「味の変化」をかんがえる

老舗料理店の「味」が、変わったか変わらないかが議論になることで、それがそのまま「店の評価」になっていることがある。

結論から先に書けば、おおむね「店側は味を変えている」のに、「客側が変わらない」と信じていることでの「高評価」がある。
これは、ふだんの食生活の変化を感じとった店側が、ほんのわずかな対応をしているために、「客側」をいい意味で騙しているのである。

もっといえば、洋風の味に染まっている客の食生活に合わせる努力をしたら、「むかしから変わらない味」という勘違いを引き出して、それが知れ渡るとできる「ブランド効果」であるともいえる。

では、味は変えるべきものか?それとも変えているのに変わらないという評価に向かうべきであるか?どうなのだろう?という議論である。

神奈川県の相模原に、父と息子の親子で営む「街中華」がある。

父は、日本人が好む典型的な「広東(風)料理」の担当で、息子は、横浜中華街にて修行した、本格的「四川料理」の腕をもっている。

創業者の父の味こそ、これぞ「街中華」なのではあるが、そのレベルはそんじょそこらの店とはちがう、なるほどの料理なのである。
だから、横浜中華街にもあるあるの料理ともいえるし、庶民的なメニューとはいえひと工夫もひと手間もかけているのがうれしい。

一方で、息子の四川は、これもまったく手間を惜しまぬ仕込みをしているので、「麻」と「辣」とが、はっきりしている。
こんな「本格」が、街中華で手軽な値段で楽しめるのである。

つまるところ、広東料理と四川料理が、同じ店にあるのであって、かなり珍しいといえるだろう。

わが家からはかなり移動の手間がかかる場所ではあるが、意を決して向かうにふさわしい店なのである。

先日、一駅離れた隣町のホテルをとって、いよいよ堪能しに久しぶりに出かけたら、お父上の姿が見えない。
聞けば訳あって入院中という。

二人でやっていた店の料理を、ひとりでこなすため「出前」は中断しているとのことであった。

さてそこで、息子の広東料理をはじめて食べた。

なるほど、父とは味がちがうのである。
だが、まずい、というのではない。
まさに息子の味であって、奇しくも父の味との比較ができたのである。

なによりも、元気で退院されての復帰を願うが、とはいえ息子は覚悟をもって父の味を継いで欲しいとおもったのである。

なぜか?

メニューに、おなじ料理でも、父バージョンと息子バージョンを載せて欲しいとおもったからである。
これを機に、あくまでも前向きに、息子には父の味と自分の味の両刀使いをマスターしてほしいのである。

なんとわがままで贅沢なことか!
厨房に復帰した親父さんに伝えておきたい正直なリクエストなのである。

とはいえ、以上が本音ではあるけれど、ふと『マトリックス』を思い出した。

量子論によれば、いよいよ我々が見て感じている「現実」が、じつは「幻」であることのややこしさがある。
脳(量子コンピュータ)によってつくられている「マトリックス」の世界のほうが、本当の現実に近い。

まぁ、グダグダいわずに、親父さんの復帰を願うばかりなのである。

やっぱり違和感のMET

本稿は『フィデリオ』で書いたことの繰り返しだとあらかじめ書いておく。

それで今回は、5月30日から6月5日まで上映の、『フィガロの結婚』である。
作品に関係なく、冒頭からMET(メトロポリタンオペラ)はやらかしてくれた。

なんと、開演前に出演者が総出して観客とが、「ウクライナ国家」の斉唱をした場面からはじまった。
テロップには、「ウクライナ全面支援のおことわり」が表示されたのである。

撮影された客席は、ほぼ全員が起立して歌っているのである。

このおぞましい光景を見せつけられて、いきなり鑑賞の気分が削がれたのはもちろん、気分が悪くなったのである。
事ここに至ってなお、和平への努力をしないでロシア領への攻撃をしたウクライナの戦争屋の手先たちを支援するとは、とにかく戦争の継続を画策している態度に唖然とする。

国歌を斉唱するなら、「アメリカ国家」でなくてはならないのではないか?
なにしろ、世界都市ニューヨークなのだから。

しかし、グローバル全体主義=民主党の庇護者たちがスポンサーの劇場だから、きっと彼らの「意向」に逆らえないにちがいない。
その彼らとは、もちろん「戦争屋」のことである。

「映画公演:HD(High Definition:高解像度映像)」の公式スポンサーは、「ブルームバーグ」と「ROLEX」それに、「Neubauer Family Foundation」なる慈善団体だが、おおくの民主党系寄付者からの支えが、とうとう政治的ににっちもさっちもいかなくなったにちがいない。

とにかく自分たちの利益のために、現地人が何人死のうが関係なく、この劇場で「オペラ」にうつつをぬかそうというやからたちなのだ。

自分がこのような不道徳なものたちと同じだということに唖然とする。
共犯者のようで、気分が悪くなったのである。

ハーバード大学へのトランプ政権による「弾圧」の原因について、伊藤貫氏が明確に「偽善」だと述べている。
トランプ政権のことではなく、ハーバードを乗っ取った民主党員たちを「偽善者」と呼んでいるのである。

本音には、自分たちほど頭のいいものは世界にいないという思い上がりの裏返しだと分析してる。

もっともな主張である。

それで、日本の国立大学が、アメリカから追放された留学生を「無償=税金と自主的稼ぎ」で受け入れようという「偽善」を発表したが、おそらく「受け皿」として本人たちから認知もされていないことに気づかない間抜けさがある。

日本国内で、自分たちほど頭がいいものはいない、という思いがりが、なんと肩透かしをくらって滑っている「ざまぁ」がある現実に、日本の大学教授たちは何をおもうのか?

政治的立場をハッキリさせるのは、潔い、かもしれないが、それを観客に押し付けないでもらいたい。

本作、『フィガロの結婚』の主役、フィガロは例に漏れず黒人歌手だった。
前作の、『フィデリオ』に出演した上海出身の歌手も本作に登場したのは、「アカデミー賞」選考基準の準用なのか?それとも別の政治的意図があってのことか?といらぬ興味がわくのである。

なんにせよ、『魔笛』をつくったコンビによるこのオペラの反骨は、「初夜権」への反発が基礎にある。
まさに、「肉食の思想」が具現された、ローマ皇帝やら封建領主の「法的権限」であったものを風刺しているのである。

つまるところ、民主党的な「反キリスト教」からしたら、やけに「保守的」な演目なのだ。
もっとも、モーツァルトはフリーメーソンだった。

だが、幕間における「次作予告」は、あの問題作『サロメ』の新演出だ。
虐待を受けてから異常性愛へと変貌するサロメの狂気こそ、社会主義者オスカー・ワイルドの原作にしていまのMETにふさわしいだろう。

そんな作品を観るのは、こちらから御免被るのである。

ディズニーすら、SDGsやらのアジェンダから離脱したのに、METはまさにサロメのごとく異常な行動をひた走っている。

今シーズンは、『サロメ』の次に、『フィガロの結婚』の前作にあたる『セヴィリアの理髪師』で締める。
予告によれば、なんだか「古風」にして「正統」なのは、政治アジェンダの頂点を『サロメ』に置いているからかもしれないと邪推する。

発表されている『セヴィリアの理髪師』の「フィガロ役」はおろか、全員が「白人歌手」のようだからである。

しょせん、オペラはヨーロッパ白人社会の支配者=王侯貴族の暇つぶしにつくられ上演されてきたもので、徐々に一般人(紳士淑女)にも席が開放されたものだ。
はなから日本の芸能とはぜんぜんちがう。

もちろん、王侯貴族の暇つぶしから「近代オリンピック」すら生まれたのだ。

さてそれで、『セヴィリアの理髪師』がどんな「進化」を遂げたものか、また文句を書くチャンスがあるかもしれない。

2027国際園芸博覧会のデジタル・タトゥー

横浜開港記念日の2日、横浜市議会の常任委員会で市が報告という記事があったので、これをデジタル・タトゥーとして保存しておきたい。

内容は、
運営主体の国際園芸博覧会協会が「輸送実施計画」の初版をまとめた。
1日の来場者を最大10万5千人と想定し、会場周辺の4駅から最大計820便のシャトルバスを走らせるとした、とある。

じつは、会場(旧「米軍上瀨谷通信隊」跡地)から最寄りの駅は、相鉄線の瀨谷駅で、当初はここから新交通システムを敷設して運送するという計画であった。
これは、万博後の用地を、相鉄と三菱地所とがテーマパークにするという構想にもつながるものだったが、ここから相鉄が撤退したことがおおきいのだろう。

また、広大な敷地内に駐車場計画がない、ことから、県立高校が廃校となって駐車場にあてられることになっており、付近の農地を駐車場にすべく地主との交渉をしているが協力が得られていないという噂も耳にしていることは前に書いた。

つまり、「シャトルバス」しか交通手段がない、というのは結果論ではなくて、当初からの「計画」なのである。

大阪万博について、あえてここでは話題にしないが、どうして「横浜」といっても、この辺境が万博会場に選ばれたのか?ということがやくわからない。

ずっと、返還運動があったのに、本当に返還(日米合意は2004年で、返還は2015年)されたら利用方法が決まらないという事態になったのである。

わたしは、市と地主との間における「地代」の調製がつかなかったのではないかと疑っているが、詳しいことはわからない。

そもそもこの土地は、日本海軍が倉庫施設として用いており、「海軍道路」という軍専用の道路が瀨谷駅から約3Kmの直線上にあった。
終戦直後に米軍に接収されるモ、47年に接収解除となり、その後、1951年に再接収されて、「海軍道路」も一時は米軍専用道路だったのである。

なお、瀨谷駅からは「引き込み線」も敷設されていた。

個人的には、わたしの父が海軍のレーダー兵であったことに関係して、戦後、この上瀨谷通信隊に勤務していて、幼稚園生の頃、7月4日の独立記念日には基地内での豪華なイベントに2年続けて行ったのを覚えている。

みたこともないステーキやソーセージをバーベキューで楽しんで、たっぷり炭酸飲料だか珍しかったジュースを好きなだけ口にできた。
広場ではアメリカ人の子供と一緒に遊んだが、翌年は、それが誰だったかもう互いに記憶がなかったし、どうやってコミュニケーションをとったのかも覚えていない。

戦後の日本人は、徹底的に軍事から目を逸らされて、「忌諱すること」だけを擦り込まれた。
それで、「国防」というと、すぐに「軍事衝突」をイメージする単純脳にさせられた。
「情報戦」とかという、平時おける危険な活動について、驚くほどの無頓着になったのである。

上瀨谷通信隊が世界規模でどんな存在であったのか?を詳しく説明するものもいないなかで、歴史の消し込み作業が行われることの意味は、あんがいと罪深いのではないか?

ウィキペディアによれば、本通信隊は「アメリカ国家安全保障局」の隷下にあったというから、「軍」よりも上位だといえる。

そんななかで、一日あたり10万人程度という万博の入場者予測は、ショボい、のひとことなのである。
かつて横浜中華街は、平日10万人、週末なら一日あたり40万人という人出であった。
この時期の平日は、それでも閑散としてみえたものだった。

会場面積でかんがえたら、ひとがいないようにみえるだろう。

なんにせよ、シャトルバスに乗り込んでまでして行く価値があるのか?

もう35年も前になる、1990年の「大阪花博」は、総来場者数は2312万6934名であったことも念のため書いておく。

手に負えない「臨時休業」

たまたまだろうが、このところ「臨時休業」での肩透かしを連続して受けている。

わざわざ現地まで行って、シャッターに貼ってある「本日臨時休業」という一枚の紙に絶望感を味わうのである。

はじめて入店したとある「うどん店」では、そういえば昼時なのに電話が何本かあって、その会話内容を思い出したら「今日はやっていますか?」だったろうことを思い出した。
「ああ、こんにちは。やってますよ」という声が耳に残ったからである。

おそらく、何回か「絶望」を味わったうえでの学習効果なのだろう。
この通話を気に留めなかった自分が恨めしい。

「そうだったのか!」としても、後の祭りなのであるが、次回から事前の電話確認は欠かせないと当方も学習した。

しかし、これが片道100Kmほどの行程をとる店(味噌麹店)ならば、そのガッカリ感はまさに「天を仰ぐ」気分となるのである。

無論、ネット検索における「営業中」の文字を見てのことだから、恨みはいったんネットの表記となるのだが、「臨時休業」を登録する簡易な仕組みを提供していないのだろうか?と思いを馳せるのである。

そんな仕組みがあっても、店側の人間が無頓着なら仕方がない。

とはいえ、客としては無頓着でいいはずがないのである。
時間と経費が無駄になる、ということよりも、「得られるはずの商品を手にすることができなかった」ことのガッカリは、大袈裟にいえば人生の損失なのである。

どんな理由で「臨時休業」すると決めたのか?は、店の自由であるけれど、客にとってはいいはずはない。
「困る客がいる」ことをどう考えているのか?と、ききたくなるのである。

いささか逆恨みの感があるかもしれないが、そこまでの「商品」を売っていることの自覚のことをいいたいのである。

2006年に亡くなったマーケティングの大御所にして、いまなにかと話題のハーバード大学のセオドア・レビット教授による「ドリル理論」は有名だが、これは名著として名高い『マーケティング発想法』(1971年)の第1章冒頭に記述がある。

人びとが電動ドリルを欲するのは、「穴」を欲したから、という鮮やかな解説を、この「味噌麹店」に当てはめたらどうなるのか?

美味しい味噌が欲しい、ではないのだ。

教授は、「パンとダイヤモンド」の比較をしながら、「とっくに物理学者は物質の特性」を放棄したのに、わからないひとたちがたくさんいることを嘆いている。
パンとダイヤモンドは、どちらも「炭素」でできている。
では、人びとは、「炭素」が欲しくて購入したがるのか?ということではない。

これらの「効用」を欲しがるのである。

だから、この味噌店の味噌は素性がはっきりとした、大豆と塩、それに米麹を用いている、から欲しいのではない。
健康を気にすることからすれば、病気から逃れたい、と欲することが最大の理由なのである。
副次的に、「おいしさ」があるという順になる。

すると、この店の経営者は、自分たちが何を作って販売しているのか?という意味を理解しているのか?といった大問題につながるのが、客に予測不能な「臨時休業の決定」なのである。

それでもこんな文句を言ってもはじまらないので、やっぱり事前に電話をして確認することだということになる。

ときに、「ホームページ」を自分で運用しているのに、間抜けな情報ばかりで役に立たずイラっとするのが、「営業日と時間」の記載が最初に出てこないことがおおくあることである。

どういうわけか、「社長ご挨拶」といった、顧客にとってもっともどうでもいいことが最初にあるホームページを見るにつけ、残念な気分になるのである。

客は、その社長よりもずっと企業価値をしっている。

だから、いつの日に開いていて、それが何時から何時までかを「真っ先に」しりたいのである。
ページ内をさまよって、みつけるというレベルではない。

もちろん、電話番号を探させるようなホームページは論外だ。

できる「宿」は、ホームページにアクセスしたら、何の説明もなく、いきなり「予約手続き」に誘導される設計になっている。

これが、売れる(売る)、ための手段としてのホームページなのだ。

世に、いまでも大枚はたいてホームページを作成しているのに、ぜんぜん売れないと嘆く向きがあるのは、商品価値の哲学と、顧客心理をしないからなのである。

と、ぼやきはここまでとして、念のため事前の電話確認は重要なのだった。

食券を買う

いつから「食券」ができたのか?について調べると、『白木屋三百年史』にあることが、国会図書館の記事でわかった。

だが、記事によると本当の「発祥」は、日本でいう大正時代の半ばに「海外のデリカテッセンを参考にした」とあって、見本(食品サンプル)を見せて食券を販売したところ、回転率が上がったという。

その「海外」とはどこか?が、残念ながらハッキリしない。

おおむね、パリかロンドンだと推測するばかりだが、質問サイトにおいて、現在これらの都市で「食券」があるとの報告はない。
ただし、パリでは、「クーポン」があるというし、東南アジアのショッピングセンターにおけるフードコートでも「クーポン」は一般的だという。

これも、フランス支配の歴史の流れからなのか?

わたしの少ない海外旅行経験でも、たとえば朝食付きの予約をしたホテルのチェックインで、食券をもらったことはない。
朝食会場には、部屋の鍵をみせればそのまま入場できるからである。

しかし、日本のホテルでは、とにかく食券をもらう。

これは、「戦時経済体制」がいまも続いていることからなのだろうか?と疑いたくなる事例なのだが、野口悠紀雄『1940年体制』(1995年、以降いくつかの版がある)をみれば、けっして冗談ではないことがわかる。

つまり「配給切符」としての「食券」なのである。

もっといえば、「外食券食堂」のことで、「米穀配給通帳」制度共にでき、1951年に国の制度としては廃止されたものの、東京都では「民生食堂」の制度をはじめて(約500軒あったという)「抵抗」をしていたのである。

つまりなんであれ、日本人は、「食券がないと食堂で食べることができない」という訓練をされて、それがいまでも抜けきらない、ということなのだとかんがえられるのである。

そこで、大手外食店チェーンでも、まだまだ「食券」を販売する営業形態が残っている。

「白木屋」ならぬ、横浜育ちのわたしには、「横浜高島屋」の「お好み食堂」で、駅の切符のような「硬券」の食券を、あまたある券種からすごいスピードで取りだして、日付スタンプをつけて売っていたのが記憶にある。

これを、いまでは「自動券売機」でやっているし、決済方法にも電子マネーが加わったのだが、本質的な進化をしているのかどうかは微妙である。

たとえば、マクドナルド方式では、購入した整理番号で自動注文がされるので、客は表示版をみて出来上がったら「証明」として発行された食券と交換する。
これは、「駅そば」のチェーン店でも採用されている。

一方で、単純に「食券販売機」で購入した食券をもって係に渡すと、半券を証明として返してくれながら、そこでの発注となる「むかしながら」も残っている。
ただし、「自動券売機」がデジタル進化をしていて、豊富なメニューの整理が「機械的」なために融通がきかなく面倒くさいのである。

こうした方式の開発に、経営陣がどれほどの興味と利用者の便利さ提供へのこだわりがあるのか?が、見え隠れする。
逆に、自社の管理優先という思想も見え隠れするのである。

白木屋は「回転率が上がった」つまり、売上が数倍になったという効果を実感したろうが、いまの企業は、新規券売機の導入でいかほどの効果を実感しているのか?と問いたくなる。

それは、「売上だけ」をみているのではないか?という疑問につながる。

なぜならば、上に書いたように、「融通がきかなく面倒くさい」と感じたら、もうそのチェーンには寄りつかなくなるという客側の心理を把握していないだろうという疑念なのである。

すると、100年前の白木屋に劣ることを、現代の経営者はなんの疑念もなくおこなっていることとなって、その愚かさに呆れるのだけれども、自分の愚かさに気づかないことの愚かさに、まったくもってサービス業経営としの資質のなさを指摘せざるをえないのである。

この意味で、「工業化に成功した」というマクドナルドの開発方針にブレがない。

とはいえ、わたしがマクドナルドを利用するのは、「コーヒーだけ」であって、「工業的」な食品類は口にしないことにしている。

権威の自爆

「権威」とはなにか?を辞書で調べると、「第一人者」という意味と、「威厳としてひとをおさえ従わせる威力」という二つの意味が重なっていることがわかる。

むかし「平」のサラリーマンをやっていたとき、業務上のことで別の部署の上司に質問しに行かされて、直属の上司に「あの部長がこう言っていました」と報告したら、「馬鹿野郎!」と返されたことがあった。

誰が言っているからが理由だということをききに行けと命じた覚えはない。
どんな理由でそれが慣習化しているのか?ということを聞いてこいと命じたのだ、といわれて、もう一度同じ人物のもとへ行って質問したことがある。

すると、おおいに説明が困難で、慣習ではなく因習であることがわかって、結果として業務改善につながったということがあった。

以来、誰が言っているからという回答を、わたしも許さない上司になった。

あるとき、わたしが言っているから、という理由で役員会まで深い理由を問わない状況にあることに気づいた。
なんと、わたしが「権威」になっていたのである。

このことが、この会社を退社することにした理由のひとつになったのである。

これには、役員(取締役)になるような人物たちが、わたし程度の権威に従うことのヤバさという意味があるし、かつてわたしが怒鳴られた「正論」が、まったく企業文化になっていない特別な経験だったことに驚いたのである。

権威の反対語は「無権利」だと辞書にあるが、他人になんの影響力も与えないという意味であって、それは「浅はか」だという集団内での共通認識にもなる。

そんな無権利な連中が役員をやっている会社に用はない、と断じたのであった。

しかし、一方で、わたしは「権威あるまま」で退社したようなので、もう20年も経つのに、わたしの権威にすがりたいとおもうひとが残っているらしいのが、なんだか面はゆいのである。

ときに、そんな「権威」が、自爆する時代になっている。

たとえば、「ピューリッツァー賞」という、だれもがしっている世界的大権威に、トランプ氏個人が名誉毀損で訴えていて、この訴えを棄却するように反論していた「賞」の側が敗訴していたことがわかった。

つまり、裁判所は、トランプ氏の訴えに聴く耳があると判断した「だけ」なのであるけれど、報道者の権威だけではない存在の側が、個人の名誉を押しつぶそうとしたことに、一種の暴力すら感じとることができるものであった。

内容は、「ロシア疑惑」を報じた社が、ピューリッツァー賞に輝いたことの、「取り消し」を求めるものである。
なぜならば、民主党ヒラリー陣営が捏造した嘘物語がロシア疑惑であったと、すでに判明しているからである。

ようは、嘘を書いてピューリッツァー賞を得たのはおかしいから、「権威ある賞」として訂正と取り消しをする当然がある、という被害者個人からの訴えをなかったことにしようとしたのである。

じつは、ピューリッツァー賞の審査は、かつての新聞王ピューリッツァー氏の遺言によって、「コロンビア大学」が受託している。
ハーバード大学だけでなく、アメリカの主だった大学が「(極)左傾化」していて、総じて「親民主党(グローバル全体主義)=反トランプ」をむき出しにしている実態がある。

つまり、トランプ氏個人の訴えを無視しろとしたのは、コロンビア大学なのである。

この結果、ピューリッツァー賞だけでなく、コロンビア大学の権威も失墜している。
しかし、その原因こそ、「身から出た錆」にほかならない。

サービス業に従事する者なら特にだが、いったん失われた信用を取り返すのは至難の業であることをしっている。
「賞」というモノやコトも、サービスのひとつだから、いったん社会が疑いの目を抱くようになると、「最高権威」ほどキズが付くものだ。

キリスト教などの「契約宗教」による社会は、たいがいその契約には「死まで」という期限があるのは、結婚式における「誓いの言葉」にあることでもわかる。
しかして、遺言の厳密なる履行とは、「法治」の基盤によるものだ。
けれども、その「法」も、本来ならば神との契約に基づく構造にある。

コロンビア大学は、ピューリッツァー氏の遺言の履行すら裏切っているといえるから、これはまさにキリスト教の希薄化どころか社会基盤の喪失をあらわしているといえる。

なるほど、共産主義が宗教を敵視するように、これに染まった大学も、その権威の基盤を自ら放棄した結果がこれだとしれるのである。

ことの深刻さは、裁判どころの問題ではないのである。

横浜の企業博物館

行政の「横浜市」は、いまでも「国際都市」という枕詞をつけているけれども、市内でみかけるおおくの外国人に居住資格はあるのか?という疑問の方が先に立つ「国際化」になったので、北関東の地方都市と似たような状況にあるのではないか?と危惧している。

「横浜開港」がされたのは、1859年のことであったから、ことしは166年だという程度の浅い歴史しかない。
けれども、輸出入規模で「世界一の港」だった時代は長くあったことも事実である。

6月2日は、横浜開港記念日として、「市立」の学校は高校まで「休校」となる。
ことしは、10年ぶりに開港祭りが31日から2日までの三日間開催となるようだが、民間パワーの衰退で、むかしのような華やかさに欠けるようになった。

港ができたので、「貿易商」が、横浜に店を構え、発展して大企業化したのちも「本社」を横浜に置くことが多数あったが、「名市長」ならぬじつは「迷市長」だった、飛鳥田一雄時代に、法人地方税の増税をやって、こぞって東京に本社移転させることをやった。

ときの都知事は、美濃部亮吉で、「革新」の仲間だったから、わざとだろう。

こうして、横浜は「産業空洞化」して、東京は「一極集中」となったいまの原点がある。
これをマクロ的に「効率化」の面で評価することもあるし、横浜「衰退」の面で失敗とすることもある。

なんにせよ、横浜駅の脇から、桜木町駅にかけての広大な面積に、「三菱重工横浜造船所」があって、国鉄京浜東北・根岸線と東急東横線の高架線路で一般市街地と造船所がみごとに仕切られていた。

なので地上からはよく見えず、電車に乗ったら、どんな船が造られているのか?を観るのが楽しみだった。

それが、「みなとみらい」なる、陳腐なネーミングの再開発地域となって、横浜市都市計画局が計画したら、いまのような陳腐なビル群ができた。
はたして、港湾局が主体なら、もっと「マシ」な開発をしただろうと地団駄を踏むのは、映画にもなった「ハマのドン」である。

横浜駅から徒歩でもわけはないが、みなとみらい線「新高島」駅の横にあるのが、「京浜急行電鉄本社」にある「京急ミュージアム」である。
この先、桜木町方面にすこし歩いた先には、「村田製作所」の子供向け体験施設「Mulabo! 」がある。

なお、「旧横浜村」があった砂州の上にある、海岸通りに日本郵船の「歴史博物館」があったが、改修工事で2027年春の再開を目指していて「休館中」だ。
企業博物館の中でも規模と内容では一級なのだが、再開を待つしかない。

そんなわけで、「京急ミュージアム」と「Mulabo! 」を訪ねた。

京急ミュージアムは、事前予約が必要なシミュレータ操作を無視すれば、プラッと無料で入館できる。
名車と呼ばれた「デハ230型」の実物復元車両には、京急の歴史がわかる展示品があって、そのなかに昭和15年『京濱・湘南電鐵沿線案内図』がある。

「注意」として興味深い文章があったので下にしるす。

「三浦半島は要塞地帯に付許可なく水陸の形状を測量・撮影・模寫・録取することは禁じられてをります犯したる者は法律によりて處罰せられます『護れ要塞 防げよスパイ』」

なお、地図には、稲村ヶ崎の西側から大仏円覚寺・建長寺をとおって、屏風ヶ浦と杉田の間を、「要塞地帯區域線」が太く表示されている。

調べてみたら、「要塞地帯法」(明治32年法律第105号)がでてきた。

戦後に効力を失ったらしいが、『防げよスパイ』の一文が、妙に今様なのである。

「Mulabo! 」は、子供向けとあるけれど、併設するカフェがこの周辺では秀逸なのである。
むろん、ご近所の「資生堂パーラー」を意識してのことである。
それに、展示がどれも「電気・電子」の解説なので、なるほどという想いが高まる。

カフェが秀逸なのは、第一に、カフェの機材が素晴らしいのである。
こんな機材を使ったカフェを民間でやるのか?とおもうほどの、「高級機」ばかり、しかも「最新」なのが、「さすが!」なのである。

第二に、壁際に子供向け理系の図書が並んでいて、閲覧自由なことである。
おとな向けもチラホラあるので、このカフェはリピートしたくなる。
いくつかの本を、市立図書館の蔵書検索したらあったので、別途貸出を受けたい。
展示エリアの受付嬢も、安くて空いていますと奨めてくれた。

メーカーは、お客の顔が見えない商売であるけれど、鉄道会社も個々の客はみていない。
「流体」としてみているのである。
だから、こうした施設が企業戦略上、じつは最重要な位置づけになるものだ。

直接的な利益ではなく、なかなかカネでは買えない「信頼」を得ることができるからである。

こうした施設を巡ると、企業(経営者)の性格も見えてくるのである。

文系で米国大学留学は危険かも

アメリカの大学と聞けば、なにやら「優秀にちがいない」という、「校名ブランド」が擦り込まれている。
これは、英国でもおなじで、「オックスフォード」と「ケンブリッジ」の二大校名が、世界に君臨しているようにみえる。

トランプ政権2.0が、ハーバード大学だけでなく全米の大学に留学生の実態調査を依頼したが、頑固に拒絶の姿勢をみせたために、政権との対立が決定的になった。
これを、マスコミが「政治介入による大学自治への挑戦」と書きたてているが、ほんとうか?

日本で報じられない事情を、「カナダ人ニュース」さんが詳しく報告している。

世界見目を向ければ、たとえば東京都知事が関係している、「カイロ大学」は、エジプトを代表する国立大学だが、首都カイロには、「アズハル大学」という日本では聞きなれない学校が、アラブ世界で「最高峰」と呼ばれることをしっている日本人は少ない。

とくに、「イスラム法学部」の卒業生の権威は高く、イスラム裁判所の裁判官の資格を得る。
イスラム社会では、西洋社会の「簡易裁判所」+「家庭裁判所」+「地方裁判所」をあわせたような機能が、「イスラム裁判所」にはあるのだ。

そもそも、教育機関はそれぞれの国の歴史を背景に存在している。

日本には、江戸期まで西洋でいう「大学」は存在しなかったし、必要性もなかったのである。
これは、支配階級とされる、「武士」の教育には、幕府なら林家が担当したし、各藩にはそれぞれの学派が「藩校」での教授職を歴代にわたって担当していた。

政治力はないとはいえ、「公家」には、家長が子弟を教育しる風習が残っていたし、庶民は庶民で、「読み・書き・算盤」を習っていた。
庶民でも『論語』を読み、その一節を書いていたし、いまも残る商家の「帳簿」をみれば、その見事な筆遣いに現代人は「書けない」と驚嘆するにちがいない。

ワープロが普及する80年代以前なら、どの役所も企業も、公文書や社内文書は万年筆と消えることがない顔料インクで手書きしていたけれども、その達筆さもいまでは再現できないだろう。

文盲率は、反日家がいうほど低くはなく、逆に、同時代の西洋社会と比較したら、断然高い教育水準に、西洋人たちは驚いたのである。

日本人が黒船に驚いたのは、「蒸気機関」のことだったし、鉄砲伝来以来あまり進歩がなかった重火器の威力だったのである。
さらに、蘭学からはいった西洋医学が得意とする特に外科にも驚いた。
それで、漢方薬からの脱却も含めて、「麻薬」の効用が注目されることになる。

西洋でこうしたことが発展した背景に、産業革命があったことはいうまでもない。

西洋の植民地主義=帝国主義の魔の手から防衛するには、「殖産興業」と「富国強兵」はセットとなった。
しかして、これらが即座に広がった背景に、江戸期までの高い教育水準という「素地」があったからなのである。

そんなわけで、江戸期までの主流だった「儒学の内の朱子学」が一気に廃れ、「実学=西洋式技術の習得」一辺倒となった。
しかし、教育とはそれを受けた人間に注入されるので、江戸期から半世紀くらいまでは、「儒学」と「実学」が共存する時代になって、だんだんと「実学」だけの時代に塗り変わる。

この意味で、約半世紀後の「大正デモクラシー」というのは、実学の優性がはっきりした時代背景をもっている。

さてそれで、留学して外国からなにを学ぶのか?

日本は昭和の末期に、「実学」の分野で世界最高頂に達したからだ。
つまり、研究資金が豊富な「実学=科学」分野なら仕方がないが、「文系分野」で西洋に学ぶべきことがあるのか?という疑問がある。

しかも、いまやアメリカの有名校は、ぜんぶ「共産主義」を教える始末なのである。

それが、いまの「ハーバード大学対トランプ政権2.0」いう形に集約されている。
じっさいに、ハーバード大学などの有名校はぜんぶが「私学」だし、バイデン政権時代の「奨学金(学生ローン)帳消し策」が、人気だったのは、そのバカ高い授業料に原因があった。

いま、ハーバード大学を卒業するのに必要な金額は、およそ7000万円程度にまでなっている。
日本人でも、よほどの裕福な家庭でないと、子女を留学させられないのは、これプラス生活費がかかるからである。

なお、アメリカの留学ビザには、就業許可が付与されていないし、日本のように「アルバイト三昧」で卒業できるような甘さはない。

政府が大学(経営)に介入することが批判の対象になるのは、トランプ政権だからで、オバマやバイデンのときの「授業料補助金」という介入で、学校当局が爆上げして政府補助金をそっくり懐に入れたことの批判を一切しない。

もちろん、トランプ政権2.0は、連邦教育省の廃止を公約にしているから、学生にとってよりも、大学経営者にとって「恐ろしい時代」なのは理解できるが、それは、「身から出た錆」そのものなのである。

そんなわけで、理系ならまだしも、文系で留学する価値は、えらく高い「卒業」のキャリアを買うことと、左翼思想に染まった同窓仲間との人的関係を買うことの二つとなる。
これらが生きるのは、やっぱり「外資」なのではあるが、投資資金が大きすぎるのである。

英語の本を自動翻訳で読む

日本語の本だけで世界の知識をカバーできる、といったのは、晩年の岩里政男(通名:李登輝)氏であった。

たしかに、日本人の学者が、「翻訳家」としての顔をもっていただけでなく、経済成長期には出版社も挑戦的な企画を通したので、外国の有名どころはジャンルに関係なく何でもかんでも「翻訳出版」されて、はやければ数ヶ月後には店頭に並ぶことも珍しくなかった。

原書を英語で読む必要性の希薄さがあったけれども、このことの社会貢献ははかりしれない。
当時の日本人は、世界一の読書家の国ともいわれ、またこのことを自慢していたのである。
もちろん、これには「識字率の高さ」という分野での、世界一もあった。

しかし、30年もの衰退期にある昨今、出版不況という言葉が消えるほどの絶滅危惧産業化し、街から書店が消えるばかりか、読書の習慣までが消えそうになっている。
なので、この衰退は「アマゾン」の書籍通販のせい、ばかりとはいえない。

そもそも、「活字離れ」は、もう40年もまえの70年代後半あたりからいわれていた。
つまり、いま60代以上の世代が、若いときから本を読まないことに慣れていたのである。
いまでは、本を読まないように誘導されていて、愚民化が著しいのである。

さて、いま、ウクライナに関する解説本として話題になっているのが、Benjamin Abelow『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』である。
しかもなんとこの本は、上のリンクから「無料」でPDFとしてダウンロードできるのである。

対応言語は、英語、オランダ語、フランス語、の三つである。

さっそく読もうにも、問題は、「英語」をどうするのか?にある。
ipadだと簡単に自動翻訳して読むことができる。
なお、ipadユーザーなら、むかしからの方法なので新味はないだろう。
おおかたは「Kindle」本からの応用だ。

本書のようにPDFが「原本」の場合は、さいしょに文字認識できるようにするため「OCR」にかけるひつようがある。

ここでよく使うのが、無料で提供されている「Adobe Scan」だ。
ただし、無料版だと一回の操作では25枚までなので、これをこえるときには、何度か操作を繰り返すひつようがある。

わたしは、無料版を使い過ぎたからか?突然、一回3ページまでという制限が強化されてしまい、実用に耐えられなくなったので、どうせ費用がかかるならと、評価が高い「vFlat Scan」の有料契約をしている。

どちらも、基本的なやり方はおなじである。
もちろん、OCR処理した後は、上のリンクとは別に、「Deepl」や「Google翻訳」などを使う手もある。

さて、『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』が、日本人にとってヤバイのは、あたかも「日清・日露戦争」とおなじパターンが見いだせることにある。

このところYouTuberとしてアクセスが増えてきた、「伝統保守チャンネル-最期は笑って」さんの体験談回『日本共産党を抜け出して参政党支持に変わった理由とは?自虐史観を抜け出した経緯についてお話しします!』のなかでも語っている。

ようは、「戦争屋」が、むかしからいて、これらのものたちが戦争を商売にしているのである。
だから、国同士の闘いに見えて、じつはその裏では、利益があがって笑いが止まらない者たちがいることに気づくことが重要となる。

この意味で、「戦争屋」の出現は、産業革命による近代工業化の人類史に与えた「負の遺産」であり、その「相続人」たちがいまだに跋扈しているのである。

そして、そんな戦争屋たちを隠すために、もっとらしい正義をかざす宣伝=プロパガンダが実行されるのもパターンなのである。
あのロシア革命でさえ、いまではこれらの戦争屋たちが資金提供して、西側と対立させることがイコール、両陣営に武器売る、ことの仕掛けだったことがわかっている。

そのやり方のなかには、相手を感情的に憎むように仕向ける「感情操作」もセットで実施される。
ジョージ・オーウェルが、「二分間憎悪」と呼んだものだが、現代日本では、「ワイドショー」における感情操作として応用されている。

これで、まんまと大衆は人格的な正義感の発露としての行動をコントロールされているのである。

「日清・日露」から、先の大戦に至るまで、この視点からしたら、まったくおなじパターンでわが国は戦争へ誘導されたことがわかる。
いまは、ロシアがそのパターンで追い詰められたが、仕掛けた側が困惑するほどにロシアが有利な展開になってしまい、どうにもならない状態になったのである。

その流れを、とうとう英語、オランダ語、フランス語での解説を読めるようになったのは、日本人からみても「ざまぁ」なのである。

しかして、このパターンをしっている日本人の方が少数派だから、笑ってもいられないのが現実なのである。
なので、『HOW THE WEST BROUGHT WAR TO UKRAINE』は、しっかり読んでおきたい貴重な情報なのである。

悪政競争

善・悪の定義について、日本人は儒学からの影響を強く受けてきた。

そのエッセンスのひとつである、「経世済民」(世をおさめ、民をすくう)というかんがえが貨幣の流通が浸透した江戸期に流行って、それから「経済」になったのである。

このベースに、幕府が推奨する「朱子学」があった。

もちろん、幕藩体制の維持に都合がよいことに推奨の第一の理由はあったろうが、上からの影響を庶民が無視できるはずもなく、日本社会の「道徳」としての素地ができたことはまちがいない。

それで、幕末や明治のはじめに来日した欧米人を驚嘆させる、「文明人としての日本人」がおおくのエピソードとともに紹介されたのである。
イザベラ・バード『日本紀行』や、シュリーマン『旅行記 清国・日本』が有名どころである。

こうした日本礼賛本を、学校教育では習わないので、戦後のおおくの日本人はしらないままに成人し、物故している。

なぜに教えないのかといえば、GHQが定めたWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)が、相変わらず効いているからである。
つまり、日本人は日本政府による反日教育にサラされている。

文化大革命の嵐では、すさまじい「孔子批判」が巻き起こった。

それで、儒学をふくむ伝統文化破壊こそがただしい革命的態度ということになって、いまでも少しは「漢詩」を暗記させられる日本の高校生とはちがって、ぜんぜん読めないことになったのである。

もちろん、物的な歴史遺物も破壊の対象になった。
このなかに、「漢字」もあって、「簡略字」が記号となって久しいので、台湾で採用され続けている「旧漢字=繁体」をみてもわからないようになっている。

逆に、韓国では「漢字廃止」をやって文体のぜんぶをハングル表記にしたので、漢語由来の同音異義語の区別がつかず、漢字を残している「北」と、論理的な思考での応酬に太刀打ちできないようになった。

こうして、むかしは「善政競争」を促しながらも、それでも最後には滅亡することを繰り返してきたが、いまでは「悪政競争」をもって選挙で勝とうとする倒錯が蔓延している。

むかし、カレル・ヴァン・ウォルフレン著『民は愚かに保て』という本があったけれど、これはなにもわが国のことだけを指すのではなくて、西側社会全体にいえる「論」になったことが注目される。

すると、「愚民化」政策という悪政が、いまや世界共通のスタンダードに見えるのは、前に書いたように『共産党宣言』にある政策を忠実に実行した成果だといえるのである。
つまり、ここから抜け出すには、共産主義からの離脱がひつようであるから、「毒抜き」としての『裸の共産主義者』ぐらいは読んでおこう!ということの主張に変化はない。

19日、参議院東京選挙区から、参政党公認でシンガー&キャスターの「さや」氏が立候補表明したときに、彼女が口にした「政治に無関心でいられても、無関係ではいられない」は、悪政競争からの離脱宣言であった。

けれども、悪政競争をうながすメディアは、無視を決め込むのである。

これはこれで、世界潮流なのではあるが、19日、アメリカではトランプ氏が200億ドルの損害賠償と、放送免許剥奪を訴えていた、CBSテレビのCEOが辞任したことを、20日付けブルームバーグが伝えている。

トランプ氏の訴えは、昨年の大統領選挙期間中に同局が放送した『60Minutes』に出演したカマラ・ハリス候補へのインタビュー内容が、「捏造=選挙介入した」というもので、放送免許剥奪ともなれば親会社=株主の利益が失われるとした、パラマウント・グローバルからの圧力だという。

この件では、すでに4月22日に同番組担当のエグゼクティブ・プロデューサーが辞任しているが、「捏造の証拠」がハッキリしたために、経営陣へ責任問題が波及したのであろう。

なんにせよ、アメリカ人の内共和党支持者は、テレビ報道を信じないと答える者が9割というありさまで、すでにテレビの報道番組は「エンタメ以下」の位置付けにある。
なので、まともな人物は、コメンテーターとして発言することもキャリア上の「リスク」になっているから、出演拒否することが「一流の証」になっている。

日本では、研究費というカネに目がくらんだ「一流大学」の教授職の肩書きをもつ人物たちが、クズな解説を垂れ流しても責任問題にすらならないのは、高校生が志望大学をきめる根拠が「偏差値」だけになって、どんな学問を誰から学びたいとかんがえるのか?が完全欠如しているための「安全地帯」が形成されているからである。

しかし、時差はあっても確実に、アメリカの影響を受けるのが日本という環境なので、これら教授たちの末路もまた、将来の楽しみ(=エンタメ)になっている。