歴史がうごく師走

令和元年の師走である。
そして、来年はオリンピック・イヤーということになっている。
高度成長下の前回と、衰退期の今回は、グラフにすると「正規分布図」のような「山型」の裾になっている。

富士山でいえば、本当の火口ともいえる「宝永山」にあたるのが、田中角栄内閣の絶頂で、それから頂点のバブル経済によって上り詰めたら、砂走のごとく落ち込んでいまにいたる。

東京オリンピックや、大阪万博をやると、あたかも日本経済がふたたび繁栄するのだ、というかんがえは、「因果」をさかさまに捉えた、勘違いをこえるバカバカしさがある。
原因と結果という順番を逆にするからである。

その発想の由来は、ケインズ理論による「有効需要の創出」だろう。
社会に「需要がない」のなら、政府がなんでもいいから「需要をつくれば」、景気はよくなるという「あれ」である。
このかんがえを採用して、世界大恐慌の大嵐を乗り切ったのが、ヒトラーのアウトバーン建設に代表される巨大公共事業であった。

第一次大戦の敗戦による賠償金で、ドイツは経済破綻寸前だった。
そこに、巨額な公共投資をしたら、たちまち財政破綻して、ドイツはヨーロッパ最貧国になるとおもわれた。

ところがどっこい、失業者たちに仕事と賃金がいきわたって、たちまち経済復興してしまった。
これが、国民が熱狂したナチス支持の経済的側面である。

スターリンのソ連での「五ヵ年計画」の「大成功(という嘘)」と、ヒトラーのドイツの「大成功(という本当)」とで、ほんとうはどちらも政府主導の「社会主義」なのだが、日本の軍・官エリートたちは、「これしかない」と思いこんだのである。

戦争に負けて、軍のエリートは一掃されたが、官のエリートは無傷だったから、わが国はアメリカの指導のもと、官も解体されるはずが「なぜか?」されないで、そのまま「社会主義体制」がつづいた。

一昨日の11月29日に亡くなった、大勲位の中曽根康弘氏は、その一掃された軍のエリートのひとりだ。つまり、本当は「社会主義者」で、もっといえば共産主義に近かったが、それでは選挙に勝てないから、「右をよそおう」ことにした「芸人」である。

ところがあいにく、悲願の「内閣総理大臣」になる前の、いまはない「行政管理庁長官」で、あろうことか「自由主義政策」である、国鉄や電電公社、専売公社などの「民営化」をするはめになった。
世界を、サッチャーとレーガンによる「新自由主義」を基本にる「自由主義革命」=「反共産革命」が、席巻していたからである。

成り行き上、レーガンと盟友関係になったのだけれど、果たして本気だったのか?「芸人」は素顔をなかなか明かさないが、たまにポロリと変なことを言った。
靖国参拝で「私人として」とわざわざ言って、閣僚の「公式参拝」が以来一度もできなくなったりしたから、高等な「芸当」をみせてくれた。

さて、ケインズ理論が対応できる「条件」がある。
それは、利子率(名目金利)が一定以下になると、「流動性の罠」にはまって「金融政策が効かなくなる」ことだ。
ヒックスは「2%以下」と言っている。

そんなわけで、わが国はとっくに「流動性の罠」にはまっていながら、アベノミクスは効くはずのない「金融政策」に依存して、さらにオリンピックと大阪万博をやるという。
「アホノミクス」と呼ばれるゆえんだ。

政府がかならず関与するケインズ理論は、広義の社会主義である、と批判したのはハイエクで、そのハイエクの「自由主義」が、ただいま現在の世界の主流であるけれど、これを「徹底的にきらう」のが、日本政府で、洗脳された日本人一般だ。

歴史がうごくとき、時代を象徴したひとが世を去るのは、譲位があったからなにも「天皇」だけではない。
戦後昭和の大歌手、美空ひばりが平成元年(昭和64年)になくなったのも因果をかんじる。

さてそれで、100歳をこえた中曽根康弘氏の死去は、昭和の前後と平成をみつめたひとの人生だった。

今月は、わが国にとってとんでもなく重要な期限が、大晦日に設定されている。
・北がいう米朝協議の期限
・在韓米軍経費負担の大幅増について韓国側の回答期限
である。

北・南とも、半島の情勢を左右する。
わが国の存続にとってきわめて重要な、太平洋戦争以来、朝鮮戦争後つづいた従来の「地図」がかわる可能性がある。

これはまさに、中曽根氏が持つ従来の常識の「廃棄」がひつようになっているという意味でもあるから、彼は彼とともに「かんがえ方」も一緒に葬られることになったのだともいえるだろう。

そんななか、花見の善し悪しをグダグダ議論しているわが国は「亡国」ということを忘れたようだ。
ずっとむかしからあるからと、未来永劫、ひとつの国家が、自動的に継続するようなことは、人類史にない。

アメリカがかつて許さなかった「日本の自主防衛」を、トランプ政権は「やれ」といっている、戦後初の政権である。
はたして、この一大チャンスを、わが国は活かせそうにないことが大問題なのだ。

この「存亡」を意識して、国民が意思表明する台湾の総統選挙も、新年の1月にあるのに、日本のマスコミは詳細を伝えない「自由」を、例によって発揮している。

オリンピック・イヤーが吹っ飛ぶような、不穏さが新年早々にやってくることが決まっている。

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