人間は100Wで生きている

「おしくらまんじゅう」は、「押し競饅頭」と書く。
子どものころ、寒い冬場に、校庭にでてクラスのみんなとやった経験は、だれにでもあるだろう。
しばらくすると、うそみたいに身体が温かくなったものだ。

どうして「温かくなる」のか?
意図的に満員電車状態になって、さらに、からだを誰かにこすりつける「運動」をするからだ。
じぶんの「運動」とだれかの「運動」がかさなることと、こすりつける「摩擦」の二つの要因によって「発熱」する。

こすりつける「摩擦」だけで「発熱」するのは、身近なものでは「電子レンジ」に代表される。
この機械は、マイクロ波という「電磁波」を発して、食品にふくまれる「水分子」を振動させて、分子どうしの「摩擦」で急速に温度をあげるしくみになっている。

このときの「振動」は、一秒間に24.5億回もの回数になる。
なので、その回数分、水の分子はこすられて「発熱」するから、あっという間に調理ができるのである。

ならば、人間の「熱量」とはどうなっているのか?
男女の差、年齢の差、体重の差など、いろんな条件によってちがう。
基礎代謝のカロリー数を、仕事量の単位「ジュール」に変換すると、「ワット/秒」が算出できる。

一日の必要カロリー数として、よくいわれる「中肉」の「成人男性」だと、2400Kcalになる。
1ジュールは、0.239カロリーで換算できるので、
2400Kcal÷0.239=10041KJになる。

1ジュールは、1KW/秒だから、
10041KJ÷24h÷60m÷60s=0.1162KW
Kをとるために1000倍すれば、116W。
なんと、むかしなつかしい100Wの白熱電灯とほとんどおなじなのだ。

すると、子どもだからといっても、人数があつまって「おしくらまんじゅう」をすれば、それなりのワット数になる。
それなら温かくなるわけだ。
天候によっては、集団から湯気があがるのがみえるのは、かなりおおきな電気ストーブが中心にあるのとおなじだからである。

ダイエットのためにカロリー・コントロールをするのは、さいきんは正しくないといわれている。
人間がいのちをつなぐために必要なのは、カロリー数だけで計算できず、栄養バランスがないと不健康になってしまうからだ。

しかし、それを前提にカロリー数=出力としての「ワット数」をかんがえると、人間はかなり効率がいいことがわかる。
将来、人間型のロボットが生活必需品になって、面倒なことをやってもらうことになるとして、いったいこうしたロボットをうごかすのに、どのくらいの動力がひつようなのか?

100W以下でなければ、かえってエネルギー損失になる。

このようにかんがえると、SF小説でいうロボット社会というのは、はたして実現可能性があるものか?おおいに疑問である。

むしろ、エネルギー消費効率が人間よりはるかに悪い=コストがかかる、ことを承知で、ロボットをつかうことになるから、ロボット運用以外の分野における「効率性」をたかめないと、経営がなりたたない計算になる。

けれども、人間のエネルギー源は「食糧」だから、食べ物がないと生きていけない。
つまり、食料確保こそが、根本的な命題なのだ。
そして、かならず「排泄」しなければならないので、この「処理」をおこたれば、たちまちにして不衛生な環境になり、やはり生きていけない。

これが、文明システムの基本中の基本である。

さて、さきほどの計算で、一日の必要カロリー数からえた仕事量は、10041KJだった。
つまり、一日1000万ジュールほどになる。
すると、年間では、1000万ジュール×365日=365000万ジュールだ。(36億5千万ジュール)。

ざっくりだが、子ども時代があるから、平均寿命の人生85年ではなく、割り引いて70年とすると、36億5千万ジュール×70年=25550千万ジュール(2555億ジュール)となる。

比較対象が不適切の誹りを免れないかもしれないが、広島型原爆は55兆ジュールと計算されている。
550000÷2555=215人
たった2百人あまりのひとの一生で、あの爆発に匹敵する。

これは、おどろきである。
人間が食べる「だけ」でこれほどのエネルギーをつかうのだ。
生活におけるエネルギーは、これにくわえなければならない。

「持続可能社会」といういいかたに違和感をおぼえるのは、なんだか「安易」な感じがするのは、このことだ。

はたして、食べ物をえることだけでも、当たり前のように「持続」できるものなのか?
そうかんがえると、江戸時代に鎖国できたのは「食料自給率」が100%であったからだった。

けっきょく、わが国は貿易によって利益をえないと「食べていけない」し、そのためには、関係する地域が「平和」でないといけない。

戦後、このことをわが国の保護国であるアメリカが担ってきたが、息切れをはじめている。
「生存」のために、どうすべきかがいよいよ問われる時代になったものを、「持続可能社会」とは脳天気すぎないか?

あっとおどろく「地殻変動」がはじまっている。

英語キーボード

前に、モバイルPCの不満を書いた。
このなかでも触れたが、入力機器として不可欠の「キーボード」についても書いた。

どうして「英語キーボード」というのか?
これは、日本人が「日本語キーボード」を開発したからだ。
世界にはたくさんの言語があるから、それぞれの言語におうじたキーボードがつくられている。

だから、いきなりヨーロッパのホテルで、たとえばロビーに設置してある自由につかえるパソコンだって、国によって日本人客がとまどうのは、キーボードがその国の言語設定をしていると、なんだかわからない文字を入力させられて、ぜんぜんつかえないことになるのである。

日本の図書館の蔵書検索も、「かな入力」がデフォルト設定されていると、「ローマ字入力」ができないからとまどうことがあった。
まことに「パーソナル・コンピューター」とはよくいったもので、自分用のパソコンだから、じぶん以外の多数で共用するとなると、いちいち面倒なことになる。

「音声入力」がずいぶんつかえるようになってはきているが、あいかわらずの「主流」は、いまだにキーボードからの入力である。
思考のスピードと合致するからであろう。

キーボードといえばタイプライターの時代から、「英語入力」に適したものを指すのが、本来なのである。

ところが、タイプライターでは絶体にできない、ローマ字入力しても「日本語変換」ができるというのが「コンピューター」といわれる「電子計算機」の特徴で、これが、一般事務機としての普及の最大要因になった。

どうしたら日本語を楽に入力できるのか?

さまざまな方式がかんがえられた。
いまや博物館の展示品になっている「和文タイプライター」は、公式文書作成に必須だったけど、盤面にひろがる漢字を一字一字選択するために、訓練と技術を要したものだった。

それで、「ワープロ」という日本語文字入力に特化したコンピューターが、「パソコン」という「多機能機」よりも人気があった時代があった。

なぜかといえば、「パソコン」は「ソフトウエア」をインストールしないといけないという「手間」があったし、初期のころはまともなソフトと未完のソフトが入り乱れて販売されていて、「定番」すら形成されていなかったのである。

もちろん、ワープロも、メーカーごとに「規格が違う」ため、保存したデータの汎用性までなかった。
むしろ、ユーザとしては、メーカーごとにあった「入力方式」を買っていたのだ。

そこで登場したのが、「親指シフト」方式で、これに「ひらがな入力」と「ローマ字入力」というほぼ三種類の入力方式による「専用機」がつくられたのだが、「ひらがな入力」と「ローマ字入力」は、「切替」によってできる工夫でおなじキーボーでもつかえることになった。

ことにローマ字入力が批判されたのは、キーを押す回数の不利、であった。
これだけをとらえれば、圧倒的なのは「親指シフト」方式であるし、つづいて「ひらがな入力」も有利だ。

根強い「親指シフト」派はいまでも存在するけれど、ワープロが衰退してパソコン全盛の時代になれば、メーカー独自の「親指シフト」は同時に衰退してしまった。

それで、本来「ひらがな入力」のために開発された「日本語キーボード」が、ローマ字入力「も」できたから、いつのまにかスタンダードになってしまった。

しかも、「日本語」と「英語」という「枕詞」が区別のための「記号」になったから、あたかも「日本語キーボード」でないと日本語入力ができない、とか、「英語」は苦手だし英語なんて関係ない、という感情が機能の本質を無視して普及したとかんがえられる。

けっきょく、ローマ字入力が主流な方式になったのにもかかわらず、それにもっとも適した「英語キーボード」ではなく、あいかわらず「日本語キーボード」が「標準」になっている理由はなぜだろう?

ここにも、社会の「慣性」があるのだろう。

なんとなく、キーボードといえば「日本語キーボード」に決まっているという決めつけは、「思い込み」でしかないし、パワーユーザーたちが「英語キーボード」の有利さ、便利さを強調して発信しても、どういうわけか「響かない」のである。

つまり、普及しない。

ここに、強固な「壁」をかんじるのは、まさに「社会の壁」なのである。

ネットでしらべれば、英語キーボードと日本語キーボードのちがいがいくらでも解説されている。
もっとも重要なポイントは、左右の「まん中」が、日本語キーボードは「ズレ」ていることだ。

それに、最も押下頻度がおおい「エンターキー」が、日本語キーボードは二段をつかって大きく見えるが、じつは右手の小指で簡単にはとどかない位置にある。
英語キーボードは一段しかないが、横に長く押しやすい位置にある。

この二点が、圧倒的に英語キーボードの有利さなのだ。

かくいうわたしも、英語キーボードの有利さに気づかないでいた。
使ってみれば、「わかる」のであるが、パソコンのキーボード設定を変えることと、カッコや¥マーク、@など、若干のキーの場所がことなるので「慣れ」がいる。

さいきんでは高級万年筆の人気が復活しているというが、「書く」ということなら、キーボードへのこだわりも重要だ。

いちどつかい慣れたら、もう手放せないキーボードだって存在している。

パソコンをもって外出するときに、コンパクトな英語キーボードも欠かせないのは、重量をこえた便利さ使いやすさがそうさせるのである。

高級でコンパクトなキーボードで有名なメーカーから、先週、数年ぶりの「新製品」が発売された。
欲しい、のは「マニア」だけではあるまい。
しかし、いまどきならPC本体が買える値段ではある。

ドイツ国鉄のつぶやき返し

リスクを避けることが最上位の判断基準になりさがったわが国では、かんがえられないことは、利用者が発したメッセージに「反論」するようなことである。

これは、「役所」や「公共的」なサービスにおける「鉄則」にもなっていて、とにかく「問題がないこと」を最優先させるから、なにかするときも「問題がないこと」を前提とし、おわったあとにも「問題がないこと」とする。

この「臆病」ともとれるような価値観はどこからやってきたのか?

そして、「臆病」ゆえに、過剰な方法をもってじぶんたちに「問題がないこと」をとにかく主張する。
だから、利用客にとってはそれが「うざったい」こともあるが、利用者を「最大公約数」として無視することすら「問題がないこと」になるのだ。

たとえば、さいきんの首都圏のJR駅における放送で、弱者保護に対する健常者からのヘルプを要請するものがある。
いちいち目くじらをたてるのはいかがかという意見もあろうが、この「上から目線」はなんなのか?

駅構内であれば、まっさきにヘルプを業務とするのは「駅員」の方である。
すべての改札口に、係員がいるのはなんのためか?
いったい、どういう人員配置をしているのか、駅長にきいてみたい。

駅員の業務をいわずに、健常者の客に「義務のごとく」すりこむ放送をくり返すのは、いったいなにを意図しているのか?
弱者保護が面倒だといいたいのではない、主客が逆だといいたいのだ。

そんなわけで、わが国の現状では「ありえない」ことをドイツ国鉄がしでかした。

あの「環境少女グレタさん」が、国際環境会議からの帰路、ドイツ国鉄の混雑にうんざりしたというツイートを書いたものに、予約した一等席での「おもてなしに不満なのか?」とツイートで返したのである。

しかも、列車の床に座りこんでいる写真まで彼女のツイートには掲載されているけれど、この写真はだれが撮影したものか?
彼女の横には、おどろくほどたくさんの荷物が写っている。

鉄道が「エコロジー」なのか「エコノミー」なのか?ということは、こないだ「新幹線」を題材に書いた。
走行中だけ、電気をつかうから余計な排出ガスはないけれど、その電気をどうやって発電したかは問題にならないし、線路を敷設するための資源はどうなっているのか?も問われない。

まことに「環境」をかんがえることは、やっかいで、手間がかかることだが、彼女の議論にはこれがない。

残念なことに、彼女の背景にどんなひとたちがいるのかもだんだん見えてきた。
さいしょに彼女が国際舞台に登場したのは、アル・ゴア副大統領との会談だった。

かれは環境問題で、2007年にノーベル平和賞を受賞しているけれど、主著『不都合な真実』を書いていながら、自宅における電気代が月間30万円ともいう贅を尽くした不都合な生活をしていることで批判されたことでもしられる。

国際的な環境保護組織も、彼女の活動をささえていることでしられはじめた。
ある評論家は、これは、沖縄における基地問題にも関与する組織であると発言している。

そういえば、世界最大の温暖化ガス排出国である大陸の国になると、彼女の舌鋒はがぜん鋭さをゆるめるどころか、発言は皆無になる。
それは、背景の組織が「党」と関係があるからだという指摘まである。

これはいったいどういうことなのか?

いまになって、急速に「離中」政策をとりだしたのは、「親中」べったりだったドイツである。
発電方法を一気に変更したら、変更前から数倍の電気代になった。
さいきん、とうとうドイツの経済成長はマイナスを記録している。

いわば、「環境疲れ」をしているのがドイツなのである。

彼女を援護するひとたちも、「一等車」への乗車には辟易しているようだ。
けれども、写真にあるようなすさまじい荷物があるなら、予約なしで「二等車」に乗られても迷惑だ。
そんなわけで、一等車に乗っているのに床に座りこんであたかも「たいへん」だという姑息な芝居が、予想外の反響をうんでしまったようだ。

ヨーロッパはあいかわらずの身分社会だから、じつは平民が一等車に乗ることがはばかれる習慣がある。
そんなことから、この少女が一等車に乗りながら「環境」をいうことが、アル・ゴア氏の生活とダブるのである。

しかし、ドイツ国鉄のつぶやき返しがなかったら、一等車だとわからなかったから、これに返した彼女のつぶやきはしどろもどろである。
みせたくないものをみられてしまった、というよりも、じぶんで墓穴を掘ってしまったのだ。

それでかはしらないが、突然、香港の市民支持をいいだして、すぐさま政府が反論している。
「やらせ」でないことを期待したいが、女の子を利用しようとするおとなたちがいることだけは確かなようだ。

日本では、もうこんな逸話もおきそうにない。

いつもよそいきの、気取った態度で、いつでもどこでも「いいこでいたい」。
それが、もっとも「無難」だからである。

でも、どこかで「お里がしれる」ものなのだ。

二つの産業と二つの資本主義

二つの産業とは、金融業と非金融業をいい、二つの資本主義とは、金融資本主義と産業資本主義をさす。
いま、この世は金融業による金融資本主義の世界と、非金融業による産業資本主義の世界が奇妙な共存をしている。
金融業による金融資本主義の世界を、むかしは「虚業」とよんでいたが、それができたのは非金融業による産業資本主義の「実業」の世界が「主流」だったからである。

だから、むかしは「企業家」のことを「実業家」とよんでいた。
はたして、いまは「企業家」のことを「虚業家」とはいえないから、そのまま「企業家」とよんでいる。

わが国の「経済専門家」の一部のひとは、「資本主義の終わりの始まり」とか、気のはやいひと、あるいは資本主義が嫌いなひとは、願望もこめて「資本主義の終焉」とかといいふらしている。
しかし、ヘトヘトになってしまったのは「産業資本主義」で、台頭しているのが「金融資本主義」なのだ。
「資本主義」は、ぜんぜん「終焉」などしていない。

さいしょの「ひと文字」から、さいごの「ひと文字」まで、ぜんぶまちがっているマルクスの主張を、いまだに信じて、歴史の発展過程は資本主義の次に社会主義がやってきて、それから理想的な共産主義になるというのは、「ナンセンス」をとおりこした妄想である。

ソ連や東欧圏の失敗のみならず、ただいま現在進行形の国家権力によるむき出しの「人権弾圧」は、一体どこの誰がやっていることかをしらないはずがない。

しかし、これらの「人権弾圧」をやっている国は、いまだに「共産主義」を標榜しているけど、歴史的に発展した資本主義を経験していない。
だから、「エセ」なのだ、というヘンテコな弁護すらある。
これがヘンテコなのは、「エセ」だから「人権弾圧」が許されるのだといって、見ない振りをするからである。
よくもこんな暴論をいえるものだ。

人間のこころを持ちあわせない「悪魔」にちがいない。

「資本主義」を国是にするはずのアメリカ合衆国で、金融資本主義が蔓延し、その反動から社会主義が台頭してきている。
アメリカの苦悩は、人口構成の激変という事情もある。
今後、数十年で、「白人が少数民族になる」のだ。
少子化の白人と、多産のエスニック等が、人口で逆転することが「確実」になっている。

わが国の人口推計には、移民が考慮されていない。
しかし、少子による人口減少スパイラルは、すでに発生していて、もはやだれにも止めることができない。
日本人女性の特殊出生率は、ほとんど「ひとり」になった。
うまれてくる子どもの半分しか女の子はいないので、成人してからの出産期を勘案すれば、30年から40年周期で子どもの数が半減するモードになっているのだ。

したがって、わが国も、将来のどこかの時点で、日本人が少数民族になること「確実」なのである。
この意味において、鳩山由紀夫元首相の「日本列島は日本人だけのものではない」というフレーズはただしい。
ただし、今現在の日本人に「多民族国家」になることの覚悟は、まったくない。
きれいごとではすまない事態が、もうすぐやってくるのである。

そんななかで、もうひとつ覚悟がぜんぜんできていないのは、「資本主義」が「産業資本主義」だけだと、いまだに思い込んでいることである。

「カジノ」すら、ただの「博打」とか「賭場」だという認識しかできていない。巨大なパチンコができるようなものだと、たかをくくっているのではないか?

確率論を駆使した、客の資産を巻き上げる「システム」とかんがえれば、立派な「金融資本」なのである。
資金を提供する「投資家」は、資金回収しか興味がないのだ。

しかしながら、パチンコすらとっくにリアルタイムで「利益」が把握できるシステムになっていることに興味がない経営者はたくさんいる。
もちろん、パチンコも、「貸し玉」と「出玉」の交換比率がちがうことから利益をえるので、じつは金融業的なのだ。

すでにあやしい金融商品を大量購入しているわが国の金融機関は、「破たん」の危機にある。
この手の金融商品は、いったい誰のお金で買ったのか?
貸し付けるなら、信用創造になるが、リスクをことごとく回避した。
金融機関が貸出をしない、できない、という愚策に誘導したのが金融庁と日銀である。

わが国の国民が昭和の時代に稼いで貯めたお金が、なんとそっくり外国の金融資本に吸い取られようとしている。
はたして「資本主義が悪い」といって済まされるものか?
産業資本主義から金融資本主義に移行したことに気づかなかったものを、世界はふつう「間抜け」というのだ。
あるいは「カモ」ともいう。

人類史上はじめての「マイナス金利」までやって、どうなるかをかんがえもしない態度は、真珠湾を攻撃しただけで「ハワイ占領後に王国復活」などかんがえもしなかったのとそっくりである。
アメリカのハワイ王国滅亡と簒奪の手段をしらないで、毎年の正月に遊びにいく脳天気が、まことに「間抜け」の象徴なのだ。

利ざやが稼げない巨大金融機関が、こぞって外国証券会社の高金利商品にじぶんから飛びついた。
これを「カモねぎ」というのだ。

カジノ誘致に税金を投入するのも「カモねぎ」だ。
相手がなにを目論んでいるのか、いっこうに理解できないのは「知能」の問題になっている。

わが国は、とっくに「銀行家」が絶滅したのである。
しかして、ここにこそ、逆転のチャンスがある。
諸悪の根源、金融庁と日銀を廃止するときこそ、活路がひらける。

新幹線は「エコ」ではない

「エコノミー」といえば、経済性があるという意味だ。
やっかいなのが「エコロジー」で、ほんらいは「生態系」のことだった。
紀州が生んだ大天才「南方熊楠」が考案し、そのまま「英語」になったともいう。

熊楠は、明治政府による「神社合祀」への反対運動がきっかけで、いわゆる「鎮守の森」の保護を訴えた。森の保護が海の保護につながると、さいしょに主張したひとだった。
和歌山県田辺市にある無人島「神島」の自然保護に尽力したのは有名で、いまでは立ち入り禁止の島を訪問した、植物学者でもあった昭和天皇の歌碑がある。

特定の人物の名前を御製歌にこめる、ということは、「お立場上」めったにないが、昭和天皇には「熊楠」をうたったものが二首もある。
この歌碑は、そのうちのひとつが刻まれているが、立ち入り禁止だから一般人の目に触れることはない。「神島保護」の成果を褒めたものだ。

とにかく、いまだにあらわれない「大天才」だから、なにをしてもすごいひとで、森羅万象につうじたといっても大袈裟ではない。
最後に、その意味が不明な「南方曼荼羅」を書いて、壮大な宇宙空間に思考がおよんだのであった。

 

しかして、熊楠は科学者であった。
ここが彼の一大特徴なのである。
科学と民俗学、はては、、、と続くから、なに学者といえない。
それで、「知の巨人」というしかないのだ。

日本が「貧しく」なったのは、経済でいうGDPが減ったからということもあるが、精神が貧しくなってしまったのが、もっとも痛い。
経済性をこえて「コスパ」という価値観を最重視しているうちに、経済が傷んでしまったのである。

そして、「エコ」が「エコノミー」のことか、「エコロジー」のことかの区別がつかなくなったから、なんだか「環境問題」への対応が、重要な価値観に変化してしまった。
つまり、「勘違い」である。

一国の社会全体が「勘違い」を起こしても、ふつうは他国との比較から修正が効くものであるが、他国の情報を操作すれば、修正しようということにならない。
つまり、「情報鎖国」が「勘違い」を醸成するのである。

けれども、ふつうは自国の「科学者」が、科学的なアプローチからの「常識」をもって警鐘をならす。
それが「科学者の良心」というものだが、研究費を文科省が独占的に配分するために、「良心」がお金に買われてしまった。

こうして、「御用学者」があらゆる分野でほとんどになったから、多数決で対抗できない。
逆らうと「学会」から追放されて、さらなる研究費が枯渇するようになっている。

文科省の役人は、「学会」を予算配分の道具にしているからである。
そして、文科省が認定した「学会」しか、「学会」と呼称させない。
「認定」するから、わずかでも学会にだって予算が配分されるのである。

役所の縦割りは、いつだって問題になるけれど、役人は学業で優秀だったから、ここ一番になると役所を横断する「関連会議」をつくる。
そうして、関係しそうな役所の役人がぜんぶあつまって、ずる賢い相談をするのである。

なにが「ずる賢い」のかといえば、じぶんの役所の利益になる相談だからだ。
つまり、あつまったすべての役所に利益があるように「調整」するのであって、国民向けの大義も名分もあとから適当にもっともらしくつけるのである。これを「作文」という。

いまや東京から大阪にいくのに、新幹線より飛行機のほうが運賃が安い。
新幹線の料金体系で、何千キロもの距離を移動しようとしたら、とてつもない金額になる。絶対的に、飛行機のほうが安いのだ。

どうしてこうなるのか?

「活動家」の女の子や、アメリカの下院議員のこれまたなぜか女性は、飛行機は「エコじゃない」といって、「乗らない」ばかりか「廃止」をうったえている。

ハイブリッド車や電気自動車が「エコ」だというのは、「走っているときだけ」をいう。
日本の役人も、太陽光発電が「エコ」だというが、これも「発電しているときだけ」をいっているから、物理原理にしたがって、システム全体で「破たん」したのである。

完成車検査で大目玉をくらった自動車会社は、その「太陽光発電」でつくった電気を電気自動車の充電につかうから、こんな「エコ」はないというけれど、いったいいくらの投資がひつようなのか?

10万キロも乗らないで「廃車」にしようものなら、その「ムダ」は、ただ消費者が負担するので、なんのことはない「売り逃げ」だ。
これを推進すると、経済が豊かになると役人はいうが、どんな計算をしているのだろう?計算式が間違っているにちがいない。

産業優先で、売った側が豊かになっても、買った側が貧乏になれば、結局国民の購買力が衰える。
どんどん無駄遣いをしましょう、とケインズ理論を国民に押しつけるのはまともではない。

全部でどうなっているのか?を俯瞰してみれば、ダムが「エコじゃない」のと同様に、あんがい新幹線も「エコじゃない」ことがわかる。
だから、「高額」な料金になるのである。
ただし、その分の「便利さ」に利用客はお金をだしているのである。

鉄道は、「鉄の道」を「全線にわたって」つくらなければならない。
盛り土と高架だけでなく、鉄橋やトンネルがひつようで、できたらできたで「保線」をしないといけない。
これらの材料資源は、自然にあるものを加工しないとつかえない。

JRが新幹線によって、暴利ではなく「適正な利益」をあげているなら、いまの値段が飛行機よりも高いのは、当然なのである。

アメリカ大陸の、大陸横断鉄道が飛行機にとってかわられたのも、「エコノミー」だからだった。
そして、結果的に「エコロジー」でもあるのだ。

「部分だけ」でみると、おおきな間違いをする。
これをみんなで黙っているのは、役人の都合に「忖度」しているからだ。

新幹線があたかも「エコ」で、レジ袋を有料化するのも、行政指定ゴミ袋を強制するのも「エコ」じゃなく、役人の「エゴ」である。

自主的に「言論統制」がおこなわれている。

横浜市が壊れだした

国家の政府を、わが国では「日本政府」とよんでいる。
都道府県や市町村のことを、ぜんぶ「地方自治体」という習慣があるけれど、どれもみんな「地方政府」である。
地方自治法という法律がいいかげんで、都道府県と市町村という「地方政府」の役割がはっきりしていない。

この矛盾をついてきたのが、「大阪都構想」だ。
大阪府と大阪市の「二重行政」をやめさせよう、というはなしと、「都」になると、行政への負担が増していまより「非効率」になるというはなしが混じっている。

まるで、ガソリンスタンドをセルフにしたら火災が起きる、というはなしに似ているのがミソである。

ほんらいなら、「二重行政」をさせることになっている、「地方自治法」を改正すればよいのだが、「なりゆき政府」の日本政府と国会はなにもしないしなにもできない。
その「二重」さに「利権」があるからである。

ならばと、選挙をつうじて「都構想」を強行しようということは、わが国で最後にのこった「民主主義」の力である。
共産主義的中央集権国家に成り下がった東京の発想を、ぶったぎる大阪人の心意気ともいえるから、妙に「痛快」なのである。

わたしが子どものころまで、大蔵大臣がかわると、真っ先に大阪にいって、関西経済人と顔見せの挨拶をしていたのが、もう、見向きもしなくなった。

大阪や関西経済の衰退がそうさせる、というはなしができているが、順番が逆である。
日本政府の経済政策が、わざと関西経済を衰退させたのである。

残念なことに、その「政策」に、ときの関西経済人が「乗って」しまった。
まるで、「大阪冬の陣」の後における、大阪城外堀を埋めさせた徳川方の謀略にまんまとかかった豊臣方のようにだ。

「大阪都構想」と「大阪都経済特区」をセットにして、かつての「堺」のような「自由経済圏」をつくれば、あっという間に東京を追い抜くかもしれない。
その意味で、大阪都構想「だけ」なのが惜しい。

都道府県と市の「二重行政」が、ややこしいのが、市が「政令指定都市」であるばあいだ。
まるで「都道府県」のような「権限」があるようで、もちろん、「都道府県」ではない。この中途半端さがハンパない。

北関東のひとたちが、妙におじける「神奈川県」は、「南関東」ともいわれているが、神奈川県人は「南関東」ではピンとこない。
そもそも、じぶんが「神奈川県人」だという意識すらないのが「横浜市民」だ。

江戸幕府による五街道の整備で、東海道の「神奈川宿」ができた。
京浜急行の「神奈川駅」あたりが、神奈川県の由来であって、いまは横浜市神奈川区になっている。
神奈川という川がないけど、神奈川県。

広重の有名な「東海道五十三次」の絵でいう「神奈川宿」は、海沿いの絶壁横の急な坂になっている。みごとな海岸浸食で、この絵の「海」がいまの横浜駅である。

政令指定都市になったら、県から離脱するほどの覚悟があっていいものを、甘えなのか甘やかしなのか、いっしょにいるからわからなくなる。
神奈川県庁が、横浜、川崎、相模原とは別の市町村に移転すると、県の発展も見込めるかもしれない。

たんなる東京のベッドタウンになりさがった横浜市が、とうとう「指定ゴミ袋」制をはじめるとぶち上げた。
ゴミ利権の象徴をやるというのは、カジノにつぐ暴挙ではないのか?

林市長というひとは、だんだん顔が「能面」のようになってきた。
感情と顔の筋肉のうごきが分離しているのだから、気の毒なことである。

このひとは、じぶんの意志でなにかをしているのではなく、いろんなひとの意志で動いているだけだからだろう、と勝手に推測してしまうのは、自分の意志でなにかをする能力があるとはおもえないからである。

そうかんがえると、ダイエーで取締役になったのも、「女性枠」という意味不明にあたったのではないか?
なぜだかしらないが、女性の幹部登用に、「目標数」が設定されるということになっている。
こういう逆差別に、フェミニストが抗議しない不思議もある。

レジ袋が有料化されることと、ゴミ袋が指定商品になることで、いよいよレジ袋をつかう意味を喪失させて、ゴミ袋を買わせるように仕向ける。
ヤクザもうらやむ無謀である。

化学組成的にどこが「ちがう」ものか?
無料で配付するから環境にいけなくて、有料でしかも「市指定」だから環境にいいというのは、ただの宗教ではないか?
ゴミを棄てるためにひつようなゴミ袋は、さいしょから「ゴミ」なのだ。

カジノで得た収入で、まさかの「全戸無料配布」なんてことをはじめるなら、これぞ「アメとムチ」になる。
枚数制限までして、ゴミを減らそうとするなら、もうどうにもならない「不自由」な生活を強いられるだろう。

野菜を買うとプラゴミがふえるのだから、消費者には選択できない。
つまり、指定ゴミ袋とは、環境のためとか市民のためを装った、「業者のため」にほかならない。
そして、市は、指定業者から「ピンハネ」するのであるから、これは市民税の増税にひとしい。

市民を痛めつける市長とはなにものか?
科学にもとづかない、環境政策は、小学生の理科の知識でも不信をかうから、ますますヘンテコな子どもをつくる。
まことにSFのようで、おそろしい社会をつくる努力をしている。

これを「壊れた」といわないのが、もう「壊れている」ことなのだ。

だれかハイエクの『隷従への道』(タイトルとして『隷属への道』もある)をわかりやすい要約にしてくれないかとおもったら、YouTubeに「5分間」の日本語ナレーション版があった。

「香港」が、他人事ではなくなってきている。

なにもできないなりゆき政府

風まかせ、風まかせ♩♩
気ままな旅である。
人生を「旅」のようにかんがえるのは、あんがい人類共通だ。
どこからやってきて、どこへいくのか?

たった三代、親の世代をさかのぼっただけでも、じぶんの「生まれ」た源流がか細くなる。
それに、いったいどこで人生を終わるのか?は、だれにもわからない。ましてや、その先ともなると、天国なのか地獄なのか?

いちおう仏教徒としていえば、極楽なのか餓鬼道なのか?ということだ。
あちらの方では、最後の審判で神様が決定するけど、こちらでは、じぶんの「意識」が姿を変えた「閻魔」がきめる。

第三者か、自分自身か?
仏教とは、この一点で過酷な宗教である。
生きているうちに魂を浄化しておかないと、じぶんの意識が誘惑に負けてじぶんを地獄へ導くようになっている。

先月物故した中曽根康弘氏のあだ名は「風見鶏」だった。
その時その時の「風」になびくことで、悲願の「内閣総理大臣」になれたからだ。

大望を抱くからこその「忍耐」だといういう評価を、わざわざご自身でしていたのだから「自己弁護」でしかないけれど、「バカを装う」ことのメリットは十分にしっていたということだ。
つまり、ほんとうのバカは国民だと。

たまたま、やっとこさ総理になれたとき、時代は「米ソ冷戦」末期で、ソ連は最後の輝きを発していた。これは、ローソクが消える前に比喩される。
対抗するアメリカは、経済の疲弊でフラフラだったけど、重量級のボクシングのように、それでも一発かますスタミナはなんとか残っていた。

このちょっとまえ、まだまだたくわえたスタミナ十分のとき、アメリカにさからった田中角栄を、ロッキード事件で失脚させることに成功した。
中曽根氏は、この事態をしっかり学習しながら、慎重にアメリカにさからった。

国内では、アメリカに忠誠をちかった「竹下派」に衣替えした手際も観察して、「風見鶏」は、がぜん竹下派のロボットになる有利さを悟ったわけだ。
こうして、まるで「間諜」のごとく、敵の懐に飛びこむ戦法を使いこなしたのだ。

結果的に、自民党がぜんぶ「竹下派」とおなじ手法を採用したから、政策集団としての「派閥」が「派閥」でなくなって、「金権」だけがのこったのだ。

金脈と金鉱をみつけてきては山分けするビジネスが、「官界」と確立したから、完璧な「政官癒着」ができあがった。
これに、世界で仕事を失いつつある財界が、じぶんたちにもよこせとばかり「利権」にすり寄っているのが現在のありさまだ。

まさに、共産主義支配者が理想とする構造になっている。
これぞ「党」による政府と経済界の支配というものだ。
さぞや大陸のひとたちが、うらやんでいることだろう。

けれども、間抜けな日本人の支配者たちは、国内事情しかわからない。世界情勢など、とっくに興味をうしなったのは、とにかくアメリカのいうことを聞いていればいいという安心感である。
逆にいえば、さほどにロッキード事件は恐怖だった。

アメリカ人だって人間だから、全知全能の「神」ではない。
日本人の「間抜けさ」が、人類共通だと信じたら、占領下での同じ手法が「イラク」でも「シリア」にもつうじない。

戦前の日本型国家をつくった北は、中心がわからなかった日本とはちがって、はっきりとした中心がある。
これなら手なずけることができるとかんがえたのが、いまのトランプ政権である。

「ご招待」されたひとがいきなり逮捕されて収監されても、間抜けな日本政府は「拉致」同様、なにもしないし、なにもできないと判断されて、それでもなにもしないし、なにもできない日本政府とは、はたして存在意義があるものか?

こんどは、企業が「拉致」された。
「無印良品」がおこした知的財産にかんする訴訟で、あろうことか、パクった先に損害賠償責任を負わされる判決がでた。
アメリカ企業にこんな無謀はしないから、無印良品が本社をアメリカに移転すれば、最後は勝訴できるだろう。

米中経済戦争第Ⅰ幕の決着がついたタイミングでの判決だから、アメリカに産業は回帰せよという、トランプ政権と握ったはなしなのかもしれない。

いっそのこと経団連ごとアメリカに移転するときがくるかもしれない。
これがほんとうの「空洞化」である。

そんななか、医療費が値上げされる。
国内ごとの「利権」だけがテーマの話題だ。
診療報酬も薬価も、国家がきめる国に住んでいる。
増税があって、レジ袋が有料化になって、医療費があがる。

そういえば、保守党の歴史的大勝利になったイギリス総選挙で、やっとこ「ブレグジット」もこれできまる。
なんでイギリス人はEUから、かくも離脱したいのか?
その「経済的理由」は、「ゆりかごから墓場まで」とした、わが国がまねた「国民皆保険」を外国人移民が享受することへの反発だ。

仕組み上、移民を「割り当てる」EU政府にたてつけない。
だから、なりゆき政治にNOをつきつけたのがイギリス国民だ。
かれらがラッキーなのは「保守党」という、受け皿があることだ。

われらには、「保守党」にあたる政治家集団が存在しない不幸がある。

コンビニ商売禁止法

コンビニエンス・ストアは、もじどおり「便利な店」のことである。
この「業態」が日本で開業したのが、1970年代前半のことだから、なんとすでに「半世紀弱」の歴史がある。

生まれながらにしてラジオがあった世代。
テレビがあった世代。
それが、カラーになった世代。
ファミコンがある世代。
さりげないけど、コンビニがあった世代がもう「不惑の歳」をむかえるのだ。

セブンは、店名どおり、当初7時から23時の営業だったが、一号店開業後の翌年には24時間営業がはじまっている。

わが家の近所にできたときは、それはもう、おどろいたものだった。
むかし、図工の材料を買い忘れて、夜中に商店街の文房具屋のシャッターをたたいて開けてもらったことがあるから、文具の充実にはたまげたものだった。

あのせまい空間に、よくぞこれだけの種類を揃えたものだ。
「整理の技術」があるのはわかるが、どうやって「欠品させない」のか?がわからなかった。

おなじものを商店街のお店で買えば二割以上安く売っているのはしっていても、営業時間に買いにいけない。
会社のかえりに、ちょっとだけ「寄り道」すれば、高くても買わないといけないものは買ってしまう習慣ができた。

まさに、商品ではなく、「便利さ」にお金を出していたのである。

そんなこんなで、「ごまんとある」コンビニは、ほんとうに全国に5万店以上ある。
人口も減りだして「飽和」かともいわれだしたが、飽和しているのは労働時間になってしまった。

ましてや、「社会インフラ」に成長したとは聞こえがいいけど、仕事をしない役人の仕事も引き受けて、災害時に商品がなくなることさえ文句をいわれるのだから、消費者以外にも「便利な店」になっている。

利用者からはわかりにくいが、店舗のほとんどが「本部直営」のはずがない「個人商店」ということになっている。
商店主たちのおおくも、一店舗だけの個人事業主なので、消費税の軽減税率は適用されないというイジメにあった。

こういうときに、地域の役所が国家の役所に文句をいうこともしないから、もはやこの国の役人に正義はない。
利用することだけして、こまったときは自己責任になっている。

もっとも、複雑な消費税に適応した「レジ」の購入ができずに廃業した、むかしながらの個人商店が全国津々浦々にある。
ところが、もっと酷いめにあっているのが、税理士たちで、複雑な税制を見のがした先生たちが、クライアントから損害賠償責任を追求されている。

訴訟リスクがありすぎて、世の中から産婦人科や助産婦がいなくなったように、そのうち税理士がいなくなるかもしれない。
これが、ブーメランになって税務署の仕事がふえるから、シンプルな税制にしましょうとはならないから、まったく国民の怒りだけがたまるようになっている。

ドイツ人はそのむかし、あんまりローマ教会がえげつないので、プロテスタントという「新派」をつくった。
形式上、敬虔な信者を装えばよいというローマ教会に反発して、本気で祈りを捧げる信者ばかりの集団だ。

カソリックの国なら12月のこの時期は、「クリスマス」一色になるが、プロテスタントの国だと一切の派手さがない。
玄関先に質素な飾りがあれば、たいしたものだが、うっかりするとユダヤの「過越の祭」かもしれない。

なんでもありのわが国では、強力なカソリックの国のように、クリスマス・ソングが街に流れ、個人の家まで電飾でキラキラにするけれど、本物の信者などめったにいない。たんなるファッションである。
だから、ローマ法王の来日は、なにかの間違いではないか?ということはなく、なんであれそれなりに飾っていれば、いいのである。

さてそれで、ドイツには、「閉店法」という連邦法がある。
小売店の営業時間をさだめている法律だから、裏返せば「閉店」を定めているのでこういう。
ほんらいの趣旨は、家でお祈りをちゃんとするためだ。

いま、日本のコンビニ・オーナーたちは、営業時間の縮小を議論していて、「正月ぐらい休ませろ」という声をあげだしたから、やっぱりかつての「同盟国」らしく、わが国にも「閉店法」ができるのではないか?

けれども、わが国ではなにを「お祈りする」のかわからないし、対象を「小売業界全部」にしたら、産業優先の「国是」にそむくので、コンビニだけを犠牲の羊にして、「コンビニ商売禁止法」にするのではないかと予想するのである。

さて、与野党はどんな議論をするものか?

まさか、与党の一部から、むかしあった「国立戒壇」が祈りの対象だという主張がされるのだろうか?
それとも、労組が支持する野党が、ドイツでそうであったように「運動」をはじめるのだろうか?

まったくみえないのが、わが国の混沌である。

政府があんまりえげつないので、べつの政府をつくる時代がくるのだろうか?

映画『蜜蜂と遠雷』を観てきた

文学作品として、「直木賞」と「本屋大賞」のダブル受賞が話題になったけど、原作の「小説」を読まずに映画を観るというのは「無謀」だったかもしれない。
そもそも「映像化不可能」と評判の小説なのだから。

読んでもいないのに「映像化不可能」とはなにを意味するのかを「映画」から類推すれば、音楽の「イメージ」のことではないか?
これは、脳がつくりだすもので、本人の経験や記憶からだけではなく、かってに創作することがある。

すると、本人もおどろく体験をするのである。
さいきんの脳科学は、「暴走」という表現をつかうこともある。
それに、脳は脳に都合のよいことを「創作」するから、本人もだまされる。

しかし、犯人がじぶんの「脳」だから、だまされている本人はこれに気づくはずもない。
つきつきめれば、「完全犯罪」である。

これは、「脳」と「肉体」が分離しているだけでなく、じぶんの「意識」すら別物になることを意味する。
脳がだます相手が、じぶんの「意識」になるからだ。
だまされた意識は、もうだまされたことを意識できない。

まことにおそろしいことだが、「現実」である。

これをズバリ表現したのが、1999年の映画『マトリックス』だった。
もう20年も前の作品になってしまうことに、時の流れをうらむしかないが、二作目、三作目とつぎつぎに「難解」になったのは、「意識構造」の解説がどんどんデジタル技術との哲学論争になっていったからだ。

意識がプログラムされている。
では、それをプログラムしたのは誰で、そもそもプログラムをさいしょに創作したのはだれか?
これこそが「アーキテクチャ(論理的構造)」から導きだされる「神」の存在である。

「構造」というキーワードをみれば、レヴィ・ストロースの「構造主義」を連想する。
かれは「神話」における「構造」の解明をこころみた。

はたしていま、ディズニー映画『アナと雪の女王2』も上映中だ。
もはや「ディズニー映画」の制作に「構造主義的アプローチ」は欠かせない。
いかにして「あたらしい神話」を創作するのか?が作り手の「仕事」だからである。

その教科書に、『神話の法則-ライターズ・ジャーニー-(夢を語る技術シリーズ5)』(ストーリーアーツ&サイエンス研究所、2010年)がある。

オリジナルの映画をつくるはなしと、原作の小説から映画をつくるはなしは、アプローチがことなる。

ディズニー映画のリスクは、公開されない「原作」の構造を神話化する過程のなかにある。
いっぽうで、原作の小説はすでに公開されているから、原作の再現性の「忠実度」にリスクがある。

このことは、「新規事業」と「既存事業」のちがいにもなる。
新規の「事業コンセプト」のなかに、どんな神話をもりこむのか?
既存事業なら、もともとあったはずの「企業理念」や「経営ビジョン」の再現性の見直しにあたる。
見直して、「原作」に問題があるなら、書換ということができるのが「経営」で、映画とはぜんぜんちがうアドバンテージがある。

さて、本作のばあい、「原作」に問題があるのか?それとも「再現性の忠実度」に問題があるのか?
基準となる「原作」を読んでいないから、なにもいえない。
そこで、ヒントになるのが、ネット書店にある「レビュー記事」だ。

観てきた映画のイメージと合致するコメントをさがすと、けっこうな数をみつけることができた。
残念ながら「好評価」のものではない。
すると、映画作品の評価から、原作の評価に重心がうつる。

わたしの違和感は、新人の登竜門としている「ピアノ・コンテスト」にまつわる人間模様が、「薄かった」ことにある。
登場人物の薄さと、登場人物のちかくにいるひとの薄さもあるが、ライバル間の「ギドギドした」対抗意識の薄さが気になったのだ。

千住家は、日本画の長男博、作曲家の次男明、そして末子の天才バイオリニスト真理子を輩出している。

「落ちろ、落ちろ」
コンテストにでた真理子に対したライバルだけでなく、背後にいる親たちから立ち上がる「負のオーラ」がすさまじい、とは母文子の告白である。

すなわち、これぞ「コンクール」なのである。
優勝と二位とでは雲泥の差、「入賞」では自慢にもならない世界。
あらゆる「妨害」と「謀略」のなか、それでも勝ち残ることができるものに、さいしょの「資質」があたえられる。

この「資質」があるもののなかから、演奏テクニックやら表現の豊かさが評価されるのだ。
だから、演奏テクニックやら表現の豊かさをもっていても、さいしょの「資質」がなければ、けっして実力が発揮できない。

これらをトータルに評価する。
でなければ、「世界」で演奏家としての活動などできるはずもない。
これが、「厳しさ」なのだ。

そして、そのもっとも大きな原動力は、選ぶ側の権威保持、にある。
もし「資質」のないものを選んだら、選んだものたちが業界から退場をせまられてしまう「厳しさ」があるからだ。

作中、トップを目指すものたちが、全員「いいひと」なのは、違和感をこえて「ファンタジー」になった。
おそらく、原作が「ファンタジー小説」なのではなかろうか?

「いいひと」

むかしは「いいひとって寒いですね」というフレーズがあった。
「いいひと」だけではダメなのだ、という価値観があったということだ。

これが、いまの日本の「弱さ」なのだとおそわった。

空き家に住みたいけど

世帯数よりおおい新築住宅をどうして建てるのか?
ほんらいなら、単純に「儲かるから」なのだけど、人類史上例がない「マイナス金利」という初体験で、「とにかくつくってしまえ」というやけくそが本当の原因かもしれない。
発注があるからつくる、という順番をたどれば、建材屋がいちばん儲かるはずだがいかがか?

すると、発注したのに売れないということになると、たくさん売ろうとした目論見がはずれたことになって、そのうち大損するひとがでてくるはずだ。
しかし、あたらしく供給されている住宅は、あんがい都市部であって郊外ではない。
人口が減るなか、郊外から都市部への人口移動がおきているのはこのためとの指摘がある。

では、都市部と郊外の境目はどこなのか?
主要ターミナル駅から電車で20分、そこから徒歩15分内ぐらいだろうか。
ここから外が「郊外」となる。
この微妙な「エリア感」が、「過疎」をみとめないのだ。それは、都会のはずの「住所」地域があるからである。

市町村の仕事が整理されていないから、余計な商工課とか観光課があったりする。
70年代、「画期的」と賞賛された東京都中野区は、戸籍係や転入出の窓口をぜんぶ「1番」として、「1番」窓口がたくさんできた。
なぜ戸籍係がひつようなのか?なぜ転入出するのか?
「そこに住人がいるから」という結論から、窓口をまとめても手続きにくるひとが混乱しない仕組みをつくった。

全国各地の役所から見学者がたえなかったというが、中野区のやり方をマネした役所はとうとうあらわれなかった。
役人の仕事のやり方が変わるからである。
住人の利便性追求よりも、役人の仕事のやり方を変えないことを優先する。
50年前のはなしだが、今日ただいまぜんぜん変わっていない。

なんども指摘している『パーキンソンの法則』にもとづいて、わが国の役人の数も増え続けた。
「仕事量に関係なく、役人の数は増え続ける」のである。
そんなわけで、住民にとってどんな役に立つのかとは関係なく、役人の数はふえて、仕事もふえる。
ふえた仕事は、住民にとって「ムダ」だけど、「ムダ」な仕事で生活できるのは「天国」だ。

だれもが「天国」にいきたいから、いまやわが国の就職先で最高人気は「役所」になった。
これが「役人天国」の本質である。
そして、「指定管理者制度」という、役人が遊んで暮らせる「制度」もつくったから、仕事をしているふりすら忘れて、日がな一日時間つぶしに登庁している。

そんなわけだから、じぶんところの「住民の数」が、これからどうなるのか?の調査もしない。
「昭和時代」もまさかの「戦前」に策定した「都市計画」を、いまだに「基本計画」にしていることだってある。
へたに「審議会」が仕事をすると、じぶんたちに面倒がふりかかるから、お金をくばって「学会」を制御する。
こうして、研究費が喉から欲しい学者は、役人という「メフィスト・フェレス」に魂を売って、束の間の甘い夢をみるのである。

空き家は放置すれば「廃墟」になる。
住宅地に廃墟があると、路線価に悪影響するかもしれない。
さすれば「税収が減る」から慌てるかといえば、慌てるはずもない。
路線価を決めるのも役人だ。いざとなればカジノを誘致すればよい。

面倒なのは、近隣住民からの「苦情」だけだ。
たまに、仲間うちの「消防」からも文句をいわれる。
不動産屋は新築にしか興味が無い。
空き家を売って、あとからクレームをいわれるのが面倒だし、建物の専門家でもないからほんとうの価値がわからない。

過疎地なら、しかたがないので「空き家バンク」なる、ムダ仕事でお茶をにごせる。
ただし、住民間のトラブル対処はまっぴらだから、町内会や自治会の活動内容や、だれが地域のボスかは知らないふりをする。
こうして、移住者がネットに情報をばらまいて、田舎暮らしの地獄絵図が全国にひろがった。

リタイアを契機に、適当に不便かつ適度に便利な場所に移住をかんがえるひとはおおいだろう。
いまさらの「新居」に、虎の子退職金をぜんぶ使い果たすことができないからである
需要はあるけど、残念ながらほとんど情報がない。

相続が発生すれば、法務局と税務署はFAXで連携するのに、その後がない。
司法書士が遺族や家族と連携できないものかとおもう。
ほんらいなら、融資もふくめ、これぞ「地銀」のビジネスではないのか?

ついでに、リバース・モゲージ・ローンの設定でもしてくれないか?

いい空き家があれば住みたいけど、よってたかって、何だかなぁ、なのである。