通信各社は反NHK議員をそだてるか?

悪法もまた法なり

最高裁判所は、NHK受信料についてのボールを国会に投げつけている。
しかし、おそろしく停滞しているわが国の立法府は、知らぬ存ぜぬでほおかぶりをきめこんでいるようだ。

先般の、ワンセグ放送にかかわる受信料発生の確定判決は、従来のNHK受信料支払いに疑問をいだいていなかったひとたちも、「なんだ?」とおもったらしい。
それで、ワンセグ放送を観ることが「できない」スマホが、いちやく注目をあびるようになった。

いわゆる「寝た子を起こす」判決になった。
すなわち、最高裁判所は、惰眠を貪っている国民を覚醒させようとしているのだとかんがえれば、民主主義国家なら、かならず選挙で争点になるはずの問題になると期待しているのだろう。

じっさいに、ずいぶんまえから元NHK職員だったひとが、受信料反対をうったえて、選挙にでていた。
この春の統一地方選挙で、彼の主張に賛同するひとたちが、出馬して、おもいのほか善戦しているのは、ちいさな「風」が吹いたともいえる。

ネット上で、各キャリアのスマホのうち、どの機種がワンセグに「対応していないか」が特集されるのは、機能はつけるもの、というわが国総合家電メーカーが常識としていた「セオリー」の完全否定が、あからさまにはじまった、ともいえる。

善良なる日本国民のおおくは、そんなに重要ではない、ただ付加されてしまっているこの機能が欲しくて機種を選定していたわけではないだろうから、じぶんがその機種を所有している「だけ」で、いつかNHKから請求が、しかも、購入時から訴求してくるかもしれないという「気持ち悪さ」にがまんができない。

もちろん、これは、いまどきのカーナビもおなじだから、どうしても必要な機能だと認識できなければ、わざわざ選択することもないのだが、なぜかもはやワンセグ放送の受信機能がない最新型カーナビを選べないという無理もある。

法人なら、従業員に配付している業務用スマホや社用車のカーナビについて、受信料を負債計上すべき事態なのに、国会でのガン無視はどうなっているのか?

これも、ほんとうはいらない機能を強制的に付加して、消費者に高単価で買わせようという、押し売りの果ての事態である。
メイドインジャパンとは、「消費者がもとめる上質を販売している」というのは、この意味ではとっくに「ウソ」になった。

だから、日本人の消費者は、単機能でも「上質」とみとめるなら、製造国にかかわらず、気に入った製品を購入する。
70年代のアメリカ人が、自国のテレビを買わなくてもぜんぜん気にしなかったことが、ようやくわが国でもはじまった。

しかし、だれでもしっているアイフォンやアイポッドは、もはやどの国製なのかなどの表記すらない時代だから、「メイドインジャパン」にこだわる、というのは、もはや時代遅れですらある。

経産省という役所が、この時代遅れの推進エンジンになっているのは、滑稽であり、国税を大量投下するのは国民にはおおいに迷惑な存在である。
どんなにおおきな失敗をして、損失の大穴をあけても、だれもおとがめがなく、減給すらされないのは、ふつうの民主主義国家なら許されない弛緩した状態だ。

だから、わが国はふつうの民主主義国家ではない。

NHKの受信料問題とは、この国の「伝統」になっている、国家総動員体制の一部にすぎない。

この、国家総動員体制とは、べつのいいかたをすれば、「戦時体制」のことである。

この「平時」に、戦時体制をつらぬいているのが、じつはわが国であるから、周辺国もいっしょに戦時体制をつらぬいているともかんがえられる。
周辺国がわが国を名指しして「軍国主義の復活を懸念する」などというのは、一部に認識のまちがいがある。

「復活」ではなく、「そのまんま」なのだ。

そんなわけで、あとだしじゃんけん状態になったワンセグ受信機能がついている機器の普及という事態での、受信料請求、という社会負担の無慈悲な増加は、戦時体制そのまんま状態打破の「蟻の一穴」になるかもしれない。

わが国通信業界の世界から乖離したガラパゴス状態とは、通信キャリアが機器メーカーを支配する構造にある。
マッチポンプのわが国総務省は、「見た目で」世界標準になるように、simフリー化を促すが、上記の構造にてはださない。

通信キャリアにとって、ワンセグ受信機能は果たして必須なのか?
むしろ、もはや通信業界のガラパゴス化によって、世界市場で壊滅状態になった端末製造事業を、どうするのか?に、例によって経産省さまがちょっかいをだして、よせばいいのに、液晶パネルや集積回路の失敗をくりかえすのか?

もはや、外国なかんずく中国製造業のための経産省になっている。
日本企業や技術を保護するという大義名分で、そのじつ外国企業に買いたたかれて、激安販売をしているのが経産省の「商売」になった。

ならば、議員をそだてるしか、生存の方法はないではないか。
ただし、それでも国家に依存したい、ならべつである。

被害しか被らない国民に、もはやリスクはない。
だまっていてもリスクがあるなら、投票行動してやる。

それが、統一地方選挙のちいさな「風」だったのだろう。
もしや「嵐」になるかもしれない。

過小報道の港湾ストライキ

ストライキが実施されることじたいが珍しくなったいま、ほとんど報道されないのはどうしたわけか?
しかも、22年ぶりという港湾ストライキは、長びいているから国民生活に影響がないはずはないのにだ。

ついうっかりすると,わたしたちは「島国」にすんでいることを忘れて、なんでも自給自足している錯覚におちいることがある。
簡単にいえば、わたしたちの生活物資のほとんどが、海のうえを船でやってくるのである。

「1000年間お祈りしたら、石油がでた」と、アラブ人がいっていた。
油田の探索技術と掘削技術の二つの技術がたいそう進化して、中東アラブの独壇場だった「油田地帯」が、地球上に分散してみつかった。

それでもなお、中東周辺で不穏なうごきがあると、原油価格が高騰するのはかわらない。
その原油をのせたタンカーが日本をめざすには、マラッカ海峡をすり抜けてくるしかない。

そのあとの海域の珊瑚礁を埋めたてて、領有権をいいだした国が困りものだとおもうのは、なにも日本人だけではない。
それを、「はるか遠い場所でのことだから日本には関係ない」といいはなって、訂正・撤回もしないひとが衆議院の予算委員長をつとめている。

スキャンダルで与党を責め立てるのが存立基盤になった野党のひとたちは、この発言を問題にしないから、なにをしたいのかその不純な怪しさだけが国民にインプットされるばかりだ。

しかし、与党とて、このような人物を要職に就けるのだから、なにを基幹価値としているのか怪しいのである。
そんなわけで、地方選挙で野党が勝って与党が負けても、大勢には影響ないから、国民はまんざらバカではない。

さて、マラッカ海峡を無事にすり抜けたなら、わが国を直前に、台湾海峡をすり抜けなければならない。
地図で見れば、なにもわざわざ狭くて大陸にちかい側を通らずともよさそうにおもえるが、そうは問屋が卸さない。

台湾という島の、東側、すなわち太平洋の荒波は「荒波」なんてものではない。
悪魔が宿る「三角波」のメッカで、とても危険で航行できない。
それが、中台関係に米日がからむ「台湾海峡」なのである。

だから、台湾海峡がもしも「封鎖」という事態になると、その北側に位置する港はどこも、東南アジア・中東・アフリカ・ヨーロッパ方面からの物資が遮断されることになる。
そこには、上海も、韓国も、極東ロシアもふくまれる。

当時のアメリカ人の青年トラックドライバーが、港での荷役作業にうんざりして、「コンテナ」を発明した。
おなじ規格の「箱」を運べばいい、と。
それなら、陸も海もそのまま運べて、荷役作業が機械化できる。

アメリカ政府(州政府だった)の役人は、この青年のアイデアを実現するのに奔走して、国内での実験をやった。
これはいける。

アメリカ人が立派なのは、それを「州」のものにせず、すぐさま民間に「どうやればいける」のかや、「実験での課題」を公開して、投資をうながしたのである。

日本では、港湾の整備は「自治体」のしごとだったが、県境や市境という「境界」で、管轄が分かれてしまって効率がすこぶるわるい。
もちろん、こうした制度をつくったのは「国」だから、アメリカ政府のように民間にわたすのか、とおもいきや、その真逆をいく。

つまり、国家管轄という、もっとも効率がわるい方法がえらばれたのである。
それで、横浜港、川崎港、横須賀港は、国土交通省関東整備局京浜港湾事務所がうけもっている。

ほんとうは、東京港と千葉港も一緒にしたかったのだが、東京都港湾局の猛烈な反対で頓挫した。

横須賀港は、いまでも軍港の色が濃い。
それで、横浜と川崎の港をみわたせば、目立つのはコンテナばかりである。

ベイブリッジの東京側から横浜側の左手には、灯台型をした「横浜港シンボルタワー」なるものが立っている。
ここへは、市営バスでもいけるが、内部は展望台になっている。
すぐ隣のコンテナヤードでの荷役作業をながめていると、時間を忘れる。

キリンのようなガントリー・クレーン、コンテナをそのまま夾んでうごかす特殊車両、それに大型トレーラーが、お行儀よく順番待ちをしている。
どの箱をどの順番で、どの位置におさめるのか?
いまでは、コンピューターが三次元での処理をする。

それで、ストをしているのはこうした「大手」さんの従業員だ。
需要がなくならないばら積みや、はしけをもちいた運搬方法の会社では、労働組合がないからストはない。

これが、もしやニュースにならない事情かもしれない。

従業員に本当のことがいえない

業績がふるわない企業ほど、従業員に業績発表をしない。
けれど従業員も、興味がない、から気にしない。
なぜ従業員が興味をうしなったのか?
いわれたことだけをやればいい会社だから、余計なことに興味を失っている。

会社の業績が従業員にとって「余計なこと」になったら、将来の業績の回復も見込めない。
もし、業績が回復しそうだとなっても、これらの従業員はけっして喜ばない。
「ああ、仕事がふえる」としかかんがえないからである。

もちろん、従業員に業績発表をしない会社なら、資本関係がない取引先にもおしえない。
それどころか、「秘密」あつかいにしていることだろう。

しかし、世の中のおカネをむかし「御足(おあし)」とよんだように、足がはえて勝手に歩きまわるような感覚があった。
経済は、連動しているのだから、「御足」といういいかたは、経済を適確にとらえた言葉遣いである。

だから、取引先は、入金だけでなく、自社が納入している物品の量と質をみれば、相手先がどんな状況かは把握できる。

これは、政府統計という巨大なデータでもおなじで、信用できない巨大な隣国政府の統計だって、「輸入」の量と金額はごまかせないのとおなじである。
輸出した元の国々の情報から、全体像がうかびあがるからだ。

そんなわけで、二流以下の経営者は、取引先からながれる正確な情報に、自社から「秘密」が漏れていると疑い、とうぜんに嫌疑を従業員に向ける。
こうして、人間関係まで崩れれば、組織の崩壊は目前となる。

業績の良し悪しにかかわらず、ちゃんとした経営者は業績発表に躊躇はない。
業績発表は、ある意味経営者の通信簿だというが、たとえオール1でも、恥を忍んで発表し、次期以降のバネとする。

納入業者もつかう従業員出入り口に、毎月の業績と将来予測を張り出すホテルがあった。
そこでは、パートさんも時間中に招集して、業績の「紙のみかた」をレクチャーし、どうしたらよくなるのかアイデアを募集すると公表もした。

どんなアイデアでも出したひとには金一封、そのアイデアが採用されたひとには表彰制度をもうけた。
それで、まずは「他人ごと」を排除したのだ。

すると、このはなしが取引先にも「漏れ」て、取引先からもアイデアがでてきた。
シーズン前に、地元名物の一次産品を集めたフェアをやるという「おふれ」をだして、あたらしい取引先まであらわれた。

さて、そうかんがえると、よくいう「情報の共有化」が、どれほど実務に役立つかの両極のはなしが上述のとおりである。
しかし、世の中には、まん中の事例もあるのだ。

現在の業績がそこそこ好調でも、「情報をださない」という爆弾をかかえている事がある。

なかでもそれが、就業規則や賞罰規定にかかわることだと、事あるばあいに示しがつかなくなることは容易に想像ができる。
にもかかわらず、これらの情報を従業員に提供しないのには、「中小企業」の甘えの構造がみてとれる。

従業員をもって一家を成す、という「家族主義」は、日本人のこころの琴線にふれる感涙主義でもあるのだが、うらをかえせば「なぁなぁ」なのである。

政治の世界なら、桂園時代という一時代がはるかむかしにあったものだ。
桂太郎と西園寺公望が、交互に総理大臣をつとめた時代をいう。
桂は陸軍出身で大将にのぼりつめたひとだったが、「ニコポン」というあだ名があった。

ニコッと笑って相手の肩をポンとたたく。
「頼んだよ、よろしく」という合図であって、けっして言葉にはしない。
それで、ことがなった時代だけど、いまでもあんがいかわらない。
言ってないから「忖度」ということになるからだ。

いわゆる「家長」としての社長が、わるいようにしない、と家族である従業員に約束すれば、それでよしとしたからで、あからさまに文句をいうなら、文句をいうほうが悪者あつかいされたのだ。

しかし、いまは、典型的な「家長」としてパターナリズムの権化だった、医師までもが、患者から「セカンドオピニオン」を請求されたらことわれないし、治療方針についてのわかりやすい説明と患者の同意である「インフォームドコンセント」が普及してしまった。

ならば、会社だって役所だって、ききたいことは確認する、というあたりまえがあたりまえになった。
それで、先回りして「説明責任」をはたすほうへ行くひとと、何もなかったかのようにするひととにわかれたのだ。

それで、後者たちは、ついに従業員から質問されることをこころのなかで「痛い」と感じるようになった。
そんなわけで、こわくて本当のことがいえないのである。

これは、父権の喪失ということとおなじで、「家長」の立場放棄なのである。

業績のよい会社ほど、傷が深くなる。

円満ではない円満家庭

「ポスト『団塊の世代』」である、さいきんの家庭の特徴を「円満家庭」という。
べつのいいかたをすれば、「ゆるい家庭」のことである。
よくいわれる、「理想の親子関係は友達のような関係」に象徴されている。

ことし2月に亡くなった、堺屋太一氏の通産官僚時代の作品が、『油断』と『団塊の世代』の二作に代表される。
なぜか時代のおわりには、時代を作ってきたひとが世を去る。

『油断』には、通産官僚の通産官僚たる感覚が充満していたが、『団塊の世代』を打ちだしてから、急速に官僚臭が抜けていったのはなぜだろう?
『知価革命』にいたっては、とうとう官僚批判に転じた。
「知価」を発揮するべきは民間であって官界ではないから、当然の帰結でもある。

元官僚にして、その後官僚を敵にまわす戦後の嚆矢となるのは、経団連を経団連たらしめた石坂泰三である。
このことは、別稿にて論じたい。

さて、「団塊の世代」という世代のこまったことは、とにかくその巨大なボリュームにある。
60年代のおわりから70年代初頭にかけての「若者文化」とは、この大量に存在するひとたちの、ある種ステレオタイプ的な「文化」をいった。

いまの「若者文化」とぜんぜんちがう。
いまは、価値感の「発散」で、それぞれが好きなようにすることになって、進化ならぬ深化している。
しかし、当時は、画一的で巨大だったのだ。

しかし、人口に見られるこの巨大なかたまりは、毎年、年齢をかさねるから、その都度、巨大な市場として、つねに購買予定者の中心だった。
30代の子育て世代になれば、開発されたばかりの「紙おむつ」が、発達心理学からの批判のまとになったし、40代のマイホーム購入世代になれば、住宅展示場にひとがあふれた。

そうやって、いまや後期高齢者世代という仮面にかわって、最後の影響力を巨大なボリュームがあいかわらず発揮している。

じつは、この世代のもうひとつの特徴は、父権の喪失なのである。
世の中から、「父」の存在がうすれていく。
それは、「ジェンダー」ということばすらなく「ウーマンリブ」がさかんにいわれた世代でもあった。

そして、これに、もうひとつ上、以上の中高年世代を中心とした「主婦連」が、眉をひそめて対抗した時期でもあった。
彼女らは、主婦として主人をささえる存在であったし、「地震雷火事親父」が、当然だったのである。
その象徴が、「サザエさん」の「磯野波平」というキャラクターだ。

ヨーロッパにおける「父権の喪失」とは、キリスト教の影響力衰退を意味した。
「天にまします我らの『父』」が、軽視されるということだ。
ニーチェの『アンチクリスト』が、いかに衝撃だったことか。

わが国では、とくに「70年安保」の盛り上がりをうけて、左翼がファッション性をおびた。
そこで、わが国の「父」にあたる「天皇」が、「天皇『制』」という左翼用語にそまって、「アンチ天皇」もファッションになった。

そうなると、家庭から「父」の居場所がなくなる。
その「父」とは、「地震雷火事親父」の「親父」のことだから、「父」は急速に「やさしい『パパ』」に変容しなければ、あいてにされないのである。

もちろん、これには、女性の高学歴化と社会進出がセットになった背景にある。
高校、あるいは短大をでて、就職しても数年で「結婚退社」し、あとは専業主婦としてすごす、という人生が「典型的」でなくなったとき、「主人」という概念もきえた。

主婦を低単価の労働力として「活用」する、というのも政府の戦略だったしいまでもそうだから、年収に事実上の制限をもうけた税法をつくって、「産業優先」の体制維持をはかった。
いまは、これに高齢者がくわわって、賃金単価の低減に貢献している。

当初は主婦の短時間労働だった「パートタイム」が、正社員とかわらない時間数と業務における「低単価」だけがのこった。
それで、用語も「パート労働」となって、本来の意味に気づかないようにしている。

CMが世相を反映するのは、CMが訴求したい層が「世相」をつくるからだ。
さいきんのCMにおける家族に、ほぼ「父」はでてこない。
もし「父役」の俳優が起用されていても、家事をする姿が印象づけられるようになっている。

これが、「円満家庭」なのだ。

しかし、この「ゆるい環境」では、秩序形成が困難になる。
「規範者」としての「権威」の喪失は、規範そのものの喪失を意味するからだ。
誤解のないように念のためくわえると、男が家事をしてはいけないといいたいのではない。

往年のアメリカNBCとCBSが放送していた『パパはなんでも知っている』が、「父」としてのギリギリの姿だったのは、ただしく「なんでも知っている」という「規範」があったからだ。

「規範を喪失した家庭」とは、いかなるものか?
円満になる基本要素を喪失したのだから、「不和」になることまちがいない。

これを政府が「家庭不和」の撲滅を命令したいからと、まさかの「令和」ではあるまいが、ことごとく個人の生活に介入したがる政府(地方自治体もふくむ)には、注意がひつようだ。

現代という時代はあたらしい「規範」を要求している。
伝統的な社会規範だった、「教育勅語」の完全否定を表明しているのは、現政権もおなじだ。
念のため現代語訳をネットで検索すれば、そこになにが書かれているかより、なにが完全否定の対象なのか?をかんがえさせられるにちがいない。

「狆惟ウニ」と、当時の国家元首にして大元帥のことばとしての「命令」だからいけない、というなら、おなじくその解答を現代の政府にもとめてはならない。

ちなみに、わが国の教育機関で教育勅語を設立理念や教育方針にしている学校は一校もないが、台湾にはある。

社長のリスクと部下のリスク

人間だから、だれでも「じぶん中心」に物事をかんがえる。
「自己中」は、あたりまえなのである。
しかし、そこで、一歩たちどまって再考することができるか、できないかが、ほんとうに物事をきめる。

社長にもとめられる「無謬性(まちがえないこと)」は、カリスマ性につながっているから、この間まで従業員だった人物が「社長」になったとたんに、神様のようなふるまいを要求されるようになる。

そして、社長に選ばれるような「まじめ」な人物であるほどに、その要求を「理不尽」とせず、きちんと受けとめようとして、「権威主義」の誘惑に負けるのである。

あたりまえだが、上述の誘惑をものともしない「人物」もいる。
「社長」とは、なにをする役割なのか?について、たちどまってかんがえたひとである。

こういうひとは、情報に敏感でかつ飢えている。
いわゆる「丸投げ」を嫌う。
それで、会社に持ちこまれるさまざまな情報に、みずから直接接することを「ふつう」だとかんがえるのである。

資本集約的な産業(高度な機械設備などを要する)にいれば、その導入について部下まかせにしない、という意味だ。
みずから積極的に良否を判断するための勉強をする。
そんな会社は、「小田原評定」をきらうのはあたりまえである。

労働集約的な産業(人間による仕事が主になる)では、ひとの採用について、担当者まかせにしない、という意味だ。
ホテルや旅館業は、土地と建物がないと成立しないから、資本集約的な産業であるけれど、接客のための従業員が不可欠だから、労働集約的な産業でもある。

だから、ほんとうは製造業の社長よりも、かんがえなけれなならない範囲がひろいのだ。
これに、かんがえる深さもあるから、ものすごく難易度がたかい。
その責任者としてのリスクもおおきいのだ。

一方で、社長以外の「部下」をみると、自己中でいられる立ち位置でもある。
じぶんは社長になる、とおもわなければ、よりその立場がはっきりする。
だから、現状維持が重要なのだ。

たくさんいないはずの、じぶんは社長になる、とおもっているひとは、もちろん現状維持を優先などしない。
それよりも、じぶんのしごとにおける失敗をきらう。
これは、社長のイスが近くなればなるほどにでてくる傾向で、さいごは同僚の失敗を歓迎するのである。

あたかも、現状維持とそうでないひとのかんがえかたはちがって見えるのだが、じつは本質的にはおなじなのだ。
つまり、失敗をしてはいけない、という強い思いがあるということだ。

これが、「大企業病」の病根である。
その病気をより悪化させるのが、トップによる権威主義の存在である。
だから、トップがみずからの役割に忠実で、かつ誠実ならば、大企業なのに大企業病に罹患すらしないでいられる。

ひとは、こういった会社を、尊敬をこめて「優良企業」とよぶ。
たんに、業績がよい、という意味ではないから、区別のために「超」をつけることもある。

大企業でないのに「大企業病」になってしまっている会社もたくさんあるのは、上述の「メカニズム」がおなじだからである。
だから、規模の大小はとわない。

すると、どうやって「優良企業」のようになれるのか?ということの方法論がみえてくる。

「失敗をしていい」という風土を、トップがつくればいいのだ。
しかし、これだけでは言葉遊びになってしまう。
「もの」や「こと」の本質をみるめをやしなう訓練が、組織的に必要になる、という認識がなければならない。

たとえば、「もの」の売りこみならば、採用したばあいのメリットとデメリットのかんがえられるかぎりでの比較検討だ。
ふしぎなもので、かんがえられるかぎりでの比較検討、を繰りかえしていると、かんがえる範囲の「かぎり」がひろがるのだ。

その「もの」を導入した部署いがいにも、影響がおよぶことがある。
すぐれた「もの」ほど、影響がつよい。

すると、人物評価や査定における基準が、従来の「あたりまえ」ではなりたたない、という影響もみえてくる。
その「あたりまえ」が、「失敗はゆるされない」をつくるからだ。

そうやって、居心地のよい、けれども業績がふるわない企業ができて、従業員から見放されれば、人材もあつまらないという循環になる。
人口が減っているからしかたがない、のではなくて、そういった循環を自分たちでつくっているのだ。

なぜなら、応募がたえない会社はたくさんある、という事実がしめしているからである。

韓国発の英語教育革命

国家間の軋轢は横にして、個人の情報発信が「時代を変える」なら、それを「革命」と表現しても、許されるだろう。

「がっちゃん」と名乗る女性が、ついこの間、ユーチューブに動画をアップしてすぐにシリーズ化し、別途有料チャンネルまでできた。

本人の流暢かつ早口な日本語ナレーションと、日本語字幕に手描きイラストだけの映像ではある(つまり「顔出し」していない)が、ここで展開されているのは、彼女曰く「英語戦死者」のための英語学習講座なのである。

だから「革命」なのは、その解説の中身にある。

彼女の主張によると、どうやら韓国における英語教育方法がわが国と「そっくり」らしく、「やたらと文法用語を多用して」英語初学者の頭脳を混乱させているという。

それは、すでに英語を理解できたひとたちによる「後付けの文法解釈」なので、初学者にとっては意味不明だから、つぎつぎと「英語戦死者」を量産しているというのである。

東京の外国語大学に留学経験があるというから、両国の言語教育事情に通じているのだろう。
さらに、前提として「日本語(≒韓国語)の特徴」を強調しているのが「新鮮」なのである。

むかしから、日本語と韓国語の類似性は指摘されていた。
わたしは、韓国語をしらないから、深入りせずに彼女のいう「日本語の特徴」をトレースすれば、語順が変わっても意味が変わらない、ことだという。

これは、「助詞」(が、も、の、を、、、)による機能性の特徴で、欧米系の話者が日本語や韓国語を学ぶときに、最悪の困難さにランクづけされていることからもわかる。

欧米系の言語は、助詞による機能を「場所」によってあらわすからだ。
すなわち、「語順」が、そのまま「日本語の助詞の意味」をなす。
だから、主語(だれが)+動詞(なにをする)+なにを+(どうやって)+どこで+いつ+(なぜ)という順番のルールが厳密なのだ。

すると、さんざんいわれてきた「基本五文型」でいいたいのは、じつは、
主語(S)+動詞(V)
主語(S)+動詞(V)+補語(C)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)+目的語(O)
主語(S)+動詞(V)+目的語(O)+補語(C)

のうちの共通部分である、主語(S)+動詞(V)「だけ」であって、補語や目的語がどうつながるかは、ほとんど初学者が気にすることはない。
+なにを+(どうやって)+どこで+いつ+(なぜ)という順番のルールをさいしょに理解するほうが、はるかに有益で、この順番がわかってから、ゆっくり五文型を学べばいいのである。

ちなみに、(どうやって)、(なぜ)をカッコで表記したのは、中学校ではならわず、高校英語の範囲になるからである。
この場所の配置方法がわからない生徒に、五文型をやるとますます混乱することに気がつかない教師のほうがおそろしい。

整理すれば、語順を変えてしまうと「意味が崩壊する」という特徴があるのが英語、語順を変えてしまっても「意味がつうじる」という特徴があるのが日本語≒韓国語ということをあらかじめしっていることは、とても重要なことなのだ。

それをおしえずに、徹底的な「和訳」をさいしょからおしえるのは、幕末の武士たちがなんとしても知ろうとした「なにが書いてあるのか?」にたいする執念の因習なのだ。
だから、「暗号解読」のようなことになる。

たとえば、This is a pen.
This=これ、is=は、です、a=一本、pen=ペン、とならうから、あとになって、Be動詞と一般動詞だけでも混乱するし、数えられる名詞と数えられない名詞にたいしての「冠詞」のつかいかたでも、大混乱することになる。

新学期がはじまって、いまごろはまだ、みんなついていけているだろうが、徐々に生徒に混乱がうまれること、確実で、これがついに、そして、毎年のように英語脱落者=英語戦死者の山を築くことになる。

この惨状に、教師たちはいったいどんな「反省」をしているのだろうか?
この疑問すら、ナンセンスなのは、百年以上も英語戦死者の山を築いてきたかれらに、203高地の責任をとった軍人の爪の垢ほどの感覚もないからで、何年も「おなじ教授法」が一子相伝のごとく変更されないのだ。

最悪なのは競争がない、公立学校。
つぎに、文科省の軍門に降るしかなくなった私立学校。
これらの「ダメ」を補うためにできた、学習塾・予備校。
そして、ついにユーチューブ動画における「画期・革命」がやってきた。

学習塾・予備校・ネット動画、これらの共通点は、文科省と関係なく自由であって、顧客獲得競争・顧客満足度競争がおこなわれているということにある。

画一的な教育にたいする批判は、ずいぶんまえからされているが、学習行為である「授業」の画一性をこわすことができないなら、授業の「品質」こそが勝負なのだ。

これを、「サービス・品質」という。
教育も、サービス業だからである。

教職は「聖職」とされてきた。
将来の国家をつくる、人材養成とは、まさに「人間形成」という崇高な理想があったからである。

しかしながら、「科挙」である「高等文官試験」という、開発独裁国家が採用した、わが国歴史上はじめての方式こそが、出世の手段、とみなされるようになって、「人間形成」という崇高な理想をうしなった。
まさに、トレードオフの関係のようになってしまったのだ。

成績優秀者は、国家あるいは地方「公務員」になる。
なかんずく「上級職」となれば、とうぜんに民間への人材供給が枯れるのである。

付加価値をつくるのは民間のしごとだから、民間が枯れれば国家が枯れる。
もう、国家優先という価値感もやめたほうがいい。

その意味でも、「がっちゃん」による革命は「画期」をなすのだ。

チャンネル登録者10万人突破というのは,「シルバー・クリエーター」として位置づけられている。
100万人でゴールド、1000万人でダイヤモンドとなっている。

日本語による英語学習者が対象だから、限界はどこまでなのか?はあるけれど、つぎのステージに期待したい。

ドレスコードがない

日本人は、自由の「はきちがえ」をしている、とずいぶんまえから指摘がある。
「本来の」自由と、「にせものの」自由とは、なにがどうちがうのか?

ガラパゴス化した日本の自由とは、なにをしてもいい自由、のことで、枕詞に「他人に迷惑をかけないかぎり」がくっついて、親が子どもにいいきかせる小言とおなじになる。

自由の本場、英米を中心とした国々では、「他人からおしつけられることなく、じぶんでじぶんの人生を決める自由」をいう。

これが行きついたのは、スイスにおける麻薬摂取所の開設だった。いまでは、30カ国、オランダやドイツ、カナダ、スペイン、デンマーク、そしてフランスにもある。

スイスではもちろん「国民投票」できまったから、行政が各町の町はずれに、あたかも日本の交番のようなちいさな建物をたてて、ここに専門家を配置し、やってきた常習者が希望する麻薬を無料で打ってあげる。

その後は、この施設内の休息所にて至福の時間をすごすことになっているから、幻覚がある時間、本人は外にでることはない。
「乱用」となって急死しないような配慮と、入手のため犯罪に手を染めることを防止する、という社会的機能が必要だとみとめられたわけだ。

しかし、この決定には、じつにドライな概念があって、麻薬常習者を救うというよりも、社会に対して安全に、しかも確実に世を去ることを、本人の選択だ、としていることである。
いうなれば、社会が「廃人」を認めたのである。

誤解がないように添えるが、もちろん、本人が悔いて「治療したい」と希望すれば、すぐに病院に行けるが、中毒症状の完治まで病院から出ることはできない。それも、本人の選択だからだ。

自由の「本家」たちは、自由について厳しいのである。

これを裏返したのが、ソ連にあった「自由剥奪」という刑罰だ。
人間が動物として持っている「欲(生理的・本能的:食欲・飲水、排泄、睡眠、体温調節)」に対しての自由を国家がうばう、という刑罰とは、人間性の否定でもあった。

つまり、たんに「自由」といっても、たいへんに守備範囲がひろいことばなのである。

そんなわけで、電車の床に直接座りこんだり、車内で化粧をしたりするのが「自由」だという主張は、自由の「本家」からしたら、たんなる「マナー違反」にすぎない。

電車の床は人間が座る場所ではないし、電車の車内は化粧室ではない。

マナーとは、人間社会における相手を思いやる最低限のルールだ。
だから、マナー違反は、他人に迷惑をかけているから、「自由」にしてはいけないのである。

お行儀よくすることと、マナーが混同されて、ぐちゃぐちゃになってしまったのが昨今の日本社会である。
それが、自己主張と権利という概念につながって、もはや、こうしたマナー違反を他人が注意することもはばかれることになった。

注意した側が、相手からどんな攻撃をされるかわからなくなった。
いきなり刺されることだって起こりうるのである。
とにかく、みなかったことにする、なかったことにする、ということが、もっとも安全な対策になったのだ。

そんなわけだから、高級ホテルに「ドレスコード」がない。

服装というものは、身だしなみだけでなく、TPOに応じた場所ごとのルールがある。
酷暑なら、短パンにTシャツでいたいところだが、そんなときの婚礼や葬儀にそんな格好で参列するひとはいない。
周囲からあやしまれて、じぶんが恥をかくからだ。

中身のじぶんは変わらないのに、服装が決定的な役割をになっている。
だから、一方で「コスプレ」が世界的に認知されるのだ。

このことをわかりやすく書いてあるのが、マーク・トウェインの傑作『王子と乞食』である。

児童文学だからといって、ほんとうに子どもの時分に読んだものは、「原作」に忠実な訳だったのか?というと、あんがいあやしい。
かなり省略されていることもある。

その省略は、現代の(日本の)価値感が基準になっているばあいもあるから、それなりにおとなになってから読み返すのは、意味のあることだし、あたらしい発見もある。

たとえば、『ロビンソン・クルーソー』もその好例だ。

 

見よ、この分量とページを埋めつくす段落なき活字の海を。
絶海の孤島から、アヘン貿易で儲けた主人公は日本をめざす冒険もする。
これが、「児童文学」なのか?

もちろん、『王子と乞食』の時代背景を理解するには、シェークスピアの『ヘンリー八世』は不可欠だ。

こうした、歴史から、カーライルの『衣装哲学』がうまれたのだろう。

かんたんに「衣装」とはいうものの、奥が深いのである。

先進国の高級ホテルで、ドレスコードを明確にしない、できない国になっいるのは、恥である、という「恥」をもわすれてしまったのか?

世界に通用することではない。

フルサービスの理髪店

散髪の需要は、ひとに髪の毛がはえるかぎりなくならない。
それに、少ない資本で開業できるので、個人事業としてうってつけでもあるから、夫婦で営む店がおおいのは当然だ。
また、売上が「現金」だし、その本質は「技術料」だから儲かるのである。

理容と美容の垣根は、ざっくり「顔そり」ができるかできないかである。
ほんとうにひとがサルから進化したのかどうかしらないが、ひとの顔は毛でおおわれていないようにみえるけれど、じつはうぶ毛がけっこうはえている。

ひかりの加減で、可愛いかおをしたひとにうぶ毛があるのはまだしも、あんがい若い女性でも「ヒゲ」が濃いひともいる。
そんなひとは、理容店にいって顔を剃ってもらうとスッキリするし、化粧の「乗り」がよくなるという。
だから、理容・美容には、利用するのに男女の区別はない。

歴史をさかのぼれば、ちょんまげと日本髪だった江戸時代まで、「床屋」といえば「髪結い」のことだったが、すでに男女の区別があった。
ちゃんとしたちょんまげは、月代(さかやき)を剃らないといけない。

時代劇で、青々と剃っているかつらをつけるのは、役柄もちゃんとしたひとで、これを好き放題にのばしたままだと、浪人や博徒など、ちゃんとしていないひとのキャラクター・シンボルとなった。

だから、男性には「剃り」がつきものだったけれど、髪は女の命だった女性側は、そもそも「結う」ことはあっても切ったり剃ったりはない。
それで、女性のための髪結いは、店をもつより顧客先に出向いていたようだ。

明治になると、西欧文明的でない「日本髪」が、なんだか「恥ずかしい」ことになった。
岩倉使節団が伝統的スタイルで欧米を歴訪して、絶賛されたことは、新聞すらもなかった時代に、関係者以外だれもしらなかったのだろう。

世にいう「断髪令」がでたのは、明治4年だが、同じ年の岩倉使節団が出発する前で、これは誤解があるがちょんまげ禁止令「ではなく」髪型自由令だった。

しかし、明治6年に福井で3万人からなる「散髪・洋装に反対する一揆」がおきた。
時代の変わり目にたいする、文化のちからが、良くも悪くも「あった」ことは、あんがい重要なことだ。

いまのひとはこんな一揆を「笑う」かもしれないが、100年後の子孫たちが、いまの時代を「笑う」かもしれない。
明治だといっても「一揆」だったから、首謀者は6人も死刑になっている。

かれらが命がけで守ろうとしたものは、なんだったのか?
わたしたちが忘れてしまったものにちがいない。

牛丼チェーンのすきやには、文明開化当時の絵が壁にある。
ちょんまげに着物のひと、散髪のひと、ドレスをまとった女性。
これは、いまよりもかなり服装や髪型に「主張」があったことをしめしている。

女子大生の卒業式で定番となった「ハイカラさん」スタイルは、洋装と和装のハイブリッドであるが、日本以外ではみることができないから、まちがいなく「和装」の範疇になるのだろうが、なんともすさまじい主張の「発明」である。

ひとむかしもふたむかしも前までは、床屋談義は落語の世界だけでなく現実の、ごくふつうの風景だった。
町内にだいたい床屋は一軒あって、ご近所さんしかお客がいないから、待ち時間がおしゃべりタイムになるのである。

組合がさだめた料金で統一されていて、たいていが「フルサービス」の散髪・洗髪・顔そりをしていたから、ひとりのお客に最低30分はかかる。
子どもでも手間はおなじだから、じっと座っているのはつらかった。
だから、「運がわるいと」一時間待ちはふつうだったのだ。

ちょっといってくる、といって混みそうな時間にじぶんの家から散髪屋にきて、くつろぐ商店街の店主たちもたくさんいた。
もちろん、髪を切ってもらいながらも、会話はつづくのである。
そうかんがえると、客にも店にも余裕があった。

ちょんまげの「さかやき」は、ヒゲと同様すぐにのびるから、これを剃るのも毎朝の身だしなみである。
この「身だしなみ」という伝統で、紳士たるもの月一度の散髪は、おしゃれというより社会的義務だったのだ。

35年前、エジプトのカイロにすんでいたころ、やはり散髪はひつようだから、町の床屋へいっていた。
「へー」とおもったのは、フルサービスの中身がおなじだったからで、やっぱり「床屋談義」をやっているのだ。

かれらが床屋に足しげくかようのは、身だしなみ以前の「衛生」という需要がつよかった。
アラブ人には成人男性はヒゲをたくわえるものという常識があるから、ヒゲをそり落とすわたしは「あやしい男」だったようである。

それでか、二回目からは「顧客」になって、だまっておなじ髪型にしてくれて、それからは町や国のいろんな事情をおしえてくれるようになった。
これに、待っているお客もはなしにくわわるから、おわってもなかなか帰れない。
ちゃんと紅茶もだしてくれて、くつろげるのである。

最近は外国人旅行者に、日本の理容・美容室が人気だという。
日本的なこまやかなテクニックが話題になるが、会話「こそに」魅力があるのではないか?

じつは、いろんな事情をしることができるから、理容・美容室は「情報産業」なのである。

日本の中途半端なやさしさを否定したWTO

日韓関係は「最悪」になっているが、政治ではなく「科学」でかんがえると、本件はまっとうな判断なのではないか?
むしろ、これをそれぞれの政府が政治に利用したがるだろうし、それを支持するひともでてくる。だから、やっぱりまっとうなそれぞれの国民には迷惑なことだ。

日本では相手が韓国だからという理由なのか、このたびのWTOの「逆転敗訴」が、あたかも「不当」のような主張がなされている。
しかし、福島原発事故による八県(青森、岩手、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、千葉)の水産物輸入にかんして、いまだに禁輸措置をしている国・地域は23もあるのだ。

ほんとうに「不当」なのであろうか?

問題の核心は、「安全性」にあるのは当然だが、「日本政府が『安全』宣言している」から安全だということは「科学的」にいえない。
さらに、日本政府は「科学的」だと一審で事実認定されたこと自体は維持されているともいっている。

「科学」にもとづいているから、「安全なのだ」という「主張」なのであるが、今回の上級委員会は、「WTOでは食品の安全性について科学的証拠が不十分な場合、暫定的に規制を認めている」との韓国の主張に対し、日本は反論しなかったとも指摘」しているのだ。

すると、あたかも「反論しなかった」日本側の落ち度が「痛い」ことに矮小化されそうだが、「反論『できなかった』」のではないか?という疑問すらうまれるのである。

なぜそんな疑問がうまれるかというと、日本政府は事故以来一貫して(民主党政権から現行政権になっても「一貫して」)、放射線物質による汚染状況をほとんど発表していないどころか、隠蔽しつづけているからである。

この態度は、100億円以上かけて開発していた「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information、通称:SPEEDI)」というものの存在すらひろく国民が認知していたわけでもなく、しかも、「試算」であって「誤解をまねくおそれがある」という理由で、事故後に計算結果の発表もしなかった。

のちに、政府は発表もしなかったことを「謝罪」しているが、放射線による影響という問題だから、「ごめんなさい」ですむはなしではない。
国民の「被爆」について、まったくの無責任を貫いただけであった。

さらに、愕然とさせたのは、事故後、放射線の安全基準が「変更された」ことである。
「一年間に1ミリシーベルト」まで、を金科玉条のごとくまもってきていたはずなのに、なんの根拠かわからないうち(いまだにわからない)に、「20ミリシーベルト」になった。

この根拠不明のあたらしい基準で、ものごとがかたられるようになったけど、国内では「基準内だから安全」となって、マスコミもこの情報をたれながした。

いわば、「大本営発表」になったのである。

むかしの戦争の「反省」などぜんぜんしないで、ただ「戦争はいけない」と唱えれば戦争にならないという「宗教」だけでやってきたから、あっさり「大本営発表」にのってしまうのは、脳の劣化である。

日本政府は国内がおさまれば、あとは関係ないという「鎖国」をモットーとしているから、国内情報操作に成功してホッと息をついたら、おおくの外国が「安全性に疑問がある」と、「禁輸」の措置をとったので、あわてて国内での「成功体験」で押したのである。

それで、とうしょ禁輸を54カ国がしたが、上述のようにいまは23に「おさまって」いる、という具合である。
大親日でしられる台湾すらいまだに禁輸していると、韓国を前面に出すマスコミは「そっと」伝えるのも、いかがなものか?

そんなわけで、われわれ日本国民は、どんなふうに「汚染」されているのかもしらず、基準値の「科学的根拠」もしらず、政府や農協が「安全」というから「安全」なのだ、といってWTOがおかしいといっているのだから、冷静にみればどちらがおかしいのかはあきらかだろう。

これは、中途半端な「やさしさ」が諸悪の根源なのである。

漁業従事者の生活をどうする?
農業は?水は?なかんずく除染ができない山中の山菜や野生動物は?
そもそも、ひとが住みつづけていいのか?

事故後のネット上のニュース番組で、保守系論客を自認している有名女性ジャーナリストと、自由な報道をめざす若いジャーナリストとの対談があった。
若者が、「放射能の影響を報道しないのは犯罪的だ」と発言したら、「そんなことをいったら当人たちが可哀想だから、ぜったいに報道してはいけない」といいきって、若者が絶句していた場面がある。

すくなくても第一次産業はなりたたないとか、もう住めないから永久避難だとかいったら、可哀想だということだ。
それに、汚染でどこまで「放棄」しなければならないかを「厳密」にしめしたら、東日本全体になるかもしれないし、そうなったら「パニック」になって国家がもたない。

この有名ジャーナリストは、政府のお先棒をかつぐのが「『保守系』ジャーナリズム」だと自己定義しているにちがいない。
それなら、わが国の報道機関のありようが、たしかに見えてくるから「失言」ではないが、こんな人物の発言をありがたがることはない。

可哀想なのは、なんにもしらないで発病してしまうひとたちである。
もちろん、このなかにわたしもふくまれる。
かつての「水俣病」や「イタイイタイ病」の教訓が、ぜんぜんいかされていないどころか、ガン無視されているのだ。

こころを鬼にしてでも、事実を事実として伝えるという愚直さがなければならないが、もうそんな気概すらないのだろうか?
最初から無責任な政府に期待はできないが、気概をもって国民が求めないからこうなるのだ。

健康な国民がいるかぎり、国家がもたない、という理屈はないのだ。

ことばだけで科学をいう国が、これからの将来、「科学技術立国」などできるはずがない。
そんな基盤がない国で、もっと高度な「観光立国」など、夢のまた夢である。

Capitalization Rate がしめすバブル

金融における異次元緩和という「麻薬」をたっぷり吸い込んだために、じぶんでかんがえることができなくなった日本の経済は、財界もなにも、こぞって政府依存していると批判をくり返してきた。

日銀の金融緩和「しか」中身がない、「アベノミクス」なるものは、たんなる「イリュージョン」であるし、むしろ政府が富を分配する役割を負うことを推進するから、社会主義経済を強化する「トンデモ」政策である、と。

だから、アベ左翼政権が、「一強」になっているのだとも書いた。
もともと左翼政党しかない「野党」にあって、かれらの主張を丸呑みしているのがアベノミクスだから、政権批判の対象がスキャンダルしかなくなってしまうのだ。

そういう意味で,「野党はアベノミクスにかわる経済政策をしめせ」という、もっともらしい有名評論家の「評論」は、的を外している。
野党の本音は、アベノミクスの「もっと強力な推進」になるからである。

すなわち、もっと「麻薬をくれ」という、悲劇的な叫びになる。
だから、野党の支持がぜんぜんない、ということになって、まるで自民党の一人勝ちにみえるが、単純に「選択肢」がない、というだけの、やっぱり国民には悲劇的な現象なのだ。

アベノミクスの「イリュージョン」は、おカネを市場に大量供給すれば、デフレからインフレになる、という説明だが、この目的にみあった現象が実現しないから、いつのまにか看板をさげた。

その前に、あまったおカネで株価があがって、株式投資しているひとたち「だけ」が、得をしたようにみえた。
ところが、いろんな事情から株価が「やばく」なって、株価を支えようと大量買いして、とうとう日銀が日本株の「大株主」になってしまった。

こうして、市場に供給された、ヘンテコなおカネが、企業の設備投資ではなく、例によって不動産にむかっている。
しかし、静岡の銀行がしでかした「不正融資」で、事業用不動産に貸し出すな、という命令を金融庁さまがだしたから、居住用不動産に集中しているのである。

人口が減るトレンドが消えるわけもないわが国で、とっくに新築住居が世帯数を超えているのに、みなさまのご近所では住宅建築のつち音も消えていないだろう。

自動車に次ぐすそ野が広い産業は、住宅産業である。
家具などの動産をふくめ、さまざまな物品の需要がうまれるからだ。
それで、これが「景気対策」になっている。
「空き家」には、目もくれないのが特徴だ。

Capitalization Rate というのは,いわゆる「キャップレート」といわれるもので、不動産投資の利回りをしめすものだ。
用語として、「還元利回り」とか、「収益還元利回り」とか、「期待利回り」ともいうが、みな「キャップレート」のことである。

計算方法は単純で、純利益(年間) ÷ 不動産価格、である。
これを、逆算して、年間「期待」利益 ÷ キャップレート、で「収益から見込んだ不動産価格」が計算できる。

なお、「純利益」とは、必要経費を差し引いた利益のことだから、あいてが不動産だと「管理費」や「修繕費」などの大物経費を引き算する。
これらは、人手不足の昨今、増加傾向にあるから、いくらぐらい稼げるのか?という「期待」との関係では、マイナス要因になっている。

いま、東京の居住用不動産のキャップレートは、リーマンのころから半減して、おおむね3%台にある。
これだけ金融緩和してもインフレすなわち物価があがらない、物価のなかには「賃料」もふくまれている。

つまり、賃料はかわらないかむしろ下がっている状況にあるから、キャップレートが下がっているということの理由は、不動産価格が上昇している、という意味になる。
すなわち、バブルではないか?

政府がバブルをつくりだす、というのはあんがい伝統的な政策手法だから、いまさら感があるのだが、昭和の終わり=平成のはじまりの「バブル」をおもいだせば、この「政策のワンパターン」に、あきれるほどのお気軽さを感じずにはいられない。

令和における「バブル崩壊」は、どんな事態になるのだろうか?
もはや余裕のない金融機関が、はたして耐えられるのか?どころか、日銀すら耐えられるのか?

ちなみに、キャップレートをもちいる「収益還元法」は、投資家にとっての正攻法だから、不動産売買の対象ににもなる旅館やホテルにさんざん適用された。

いまどき、自社ホテルが、簿価で売れる、とかんがえる経営者はいないだろうが、純利益がいくらだから、いくらの不動産価値になるという計算はたまにでもやっておくとよい。

周辺のアパートやマンション賃貸業より利回りがわるいなら、よほど経営がうまくないという指標になる。
また、簿価が現実に役に立たないことをしれば、なんのための「簿価」なのか?ということにも気がつくものである。