勘違いの「政府主導」

主に「政府主導」の経済政策を指す。
これを、「要求」したり、「期待」したりするのが、最初の「勘違い」である。
次の「勘違い」は、政治家や官僚が、その「要求」や「期待」に応えようとすることである。
よって、わが国には、二重の勘違いが「撚糸(よりをかけた糸)のように絡み合って、強靱化している、といえる。

これを、「戦時体制」というのだ、とは、何度も紹介してきた、野口悠紀雄教授の説である。
学者になる前の、野口氏は、東大を出た後すぐに大蔵官僚として入省している。
そこで見た職場の実態は、戦争責任を全面的に回避した無傷な組織であった、と証言しておられる。
簡単に言えば、誰ひとり「処分」も「処分の対象」になったひともいなかった、と。

GHQがこれを「許した」、あるいは「目こぼしした」理由は、別途研究する必要がある。
間違いなく、「わざと」であるからだ。
軍事官僚たちを処分しながら、文官を見のがす意図は、「分断」だと想像するからだ。
そうやって、国民にも「憎むべき相手」を明確化させて、「憎悪」を煽ったのである。

いわゆる、「悪いのは軍閥である」という図式である。
その悪の総大将に、東条英機を指名したのであった。
しかし、平成になってから、昭和天皇がもっとも信頼していたのが、その東条だと知れて騒ぎになった。
左翼作家たちの活躍で、この「論」は封印されてしまった感があって、今でも「日本のヒトラー」としてマスコミに登場してプロパガンダが続いている。

岐阜県八百津町の皆さんには水をさして申し訳ないが、町が称える「日本のシンドラー」の生地であることは事実としても、杉原千畝氏の「命のパスポート」が有効になって、ビザを得たユダヤ人たちが逃げた先は「満州国」だったのである。
「有効」を認めて、領土内を通過させたのは、スターリンのソ連だった。
どうして、ソ連が「有効」との判断をしたのか?

そして、外務大臣の訓令を「破ってでも発給した」というビザで、満州国はどうして入国を許可したのか?
ときの、満州国を仕切っていた関東軍の司令官が、ほかならぬ東条英機であった。
つまり、杉原の周辺のひとたちが、これを支えなければ「ただの紙切れ」であったのだ。

すると、行政としての「町」の宣伝とは、ぜんぜんちがう話になってくる。
杉原氏は、外務省退職後(辞めさせられたともいうけど)、本件に関わる一切の言動をしていない。
しかし、氏の経歴は、「ロシア語の専門家」としての入省であったし、その後の勤務地はソ連の外殻にあたる場所ばかりとなっている。

むしろ、彼は、情報要員であったのでは?という疑問が先に立つ。

かくして、この人物の「素顔」はいまだに不明のままなのである。
しかも、彼の業績に否定的であった外務省は、手のひらを返して今では「顕彰」までしている。
あくまでも穿った見方ではあるけれど、「素性を隠す」という意味では、外務省の態度は「どちらも」有効ではないのか?

そんなわけで、地方であろうが中央であろうが、政府のやる事なす事、素直に真に受けるとおかしなことになる可能性がある。
戦前からも一貫している、「政府主導」だって、ほんとうは怪しいと考えるべきである。

例えば、政府主導の「産官学の連携」とかが典型的だ。

「産と学」だけでは心許ないと思えるのは、「官」への信頼と予算配分ほしさである。
日本人は、どうしてこんなに「官を信頼するのか?」は、これだけで文化人類学的研究テーマになろうけど、すでに「官」が大学の研究予算を牛耳るようになったので、国内では「できっこない」研究テーマになっている。

一方で、わが国の「官の劣化」が近年深刻化して、中国と韓国に置いてきぼりを食らい始めた。
どちらも、「官主導(実は「日本モデル」)」のお国柄だ。
先行事例には、シンガポールという「独裁国家」もある。
そのシンガポールは、とっくにわが国を抜き去って、アジア最富の国になった。

バブルの後始末をいいことに「官主導」で30年以上やってきたら、とうとう「1人あたりGDP」で韓国に抜き去られたばかりか、トルコにも抜かれた。
これらの国民が豊かになっているのは、ご同慶に値するけど、わが国は衰退が止まらない。
それで、コロナになっても、まだ「政府主導」に依存している。

「投資」で大儲けしているならば、「引き際」が最大の決断ポイントだ。
そろそろ、「コロナの欺瞞」が大衆にバレだしたからか、欧州では政府が手を引き始めた。
暗黙に、「(仕掛けた富豪たちが)十分儲けただろうから、この辺でフェードアウトさせるべき」という判断に見えて仕方がない。

「引く」という政府主導で、英国保守党ジョンソン政権の「賭け」という記事もあるが、そんな偶然性に英国政府が「賭け」るわけがない。
ちゃんと「元をとった」から、引くのである。

貪欲な日本政府にはこれができない。

それで、コロナの欺瞞の仕組みをひた隠しにする、「大本営発表」をNHKにやらせている。
「収束に3年かかる」という政府専門家会議は、小規模営業の飲食店や個人事業店舗でのサービス業を、「潰す」という政府主導の経済政策の根拠を提供させられて、「外国人経営者500万人移住計画」を遂行している。

しかして、日本国民はもっと貧乏になって、共産全体主義の「夢のような」革命を準備することになった。
めでたしめでたし。

戦国のタイヤ業界

マイカーが3万キロ走行を超えたので、やっぱりタイヤの交換時期がきた。
むかしあった、「タイヤは命を乗せている」という宣伝文句は、宣伝ではなくて真理である。

改めて、どんなタイヤにしようかと調べだしたら、「たくさんありすぎて選べない」という『ジャム理論』に当たってしまった。
これは、スーパーマーケットで、パンにつけるジャムを選ぶときの実験から得られた、コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授がみつけた「法則」とされている。

いま、自動車のタイヤは大きく3種類がある。
夏用、冬用(スタッドレス)、オールシーズンだ。
問題となるのは「冬」で、タイヤに関しては二段階の規制がある。
「冬用タイヤ規制」と「チェーン規制」だ。

冬用タイヤ規制は、「冬用」と認定されているタイヤならそのまま通行できる。
チェーン規制は、冬用であってもチェーンなどの物理的滑り止めを装着しないと通行できない。なので、スプレー式のものは不可だ。

夏用には夏用の「走行性能」という利点がある。
静粛性とか、雨天時のグリップ性能、あるいは、転がりを強化した低燃費性能などだ。
しかし、夏用は、「冬」の雪や路面凍結には向かない。

では、冬用はといえば、凍結した氷面でもグリップ性能を高めているので、東北地方や北海道では、夏用からの「履き替え」が常識になる。
悩ましいのは、中途半端な地域に暮らす場合だ。

簡単に言えば、夏用を装着していたら、雪の日には「車に乗らない」ということだ。
雪の日だけでなく、数日も残る場所があるから、乗れない日は1日だけではない。これがまた、「車に乗れない」理由となる。

雪が当然の地域からしたら、ちょっとした雪でも大混乱になる東京などでは、多くのひとが夏用のまま乗っているから大混乱するのであって、たとえ自分が冬用に履き替えても、この混乱に巻きこまれることになる。

そこで、自己防衛的かつお手軽さで登場したのが「オールシーズンタイヤ」なのだ。
履き替える必要がない、というのは、保管場所がない集合住宅や駐車場を借りている場合には、十分に魅力的だ。

このタイヤは、「冬用タイヤ規制」をクリアする。
ただし、本物の冬用タイヤと違うのは、「凍結した氷面」におけるグリップ性能の「なさ」だから、関東甲信越のなかでも、北関東や甲信越をオールシーズンで走破できるものではない。

この中途半端性も、悩ましいのである。

わたしは特段、「スバリスト」を意識しているわけではないが、『アウトバック』を乗り始めて、いまは3代目となっている。
ふと、「新型車」が出るというニュースがあって、今月から予約が始まった。

実車はまだ見ていないけど、今年の春に新発売された、ブリジストンの『アレンザ』を履いているようだ。
そこで、ブリジストンのHPを観たら、人気のSUVによる、「履き替え需要」が今年から始まって、来年はもっと需要が高まる、と予測分析の記載があった。

すると、いったい、この「新製品」は、いつから開発されていたのだろうか?と気になった。
ゴールは、今年の春に発売する、という期限だ。
見た目の「パターン」は、最高級とされる『レグノ』とソックリなのである。

ならば、第一候補は、メーカーが選定した『アレンザ』となる。

けれども、タイヤに関しての選択の悩みは、まだ続く。
それは、「価格」との折り合いという問題だ。
「最上位」が決まったら、許容範囲での「最下位」はなにか?また、その中間はなにか?ということを確かめてみたい。

すると、突如、「アジアン・タイヤ」というジャンルが飛び出してきた。
いわゆる、「アジアのどこかの国製」という大雑把ではあるけれど、これがまた、侮れないのだ。
シンガポール、マレーシア、台湾、中国、韓国が、5大「産地」のようだ。

これらの特徴は、一口でいえば「格安(3分の1)」になるけれど、一部には特に安いわけではないものもあるから、やっぱり「混沌」としている。
そこで、世界のタイヤメーカーを調べて驚いたのが、なんと「100社以上」もあるのだ。

トップは、ブリジストンだったけど、最新のランキングでは、ミシュランになっていた。
それから、ヨーロッパやアメリカの有名メーカーが続く。
これらの企業の特徴は、自動車会社への「納品」である。

つまり、新車に工場で装着するための選択で、勝ち抜いていることにある。
上述の『アレンザ』のごとくである。
性能が同じなら、価格勝負になるし、価格が同じなら性能勝負になる。
さらに、新車装着なら、クレームはメーカーにくるから、メーカーはめったに価格だけでの選択はできない。

そんな目線で見てみると、アジアン・タイヤの躍進は、「破格」だけではなさそうだ。
例えば、ヨーロッパの高級ブランド車にも、アジアン・タイヤが採用されていて、単体販売でも日本メーカーと同等かそれ以上になっているものもある。

東南アジアのタイヤが安いのは、「天然ゴムの産地」であるばかりか、タイヤメーカーがゴム農園を直営しているという理由もみつけた。
すさまじい、「アジアの追い上げ」なのである。
技術先行の有利も、半導体でそうだったように、技術者の高額引き抜き採用でひっくり返った例が生々しい。

交換期限を目のまえに、悩みは続く。

「言論の自由」はいらない

これがために一般人が苦しむという悲惨が起きている。

「言論の自由」とは、歴史的に発信者の自由発言をいう。
つまりは、「啓蒙時代」という背景を持った、エリートとか、ヨーロッパなら貴族たち特権階級の「自由」のことを指す。

日本人は、敗戦によるGHQの支配を受けて、法的根拠なく「皇族」に兵糧攻めという生活予算の配分を中止したので、一気に「爵位」を廃止することに成功した。
畏れ多くも皇族方が、「生活のため」に臣籍降下を選択させられたのだった。

その家屋敷の跡地が、「プリンスホテル」になったのは、歴史の事実である。

このことの不思議は、臣籍降下するとはいえ、旧皇族の家土地は国家資産ではなかったのか?という疑問である。
昭和天皇の逝去にあたって、税務当局たる大蔵省・国税が、相続税を徴収しようとして物議を醸したことの「前例」が、この旧皇族の資産問題であり、天皇家の資産の帰属問題なのである。

比較対象となる、英国王室は、国王家の個人資産が莫大であるから、エリザベス女王は世界的大金持ちの一人として普通にリストアップされても、一切の抗議もしないのは、それが事実であるからだ。
すなわち、バッキンガム宮殿に勤務する財務スタッフとは、英国王室の私的資産管理を職務とする人たちを指すのである。

よって、宮内省が宮内庁に格下げされたとはいえ、国家公務員が仕切る我が国の皇室とは、根本的に異なる「制度」が、英国における「王制」なのである。
別の言い方をすれば、我が国の皇室は、恐ろしく貧乏で、私有財産を持っていない。

ここに日本国民は注視すべきで、共産党員が言う「遊んで暮らしている」ようなことではなくて、衆目に晒される激務の中で、一切の資産を持っていないのは、最も理想的な共産党員の生活のようなのである。
長く党首を務めた人が住む、個人資産の豪邸とは意味が違う。

共産主義を言うひとが、どうやって、あんな豪邸に棲まう資金を得たのだろうか?

英国王室が、現在でもヨーロッパを代表する貴族制の頂点であるように、何も王政を採用しなくなった国にも、貴族はたくさんいる。
革命があったフランスにも、王を廃位させたイタリアにも、もちろんスペインにも貴族たちは生きている。

前に書いたように、ヨーロッパの鉄道に「一等車」があるのは、彼ら貴族のための車両であるから、庶民が別料金さえ支払えば「乗れる」というものではない。
これが、日本の「グリーン車」や「グランクラス」との根本的違いなのだ。

そんなわけで、ルネサンスを起源にする「啓蒙主義」は、我が日本の歴史には馴染まない、貴族たちによる思想展開なのである。
なぜならば、「庶民」は普通に「文盲」であったからである。
だから、啓蒙主義で啓蒙されたのは庶民ではなくて、貴族間の議論における「テーマ」だったのである。

こうした議論ができるのも、「特権階級」だったからこそであったけど、背景には、聖書を読むことができるのは、「聖職者に限る」という特権もあったのである。
しかし、グーテンベルグの活版印刷によって、ドイツ人が聖書を読めるようになった。これが、宗教改革の起爆剤だったのだ。

啓蒙主義がさかんになって以来、フランス革命、ロシア革命を経て、これが失敗に終わってから30年あまりが経過した。
にも拘らず、今も言われる「言論の自由」とは、相変わらず支配する側の発信を指すのだ。

本当は、庶民の「脳の健康維持」こそが重要なのであるから、ゴミのような汚染物質的言論は、有害図書以上に「有害」なのである。

しかるに、「言論統制」を言えば、猛毒となるから、自己免疫力を高めるしかない。
それになにより、「感染しないこと」が重要だ。

それには、大変簡便な方法がある。
先ずは、テレビを観ないようにすればよい。
次は、テレビを廃棄すればもっとよい。
もちろん、新聞は購読をやめることだ。

雑誌も必要ない。
わたしは、高校時代から愛読していた、わが国を代表する「総合雑誌」の購読を、もう10年以上も前にやめた。
以来、芥川賞であろうが直木賞であろうが、発表される特別号も買っていないから、これら文学賞作品に触れてもいない。

NHKのニュースも天気予報も観なくなって、やっぱり10年以上も経つけれど、生活上も職業上も困らない。
大河ドラマは、『おんな太閤記』以来、一度も観たことがないのは、戦国ホームドラマの洗脳に嫌気がさしたからである。

観ていないけど、観てはいけないと思うのは、歴史を語りながら、現代価値の押しつけをして、観る側の脳の健康を奪うと予想するからである。

ならば、庶民は「無知蒙昧」のままでいい、と言いたいのではない。
無用なノイズを無視せよと言いたいのである。

習氏の「毛沢東主義」は本物か?

習氏にとって、いまや主たる政敵は江沢民派だとは、周知のことになっている。
外国にいて少ない情報でも、はっきりしているのだから、さぞや「現地」では激しい権力闘争になっているにちがいない。

その激しさの「ほとばしり」が、アメリカの大富豪にして投資家の、ジョージ・ソロス氏によって、「習氏批判の投稿記事」となって日本語にもなっている。
6日、実質的に日経新聞が買収した、フィナンシャル・タイムズ紙からの翻訳が掲載された。

最初の違和感は、ジョージ・ソロス氏といえば、アメリカ民主党どころか、その先を行く、バリバリの「左翼」ではないか?なのにどうして?というものだ。
破壊活動にいそしむ、「BLM」運動への巨額スポンサーでもある。

一方で、いわば、ウォール街を代表する投資家のひとりで、もちろん、「グローバリスト(金融資本主義者)」である。
だから、読めば「資本主義への無理解」を批判していることが、このひとの二面性を表している。

社会主義者にして資本主義者なのだ。

しかし、冷静になって考えれば、左翼思想の根源をなす「唯物論」から、資本主義が腐敗・崩壊して、次にやってくるのが社会主義なのだから、二面性があるのは「当然」なのだ。
むしろ、資本主義を嫌って理解できない社会主義者の方が、本来的には「どうかしている」のだ。

その社会主義の政策で、象徴的なものが「社会保障制度」である。
公的年金とか公的健康保険のことである。
アメリカの年金は、年金機構が巨額資金を株式投資している。
日本の場合は、債権が優先で株式投資には消極的な特徴がある。

これは、株式による直接金融が主たる国と、銀行融資による間接金融が主たる国とのちがいともいえる。
あるいは、証券会社と銀行の、それぞれの業務のちがいが、日本の場合にはきっかり区分されていたことにも起因する。

もちろん、「大蔵省証券局」と「同省銀行局」の縄張り争いがそうさせていた。

そんなわけで、株式投資で運用されるアメリカの年金は、個別企業の株式を購入する方法では手間がかかりすぎるし、株価への影響力が大きすぎるほどの巨額なので、「インデックス投資」が行われている。
つまり、平均株価連動方式、だ。

日本の年金が株式投資をしたがらないもう一つの大きな理由には、「パッとしない株価」がある。
バブル崩壊後、「日本株」の低迷が常態化したのだ。
アメリカ株は真逆で、20年で倍以上になっている。

この年金資産運用益の大きさが、掛金を出している個人の資産を自動的に増やしているから、アメリカ人の生涯収入が増えているといえるのである。
それがまた、旺盛な消費を支えて、経済を回している。

年金機構におカネを入れているのは、「掛金」として入金している「個人」なので、年金が株式を購入するとは、間接的に個人が株式を購入していることと等しい。

さてそこで、アメリカ株式市場に上場している外国企業のなかで、ソロス氏が問題にしたのは、「中国株」という、中国に本社を置く大企業のことだ。
なぜなら、習氏の命によって「国営化」がはじまっていることへの「危機感」をいう。

それは、「中共政府による当該企業株式の大量取得」という、「ゆがみ」の指摘なのである。
よって、アメリカ議会は、中国企業へのアメリカ人の投資を禁止する立法をすべきだと。

さてはもっともらしいけど、ソロス氏が江沢民派の代理人だと仮定すると、一気に「胡散臭く」なる。

もちろん、「国営企業の非効率」は、世界史で人類共通の病理を発症することはわかっている。
だから、中国企業株の値下がりは、「インデックス」にも影響すること必至なので警告したともいえる。

しかし、米中の経済摩擦は、軍事紛争の懸念に至るまでになっている現状がある。
すると、習氏が実行している、「毛沢東主義」は、アメリカにとってもわが国にとっても、「オウンゴール」的ラッキーではないのか?

なぜなら、実質的引きこもりであって、「鎖国政策」にあたるのが毛沢東の経済政策であった。
「眠れる獅子」には、ずっと眠っていてほしい。
これが、今さらの両国の本音ではあるまいか?

だとしたら、ソロス氏の「警告」は、大きなお世話である。

中国人の発想法は、『厚黒学』でよくわかる。
「面の皮が厚く、腹黒い」ことをいうのであるけど、同レベルかそれ以上なのが、「欧米人」なのだ。

ただし、習氏の毛沢東主義が、「独裁をしたいから」というだけの「エセ」であるなら、話は変わる。
なので、いったい何者なのかを深く吟味する必要があるのではあるけれど、それこそが「国家機密」というものだろう。

本当に「死闘」を繰り広げる、あちらの「権力闘争」を勝ち抜く経験を積むのが、「共産党」という世界共通の組織だから、並みの「胆力」では対抗できない。

わが国だけでなく、アメリカにも、そんな政治家がいるのか?
このことの方が、よほどの「危機」なのである。

コロナ後の未来社会の下絵

「コロナの全体像」を解説する動画が発信されている。
https://www.youtube.com/redirect?event=video_description&redir_token=QUFFLUhqbGw4c0RpaWItUlFxc2l5SnhMXzU3YVczQWtIUXxBQ3Jtc0tuRnFHSzJQSXZBR3FCM2dSLWp1S1c3VklDOWtzbUdWYWROekhhZFBlcHVTZGJNR1ozTXFlRFRvTG10WXlaV195ajN4VG10QmM2MlVKNkJnbmdaRkZzUUM0dU0wRUpEWGs4TUZ1clZwa00xMEZNRC1nUQ&q=https%3A%2F%2Fwww.bitchute.com%2Fvideo%2Fpli44ULzoGw1%2F

その恐るべき内容は、一見の価値がある。
約1時間の長さがあるけど、歴史的背景から現代世界の「構造」をわかりやすく解説するのだから、見事な1時間だといえる。
その辺の「学者」の解説が、「無意味」に思えてくる。

もちろん、「陰謀論」だとして、話にならないと決めつけるのも自由である。
しかし、自分の「思考」について、少しだけ冷静になって第三者的に自分の思考を別角度から眺める、ということができるのは、「頭の体操」になる。

このブログで何度も書いた、科学的アプローチという手法は、ふつう組織を「マネジメント」するときの、「マネジャー」が実行すべきものとして「常識化」されている。
改めて、その段階を書く。

1.目的を明らかにする
2.事実をつかむ
3.事実について考える
4.実施方法を決める
5.実施する
6.確かめる

さて、コロナの真の目的はなにか?
歴史的大富豪たちの過去の発言に見られる、「事実」として、「人口削減」が挙げられる。

早くも「ここ」で、自分の常識から外れてしまうひとが多いだろう。
平和時における、人為的な人口削減とは、実質的な「計画殺人」に等しいからである。
そして、会社のマネジメントで巨富を得たひとたちは、かならず「科学的アプローチ」で思考するという「癖」がある。

彼ら歴史的大富豪たちは、明言している。
ある大富豪は、望ましいのは地球全体で「5億人」とか、別の大富豪は「20億人」だと、記録撮影される「講演」で発言しているのである。
つまり、彼らのいう許容範囲は、「5億~20億人」だということだ。

事実としての世界人口は、1987年に50億人を突破し、今年2021年は78億7500万人となっている。
34√(78.75/50)=1.013
つまり、この34年間で年率換算すれば、1.3%で増加している。

彼らのいう数字でも大きい方の、20億人を「目標」としたら、現状の4人に3人にあたる75%のひとたちが、「いなくなる必要」がでてくる。

「PCR検査」という「欺瞞(既にCDC:アメリカ疾病予防センターは、PCR検査では「インフルエンザと区別できない」という大問題を正式発表している)」によって、「パンデミックを作りだした」のだけれども、このことの目的が、人々を「ワクチン接種」に追いやるとすれば、方法論として「合理的」なのである。

そして、その「ワクチン」こそが、75%の人口減少という「真の目的」の決め手なのだとすれば、一直線に論理はつながるのである。

では、なぜに人口を削減させる必要があるのか?
理由は二つ。
・歴史的富豪たちの世界支配を永続させるため
・上記目的には、コントロールしやすい「数」が望ましいから

こうしたことの背景には、古代からの人類史としての、支配と被支配の歴史をみる必要がある。
ただし、彼らは俗にいう「欧米人」なので、視点はヨーロッパでの歴史になっている。

もっといえば、支配者と奴隷の二極による歴史なのである。
こんなことが日本人には、馴染みが少ないのは、日本文明がヨーロッパ文明とは別系統にあるからである。

そこで、「マスク」が登場する。
古代、金属製マスクを奴隷につけさせたのは、口中にも棒を差し込む構造として、「会話を困難」にする目的があった。
それで、奴隷たちが組織化を図れないようにした。

科学・医学的見地から、パンデミック以前の常識としてあった、「マスクは患者がつけるもの」で、感染症予防効果は皆無どころか、かえって危険とされていたものが、いつの間にか「マスク着用の義務」という、180度展開が起きた。

これは、欧米思考すれば、「奴隷化」の下準備だという文化的意味がある。

「遺伝子新薬」を「ワクチン」と呼ぶ「欺瞞」は、特に重要だ。
彼らの「目的」を達成する、「手段」そのものだからである。
つまるところ、「自殺の強要」なのである。
だから、ワクチン接種率は、「75%」が目標となる。

支配者たちの永遠の課題だった、永続的支配が、なぜいま実行されたのか?
それは、IT技術の進歩から、「最小限の奴隷」で経済が回るからである。
農業が主たる産業の時代では到底不可能だし、工業の全盛期だって大量の労働者を必要とした。

そこで出てくるのが、「未来社会」の下絵なのである。

これには、「人口削減後の」を枕に書かない欺瞞もある。
わが国で、もっとも何をしているかわからない役所の「内閣府」は、とっくに「スマート・シティ構想」をぶちあげているし、「ムーンショット目標」なるものも、あたかも「別物」扱いという欺瞞で発表されている。

どちらも、内閣府のHPに掲載されている。
スマートシティ構想:https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/smartcity/index.html
ムーンショット目標:https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html

なるほど、わが国の人口が3000万人ほどになった「未来社会」だ。
こうしたことを、国家がやるためには予算がいる。
しかしながら、こんなことをしなくとも、わが国の人口は「自然に」もっと減るのだから、コロナ・パンデミックは、「加速度」を加えたことになる。

すると、世界共通の「反コロナ」の動きとは、被支配者の側の「最後の抵抗」なのである。
なぜなら、支配者に抵抗できない監視社会も準備されているからである。

空恐ろしいことが、現実になっている。

荷物が来ない

「トヨタ式」という「やり方」を、真似ようにも真似られないのは、知恵や知識の不足ではなくて、経営者や経営幹部(管理職)たちの、哲学の欠如が「覚悟」を薄めて「社内文化」にならないから、継続できないのである。

今でも「新刊」が出続けている、「超ロングセラー」にして「ベスト」なビジネ書といえば、『トヨタ生産方式』に他ならない。
これは、副社長だった、大野耐一氏が書いた「哲学書」であって、決してノウハウ本ではない。

にもかかわらず、「抽象的」で「難解」という、書評があるのは、「読解力不足」を告白するようなものである。
子供は成長すれば必ず、「おとなになる」から、読解力がない子どもは読解力がないおとなになることになっている。

「本が売れない」から、書店がなくなるばかりか、出版社もなくなる。
あるいは、出版社も「生き残り」を模索して、安逸で読みやすい本を出して、これが「万部単位で売れる」という。
「読解力を鍛える」という点では、悪循環になっているのだ。

その「読解力」には、「論理思考」も含まれる。

だから、「読解力不足」とは、「論理理解の欠如」を意味するので、深刻な問題なのである。
端的にいえば、「自分で考えることをしない」ので、考えることが「苦痛」になるのだ。

「安逸で読みやすい本」とは、「鵜呑みにすればいい」という「安逸さ」にまみれる訓練を自己に施すので、より考えることが苦痛になる。
こうして、与えられた情報を、与えられた情報の「まま」に、あとは信じ込めば、安逸な精神状態でいられるようになるのである。

「国語」の重要性はここにあるのだけれども、わが国の学校教育では、国文科を除けば「国語」は、高等学校までとなっている。
つまり、「読解力不足のおとな」を量産している。
これは決して、「国益」にはならないけれど、「省益」になっている。

前にも書いたが、アメリカの大学では、学生に提出させる膨大な「レポート」で、教授は「て、に、を、は、」を含めた、「国語=この場合はアメリカ英語」の正しい表現までをチェックしている。
ちなみに、アメリカ人には、「文系・理系」の区別がないので念のため。

だから、アメリカの大学で教授職を永年勤続するには、ネイティブレベルだけでなく、高等教育を受けた語彙を持つ者でないと務まらない。
ネイティブの学生が書いたレポートに、英語の「赤入れ」をするのは、並みの英語力ではない。

そんなわけで、日本人が外国の大学で永年勤続者となるのは、おそろしく困難であって、「教授」として永年勤続者している日本人は、飛び抜けた実力者といえるのである。
たいがいは、1クルー契約の3年程度で帰国させられる。

さてそれで、「射撃界」でいま、「弾がない」という事象が起きている。
クレー射撃で使う散弾のことである。

大きく、国産と輸入に分けられるけど、両方ともない。
さては、火薬商の在庫管理ミスか?といえばそうではない。
大量消費する「オリ・パラ競技」の影響もないとはいえないけれど、問題の本質は別のところにある。

外国の港湾が、コロナによって機能停止した「余波」なのである。

「国産」といっても、「国産」なのは組み立てるからである。
いまや、わが国の散弾は、外国から「雷管付きの外枠」からして、全部が輸入に依存している。
だから、どこが「国産」なのか?ということで、「コンテナごと」入港しない。

日本にやってくる「大型コンテナ船」を、東京湾に行けば眺めることはできるけど、ほぼ「ローカル航路」としての運航なのである。
主要航路だと、「超大型コンテナ船」が花形で、これらは東アジア地域では、上海港と釜山港が、「国際ハブ港」となっている。

つまりは、上海や釜山で、日本向けローカル航路の船に積みかえられているという、「外国の港湾依存」があるのだ。

だからこれはなにも、クレー射撃という「趣味の世界」のことだけではなく、あらゆる「物流」の停滞が起きていることを意味するのである。
半導体不足から自動車生産が滞っている、ということに加えて、その他の部品がない状態になるから、今後の生産指数は落ち込むだろう。

そこで、「安全保障」という観点から、わが国の生産と生活物資の流通は、とっくに「外国」によってコントロールが可能な状況になっているといえる。
しかも、この二港は、「友好国」といえるか疑問がある。

まさに、「やばい状態」があぶり出されている。

これは、「コロナ福」にあたる。
ふだんなら気づかない、「アキレス腱」が、たまたま「コロナを理由」にして、「危機」の状態が見えたからである。

すなわち、「コロナ禍」だって茶番だけれど、適当でもっともらしい理由であれば、国際港湾を当該政府によって機能不全に貶めることができることがわかった。
一切の対策をしない、と宣言したスエーデン政府なら、コロナよりも恐ろしいこうした危機の構造をどうするのか?

「ローカル」に成り下がったわが国の港湾機能を、いかに直接入港してもらう「主要」とするかは、死活問題なのである。
それは、「トヨタ生産方式」にある、「運搬のムダ」にもあたる。

積み替え作業は、付加価値を創造しないからである。

短い「夏」だった?

わが国の気象のことは、「気象庁」が独占して情報管理をしている。
それが証拠は、国家資格の「気象予報士」だと前に書いた。
この「士」たちは、気象庁が発表する元データから「しか」予報することができない「法」になっているのだ。

それで、優秀であればあるほど、「同じ予報になる」ようになっている。
気象予報が「科学」であれば、元データが同じで違う予報になるはずがないからである。

むかし、「天気予報」といえば、「当たらない」とか「頼りにならない」ことの代名詞だった。
最近の「正確さ」は、観測網の整備と、観測機器の精度、それに、スーパーコンピューターを用いたシミュレーション精度の向上によるものだ。

つまり、元が「税金」の「予算」が執行された結果である。

気象庁という役所で、予算と制度を仕切るのは「高等文官」の専任領域だ。
予報は、学位を持つ「技官」の専任領域(「これだけ」という意味)だから、気象予報士の業務内容を定めているのは、「高等文官」の方である。

こうして、私たちの生活の隅々まで、「高等文官」の息がかかっていることになっているのが、日本という国なのである。

その高等文官の「たちの悪さ」は、予算という金をおさえているから、これを盾に「制度化」して、技官をコントロールすることにある。
技官にだって「高等技官」はいるけれど、なにせ予算を仕切る業務は与えられない。

それで、予算欲しさに「日和る」のだ。
厳密には、「科学」が「思惑」に負けるのである。

高等文官の分散があったむかしは、気象にまつわる「(統計)データ」も分散していた。
農業国家だったから、「水利」にまつわる農林省が農業地域(とはいえ、全国)の気象データを持っていたし、「治水」ならば、内務省と農商務省の争いは有名で、もちろん、「軍」もしかりである。

戦後は「運輸省」から「国土交通省」の外局にあるのが気象庁だ。
だから、親元の「省」から、官界的「天下り」があるし、庁内での出世とは、本省勤務になることだ。

いまは、国交省にある「国土地理院」だって、全国の「地図」を作っているけど、元は「陸軍参謀本部」の下部組織だった。
泉鏡花の名作、『高野聖』の冒頭が示す通りだ。
なお、こうした「名文」は、朗読を耳から聞いて心地よく、名優、佐藤慶のCDがある。

 

そんなわけで、各地での大雨が「観測史上初」を連発するようになったのは、こうした「他省庁の過去データを無視」して、気象庁が単独でこの30年間で全国に2000カ所も整備した「アメダス」の詳細データから、一カ所でも「初」を見つけたら、「観測史上初」ということにしたのである。

それが昨今連発される、「観測史上初」が量産される理由である。
これは、「統計データの扱いにおける定義の変更」にあたる重要事項だ。
すなわち、国民資産である「データ」を、国民に誤解を与える方法で活用するという「悪質」が見てとれる。

センセーショナルな記事を求める報道機関に、「気象情報独占機関」が日和ったのは、「もっと予算を」という、高等文官が、全予算を握る財務省のより高等文官にアッピールしているだけなのだ。

これだけでも十分に「悪質」だけれども、地球規模の気象変動の影響(とにかく「温暖化」)であることに、無理やりでも結びつけるのは、もはや「悪意」としかいえない。

こうして、気象を独占する役所からの発信が、産業を独占する役所に伝播したり、環境を独占する役所に伝播したことにして、それぞれの役所が、あたかも「新型コロナウィルスが存在するかのような」おかしな前提を基準に政策を立案する。

それが、「脱炭素」とか、「炭素税」となり、予算を大元で仕切る財務省が喜ぶようになっているのだ。
なにしろ、役人の中の役人が、21世紀になっても「主計官」のままなのである。

ちなみに、19年に101歳で亡くなった「大勲位」の中曽根康弘元首相は、「青年将校」を自己演出していたけれど、「海軍兵学校」出の本流将校ではなく、内務省からの「主計将校」であって、軍の予算を握っていた「軍事官僚」(終戦時は「主計少佐」)であった。

現在も変わりなく、各省庁の予算を仕切る高等文官たち(局長級)が、主計官(課長級)におもねるのである。
こうして、予算案と予算執行がされている。
国会は、単なる「承認機関」になったので、特段大きな存在ではない。

「国権の最高機関」だと、口で言っていればいいだけの「でくのぼう」集団が、国会議員になった。
「定数」で、衆議院は465人、参議院は245人、併せて710人もの国会議員がいる。

人口比で議員数みたら、世界標準より少ない、という向きもあるけど、人口が3倍ある宗主国のアメリカでは、衆議院にあたる下院で435人、参議院にあたる上院は100人の併せて535人なのである。

8月までの猛暑が、9月になったら長雨で吹き飛んで、「肌寒さ」を感じるまでになった。
「暑い」のは、「温暖化」のせいだけど、「寒い」のはなにも言わない。

実際の気象(気候)がどうなっているのかに関係なく、あたかも「PCR検査陽性が感染」のように、とにかく「二酸化炭素」を排出してはならない、という「信仰」が広がっている。

これを、「バカげたことだ」という学者を、バカげているというのは、ワクチン大臣が言った「デマだ」という話と、同じなのだ。
その「同じ」とは、「予算がつく」ということだけの共通をいう。

カネが病気をつくったり、気象までも差配する時代になった。

こうしたことが、未整備だった「昭和30年代」が懐かしい。
政府機能は、充実させてはならないことを理解できるというものだ。
しかして、ここでいう「充実」とは、役人目線からのことで、国民目線なら「過剰」がうみだす「過保護」で、人間を腐らせる。

それが、国民奴隷化の「最終目標」なのである。
だから、国民はすぐさま政府依存をやめないといけない。
けれども、総裁選候補者たちは、相変わらず政府に任せれば安心だと「悪魔の言葉」を言い続けるのだ。

絶望的接客サービスが爆盛りにする

知らない街での昼食をどうするかは、ネット検索が当たり前になった。
しかし、レストランガイド的なサイトは「信用ならない」と思っているので、食べたいジャンルから「マップ検索」をすることにしている。

最近では、「SEO(Search Engine Optimization)」という、検索結果で自社サイトを露出させるための技術が普及したので、次の段階に当たる、「MEO(Map Engine Optimization)」の普及が始まっている。
要は、「Googleマップ」の地図検索で自社の場所を指し示すだけでなく、自動生成される「案内情報」機能に、自社の営業時間とかの情報を利用者に提供して、集客にあてるのである。

こうした機能の利用を、提供者である営業者側が意識的に行っているか、そうでないかは、例えば、上述した「自動生成」されて利用者の画面に出る「営業者情報」に、「ビジネスオーナーですか?」という記載の有無でわかる。
この表示があれば、提供者側は何もしていないことを指す。

もし、提供者側がなんらかの「機能設定」を、Googleマップの設定画面で行っていれば、その設定のときに「ビジネスオーナー」としての登録をすることになるから、この部分の記載はされないようになるのだ。
つまり、この一文の記載の有無が、営業者の側の「リテラシー状態」をさり気なく表現してしまっている。
なお、利用者には別途、利用状況の投稿が可能なので、従来のレストランガイドにおける「評価」と同様の情報も得られるようになっている。

さてそれで、知らない街での昼食をどうしようか?ということになった。
ジャンルとして、「そば・うどん」が頭に浮かんだので、さっそく地図検索してみたら数店舗が候補に挙がった。
初めてだからどこでもいいけど、地図なのでたまたま検索した場所から最も近い店順にアルファベットで順番表記される。

それで、「評価ポイント」はイマイチだったけど、空腹と近場という二点から、「A店」に向かうことにした。
やや遅めの昼時になったけど、店の駐車場は一杯で幸いにも1台分だけ空いていた。
「もしや人気店では?」という期待は、他県に混じって地元ナンバーの車が散見されるからである。
それに、アプローチからしてあんがいと高級店にもみえるのだ。

店内はほぼ満席状態ではあったけれど、見渡せば卓数ともに席数はさほどに多くはない。
これを、ほぼ高年の女性三人がフロアー係として仕切っている。
彼女らの「動作」は、驚くほど洗煉されてなく、そのムダな動きに思わずため息が出た。
一つのことに数回の動作を要しながら、また、三人が一つの伝票に集中してしまう「さま」は、格別にイラつかせる。

そんなわけで、入口で待たされることになったのだが、だれも下げものをしないので、空席が空席にならない。
「B店に行こう」と思いだした矢先、席に案内された。
ここから、注文に至っても紆余曲折があるけれど、詳細は省略する。

注文したのは、日替わり定食の本日は「牛丼」である。
税込み990円。
しかして、料理が届いて驚いた。
お盆に盛りそば、牛丼、みそ汁、漬物、だけでなく、ミニサラダ、冷や奴、茶碗蒸しがのっていた。

「完食できるか?」
そばは、最近食した中でいちばん美味かった。
ただし、汁がやや辛い。
牛丼は、ちゃんとした牛肉が山ほど載せてあって、これだけでも一人前はある。

副菜はどれもふつうに美味いけど、茶碗蒸しの具材だっていろいろ入っていた。
人間は空腹が満たされると幸せになってしまうものだが、サービス崩壊も一時忘れる迫力だった。
「これで990円?」
厨房にいる主人の腕前を褒めたいけれど、どこまでホールの状態を把握しているのだろうか?

いや、とっくにわかっていて、それが料理によっての「埋め合わせ」をしているのだ。
なにしろ、本日の定食があと何人前でなくなるのかすら、ホール係の三人は把握していないのだ。
作り手としては、あらかじめ数を教えているはずである。
そして、こんなドタバタが、毎日起きているだろうから、嫌でも状況は知っているにちがいない。

けれども、三人のほぼ高齢者を辞めさせられない。
補充をしようにも、応募がなかったと想像に難くない。
しかも、この席数なら二人もいれば回るはずである。
それを、補充して四人にするくらいなら、食材原価なんて目くじらを立てるほどでもない。

以上のような「計算」から、この店の「爆盛り」が生まれている、とみた。

さて、この街に再びくることがあったら、また来店すべき店であるかどうか微妙である。
これが、「評価ポイント」のイマイチならば、レストランガイド的なサイトよりよほど正直な評価をしている。
この店の主人は、この「評価」を知っているのかどうなのか?

そんなもの、見なくたってわかっている、と啖呵を切るかもしれない。

2枚刃か3枚刃か?それとも?

むかしは、「切れ者」のことを「カミソリ」と呼んでいた。
プロが使う片刃から、刃の角度を固定する両刃カミソリができて、ひげ剃りの形状がどんどん進化した。
それから、「2枚刃」が登場した。
これは、という「切れ者」のことを「2枚刃」と呼んだ。

いまは、5枚刃までにひげ剃りは進化したけど、「5枚刃」と呼ばれる切れ者はいなくなった。
むしろ、ほんとうに5枚も必要なのか?

カミソリ・メーカーは、「電気ひげ剃り」をライバルにしているのだろうけど、いわゆる、「ウエット・シェービング派」からすれば、「電気」のそれは完全に「別物」である。
個人的には、30代までは「電気派」だった。
長距離フライトだと、寝起きの「電気振動」と「ジャリジャリ音」が機内で一斉に始まったのがなんだか懐かしい。

わたしのひげは、柔らかくて左アゴ下に「つむじ」があって剃るのが難しい、と床屋のベテラン理髪師にいわれた。
そもそもが「電気」のそれだと、剃り残しができるのだけど、この一言で「理由」がわかった。
愛用していたドイツ製の電気ひげ剃りが寿命を迎えたので、懸案の「T字カミソリ」を購入した。

初めてのそれは、アメリカ製のものだったけど、世界シェアで圧倒的なメーカーのものではなくて、日本で圧倒的なシェアのメーカーのものだった。
この構図がいまでも変わっていないのは、愛用者が浮気をしないからだろう。
「この手の商品」は、浮気をすると高くつくからである。

それでもメーカーは、いろんな「機構」や「機能」を開発して、例えば、「首振りヘッド」は、いまでは常識になっている。
これが、「乗り換えキャンペーン」になって、消費者は好みのメーカー内の商品を「お試し」させられている。
ところが、同じメーカーの新商品は、従来品と全く別の構造なので汎用性がなく、別メーカーの商品に乗り換えるのとなんら変わらない。

しかも、ライバルの別メーカーも同じような時期に新商品を出すので、「お試しセット」がぶつかり合うのである。

消費者として悩ましいのは、「替え刃」が高価なことである。
いまのアメリカ製2大メーカーのそれの「高さ」は、驚くほどで、長く使おうと「替え刃」を購入すると、高級電気ひげ剃りが購入できる以上の「出費」を強いられることになる。
すると、これらのメーカーは、確信的に「電気ひげ剃り」がライバルとは考えていないということに気づくのだ。

そこで、涙ぐましい抵抗として、本体(柄)よりよほど高単価な「替え刃」がなるべくたくさん付いている「お試しセット」ばかりを買って、「替え刃だけ」を買わないという「手」を実行するのである。
そんなわけで、わが家の洗面所には、ずいぶんな数の本体が眠っている。

さて、以上は、アメリカ製のひげ剃りの話である。
そこで、日本製はどうした?ということになる。

ドラッグストアの片隅に、なんだか「ひっそり」とたたずんでいるのが日本製のそれだ。
「いい物を安く」という「良心」といえばその通りで、文句をいう話ではないのだけれども、アメリカ製のと比較すると、あまりにも安価な「替え刃」に、かえって怯むのである。

しかし、わたしのささやかな抵抗感が後押しして、「買い物カゴ」に入れたのだった。

「両刃」の場合、日本製のものは「切れすぎる」という問題があって、ひげ剃りの度に出血する難がある。
「百均」にあった、韓国製の「なまくら度合い」がちょうどよかったけど、棚から消えてしまったのは残念だ。
だから、いかに安価でも、これまで購入を躊躇してきたし、高級ホテルにあるものも「これはいい」と思ったためしがなかった。

ところが、期待値が低かったことだけではなくて、実際に遣い心地は悪くない。
その意味で、わたしのアメリカ製からの脱却が完遂したのである。
特に、最近の「主流?」になっている、「5枚刃」は、鼻の下とかの狭いエリアを剃るのに不向きだ。
カミソリ・ヘッドの大面積が、必ず「剃り残し」を作るのである。

アメリカ人の鼻の下は、そんなに長いのか?

日本製のすごさは、自社「替え刃」なら、どんな種類の本体にも合致する設計になっていることだ。
これは、「終売」したものにも適用される。
そこで、いま販売されている「替え刃」は3種類あって、どの本体にも使えるのだ。
「専用」ばかりのアメリカメーカーからしたら、おそるべき儲からないシステムになっているのである。

「2枚刃」が1種類、「3枚刃」が2種類ある。
「刃の数」は、何を意味するかといえば、刃にかかる圧力の集中と分散である。
1枚の両刃が、深剃りでは一番だけどもっともひげ剃りテクニックを要するように、加減によっては肌を削ってしまう。
2枚刃は、両刃ほどの難易度はないが、本体の構造がシンプルゆえに、やはり加減のテクがいる。

このメーカーに、3枚刃が2種類あるのは、刃の前と後にある、「ガイド」の違いだ。
そこで、どちらがよいかがユーザーの議論になっている。
もちろん、使ってみないとわからないから、両方を購入したひとたちによる「好み」となる。

ところで、このメーカーには、5千円ほどもする「本体」がある。
材質とヘッドの首振り構造にお金がかかっている、「一生もの」である。
これも、アメリカのメーカーにはない発想だ。

やっぱり、「日本的」なのである。

「スパイ防止法」の困難

事実上の「退陣」を決めて、とたんにレームダック化した現政権は、この際「コロナ対策に集中したい」という表向きの意向を愚直に実施して、感染症予防法の「2類から5類への格下げ」という、医師会からしたら「自爆テロ」をやって終わりにしてもらいたい。
横浜市長選挙での「指導力のなさ」は、政界引退につながるほどの破壊力だから、最後の「すかしっぺ」という意味である。

それに、「ハマのドン」は、秋の衆議院議員選挙における、「前」首相の「落選」を明言して容赦ない。

人間という動物は、もっとも脆弱な状態で生まれてくると知られている。
特に、乳幼児期の無防備は、他の動物にはない「自分で歩けない」のだから仕方ない。
それで、ずっと「母親」に依存して育つ、ということが行われてきた。

乳が出るから、だけが理由ではなく、父親は食料確保に専念しないと一家が飢え死んでしまうからである。
こうした分業が、子育ての男女分けにもなって、小児期から男の子は父親について将来の生活の訓練を受けていた。
もちろん、「寿命」が短かったので、「成人」の時期も早かった。

『赤とんぼ』の歌詞にある、「ねえやは十五で嫁に行き」でも晩婚だったかもしれない。
初潮があれば、もう嫁に行けた。
人生が、50年もなかった時代の話が前提になっている。

それで、「人生100年」時代の今と直接比較するおっちょこちょいがいる。
逆に、脳科学の世界では、脳の成熟期は「25歳」だということがわかってきた。
これは、「25歳はお肌の曲がり角」とも合致する。
「大脳皮質」という「皮膚」も、25年で曲がり角を迎えるのである。

「脳死」が制度化されたのに、「脳成人」が話題にならず、18歳を成人とする逆行が行われている。
いまの時代を眺めれば、25歳で成人とするのが合理的ではないのか。
ならば、「被選挙権」は、もっとずっと遅くていい。
社会を知っているひとを選びたい。

さて、人間の成長は、生物的な脆弱さからの母親依存という「先天性」がありながら、そこから生活社会を通じた、「後天的」な教育(社会常識とはその社会が個々人を「洗脳」すること)に左右されるようになっている。
「個人」を貫く、社会的伝統と因習がある地域と、「集団」を貫く社会的伝統と因習がある地域が、文化性から文明までも違えることになるのは当然だ。

しかし、同時に、「組織依存」という「本能」が、人間にはある。
自己が属する組織に従う、という行動様式なくしては、太古からの生存競争に生き残ることができなかった。
ところが、この組織には2種類がある。

一つが、「フォーマル組織」で、様々な組織がつくる「組織図」がこれを表現する。
もう一つが、「インフォーマル組織」だ。
組織内の「派」とか、「同窓」「同期」とか、「仲良しグループ」などがこれにあたる。
実際に、組織を動かしているのは、あんがいと「インフォーマル組織」だったりする。

これは、企業内ばかりか官僚組織も、町内会・自治会だっておなじだ。

ところで、「スパイ防止法」を制定する必要性はよくいわれているのに、どうしてできないのか?
わが国が「一等国」だった時代には、「治安維持法」とか、「軍法」とかがあって、特別高等警察とか、憲兵が取り締まりをしていた。
これが、戦後、全部廃止されたから、スパイ天国になったといわれている。

では、スパイとは何か?を問えば、利益相反する組織の一方「だけ」が持つ情報を、相手方に伝える(ふつう「盗み」とか、「漏洩」という)行為のことを指す。
ところが、インフォーマル組織では、フォーマル組織の情報を交換することによって、実際の組織を動かしているのだから、この意味では「スパイ」なのだ。

民間でも、役人の世界でも「出向」はある。
役人なら、初級職にはほぼないけれど、中級職や上級職ともなると他省庁への「出向」はよくあることだし、民間企業との「交換人事」だってある。
これを、「民間との人材交流」とかいったりして、民間人も中級職や上級職に就くことがある。

民間から役所への出向の場合には、「守秘義務契約」が課せられるけど、その逆はあまりない。
それで、他省庁に出向しようが民間に出向しようが、最初に採用された省庁のフォーマル組織に忠実な態度をとるために、まずは臆面もなく「スパイ」して、出向先の情報を漏らすのである。
もちろん、受け入れ先もこれを承知しているから、小さな情報戦が行われている。

しかし、厄介なのはインフォーマル組織への漏洩なのである。
それでも、フォーマルであろうがインフォーマルであろうが、その組織の上司やらが「外国」とつながっていたら、たちまちに本物のスパイ行為になるのだ。

わが国の立法は、とっくに「内閣提出=行政府起案」が主であるので、役人が自分のクビを締めるような法案を書くはずがない。
これが、「スパイ防止法の困難」の最初にして最大の関門になっている。
けれども、「どこまで」をスパイ行為とするかの「定義」をつけて、しかも、取り締まり機関を制定しないと、実質的意味がない。

それは、民間企業内でもいえることなのである。

総裁選の候補者で、威勢のよい発言をするひとが、「保守層」から歓迎されているけれど、恐るべき「強権」を国家に与えることにもなる。
世界を見渡せば、スパイに寛容な処置を許す法体系の国なんてないのだ。

政府が社会に「悪」を作りだして、それを国民の感情のうち「憎悪」の対象に仕立て上げるという手法は、全体主義の常套手段なのである。

この議論に限らず、目的に合致した、「法」を「きちんと」制定してもらいたいものだ。