ベンチャー企業が「実績」を問われる

ベンチャー企業というのは,これなら世の中に役立つかもしれない,といった技術やサービスを主軸にした,新しい事業コンセプトの企業だ.だれだって,そんな会社を新規に立ち上げたら,「実績」などない.

審美眼ならぬ審ビ眼

日本の大企業のおおくは,ベンチャー企業が売り込みにいっても,ほぼ相手にされない.そもそもどの部署に連絡すればよいのかすら不明である.これは,大企業の側も,自分たちがどんなことを必要としているかをまとめていないから,内部でもわからない.それにくわえ,そんなこまったことを大企業の内部で「内製」すべきなのか,外からの「購入」をすべきなのかが決まっていない.解決のためのスピードとコストを天秤にかけたとき,おおむねコストを重視するのだ.これは,「時は金なり」という資本主義の基本概念が希薄であることを示している.こんなことを何十年もやってきたから,社内の人材で「審ビ眼」を鍛えたことがなくなる.「審ビ眼」の「ビ」とは,ビジネスのことだ.

外資系が「審ビ眼」を重視する背景

「いいものはいい」という目で見ることは,あたりまえのことだ.ここで,外資系をベタ褒めするつもりはないが,「審ビ眼」をつかって判断するということには,それなりの「リスク」を伴う.じつは,この「リスク」への根本的な思想が日本企業と外資はことなる.

日本が高度成長していた時代の映像作品といえば,底抜けに明るいクレージー・キャッツの「無責任シリーズ」だろう.その前の,森繁久彌の「社長シリーズ」でもよい.「笑いの中に真実がある」といったのは,アリストテレスといわれているが,まさにこれら「喜劇」のなかの日本企業は「リスク」をあまり気にしていない.それが,低成長時代になると「リスク」をおそれるようになった.いつの間にか,日本企業の常識は,「リスクは避けるモノ」となってしまった.

外資系ではよく,ボーナス査定の基準として以下のようにいわれている.「このままでは,今期の業績が悪化するかもしれない,という状況で」1.果敢に挑戦し,業績を良好に改善できた,2.果敢に挑戦し,業績を前年並みにできた,3.果敢に挑戦したが,業績は予想よりかなり悪化した,4.これまでどおりとして,業績は予想どおり悪化した.

4.番以外は全員ボーナス支給の対象になる.3.番は,業績を予想より悪化させてしまったのだから,日本企業的には「余計なことをした」としてバツである.しかし,外資では,「果敢に挑戦した」ことを評価するのだ.逆に,4.番は,日本企業的には「仕方ない」として,評価するだろう.もっといえば,そんな部署の責任者になった「不運」を哀れみ,自分でなくてよかっとも考える.前任者や前々任者(すでに昇格している先輩や同僚)がやってきたやり方を変えたら,先輩たちへの当てつけになって失礼になると考えるのだ.ところが,外資では「解雇」の対象になる.「これまでどおり」のことしかしないなら,そのひとの存在理由がないからだ.つまり,「これまでどおり」に対する評価が,真逆になるのだ.

リスクをどうするか?が左右する

「リスクは避けるモノ」から,「リスクは『何があっても』避けるモノ」という,絶対化がおきている日本企業は,なんでも「純化」させてしまう日本人のDNAからきている発想方法だろう.これにたいして外資は「リスクはコントロールするモノ」という発想だ.これは,ある意味「アバウト」なかんがえ方だ.

人生に「正解」がないのは,やり直しがきかないから,時間をもどして,選択肢ごとに試してから「正解」を確認することができない.だから,つねにその場その場においての「最適」を選択するしかない.ところが,このときの「最適」が,経済学者がいう「(金額で示される)効用の最適」とはかぎらない.ひとの生活における「効用」には,「他利(他人のためになる利益)」をあえて選択することによる「信用を得る」という「効用」があるからだ.これは,企業活動においても同じである.いかなる企業といえども,「正解」に近づくことしかできないが,その「正解」が那辺に存在するのかさえ,じつは誰にもわからない.

だから、いま「リスク」に見えることが,じつは「セーフティ」なのかもしれない.すると,「リスクはとるモノ」となり,コントロールの対象となる.こうした,企業の思想的転換があってベンチャーが生きる基盤ができる.これを忘れて,「ベンチャー企業支援」という補助をしても,お金のムダであるばかりか,「政府に依存」させてベンチャー起業家の人生を翻弄させてしまうだろう.日本は冷酷な国である.

「生産性向上」とはいうけれど

人口が減るから生産性向上なのか?

日本の人口の減り方は尋常ではない.人類史上はじめての経験,ともいわれてひさしい.一方で,歴史的な出来事の最中に生きているひとには,それが日常なので,変化に気づきにくい,といわれる.だからか,わが家のご近所さんとの雑談で,「人口減少」を言うと驚くひとがまだたくさんいる.その驚きかたに,こちらが驚いてしまうほどだ.はじまったばかり,だから仕方がないのかも知れないが,生活実感として,それほどでもないということなのか.

ところが,企業経営者は,まず「人手不足」という困り事から,「労働人口の減少」を実感している.かつての「花形」職種でさえも,欠員ができるほどだ.そこで,新聞をみれば,やっぱり記事も「労働人口の減少」を書きたてているし,政府も「対策」を急ぐらしい.しかし,対策といっても,政府が子どもを産むわけではないから,おのずと議論は二つの問題になる.一つは,政府は子どもを産まないかわりに外国人を連れてくる「移民受け入れ」であり,一つは,人間の数が少なくても多くの生産ができるようにする「生産性の向上」である.

「移民受け入れ」は,文化の問題以前に,「移民も年をとる」ということと,「移民も子を産む」ことが問題で,なかなかはなしがまとまらない.一方,生産性の向上は,政府が直接やってできることではないから,やれやれと民間の尻をたたくことぐらいしかない.そもそも,「生産性」をあれこれと,「生産性」の意識などまるでない政府から言われる筋合いではないのだが,財界は喜んでいるようだ.まったく不思議な光景である.経産省や厚労省官僚の残業時間を聞いてみたいものだ.もっとも,インプット(投入資源)に対するアウトプット(効果)という観点からすれば,これらの役所の存在自体が問題になるだろう.ただし,彼らの価値観では,「複数年次に,できれば永続的に,多額の予算を投入して,世の中の役に立たない事業」を提案できてこそ出世条件になるということも国民は理解しなければならないが.

「人手不足」という尻に火がついたから,「生産性の向上」が必要なのではなく,もともとはいつでも「生産性の向上」は必要なのだ.それは,企業には「極限の利益追求」という使命があるからだ.

「極限の利益追求」をしない日本企業

日本企業の行動原理は,「極限の利益追求」ではない.もちろん,決算発表にあたって,だれも「当社は極限の利益追求をしておりません」とは言わないし言えない.しかも,社内の予算策定で,役員のだれも「極限の利益追求はしなくてよい」とは言わないし,むしろ,「もっとよい数字にしろ」と指示するはずである.

では,どうして「極限の利益追求」をしないと言えるのか?

日本企業の経営者は社員である

経営者が「経営していない」ことは,二社の子会社が,不正を知りながら出荷していた問題で,三菱マテリアル本社の社長の発言,「承知していない」という事例や,これまでの神戸製鋼,日産,スバルの事例からもあきらかである.要は,「現場丸投げ」なのだ.

「現場こそ当社の命」という経営者で,現場に詳しいひとがどのくらいいるのかわからないが,「現場丸投げ」の裏返しかもしれないと疑っていいだろう.このことについて,アメリカの経済学者でノーベル賞も受賞したガルブレイスが,1968年の『新しい産業国家』で証明している.

大企業は,「テクノストラクチュア」といわれる社内の専門家たちに「簒奪され,支配される」とある.これは,組織をあげてヨコの繋がりをもつ「テクノストラクチュア」が,「自分たちの安全」を優先させて行動するという原理だと説明している.だから,彼らは「極限の利益追求」をしない.自分たちの安全とは,安楽でもある.会社には成長は必要だが,会社が存続できる程度の利益があればよい,という発想になるのだ.

ボトムアップ型の日本企業は,大なり小なり「テクノストラクチュア」に支配されている.

安楽な会社では「生産性の向上」はできない

「テクノストラクチュア」の考え方を変えさせなければ,「生産性の向上」はできない.90年代の日本が「絶頂」を迎えたときも,生産性ではG7国のブービー(ビリは英国)だった.その前後は,一貫して「ビリ」なのだ.つまり,わが国は,生産性という視点で見れば,万年ビリの二流国であり続けていた.これは,忙しそうに働く振りをする天才たちによる「一流の幻想」でもある.その天才たちこそ,「テクノストラクチュア」だ.

本物の経営者と本物の労働者が必要

本物の経営者とは,企業の将来像を示せるばかりでなく,「テクノストラクチュア」から実権を奪い返す気力と知力をもった人物である.また,本物の労働者とは,自分の労働の価値を知っている人物である.労働者は人身売買の対象ではない.労働力を売っている人物のことである.この感覚があって,はじめて「プロフェッショナル」への入口に立つことができるのだ.

銀行から排出される人材の再教育が肝心である

日本のメガバンクが,大規模な人員削減をおこなうと発表された.この人材をいかに有効利用できるのか?そのための再教育をどうするのか?経済界は政府に依存するのではなく,「プロフェッショナルへの改造」をみずからおこなうべきである.

「食べ放題」の貧困

ホテルや飲食店での「食べ放題」を,日本では,「バイキング」と呼んでいたが,近ごろでは,メニューから自由に選んで注文する方式も人気だ.

小田原北条家の滅亡にかかわる「食」のエピソードとして,北条氏政の「汁かけ話」がある.父の氏康との食事で,氏政がご飯に一度汁をかけたところ,少なかったのでもう一度かけなおした.これを見た,父氏康が「これで北条も終わりかと嘆いた」という.毎日食事をしていながら,成人になって汁の量もはかれぬ者に,領国や家臣,領民の生活経済を推し量ることはできないから,戦国武将家として維持できない,という意味である.氏政の名誉のために付け加えれば,後世の作り話であるそうだが,説得力のあるはなしである.

食品業界では,消費期限や賞味期限の表記に工夫をして,なんとか廃棄量を減少させたいと活動しているが,「食堂」業界では,食べ放題を推進している.もちろん,「持ち帰り禁止」とか,「食べきれる量」という注意もあるようだが,おおくは利用客の「モラル」に依存している.

「育ち」とか「お里」ということをあまり言わなくなってきた.「食事の躾」は,とくに大人になってから目立つようになって,場合によっては一生を左右することにもなりかねない重要事なのだが,「そのとき」では間に合わない.まさに,「育ちの悪さ」や「お里が知れる」瞬間である.これまでの「訓練」が,ついうっかりでてしまうからだ.

だから,重要事にはたいがい「お食事」がつきものである.わが国の最重要お食事会とは,宮中晩餐会であろう.だれでもがこのような席に招待されるものではないから,自分には関係ない,というむきもあろうが,下々とて,人生における重要事に「お食事」はつきものだ.「節句」もそのうちのひとつだろう.「お誕生日会」がこれに加わり,学校給食も日常事での「お食事会」である.けだし,「躾けの要素」がどこまであるのかはよくわからない.いまだに戦後の欠食児童や栄養不足が気になるのか,学校給食ででてくる話題は,「栄養」と「産地」それと,「未払い問題」ばかりである.

お嬢様学校の伝統として,「テーブルマナー」があり,その実地場所として高級ホテルが選ばれていた.講師はホテルの「ボーイ長」で,マナーだけでなくエチケットも教えていた.「花より団子」のお嬢様たちは,料理のおいしさに酔いしれるのだが,数年後の「お見合い」の場面で,効果を発揮できた.男性側は,たいてい背中に冷や汗をかいていたと思われるが,優雅に食事を召し上がるお嬢様にぞっこんさせるためのアドバンテージをあたえていたのかも知れない.いや,良家のお坊ちゃまであれば,付け焼き刃のマナーなど,簡単に見破ったにちがいない.

そんな男性も,社会に出れば接待という「お食事会」がつきまとうようになり,また,社内行事でも幹部との「お食事会」があった.外資系では,週末に上司の家へ呼ばれての「お食事会」は,いまだにふつうのことだ.ここで,かなりの確率で「育ち」と「お里」が評価される.

品のない女子高生グループが,とあるレストランで「食べ放題コース」を楽しんでいる光景を目撃したことがある.お下劣なマナーで,大量の食べ残しの山を築いていた.一口食べて「まずい」といって皿に投げつけた者もいた.ああ,この中から間違っても嫁にしたら,またたく間に貧困家庭になってしまうと思った.

経営に失敗する常識

「経済学」に詳しいと

経営に失敗する経営者には,よく勉強したひとがおおい.その典型的な勉強分野が,「経済学」である.ところが,この経済学,さすがにマルクスは影を潜めたが,日本ではいまだにケインズを中心とする混合経済の近代経済学が一般的だ.それをいまでは,「主流派経済学」と呼ぶ.これは,政府が中心となって,様々な「景気対策」などの「経済政策」を行うことをあたりまえとしているもので,いろいろな分野での「補助金」も,政府の「政策」が根拠になっている.つまり,政府がなにかしてくれる,という他人まかせの社会をつくる.だから,自社の業績は経済状況に左右されると発想し,それを政府に改善して欲しいと願うようになる.新聞などの「世論調査」で,いつも大きなウェートを占めるのは政府による「経済対策」や「景気対策」になることでもわかる.

しかし,現実には,いかにして他社より自社が選ばれるかという「競争」がおこなわれているのであって,経営者は,その競争に負けない方策をかんがえるのが仕事である.ここに,政府のでる出番はないのだが,とかく政府は経済に介入したがり,「補助金」とかを渡すかわりに,政府の言うことをきかせるように仕向けるのだ.安易にお金の支給を受けようものなら,後々まで規制をかけられて,しらないうちに自由な経営ができなくなる.

困ったことに,主流派経済学の学者も,その学者から熱心に学んだ官僚も,経済界のえらい人も,「消費」についてすら現実からはなれた発想をしている.ひとくちに「消費」といっても,生活必需品を購入する消費と,不要不急「競争」がおこなわれていての贅沢品を購入する消費とでは意味がちがう.贅沢品は「奢侈品」として役人が分類すると課税されてしまうから,さらに別の意味もある.
教科書どおりの通り一遍な主流派経済学者は,消費の金額的側面,つまり統計データしかみない.「効用」という言葉が経済学にもあるが,ほとんど無視するのが主流派経済学という「学問」の特徴である.マーケティング情報として消費をみるときは,事前期待と事後の満足度の一致具合が興味の対象になる.購入前の「欲しい!」という想いと,購入後の「買ってよかった」とか「失敗した」とかの感じ方のギャップの大小のことである.つきつめれば,消費者がお金を払うとき,『製品やサービスの「期待価値」を買っている』といえるのである.
マーケティング論における大家,セオドア・レビットによれば,経済学者はまったくわかっていない,と嘆くポイントだ.たとえば,パンとダイヤモンドの消費をかんがえるとき,経済学者は,パンはパンとして,ダイヤモンドはダイヤモンドとしての価値しかみないから,それぞれの消費データを分析しようとする.物理学者や化学者は,どちらも「炭素」からできているので,同じ素材の物質にみえる.マーケッターは,パンを購入するときの期待価値,ダイヤモンドを購入する時の期待価値,という「期待価値」という同じ目線でみつめるのだ.ここに,決定的なちがいが生まれる.

消費者をみないで消費データしかみない

経済学者と同様に,失敗する経営者にとっての消費データとは「売上高」のことである.全社でいくら,部門別でいくら,子会社ごとにいくら,というように「売上高」を塊としてみる.そして,これを「損益計算書」という「計算書」としてまとめられた数字の「表」しかみない.部下や責任者からの報告も,この表の「仕訳ルール」(おおくは「税法」による)によってできた「経費科目」によってなされる.比較の対象は,今期と前期,あるいは前々期からの伸びや縮小の率や額である.

これは,「数字ごっこ」である.

この程度の「分析」から,将来を決定するとして,なにをきめることができるのだろうか?日本企業は「決められない」ことに特徴があると揶揄されて久しいが,それは本当である.しかし,「決められない」ことの理由の分析すらできていない.答は簡単なのである.「数字ごっこ」をしていることが原因の大きな要因なのだ.過去の「損益計算書」という書類には,「将来を決めるための情報がない」から,どんなにほじくっても,「決められない」のは当然だ.

決めるための情報は,消費者の選択行動分析である.

とっくにコンビニ業界がそれを証明している.自社にお金を払ってくれる唯一の層は「消費者」である。これは、たとえ「B to B」でも同様である。最終的なユーザーである「消費者」こそが真の負担をする唯一の存在である。自社の製品・サービスの「期待価値」をいかに高めるのか?そもそも,現状の「期待価値」をどう評価するのか?主流派経済学の知識ではわからないことなのだ.

パーキンソンの法則がマイナーなニッポン

パーキンソン病のことではない.欧米では「常識」になっているほど有名なのだが,なぜか日本では今ひとつ受けが悪い.

パーキンソンの法則とは

1958年にロンドン・エコノミスト誌上で,英国の政治学者シリル・ノースコート・パーキンソンが発表した論文にある.

「役人の数は仕事の量とは無関係に増え続ける」

この「役人」とは,もちろん国家・地方公務員のことであるが,民間企業にも適用できる.社内の事務屋の数は仕事の量と無関係に増え続ける,と読み替えれば簡単だし,社内の事務屋は(ムダな)仕事をつくりだす,と言ってもよい.役人がムダな仕事を忙しそうにやっているのは古今東西共通である.

パーキンソン氏は英国人だから,強烈なユーモアを飛ばしている.有閑マダムが朝食中に姪に手紙を書こうと思いつく.食事後,住所録が見当たらないので探し回るうちに昼食になる.昼食後,やっと手紙本文を書き始めるが,なんで手紙を書こうと思いついたのかを忘れてしまい,悪戦苦闘して書き上げたのは夕食前だった.ベッドに休むとき「ああ,なんて忙しい日だったことでしょう」とつぶやくのだ.有能なひとなら,ものの15分で終えることも,一日仕事になると書いている.この話で納得できない人向けに,第二次大戦後,海外領土がほとんどないのに「植民地省」の役人の数が最大版図だったときの二倍いることや,海軍省の話題で証明しているのだ.詳しくは本を手にして欲しい.

以上が,欧米で「常識」になっているから,入社したばかりの若者でも,自社があるいは自部署がパーキンソンの法則におかされていないかチェックしている.わたしは,外資系の社員になってから,同僚に教えてもらった.そして,ミーティングの場でもしばしば,上司との議論になるほどであった.上司が認めれば,その仕事は消滅するのだ.

自動車完成検査における「不正」とは?

徹頭徹尾パーキンソンの法則の通りに行動するのが役人である.その中の国土交通省(旧運輸省)が定めたのが今般話題の「偽検査員」問題だ.日産,スバルとも30年来しでかしていたと告白しているし,ほとんど罪の意識がなかった様子だ.「悪法も法なり」だから,もちろん褒められたことではないが,この問題で「事故」となった事例もなさそうだ.

喧嘩両成敗が武士の掟

両社はたいへんな損出を覚悟して,リコールに踏み切った.ならば,国土交通省も,制度の見直しあるいは廃止をしなければならないだろう.これを相変わらず上から目線でいるのはどうしたものか?選挙で大勝したばかりの与党の大臣こそ,ここで有権者側の発言をすべきなのに,役人にまるめこまれた低能さをさらけだして,巨大企業の社長が頭を下げる姿をみて自己の優越性にご満悦でいる.この両社の5百億円にのぼる損は,最終的に消費者が負担することになる,という経済原則もしらない.経済原則をしらないのは役人の常だから,これをもって役人にまるめこまれたと証明できるのだ.そもそも,30年間もこの状態を放置した監督官庁はなにをしていたのか?(なにもしなかった)ということを言いだす,専門の評論家もいない.

お役人様はどんなに悪いことをしても,あるいは見てみない振りをしてきても,だれからも罰せられない.容赦なく責め立てられるのは民間企業なのである.これでは,徳川身分社会そのものではないか.

そう,この国は身分社会なのである

幕末の志士たちの必読の書で,思想的影響力が計り知れなかったのは,水戸学のエース,会沢正志斉の『新論』である.このなかで,倒幕後の新政府も引き続き武士階級が支配すること,を前提としているのだ.もっといえば,武士階級以外の階級がこの国の支配階級に入ってはならないし,そんなことは考えられない,ということだ.だから,「下級武士」も活躍できた.全国諸侯がいっせいに藩政改革に取り組むときのベストセラーなのだ.これで,家格が高い上士たちも下級武士たちの活動をながめていられたのだ.

明治維新で不思議なことが起こるのは,水戸学の否定なのだ.いまも東大教授たちは,明治期になると水戸学は捨てられたといっている.なにしろ「四民平等」なのだと.本当だろうか?

明治の官僚制は,はじめ薩長両藩からの登用,そしてそれがだんだんと各藩に広がる.しかし,廃藩置県で圧倒的に役人の数が足りなくなる.しかも,単純事務ではなく高級官吏が足りないのだ.そこで,政府は大学を設置する.のちに,軍も陸軍大学校や海軍兵学校を設立し,文官は大学卒,武官は陸と海それぞれの卒業生を「幹部要員」とした.つまり,ここに身分の読みかえをしたのだ.これらの卒業生を「武士階級」とみなし,支配階級とした.これが,連綿といまに続いているのだ.これを隠したい人たちがいるらしい.

本物の支配階級を追放した戦後の混乱

華族制度だけでなく,皇族の臣籍降下によって,本物がいなくなった.これは静かな革命だったのではないか.皇族の臣籍降下は,法理ではなく大蔵省役人による予算削除だった.「削減」ではない.生活できなくなった「宮様たち」は,家土地を売却して退出した.これをまとめて購入した跡地が「宮様(プリンス)ホテル」になった.

だから,有閑マダムがいない国になった.一通の手紙に丸一日かけられるおばさまは,もういないだろう.いるのは,本物の役人と,役人根性をもった社内官僚たちである.

否・観光立国

観光で食えるか?といえば「否」である.もちろん,観光で食うひとはいる.しかし,国民経済が「観光収入」だけに頼ったら,おおくのひとがあぶれてしまうだろう.断言できる.観光が日本の基幹産業になることは,あり得ない.

生産性が低すぎる

最大かつ唯一の理由である.わが国の労働人口構成は,およそ以下のようになっている.

第一次産業:5%

第二次産業:25%

第三次産業:70%(うち,金融およびIT関連は10%)

この国の基幹産業である鉱工業は,世界トップクラスの生産性だが,労働人口比では1/4しかいないのだ.逆にいえば,わが国は1/4の労働者で支えられている.

生産性がとくに低いのは,「人的サービス業」である.飲食業,宿泊業が典型的である.しかし,これら産業の生産性の低さは世界共通なのだ.その中にあって,わが国のこれら産業はとくに低い.

昨年2016年の出生者数は100万人を切った

これは,19年後の新成人の数でもある.彼ら彼女らは,いったいどういう職業につくのだろうか?2015年の国勢調査では,わが国の労働力人口は6,075万人である.彼ら彼女らの時代は,今後の出生数を約100万人弱でキープしたとして,60年間をもって労働力としても,2015年の数には足らない.つまり,職業を今以上に選べるのだ.

賃金の上昇に適応できる産業しか残らない

つまり,生産性の高い業種に就職希望者が殺到することになる.それは企業への就職という形態だけでなく,貴重となる職人のうち,高く売れる分野も有望になる.つまり,熟練を要さない分野や知識集約的でない分野は,人材不足によって淘汰される可能性がでてくる.

親子で気づいているか?

まず,このような激変に学校が気づいていない.とくに公立学校は鈍感だろう.なにしろ,文部科学省という超鈍感な役所の命令を待つしかないから,世間とは別世界が続くはずだ.生徒の自殺問題やいじめ問題にまったく他人事の対応しかできない,地元の教育委員会という役所もおよそ無関心にちがいない.では,親が気づいているか?ここに将来の「格差の芽」がある.全入どころか,国立でも倒産する大学が続出すると予想されるから,ただの「大卒」では,せっかくのチャンスをのがすだろう.つまり,知識集約的な専門レベルなのか,一方で勉強が嫌い,あるいは不得意なら従来以上に職人になる魅力が増加する.すなわち二極化するようで実は「専門化」するから選択肢の幅が広くなる.そして,非熟練・非専門の職業は先の世代でなくなる可能性がある.こうしたことに,はやく気づけば,有利になるのは当然だ.すさまじいスピードで,日本社会は変化せざるをえないから,親子の戦略的会話が子どもの将来を決めるインセンティブになる.

事業継承ビジネスよりも事業売却ビジネスになる

相当数が淘汰されてからの「安定」は期待できない.2020年の東京オリンピックが終わってわずか5年後の2025年には,東京都の人口も減少に転じる予想だ.地方からの若者の転入で,人口を維持してきた巨大都市も,供給元の地方に若者がいなくなる.さらに5年後の2030年には,とうとう東京郊外でゴーストタウンが生まれる.いまから,たった13年後だ.最近,メガバンクが大縮小計画を発表した.理由を確認すれば,本音がわかる.日銀のマイナス金利で,銀行本業の収益性が落ちた.これに少子化で,将来の行員確保が困難だから,という.つまり,銀行では,知識集約的な専門レベルの人材でないと,不要,と宣言したのだ.なぜなら,これから,中小零細企業の廃業が激増するはずだ.これをまたぞろ政府はムリクリに事業継承をさせようとし,税まで優遇しようというお節介な介入をしたがっている.懲りない連中である.それよりも,「使える」技術や会社を売却した方がよい.ここに銀行はビジネスの目をつけたはずだ.このような転換は,全部の業種で発生する.

生産性の低い観光業のみなさんには,悲惨な結末になる前に,計画的な事業売却か廃業をおすすめする.若い従業員は,自分の職業能力高度化に投資しないと,中年以降に見捨てられる可能性がある.

社会人の再教育が沸騰する

だから,すでに社会人になってしまったひとの専門化が,社会の最重要課題になるはずだ.大学は,社会人の受け入れについて,最大の経営努力をしなければならないことに必然的に気がつくはずだ.高卒者だけを新入生としたら,成り立たないのが目に見えている.一方,企業も,どのような人材を求めているかを明確にしないと,求職者の募集ができなくなるだろう.

こうして,社会全体の生産性が高まり,高コスト負担に耐えられるようになってから,日本の観光業も息ができるようになる.高単価な収益のためには,高度な人材が必要であるからだ.つまり,低単価で大量に売ろうというビジネスモデルの終焉なのだ.

 

いまだ「おもてなし」

日本という市場で,間違いなく起きていて,これから数十年間つづく「人口減少」に,「おもてなし」だけで対応しようとする努力は,残念ながらムダな抵抗である.くわえて,政府が推進する「働き方改革」も何をか言わんや,余計なお世話である.

生産性が低いのは単価が低いからである

日本の生産性は,先進七カ国中のビリである.しかし,もっと深刻なのは,人的サービス業の生産性の低さである.これを「おもてなし」で解決しようとするのは,さらなる生産性の低下をまねく.働かせる側も働く側も,ここのところが飲み込めていない.「おもてなし」を強化することとは,すなわち労働強化である.あれもこれもと設定したサービスメニューをこなさなければならない.働かせる側は,このサービスメニューをどんどん増やそうとする.働く側は人数の増員も,訓練もなく,ただひたすらにこなさなければならない.ところが,サービスメニューは増えたが,単価が増えない.だから,提供損である.それでもやめさせないし,やめる気もない.これが競争だと信じているからだ.

生産性の算定式を知っているのか?

おおくの経営者にあらためて質問すると,おおくのひとの口が重くなる.「えっ,計算できるんですか?」と逆質問されたこともある.計算定義を知らずに議論しているのだ.生産性の計算のおおもとに,付加価値がある.「生産性」とは,「付加価値生産性」のことだ.「労働生産性」とも「労働者1人あたりの生産性」とか,いろいろないい方がある.これは,付加価値を労働者の人数で割ったものだからだ.だから,もっとも基本の数字は,「付加価値」である.その付加価値の計算方法は二通りある.「減算法」と「加算法」(日銀方式)だ.理屈のうえでは,どちらも同じ答えになる.

減算法:販売額-原材料-外注費-動力費-運賃-保険料,など

加算法:税引後純利益+支払利息+手形割引料+賃借料+人件費+租税公課

付加価値には人件費が含まれる

加算法ならストレートだが,減算法をよく見ても,人件費が付加価値に含まれるのがわかるだろう.こうして算出された「付加価値」を人数で割れば「生産性」が得られる.生産性は,金額で表示されるのだ.一方で,「付加価値」のなかでの人件費の割合を,「労働分配率」という.労働者への還元率ともいえるだろう.最近,これら「生産性」と「労働分配率」が混同して議論されていないか?とおもうことがある.

問題なのは「単価」である

日本の生産性の低さは,売上そのもに問題があるとおもっている.「売上」とは,単価×数量,のことである.すなわち,単価,が低いままなのだ.デフレだから,ということではない.すでに人手不足が問題になっているが,今後の少子化で,人手不足が改善される見通しはないし,むしろ悪化するはずである.すると,若者の労働単価が上昇するはずだし,採用維持すら困難な地方では地域の労働人口が減少しているから,必然的に人の単価上昇は免れない.いまは,低く抑えられても,この圧力に耐えられなくなるだろう.これは,政府が定める最低賃金の問題ではない.つまり,人件費における単価上昇に,販売での単価上昇をマッチさせなければならないのだ.

高単価商品には高度人材という原則

人的サービス業,なかでも飲食業や宿泊業といった「低生産性」の業種にも,以上の圧力はかかるから,対処方法を早急に検討しなければならないが,一部を除いてその動きは遅いようだ.都内の大手ホテルでは,パート・アルバイト,契約社員の正社員化がはじまった.つまり,従来のパート・アルバイトも正社員になるし,今後は正社員しか採用しない,ということだ.ロボットなどのIT,あるいはAI技術での店舗開発も今後はふつうになるだろう.すると,地方だからという理由だけで,これらの流れから逃れることはできないし,むしろ,近隣に労働者がいない地方こそ,積極的に取り組まなければならなくなる.

資本がない現実

疲弊した地方の宿泊業の大問題は,資本がない,ことだ.上記の対応策には資本が必要だが,それがない.つまり,資本主義の原則にもどって,資本調達をしなければならないということになる.すなわち,「ちゃんとした経営計画」が求められるているのだ.幸い,金融機関も安泰ではない現在,地元金融機関からの人材も含め,戦略的な採用をすることでの経営強化が,生き残りの必要条件になるだろう.そして,いかなる人的サービスと非人的サービスを組み合わせるかが,生き残りの十分条件として機能するのではないか?少なくても,従来のやり方での延長で,今後の人口減少社会を生き残ることはできないといえる.もはや「おもてなし」どころではないのである.

どちらが強欲か?

最近報道された,浅草仲見世商店街の家賃問題.歴史的な背景もあって,ちょっとした物議をかもしている.意外だったのは,10㎡あたり15,000円という現状の家賃である.これを近隣相場の25万円にしたいというのが家主である浅草寺の主張である.当然,商店街組合は「家賃高騰による廃業」と「浅草らしさがなくなる」といった理由で反対を表明している.この騒動の発端は,東京都が所有していた長屋建物を浅草寺に2,000万円ほどで売却したことだという.それにしても,都が破格で賃料提供していたのは,寺の土地を無償で借りていたからだ.この土地自体も,明治政府の寺社領没収にさかのぼるらしく,都が建物を建てた後に,土地は国から寺に返却されている,という事情もある.さらに,寺が建物を購入したのは,非課税だった土地の固定資産税の見直しがあったというから,これも都と台東区という役所の事情だ.

知りたいことがわからない

いったいいつからいまの家賃,15,000円になったのかがわからないし,なぜ都は家賃改定をしなかったのかもわからない.ただ,10㎡あたり15,000円というのは,周辺の「青空駐車場」としても格安であろう.また,そもそも寺が返還されて所有した土地の固定資産税が,なぜ非課税だったのかの事情もわからない.ちょっとした「行政の闇」がここにもある.

適正家賃

近隣の相場から算出した,という寺の主張はもっともである.しかし,その前に,収益性から算出したらどうなるか?が気になる.反対する商店街側は,収益性についての分析を公表すべきである.高額家賃になったら「廃業」というのは脅しになる.しかし,おそらく,商店街側の言い分にうそはないだろう.収益性が高いだろうとおもわれるお店は,失礼だがみあたらないからだ.それを「伝統」とか「浅草らしさ」といって保存の対象とするか否かは,別の議論になる.本来,適正家賃とは,収益性との合致がなければならないし,既得権益化を許すこともあってはならないからだ.

行政介入の可能性

都は,建物譲渡にあたって条件をつけている.参道の景観を維持せよ,というものだ.「景観」のなかに「店舗経営」が含まれるとはおもえないが,なんでも口実にして介入したがるのが行政である.小規模でかわいそうな商店主たちをいじめる悪辣な寺院,という構図にしたがる筋もあるだろうが,既得権益を守りたい商店側と,それを壊して新しい可能性を入れたいとする寺院側,と言い換えれば,どちらが強欲なのかが見えてくるだろう.もし,都や区などの行政が介入して,商店側を守るのであれば,寺院側はその穴埋め分を「補助金」として請求するだろう.すると,一種博物館化した商店街を,税金で支えることになってしまう.浅草寺エリアの年間観光客は述べ3,230万人という数字だ.一日で88,000人になる.その中心地における適正家賃として,どうすべきかを市民目線で考えないと,知らないうちに負担させられることになる.

やめられない文法教育

決済がダサイ日本

欧米や中国で,すでにあたりまえの仕組みが,店舗での支払における「電子決済」である.デビッドカードでもクレジットカードでもよいだけでなく,通貨が選べるようになっている.たとえば,日本発行のクレジットカードなら,現地通貨と日本円が選択できる.この端末が,屋台から田舎の八百屋まで普及している.現金では小さすぎる単位の金額(小銭がない)でも,電子決済ならなにも問題ないし,量り売りの商品でも,電子秤と連動しているから単価がちがう商品を複数購入しても計算に間違いもない.お店は,決済後におまけをくれたりする.そして,なによりも現金を両替所で交換しなくてすむし,帰国時には余った現地通貨をまた両替するか,それが面倒なら使い切るしかないので無駄になることもない.

これがあたりまえの国からやってくる観光客のシェアは高いと思うが,受け入れる日本側は意外や無頓着である.日本人一般が,現金決済をふつうだと認識しているからだろう.一方で,以上の便利な国に旅行した邦人は,日本は遅れていると認識しながら日常のなかに埋没していくのだろう.

外国語対応が優先される

外国人観光客が著しく増加して,接客サービス業では言語の問題がつきまとっている.そこで考案されるのはIT技術を駆使した,多言語対応サービスだ.スマートフォンに話しかければ,自動的に指定言語に翻訳してくれるアプリはたくさんあるし,音声で翻訳してくれるものもある.店舗側が用意する最新技術の言語対応が悪いと言いたいのではない.便利さの優先順位としての決済システムが,社会インフラになっていないことを強調したいのだ.

なぜなら,自分が外国を旅行して,言語において不便を感じても,観光旅行であれば犯罪被害を受けたのでなければそんなに深刻な問題ではないからだ.つまり,外国人観光客も,言語問題が優先順位で高いと認識しているかという疑問がある.

国語教育が問題だという説がある

わたしも他人のことをとやかくいうほどの語学力があるわけでない.今年,日本語を外国人に教える「日本語教師」としてベテランの先生にお目にかかった.その先生の,日本人が世界的に外国語習得を苦手にしている原因をおしえてもらった.それは,なんと小中学校で習う「国語」が,外国語習得の邪魔をしていて,英語教師がそれに気づいていない,とおっしゃった.「国語」で習う文法は,高校で習う「古語」の文法の基礎になるから,日本語教師は「国語文法」と呼び,「日本語文法」と区別しているというのだ.では,「日本語文法」とはなにかというと,外国語と比較できるように整理された文法だという.

とくに欧米の言語は文法が厳密である.だから,文法を習得してしまえば,あとは単語数を増やせばいいという.欧米の言語とかけはなれた日本語を母国語とするわたしたち日本人は,まず「日本語文法」を学ぶことで,英語をはじめとした欧米言語との文法上の構造のちがいを理解すべきで,それがわかれば比較的やさしく外国語理解ができるというお話しだった.いきなり英文法の教科書をみてもトンチンカンなのは,「国語文法」とのちがいがおおきすぎて,なにがなんだかわからず,暗記するしかないという「根気」だけが要求されてしまう.

日本語を習得する外国人は,日本語文法の教科書で自国語との構造のちがいを最初に教わるという.それは,すでに学校で習う自国語文法が,他の言語と比較できるように整理されているからで,数カ国語を平然とあやつるヨーロッパ人は,親類筋にある言語だからという理由もあるが,文法自体の教え方に秘密があると力説されていた.

書店に行くと,日本人のための日本語文法の教科書が少ないことに気がついた.これも,わかっちゃいるけどやめられない,ことなのか.

逆シンデレラ症候群

シンデレラ症候群とのちがい

シンデレラみたいに素敵な王子様が自分にも現れると信じ、ずっと待ち続けることを「シンデレラ症候群」と呼ぶらしい。
再生の仕事をしていると、自社をたすけるためにやってきた投資家(ふつう「スポンサー」という)がいるのに、そのスポンサーの意向に従いたくない「症候群」を発症することがある。つまり「反抗」・「反逆」してしまうのだ。スポンサーを王子様として認識できないばかりか、現状から変化を求めるスポンサーが「魔女」だったり「敵」にみえてしまう病気である。これをわたしは「逆シンデレラ症候群」と呼んでいる.

この病気の原因は、おおくのばあい「自分かわいさ」という心理である。もっといえば,この期に及んでの「自己保身」だ.自分がやってきた「仕事」すなわち「業務のやりかた」を、ついさっき出現した人物から否定されることは、自分の人生が否定されていると勘違いしてしまうからだ。
では、その勘違いの原因はなにか?とかんがえると、自己のパーソナリティーと「仕事」すなわち「業務のやりかた」が一致していることにある。これは、伝統的な「職人」の思考方法とにているとおもわれるかもしれない。しかし、現代の「職人」が本当にそのようにかんがえているかは疑わしい。名人とか名工とよばれるひとほど、さまざまな工夫について積極的であるからだ。

味をかえるから味がかわらない

たとえば、いまも「むかしからかわらない味」で人気の老舗の料理店では、じつは昔からくらべるとずいぶん「味をかえている」ことがある。この意味は、「お客様の食生活がかわってしまった」から、その味付けに対抗できるよう微妙に店の味を変化させてはじめて「味がかわらない」と評価されることにある。だから、長年にわたってすこしずつ変化させた結果、先代や先々代の味付けとくらべると、驚くほどちがっているのだ。それでも、その店の昔からの顧客は「昔からかわらない味」と評価するから、昔をしらない新しい世代の新規顧客は「この味が昔からの味」とすりこまれる。この状況がおりまざって、全体がまごうことなき「むかしからかわらない」という評価が確定するのである。だから、ほんとうに味をかえない店は淘汰されてしまうことすらある。そして、かならず「あの店の味がかわった」とか、「むかしとちがって味が落ちた」などといわれてしまう。現代人の好む味に変化させないことで、じじつは顧客自身の味覚が変化しているにもかかわらず、その責任はなんと店に押しつけられるのである。
このようなことは、おおくの伝統的な物作りの世界で起きている。だから、本物の職人は変化を畏れないし、むしろ積極的に変化をもとめることすらあるのだ。

「仕事」は二種類に区分できる

一つは、「作業」である。「定形業務」と呼ばれることもある。いわゆる手順がきまっている仕事で、結果であるアウトプットも一定になるのが特徴だ。この手の仕事で典型的な単純作業は、真っ先に「流れ作業」になったり「自動化」の対象になった。
しかし,「作業」すなわち「定型業務」の組み合わせだけで、もとめる製品やサービスが完成すればよいのだが,現実はそう簡単にはいかない。

そこで、二つ目の「仕事」が分類できる。「非定形業務」がそれだ。
ところが,これは「定形業務のなかにも」発生する。たとえば、ネジを絞める作業をおこなう機械がこわれてしまったとしよう。今月は二度めで、前回の故障から一カ月経過。修理に四時間を要するとすると、これによる製造できなかった分の売上げ減少による損失はすぐに計算できるし、故障発生頻度から、なにをしなければならないか優先順位もきまる。だから、故障原因の特定と対策は重要な業務になる。この業務は非定形業務だ。だんだんと故障発生対応から「予防」の概念がでてくると、当初は非定形業務だったことが定形業務に落ち着くことがある。これが業務における「進化」と「深化」である。
こうして、「進化」と「深化」の大系が、ノウハウになるのである。

さて、もともとの「非定形業務」がある。商品企画とか設計、アフターサービスなどだ。ところが、「非定形業務のなかに定形業務」もできてくる。「いつものパターン」というやつだ。ここにも、ノウハウの要素がある。
このように「仕事」を二種類の「業務」に分けると、職業人生における一体化がありえるのは「ノウハウ」に集約されることになる。
つまり、「仕事をおぼえる」とは「ノウハウの修得」という意味になることを強調したい。

ところで,「逆シンデレラ症候群」を発症する素地として,自己のパーソナリティと仕事の一致と書いた.これは,上述のような業務の分析をしないで,毎日を過ごしたということである.つまり,意識して仕事のミスを改善したのではなく,発生した問題をその場その場でなんとかしたにすぎない,という人生だということだ.だから,ノウハウらしいノウハウが積み重なっているわけではなく,「昔からやってきたこと」が堆積しているだけの状態になっていることがおおい.

「ノウハウ」は資産である

わたしは「ノウハウ」というものは、ひじょうに高い価値があるとかんがえている。だから、本来は「資産」としてとらえたいものである。議論を拡散させないために、ここでいう「資産」は企業会計上の「資産」とは切り離す。
個人がもつ「ノウハウ」と、会社や組織が持つ「ノウハウ」があろう。どちらでもポイントになるのは、「ノウハウ」はそれ自体「無形」であるから目に見えないことだ。だからこそ、なんらかの方法で「見える化」させることは、重要だ。
企業組織内のさまざまなルールや規定は、「ノウハウ」を見える化した一部の姿であるといえよう。

それらを体系的にまとめたものを,「マニュアル」という.しかし,「マニュアル」は,現状をまとめればできるというものではない.いま考えられる最高・最善のやり方が示されるものだからだ.「マニュアル」は「見える化したノウハウ」そのものだから,民間企業では外部に対して「秘密」扱いになるのである.

「自己保身」がうまれるワケ

さて,「マニュアル」にひそむ大きな誤解がある.それは,上述したようにマニュアルとは,「ノウハウを見える化したもの」であるから,「進化するはず」のものなのに,現状の仕事のやり方を書くモノと思い込んでしまうことだ.そして,一度完成したマニュアルは,その後放置され,「改訂」はめったにされない.だから,現場での仕事の改善結果も,マニュアルには反映されないから,新入社員以外だれも見なくなる.「本当のマニュアル」では,マニュアルが先に開発されて,業務はそれに従うものなのだ.この原則的行動に,人知の最先端のはずだった,福島第一原発*で,津波後,誰も(事故現場,東電本社,政府の役人)従わなかったから,「本当のマニュアル」を理解し,業務に応用している日本の組織は,おおくはないだろう.

*(注:詳しくは,齊藤誠『震災復興の政治経済学』日本評論社,2015)

こうした誤解に気がつかない会社は,残念だがたくさんある.そして,こうした会社組織における従業員は,それぞれの職場における「ノウハウ」を入社後から漠然としながら体得するしかない.そして,いつしか従業員から経営者(管理職も含む)になると,個人が漠然と体得した「ノウハウらしきもの」を「ノウハウ」と信じるしかなくなるのだ.このような環境では,「社歴の長さ」だけが有利になる.これが「年功序列」の本質ではないだろうか.

社歴の長いひとは,この有利さに,これも「なんとなく」気づくのだ.だから,自分が歩んできた「漠然とした」環境が維持されることが望ましくなる.それが,いまの自分の立場を守るからである.資金提供者がおこなう,「本来のノウハウ」を追求しようというたくらみは,こうして「反抗」・「反逆」という行動を誘発するのだ.

「現状維持こそがしあわせ」,これが,「逆シンデレラ症候群」に罹患した症状なのだ.