短い「夏」だった?

わが国の気象のことは、「気象庁」が独占して情報管理をしている。
それが証拠は、国家資格の「気象予報士」だと前に書いた。
この「士」たちは、気象庁が発表する元データから「しか」予報することができない「法」になっているのだ。

それで、優秀であればあるほど、「同じ予報になる」ようになっている。
気象予報が「科学」であれば、元データが同じで違う予報になるはずがないからである。

むかし、「天気予報」といえば、「当たらない」とか「頼りにならない」ことの代名詞だった。
最近の「正確さ」は、観測網の整備と、観測機器の精度、それに、スーパーコンピューターを用いたシミュレーション精度の向上によるものだ。

つまり、元が「税金」の「予算」が執行された結果である。

気象庁という役所で、予算と制度を仕切るのは「高等文官」の専任領域だ。
予報は、学位を持つ「技官」の専任領域(「これだけ」という意味)だから、気象予報士の業務内容を定めているのは、「高等文官」の方である。

こうして、私たちの生活の隅々まで、「高等文官」の息がかかっていることになっているのが、日本という国なのである。

その高等文官の「たちの悪さ」は、予算という金をおさえているから、これを盾に「制度化」して、技官をコントロールすることにある。
技官にだって「高等技官」はいるけれど、なにせ予算を仕切る業務は与えられない。

それで、予算欲しさに「日和る」のだ。
厳密には、「科学」が「思惑」に負けるのである。

高等文官の分散があったむかしは、気象にまつわる「(統計)データ」も分散していた。
農業国家だったから、「水利」にまつわる農林省が農業地域(とはいえ、全国)の気象データを持っていたし、「治水」ならば、内務省と農商務省の争いは有名で、もちろん、「軍」もしかりである。

戦後は「運輸省」から「国土交通省」の外局にあるのが気象庁だ。
だから、親元の「省」から、官界的「天下り」があるし、庁内での出世とは、本省勤務になることだ。

いまは、国交省にある「国土地理院」だって、全国の「地図」を作っているけど、元は「陸軍参謀本部」の下部組織だった。
泉鏡花の名作、『高野聖』の冒頭が示す通りだ。
なお、こうした「名文」は、朗読を耳から聞いて心地よく、名優、佐藤慶のCDがある。

 

そんなわけで、各地での大雨が「観測史上初」を連発するようになったのは、こうした「他省庁の過去データを無視」して、気象庁が単独でこの30年間で全国に2000カ所も整備した「アメダス」の詳細データから、一カ所でも「初」を見つけたら、「観測史上初」ということにしたのである。

それが昨今連発される、「観測史上初」が量産される理由である。
これは、「統計データの扱いにおける定義の変更」にあたる重要事項だ。
すなわち、国民資産である「データ」を、国民に誤解を与える方法で活用するという「悪質」が見てとれる。

センセーショナルな記事を求める報道機関に、「気象情報独占機関」が日和ったのは、「もっと予算を」という、高等文官が、全予算を握る財務省のより高等文官にアッピールしているだけなのだ。

これだけでも十分に「悪質」だけれども、地球規模の気象変動の影響(とにかく「温暖化」)であることに、無理やりでも結びつけるのは、もはや「悪意」としかいえない。

こうして、気象を独占する役所からの発信が、産業を独占する役所に伝播したり、環境を独占する役所に伝播したことにして、それぞれの役所が、あたかも「新型コロナウィルスが存在するかのような」おかしな前提を基準に政策を立案する。

それが、「脱炭素」とか、「炭素税」となり、予算を大元で仕切る財務省が喜ぶようになっているのだ。
なにしろ、役人の中の役人が、21世紀になっても「主計官」のままなのである。

ちなみに、19年に101歳で亡くなった「大勲位」の中曽根康弘元首相は、「青年将校」を自己演出していたけれど、「海軍兵学校」出の本流将校ではなく、内務省からの「主計将校」であって、軍の予算を握っていた「軍事官僚」(終戦時は「主計少佐」)であった。

現在も変わりなく、各省庁の予算を仕切る高等文官たち(局長級)が、主計官(課長級)におもねるのである。
こうして、予算案と予算執行がされている。
国会は、単なる「承認機関」になったので、特段大きな存在ではない。

「国権の最高機関」だと、口で言っていればいいだけの「でくのぼう」集団が、国会議員になった。
「定数」で、衆議院は465人、参議院は245人、併せて710人もの国会議員がいる。

人口比で議員数みたら、世界標準より少ない、という向きもあるけど、人口が3倍ある宗主国のアメリカでは、衆議院にあたる下院で435人、参議院にあたる上院は100人の併せて535人なのである。

8月までの猛暑が、9月になったら長雨で吹き飛んで、「肌寒さ」を感じるまでになった。
「暑い」のは、「温暖化」のせいだけど、「寒い」のはなにも言わない。

実際の気象(気候)がどうなっているのかに関係なく、あたかも「PCR検査陽性が感染」のように、とにかく「二酸化炭素」を排出してはならない、という「信仰」が広がっている。

これを、「バカげたことだ」という学者を、バカげているというのは、ワクチン大臣が言った「デマだ」という話と、同じなのだ。
その「同じ」とは、「予算がつく」ということだけの共通をいう。

カネが病気をつくったり、気象までも差配する時代になった。

こうしたことが、未整備だった「昭和30年代」が懐かしい。
政府機能は、充実させてはならないことを理解できるというものだ。
しかして、ここでいう「充実」とは、役人目線からのことで、国民目線なら「過剰」がうみだす「過保護」で、人間を腐らせる。

それが、国民奴隷化の「最終目標」なのである。
だから、国民はすぐさま政府依存をやめないといけない。
けれども、総裁選候補者たちは、相変わらず政府に任せれば安心だと「悪魔の言葉」を言い続けるのだ。

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