仕事柄、経営者の皆さんと話していると、とくに会社を破綻させた経営者の方々は、資本主義を理解しているのかわからなくなることがあります。おもいをめぐらせば、小学校の社会や中学校の公民で、資本主義というよりも「株式会社の仕組み」としてだけしか資本主義を学んでいません。ですから、資本主義を知らない、ということはこの国では普通のことかもしれません。
いわゆる、戦後の日本は、占領軍によって「民主化」され「自由な社会」になった、といわれていますが、戦前が民主化されていなくて不自由だったのかといえば、じっさいはそうでもなかったようです。お金がなくて貧乏であることを「生活が不自由」といったり、財布に現金がすくないことを「手許不如意」などといういいかたがあります。戦前の日本社会は、貧乏だったという意味での不自由でしたが、自由主義ではなかったという意味での不自由ではなかったとおもいます。もっとも,いまではかんがえられないくらい,みんな「貧乏」だった.このことも,いま,みんな「忘れている」ことです.
過去をふりかえりますと、日本が驚異的に経済成長をとげたのは二回あります。明治の初期と昭和の終戦直後です。これら二回には共通項があります。どちらも、旧い日本を棄てた背景があるなか、爆発的に資本主義の条件が満たされた時期なのです。ここに、現在の低迷のヒントがかくされているのではないか?とおもわれます。
実は資本主義をしらない
資本主義は、自然発生的なようでいてそうでもない、実に不可思議なものです。過去にはマックス・ウェーバーや近年ではアラン・マクファーレンの研究がありますが、「発生源」についての理論的決着がいまだにありません。しかし、この両人の共通点は資本主義の成立には「精神」が必要要素だということで一致しています。それは「正直に儲けることの正統性」です。
なんであれ、資本主義は18世紀に英国で発生したことは間違いないのですが、この時点から勘違いが起こります。それは、「産業革命によって資本主義になった」という説明で、ウィキペディアでもこうした説をとっています。しかし、「資本主義が成立したから産業革命になった」という順番でないとおかしいとおもうのです。それが清教徒によって北米大陸に渡るのですから、「英・米」が資本主義の宗家筋になるのは当然です。以来、英米の国民は、産まれてからずっと資本主義の精神がある空間で生活していますから、とくに教わることがなくても資本主義があたりまえに体に吸収されるのでしょう。だから、ノーベル経済学賞は欧米の研究者ばかりが受賞しています。最近では「経済学」といえば、暗黙に「アメリカ合衆国の経済分析のこと」ではないかとおもわれるように、アメリカが近代資本主義の宗家となりました。
ところで、18世紀までの人類は資本主義を知らなかった、だからこの時期までの人びとは資本主義社会では生活していないということが案外忘れられがちです。物々交換であったろう原始時代を除くと、つまり、貨幣があって物流があったという時期がおそろしく長いのです。四大古代文明から江戸末期までになるからです。これを「前資本」とか「前期資本」と呼ぶそうです。この時期の特徴は、冒険や掠奪という手段がかなり一般的な「商行為」であったことです。びっくりするほどの資産家は、古今東西あまた存在しました。しかし、それは、現代的ビジネスでの成功によるものよりも、冒険や掠奪だったというわけです。シンドバッドの冒険や、地中海の海賊たち、さらに紀伊國屋文左衛門もその部類です。そしてこれは、基盤となるルール「所有権」がはっきりしない時代だったという意味でもあります。
自由の意味
資本主義の要素には「精神」のほかに「法」と「自由」がなければなりません。「法」のなかでも最重要な概念が、所有の絶対制です。このルールがあって、はじめて掠奪は正当なビジネスではないと決めることができます。ここから、詐欺行為も不当に他人の財産を奪うルール違反として犯罪に認定されるのです。つまり、わたしたちが一般的に知っているビジネス取り引きの基礎になるかんがえが「所有権の絶対」です。そして、取り引きをするものは、お互いに「自由」でなければなりません。脅迫によって、相手方の意志に反することを強制する取り引きも正当ではありません。ましてや、だれかの命令によるなどということもありえないのです。注意しなければならないのは、ここでいう「自由」とは、なにをしてもいい、という意味での「自由」ではないということです。あらかじめ存在するルール(法)に基づいて、自分の意志決定が、他人から強制されないという意味の「自由」です。だから、自分のその決定の結果については、本人が責任をとるということもふくまれています。
以上のように、資本主義が作動する条件は、社会の参加者全員が、「法」と「自由」の概念を共通にした「精神」がなければならなず、この三つのどれか一つを欠いても、資本主義社会は成立しないということをあらためて認識したいとおもいます。
前期資本の時代でも、おおくの巨大な資産家がいたのですが、もう少しくわしく見ると、彼らのビジネスモデルは単純です。それは、「安く仕入れて高く売る」ということにつきるのです。ものづくりニッポンのビジネスモデルも、伝統的に安く仕入れて高く売る、ということですから、一見、現在の 高度な技術をもちいているものづくりと同じように見えるかもしれません。前述のように、「安く仕入れる」ことが掠奪であれば、奪った品を現金にするだけでも儲かります。江戸の大店は、旦那様から番頭さん、手代に丁稚というように、組織階層はあるのですが、すべての労力が、「安く仕入れて高く売る」という行為に集約されることが特徴です。もちろん、この階層は身分と連結しているので、家来型の主従関係になります。
これが、資本主義になると大変化をとげるのです。会社の外から見れば、「安く仕入れて高く売る」ことに変化はないようなのですが、組織内部では、従来とはまったく違うことがおきているのです。それは、経営者と労働者とが、それぞれに別々の目的をもちながら、協力しあって働くことで、確実に付加価値をつくり出すように意識的に行動するということです。
経営の目的
経営者の目的は、会社に利益をもたらすことです。一方、労働者の目的は、労働力を提供するかわりに、合理的な賃金を得ることです。この二者が協力しあって働くというのは、経営者は経営の役割を、労働者は労働という役割をもって、合理的に協力するのです。ここで、重要なのは、経営者と労働者は対等であるというかんがえかたです。それは、経営者は労働者の労働を買っていて、労働者は経営者に自分の労働を売っている、という意味での対等です。これが、「労働市場」の基本的なかんがえかたです。つまりこれは、労働者は自分のなかの技能を商品として認識できている一方、経営者は労働者の技能を商品として買っている、という諒解があって成立するということです。
そして、両者が、組織内で「確実に付加価値をつくる」ことを意識している状態があることが重要です。ですから、基本的に資本主義では、「赤字経営」はありえないのです。「確実に付加価値をつくる」なら、赤字になるはずがないからです。そこで、「確実に付加価値をつくりだすことができない」という事業であれば、容赦なく退場するのが資本主義のルールであり、一方、こうしたら「確実に付加価値をつくりだすことができるはずだ」ということが合理的で納得できるとなれば、出資者があらわれて、あたらしいビジネスが登場するのも資本主義のルールになるのです。
日本の「なんちゃって」さ
さて、ひるがえって、わが日本国のばあいはどうでしょう。
所有権の絶対から、あやしいのです。たとえば、民法162条では、占有時効として20年間他人の土地を占有すると所有権が占有者のものになるという規定があります。この規定は、あの御成敗式目(貞永式目:1232年)にみられるかんがえかたです。わが国の民法は、鎌倉時代の条文が生きているのです。当然ですが、鎌倉時代は「前資本」の時期にあたりますから、21世紀のわが国は中世の感覚が通用する社会という奇妙なことになります。「占有」と「所有」の概念が混在して、区別がつかないということは、他人から借りた本を返却しないとか、その本に傍線やメモを勝手に記入するとかいった例でも確認することができます。所有権が絶対の感覚からすれば、ありえないほど野蛮な行為です。
「自由」についても、日本では「他人に迷惑をかけなければなにをしてもいい」ということが平然といわれて、多くの人がこれをおかしいとはおもいません。他人が迷惑とおもうかどうかを「自分が判断している」ことに気づけば、さきほど注意をしたように、「あらかじめ存在するルールに基づく」ということとの違いがわかるかとおもいます。電車の車内で床に座り込む人は、きっと「別に他人に迷惑をかけているわけではない」と決めつけているに違いありません。車内で化粧をする人たちも同様でしょう。そういった行為を見せつけられる側の不快さを意識しないだけの結果ですが、あらかじめ存在するマナーというルールを忘れて、それが「自由」と勘違いする「精神」がはびこってしまいました。
労働市場がない国
さらに、「労働市場」というかんがえかたが、日本ではかなり希薄ですし、「確実に付加価値をつくりだす」という意識も希薄です。
このように、わが日本国では、資本主義の成立要件が満たされていないことが観察できます。ですから、基本的に日本は「資本主義ではない」という驚くべき結論がでてきます。株式会社がちゃんとあって、証券取引所もある、だれもが自由な生活を享受している、という反論がありましょう。しかし、資本主義の成立要件が満たされないということは、「なんちゃって資本主義」である、といえばご納得いただけるでしょうか。
日銀の支配
昨年2016年12月末時点で、日銀が東証上場株式全体の筆頭株主になっているのは冗談ではなく事実です。これはもはや「資本主義の仮面をかぶった社会主義」としかいいようがありません。
わたしはこの「なんちゃって資本主義」こそが日本経済低迷の原因とかんがえています。ノーベル経済学賞受賞者の著名な経済学者たちが、日本経済の処方についてトンチンカンなのも、日本が資本主義であるという前提の誤解からではないかと疑うのです。ソ連が崩壊したとき、アメリカの経済学者がこぞってソ連経済の自由化にコミットしましたが、うまくいきませんでした。資本主義は、社会に資本主義の精神がないと成立しない、という根本をうっかり忘れていたともいわれています。アメリカでは、その精神は空気のようにあたりまえですが、ソ連社会にそんなものは存在しなかったからです。そうかんがえると、むしろ東欧の旧社会主義諸国がいかにして自由化したかの方が、日本にとって有用ではないかとおもいます。むりやりソ連圏にされた東欧諸国は、戦前には一度、資本主義を経験していたからです。
本当は、いまこそ従来の体制を棄てる時期になったというシグナルが鳴り響いているとおもいます。
戦後の高度成長は1973年の石油ショックで潰えたといわれていますが、真実はちがいます。1973年のGDP月次統計は、第四次中東戦争の勃発(10月)前の6月に急速に減速しているのがわかります。つまり、中東戦争が引き金になったということの「アリバイ」が崩れているのです。
「1970年体制」ということばがあります。これは、日本がみずから選んだ選択として、「成長より安定」があったという意味です。このおおきな選択をしたのは田中角栄首相です。田中角栄こそが、日本の成長を止め、いまにつながる停滞をつくった張本人です。そして、田中内閣以降の自民党は、「安定した社会」を建設することを目的とする政党となりました。「安定した社会」とは「福祉国家」のことです。ふくしこっかとは、社会主義国家のことです。