ジム・ロジャーズの日本衰退論

投資家として有名人のジム・ロジャーズ氏が、30年後の日本が犯罪大国になるなどの貧困ぶりを予測したことが話題になっている。
きっかけは、東京オリンピック後の不況とのことである。

もちろん、彼は投資家だから、オリンピック景気については慎重で、むしろ否定的である。
たとえば、不動産投資については、対象の土地や建物の「収益性」がすべてであって、オリンピックというイベントは投資判断に影響をあたえないものだと論じているし、オリンピック開催国だからといって経済成長が約束される理由もない、と。
むしろ、ムダな公共投資負担による財政難が、経済成長の足かせになる、ともいっている。

わが国の大半が信じる、オリンピック神話について、真っ向から否定する発言なので、「反発」の反応が目立つのは、お隣と同様に自国を「ホルホルしたい」ということだろう。

もちろん、この前提に「日本は先進国である」という、すでに「幻想」となった感覚の残影がある。
あるいは、「最悪をかんがえない」「かんがえたくない」という、幼稚な発想しかできないことの証左だ。

すると、じつは「最善」もかんがえていないことがわかる。
つまり、現実にただ漂流しているのがわが国になってしまった。
すなわち「ひょっこり島々」になったのだ。

かつて放送された「ひょっこりひょうたん島」は、1964年4月から1969年4月までの5年間にわたった15分間の人形劇だ。
幼稚園前から小学校に入学しても続いていて、ある日学校でこの番組のことをはなしたら「まだそんな子供番組を観ているのか」と同級生たちから笑われたことを思いだす。

それはある意味正解で、物語としての「ストーリー」がまったく思いだせないほど、なんだかダラダラとしていた。
それが、同級生たちを飽きさせたのだろう。
まさに物語も「漂流」していたから、最終回がなんだったのか興味すらなくなっていた。

よくいわれる「鳥の目」と「虫の目」のはなしは、広く俯瞰するマクロ目線と細かく観察するミクロ目線の両方が必要だということにつかわれるものだが、「投資」もまったくおなじ目線がなければ、成功をくり返すことはできない。

日本だと「相場師」といわれてしまうのは、「鳥の目」の欠如が原因だろう。
株価の推移における、独特の感性が成功の原因だというなら、やはり「相場」という「虫の目」における視点だけが頼りだ。

「鳥の目」からよくいわれることに「カントリー・リスク」がある。
投資(予定・検討)先の国家についての考察である。
もっと広くなると、「世界経済」という視点から、各国のうごきを総合して考察しないと、「カントリー・リスク」も読めない。

幸か不幸か、すでに世界は「グローバル・ネットワーク」で結ばれてしまったから、一国だけの影響力は冷戦期とは比較にならないほどちいさくなってきている。
必然的に「連携」しているからである。

しかし、一方で、数百年ぶりの「地殻変動」ともいえる大きな変化が起きた。
それは、東アジア情勢である。
「眠れる大国」が眠りから覚めて、欲望をむき出しにしたのである。

このことは、戦後体制をつくったアメリカのシナリオにも、つくられた日本のシナリオにもない、あたらしい現象なのである。
そのあたらしい現象が、「新冷戦」といわれているのは、アメリカがあたらしいシナリオを書き始めたからだ。

対して、わが国は、いまだにこの激変のなかを「漂流」しているから、なんだか周辺が騒がしくなった程度にしか認識できていない。

よくいわれる「経営資源」とは、「ヒト」「もの」「カネ」だったものに、情報化で「情報」がくわわった。
しかし、絶対的な「時間」が、あんがい無視される不思議が日本の経営学の教科書にある。

百兆円規模の国家予算のうち、数千万程度の「無駄遣い」を延々と議論するのは、「ABC分析」の概念をもってしてもナンセンスだが、国会という場での「時間」が浪費されることを、だれも非難しない。

どうにも取り返しがつかないのは、世界中のひとびとに平等にあたえられた「時間」を、ムダな議論で浪費することだ。
これが、投資家ジム・ロジャーズ氏が、もっとも憂慮する、わが国へのメッセージではないのか?

覚醒した大国の急速な軍事力拡大に、半島の核、さらに友邦と信じた国による裏切りは、すでに「東京空襲のため」と明言して爆撃機と空中給油機を保持している。アメリカ製ではなく、ヨーロッパ製なのは、日本外交のみえない敗北だ。

みえるところでは、日本海の漁場(わが国EEZ)にこれら「敵対国」の漁船がやってきても、わが方は「放水」しかできない。
国内法整備が「ない」からである。

拿捕も撃沈もできないのは、「主権国家」の「主権」の「放棄」がそうさせる。
じつは、この「放棄」こそが「国際法違反」なのだ。
相手にわざと舐められるように仕向けることが、戦争を招くからである。

法の整備は国会の仕事だ。
わが国は、とっくに「自滅」していないか?

共産党がただしいということ

みじかいニュースではあるが、共産党の志位委員長が14日、茂木外務大臣の参議院外交防衛委員会での答弁にかんして、ツイッターでのするどい批判をしたという。
外務大臣への質問と答弁は以下のとおり。

香港情勢に関する外務省としての情報発信の在り方について、佐藤正久参院議員(自民党)から質問を受けた。
茂木氏は「昨今の香港情勢につきまして、デモ隊と警察の衝突が長期化し、エスカレーションしています。多数の負傷者が出ていることを大変憂慮しております。時勢と平和的な話し合いを通じた解決を関係者に求めるとともに、事態が早期収拾され、香港の安定が保たれることを強く期待しております」

さらに、
「おそらく日本のハイレベルが、この問題に対して、たとえば香港であったり、デモ隊であったり、香港政府、中国、どちらかに偏った発言をすると、平和的な解決に向けて本当にプラスになるのだろうか。こういったことを考えながら対応する必要があると思っていますが、その上で我が国として、一国二制度のもと自由で開かれた香港が繁栄していくことが重要だと考えています。この旨は今月4日に実施された李克強国務院総理と安倍総理の日中首脳会談、さらにご指摘いただいたような6月のG20大阪サミット、さまざまな機会、レベルをとらえて中国側に伝達してきております」

というコンニャクのような答弁をした。
「冴え」も「切れ」もない「他人事」である。
「おそらく日本のハイレベルが」とは誰なのか?
経団連か?

これに、あの「共産党の志位委員長」が、
「今日の参院外交防衛委員会の質疑で、茂木外相は、香港問題への対応を問われ、『抗議デモ、香港政府、中国政府のいずれかに偏った発信はプラスにならない』と答弁した。人権侵害に対して抗議しないという表明にほかならない。こんなだらしのない態度でいいのか。言うべきことをきちんと言うべきです」

じつに歯切れがよい。
とうとう共産党が、安倍内閣の「左翼性」を暴露したのである。
さらに、めったにいかない共産党のHPではあるが、14日付けで「香港での弾圧の即時中止を求める」という声明を発表している。

以前にも、共産党がまともにみえると書いた。

アンチテーゼのベンチマークとしての存在が重要だったむかし、勉強ができすぎて頭の回転がズレてしまったひとたちの集団、の典型が共産党だったから、かれらの主張にまっこう反対の与党の「正しさ」がわかったものだ。

すると、共産党の主張が大ヒントになって、とにかくその正反対が正しいのだとおしえてくれる、社会のアンチ「灯台」のようだった。
こういう組織に、給料のおおくをささげるひとたちがたくさんいて、機関紙をひとりで何部も購入し、豊富な活動資金としていた。

ところが、とうとう機関紙の購入者が減ってきたのは、活きのよかった団塊世代が引退して、年金生活になってみたら、新聞も購読する生活費に困窮したのだろうか?
くわしくはしるところではないが、財界資金に依存する政権与党より豊富な資金力がかつてあったことが、いまはむかしになったことはまちがいない。

不思議なもので、ここに一般的経済原則(マルクスのそれではない)「需要と供給」がはたらいて、これまでとはちがうマーケット分野の開拓をしないと、倒産してしまうことに気がつくものである。

もちろん、気がつかないで従来どおりをつづけるからほんとうに倒産するのである。
あるいは、気がついても別の方法がわからないので、資金切れと時間切れが同時にやってきて倒産する。

この意味で、この「党」の本来の優秀性が発揮されたのか?
まさに、これまでとはちがう、という選択をしたのだろう。
それが、上述したように、選択せざるをえない、ということであったとしても、支持者と資金の確保という経済学(マルクスのそれではない)にしたがわざるをえないところが、新鮮なのである。

はたして、共産党が資本主義の洗礼をうけて、「資本主義政党」になれるのか?
ふつうはなれるはずもないのだが、もはや「ふつうではない」から、「もしや?」と期待したくなる。

わが国で唯一の「資本主義政党」が、とうとううまれるかもしれない。

委員長の指摘がするどいのは、カネより重要な価値がある、と直言したことである。
まさに、資本主義をささえる基盤の「自由の価値」のことである。

あちらにある同じ名前の党を、どうやら「社会帝国主義」と定義して、党名はおなじでも、中身がちがうということをいいたいにちがいない。
なるほど、そういえばこちらの書記長が「どんな党名がいいでしょう?」という発言をしたらしいから、共産党から「共産」が抜けてもいいというほどの大胆さだ。

経営再建にあたっての「ブランド戦略」的には、非の打ち所がない。
これも経済原則(マルクスのそれではない)にしたがっている。

一方の、財界からお金をもらっている政党は、財界が社会主義化してしまっているから、どうにもこうにもならないことになっている。
何度も書くが、わが国の「自由民主党」という政党は、とっくに社会主義政党になっていて、確固たる社会主義政策に邁進しているのだ。

アメリカの民主党も、中国の政権政党も、自民党モデルをベンチマークしているはずだ。アメリカ大統領選挙における民主党候補者の社会主義性は、自民党の主張と比較すれば、まだまだ「甘い」のである。
日本における左翼陣営の衰退は、自民党が左翼だから論点がボケて、モリカケをはじめに観桜会まで、批判の矛先がないための現象だ。

わが国には、アメリカ共和党、あるいは英国保守党にあたる政党がない。
これが、わが国衰退の原因、官僚社会主義の成立理由になっている。

昨年自裁した西部邁氏は、全共闘の指導者から「保守」に転向したものの、わが国「保守業界」の腰抜けに絶望していた。
その西部氏がいきていたら、資本主義をしりつくした共産党こそ、ただしき純粋資本主義を貫くのだという希望に目を輝かせたかもしれない。

長生きはしてみるものだ。

富士山ごうりきうどんのコシ

静岡県小山町には二箇所の「道の駅」がある。
そのうちのひとつ、「道の駅すばしり」は静岡県と山梨県をむすぶ有料道路の東富士五湖道路と国道138号線の両方からアクセスできる。

ことしの台風19号は、多大な被害をもたらしたが、内陸の山梨県も東京とむすぶ甲州街道や中央高速が通行できなくなって孤立しかかった。静岡県からのルートが確保できたのは不幸中の幸いであった。
けれども、静岡ルートだって、そんなにたくさんあるわけではない。

山中湖から138号線で籠坂峠をこえれば、静岡県になって、しばらくすると「藤原光親卿の墓」という看板が飛びこんでくるものの、坂道にうっかり停車できないから、そのままやりすごしてしまうのが気にかかる。

小山町のHPにてしらべると、「永久の変(永久3年)」とある。
これは西暦にすると1113年で、「後鳥羽上皇」による「北条氏の討伐の企て」と解説がつづく。これが漏れて連座したのが藤原光親で、鎌倉護送中にこの地で斬首されたための墓となっている。

はて?
「永久の変」とは「鳥羽天皇暗殺未遂事件」だし、「北条氏討伐」とは、第二代執権北条義時討伐のことで、院宣をだしたのは「後鳥羽上皇」だから、この事件は「承久の乱」(承久3年:1221年)である。

世代がわかる年号のおぼえ方「いいくにつくろう鎌倉幕府」にあてはめれば、1113年では百年ちがう。

なんと、「承久の乱」が「永久の変」になっている。
登場人物が「鳥羽天皇」と「後鳥羽上皇」で、「永久3年」と「承久3年」だから、ややこしいのはわかるけど、「町の公式HP」としてはまずいものを見つけてしまった。

「お問い合わせフォーム」から連絡すべきか?
やっぱり「お墓」にまつわることだから、一報ぐらいしてもバチはあたらないだろう。

このまま下れば、「道の駅すばしり」がみえてくる。
駐車場からはわかりにくいし、建物1階売店は山裾にあるためじっさいは半地下のようなものだ。
気持ち的に面倒だが、急で圧迫感がある階段を2階に登ると富士山の絶景が目の当たりにあらわれる。

なかなか粋な設計といいたいが、はじめてのひとがどれほど2階にあがるものか?
案内が「足湯」と「レストラン」では、気がつかないままのひとがいるだろう。

売店では、お土産ランキングが10位まで棚に展示されていた。
栄光の1位に食指がうごいたが、店内のどこで販売しているのか?家内と3周したがわからなかった。
どうしてこうなるのか?

2階のレストランは、そういうわけだから期待値は低かったが、先の旅程に記憶ある食堂が思い出せないので、やや昼には早いがメニュー・チェックをかねてのぞいてみることにした。

「ご当地」を主張しているのが、「富士山ごうりきうどん」だ。
「富士山ごうりきおむすび」というのもあるが、店内飲食の選択肢としては厳しい。
あとはカレーにラーメン、豚丼とカツ定食。

人気ドラマ『孤独のグルメ』のセリフではないが、「ここでなにを食するべきなのか?」
どうでもいいが、ナポリタンがないのはどうしてか?が浮かんだのは、麺類に米粉をいれるのが特徴だとかいてあるからだ。

妙に広大にみえる店内空間は、これぞ公共の店という風情で、いまどきの大学の学生食堂のようでもあるが、よりシンプルかつ殺風景が特徴だ。
席数は60。バスがくれば別だが、はたして埋まるのか?

注文は券売機だ。
千円以外の紙幣は、なぜか90度隣の両替機をとおさないといけない。
しかも、一台ずつしかないから、すぐに列ができるのは「公共の店」ならではである。給湯器も一台というのも、一貫性がある。

しかし、ここでハイテクをみた。
券売機で購入した注文は、自動的に厨房につたわり、大画面モニターに受け付けた券番号が表示され、できあがると別画面・音声にて知らせてくれるのだ。

そして、厨房の広さは驚きで、営業面積と遜色ないスペースだから、調理担当者がやたら遠くにいる。
歩数計をつけてみたくなる。
開業当初、どんなメニューを提供するレストランだったのだろうか?

けっきょく、「ごうりきうどん」にした。
家内は「強力」をイメージしたようだが、富士山といえば荷物をかつぎあげる「剛力さん」で有名だった。

「ごうりき」は、漢字にすれば「強力」でも「剛力」でも「あり」のようだから、コシの強いうどんと掛けたのだろう。
そのコシは、コシヒカリの粉を配合するために、ただ歯ごたえがあるのではなくてモチモチした感じが強い。

意外だったのは「出汁」のうまさで、これは駿河湾のおかげだったのだろうか?
事前期待値が低かったけれど、予想外にうまかった。
しかし、なぜかナポリタンがあたまをよぎる不思議がある。

売店で、「富士山ごうりきうどん」の麺を購入。この「道の駅」でしか売っていないようだ。
やれやれ、限定品のご当地みやげができたとおもったら、製造元は山梨県の富士吉田だった。
おっと、今回通過した富士吉田市の名物「吉田うどん」の変形ではないか?

ちょっとコシがくだけたが、まぁいいか。
県境には県境なりの「名物」があっても、うらまれることはないだろうし、ましてやここは天下の霊峰、富士山つながりではないか。

いつか、「吉田のうどん」を食べたくなった。

「入れ子型」になっていないか?

「入れ子」で有名なのは、ロシアの伝統とされている人形の「マトリョーシカ」で、木でつくられた人形の胴体に人形がはいっていて、さらにまたその胴体に、という具合になっているものだ。

しかし、マトリョーシカにはオリジナルがあって、それが箱根の「ろくろ細工」だ。
こちらは「七福神」をテーマにしていて、ろくろで削り出すことから命名されている。

神奈川県の小田原や箱根には、天下の険でしられるように山がちかいばかりか、箱根は山の中だから、木材をつかった伝統工芸品がたくさんあるのだが、有名なのは箱根の「寄せ木細工」ばかりで、その他があまりしられていないのは残念だ。

ロシアといえば、民俗風習においても日本との共通性があって、たとえば「干支」がある。
あなたはなにどしうまれですか?うし年です。
日本の十二支でいう動物とロシアの十二支の動物は完全一致している。

それに、極東ロシアの学校では、第二外国語には日本語の選択肢もあって、英語のつぎに人気だというし、かつての「シベリア出兵」の影響から、醤油がふつうの調味料になっている。

ウラジオストックのイタリア料理店には、ぜんぶのテーブルにみなれた醤油差しがあったのが不思議で、おもわず質問したら「醤油がないのは変でしょ?」とのことだった。
でも、ピザパイに醤油をかけているひとは、やっぱりみなかった。

あんがい近いのに、なんにもしらないことがある。

すぐとなりのお国では、わが国との防衛情報の協定をどうするか?
「破棄」を表明して、あと数日で期限が切れる。
おどろいたのがアメリカで、14日は国防長官と統合議長というツートップが最終説得をこころみることになっている。

日本の「貿易管理強化」の撤廃を条件にするという「無理」をいいだしたのは、「交渉」ではなく「協定廃棄の理由」にしたいのだろう。
そもそも「貿易管理強化」は、重要物資の「横流し疑惑」が原因だが、この「疑惑」についての具体的反論はいまだにない。

しかし、「募集工」を「徴用工」だとしてだした判決や、「友軍」のはずの自衛隊機にレーダー照射するなどの、一連の「暴挙」にたいする日本側からの「報復」が貿易管理強化だということになって、それが日本製品の不買運動に発展したのは、わが国での報道のとおりである。

つまり、日本人のおおくは、以上の経緯から相手国政府の理不尽と、相手国国民の行動に、不信感をもつにいたっている。
もはや「レッドチーム」確定なのか?とも。

このことは、彼の国のYouTuberたちも承知していて、母国語で動画をつくると削除されるため、日本語での動画で自国を「おかしい」といって啓蒙しようとしているから、日本人視聴者からは「けなげ」という評価にもなっているけど、自国のほうからは「脅迫」されている。

ところで、前に紹介した『反日種族主義』は、YouTubeにおける動画のシリーズだったが、奇しくも14日が、日本語翻訳版書籍の発売日である。

本国でもベストセラーになったというが、残念ながら保守系の野党第一党にして、この書籍については「批判的」で、けっして「同調」していないことに、より深刻な「種族主義」がみてとれる皮肉がある。
もちろん、著者たちの「受難」はすでにはじまっている。

おそらく、日本では、ことしもっとも読まれる本になるのではないか?
これには、「我が意を得たい」という欲求が日本人側にあるからで、反日のひとたちの「情弱」ぶりと政治のポピュリズムを「哀れむ」ことになるのだろう。

しかしながら、視点の地図をさらに上からみるように引いてみれば、東アジアがみえてきて、もっと引いてみれば地球儀がみえてくる。
すると、日本列島の場所は、あらためて「まずい位置」にあることが確認できる。

アメリカと中国とロシア、それに朝鮮半島は、わが国とどういう位置関係にあるものか?
中国とロシア、それに朝鮮半島の「近さ」にくらべて、アメリカの「遠さ」は、わが国だって「レッドチーム」にはいる合理性を示していないか?

香港のデモにかんして、13日のニュースは、香港の大学に学ぶ中国人学生と、台湾人学生がそれぞれ本国へ帰るために政府が交通手段を用意したと報じた。
つまり、「逃げろ」ということの意味はなにか?

太平洋をはさんで米中が対立するなか、わが国頭上を通り越しての「空中戦」になっている。
米中経済戦争は、はたして「経済だけ」なのか?と問えば、米国議会における「香港支援法」にも、わが国は政官民すべて無関心だ。

台湾の総統選挙は来年の1月11日だからもう二ヶ月ない。
アメリカ大統領選挙は、11月3日。
中国国家主席を「国賓」として迎えるのは、桜の季節だという。

それで、首相の桜を観る会があっさり中止されたのだろうとおもえば、野党が騒いだからではないはずだがいかがか?
「贅沢は敵だ」と、戦時中のフレーズを野党がいう滑稽がある。

しかして、総統選挙後の台湾の人びとは日本の態度をどうかんじるのか?
わが国政府は、台湾を無視していることあきらかだ。

変なのは、この時期の「国賓」あつかいに、アメリカ大統領も、国務省も国防省もノーコメントなのである。

われわれが、アメリカから「哀れ」まれているかもしれない。
香港人も、台湾人も「反日」になるように仕向ける「愚」。
世界は、日本の「裏切り」を確信するだろう。

これを隠蔽するために「侍」や「武士道」ということばで飾る「オリンピック」は、愚民たちへのサーカス=娯楽提供にすぎない。

自民党政権は、「レッドチーム」の本性をむきだしにした。
そして、これに代わる政党が存在しない「哀れ」もある。
安倍首相を敵視する左派とは、近親憎悪をしているだけだ。

何のことはない、「入れ子型」なのであって、隣国国民を「哀れむ」ばあいではないのだ。

わが国はゆっくりと、しかし、確実に「レッドチーム」に向かっている。
残念なことに、香港のデモが「騒乱」になって、軍が投入されてはじめて「国賓招待」のキャンセルができる状況になっているのだ。

日本人は、この意味をしっかりかんがえるべきである。

FAXがほしい

電話機についているのがFAXなのか、FAXに電話機がついているのか?
通信手段として、固定電話とセットになるFAXは、前世紀の遺物、と世界的に評価されるなか、どっこいわが国ではいまだ「現役」だ。

もうずいぶん前になるが、ヨーロッパのとある先進国にある、とある先端企業は、自社の技術がとあるアジアの国に盗まれていることに気がついた。
どこから、設計図が漏れたのか?を社内の極秘調査チームがさぐったら、ネットからだったことが判明した。

この企業でのこの「事件」は、ネットの脆弱性を世界に知らしめたものだった。
それで、どういう対策をとったのか?といえば、いそぐばあいはFAX、そうでなければ郵便ということになった。

どちらさまも「サイバー空間」における「情報争奪」に熱心なので、アナログ回線における通信が、かえって安全だという皮肉である。

ましてや、郵便とは?
かつての冷戦期、郵便物を開封して撮影し、再度封をするスパイ小説や映画のようなことは、じっさいにはもっと巧妙にやっていた。
その筋のプロでもわからないようにする「職人技術」があったのだ。

ところが、冷戦の終了とインターネットの普及という新技術の登場に、これらの職人たちがお払い箱になってしまって、郵便における安全性が急に復活したという事情が説明されてもいた。

前にふれた映画『オーケストラ』(2009年、フランス)は、かつての「ボリショイ交響楽団」の仲間たちでつくるコンサートを成功させる物語だった。

ロートルのひとたちがドタバタしながらなんとかする、というはなしだが、諜報の世界のロートルのひとたちがドタバタしながら、重要な郵便物を盗み見る、なんて映画ができてもおかしくない。
なにせ、もはや後継者がいない、からである。

いまや、固定電話契約は、個人の信用を証明するような「機能」になってしまった。
固定電話番号をもっていることは、「家がある」という意味になるからである。

しかし、ひとり暮らしならずとも、携帯電話があれば固定電話はひつようない。
それで、NTT東西あわせると1997年をピークに「7割以上」も減って1,700万件ほどになってしまったから、年間800億円以上の赤字事業になっている。

ざっくりいえば、毎年150万件の契約解除が発生していることになる。

国家は国民から合法的に掠奪する。

むかし電話を引くときに強制購入させられた「電話債権」とは、いわゆる「電話加入権」のことだが、これが「価値をうしなった」のは、2006年に提訴された損害賠償裁判で、控訴審でも請求棄却が確定したことがきめてになった。

わが国に「三権分立が存在しない」ことの証拠にもなった。
裁判所は、行政府を擁護するために存在しているからだ。
よって、企業にはこの債権価値について「無形固定資産」としての「簿価」をどうするのか?という問題となり、「時価会計」による「減損」するしかないという理不尽も発生している。

客室数に応じて、それなりの契約回線数をもっているホテルや旅館には、想定外の災難なことであったが、これに「業界」が「沈黙」したのも「椿事」ではある。
よく「しつけられた」ものだ。

「パソコン通信」がはじまる前、文書はFAXで送受信する、ことになっていた。
いまだに「パソコンがない」ときに、FAXをつかうのは、「情弱」だけが理由ではない。

コンビニにも、複合機としてのFAXがあるのは、通信手段としての選択肢を確保しているからだろう。

けれども、さいきんは「パソコンがあっても」FAXをつかうことがある。
これは、「PCファクス送受信」という機能があるからで、この機能つきFAX機を介せば、パソコンから直接FAXの送受信ができる。

電子メールに文書を添付させるために、パスワードをかける方法がビジネスの場面でつかわれることが「常識」とさえいわれているが、専門家は「無意味」と批判的である。
サイバー空間をつかうから、悪意があれば盗まれる。

ならば、メール添付ではなくFAX送信してしまうことを通知すれば、手間はおなじでありながら、じつはよほど「セキュア」なのである。
相手も、この機能があるFAX機を介せば、紙に印刷して受信するひつようもない。

わが家のFAXには、メモリーカードを介してパソコンに文書を取りこんだり、返信文書をパソコンでつくってメモリーカードに保存すればFAX送信できる機能があったのだが、このところその機能がつかえなくなった。

どうしてなのかいろいろしらべたら、メーカーのHPに、この機能を提供する独自アプリが「最新のOSに対応しておりません」とあった。
ご丁寧に「この情報は役に立ちましたか?」という選択肢まであるのは、ありえない「ムダ」だ。

要はつかえない、と宣言しているのに、役に立つもない。
最新のOSにいつ対応するから待て、ならまだしも、たんなるユーザの「切り捨て」であるし、製品特性として宣伝し販売した責任の放棄である。

わが国を代表する「経営の神様」とまで崇拝された創業者の、「ユーザを大切にする精神」の微塵もない。大赤字に転落したのは、新興国の猛追が原因ではなく、経営者の身から出た錆である。

仕方がないので、コメント欄に「別のメーカーのFAXを購入することにした」と記入したのは、故人へのリスペクトからである。
そうでなければ無言でいなくなる。改善のためのヒントをあたえるような殊勝なことはしてあげない。

こういう状況をどこかで見聞きしたことがあるとかんがえたら、地震がおきてマンションの建築構造に手抜きがあるのがわかっても、施工者や販売者が逃げ回るすがたに似ていることに気がついた。

無責任な企業には、しっかりした制裁をあたえることが必要で、それをするのは政府ではなく、市場でなければならない。
ただし、わざと倒産して逃げる道もあるから、倒産前と後の両方に、逃げられない道をつくるのは政府の役割だ。

そんなわけで、いまのところ町内会の連絡にしかつかわないけど、あたらしいFAX機を購入しないと、面倒なことになっている。

紅葉の河口湖に行ってきた

秋の紅葉シーズンである。
さりげなく、どこかに行こうということになって、途中河口湖に行ってきた。
河口湖の観光関係者に申し訳ないが、ぜんぜん目的地ではなかった。

この湖にやってくるは何年ぶりだろうかと、かんがえてもはっきり記憶にないのだが、だいたい10年ぶりぐらいだとおもう。
その前も10年ぶりぐらいだとおもうから、10年周期で訪問している。

そんなわけで、印象にのこる記憶があまりない。
前回は、湖畔の美術館をめぐる、という目的があったから、美術館のことは記憶しているが、それ以外はないし、その前の訪問は理由すら忘れてしまった。

富士山に傘がかぶるように雲がかかっていた。
もしや天気がわるくなるかも、とおもったら案の定。
しばらくして雷をともなう激しい雨になったが、それは東富士に移動したときだから、現地がどうだったかはわからない。

湖畔にはたくさんの外国人がいた。
東南アジア系のひとびとは、団体ツアーなのだろう。
うれしそうに御山と湖を背景に記念写真にいそしんでいたすがたが、なんだか半世紀近く前の家族旅行を思いださせる。

ちょうど、「紅葉まつり」開催中とのことで、現地にいって気がついたのは、たくさんの屋台とひとだかりに後からコンビニでみたポスターだった。
わざわざ混雑のばしょに行くのが面倒なので、このエリアは通過したから、なにが?どんな?祭りだったかはさっぱりだ。

このあたり、興味がないと徹底的になってしまうのは、これまでの経験則による。

ポスターには、しっかり「富士河口湖町観光課」と記載があるから、とたんに事前期待値はマイナスになった。
イベントがどうして「猿まわし」と「ジャズ」なのか?
きっと「猿の脳」でかんがえたのだろう。

そして何よりも、「無料」という料金設定が、「発想の貧しさ」の象徴なのだ。
行政が主催になると、「儲けてはいけない」ということに自動的になるから、「やりたいこと」ではなくて「低予算でできること」になってしまう。

わが国にはどうも「無料信仰」がある。

「無料」だから、サービス品質がひくくても誰からも文句をいわれない。
この「ノー・リスク」こそが、役所のねらい、なのだ。
たとえわずかでも「有料」にしたとたん、利用者からのクレームをいわれる「可能性」が生まれるのを極端にきらうからだ。

じつは、この「可能性」こそが重要なのだ。
クレームを受けないようにするにはどうしたらよいのか?
それには、きっちりとした「計画」と「準備」それに、当日の「現場体制」を構築しなければならない。

それで、やっと「有料」にできるし、客の満足もたかまるものだからだ。

しかし、客側もこれまでの人生で、「有料」の祭りなんて経験がないし、無料の、サービスとはいえないサービスになれている。
このばあいの「サービス」とは「奉仕」の意味だが、「奉仕以下」のサービスになれているから、無料があたりまえなのである。

ここで、もう一方の主催者をおもいだすと、たいがいが「観光協会」なる民間団体が存在している。
つまり、こちらが「有料」のチャンスをもっているはずなのだが、予算を自治体に依存しているため、なにもできないのだ。

ほんらいなら、無料と有料の「棲み分け」は可能なのに。

けっきょくのところ、なにをもって祭りが「成功」したのか「失敗」したのかがわからないから、集客した人数という指標しかない。
儲けてはいけないから、指標が「売上」にならないのである。

梅棹忠夫先生はかつて1970年に、観光業を「掠奪産業」と呼んでいたが、なにをかくそう、観光課が地元民の税金を「ドブに棄てている」。
そして半世紀を経ても相も変わらず、観光地にやってきたひとびとから、価値のないものを買わせることでの「掠奪」がおこなわれているのである。

つまり、掠奪のための計画をたてて、実行しているのが「実態」となるようになっている。ノー・リスクはすなわち、自動的に「ノー・リターン」になるからである。
「投入した資源の見返りが、ない」ものを役所用語で「事業」というのだ。

これは、なにも河口湖だけのはなしではなく、全国津々浦々でやっていることなのだ。

これをもって「観光立国」とは笑止である。
せめて「山賊の国」と自己批判もできない脆弱ぶりは、行政依存のみじめがさせる。

しかし、もっともみじめなのは、そんなことに気もとめず、「楽しい」とかんじるように訓練された観光客のほうである。
ということで、じぶんがみじめになってきたから、湖畔の散策と地元野菜を買って、30分ほどの滞在で立ち去ることにした。

帰路の山中湖畔は、日曜日の混雑が「うそのよう」な閑散だ。
しかし、日曜日の混雑が「うそ」で、平日のこの閑散がほんとうなのだろう。
別荘地の合間を抜けつつ、管理費用があたまをよぎれば、「ああ欲しくない」と、またまたいけないかんがえがうかぶ。

富士山が湖面にうつる美のポテンシャルを、関係者が努力して「減価」させるのは「マンガ文化」でもわらえない。
河口湖も山中湖も、おそらくわが家の「目的地」になることはないだろう。
ぜんぜん残念でないのが、残念だ。

人間は「不可逆性」の動物である

人間の「不可逆性」とは、なにに対してか?と問えば、「知識に対してである」がこたえだ。

脳を損傷したり、発病したりしなければ、産まれてから学んだ数知れずの「知識」を忘れることができない動物なのである。
「知識」は、たんなる「記憶」ではない。
それなら、人間よりもっとすぐれた動物に「象」がいる。

象の脳は、一度記憶したことならけっして忘れない。
人気アプリ「エバーノート」のロゴが「象」なのは、このことを強調している。

象が人間のような文明をもっていないのは、「知識」と「記憶」が別物だからである。
もしかしたら象は人間のもつ文明をもちたくないのかもしれないが、「記憶」をつかって「思考」できなければ「文明」にはならない。

こまったことに、人間には「知識欲」というほどの「欲」まである。
「もっとしりたい」
「どうなっているのか?」、それがわかったときの満足感。
この「欲」こそが、文明をつくりだした「エンジン」なのである。

画期的な「発明」が、たとえそのときに売れなくても、いつかなにかに応用されるのは、発明品に内在する「知識」が発掘されて、世に出すひとがあらわれるからである。

人間がわすれ、うしなった「超古代文明」というロマンがロマンになるのは、不可逆性にたいするありうる仮説、たとえば天変地異や破滅的な戦争が原因だったとするからだ。
つまり、前提じたいが仮説になっている。

米ソ冷戦で世界が緊張していたときに製作された『猿の惑星』は、猿が日本人であるという正体のうわさはヨコに置いて、核戦争後の地球に帰還した宇宙飛行士の物語をもってシリーズがはじまった。

この物語における「人間」が、文明をもたないのはことばをもたないという前提になっていたからである。
ことばをもたない、とは、思考をもたないこととおなじだから、文明を構築することはできない。

だから、人間がことばをもっているかぎり、それが何語であろうが、重要な知見は翻訳されて「拡散」されることになるのは「エントロピー」なのだ。

どこのだれが、どんな知見からあたらしいことをおもいつくかはだれにも予想できない。
それは、おもいつく本人にすら予想もできないからだ。

おおくの「ひらめき」は、とつぜん脳裡に浮かぶものなのだ。
じんわりとやってくることはない。
それで、「ひらめき(Flash)」という。

ところが、ひらめきを体験したことがあるひとならわかるだろうけど、「ひらめく瞬間」までのあいだ、意識的でも無意識でも「なにかを『ずっと』かんがえている」ものだ。
べつにいえば、かんがえることが日常になっているような状態だ。

よくいわれるのが、散歩中とかランニング中とか、なにげなくからだをうごかしているときに、けっこう「ひらめく」から、「ひらめき」を欲しくなれば散歩するようになったりする。
じつは、このとき、あんがいなにもかんがえていないか、べつのことをかんがえていることがおおい。

そんなわけで、職場のデスクにじっとしていて「ひらめいた」経験はあまりない。

仕事上のアイデアを求めるときほど、職場からいなくなったものだ。
こまったことに、こうしたことを経験したことがないひとが上司になったとき、職場からいなくなるこをとがめられた。

前の職場では、デスクにじっとしていることをとがめられたから、おなじ会社でもちがうことがある。
自分で職務遂行をまじめに履行するなら、やっぱり職場のデスクにじっとしていても変化がないから、とがめられようがそれは無視した。

すると、やっぱり「ひらめく」のである。

しかし、問題はひらめいたあとなのだ。
これを「企画にする」というステップをふまなければならない。

知識の不可逆性は、とうぜん提案相手にもあるから、以前のままでははじまらない。
いかに「進化」を強調するかになるのだが、自社内での進化のみならず世間の進化にも対応しなければ、へたをすれば「退化」になる。

そこで「ベンチマーク」が大切なのだ。
ただしき競合相手(ライバル)の選定である。
自社と同等なライバルは、スポーツにおけるライバルとも似ていて、相手がいるから頑張れるのだ。

そうしてみると、米ソ冷戦時代の双方が互いに頑張ることができたけど、ソ連が脱落してライバルがいなくなったら、アメリカも弱体化してしまった。

わが国は、バブル経済でアメリカを追い抜いたとおもったら、こんなものかと慢心してこころが緩んだら、思考する脳までゆるんでそのまま凋落している。

ライバルのはずがなかった中国には、とっくに抜きさられてもう追いつかない。
巨大になった彼の国の崩壊を望むのは、防波堤もないのに大津波を望むような愚論である。

ほんとうは「不可逆性」がはたらくはずなのだが、どういうわけか「カネにならない」ことばかりに投資して、凍死しそうなのはかつての同盟国ドイツとおなじであるから、べつくちをみつけないといけない。

さてどこか?
よきライバルがみつからない。

ここにいたっての「不可逆性」は、「絶対値」で思考するしかないという知恵である。

だれかに「依存」すればよい、という時代には二度ともどれないのである。

つくりかた映像の凄み

「国立研究開発法人 科学技術振興機構」というながい名前の組織が、『THE MAKING:サイエンス チャンネル』という番組で、わたしたちの生活に身近な、さまざまな「モノ」がどうやってつくられているのかを映像だけで紹介している。

ぜんぶで300本以上の「作品」数になっているが、HPではなぜか記念すべき1号の表示がなく、2号の「マヨネーズのできるまで」(1998年)から紹介している。

徹底的に、「工場見学」だけに特化した番組で、BGMだけ、ナレーションはなし、テロップに読み仮名がついて説明するだけだから、対象は小学生を意識しているのだろうけど、おとながみいってしまう内容になっている。

それぞれがだいたい15分程度でまとめられているので、ついうっかり観ていると、一時間があっという間に経過する。
いまどき、ニュースをふくめて時間のムダでしかない地上波放送を観るのなら、よほど教育的だといえるが、製作からの時間経過がやや気になるところだ。

YouTubeでは、どうしたことかランダムに映るので、つぎはなにか?という意外性もあって、一杯やりながらの家内とのひとときは、もっぱらこのシリーズを「観賞」している。

どうやってつくられているのか?という全体の流れも興味があるけど、対象物を振動させたり落としたり、その工程における「アイデア」に感心するのである。

どうしてこんな方法をおもいついたのか?
という説明は一切ない。
ただひたすら、製造工程の順番に映像もながれていく。

それで、意外な工程で「人手」や「人力」をかけているのを観ると、その「手間」の理由をかってにかんがえることになる。
日がな一日、この単純作業をすることのモチベーションはなにか?とか、余計なことまで想像してしまうが、現場ではおそらく「余計」ではないだろう。

安価で手に入る日常品が、かくも人間の手間をかけているのかという場面では、家内とふたり、ただただ驚嘆することしきりなのである。

もっと値段を高くしてもいいのに。

ましてや、食品工場ともなると、複雑な機械がでてくるたびに、気になるのが「清掃の手間」である。
おそらく、製造終了後の後片付けにおける細部までの清掃に、驚くほど面倒な労力をかける努力がはらわれているはずだ。

製品を大量に製造するための合理的機構と、衛生保持のための作業とに、放置すれば絶望的な断絶だってあるにちがいない。
このときの「メンテ」にかける手間が、製造の簡易さをうわまわれば、たちまち「合理的機構」の合理性がうしなわれる。

すると、設計者はどんな工夫をこらしているのか?
あるいは、現場ではどんなうまい方法をおもいついたのか?
そしてそれが、どのように設計者にフィードバックされて、新製品になっているのか?

じつに気になるところである。

すると、設計のための予備知識と、フィードバックが交互にやってくることがわかる。
これが、「スマイル・カーブ」の発想につながる。

スマイル・カーブとは、横軸に設計から製造をへてフィードバックされるまでの「工程」をおいて、「価値」を縦軸にしたグラフを書いたときにあらわれる、人間が笑った口元(「U」より開いた)のような曲線になるために命名されたものだ。

工業が、単純に「大量生産」をめざしていた時代、さいわいにも世界は「物不足」という時代でもあったから、「大量消費」ということがかさなって、なんでもいいから作れば売れる、ということが成立していた。

このときは、「設計」→「製造」→「フィードバック」などの各工程が生む「価値」を同格あつかいできるほどだった。
だから、スマイル・カーブはぜんぜん「スマイル」ではなくて横棒一本(「-」)のグラフになっていた。

社内でも「同格」だから、経営トップは社内各部署の「平等」を旨として決済することがもっとも重要だったし、自身の保身にもなったのだ。

ところが、あまねくモノが世の中に浸透すると、こんどは「機能」と「品質」の時代になる。
さらに、製造方法がデジタル化して、コンピューターによる機械コントロールが可能になると、適切な製造立地が途上国に移転した。

こうして、本国では「設計」と消費者からの「フィードバック」に価値がたかまって、「製造」そのものが生みだす価値が「相対的」に低下したから「スマイル・カーブ」になったのである。

さてそれで、わが国はどんなふうに産業を進化させるのか?
これをかんがえるひとたちが、「公務員だ」という倒錯が常識になってしまっている。

「有職故実=前例主義」に基盤をおく「しかない」公務員こそが、日本経済の進展をことごとく邪魔しているのに、なにをかんがえているのだろうか?
ソ連末期、ダメな経済立て直しに国家の介入を強化したら自滅したことを忘れたか、覚えてすらいないのだろう。

金融の世界だって、国内最優秀者たちをあつめて金融庁の役人にとってかわれば、わが国の金融界は世界的になれる、という幻想をまじめにかたるひとまでいる。
そんなことをするよりも、規制官庁を廃止して「自由化」一発で済むはなしである。

前世紀のおわりにできた『THE MAKING:サイエンス チャンネル』の「凄み」とは、この意味における国家介入の「絶望」を、ひたすら追求している「国立」の組織があるということなのだ。

日本語能力証明書の「偽造」

「資格」というのは信用をもってなりたつので、信用が毀損されることは「資格認定する側」からすれば死活問題である。

しかし、昨今、日本ではたらくことを希望する外国人には、日本語能力試験の認定書が「偽造」であっても欲しいという、つよい需要があるというから、これはこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、「認定書」へのつよい需要のことをさす。
それで、偽造した書類をつくって商売にしているのが、どうやら中国らしいから、これもこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、需要があるところに目ざとく供給して商売にするということである。
これぞ「ビジネス」の鉄則であるからだ。

報道によると、偽造証明書を購入して逮捕・起訴されたひとの公判で、フェイスブックで偽造業者をみつけた、ということがわかった。
このときの言語が何語だったのか不明だが、もし日本語だったらたいした情報収集力であるし、中国の業者側もどうやって記述したのか?

自動翻訳だったのだろうか?
つかまったひとたちの東南アジア各国語での「販売」だとしても、それはそれで「手間」がかかっているはずだが、代金は1万円だったというから、はたしてこの金額で海外発送までして儲かるものか?

もちろん、この「代金1万円」をどうやって支払ったのか?という問題もある。
銀行からの送金なら、1万円の送金にそぐわない高額の手数料が請求されるから、おそらく別の方法だろう。

偽造側も日本円で支払われたものを、どうやって中国で受け取るのか?
まさかクレジットカードということもなかろう。

残念ながら、記事からはわからない。
わが国を代表する「経済紙」にしてこのていたらくである。
「経済」に特化できないなら、社名から「経済」を削除するか、いさぎよく看板をおろすべきだろう。

自国公用語の言語の能力が在留資格の取得に重要な意味をもつのは、世界的には共通事項だ。
英語が極端に苦手な日本では、とくに日本語がつうじないとはなしにならない。

それで、日本人の英語力を高めることよりも、日本にきてはたらきたい外国人の日本語力を高めるほうが手っ取り早いという具合になっている。

この日本人にとっての都合のよさは、残念ながら外国人にとっても重要で、雇用主の日本人と意思の疎通ができないと、たいへん残念なことがおきると予想できるからである。

ところが、こまったことに、日本語が世界的に難易度が高い言語のひとつとされている。
それは、日本語のルーツがいまだに不明なように、どの言語体系にも属さない「独自」さと「複雑」さから指摘されていることだ。

外国人に日本語をおしえて45年になる、日本語教育の先生にきいたはなしで驚いたのは、メソッドとしてはじめに「日本語文法」を半年間でおしえきる、ということだった。

それで、はじめて日本語をならう外国人に「理解できるのか?」と質問したら、「才能です」という回答だった。
先生は、たいへん優しいひとで、難解だが半年でマスターできないなら、別の道をえらばせたほうが本人のためだとおっしゃった。

ずるずると、若い本人の貴重な人生の時間を浪費させることは、教育者としてできない、と。
何年も、何回も、似たようなパターンを経験されて導き出した、きっぱりとした決心だ。

もちろん、何年も何回も、似たようなパターンで生徒がつまずく箇所も熟知しているから、年々と教授法も進化させているのだと先生はいう。
こんなに、外国人にわかりやすく工夫できるのは、先生が外国語の達人でもあるからだ。

イヤミでないのは、生徒のことをリスペクトしているからである。
「日本語だけ」が能力ではない。
才能を見切ったら、別のチャンスを見つけさせることも教師の役目だという。

そんなわけで、先生のもとで卒業できるのは入学者のわずか20%。
しかし、その20%のひとたちが、これぞという日本語力で人生を切り開いている。
これぞ、教師と生徒の並々ならぬ双方の努力の成果なのだ。

だから、先生は、日本における教育の「甘さ」を、厳しく指摘している。
安易な教師に安易な生徒ということではない。
先生からいわせれば、安易な教師でよしとする安易な社会だということだ。

製造物には製造物責任のための「PL保険」があるが、学校には製造物責任がないことをいいことに、安易をもってよしとする。

はたして、日本にきてはたらきたいという外国人に、丁寧かつ見切りをつけさせるような、経過責任のあるぶ厚い日本語教育をしているのだろうか?と問えば、寡聞にして聞いたことがない。

日本における英語教育とおなじに、生徒ができないのは教え方の無様を無視して「本人のせい」という、結果責任だけをおしつければ、うっかり「偽造」の発注もするだろう。

人手不足に悩む経営者も、外国の他人の子どもを酷使するのではなくて、その子の人生を預かるという気概なくして、継続的に応募もしてくれなくなるのだ。

せっかく日本にやってきて、「逮捕」され「起訴」されたら、国外退去にならずとも、日本人だって履歴書の提出がはばかれる。

外国人であろうが若者の夢をうばい、犯罪者を製造する国になってしまうことの反省だってあっていい。

これではまったく、日本における『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだが、ぜんぜん救いがないから、もっと深刻で悲惨なのである。

アラブ人がもとめているもの

わたしがはじめて海外旅行をした先は、エジプトであった。
帰国後、ゆえあってそのエジプトで二年間ほど暮らすことになったのも、さいしょの旅行経験があってのことだったとおもう。
当時のカイロの喧噪が、急に懐かしくなった。

ときは、サダト大統領暗殺のあとで、ムバラク政権初期の「安定」した時代だった。

いまからすれば「観光立国」として絶対的人気がそれを裏づけていたから、外国人観光客が巻きこまれる「事件」といえば、スリか置き引きがほとんどだったが、たまに肌を露出した女性が襲われた。
しかし、「テロ」の恐怖は、この時期にはなかった。

日本をはじめとした「先進国」が、極度の「管理社会」ではないかとうたがうほどの「無秩序」にみえる「テキトーさ」がどこからくるのか?と問えば、かならずイスラム教のおしえにいきつくから、それはそれで筋がとおっていた。

なにしろ、憲法第一条でイスラム教を「国教」にさだめている国だ。
なので、役所の役人もイスラム教にしたがうのは当然だから、アラブの「I、B、M」の実用例をもっとも見聞きすることができるのが役所の窓口だった。

I:インシャラー:アッラーのおぼしめし⇒人間のせいではない
B:ボクラ:また明日⇒明日になればなんとかなる
M:マレーシュ:マ・アッラーフ・シュ⇒マ+~+シュで否定⇒ここにアッラーがいない⇒気にするな

外国人登録を自分でしに役所にいった。
職場ではエジプト人ボーイに代行させたらいいといわれたが、なにごとも経験が大切だ。

整列することができない国民性なので、窓口の人だかりが解消されることがない。
これは、映画にもなった1980年の大ベストセラー・サスペンス小説『針の目』で、作者の英国人ケン・フォレットが物語中「英国が支配したのにバスに乗るのにも列べない」と嘆いている。

 

待っていてもなんにもならないから、ひとを押しのけて役人に書類を提出し、受け取ればこっちのものである。どんなに時間がかかっても、順番どおりに処理してくれるはずだ。

ところが、3時の閉庁時間間近になっても呼ばれない。
どうしたかと、やっと人だかりが解消された窓口にいけば、「ボクラ」といわれた。ああそうですかとはいかないのは、ほんとうに明日の処理に回されるのではなく、「完全リセット」で申請からはじめないといけないからだ。

今日の未処理分の申請書類は廃棄される。
その理由は、「インシャラー」であり「マレーシュ」なのだ。
まことに便利な概念で、当人だけに都合がいいが、全員がこれをやるから「混沌」となる。
とはいえ、「郷に入っては郷に従う」のがルールだ。

しかたがないので、大声でさけびながら身もだえしたら、なんとかなった。こんなこと、日本の小劇団だってやらない演技だ。
まったくもって、「インシャラー」なのだ。
登録ができたと職場に帰って報告したら「まさか?たいしたもんだ」と、同僚のエジプト人にほめられた。

サダト暗殺の理由は、急速な「親米政策」だといわれている。
けれども、あとをついだムバラク政権も「親米」を貫いたのは、「親ソ」では国民が食えないからである。いま「親中」が進化しているのはこの点だからあなどれない。
それで、宿敵イスラエルと和平を結んだのが、のどに刺さった魚の骨のようなものだった。

ポーランドといえば「アウシュビッツ」が日本人観光客には目玉といわれていて、「人気」どころか「目的地」にもなっている。
ポーランド航空は、ワルシャワ=テルアビブ便をはじめとするイスラエル線を、地方空港からも飛ばしているのは、いまでもユダヤ人つながりが太いからである。

アウシュビッツに涙する日本人だが、これが「イスラエル」となると突如と無関心になる不思議があって、パレスチナの悲惨には反応しないのはどうしたわけか。

もしかしたら「複雑」をかんがえたくない、ということなのか?

あいかわらずアラブ人は「反米」をつらぬいているし、アラブと対峙するイランだって「反米」の権化となっている。
これに、敵の敵は味方という原理が作用するけど、「反米」で結束することがないのは、決定的に「宗教がちがう」からだ。

「スンニ派」と「シーア派」は、別の宗教だ。
日本の仏教における「派」とは、存立のレベルがことなる。

そんなわけで、われわれとも価値観がちがうのである。

戦後の日本人は、人類普遍の価値観を喪失し、経済的価値観だけで生きてきた。
アラブ人は、いまだに経済的価値観は二の次三の次なのである。

では、第一はなにかといえば、「自尊心」だ。
アラブ人の「自尊心」に、アメリカは無神経なちょっかいを出すからきらわれるのである。
それは、アメリカにも「自尊心」があるからである。

前にも書いた、アラブ人の自尊心がわかる映画『砂漠のライオン』の精神は、「実話」だからというだけでなく、本来は普遍的なものなのだ。

自尊心をなくせば、自由と民主主義も価値がなくなる。
自由と民主主義がなければ、経済的繁栄の価値どころか意味もなくなるのである。

こういう哲学を、アラブ人は一般人でももっていることを、われわれ日本人はしっていていい。