春である。
進学、進級、就職と、ひとが人生のふしめをむかえて、なんだか気分がたかまるじきだ。
暖かさにつられて、そろそろ子どもに自転車をあたえようか?
しかし、あんがい悩みだすと決められないかもしれない。
交通ルールがちゃんとわかるのか?
公園での乗りまわしだけに限定しようにも、おそらくそうはなるまい。
近所の交通事情をかんがえれば、やはり危険ではないか?
そんなこんなで、わたしはとうとう自転車を買ってもらえなかった。
なぜか妹が買ってもらったから、その自転車で練習した。
高校生になって、じぶんの小遣いで、友人から中古のサイクリング車を購入して、通学につかっていた。
ひとりで乗れるようになると、補助輪がじゃまになる。
それで、かってに父親の工具をだして、補助輪をとりはずして乗りまわしていたら、帰ってきた妹と大げんかになった。
まだ補助輪がひつような妹は、わたしの自転車をどうしてくれる、というわけだ。
しかたないので、また補助輪をつける。
これを何度かくり返して気がついたのは、妹にはやく補助輪なしで乗れるようになってもらうことだった。
それで、いっしょに広場へ練習にでかけてコーチしたものだが、妹は急にやさしくなった兄をいぶかったのはいうまでもない、、、のもつかの間、すぐに魂胆を読みとられたから、子どもだってばかにならない。
わたしの魂胆がおおきくはずれたのは、妹が補助輪なしで乗れるようになったら、じぶんの自転車をひとりじめして、わたしが乗れなくなったことである。
それで、同級生の弟の自転車にめをつけた。
これは、擬人化してかんがえると、上司と部下の関係にも読もうとおもえばよめるはなしになる。
わたしという人間が、だんだんと補助輪と一体化していくのである。
そして、部下がひとりだちできるようになると、わたしという「上司」が部下の成長に,こんどはじゃまになるのだ。
それでまた、あたらしい部下がやってくる、という循環である。
もちろん、ひとりだちできた「部下」も、あたらしい「部下」を得るようになって、じぶんが補助輪の役になる。
ところが、ここで「DNA」のコピーミスが発生することがある。
それは、「補助輪になる」ということを、本人が承知していないことが原因である。
つまり、さいしょの上司が、部下の卒業時に「上司は補助輪だ」という種明かしをちゃんとしていないことがいけない。
それで、「じぶんが」という主張がさきにでて、できない部下をなじれば、一気に「上から目線の立場」が確立するのである。
それで、一歩まちがえば「パワハラ」になってしまう時代になった。
部下育成には、上司の献身的な努力がひつようなのだということを、わすれてしまった「上司」と「部下」の悲劇である。
そうしてかんがえると、じぶんが補助輪ではなく、「じぶんが」だけしか認識できていない人物にとって、部下の育成とはナンセンスなものになる。
第一に、部下はかってに成長するもので、それは不断の自己研鑽による、という理屈である。
第二に、できない仕事をできない部下のせいにすることができる。
第三に、部下だって「おとな」であるという都合のよいいいぶんがある。
つまり、部下は上司をもり立てるべき存在である、という認識だ。
これは、封建時代の「大将」の発想のようでもある。
「会社は学校ではない」という経営者も存在する。
当然である。
しかし、「社員教育」が機能として内在するのが会社であるから、一刀両断で決めつけることはできない。
「スピードがもとめられる時代」
これは、部下の育成もおなじで、あるレベルまで、いかにはやく育成できるか?という意味になる。
じつは、ここに「人件費」も関連する。
「一人前に『なる』のに10年かかる」というのは、「一人前に『する』のに10年かかる」というのとおなじで、会社組織なら「なる」のではなく、意志として「する」からである。
これまで、10年かかっていたなら、なんとか9年でできるようにする。
一人前になるのに1年はやくなれば、1年分の「差額」を企業は手にすることができる。
5年ならどうだ?
これを実現させる方法のカギは、おそわる側よりもおしえる側にある。
いかに上手におしえることができるのか?
という研究なくして、達成できない。
すると、どんなに業務に精通しているベテランでも、その「やり方」を他人に、ましてや「素人」に教え込むのは、じつはたいへんに難しいのだ。
だから、ふつうはできない。
それで、「10年」ときめつければ、楽ができるのだ。
しかし、「スピードがもとめられる時代」に、会社はそうはいかない。
上司が「補助輪」になれる組織風土が、これを達成するのである。