「12歳」の日本人がサバイバル

マッカーサーが帰国して、連邦上院外交委員会の公聴会で述べた「日本人とは何者か?」との質問の回答である。

ようは、昨日の敵は今日、権力者に媚びへつらうことしかしない12歳の少年程度の思考能力しかなかった、といい切ったのである。

ちなみに、マッカーサーは『ポツダム宣言』を大幅逸脱(=違反)して、「日本国憲法」をつくらせたが、できあがったものはまったく「合衆国憲法」とは別物で、なんと下敷きはソ連の「スターリン憲法」だった。

しかし、一介の軍人がかような無謀ができたのは、一に本国政府の了承か意向があってのことで、はなから白人たちは「国際法」の適用範囲を、白人国家間だけだと限定している。
当然ここに、人種差別があるが、彼らは白人以外は人間だと意識してはいないから、こうなるのである。

なので、非白人の日本人が、あるいは外務省が、「国際法の遵守」をいうのは、ちゃんちゃらおかしいのであるけれど、これが敗戦で手懐けられた結果だし、また、日本人のまじめさの付随的結果なのである。

けだし、奴隷扱いされる便利な原因にもなっている。

さて、アメリカ議会には役割分担があって、下院は予算、上院は外交と政府幹部職員の人事承認がそれぞれに優先議決権がある。

だからもし、日本で「国会改革」を真剣にいうなら、「憲法改正」議論で、下院(衆議院)と上院(参議院)の役割分担を決めるのが筋で、議員数の削減とかは二の次だし、自民党案の基本的人権を削除する全体主義的憲法改正など、論外なのである。

しかし、80年以上前から日本人は、12歳の少年程度の思考力しかないことに変わりはなく、むしろ昨今はもっと退化しているように感じる。

何度も書くが、これが起きたのは、明治の「教育=文部省設置」による、江戸期までの教養教育の廃止が第一の原因である。
なので、江戸期最後の教育を受けた人々がこの世を去ると同時に、より12歳度を高めたのは当然の結果である。

それが、大正期になって、薄い「大正デモクラシー」になったし、それゆえに、大正・昭和前期のグダグダになったのである。

たとえば、松方正義は、天保生まれで大正13年に死去した(享年89歳)し、高橋是清は安政年間に生まれて、昭和11年の「2.26」で果てている(享年81歳)。
文化面では、わたしが「明治三部作」だと思う、どれも原文が英語の名作、岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『代表的日本人』は、全員が江戸期の生まれだ。

吉田茂は明治11年、岸信介は明治29年の生まれで、ちょっとだけ江戸の匂いを受け継いではいたろうけれど、この後は皆、12歳で思考が止まるように訓練されて、それが日本的エリートとなったのである。

なお、軍人でいえば、山下奉文大将は、吉田と岸の中間、明治18年生まれで、満60歳で死刑が執行された。
この人物は、参謀本部勤務からスイス・ドイツ・オーストリアにも派遣されていて、昭和9年に将官へ昇進して陸軍省(「軍政」を司どる)の「軍事調査部長」になっている。

しかしながら、「2.26」で反乱軍を擁護したのを機に、陸軍の主流から外されていらい、外地、ばかりとなったのである。
天皇が「反乱」と評価して、軍組織内の「空気」が決定したからである。

つまり、あくまでも「本流」は、内地にいて指揮をする者たちであって、これが「軍事官僚」としての「官僚」たるゆえんなのである。
それゆえに、「遺書」は激烈なる反省文となっている。

怖いのは敵からの砲弾ではなくて、足を引っ張る味方からの妨害行為なのであって、これが組織的となれば、どんなに優秀な個人でもどうにもならなくなるのは、組織自体がもつ特性なのである。

さてそれで、12歳児程度しかない自分の思考力を、多くの日本人は自覚しておらず、むしろ、そんな批判に耳を傾けることもなくなっている。
驚くべくは、退職して現役ではない者たちが、かえって「自己保身」に熱心なことである。

ところが、なにから保身したいのか?もない。

「保身行動」が、長年勤め上げた「習慣」になっているから、ぜんぜん抜けないのである。

そんなわけでわが国の戦後史では、「DS:Deep State」に気づいたアイゼンハワーを牛耳ったのは、ダレス兄弟(兄ジョン・フォスター国務長官、弟アレンCIA長官)で、この兄弟がが間接統治したのであった。

当時の日本側カウンター・パートは、CIAのエージョントになることで死刑を免れ釈放された岸信介が首相だったという妙がある。

これから幾星霜、いまや『バトル・ロワイヤル』そのものの様相となって、日本政府が日本人の全滅を画策することとなってしまったのである。

どちらも12歳程度以下の知力しかないのであった。

小説が時代考証になる

人間の人生は短く、かつ、あんがいと記憶もあいまいだ。
脳が自分に都合のよい記憶をつくりだすこともわかってきている。

量子論の世界はわれわれ一般人の生活にはおよそ他人事になっているけど、あらゆる物質の成り立ちを示すものだから、その奇想天外な論にはある程度身近でありたいものである。
そこで、本物の学者先生は、難しい理論を易しく解説してくれるのだが、これはこれで説明に時間を要するから、気のはやいひとには敬遠される。

わからなくてもがまんして見聞きしていると、なんとなくのイメージはできる。
ただ、「時間は存在しない」ということをなかなか理解できないでいる。

中学卒業時のクラス会などでいつも話題になる学校生活での昔話にも、集団で勘違いしていることがあるから、やっぱり脳が記憶するだけでは危ないのである。

そんなわけで、『卒業文集』とかが、当時のリアルな「証拠」として役に立つ。

いまの先生たちが、どこまでクラスの子供たちが一生の付き合いをするのかに興味あるのかはしらないが、5年程前に亡くなったわたしの中学3年時の学級担任(国語)は、このあたりを当時は「異常」とおもわれるほど固執していた。

新編成された3年の4月冒頭、卒業までの記録と卒業後の保存のために、おおきな蓋付きのゴミバケツを2個用意して、卒業前に学校の敷地に埋めたのだった。
ときにこれを「タイム・カプセル」と呼んでいた。

どういう申し送りを学校に残したかもしらないが、この先生が別の中学校の校長で定年退職するときに、声がかかって「タイム・カプセル」の掘り起こしをやったのである。

卒業後、四半世紀が過ぎてのことだった。

出てきたのはガラクタのようなものばかりだが、なぜにこれを埋設保存するのかを書きとめた、「リスト兼理由書」があって、その「お宝性」に驚いたのである。
まさに、「狭い子供の世界の珍品」なのであった。

残念ながら相当数の珍品は処分することとなったが、持主が特定できるものは本人に返還された。

『卒業文集』は、卒業時に配付されたけれど、わたしが書いた「修学旅行記」はその大量のページ数から当時は顰蹙を買ったけれど、いまでは「貴重な記録」扱いになっている。

これも、個々人の記憶が曖昧だからである。

そうやってかんがえると、近現代の時代考証には、時代時代に流行った時勢を扱った「(大衆)文学・小説」が役に立つ。
新聞の「縮版版」の注目は、そうした「作品の広告」で、それが「目録」の役割をしているからである。

もう中学校に入学して、半世紀がすぎた。
それでこのありさまなのだから、近代でなにがどうあって、それがどのように人々の生活に影響したのか?をしるには、それなりの小説やら紀行文あるいは映像にある記述が証拠になる。

たとえば、『仁義なき戦い』は、獄中手記をもとにした「ノンフィクション」だった。

戦後の日本が物騒だったことの象徴で、なにも広島だけの話ではない。
ではどうして、かくも日本が「物騒」だったのか?を追うには、かなり以前まで遡らないとわからない。

最低でも200年。

だとしたら、1700年代の日本人の生活・価値観の理解からスタートしないといけない。
「関ヶ原の戦い」から、100年後の世界である。

現代の出来事の根本を理解しようというなら、1800年代にそのタネがある。
わたしが、『東海道中膝栗毛』(1802年~14年)を重視するのは、ここに近代が描かれているからである。

同時期のヨーロッパで、「弥次喜多道中」があり得ないのはなぜか?

そこに、じつは日本の先進性とヨーロッパの後進性があるのだが、いつでもなんでもヨーロッパこそが先進なのだという誤解は、明治以降につくられたプロパガンダによる。

島崎藤村の『夜明け前』とは、ほんとうは伝統日本の「夕暮れ」だったのであるし、『家』の崩壊もしかり、である。

なので、現代の出来事をしるもう一つのエポックは、まちがいなく「明治維新」をよく観察することなのである。
すると、薩・長ともに、関ヶ原からの藩政を読み解く必要がでてくるのだ。

このとき、少なくとも当時とはちがう、たとえば「司馬遼太郎」を参考にしてはいけない。

わたしは、彼の作品をNHKの大河ドラマとおなじで、なるべくみないようにしているのは、ぜんぶがプロパガンダだからなのである。

そのNHKの時代考証担当ディレクターが、獅子文六『箱根山』(新潮社、1962:ちくま文庫)「解説」で「小説が時代考証になる」と書いていると前に書いたとおりなのである。
なお、加山雄三と星由里子、他豪華俳優陣がが映画で共演している。

ところで、いま書店で売れまくっているのが、ガブリエル・ガルシア=マルケスの1982年ノーベル賞受賞作『百年の孤独』で、理由は先月、文庫本(新潮文庫)になったからだという。

本が売れない、本を読まない時代のヒットになった。
電子版がないのは残念だけど。

この不思議な物語は、「マジック・リアリズム」という手法で文学界に衝撃を与えたというけれど、抽象的に表現されているのは「人間組織の運命」とも読める。
組織リーダーを欠いた組織は、やがて滅びるという、まったくの経営論でもある。

なるほど、わがクラスも、先生亡き後の集結力が各段に下がったのは、まったく100年を要しないスピードでのリアルなのである。
じつは、クラス会を装った、「先生を囲む会」を先生自身がプロデュースしていたのである。

この意味で、この人類を魅了した小説は時空を越えて「時代考証」になるのだろう。

トランプとイーロン・マスクの生放送

イーロン・マスク氏が、旧ツイッターを買収して、名称を「X(エックス)」に変更しだけでなく、あたかもラジオのように生で音声放送する「Xスペース」というサービスを開始していた。

録音・編集して、後から流す「ポッドキャスト」とはまたちがうものである。

この方法で、現地時間の12日、トランプ氏とイーロン・マスク氏の二人による放送が約2時間にわたってライブ放送され、リスナーは130万人を越えたし、その後の関連情報はわずか1日だけでも世界中で10億アクセスを突破する驚異的な大反響となっている。

もちろん、民主党側の応援団たる大手マスコミは、例によって「切り取り報道」をやって、なんとか悪評にしようとしているけれど、肝心のカマラ・ハリス陣営は、あろうことかこの放送を利用して、反論ではなく「一口$25の政治献金」を呼びかけたのである。

先月の共和党大会で正式に党の大統領候補になったトランプ氏は、「20の公約」を発表している。(カマラ・ハリスはいまだに、チップ税廃止しかいっていない)

このなかに、EV(電気自動車)の強制に反対することがあって、「テスラ」の創業オーナーでもあるマスク氏はこれをどう観るかが気になっていたが、マスク氏も「化石燃料との共存」を発言したのである。

もうひとつの注目は、「連邦教育省」をどうするのか?である。

前期のトランプ政権(1.0)では、「廃止」を検討するまでにはなっていたが、実施には至らなかったからである。
「トランプ政権2.0」が、必然的に強力となるのは、前回の経験(裏切り)や失敗をふまえて、かなりの「詰め」をもう行っているからである。

このことは、左派による支配を継続させたい勢力と、決定的な対立になるのは当然なのである。
逆に、これら勢力からしたら、「トランプ政権2.0」は絶対に阻止しなければならない、至上命令になる。

すなわち、教育こそが「次世代の国民をつくる」という、近代国家にとって最大の事業だからである。

良くも悪くも、わが国は、「拝米主義」で一貫した79年を生きてきた。

1945年の敗戦から占領が終わる1952年を越えて翌年の53年までは、あの原爆投下を命じた、民主党のハリー・トルーマンが大統領だった。
それから政権交代して、共和党アイゼンハワーが61年まで大統領であったけれども、この間にわが国は高度成長の軌道をつくった。

そんな「アイク政権」のおかげもあって、といいたいが、現職の大統領が、たとえ引退会見であっても「DS:ディープステート:陰の政府」の存在に言及したのは、アイゼンハワー元帥の意地であったにちがいない。

ちなみに、人望・人徳ではるかに劣るダグラス・マッカーサーは、共和党大統領候補になることさえできなかった。
「元帥」で同格ではあったが、アイゼンハワーの足元にも及ばなかった。

「アイク」のつぎに政権交代したのは民主党のジョン・F・ケネディだったが、どうやら民主党(DS)に裏切られて暗殺され、副大統領だったリンドン・ジョンソンが昇格したけど、あまりの不人気で共和党のニクソンに政権交代した。

あの「ウォーターゲート事件」も、いまでは、民主党によるでっち上げだったことが判明しているが、おおくの日本人はこれをしらされず、いまだにニクソンにいい印象をもってはいない。

むしろ、キッシンジャーやらのDSたちに翻弄されて使い捨てにされたのは、ニクソン・チームをもっていなかったからである。

こうして振り返ると、トランプ氏はアイゼンハワーについで「DSとの戦い」をいう、歴代で二人目にあたる。
つまり、それ以外はみな「DS]の命に従っていたともいえるのである。

だから、日本政府も「DS]によって侵されたし、わが国の教育もアメリカを倣うのは当然なのである。

すると、「トランプ2.0」とは富豪のトランプ氏が私財を投じて構築した「チーム」であって、アメリカだけでなく日本にも大転換が訪れることを意味する。

これにあらがっているのが、DSに支配された自民党で、一刻も早く反トランプを総裁に選びたい、と焦っていることだろう。

それが、14日、岸田氏の自民党総裁選に突如不出馬を決めたことで、アメリカのDSと連動していることがわかりやすく見えるほどの醜態をあらわしたのである。

でも、単純・単細胞な「拝米主義」からすると、いまのうちに「日米関係のために」親トランプを選んだ方が「お得」だという者たち(たとえば、血筋だけでなんの教養もない麻生太郎とか)と小競り合いをしているのだ。

いま反トランプに洗脳されている日本国民一般も、そのうちどこかで気づくのは、当事者のアメリカ人一般が気づいたからである。
これが、ネットをつうじて直接やってくる時代になった。

今回の「Xスペース」も、間にマスメディアがない、「直接配信」だということが重要なのである。
あたかも、「問屋」を要しない、流通革命のごとく。

これぞ、「情報(流通)革命」なのである。

ために、EUでは、マスク氏に対する「制裁」をいう委員が登場したが、はやくもEU委員会内部で孤立していると大手メディアが「報道」しているのは、それが事実かどうかではなく、そんな強権的なやり方が通じなくなっていることの証左なのである。

つまり、「情報問屋」の生き残り作戦ともいえる。

今後、もし、このEU委員がどんな人事に直面するのか?も、あんがいと興味深いが、それがまた、同時に日本政府にも飛び火していることを示すからである。

これぞ地球をひとつにする「グローバリズム」の、歳台にして最悪の弱点なのである。

たった2時間の対談で、これをあぶりだしたのだから、歴史的、といえるのである。

わが国はアメリカから独立できるのか

79回目の終戦の日。
何度も書くが、第二次世界大戦終結の日は、「9月2日」であるからまだ間があるが、停戦の日をもって戦争終結にしているのは負けた側のわが国だけ、という異様もある。

もっといえば、『ポツダム宣言』の受諾を連合国に伝えたは前日の14日なのだ。
これは国民にしらされていなかった。

では、『ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)』には、なにが書いてあるのか?という一大事を戦後の日本人は正規の授業で習わないことも、戦後の一大事ではある。
まず教科書を墨で塗ることからはじめた「教育改革」でも、これを教えない。

むかしはどこの家にもたいがい一冊はあった、『六法全書』には掲載されていたものだけど、国民が劣化して、『六法全書』を常備しなくなったのは、なんでもネット検索できるから、ということでもないだろう。

法律には「施行令」と「施行規則」という足腰がついているし、そもそも時間が進むと法律も改正されたりあたらしいものがドンドンできる。
だから、『六法全書』はつねに新しければいい、という単純なものでもなくて、あんがいと「時代」が刻まれているのである。

そんなこともあって、喉元過ぎれば熱さを忘れる、にしては軽すぎるのである。

念のためポツダム宣言のオリジナル全文は、「国会図書館資料」にあって、ネットでも読めるようになっている。
また、「日本占領」で、GHQによってなにがおこなわれたのかが特集されているので、面倒でも読んでおいた方がいい。

これも念のために書くが、わが国が「無条件降伏」したのは、「軍」であって「政府」ではないことにも注意がいる。
悪辣なプロパガンダ機関であるNHKなどは、これを一切いわず、あたかもわが国政府も無条件降伏したかのようにまだ宣伝している。

相変わらず、GHQに都合がいい、ことの意味をかんがえる必要があるからである。
ようは、『サンフランシスコ講和条約』で、わが国は独立したように見せかけているものの、いまだにアメリカの「保護区(Reserves)」にされているのだ。

ちなみに、大日本帝国憲法では、政府と軍の分離が図られていた。

せっかく山本権兵衛内閣で軍務大臣に任命できるのは「退役軍人」だとしたものを、広田弘毅内閣で「軍務大臣現役制」を復活させたために、新内閣の組閣にあたって軍の意向が決定的に強化された原因となったのである。

それで、東京裁判では、広田は文官で唯一死刑が執行された。

なお、なぜか帝国海軍人は、ひとりも起訴すらひされておらず、ぜんぶ陸軍が悪かったという物語が戦後に蔓延し、その世論が海上自衛隊の誇りになって引き継がれているし、徹底的に陸上自衛隊では旧軍の旧弊を排除した経緯がある。

あらためて、主権回復は、サンフランシスコ講和会議でなったものだが、同時に、『日米安全保障条約』と、これに付随する『地位協定』が残った。
これが曲者(保護区になった)なのである。

そんなわけで、岸田氏が総裁選挙に「不出馬」を表明したのは、まったくもって、本人の意向ではなかったバイデンの大統領選挙「辞退」と瓜二つの現象となったことに注目したくなるのである。

英国人やアメリカ人なら、「信念」をもってたとえ敗戦が濃厚でも闘うことを良しとするだろうに。

こんなことは、『プルターク英雄伝』に山のようなエピソードが書かれている。
日本人(「大和民族」)なら、なにも『プルターク英雄伝』なんか読んで拝欧・米主義に染まらなくとも、たとえば必死で臨んだ「元寇」しかり、「桶狭間の戦い」しかりなのである。

つまり、岸田文雄という人物を通じて、これを支えた内閣各大臣さらには自民党という組織が一体となって、日本人ではないことを示したのだ。

あくまでもバイデンに追随するというのは、本人には美しい「主従関係」の表明ではあろうが、国民には恥辱でしかない。

「トランプ2.0」で想定できるのは、敗戦後二度目の「日本独立のチャンス」なのであるけど、初回は自民党・安倍晋三が「トランプ1.0」のときに決断できなかった。

はたして「次回」は、どうするのか?
まったく気概もなにもない人物がこれにあたってしまうのは、「わが国側の体制」が変わらないからである。

この体制をつくったのが、アメリカ民主党だったから、トランプ2.0では、ただ「独立すべし」といったところで日本が独立できるはずはないことも、政権組織として百も承知であろう。

ではどうするか?

トランプのアメリカが、自民党を解体させる可能性があって、代わりにナショナリズム政党を支援する流れをつくることができるのか?にかかっている。
そのために、敵はマスコミなのだ、という認識も、アメリカ国内同様だということも理解されていることだろう。

なにせ、アメリカ民主党がつくった理想郷が日本だからである。

すると、アメリカ民主党の権化たる、駐日アメリカ大使の更迭と新任人事から観察すれば、本気度がわかるというものだ。

移動制限というパターンの再来

8日の宮崎地震で、初の「南海トラフ地震臨時情報」なるものが流されている。

神奈川県内の国道でも電光掲示板表示があるけど、自分で調べろ状態の表示なので、なにがいいたいのかこの表示自体からはよくわからない。
それも、海岸沿いを走る「西湘バイパス」でやっている。

ようは、テレビやラジオを視たり聴いたりしろ!、というご命令なのだ。

ちなみに、西湘バイパスには以前から、ちょうど大磯の旧吉田茂邸があった付近に、「津波がきたら高台に避難」との看板があるが、どこに高台があるものか。
2・3台の車が止められるスペースが、「津波退避用」とあって、ここを通る都度バカバカしいとおもうのである。

そのときに、たまたまあたったら、もう覚悟をきめるしかないのだ。
津波は、マッハの速度でやってくる水の壁で、ふつうの寄せては返す波が巨大化したものではない。

こういう表示は、コロナのときにもあって、他県ナンバーの車に嫌がらせをするとか、他県ナンバーのひとが自主的に「地域住民です」とかというステッカーを貼って走る光景を何度も観たものだった。

どちらの行動も「自己防衛」といえばそうだけど、こうした恐怖心からの集団異常行動が、とうとう「マスク警察」という自警団にもなったのである。

この時点で、わが国は「法治」を棄てたのだ。
それがどれほどの異常事態であったかを検証もなにもしない、無反省があたかも戦争の無反省と同様にダラダラ続いている。

日米開戦を深くかんがえずに、「ただ阿呆の仕業」と表層を信じる無反省をいうのだ。

この炎天下、まだマスクをしているひとをみかけると、じつに気持ち悪いものがあるけれど、ご本人には自己防衛ということなのだろう。
お気の毒にも、頭脳の一部が破壊されてしまったのである。

「お盆」というまさにこのとき、上手いタイミングで地震が起きたもので、そのまた後に神奈川西部での地震の発生が、関東地方の住人を恐怖に貶めた。

なお、わが国は1978年に国連なる邪悪の組織がまとめた、『環境改変技術の軍事的使用その他の敵対的使用の禁止に関する条約』に1982年になって批准している。
つまり、「環境兵器」は存在する、ということはしっていていいのだ。

どういうわけか最初に、「海水浴禁止」にしたのは、南紀白浜という、関西圏の海水浴場ではもっとも有名かつ行くまでの距離と紀伊半島の交通不便が、「旅行気分」をおおいに盛り上げる目的地である。

こうした「遊泳禁止」が、ここから拡大していくのは、「1週間」という様子見の期間を、地震学者という詐欺師たちが掲げた(政府の意向にしたがった)からである。
まったくもって、お盆ド真ん中の稼ぎを放棄しても、お客さんの「命を守る」我々は正義のためにあるのだ、という偽善のための「禁止」がよきことになっているのである。

これが、西伊豆にも波及して、津波避難施設があちこちに建設されるまでの我慢だという役人の発想は、東日本大震災の惨状を観ていないからいえるにちがいない。
たかがジャングルジムのおばけのようなもので、それが役に立つというのは最新の宗教である。

レヴィ・ストロースが、構造主義を提唱したはじめが、名著『野生の思考』だった。

79年前の15日からはじまる、6年8ヵ月にわたる敗戦処理で、当時の日本人が誇っていた「大和民族」が滅亡させられた。

まったくの、家畜化( 可算名詞としての「reservations」:居留地)がはじまるからである。

そうやって、大和民族をいう日本人は極右にされて、いつのまにか大和民族という言葉自体が死語になったのは、大和民族が滅亡したからである。

家畜の飼い主にとって、家畜を生かす意味は飼い主の役に立つことでしかない。

だから、家畜が自分から生きる意味を問うような知識を与えることはなく、もっぱら家畜あるいは奴隷として働くための実学に励めばそれなりの報酬として「人並みの生活」が与えられるのである。

飼い主は家畜のいる場所にはいない。
家畜のエリートをみつけ、その者等に家畜の面倒をみさせるからである。

つまり、日本政府は家畜のエリート集団で、一般の家畜を飼っているのである。
これらに、「野生」をもたせては厄介だから、無抵抗の家畜にするための教育・訓練を子供時分から施してやる。

ために、義務教育は無料なのだし、もっと高度な家畜にするために、高校やら大学の学費を行政が負担してやる、という発想がでてくる。

タダほど高いものはない、とかつての大和民族なら警戒したが、いまの家畜たちの親は、すっかり歓迎するまでに家畜化された。

いつどこで起きるかいまだにわからない地震を、あたかも「可能性」という確率論に変換しただけなのに、家畜はこれの意味すらわかろうとしない。

専門家なる家畜のエリートはいう。
「1週間以内にM8クラスの地震が発生する確率は約0.5%(通常なら0.1%)」

これってなんだ?

どういう式(計算方法)なのか?を説明なんかしないのだ。

大問題になった「新型コロナウイルス」といういい方のウイルスは、結局いまだに得されていないのに、勝手に「変異株」といいだした。
あきらかに、コロナウイルスでの被害よりも「ワクチン」と呼んだ毒薬による被害の方がおおい。

さらに、世界が意味なしと認定してやめた「PCR検査」を、わが国ではまだやっている。

まったくおなじパターンの「恐怖」で、家畜をコントロールすることを地震でやっているのである。

さてそれで、飼い主の民度が低い欧米では、すぐに裁判になる。
これが効いて、かの国々では裁判だらけになっている。

地震の危険性をいうだけで、もっとも稼ぎどきの海水浴禁止をしても、責任者が損害賠償請求されないことを見込んでやっているのである。

完璧な家畜化ができた証拠である。

「チップ」(心付け)には「チップ税」

日本の場合は、「心付け」といういい方が示すように、「お礼の気持ちをこめて」という意味が先行する。
しかし、アメリカなどの外国では、「別料金」という意味合いが先にあるので、「気持ち」は後になっている逆順がある。

日本ではあまり話題にならないのが、「チップ」そのものだ。

戦後、東京の有名ホテルが「サービス料」を制度化して、お客に要求したために、戦前・戦中の国際感覚が残っていた戦後の70年代まで(これらの人たちが生きていた)旅館やらタクシーやらでのチップはふつうにあった。

つまり、サービス料も取られているのに、チップを払うとは二重に渡しているようなものであったけれど、サービス料は料金体系にあったので、直接お世話してくれた係への「心づけ」は別だという感覚があったのだろう。

さて、まったく立場を替えて、「税吏」発想はどうかといえば、サービス料はいったん会社の売り上げになって、これをまた会社が人件費として当人らに還元するという建前になっている。

だから、むかしなら法人税が関係するし、いまなら加えて消費税が関係する。
「消費税は消費者が負担する」とは、どこにも表記がない「消費税法」を読めばわかるとおり、消費税とは法人税の二重課税制度なのである。

そんなわけで、社員の消費税を負担する会社にとって、できれば外部委託がいいようなイメージになる。

ならば、むかしながらの「心づけ」だとどうなるのか?
今度は、個人所得としての「雑所得」になって、申告課税となるのである。
だから、申告しないと「脱税」になる。

では、外国ではどうなのか?

暗殺未遂から時間が経って、さらにニューヨークの裁判官から「緘口令」を食らっていたトランプ氏だが、裁判官の裁判運営判断が高裁で裁判になるなどのグチャグチャで裁判自体の行方が不明になったことも受けて、アリゾナ州ラスベガスでの政治集会が開催された。

そこで、カジノやホテル従業員が多数の聴衆を前に、「チップ勢の撤廃」という公約を打ち出して、大声援を受けたのである。
ところがその後、カマラ・ハリス副大統領(次期大統領有力候補)が、おなじラスベガスで同じ公約を発言し、なぜかまた大受けしたのである。

あたかもトランプ氏をパクったように見えるけど、騙されてはいけない。

彼女は、現職の副大統領なのである。
しかも、選挙からの撤退を表明しただけのはずのバイデンが、以来、国民の前に姿を表さない異変となっている。

要は、現政権の残り時間のなかで「実行」すればいい話なのに、「わたしがもしも大統領になったら、チップ税を無くします」では、まったく現職としての発言として迫力に欠ける。

ここで、一つだけ日・米(欧も)の職場の考え方のちがいがあることに注意がいる。

あちらのチップ支払いが客にとって「義務化」されていることの意味は、固定給ではなくてチップ収入(あたかも歩合給)に依存して生活する人が多数いることの事実なのである。

つまり、企業側・雇用主側の立場は、職場を提供している、という意味なので、従業員の生身は「個人事業」であるというものだ。
そこに、わざわざ会社・雇用主は、制服やらを支給してやっている、という感覚がある。

この4年間で、共和党はトランプ派が席巻し、ほぼ制圧が完了した。

過去の、金持ちのための政党、から、労働者・一般国民のための政党、に変身してしまったのである。
それゆえに、トランプ選挙キャンペーンには、小口でも大量の寄付が集まっている。

本来、労働者・労働組合を票田としてきたのは民主党の方だから、その場を繕うことだけの思想しかないカマラ・ハリスのこの発言は、おそらく選挙参謀やら民主党幹部の焦りが言わせたものだと推測できる。

日本の労組が、どの政党を支持するのか?も、いよいよ議論になるほどの転換が起きているのである。

海外出稼ぎ売春

地上波テレビのネット版で、海外出稼ぎ売春が特集されている。

ほとんど自社取材力がなくなった地上波テレビ局が「特集」を組むとは、もはや巷では「常識」となっていることを示す。

わたしが中学生だった昭和の時代の終わりのほうは、校内暴力が吹き荒れていて、まだ現役だった木造校舎の窓ガラスがよく割られていた。
ほぼ数年遅れで、こうした問題がテレビのニュースになったので、あまりの「遅さ」に子供たちの話題として呆れていたのである。

おとなたちは鈍感だ、と。

あたらしい鉄筋校舎はサッシの窓で、こちらはおいそれと割れていなかったのは、おそらく「あたしくてキレイ」だったからだろう。

これは、アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング博士が1982年に唱えた「割れ窓理論:ブロークン・ウィンドウ理論」という。
建物の窓が壊れているのを放置すると、それが「誰も当該地域に対し関心を払っていない」というサインとなり、犯罪を起こしやすい環境を作り出し、結果的に治安が乱れるという。

ために、軽微な犯罪でも厳しく取り締まることが治安維持に役立つ、というものだ。

アメリカ民主党の最有力大統領候補になった、カマラ・ハリス副大統領は、カリフォルニア州の地方検事からスタートする。

アメリカは、たいがいの公職は選挙で選ぶので、彼女も任官のための選挙ばかりの人生を歩んでいる。

それで、当初は「鬼検事」であった。
彼女の担当事件の7割弱が「有罪」となったのだ。
日本では起訴されたら99%以上が「有罪」となるけど、アメリカではちがうから、むしろこの数字は驚異的なのだ。

だが、民主党の牙城・カリフォルニアで選挙に勝つために、左傾化する。
あきらかに、本人の思想ではなくてあくまでも「当選」のためなのである。
なので、いまだに彼女は「日和る」態度を貫いていて、それが支離滅裂になっている。

あたかもカマラ・ハリス検事の任期では、いまマスコミが讃えるように、犯罪が減ったように見えるのだけれど、じつは警察からの送検を拒否していたから、数字の「分母が減った」だけだった。

これをいま、日本の検察もマネをしていないか?
自民疑惑議員の全員不起訴とか、外国人の犯罪がおおかた不起訴になるとか。

副大統領時にさんざん「国境担当」になったと報道していたマスコミだが、みずからそれを否定している。
あたかもアメリカの国境は、ズブズブの抜け穴になったようにみえるけど、あんがいと「日本のパスポート」を持っていると、厳しい扱いを受けるようになった。

ハワイの入国管理(イミグレーション)で、若い日本人女性がパスポートを見せただけで、別室へのご案内になるそうで、その別室には多数の日本人女性がいるとのこと。

すこし昔なら、日本に入国したい東南アジアの女性たちの渡航目的が疑われてきたが、いまや逆転したというわけである。

特集の取材に応じた20代女性は、動機を「ホスト通い」をするためだというから、つまり、遊ぶ金欲しさ、で自らの体を売っている。
すでに3カ国でビジネスをしたが、客からの暴力的行為に辟易して、もう海外での売春はしないとのたまわっている。

一日40万円、ひと滞在で600万円ほど稼いで帰国して、ホストクラブで500万円を使うのだという。

まことにダイナミックな人生を謳歌している。

彼女が証言する国々(アメリカ、オーストラリア、韓国)では、「あっせん業者」がいるという。
けれども、客からの虐待や当局からの取締については「役立たず」だというから、どこまでも自己中心で発想しているのがわかる。

これがいまどきの地上波で流されているのだけれど、きっと、現場感覚からすれば、数年遅れは当然だろう。
そうでなければ、まんまと取材に応じてくれた女性の「キャリア」も説明がつかない。

むかしの遊郭で、遊女の写真を撮るのは御法度だったし、遊女たちもカメラの目に立つことはなかった。
だから、「隠里(かくれさと)」と呼んだのである。

もちろん、いまこそ個人情報が漏洩したら危険である。

顔を隠して音声も変えているとはいえ、それは「放送時」のことで、オリジナルは素顔のままだ。

この厚顔無恥を育んだのは、乱れた家庭なのか?学校なのか?なんなのか?

巨大地震がやってくる!かもよ

8日、宮崎県沖で発生した地震が、「南海トラフ地震」を引き起こす「かも」として、新幹線などの交通機関にも影響しているという。

地震には気をつけないといけないが、なにをどう気をつけるのか?となると、あんがいと難しい。

元日に発生した、能登半島の地震の被害はいまだに放置されていて、復興よりも復旧さえない状態であっても、責任者不在のままになっている。
こんな状態に、女・子供のごとく、いっさい他人事の無関心を装うのが日本国民という者共なのである。

まさに、国をあげて女性である性格がここにでていて、政府がテロ組織になって国民をあおりながら不便を強制している。

この意味で、9日夜8時ころに神奈川西部でおきたこの度の地震は、まことに都合のよいタイミングだったといえるし、あたかも「南海トラフ地震」との関係を科学的に解説することで、例によって国民に恐怖を植え付け、政府の言いなりになることを奨励しているのである。

なお、神奈川県には、県央の伊勢原断層から西に、国府津・松田断層、塩沢断層帯、平山・松田北断層帯、そして、北伊豆断層帯があって、いわば断層(帯)ばかりなのであるから、地震の痕跡ラッシュの場所柄になっている。

さてもちろん、いまの政府の目的は、「憲法における緊急事態条項」をいれることだし、「基本的人権の削除」、すなわち全体主義体制の樹立にある。

このことは、家族万能主義であったかつての日本人とはちがう人間に入れ替わったことを意味するが、その「かつて」とは、明治の小学校教育で国民を洗脳させた、「天皇の赤子(せきし)」という、家族国家としての一体感を忘れるようにしてきた戦後の努力の結果ではある。

ただ、この明治はじめにできた「国家神道=現人神」の発明がきわめてうまくいったのは、天皇以外を全部同格・平等にするという「四民平等」の実現が、近代国家の経済発展にも不可欠であったからだったし、欧米におけるキリスト教のコピーを無理やりでも行った慧眼は見のがせない。

しかし、閨閥や財閥やらには手をつけないばかりか、発展させたので、ほんとうは「四民平等」なんてことはないフィクションであることは国民もしっていた。
建前と本音を国民が区別できたのは、「お上」との関係における庶民の無関心があったからでもある。

いい悪いの議論を捨ててみると、「かつて」の日本人なら、フクシマにせよ能登にせよ、これを見捨てる政府を国民が許さないのは、「お上」の仕事に丸投げすることが無力な庶民という構造だったとはいえ、いざとなると暴動なりをおこして抵抗するのも庶民のパワーだったからで、政府も無視はできなかったと簡単に想像できるのである。

ところが、日本人から女性の謙虚さを奪ったのがバブルだった。
それで男になったのでもなく、傲慢やるせない遣り手婆のように変容したのである。

この時に流行った、『ラブユー東京』の替え歌、『ラブユー貧乏』が笑えない事実と化して、「各種学術学会」でも目立ってしまったのが、「地震予知学界」であった。

なぜかといえば、ぜんぜん予知できないからである。

しかし、もしも予知できるのに予算をつけずにいたら責任を問われることが怖い女性の性格をもつ日本政府だから、たっぷりと予算をつけて、あたかもアリバイづくりに励んでいるのである。

ようは、世界が「毒」と認定しているワクチンを推奨するのと同じことだし、なにを調べているのかわからないことがハッキリして、世界はとっくに放棄したPCR検査も、いまどき継続している珍奇な国になっていることも、国民には伝えない。

巨大地震がいつ、どこで起きるか?は、人智を超えているのである。

科学万能主義が家族万能意識を飛び越えてしまったので、地震もカゼも、あたかもコントロールできると思いこむのは、「マッドサイエンティスト」だと認めることと等しい。

しかし、あくまでも受身の女性の発想にかわりはないのである。

それゆえに、男性の発想をする欧米に好き放題にされる構造に変化はないことも、自分で身を守るために庶民だってしっていていい時代になっている。

政府が正直にいう、「治験大国」といういい方の、日本人モルモット化がその典型なのである。

政府がテロ組織になっている

「マフィア化する政府」について、何度も批判してきたが、過去二回の『肉食の思想』(1966年)と『日本を見なおす』(1964年)から予告された未来、すなわち60年後の現代、もはや政府と国民の乖離による、政府からの「国家テロ」をやられだした必然があるので書いておく。

宗主国というよりは、わが国支配の司令塔といった方が適当なのは、それが「軍産複合体:アメリカ民主党とRINO」だからである。
何度も書くが、このふたつのパーティー(政党)、とくに民主党は、スターリンに追い出されたトロツキー派(国際共産主義運動派)によって、乗っ取られてからしばらくは、「隠れ共産党」であった。

しかし、戸籍制度がないことを利用してか、出生がいまだに不明なオバマの登場で、自信を得たのか、これ以降は隠さずに共産主義をアメリカ社会に蔓延させることをやってきていまにいたっている。

ちなみに、オバマの出自についての疑惑も前に書いた。

ところで、事務能力も統治技術も未熟な「古代」にあって、その政権や政府は、どうやって人々を支配したのか?については、じつは「なにもしていなかった」のでる。
つまり、個人はそれぞれ政府から自由だった。

しかし、個人を括ったのは、部族社会であった。

なので、古代の支配関係とは、中央に対して地方という構図はまるで現代的だが、実態は、部族の管理だったのである。

これは、西ヨーロッパも日本もおなじだ。

双方とも、同系部族が個人生活をまもっていたからである。
それは、日本なら米作りの共同作業から生じたし、西ヨーロッパなら、ワーグナーの『ジークフリート』のごとく、森の中の生活における他部族との遭遇が、危険極まりないものだったからである。

とくに日本において、なぜに中央からの要求にだまって対応していたのか?が不思議だったけれども、米の生産性がやたら高いという事実が、命令に従順であった素地であった。
古代でも一粒の籾から20~30倍の収穫ができた。

しかし、西ヨーロッパの麦は、5倍程度の収穫でしかなく、しかも連作ができないために家畜を放牧して地柄を整える必要があった。
大陸ゆえに、土地はあったし、麦は撒いたら放置して自然に育ったのである。
なぜなら、日本とちがって雑草が育たないからだ。

ゆえに、西ヨーロッパからみたら、日本の狭い土地で丁寧に人手を加えて育てる米の栽培を、「園芸」と呼んで彼ら流の「農業」と区別するのである。
これに、農民は土地とセットの「農奴(serf)」という固定的な身分をつくりだし、屠畜と一緒にした。

日本では、米づくり農業:園芸、にやたら人手を要するので、農奴という発想はないし、屠畜をすることはめったになかったから、農民とは別の身分ができたのである。

さてそれで、明治体制も、西ヨーロッパとは意外な点で異なった構造を示す。

それが「初等教育:義務教育」なのである。
西ヨーロッパでは、庶民とエリート(貴族)は、そもそもおなじ学校へ通うことはなかった。
遅れているはずの日本で、明治の小学校ができたのと、西ヨーロッパで庶民とおなじ初等学校に通わせる時期がほとんどおなじか、日本の方が早いのだ。

なお、英国はいまだに身分によって別々の学校に行く。

そうやって日本では、「国家神道」を子供の心にたたき込んだが、大正デモクラシーという、反動で、エリートのための高等教育では、あたかも「国家神道」を否定した教育、すなわち「科学優先」をやっていた。

ために、高級官僚で国家神道を信じる者はなく、政府と一般人の意識は乖離していたのである。

ちなみに、師範学校で小学校教員を養成したのは、国家神道をたたき込むための、「非高等教育」だったからである。

一方で、軍は徹底的に国家神道をたたき込んで、死闘に耐えるような人材づくりをやっていた。
そうやってかんがえると、もっとも科学的でなければならない「軍」をして、もっとも非科学的な組織環境をつくる努力をしていたともいえる。

これを批判して、山下奉文が、刑執行の直前に口述して残しているから、山下大将といえども、組織にあらがうことは死の直前まで不可能だったということになる。

ここでいいたいのは、軍ではなく、むしろ政府の方である。

国民意識と乖離した政府は、なにをしたかったのか?
奇しくも、戦後、丸山眞男が『現代政治の思想と行動』(90ページ)で、その脆弱性を東京裁判におけるブラナン弁護人の「日本政府を構成したこれら十数代の内閣の成立、瓦解を通じて、十三人の首相。。。」と例をあげている。

戦時というやるからには必勝をきたさねばならぬ事態に、トップが1年ともたない国なのである。

つまり、彼らは自分でかんがえ、行動する能力をもっていなかった。
そうやって、国民を殺したのである。

この遺伝子は、確実に現代に引き継がれ、いま、岸田内閣の元で花開いているけれど、およそ自民党政権とはこういうものであったし、細川護熙内閣も、民主党も内閣もかわりはしない。

政治(国家や世界をかんがえること)に無関心すぎる国民性が原因しているのだけれど、これは古代からの風習なのである。

しかしながら、政府ではなくて、国民が存亡の危機にあるいま、無関心では殺されるのである。

これが、原爆投下から終戦の日までにかんがえるべき、生き残り、なのである。

ひよわな女性としての日本人

昨日の鯖田豊之著、『肉食の思想』のつづきであるが、これより2年前に出版された『日本を見なおす』からの話だ。
民族としての特性を、「女性」と表現できるのが日本人だという。
なるほど、わが国は、「女尊男卑」だという意味でもない。

えらく厚かましくアクがきついと日本人が感じる、西ヨーロッパ人が、「男性」だとしたときの日本人が女性だというのである。

ここでいう西ヨーロッパとは、フランス、ドイツ、オランダ、英国などで、彼らが移民したアメリカも含まれる。
この点でいえば、西ヨーロッパと折り合いをつけるのが上手い中国も、男性だといえる。

ポーラン人で後にカーター政権の国務長官になる、ブレジンスキー博士は、『ひよわな花・日本』(サイマル出版会、1972年)という本を書いている。
まさに、ブレジンスキーという(男)の目からも、日本の弱さが女性のように見えたに違いない。

もちろん、日本人の半分は男性と女性であるが、国民性が女性だという指摘は、あんがいと当たっている。

ここで、あえて「的」という漢字をもちいない。

鯖田氏は、西ヨーロッパと日本の歴史を発展史として比較していて、両者は似ているとしている。
これは、西洋文明に対しての日本文明という見方と一致する。

もちろん、似て異なるものなのは、どこに原因があるかといえば、「肉食」を起点とした「麦食」と「米食」にあると規定している。

この似て異なる両者が、男女の出会いとして最初に失敗したのが、織豊政権を通じて鎖国に至ったことで、二度目の出会いとデートが明治維新からの「文明開化」と「富国強兵」だったけれど、それは第二次世界大戦で破綻した。

それで敗戦が、三度目のデートとなっていまに至っている。

一度目のお相手は、スペイン、ポルトガル、オランダ(元はスペインの飛び地)だった。
二度目の主たるお相手は、英国。
三度目は、アメリカをもっぱら相手にしている。

しかして、相手がかわったのに、はたして日本側はなにか変化したのか?といえば、じつはぜんぜん変化していない。
わたしがいう、日本人は真の反省をしてはいない、ということのもっと分かりやすい説明がここにある。

生娘が乱暴に扱われるのに慣れて、かえって心の深いところで自分を変えることなんかしない臈長けた女性のごとくだ。

この日本という女性は、国家意識も世界意識ももってはいないという、伝統的な特徴がある。

これは、「家族万能意識」が根深くあるからであって、古い日本秩序が嫌いな島崎藤村が、『家』で批判し、『夜明け前』で無意味とした平田(篤胤)国学をベースにしたものである。
むしろ、明治維新こそ「暗闇」とも解釈できるので、『日暮れ』がよかったのかもしれない。

しかしながら、わが国伝統の家族万能意識を利用したのが、明治政府高官たちが発明した、「国家神道」だったし、それが矮小変異した戦後の、「家族的経営」でもあった。
これを労働組合も歓迎したのは、なにより日本文化だからである。

つまり、天皇は全国民の父であったものが、企業は一家、に変化して社長(経営者)は家長と認識されていたことが、あまりにも強力なパワーを生んだために、アメリカが再度悲鳴を上げて壊すように命じたのである。

それで、「小泉・竹中平蔵政権」が軍産複合体のアメリカに盲従して実行したのである。
カウンターパートは、パパ・ブッシュ大統領でその後も政党は違えど軍産複合体のクリントン政権、息子ブッシュ政権と続くのだった。

いまだに国民が誤解するように宣伝(プロパガンダ)される、「終身雇用」や「年功序列」という日本的経営とは、たかが戦後にできたシステムであったのを、いかにも歴史的悪弊として排除の対象としたのは、そうすれば日本企業のパワーが減衰するからである。

これぞ、相手国の文化性を利用した悪意ある外交だといわずしてなんというべきか?
しかし、肉食の男性国家はこれを常識として実行するものなのである。

鯖田氏は、「戦後日本の女性的個体への復帰は、世界や国家に対する無関心とうらはらです。とても開放状況を生き抜けません」と60年前の1964年(昭和39年)に書いている。
ようは、家族万能意識から抜けられない日本人は、狭い範囲としての家族(身近な集団)にしか興味が向かない女性特有の性格をもっているからなのだ。

政治と国民の分離もまた、この女性国家の特徴で、政治はアメリカとの関係維持に汲汲としているが、国民は知ったことじゃないという現状は、まさにここにある通りだ。
ところが、西ヨーロッパ・アメリカ(民主党)が、みずからLGBTQをいいだして、なんと男性から女性になりたがる傾向を示しだしたのだ。

それでか、西ヨーロッパ・アメリカに、神社が建立されて、「信者」を集めている。
なんと、挙式をするひとたちに人気なのだという。

これは、キリスト教(伝統秩序)への絶望からか?
それで置いてきぼりになった(古い)男性の立場から、日本(差別の対象となる人種)が宗教的に世界征服をはじめた、というひとが西ヨーロッパにいるのである。

しかしながら、西ヨーロッパは決して国家意識や世界意識を棄てたわけではないので、元男性としての「元」が残る。
それが、EU議会選挙での「極右」の躍進だったし、西ヨーロッパにおける「極右」の台頭となってあらわれているのに、日本ではそんなムーヴメントはぜんぜんない理由だろう。

英国でさえも、得票率(数)でまさった「極右」が、初めての選挙で5議席を得たのは、まだ「男がいる」証左なのである。

そんなわけで、鯖田氏は「女性-日本らしく、なしくずし的に国家意識や世界意識をもつくふうはないものでしょうか。」としたためて筆を置いたのである。

たしかに、難問である。

それだけに、いまの閉塞感と衰退の原因の深さがわかる。
しかし、鯖田氏が批判する、明治政府が利用して成功した「家族万能意識」を、合気道的に利用する手があるのではないか?

逆手を基本とする「柔道・柔術」は、この意味で男性であって、順手を基本とする「合気道」こそが、日本=女性としての「なしくずし」があるからである。