経費予算は必ず使い切る

役人には「売上」という概念がないから,「予算」といえば「使えるお金」のことである.
それで,毎年,年度末になると,「使い切る」ために,いろいろな工夫をかんがえだして,みごとに「使い切ってみせる」のが,会計課長の腕のみせどころになる.
「ムダ」ではないか?と外部からどんなに指摘されようが,「使い切らねばならない」から,気にしない.
年度予算を余らせたら,次年度から,その項目での予算が減ってしまう,という原理からくる行動と精神状態である.

それではいかん,ということで,単式簿記から複式簿記にかえようといううごきがある.
単式簿記とは,子どもの「お小遣い帳」や主婦がつけるという「家計簿」とおなじで,期首に「入金額」をかいたら,あとはつかった分を引き算して,のこりがいくらかをしる方法である.

複式簿記は,人類最大の発明,と文豪ゲーテが言ったという「発明」である.
ここで,お風呂の水がどのくらい変化したかを調べようとかんがえると,方法はふたつしかない.
第一の方法は,いまある水位にしるしをつけて,しばらくたったところで,増えたか減ったかをみるもの.
第二の方法は,蛇口からはいってくる水量と,排水口からでていく水量をそれぞれ計って,その差分で増えたか減ったかをしるものである.
第三の方法をかんがえだしたら,それは間違いなくノーベル賞をもらえるだろう.
さて,第一の方法が,ふつう「貸借対照表」とよばれ,第二の方法が「損益計算書」とよばれている.
この二つの書類は,「利益」というパイプでつながっている.損益計算書ででてきた「利益」は,貸借対照表の資本に転記されると同時に,資産のどこかも増えることになる.「損」であれば,資本と資産がそれぞれ減る,というしくみだ.

役所が単式から複式に転換するというのは,損益計算書で余った予算を資本と資産にすることで,ムダをなくそうという魂胆である.
これを,「民間の知恵」というらしい.

では,その「民間」ではどうか?
そもそも,企業「予算」というものも,お役所からいただいたかんがえ方であることを確認しておこう.
帳簿をつける,という行為は,「結果の記録」であるから,これだけでは「予算」にならない.それで,前期の数字から将来を予測して,目標にしよう,というのがはじまりである.お役所は,税収という「売上」からつかう分を決めていたから,民間はこれを学んだのである.

ふつう企業には最低でも二種類の予算がある.
「売上予算」と「経費予算」である.
「売上予算」は,今期収入の見込みと努力目標を足したものからなる.だから,売上予算の達成は,「必達」といういいかたをする.かならず達成せよ,という命令である.それで,達成すると,むかしは「金一封」が支給されもした.努力目標分も達成したのだから,その「お礼」と「よろこび」を会社は表現した.

さて,「経費予算」である.
じつは,民間企業でも「経費予算」の達成率は,100%,である.つまり,確実につかわれる.
だから,ほんとうは民間も役人を嗤うことはできない.
「民間はすぐれている」とか「民間の知恵」というのは,「すべての企業」にいえることではない.むしろ,そのようにほめられるだけの企業は,めずらしいのではないか?
これを,経済官僚はしっているから,ばかにして民間に命令するのだろう.

褒めておだてたり,鼻で笑ったり,うまくつかいわけている.上げたり下げたりするから,これをむかしのひとは「びっこにちょうちん」と言った.いまは,びっこが不適切な表現だからいわなくなった.それで,「あしがわるいひとにちょうちん」と言ったら,もっとひどいイメージになるから,ちょうちんが死語になったついでにやめた.
ほめられるようなすぐれた企業や知恵があるめずらしい企業ではない,ふつうの企業が,その命令をかしこまって受けとめるのだ.

おもしろいことに,売上予算は必達というが,経費予算を必達しろという経営者はすくない.
すぐれていて,知恵がある企業は,どちらも必達である.
次期以降の成長のための必要業務をかんがえると,お金が足りないのがふつうだから,経費予算のやりくりもたいへんなのだ.そういう経費予算なら,必達は当然だ.

だから、今期使えるお金,ではなくて,今期と来期の準備の活動資金,という発想がひつようになる.
それが,来期以降の実を結ぶもの,となってはじめて成長が達成できる.
経費は削減するもの,という思い込みでは経営はできない.

甘えの末路にある光

ふつうの大人なら,子どもを甘やかして育てたらどうなるか?は想像できる.
だから、むかしのひとは,気がつけば赤の他人の子どもでも注意したものだ.これを,お節介もはなはだしいという世の中にかわって,いまでは,知らぬが仏ならぬ無関心をよそおうことで,社会の平穏がたもたれている.

個人の生活で,他人への無関心が蔓延すると,個人は社会から孤立する.
それで,こうしたバラバラな個人をまとめて「大衆」と呼ぶ.
日本という国は,みごとな「大衆社会」になった.

高級ホテルのロビーのぶ厚いじゅうたんのうえを,平然とベビーカーを押して車輪の跡をのこす光景は,およそ世界ではありえないものだし,子どもがロビーで走りまわるすがたも,それを注意したホテルマンが親からクレームを受けるすがたも,日本と中国いがいではみることができないだろう.

「甘え」とは近親者にたいする「依存」である.
だから,親に依存したままで自立できない大人にならないように訓練するのが「しつけ」であった.少子なのに,その「しつけ」を親が放棄して,とうとう学校への依存がはじまった.ところが,公立学校にはその気も準備もない.それで,私立有名校は,学校社会を利用して親を教育する.こうして,「しつけ」を受けたか受けなかったかという「育ち」から,格差がはじまることだろう.

国が仕切るということ

個人がお節介をやかなくなったから,国家や地方行政がお節介をやくようになった.
いよいよ,社会主義国家日本の面目躍如である.
生活のあらゆる場面で,行政がおせっかいをやく.
最初は,たいがい補助金とか支援ということばで表現できるものだが,それが浸透すると,だんだんと,しかし確実に命令になる.悪魔とおなじだ.
こうして,自由が失われるのは,これまでの人類史の繰り返しである.

すごいものがあらわれた

ところが,政府に真っ向対決するすごいものがあらわれた.
それが,ビットコイン,に代表される「ブロックチェーン」という技術がうみだす「仮想通貨」である.
1976年にハイエクが発表した「貨幣発行自由化論」は,おおくの経済学者から無視されてきた.
貨幣の発行を独占している政府からはなれた発行体が,貨幣を発行することなどできない,と信じられてきたし,そもそも通貨は政府が発行して,中央銀行が管理するものと決まっている,と信じられていたからだ.
この「神話」に,仮想通貨がいどんでいる.
通貨を発行するものは,絶対的に有利な立場にたつから,古来,為政者が独占してきた.
民主政府といえども,通貨発行権を独占することにおいてこそ,経済をコントロールすることができるから,政府に莫大な利益をもたらすものだ.つまり,国民にとっては,経済の政府依存,を誘発して,政府のいいなりになる.それで,政府が経済政策をあやまれば,損をするのは国民という図式になっているので,通貨発行権をにぎる政府には,リスクがない.
もし,通貨発行権が政府から他にうつれば,政府は具体的な経済政策をうつことが,ほとんどできなくなる.もちろん,中央銀行も不要になる.
だから,政府は全力をあげてこれを妨害・排除しようとするはずである.われわれ国民は,その壮絶なたたかいのドラマをこれからたっぷりみることになるのだが,政府はわれわれ国民を懐柔しようと,ビットコインへのあらゆる憎悪を流布するだろう.これも,あらかじめ心得ておくとよい.

それでも,今世紀中旬までに趨勢がきまるだろう.
相手は,技術,なので,おそらく政府は太刀打ちできない.
すると,政府機能は一気に縮小せざるをえなくなるはずだ.だから若者がこれから,公務員を志望すると,中年以降になってひどいめにあうかもしれない.

政府が独占していた事業が民間になる

従来の「民営化」ということではない.政府機能の停止がそうさせるからだ.

政府がこうした事態になるまでに,一般経済でも決済が,ビットコイン,あるいは同類になっている可能性がある.銀行業務は,現在とまったくちがう内容になっているだろう.

「フィンテック」は,銀行業に革命をおこすものではなく,利用者側にこそ革命をもたらすから,経営者は「フィンテック」の研究をひとごとと決めつけてはいけない.

そう遠くない将来,国家に依存できないときがやってくる.
しかし,それは上からの命令をまつ社会ではなく,自主独立の精神をとりもどした社会になる.
「日本を取り戻す」とは,自主独立の精神の国にすることだ.

官民あげて,という発想が生産性を低くする

なんでも「国民運動」にしたがる気風

最近はいわなくなったが,ちょっとまえなら,すぐに「国民運動」になった.
なにも,国民体育大会やラジオ体操のことではない.
このところ,「官民あげて」といいかえたらしい.マスコミは,ことばの選択が上手だが,なんのことなはない,いいたいことはおなじである.

「エルサレムのアイヒマン」をあつかった,映画『ハンナ・アーレント』が日本でもヒットしたのは,もう5年もまえになる.NHKの「100分 de 名著」は,観なくても,テキストを買えばよい.昨年9月に『ハンナ・アーレント』がでていて,よくまとまっている.

 
  

このなかで,彼女の主著「全体主義の起源」の解説がよい.
ここで注目すべきは,全体主義とは「運動」である,という.この「運動」は,もちろん政府が旗を振る.国民をまきこんでまきこんで,をやっているうちに,二重三重のおそろしく複雑な組織ができて,だれが責任者だかもわからなくなる.こうして,組織のなかに埋没した人間が,本人の意志をはなれた仕事をするようになる.

そこで,かつての「同盟国」である,ドイツをみると,この国のひとたちも「政府依存」がいまだにすきなのだ.これは,国民性だろう.
「インダストリー4.0」という運動は,モノのインターネット(IoT)を推進するにあたって,世界ではじめて政府が主導しているものだ.これをうらやましがるのが,やはり「政府依存」の日本人である.アメリカ人は,目もくれない.

集団主義とは,他人依存のことである

成長すさまじいかつての日本は,集団主義,を自負していた.個人主義の欧米の低迷こそ,集団主義の有利さの証拠だと信じた.
集団主義で成功したのは,梅棹忠夫先生がいう「あらっぽい工業」でも成立していたからだ.粗雑な製品でも,物不足の時代には売れた.「大量消費大量生産」である.
梅棹先生はこの時代の観光業も,「あらっぽい」と指摘した.それは,あらっぽい工業の成果である大量消費大量生産のたんなる延長線上にあるからだ,と.
新興国から猛追される時代になって,かつての欧米諸国が苦しんだ体験を日本が再び体験しているのに気がつかない.かつての「英国病」もしかり.先行する欧米から学ばなかった,慢心のなせるわざである.その欧米から,「日本病」(痛い日本)といわれてずいぶんたつ.

工業の世界は,とっくに「きめの細かい工業」へと転換している.ところが,文明の終着地でもある観光業の不勉強ははなはだしく,「あらっぽいまま」で生きのこった.その生きのこったすがたが,各地に点在する山賊のような「掠奪産業」としての無残である.

なぜ,観光業でこんなことになったのか?
それは,たんに時代を見誤った,という表面上のことではなく,集団主義における他人依存ではないかと疑っている.

カネにならない仕事とカネになる仕事の区別

「生産性」をかたるとき,「働き方」ばかりに目がいって,「生産物」の話題がない不思議がおきている.

ビジネスは「成果」である.

このひとことから,「成果主義」がうまれ,これが「終身雇用」という労働慣行を破壊した,という.しかし,「終身雇用」は健在だし,「成果主義」とはいっても,その「成果」を評価するしくみがいまだに完成されていないのはどうしたことか?

「終身雇用」が健在というのは,60歳で定年しても,おおくのひとが65歳まで「再雇用」されるからだ.退職金を一度手にするものの,現役時代のほぼ半分の収入で,おなじ仕事をしろという.

政府は,「同一労働同一賃金」をいうが,正社員とそれ以外という雇用形態ばかりに重心があって,「再雇用」が軽視されていないか?
そもそも,「再雇用」が必要なのは,定年退職しても,年金受給年齢との空白ができて,退職金だけでは「ゆたかな老後」なんて実現できないからだ.「ゆたかな老後」が満喫できるのは,元公務員にあたえられた特権になっている.

問題は,「働き方」なのではなく,「働かせ方」なのだ.
「カネになる仕事とカネにならない仕事」の区別ができない経営者のもとでは,おおくの従業員が,カネにならない仕事をさせられている可能性がある.
だから、官民あげて,という「国民運動」のさきには,虚無しかない.
「民」が,自社のなかにある,カネにならない仕事を排除して,カネになる仕事のボリュームをふやすことにエネルギーをかけなければならないのだ.

なんのことはない,企業としてあたりまえのことをすることなのだ.

一人前になるスピード

世の中「人手不足」である.
しかし,どんな人手が不足しているのかについて,あまり話題になっていない.
じつは,人手も二極化しつつある.
熟練を要しない単純労働者と,熟練の職人もしくは知的な高度な専門家である.
「しつつ」であるから,中間がある.それは,中途半端な熟練,なのだ.

中途半端になる理由も二つある.
会社都合と自己都合である.
残念なことに,会社都合で中途半端な熟練を産み出していることがある.将来も,会社都合での中途半端な熟練は一時的にでもふえる可能性があるとかんがえている.
なぜなら,「中途半端な熟練」とは,自社内でしか通用しない,という意味があるからである.
会社にとっては,使いつづけることができるというメリットがある.自社内でしか通用しないのは,いずれ本人も気がつくときがある.「転職」を希望しても,行き先がなくてできないという現実がやってくる.だから,退職しない.そのうち「転職」をかんがえることすら忘れるだろう.
これを,暗黙のうちに企業が仕掛けているのだ.従業員の囲い込みである.
もちろん,こんな企業が長く存続できるのか?となると微妙だろう.だから、一時的,とした.

会社の犠牲になる人生

なにも過労での自殺者やうつ病発症者だけが被害者ではない.もっとたくさんの「被害者」がいるのだが,本人が被害者だと気づいていないこともあるから,あんがいやっかいな問題である.

本人が気づかないのは,ぬるま湯,という環境もある.自己研鑽しようとなかろうと,なんとなく人生をすごしてしまえる「環境」があれば,とくにがんばる必要もない.中途半端な熟練,は技術系だけでなく,いわゆる事務系や営業系でもおなじである.むしろ,これらの職種のほうが,社内でしか通じないことがおおいだろう.それは,「社内文化」に精通すればするほど顕著になる.

超高齢化という現実から,政府ものがれることはできないから,そう遠くない将来に,定年の位置づけがかわると予想できる.
年金支給年齢を,とにかく先延ばしにしたい政府からすれば,65歳や70歳,はたまた75歳定年制ということもあり得るはなしである.もはや,民間の定年制度と年金支給年齢はセットである.だから,伝統的な日本企業は,かなりの長きにわたって「中途半端な熟練」をかかえこまなくてはならなくなる運命にある.
その準備が,一般社員の定年をとっくにこえて,「安全地帯」にのがれられたと一安心している現在の経営層は,怠らずにできているのだろうか?どうも,そういうふうにはみえない.
これらの伝統的な企業には,「社史」という社内文化まであるから,下手をすると,未来にわたって「社史」において汚名を負わなければならないのだが,そんな歴史観もないかもしれない.まぁ,会社が消滅すれば,「安全地帯」にいたぶん得だということか.

自己防衛という手段

そうなると,たとえ正社員であろうがなかろうが,どうやって「ちゃんとした熟練」になるのか?すなわち,いつでも転職可能な一人前,になるのか?という問題が,すでに年齢をこえて突きつけられているということだ.

若いひとほど敏感で,たとえば,有名調理師学校では,もはや優秀な生徒ほど大手ホテルへの就職を嫌っているという.一人前になるための時間が長すぎる,というのが理由だときいた.
それに気づいた学校側は,外国の「星」があるレストランや,有名料理人との間で提携し,最優秀生を留学させ,将来のオーナー・シェフへの道をバックアップするという.こうした,「実績」が,少子のなかから自校が選ばれるためのブランドとして磨いているのだ.

若者も,調理師学校も,どちらも自己防衛のためにやっている.

ふつうの「サラリーマン」こそ,どう生きのびる?が問われる時代になった.

幻想の「損益分岐点売上」

「損益分岐点売上」というアイデアはすばらしいのだが,実務ではつかえない.
だから,損益分岐点売上から必要売上高をみちびきだす計算をして,それを金科玉条のようにいうひとを信用しない.そのひとは,まったく実務をしらないひとだ.
残念ながら,銀行員など,それなりに勉強したひとにおおい.
公認会計士でも,自著の「管理会計の教科書」におくびもなくかくひとがいるから,注意したい.

絶版になった文庫本で,とある都市銀行の元副頭取が,融資先をきめる会議で「損益分岐点分析」をもって融資すべきといった部下をどやしつけたというエピソードを読んだことがある.この副頭取は,同書で「まったく役に立たないエセ理論」だと決めつけていた,と記憶している.
同感である.だから覚えている.

さて,売上高の変化にたいして動く費用と動かない費用がある.これが「変動費」と「固定費」のちがいだ.変動費の典型は「原材料費」で,固定費の典型は「人件費」である.
客数が増えれば売上も増える.宿泊客は食事をするから,そのために原材料費がかかる.売上と連動しているから「変動費」である.

残業をすると,残業代がかかることをもって「変動する費用」だから,「変動費」とかんがえるのはまちがいである.その残業が,売上高の増加と連動していれば,たしかに「変動費」に区分してよいが,そうでなければ,単に「固定費」の増加である.たとえば,交通機関の事故や遅れで,予約のあるお客の到着が遅れたばあい,その対応のための残業なら,売上に変化はないから固定費の増加になる.

ここで,売上と連動しない「固定費」は,売上がゼロでも発生する費用であることに注目する.
たとえば,ひまな蕎麦屋で,昼どきなのに誰もお客がいなくても従業員はいる.この従業員の雇用形態はなんであっても,そこにいれば人件費は発生する.
損益分岐点売上というのは,収支がトントンになる売上高のことだから,売上がゼロだったときの固定費分をチャラにする売上のことをいう.ところが,売上がたつということは,いくらかの「変動費」もかかるから,その分も考慮しなくてはならない.

そこで,損益分岐点は,つぎの式でもとめることになっている.
固定費/(1-変動費/売上高) ⇒ 変動費/売上高 を,「売上高変動費比率」と呼べば,
固定費/(1-売上高変動費比率) となる.

それで,このくらいの利益がほしいというばあいに,どれだけの売上が必要かをもとめるには.
(固定費+ほしい利益)/(1-売上高変動費比率) でよい.

なんかすごく科学的なような気分になるのが,損益分岐点分析がすたれない原因かも知れない.
これが,エセ科学のこわいところである.
まるでスターリンからフルシチョフ時代のソ連科学アカデミーを彷彿とさせる.アカデミー議長になったルイセンコは,遺伝学の権威,とされた.

社会主義の土地で育てた小麦は,資本主義の土地で育てた小麦よりよく育つ.
これが科学だった.ルイセンコは,メンデルのながれをくむ正統派を追放しまくったから,いまでもロシアの遺伝学は世界水準から30年遅れといわれている.
日本の経営者も,はやく目覚めてほしいものだ.

損益分岐点売上高の問題点は,すべての費用を,「変動費」と「固定費」に区分することを前提としていることだ.これが,実務ではできないのだ.
たとえば,上述の例で,到着が遅れたお客をただ待っているのにかかる人件費は,売上がかわらないから「固定費」としたが,このあいだに,たまたま予約なしのあたらしいお客がやってきたら,その接客にかかわった時間分は,「変動費」にしなければならない.
これをどうやって計上するのか?
客室照明の電気代は変動費だが,ロビーや廊下の電気代は固定費である.
このように,にわかに区分できない費用がやまのように存在している.それは,経費仕訳の段階で,経理部の人間が記帳するから,教科書のように「費目」だけで区分できないのだ,というひとがいる.では,これを現場でやらせれば解決するのか?そもそも,現場にそんな時間があるのか?

おどろくことに,公認会計士の著作でも,細かいことには多少めをつむりましょう,というスタンスなのだ.そして,有名な会計士が書いた本では,「とにかく『変動費』と『固定費』を区分せよ」とくり返す.その「やり方」の説明がないのに「ひたすら区分せよ」なのだ.だからエセ科学と断定できる.
実務では誤差にめをつむるわけにはいかない.それでは計算結果の誤差がおおきくなって,結局はなんの用途にもつかえない数字だけが算出されるからだ.

「損益分岐点」にこだわる「専門家」がいたら,エセだときめつけてかまわないだろう.
ただし,アイデアはすばらしいから,計算はしなくても,おおよその感覚を持つことはあっていい.その感覚があるだけで,エセ専門家を撃退できるからだ.

日本企業の「管理会計」がいまひとつ発展しないのは,ちゃんとした教科書に「エセ」が混じっているからではないかと疑う.
おおくの管理会計の教科書で,ここだけは読まなければよい,という読み方をおすすめしたい.

チップとサービス料

サービス業,なかでも人的サービスを提供する宿泊業や飲食業などで,よくいわれる欧米とのちがいは,チップとサービス料だろう.

この議論には「業界のタブー」がふくまれている.
第一に,チップならもらった本人のものになるのが原則だろう.しかし,サービス料は,企業が「売り上げる」ので,本人のものではない.
第二に,チップは所得税の対象になっても把握が困難であるのに対し,サービス料は「売上」になるから,まず消費税の対象となる.だから,消費者は,サービス料と消費税を負担する.企業にとっては,利益の源泉でもあるから,法人税の対象になる.
第三に,チップの額はお客側が決めるが,サービス料は企業側が決める.よくいわれる「10%」という率は,とくだん根拠があるわけでもないから,強気の店は「20%」とかと任意である.
第四に,上記,第一と第二に関連して,サービス料を売り上げる企業は,本来,従業員に全額を引き渡そうとしても,これ以外でお客に「サービス」してしまっているから「原資」がない,という問題がある.

整理しよう.
企業にとっては,売上と利益の源泉の一部になっている.
従業員にとっては,賃金のなかに組みこまれているという企業の論理が適用されている.たまに得るチップは自分のものである.
お客にとっては,サービスが気に入ろうが気にそぐわなくても,自動徴収されるのは,不合理だろう.気に入れば,もっと負担してもよいとおもうだろうし,そうでなければ一円足りとも嫌なことがあるからだ.ただし,自動徴収は,面倒がない,という意味において便利であるが,消費税も負担している.
国にとっては,消費税と法人税になる.

こうしてみると,一番の実利を得ているのは国であることがわかる.二番は企業だろう.すると,三番は従業員で,もっともつらいのは選択の自由なく,支払うだけのお客ということになる.お客は,面倒ではあるがチップになれば,サービス料分の消費税は負担しなくてよい.

チップになると

まっさきに企業がこまる.一番の実利を得ている国に余裕があるのは,ほかにも税収があるからだ.いわゆる濡れ手に粟をすこしがまんすればよい.
企業は,サービス料がなくなると,とたんにいまのやり方では経営が行き詰まる可能性がある.
そこで,建前上も,サービス料分の賃金をカットしなければならないが,従業員側は複雑だろう.「安定収入」だったからだ.また,チップが得られる可能性がある接客部署と,そうではない部署間で利害が分裂することになる.
チップ制を堅持している欧米の労組が産別を基本とし,サービス料の日本側が企業内組合である理由がここにもある.

生産性の問題

こうしてみると,わが国サービス業の生産性が,先進国でビリという理由のひとつに,チップかサービス料かという問題が浮かびあがってくる.

「サービス料売上」を期待できない欧米のサービス業は,本業で利益を創出する方法をかんがえなくてはならない.裏返せば,「サービス料売上」というゲタをはいた日本のサービス業は,本業での利益創出努力を欧米企業にくらべてもしなくてよいという「甘い」環境にある.それが「おもてなし依存」というかたちで顕在化する.日本のサービス業で,世界的企業が見当たらない理由である.

チップを受け取るには,お客にわかりやすいサービスをしなければならないから,個々人が努力する.その結果が収入になれば,人材もあつまりやすいだろう.その意味で,日本以外のサービス業従事者は,個人事業主として独自にビジネスをしているのに似ている.日本のサービス業従事者は,賃金制度にくくられた企業依存型といえるだろう.

欧米のチップ制は,自由競争的であり,日本のサービス料は社会主義的である.

これが,生産性に影響していないはずはない.

日本の人的サービス業におけるイノベーションの第一歩は,もしかしたらサービス料からチップ制への転換なのではないか?

であれば,国はへんな補助金をやめて,みずからも税収減という痛みをともなう転換をうながすことで,ゲタをはかなくてもたえられるサービス企業にすることが合理的である.税収が減ってもへんな補助金もなくなれば,国民からすればチャラである.これでサービス業の筋肉がつけば,ムリクリのカジノも必要ないだろう.

「あなただけ」の演出

高速道路のサービスエリアやパーキングエリアに設置されている,カップで提供されるホットコーヒーの自動販売機が話題になったことがある.
注文ボタンをおすと,コーヒー豆をミルで挽くところからはじまって,内部でくり広げられるコーヒー製造工程のすべてがモニター画面にでるというものだ.
そのなかで,お湯からコーヒーを抽出するとき,ハート型のマークがはいった手作りっぽいカードに,「あなたのために」と書かれたものが映しだされる.
このセンスが,話題をよんだのだとおもう.
だれに対しても,まったくおなじ工程なのだから,リアルで見せなくても,ビデオでもわからない.ましてや,「あなたのために」と書かれても,意味があるのか?といえば,たしかに「?」なのである.
しかし,この画面をながめていると,ほんとうに「わたしのために」機械がうごいているのだと錯覚し,それが「癒やし」になるのだ.
みごとなものである.
これを思いついたひとは,きっとこころねのやさしいひとにちがいない,と想わずにはいられない.それで,いつもコインを入れてしまうのだ.

ほんとうにコーヒーがほしいのか?

おもうのだが,このコーヒーはそれなりのお値段である.おおきいカップを選ぶと,300円はする.だったら,最近は高速道路でもあちこちに全国ブランドのコンビニが併設されているので,コンビニの100円コーヒーを購入したほうが安くすむ.
つまり,この機械からコーヒーを買うひとは,第一優先順位がコーヒーではないのだ.
それは,機械が自動的にいれる動きが画面をつうじて確認できるのがおもしろい,というひともいるだろうが,リピーターはおそらく,このちょっとした「センス」を確認したい,つまり,「癒やされたい」というのがほんとうのところではないか?
すると,コーヒーの自動販売機でありながら,じつは「癒やし」の自動販売機なのであって,もれなくコーヒーがついてくる,というものに変化する.
だったら,多言語対応に進化させて,あの場面だけ,それぞれの国の「あなただけ」を表現できるように映像を差し替えれば,おそらく外国人客も驚喜するだろう.
すると,かならずこの光景を撮影して,ネット上にアップするひとがでてくるから,なんと,この機械は立派な観光資源に変身してしまうだろう.

なにを買っているのか?をかんがえる

物がない時代,ひとびとは「物」そのものをもとめたが,いまは「物」は「媒体」に変化した.
飲み物ひとつとっても,「水」では満足しないのだ.
「水」しかなかった時代でも,日本人は「茶」をたしなんだ.そして,その「茶」を媒介に「精神」までもやしなったから,世界が驚嘆する.

それなりの料金を支払う覚悟をもつとき,購入者はそのものの価値ではないものをみている.にもかかわらず,提供者は,相変わらずそのものの価値しかみていないことがある.それで,「売れない」と嘆くのだが,それは,自分がなにを売っているのかをしらないからである.

300円の自販機のコーヒーですら,コンビニのコーヒーと競合しているようにみえながら,じつはまったくちがう価値観を提供しているのだ.

いかに,短い時間で,小さいお金で,大きい成果を出すか

無限の時間と無限のお金があれば,全員が成功者.

タイトルと上述のサブタイトルは,キョウデンの創業者で会長の橋本浩氏のことばである.
出典は,『モジュール化-新しい産業アーキテクチャの本質-』産業経済研究所経済政策レビュー4,青木昌彦・安藤晴彦編,東洋経済新報社,2002年,P.293-P.294,である.

キョウデンの橋本会長といってもピンとこないひともいるかもしれないが,温泉ホテルチェーン「大江戸温泉物語」の元オーナーだといえば,わかりやすいだろう.
東京台場の入浴施設からはじまって,数年で30店舗弱の温泉宿を再生させたのが,大江戸温泉物語という会社だ.

「事業拡大」ではなく「膨張」だ,といったのは,立役者だった故根布谷社長のことばである.根布谷氏をうしなって,橋本氏は大江戸温泉物語を会社ごと売却した.

みごとなシステム構築

「安売りだけが売りの経営」という勘違いが,進出先の地元でいわれた陰口だった.ところが,ついぞダメダメで倒産したあのホテルが,みるみる繁盛店になってしまう.地元のご同業には,単なる安売り営業のはずが,まるで手品のような出来事にみえたはずだ.なにしろ,館内にお客があふれている.いまどき.「安い」だけではこうはならない.

極めつけは,バイキング方式の料理だ.これをどうやって提供したのか?は,外食チェーンの方法がヒントだ.もちろん,ただたくさんの種類の料理を,漫然と提供しているのではない.データからの緻密な予測,その予測による作業指示,そして,それを支えるギリギリの仕入れ管理.

並のホテル・旅館ではとうていできないシステムをつかっているのだ.だから、まねができない.

基本に忠実であるということ

冒頭のことばについて橋本氏は,どんな商売でもおなじだ,と断言している.「時間とお金」というふたつの制約事項を,上手につかうことが成功への道だとしめしている.

そのためになにをすべきか?は,単純なのだ.それは,これまでの数多くの経営指南書にあることばかりである.

聞いたり読んだりした知識と,やってみた知識は決定的にちがう.つまり,基本どおりやったひとがすくないのだ.そして,そのすくないひとが,成功しているのだ.

業績不振の企業は,かならずどこかで「基本」からずれている.もっといえば,じぶんたちの「基本」がずれていることに気づかない.すると,一生懸命やればやるほど,どんどん「基本」からずれていく.そして,行きつく先は組織の相互不信と決まっている.こうなれば,あとは自己崩壊の道である.これは,物理法則と似ているから,止めるには相当の正しいベクトルをもったエネルギーが必要になる.

どこで,だれが「リセット」するのか?

「破綻」しても,橋本氏のような経営者によって再生されるなら,働き手はハッピーである.オーナーチェンジの時点で「リセット」され,そのとき,あたらしい「基本」が提示されるだろう.まちがった従来の「基本」に慣れた従業員は,しばらく戸惑うが,「時間」をムダにしない方針があるから,ときに力業になる徹底的な再教育が実施される.
じつは,再生成功の肝はここにある.

資本主義に「退場」というルールがあるのは,宇宙の超新星爆発のように,「再生」というチャンスが生まれることも意味する.企業も生まれ変わるのだ.商才がないオーナーや経営者が,不純物として取り除かれる.残った,従業員という材料で,あたらしく生まれ変わるのだが,それには正しい「核(コア)」が必要だ.それが,ここでいう「基本」である.
ところが,「並の再生」では,時間を重視しないで「カネ」を重視する.だから,不純物も残って,「基本」のリセットが中途半端になる.それで,二回も三回も破綻をくり返すことがある.

では,いったい「基本」とはなにか?
それは,もっとも単純化していえば,「事業コンセプト」のことである.

これは,どんな商売でもおなじだ.
だから,経営者はつねに,自社の事業コンセプトを積極的に確認することが仕事になる.
このことを怠ると,しらないうちに軌道からはずれ,二度と帰ってこれなくなってしまう.
その例が,いま話題の大企業の不祥事のなかにある.

無店舗ホテル

「モジュール化」が話題になったのは2000年にはいってからだったようにおもう.
当時は,もっぱら製造業のはなしだった.しかし,突き詰めれば,どの業種でも適用できる概念だ.

「部品」とはなにか?

旅館という「サービス業」でかんがえると,客室や風呂,食堂が「部品」というのではなく,客室清掃や風呂管理,調理と配膳といった,「業務」を「部品」にみたてることで,それぞれの「規格」をきめると「モジュール」になりえるとかんがえるのだ.

「モジュール」は,「モジュール」というひとくくりで取引の対象になるから.上記のそれぞれの業務も,取引の対象になっておかしくない.
むかしから,調理なら司厨房士協会,宴会などのボーイやらは配膳会が請け負っている.これらは,「モジュール」のはしりであろう.近年では,ホテルなどの客室清掃も,清掃会社への業務委託が主流になった.
なんだ,その程度なら,というのではない.「モジュール」は,より細かな「規格」が重要なのだ.だから,上述の例は「はしり」なのだ.

「サービス」が「モジュール化」するとは?

背広といえば「テーラーメイド」がふつうだった時代から,戦後になって「イージーオーダー」が全盛をほこったときがある.これを可能にしたのは,簡易に修正できる部分だけ寸法をとったことによる.デザインは一定だからできた.

つまり,サービスのデザインを設計・記録し,そのなかから修正できる部分で対応すれば,イージーオーダー以上のサービスが可能になる.そのとき,「部品」ごとの修正可能性を決めれば,専門会社に外注できる可能性があるという意味だ.

これの例は,すでに大手ホテルも導入している,プロの婚礼コーディネーターや,一部地域では売店の業務委託で売上を数倍にしたところもある.
婚礼は,新婦の希望がつよく反映されるものだが,それをさらにプロが磨いてさしあげることで,一段上の満足を買っていただくことが重要だ.そうして,参加者のなかから,あたらしい需要が生まれるからだ.ところが,こうした提案ができるレベルまで,社員を育てるのには時間も経費もかかるから,これを専門家というモジュールに任せるのは合理的である.

究極の資本と経営の分離

宿泊業で,「資本と経営の分離」をいうときには,政府の「観光白書」にもあったように,土地と建物所有者(資本)と,ホテル事業の経営や運営をするひとを分けて,別々にすることをさした.家賃形式でも,業務委託(MC:マネジメント・コントラクト)形式でもいい.

歴史のある宿ほど,資本と経営が一体であり,残念ながら,その家に生まれたけれども,経営の才覚がないひとが経営にたずさわるしかなく,経営そのものが傾いてしまうという例があとを絶たなかったために,国や金融機関,再生専門家に推奨されたものだ.

それで,ホテル経営会社や運営会社がたくさん生まれた.これらの会社は,自社で不動産(土地・建物)を所有せず,オーナーとの契約によってホテル事業をおこなうものだ.

じつは,世界最大のホテルチェーンである,ヒルトン・インターナショナルや,スターウッドグループなどは,上述の方式で店舗拡大を積極的にすすめたのだ.自社でホテルのための不動産を所有しながら拡大するには,莫大な資金が必要になってしまい,それは経営リスクを高めるという判断からだ.
これに対して,日本の宿泊業界は,経営難が理由で運営会社にならざるを得なかった,という事情がある.どんな事情であれ,世界をみればべつに恥ずかしい事業形態ではないのだが,日本では従業員も萎縮してしまうという,なぜだか不思議な現象がみられる.

その日本では,ビジネスホテル分野での浸透はずいぶんと進んだ.どこの街に行っても存在するホテルチェーンは,資本と経営の分離というモデルで拡大してきたからだ.ところが,高級ホテルの分野では,なかなか進んでいない.また,高級旅館の分野では,有名な一社の独壇場になっている.大衆的な旅館は,「破綻処理」というスタートラインがふつうになったので,こちらは「買収」という形態だから,資本と経営は一体である.

すると,「高級」なグレードでなぜ資本と経営の分離が進まないのだろうか?をかんがえると,おそらく,「経営ノウハウ」や「運営ノウハウ」を確立したところがないからであろう.
「ノウハウ」とは,それが書いてあるだけでも価値があるものだ.だから,ビジネス取引の対象になる.「高級」なホテルや旅館は,イレギュラー対応もおおく,その運営には独特のやり方があると信じられてきた.それは,そこでしかない「ノウハウ」だから,汎用性がない.
しかし,汎用性がないものを「ノウハウ」と呼ぶべきなのか?

ホテルや旅館を一社の経営体や運営体がひきうけるとかんがえるから,「ノウハウ」の壁にぶつかる.数人で構成する経営体が,モジュール化した運営体をたばねれば,これまでの不可能が可能になるのではなかろうか?

地域に就労人口が少なくなった地方の宿泊業こそ,こうした方式の活用しか存続できなくなるのではないか?モジュールの従業員には,期間がきまった出張や異動,と位置づけることで,人口の多い地域からの移転が可能となる.これが,一生そこに住む,イメージとの決定的なちがいだ.

モジュールからみれば,それは「無店舗ホテル運営」になる.

 

没コミュニケーションという時代

2018年の年頭にあたって

ファストフード店がはじまったころから,だんだんお店のひととの会話がすくなくなった.個人商店が減り,大手のチェーン化がすすんだ結果である.
機械的なやりとりで要求がつたわり,機械的なやりとりで商品を受けとり,機械的なやりとりで精算をすませる.ここには,「人間味がある」会話がはいるスキがない.毎日かよう店でも,「いつもの」でとおることはないし,「昨日おみえにならなかったので心配しました」ということばも期待できないし,実際にない.

酒やたばこを買いにこどもを遣いにだしても,年齢認証ができないから買い物にならない.「間違い」はないが,どこか間違っている.
正当な行為にたいしての「報酬」をえる,という社会的「訓練」ができない.お小遣いは,なんの苦労もなく,ただもらうもの,になりさがってしまう.兄弟がいないから,すでに「おじ」「おば」も珍しい存在だ.むかしは,そういった大人たちが,ほんとうは小遣いをあげたいが,親の手前もあって,わざわざ買いものを依頼したものだ.それには,嗜好品である酒やたばこがちょうどいいアイテムだった.相手がこどもだからといって,なにもしないのにただお金をえるのは,乞食行為とさげすんだからだった.もらう側の親にも気骨があったのだ.

機械的だから,間違いをおこすのは人間である.それで,レジに自動釣り銭機能をつけたら,釣り銭間違いがなくなった.機械はミスをしない.そこで,人間がおかす間違いを「ヒューマン・エラー」と呼ぶ.
だから,没コミュニケーション時代には,ヒューマン・エラーがつきものになった.

ヒューマン・エラーは個人の責任か

ヒューマン・エラーが「原因」の「事故」が発生すると,またか,といって「個人」の責任がとわれることがある.

たとえば,トラック運転手が,積み荷の荷崩れによって生じた損害を負担させられることがある.会社のいいぶんは,運転が雑だから,ということだが,道路事情にもよる問題だ.であれば,ゆれない荷台にする投資を会社はしないと理屈に合わない.

これが,人身事故につながったら,その責任は「個人」ではすまない.だから,きちんとした原因分析と対策は不可欠になる.

食品こそ慎重に

アレルギーによる「事故」になると,生命にかかわるほど重大な問題に発展しやすいのが食品である.食中毒もしかり.これらはすべて会社の責任になる.社会的には,絶体に「会社の責任に『する』」のだ.

没コミュニケーション時代では,些細な問題など存在しない.没コミュニケーションゆえに,消費者はクレーマーに変身する.それしか,表現方法がないからだ.これは,合意の欠乏でもあるから,要求が一方的になるのだ.「モンスター」は,特別なひとがなるのではなく,没コミュニケーションがもつ原理からなる.

ならば,コミュニケーション特化型というやりかた

世の中の流れにしたがうのは,ときに賢明ではないことがある.没コミュニケーションに歯向かって,コミュニケーション特化型という道がある.

お客様とのコミュニケーションをいかに深めるか?それには,会話術もひつようだ.そうやって,ビジネスをひととひとのお付き合いに転換させることが,あんがい渇望されている可能性がある.

これは,人間の本能につうじるからだ.ひとが言葉を得たのも,他人とのコミュニケーションのためだからだ.

ひとは間違いを学んで賢くなる動物だ.間違わない社会は,ひとを愚かにする可能性がある.それは,プラトンの「メノン」におけるソクラテスのことばではないか.いまの家庭や学校で,ちゃんと間違えることを教訓に教えているのだろうか?

企業においても,上司は部下に,適切に間違いを経験させることも重要な教育なのである.

宿はお客様とのコミュニケーションに,どんな道具立てを用意するのだろうか?その道具立てが,宿の個性になる.それは,没コミュニケーションを推進する,ホテルとの棲み分けにもなるだろう.