資本主義である欧米から「破壊」され「平準化(山を崩して谷を埋める)」された、とかんがえることができる。
これを、欧米の「科学」と「技術」だけが進んでいたことが目くらましとなって、日本人が遅れていると、「勘違い」したといえるのである。

そして、その勘違いは深刻な状況にまで浸透して今に至る。

欧米の哲学が日本ではしっくりこなかった理由も、日本の方が「高み」にあったからであるとかんがえると、さいきんになって欧米の哲学が「通用する」日本になったのは、完成させた資本主義が破壊されたよりも、もっと深いところで、「日本が破壊されている」ためだともいえるのである。

この状態を復活させる転換点となる、「底入れ」はあるのか?
あるいは、「底割れ」して、二度と回復できない遙か彼方まで落ちるのか?
いま、その「正念場」にあることは、まちがいない。

すると、誰がこれをかんがえて実行する「救世主」となるのか?
ここに、「国民主権」という「超難易度」の壁がある。
つまり、民主主義社会とは、国民が救世主にならざるをえないのである。

だれかひとりの「よい権力者」が出現すれば、すべてが解決する。
これこそが、悪魔(メフィストフェレス)の「甘言」なのである。

日本人が、歴史的に「(大)統領制」を採用せずに、つまり、絶対権力者を置かず、「絶対権威者」を置いた知恵の、他民族にはありえないほどの「すごさ」とは、古来、とっくのとうに国民主権だったことを示すのである。

わが国に原生林がほとんどない、という事実は、「縄文人」が山の隅々まで「植林」していたことがわかってきた。
このすさまじき手間をかけたエネルギーの源泉は、自然との共生にほかならない。

日本人は、山に植林して、植生を人工林に改造しながら、自然崇拝してきたのだ。
欧米がいうSDGsの胡散臭さは、日本人だからわかる「臭気・腐臭」なのである。

日本企業における「ボトムアップ型」だって、古来の国民主権の発露だ。
すると、きわめて日本的という、企業内労働組合の存在意義は、古来の国民主権による発想がつくらせた、世界には独自システムなのであると気づく。

ならば、日本人が完成させた資本主義との相性がよい、といえるのである。
それを、欧米の未完の資本主義にあわせることが、「努力」になって、組織率の減衰がとまらない原因ではないのか?

すると、労働組合における「民主主義」こそが、政策をかんがえるひとなって、企業経営に成果をもたらすはずである。
「勘違いのマルクス」に影響される勘違いを、やめること、が「秘訣」なのである。

底入れは、できる、のである。

日本占領政策の変遷

東京にある、国立国会図書館は、わが国にある図書館の最高峰だ。

これは、「国立国会図書館法」という法律で、わが国の出版物の「全部」を「強制的」に収集しているからである。
それに、各国の公開された公文書も収集している。

公開された公文書とは、元は「機密文書」だったものである。

こうしたことが行われるのは、わが国最高の国権機関である、「国会」での議論を補助するためだ。
しかして、「主権者」は国民だから、ひろく一般国民にも情報を開示することが、国会図書館の任務となっている。

わが国でとくに重要な外国は、いうまでもなく「アメリカ合衆国」だ。
これには、「情報公開制度」をどうするのか?という、わが国の「国内問題」もあるし、「制度」だから、「立法」の職務となる。

つまり、国会図書館の調査を利用することが、もっとも正確で手っ取り早いのだ。

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8331133_po_0806.pdf?contentNo=1

これをみると、アメリカでは、期間が過ぎたら自動的に公開される区分の公文書と、そうではない公文書があることがわかる。
自動的の方は、長くとも25年が経過すると公開される。

そうでない方は、50年か75年で機密解除されるものと、やっぱり機密のままとに分けられることがわかる。

それでもって、わが国の「占領目的」とかがどうなっているのか?をみようとしたら、やっぱり国会図書館が資料を整理してくれている。

『日本国憲法の誕生』がそれにあたる。
また、『資料と概説』があって、このなかにアメリカ合衆国の機密解除された資料も開示されている。

一番目の資料が、1943年(昭和18年)年11月22日からはじまった、カイロ会談で、同年12月1日に「カイロ宣言」として発表されたものの「原本」である。

この会談での「首脳」とは、フランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席となっている。

二番目の資料は、ジョセフ・グルー(戦争前の駐日大使、大戦末期の国務長官特別補佐官)が、カイロ宣言があった同月29日にシカゴで行った演説の原稿だ。
そこには、日本人は、「羊のように従順」とある。

これらたった二つの資料でわかるのは、アメリカ民主党ルーズベルトは、かなり早い段階で、「戦後秩序」を考えていたことだ。
カイロ宣言にしても、「準備」の後の結果だからである。

すると、ほんとうの「準備」は、「戦前から」だったとすれば、その証拠資料はいつまでたっても公開されることはないだろう。
日本を嵌めたことが明確となって、現代の日米関係が壊れるからである。

ちなみに、カイロ会談の会場となったのは、ピラミッドに近い元王宮で、1869年創業のホテル「メナハウス・オベロイ」で、いまでも会議場はそのままにして公開されている。
このホテルのプールサイドでいただくカレーが絶品だった。

プーチン氏がウクライナの泥沼へ「引きずり込まれた」というのは、わが国が戦争に引きずり込まれて、その最初の一撃を真珠湾でしたことが例えられる根拠になっている。

ゼレンスキー氏がアメリカの国会議員を前に演説した、「真珠湾」が、「語るに落ちる」ことになったのは、このことを指すからである。
にもかかわらず、その後の、わが国国会議員は、スタンディング・オベーションを彼に送るという「従順さ」を示したのだった。

どちらにしても、日本の「参戦」には、複数の利用目的があったことは明らかで、チャーチルが泣いてよろこんだ逸話がその一つとなっている。
ヨーロッパ戦線に参戦しないことを「選挙公約」にしていたルーズベルトのアメリカが、正々堂々と参戦する口実を与えたからである。

しかし、「泣き虫の」チャーチルは、最新鋭不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズが日本海軍によって撃沈されたと知るや、こんどは絶望の涙を流して、とうとう日本の「敗戦後」、アジアから大英帝国の支配そのものが消滅したのだった。

だから、ほんとうは「誰が勝者なのか?」がわからない戦争だった。

 

そんなわけで、アメリカ=連合国=国連の、日本占領による、「日本改造」の第一次基本方針は、二度と米英による世界秩序に逆らわない国につくりかえることだった。

すると、日米戦争の「真の目的」が、このことだったとわかるのである。

この基本方針は、トランプ氏が除こうとしたけれど、民主党バイデン政権によって戻された。

トランプ氏が在日米軍費を「大幅増額」したのは、外国軍によるコストが自前と同様にすることで、日本人が「自前」を選択するように促したのだ。
すなわち、アメリカ・ファーストは、日本にとって日本ファーストで構わないし、それでこその「同盟」だと示したのである。

これは、戦後初めての「日本独立」を認めたアメリカ大統領による、戦後秩序の転換を意味した。
けれども、肝心のわが国が、「属国」の「安寧」から抜けるのを嫌がる、グルー氏がいった、「羊のような従順さ」を見せつけたのだ。

ここにきての「ウクライナ」で、やっとこさ自民党も「専守防衛」では現代戦には対応できないことを認めた。
いまさらだけど、国民は「そりゃそうだ」となるのがふつうなのに、これを嫌がるひとがいるのは、非常識を「善」だと教えられてきた、「暗記教育」の成果でもある。

自分の頭でかんがえることとは、かくも「困難」なことなのである。

それがまた、「保守」に浸透したために、残すは亡国への一直線なのであった。