上司は「補助輪」である

春である。
進学、進級、就職と、ひとが人生のふしめをむかえて、なんだか気分がたかまるじきだ。

暖かさにつられて、そろそろ子どもに自転車をあたえようか?

しかし、あんがい悩みだすと決められないかもしれない。
交通ルールがちゃんとわかるのか?
公園での乗りまわしだけに限定しようにも、おそらくそうはなるまい。
近所の交通事情をかんがえれば、やはり危険ではないか?

そんなこんなで、わたしはとうとう自転車を買ってもらえなかった。
なぜか妹が買ってもらったから、その自転車で練習した。
高校生になって、じぶんの小遣いで、友人から中古のサイクリング車を購入して、通学につかっていた。

ひとりで乗れるようになると、補助輪がじゃまになる。
それで、かってに父親の工具をだして、補助輪をとりはずして乗りまわしていたら、帰ってきた妹と大げんかになった。
まだ補助輪がひつような妹は、わたしの自転車をどうしてくれる、というわけだ。

しかたないので、また補助輪をつける。
これを何度かくり返して気がついたのは、妹にはやく補助輪なしで乗れるようになってもらうことだった。

それで、いっしょに広場へ練習にでかけてコーチしたものだが、妹は急にやさしくなった兄をいぶかったのはいうまでもない、、、のもつかの間、すぐに魂胆を読みとられたから、子どもだってばかにならない。

わたしの魂胆がおおきくはずれたのは、妹が補助輪なしで乗れるようになったら、じぶんの自転車をひとりじめして、わたしが乗れなくなったことである。
それで、同級生の弟の自転車にめをつけた。

これは、擬人化してかんがえると、上司と部下の関係にも読もうとおもえばよめるはなしになる。

わたしという人間が、だんだんと補助輪と一体化していくのである。
そして、部下がひとりだちできるようになると、わたしという「上司」が部下の成長に,こんどはじゃまになるのだ。
それでまた、あたらしい部下がやってくる、という循環である。

もちろん、ひとりだちできた「部下」も、あたらしい「部下」を得るようになって、じぶんが補助輪の役になる。
ところが、ここで「DNA」のコピーミスが発生することがある。
それは、「補助輪になる」ということを、本人が承知していないことが原因である。
つまり、さいしょの上司が、部下の卒業時に「上司は補助輪だ」という種明かしをちゃんとしていないことがいけない。

それで、「じぶんが」という主張がさきにでて、できない部下をなじれば、一気に「上から目線の立場」が確立するのである。
それで、一歩まちがえば「パワハラ」になってしまう時代になった。
部下育成には、上司の献身的な努力がひつようなのだということを、わすれてしまった「上司」と「部下」の悲劇である。

そうしてかんがえると、じぶんが補助輪ではなく、「じぶんが」だけしか認識できていない人物にとって、部下の育成とはナンセンスなものになる。
第一に、部下はかってに成長するもので、それは不断の自己研鑽による、という理屈である。
第二に、できない仕事をできない部下のせいにすることができる。
第三に、部下だって「おとな」であるという都合のよいいいぶんがある。
つまり、部下は上司をもり立てるべき存在である、という認識だ。

これは、封建時代の「大将」の発想のようでもある。
「会社は学校ではない」という経営者も存在する。
当然である。
しかし、「社員教育」が機能として内在するのが会社であるから、一刀両断で決めつけることはできない。

「スピードがもとめられる時代」
これは、部下の育成もおなじで、あるレベルまで、いかにはやく育成できるか?という意味になる。

じつは、ここに「人件費」も関連する。
「一人前に『なる』のに10年かかる」というのは、「一人前に『する』のに10年かかる」というのとおなじで、会社組織なら「なる」のではなく、意志として「する」からである。

これまで、10年かかっていたなら、なんとか9年でできるようにする。
一人前になるのに1年はやくなれば、1年分の「差額」を企業は手にすることができる。
5年ならどうだ?

これを実現させる方法のカギは、おそわる側よりもおしえる側にある。
いかに上手におしえることができるのか?
という研究なくして、達成できない。
すると、どんなに業務に精通しているベテランでも、その「やり方」を他人に、ましてや「素人」に教え込むのは、じつはたいへんに難しいのだ。

だから、ふつうはできない。
それで、「10年」ときめつければ、楽ができるのだ。
しかし、「スピードがもとめられる時代」に、会社はそうはいかない。

上司が「補助輪」になれる組織風土が、これを達成するのである。

憲法違反の財務省設置法

藤井聡京都大学教授は、内閣参与としてもマスコミに登場していた有名人である。
そのひとが、内閣参与時代にも内閣に対してこの発言をしていたというから、ちょっとおどろいた。

このブログでも、ずいぶん憲法についてかたってきている。
一介のコンサルタントが、大仰なはなしをするのは、それがわたしたちと「つながっている」からである。
だから、じつは、たいそう身近なはなしなのであって、とおい別世界のはなしなどではないからだ。

「日本国憲法」というものを、ちゃんと学習することなくおとなになるのが、日本国民の特性で、ゆいいつ「変えてはならないすばらしいもの」としか教えられていない。

それは、「国民主権」や「基本的人権」、それに「平和主義」という「用語」を暗記させられるだけであって、とくに「平和主義」を強調しておそわることになるから、「先生のいうことを『正しい』と信じるまじめな子ども」ほど、「そっち方面」にいってしまう。

「憲法」という「法」を、なぜ人類がもつようになったのか?とか、そもそも「憲法」とはなにか?とか、あるいは、「主体」である「国民」とはどういうもので、「主権」とはなにか?
こうした、前提になるはなしがなくて、いきなり「中身」をいうから、自分たちの生活に直接影響しない「別物」あつかいになるのである。

だから、国民必須の知識(あえて「教養」とはいわない)として、憲法のことをしっていなければ、それは、現代の地球に住む「国民として中途半端」だといえる。

これは、もう「おそろしいこと」で、なんだかわからないけど選挙で投票したり、じぶんの権利を主張してはばからないことがまかり通るようになって、結局、さいごは社会自体がこわれてしまって、人災としての厄災を全員がこうむることになってしまう。

ならば、どんな教科書がいいかをおもうと、やはり安心して読めるのは、前にも紹介した、小室直樹『日本人のための憲法原論』(集英社インターナショナル、2006年)しか浮かばない。この本は『痛快!憲法学』の復刻版であるから、小室氏亡きいま、これを凌駕する解説が「ない」ことも、わたしのおどろきのひとつとなっている。

 

名著とは、難しいことをやさしくだれにでもわかるように解説した本である、とわたしは定義している。
その意味で、日本人にむけて書かれたこの本は、まちがいなく「名著」である。

小室氏は、日本国憲法の大黒柱を「第十三条にあり」と喝破している。
この条文は、以下のとおり。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

なお、「幸福追求」には、「財産」がふくまれるとかんがえられ、憲法二十九条に、

「財産権は、これを侵してはならない。
財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。」

とあるのは、蛇足ではないか?ともおもわれる。

十三条にもどると、「生命、自由」について、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあるから、憲法九条のために拉致被害者を救出できない、とする論も、憲法違反である。つまり、憲法九条すら、十三条にしたがうべきなのである、という主張がほどんどないことも不思議なのだ。

また、欽定だったゆえに明治憲法を「不磨の大典」として、一言一字といえども一切変えてはならぬ、という主張から、どうにもならない事象にたいして対処できなくて、とうとう滅亡の大戦争をはじめたことは、「反省」の対象になってはいるが、おなじような理由で「変えてはならぬ」という主張がいまでもあるのは注目にあたいする。

さて、そんな「憲法」の「大黒柱」をたてに、藤井教授は財務省の「存在」について異議をとなえた。
財務官僚がわるいのではない。
「財務省設置法」という、法律がわるいから、財務省は国民の幸福を無視して、「国家財政」だけをまもればよいことになっているのだ、と。

たしかに、大蔵省から看板を書きかえた財務省は、「設置法」はむかしのままでていて、そこには「国民経済」ではなく、国家財政だけしかない。
なるほど、これほどの「視野狭窄」もないというのはもっともである。

しからば、「法」を変えるのは国会のやくわりだ。
しかし、先般しでかした内閣法制局長官のもとにある「官僚機構」が、「法の番人」だと報道されている国である。
おっと、「法の番人」は最高裁判所ではなかったか?

内閣法制局を「法の番人」というのは、「立」の「脱字」だろう。
「立法」のときの「法案」を吟味して、過去のあらゆる法律との「整合性」をとるのが「日本式」なのだから、それをチェックするのは、国会提出前の「門番」のやくわりである。

ちなみに、アメリカではあたらしい法律がむかしの法律に「上書き」されるから、事前の「立法の番人」など必要なく、議会に提出されたり決議された法律に、憲法との整合性でいちゃもんをつけるのは、最高裁判所のやくわりになっている。

もちろん、各議員は、「立法のため」に選挙で当選したのだから、両院議会には手厚い法制局スタッフがいて、それぞれの議員の法案作成をてつだっている。
これらのスタッフは、議会事務局の採用で、省庁採用ではない。

日本では、しかし、前に書いたように、内閣法制局も各省庁からの「出向者」でなっている。
「国会軽視」をいうなら、ここが「肝」のひとつではないか?

そして、ほんらいは国会にある両院の「法制局」が、大車輪でうごくべきなのに、これが脳死状態だから国民がこまるのだ。
なぜ脳死状態なのか?は、内閣法制局が法案を一元管理していることに、両院とも国会側が「依存」しているからである。

藤井聡先生には、次にこのあたりをつついてほしい。

「感動工学」の教科書

人間を科学する、といえば、まず「人間工学」がうかぶ。
これは、人間という動物の骨格やら筋肉のつきかたから、どういう座面にすると疲れずに長時間快適にいられるか、といった側面を「工学」したものだから、物理的なのである。

大学の学部には、「人間科学部」というのもできて、こちらは心理学などを応用して、感情を科学するというアプローチもくわえている。
現代では、いかに人間をストレスから解放するか?という問題は、社会的ニーズがたかくなっているし、「心とからだ」を「総合・統合」しないとわからないことばかりだと気がついた。

もちろん、むかしからある「医学」も、人間を科学する学問だし、経済学や政治学だって、人間がわからなければこたえがみつからない。
そんなことをいったら、文学も芸術も、法学も、どれもこれも人間を理解しないとつうようしないから、哲学はむだではないこともよくわかる。

いまは、どの学問分野も専門によって細分化されてしまった。
だから、伝統的な学問分野の名前だけをみると、おそろしく深い世界にはいりこんでいるようにみえるが、ひとりの偉大な人物がその深堀をしているわけでも、指揮をしているわけでもない。

無数の「専門家」が、その専門部分をまるで一本の針でつついているような姿でいるのに、おおざっぱな目には、ある分野の深掘りがすすんでいるようにみえるだけだ。
つまり、新聞などの写真印刷のように、部分ではちいさな点(ドット)でしかないものを、遠目からみれば画像として認識するようなものである。

ほんらいの「教養」が「教養」でなくなったのは、こうした細分化が原因で、専門家には、専門外のことになると、とんとわからぬ世界になってしまった。

さらに、わが国の教育には、世界に類例をあまりみない、「系」という区別があって、「普通科」の高校生を「文系」と「理系」にきめつけて「専門化」させているのは、「総合・統合」への「反逆」をつづけていることとおなじだ。

オルテガがいう「大衆」とは、そんな「専門家」のことを指す。
だから、いわゆる労働運動などでいう「大衆」とは、ぜんぜん意味がちがうから、このちがいを意識しないと議論が混乱する。

むかしのテレビCMで、「わたしつくるひと、ボクたべるひと」というのがあった。
当時ですら、決定づけられた男女の役割分担に批判があったものだが、企業活動が「モジュール化」した現代では、すでに役割分担がはっきりしてきている。

たとえば、店舗づくり、という場面では、それが「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、コンセプト・メーキングにあたっての自社社員が「いない」ということがおきている。

典型的なのは、いまなにかと話題の「コンビニ」で、はたしてオーナーがどれほどじぶんの店の「店舗設計」にかかわれるのか?ということすらかんがえることもないだろう。
それがまた、「本部」の存在意義にもなっているからである。

上述の、「商店(スーパーマーケット)」であろうが「旅館(ホテル)」であろうが、というのには、大手であろうが個人経営であろうが、も条件にくわわる。
つまり、たとえ「改装」や「改修」であっても、設計を他人に丸投げして、できあがった店舗を「運営」するだけ、ということができるようになっているのである。

ところが、ここにおおきな落とし穴がある。
店舗の工事「設計図」が他人まかせということには、まさに、「営業コンセプト」もふくまれるから、コンセプトから設計まで一貫しての「他人依存」という意味になる。

すなわち、じぶんの店の「根幹価値の創造」を他人にまかせることになっている。

もちろん、優秀な「請負人」は社内や社外にいるもので、こうした「プロ」にまかせれば、じぶんや自社での負担がないようにみえるから、まるで「リスク軽減」ができているようにもみえる。

しかし、この店舗で「稼いで」、その結果として生きていかなくてはならないのは、あくまでも「じぶんたち」なのだから、どうやって「コンセプト・メイキング」をするのかは、そのときに専門家におしえてもらっても、次からは自分たちでやる、という気概があっていい。

にもかかわらず、それも面倒だとすれば、それは、自社で不動産を所有する意味がないビジネスモデルになりさがる。
これを、「経営と運営の『分離』」というなら、おおいに異議のあるところである。

毎日、お客と接しているので、その声からどういった店づくりがよりよい価値をつくるのかを検討するのは、当然すぎることなのに、それを放棄しては元も子もないはなしになるとおもうからである。
つまり、前述したオルテガのいう「大衆化」が、ここでもおきているのだ。

そんなわけで、上に紹介した書籍は、情報通信という業界のはなしを例にしているが、「統合化」という方向に逆ブレしていることに注意したい。

具体例が、ハイテクのむずかしい産業だから、じぶんたちとは関係ない、とかんがえるのも「大衆化」である。
主張の「パターン」を読みとれば、じぶんたちに「おおいに関係がある」のものだと気づくはずだ。

すると、本業はなにか?
という「原点」にかえれば、お客を「メロメロにさせる技術」が、問われるというあたりまえにもどることになる。

個々のサービスの瞬間は録画でもしないと記録できないが、そのための「舞台」となる施設や設備が必要になるのは、サービス提供をおこなうものの宿命である。
だからこそ、これを他人まかせにする、ということの「あやうさ」をいいたいのだ。

そこで、そんなかんがえをたしなめるためにも、『感性商品学-感性工学の基礎と応用-』(海文堂、1993年)あたりをご覧になってはいかがかとおもうのである。
バブル崩壊後の苦しい時期に、王道追求の教科書がでているからである。

あたかも、ものづくりのメーカーさん向けにみえるかもしれないが、はたしてそうなのか?

この春の、サービス業の新入社員にもよい教育カリキュラムになるはずなのである。

「保守」は危険思想になる

こないだは、英国に発祥した「正統な保守主義」について触れた。

「保守」とひとことでいうときに、上述の「正統な保守主義」のことだと、だれもが前提にすればよいのだが、あんがいそうではなく、たんに「むかしを懐かしむひと」程度のことだと捉えられることがある。
そうなると、「正統」な理由がなくなってしまうから、うわついた「主義」にならざるをえなくなるのである。

そうやって、わが国のなかで「自由民主党」という政党の正体を吟味せずに、安易に「保守党」と呼んだことから、きがつけば背骨がゆがんでしまった。
これを矯正するのは、かんたんなことではない。

それに、「保守反動」という社会主義者や共産主義者など、革命を起こしたいひとたちがつかう用語もあって、なんだか「保守」は坐りがわるい。
それは、こうした革命を起こしたいひとたちが、日本社会のエリートたちにおおかったからである。

こうした「伝統」が、いまでもあるから、「保守」というだけでは、「どっちを志向しているのか?」が曖昧になってしまう。
それは、「保守反動」をめざすのか?それとも、「革命」をめざすのか?という二項対立になってしまうから、この問いには「ほんらいの保守=正統な保守主義」が選択肢から「わざと」はずされていることに気をつけないといけない。

もともと、革命をめざすひとたちが、これにのらないひとたちに対して攻撃するためにいったのが「保守反動」という用語だから、二項対立は当然であるばかりか、じつは、用語として「セット」になっている。
だから、この議論にのってしまうだけで、革命をめざすひとたちから論破される構造になっている。

この「わざと」を、「用意周到」という。
なるほど、エリートたちが好むわけでもある。

ビジネスでも、「追い込み猟」をしかけることは多分にある。
事前に、あいてに気づかれないようにひろく網を張っておいて、これを徐々に狭めていくのだが、高度なワザでは、あいてをからめ捕ることはしない。
出口を一つだけ用意しておいて、そこへ逃がしてあげるのである。

あたかも、あいてがじぶんの意志で決めたように仕向けるのだから、仕掛けた側にとっては「完全犯罪」的な結果になる。
もちろん、あいてには、仕掛けであったことを気づかせなければよい。
つまり、ほんとうにじぶんの意志であったとおもえばそれでよいのだ。

おなじ仕掛けでも、あいてを逃がさずにからめ捕ってしまうと、さいごはあいてが「はめられた」と気づいて、うらみを買ってしまうから、これは仕掛けた側の自己満足におわるのである。
すると、二度目以降、信用もうしなっているから警戒されてしまい、ビジネス作法としてやってはいけないとわかるのである。

けれども、じっさいにからめ捕ってしまって相手からの信用をなくせば、次のビジネスはないので、痛い大損をする。
この「痛み」の経験が、ビジネスの世界ではひとを育てることになっている。

ところが、それが通じない世界がある。
政治と行政の制度がそれだ。
この分野のひとたちは、「論破」して「屈服」させるまでやめない。
まさに、「二項対立」でなりたっている状態になってしまった。

二項対立のはじまりは、人類最古の経典宗教といわれる「ゾロアスター(拝火)教」である。
火を拝むのは、「明」(正義)と「暗」(邪悪)の、「明」をあがめるからだ。

わたしたちは、古代のなにやらあやしい宗教だとおもっているが、ギリシャにつたわってオリンピックの聖火となり、日本には「密教」における「御焚上」になっている。

暗い夜は邪気にあふれているから、火をたいて「明」のちからでそれを除くのは、ガス灯も電灯もなかったむかしには、だれもが信じたことだろう。

ギリシャと同時に、中東の砂漠でも影響をうけた宗教がうまれ、これが、旧約聖書になってキリスト教、イスラム教へとつづく世界をかたちづくる。
ところが,日本にはとっくに「八百万神」がいたから、あとからやってきた「密教」も、これにとりこまれた。

こうして、わが国のなかでは、「まつりごと」が、政治と宗教行事を一致させたのだった。
その意味で、祈ることが政治だったのだ。
「祈り」とは、時間と空間を超越するので、過去・現在・未来をひっくるめる行為だ。

古代が進化した「平安時代」に、決めごととしての『有職故実』がうまれるのは、たんに過去のやり方をつづけるということではなく、現在も、未来も、ということである。
これぞ、英国より千年早い、日本の正統な保守主義の聖典であった。
だから、折り合いをつけるための「妥協点」が重要だったのだ。

 

しかし、西にながれた思想は、二項対立にみがきをかけて、西洋文明をうんで、これが、戦後日本に無条件で採用された。
そして、いつしか、「伝統」になってしまったのである。

けれども、「まつりごと」の時間は千年以上あるのに、あたらしい「制度」は百年ない。
たった数十年しかない「制度」が「伝統」の用語で「保守」されている。

すなわち、英国の正統な保守主義ができるはるか以前からあった、わが国の正統な保守主義が、すっかり忘れられ、古いだけというイメージすら溶けてなくなって消滅してしまったのである。
いま、人類最古の「血統」である、皇室が絶えそうな危機にあるといわれることこそ、正統な保守主義消滅の「象徴」になっている。

こうして、二項対立のなかの「保守」、すなわち「保守反動」の「保守」が、濾過紙にぼんやりとシミになって残ってしまった。
だから、けっして「反動」ではないと証明したくて、どんどん「革命」を起こしたいひとたちに近づいていくしかなくなった。

これが、危険思想になる「保守」のできかたなのである。

このメカニズムに、「保守」を自称するひとたちが気づいていない。
それは、気づかない「ふり」をしているのか?それとも、ほんとうに気づいていないのか?
と、二項対立でとくよりも、「自由主義」に足場をおくことだ。

そうすれば、またたく間に革命をめざすひとたちの「呪い」がとけるというものだ。
わが国では、政治用語の「保守」は、つかわない方がいい。

社会のムダ

「岡っ引き」のはなしで、誤解があるとこまるので、追加する。

わたしは「士業」それ自体に従事しているひとを、議論の対象にしているのではない。
「士業」を「創設」して、それを「岡っ引き」にして、世の中を支配しようとする役人の志向と行動を議論の対象にしているのである。

それが転じて、配下の「士業」を喰わせようと「配慮」した、情報統制をおこなうから、世の中が「ゆがむ」のだといいたい。
この「情報統制」とは、さまざまな「お得情報」を、一般人に公開せずに、たとえば「◯◯士会」といった「岡っ引き」組織をつうじて、情報伝達する。

こうして、なにも知らない一般人より、有利な情報をわたされてしることで、その「士業」のひとが一般人から「先生」といわれれ、おカネを得ることができるようになっている。

ある情報を「しっているか、しらないか」ということを、経済学では「情報の対称性、非対称性」というむずかしい用語をつかって、これまた一般人をまどわそうとしているが、「理想社会」とは、情報をしらないひとが「いない状態」、なのである。

つまり、なんらかの「取引」において、一方が情報をしっていて、一方がしらない、となれば、それを「公正」な取引とはいわない、ということからもわかるはなしである。
だから、情報の非対称性が先鋭化すると、「詐欺」になるのだ。

「情報化社会」とは、この側面で観れば、現実の社会が「理想社会」に近づいている社会のことをいう。
取引対象となる、モノやサービスの本質的情報が、ちょっと前より、はるかに、かんたんに手にいれることができるようになってきている。

だから、インターネットなどの情報を得ることができないと、「格差」がうまれてしまうから、これを「情報格差」といい、情報に接することがすくないひとを「情弱(情報弱者)」というのである。

すなわち、「士業」を管轄する役所が、「恣意的に一般人を」情弱にしていることを意味するから、たちがわるいといいたいのである。

一方で、士業が世の中で「必要」になるのは、専門家でなければならない「複雑な制度」があるからだ。

たとえば、所得税にかんしてハイエクが主張したのは「収入の10%だけ」というシンプルな税制だった。
これなら、やっかいな「経費」という発想がないし、特例もない。
だれでも、じぶんの収入に10%をかければ、納税額が計算できて、そのまま納税すればよい。

この案に大反対するのが、「士業」と「役人」で、自分たちの仕事がなくなることを怖れるからである。

ところが、社会のコストは格段にすくなくなる。
わが国は、学業で優秀な成績だったものが役人になり、士業の資格を得る傾向がある。
つまり、これら優秀な人材が世の中に放出されれば、企業は人手不足に悩まなくてすむだけでなく、彼らに対して負担していたコストも軽減されるのだ。

さらに、わが国での「電子政府」が、おそろしく普及しないのも、士業の職務をさまたげないようにするからだし、役人の介在をなくさないようにするからである。

日本の役人は、法律を執行するための「行政官」の範囲をとっくに超えて、みずからの「職権」のために、さじ加減である「裁量権」を確保している。

これは、失礼ながら小役人もおなじで、窓口担当の新人でさえも、すくなからず「裁量権」を持っているのは、役所にいったことがあるひとならだれでもしっていることだ。

この「裁量」は、「法律」=「本法」ではなく、「施行令」や「施行規則」、もっといえば「通達」、「告示」にまでいたっていて、ひどいものでは「文字になっていない」ものまである。

「法律」を定めるのは立法府である「国会」であり、地方議会の「条例」もこれに相当するが、上述した「規則類」は、基本的に役人の作文でよいことであって、やっかいなのは、これら作文に政治が関与できない「不文律」=「慣習」をつくってしまったことである。

国会や地方議会が「骨抜き」にされた、という理由がこれである。
そういうわけで、役人の「裁量」が細かいところにまでおよんでいるから、「電子政府」という方法でさまざまな申請をすることすら、機械的な流れをつくれない。

「機械的な流れ」とは、行政官はだれにでもできる、という原則のことだ。
きめられたルール以外の方法をゆるさないから、平等が実現する。
「裁量」は、きめられたルール以外で役人が介在できることだから、これでは平等は実現しない。

それで、役人と懇意になることが、あいかわらず必要になるのである。
これを「AI」でできるはずもなく、わが国では、電子政府はなりたたない。

電子政府化がすすんでいる国が、比較的小国であることがあるのは、面積や人口がすくない、という意味ではなく、「行政」が「機械的な流れ」になっている平等が小国ゆえに確保されているからで、この条件をちゃんと満たせば、規模は関係ないのである。

役人の裁量権が、社会のムダである、ということである。

統計不正の後始末

えらい評論家になると、実務からとおざかってしまうので、なんだかピントはずれな議論をするけど、「えらい」からだれも文句はいわない。
それで、そのままピントはずれなはなしを毎日きかされていると、そのうちそれがもっともなはなしになる。

うそも100回いえば真実になる。

まさに、名言。

厚生労働省の統計に不正があるのは、「問題」だ。
けれど、不正をした役人が悪い、というはなしだけで、この「問題」は解決しない。
こんご、不正をおこさないための対策のはなしでもない。

なにかといえば、給料に連動する社会保障費がふえるからだ。
この国の「社会保障費」は、税金「だけ」でまかなわれてはいない。
半分は、企業負担なのだ。

だから、給料の統計値がちがうなら、その大元データがどうなっていたのかが問題で、社会保障費を節約していた分があるのではないか?
ならば、企業がインチキをしたのかというとそうではない。
制度上の欠陥があったのではないか?というはなしである。

企業は、じぶんで負担する社会保障費について、たいがいは社会保険労務士に計算を依頼しているばかりか、簡単にいえば「丸投げ」している。
これは、前に書いた「岡っ引き」のはなしのとおり、社会保険労務「士」という「士業」の収入を確保するのも、管轄するお役所の大切な業務だからである。

では、プロである「士業」がまちがえたのか?
やはり、そうではないから、制度の問題にいきつくのである。

そうすると、「数字を正す」と、社会保障費がふえる。
すると、それは、自動的に「企業負担がふえる」ことを意味するのである。

どうしてくれるのか?
という経営者に、政府は「払え」ということになる。
ますます、それでは「損」をした気分が高まるから、そのうちこれでは選挙に勝てない、となるだろう。

それで、まさか税金からまかなうことになると、前代未聞の「全額政府支出」という前例ができる。
この論法がつうじるのは、じぶん以外のだれかが負担するなら、得になる、とかんがえるからだ。

しかし、その「財源」が、税金だとなると、はなしがちがう。
にもかかわらず、「得」だとかんがえるひとがおおければ、「一体改革」の大義名分のもと、社会保障費は「税」になれる。
そうしたらもっと、「増税できる」と役人たちは喜々とするだろう。

アメリカがイギリスから独立をしようとしたきっかけは、「(紅)茶税」の課税問題だった。
イギリス本国の王様が、植民地アメリカの住民に意見をきかず「勝手に」決めたことが、「独立戦争」にまでなった。

それで、いまでもアメリカの「保守本流」は、共和党のなかで「茶会党」を名乗っている。
このひとたちが、紅茶をたしなみながら、社会問題を議論しているのは、ただの「茶会」ではなく、「独立自尊」のいわれをまもっているからなのである。

対して、わが国では、明治政府の「開発独裁」と、江戸幕藩体制と連結した「お上」という発想が伝統になっているから、自分たちでなにかを決めるという概念が希薄なのである。

お上が決めたことを、守ること、こそが国民の美徳にまでなっている。
これは、一種の「マゾヒズム」である。
三島由紀夫をして、「戦後日本文学の『金字塔』」とまで絶賛させた、『家畜人ヤプー』の、おぞましくも本質をついた物語は、おとななら読んでいたい作品だ。

    

ちなみに、この作品は、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も復刻されている。

   

日本の有能なサラリーマン諸氏も、ある意味「マゾヒズム」に染まっていて、みずから有給休暇を取得できないことを「自慢する」体質がある。
来月からの、「有給休暇取得義務化」という「強制」が、「効く」とすれば、いよいよ証明になるのである。

もっとも、祝日の年間日数で、わが国は世界一レベルだから、とっくに「休み」が「強制」されている。

そんなわけで、じぶんが負担したくないものは、とにかく他人にふり向けるということが、「リスク回避」であると信じるのは、残念ながら世界のなかでは「異常」なことであって、ましてや、それが「税」にからめば、それこそ「回避したがる」のが世界の常識なのである。

役人は、価値をつくらない、というのも世界の常識だ。

そろそろ、国家依存はいけないとかんがえないと、なにをされるかわからない。

行政機能が肥大しすぎていることをしるべきである。
それがまた、企業活動を活性化させる、じつは切り札なのである。

「勉強法」をおしえてほしい

学校のときの成績や受験による学校選択で,人生がおおきくかわる,というのは,国・地方どちらにせよ高級官僚になるならまだしも,専門職で生活しようとしたらほとんど関係ない.

むかし,法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」がわが国には三行あったが,ぜんぶなくなってしまった.

これらの銀行は,旧帝大出身者だけが事実上の幹部候補で,あとは切り捨てていたが,その特権をもった「幹部」のひとたちが「患部」になって,会社を潰してしまったという共通点もある.
それに,法律でまもられていたのに破たんしたから,法律ごと吹っ飛んだ.

ところが,こんな事実をしっていても,おおくの親たちは「いい学校」に入学させたいとかんがえている.
それは,漠然と「高級官僚」の「安定」が,子どもの将来に望ましいとかんがえているからにちがいない.

役所がダメなら大きな会社,いわゆる大企業志向はつきない,というわけである.
ところが,バブル前というずいぶんまえから,本当に優秀な学生は「起業」を目指していた.

エスカレーター式の「年功序列」のなかでは,飽き足らないという発想である.

しかし,日本企業の「年功序列」がほんとうに「年功序列」なのかというと,あんがいそうではなく、それなりに「実力主義『的』」なこともあって,在職年数をかさねながら,先輩後輩のあいだの縦の「序列」と,同期のなかでの横の「序列」が,本人のしらないところでさだめられていく.

これに,最後はトップ層の「好み」というおビックリが,年次の序列を無視して,「何人抜き」のおビックリな決定をくだすのである.
なんのことはない,「好き嫌い」ということが,最終決定要素なのだが,その決定リストに載らないと,はなしにならない.

そんなわけで,部長の声がきこえだすころには,本人たちもだんだんと「序列」がみえてくるようになっている.
民間なら一線をこえるのは,「取締役就任」ということになる.
取締役は,経営者になるから,使用人である従業員とは身分がちがう.

会社登記も必要なので,印鑑証明と実印を会社に提出することになる.
それで,晴れて就任すれば,まず一回目の退職金(割り増し)を手にする.
割り増しになるのは「会社都合」で従業員を辞めてもらって,経営陣に採用された,という手順だからである.

二回目は,役員退職慰労金,ということになる.
だけど,子会社がいっぱいある大企業なら,本社の役員を辞めても子会社の役員の口があるから,民間でもちゃんと「天下り」できるようになっている.
じつは,ここに役員の「年功序列」がある.

学校で成績がトップだった人物が役人になって,かれらが役所でやることのコピーが民間にされるという流れは,「予算」がはじまりかもしれない.
国家予算の編成を,民間企業がまねたからである.

それで,「天下り」も,企業がまねた.
日本の大企業が,ことごとく活力をうしなっていることの原因のひとつに,「安泰」という勘違いがあるからだとうたがう.

法律でまもられていた「長期資金を提供する銀行」は,潰れるはずがない,という「安泰」で,なんでもかんでも貸し込んで,ありえないほどの回収不能におちいったからだ.
ふつうの料亭の女将の投資に入れ込んだスキャンダルも,「安泰」こそが原因だ.

神ならぬ人間が,どんなに優秀ともてはやされようが,しょせんは程度がしれているものだ.

そうした「安泰」のなかに,学校教師たちもいる.
起業しようという方向とは真逆の,安定志向がえらばせる職業になっている.

しかしながら,当然,いまどきもしっかりした「先生」はいるのだが,彼らの抜きがたい壁は,教育委員会という官僚機構で,そのトップは教師ではない「事務官」なのである.

もちろん,その上には「文部科学省」という官僚機構があるから,教師は教師ではないひとたちから支配されていることになっている.
それで,あいかわらず「何をおしえて何をおしえないのか」をきめるのも官僚だという,国民学校時代からの「戦時体制」が継続している.

じつは,高級官僚になるひとたちは,学校時代に「勉強法」を修得している.
いわゆる,いまどきでいう「効率的な勉強法」である.
この勉強方法は,効果があって,勉強を難行苦行にしないから,ちゃんと成績優秀という結果がでるようにできている.

それで,この方法をみんなにおしえると,エリートがいなくなる可能性があるから,なるべくおしえないように努力する.
その結果が,「学習指導要領」という「命令書」で,ここには勉強法をおしえることなど書いていない.

その文部科学省の命令にしたがう必要のない「学習塾」という業界は,自由競争下にあるから,塾生の成績をあげる結果をださないと逃げられてしまう.
すなわち,「結果にコミットする」のは必定なのである.

各科目の授業の内容以前に,「勉強法」というノウハウの有無が,それぞれの科目の成績に決定的なインパクトをあたえるのは,当然なのである.

じつはこれ,企業業績の改善でもおなじなのだが,気づいている経営者はすくない.

安倍首相がきらわれるわけ

タイトルはぜんぜんちがうが、昨日の記事のつづきである。

「政治の停滞」がいよいよ深刻になってきていることの勝手な分析を、選挙でうるさくなる前に書いておこうとおもう。

ヒトラーとスターリンという独裁者として有名なふたりは、犬猿の仲だったことがしられている。
どちらからも互いに「大嫌い」で、その嫌悪感が歴史としてあらわれたのは、それぞれの国民にとっては命がけの大迷惑であった。

なぜにこの二人は「大嫌い」どうしだったのか?
もちろんパーソナリティーの問題ではあるが、「公務・公職」において大嫌いなのだから、ちゃんとした理由があったはずだ。

それは、「ファシズム」と「マルクス・レーニン主義」の「親和性」にある。
「ファシズム」は「極右」、「マルクス・レーニン主義」は「極左」という見かただけではだまされる。

「自由主義」の反対は、「社会主義・共産主義」である。
この視点で見ると、ヒトラーとスターリンは自由主義者の「はずがなく」、むしろおなじ括弧のなかにおさまる。
ヒトラーのナチスは、「国家『社会主義』ドイツ労働者党」。
スターリンのボルシェビキは、「ロシア『共産党』」。

自由主義の反対である、「社会主義・共産主義」の枠にピッタリとはまる。
なんのことはない、「同類」なのである。

「同類相哀れむ」というのは,かれらには通用しない。
これは、磁石の「極」とおなじで、同類はかならず「反発」しあう力学がはたらくようになっている。

その理由はかんたんで、支持者の「マーケット」がおなじだからである。
なので、「近親憎悪」になるのである。

自由主義者は、ぜったいにかれらを支持しないから、かれらも自由主義者をあいてにしないし、政権を奪取すれば弾圧の対象にする。
それで、かれらをして「マーケットイン」させるのは、「社会主義・共産主義」に親近感をもつひとたちにむけるしかない。

そこで、熾烈な支持者獲得競争がおこなわれるから、政治的に犬猿の仲になるのは、当然のなりゆきなのである。
「右」とか「左」だといって、互いに批難をくりかえすのは、かれらの土俵上「だけ」であって、ほんらいここに自由主義者は無縁である。

ようするに、過激派の「内ゲバ」とおなじ構造なのである。

その「特殊な用語が拡張」されているのが、いまのいいかたなので、「右・左」とか、「右翼・左翼」といういいかたに巻きこまれると、なんだかわからなくなってだまされるのだ。
だから、「自由主義」と「社会主義・共産主義」とに用語をわけてつかわないといけない。

そこでわが国の自由民主党という政党をかんがえると、かれらは「保守」ということになっている。
「保守」というのも便利かつややこしい用語で、なにを保守するのか?という対象によって、意味がぜんぜんちがうことになる。

いわゆる「正統な保守主義」は、伝統をおもんじる英国の発祥で、『フランス革命の省察』を書いたエドマンド・バークを「父」として、トクヴィルやチェスタトン、オルテガといったひとたちに継がれている。

ほんとうは、英国よりはるかに伝統をおもんじていたのが日本だったが、戦後、「伝統」の理論化に失敗してこんにちにいたっている。
皇国史観の大家、平泉澄『物語日本史』(講談社学術文庫)は、戦後、子ども向けに書いたもので、タブーあつかいになっているけれど、念のため通読する余裕がほしいものだ。

  
  

しかし,一方で、たとえば、共産党のなかで「保守派」といえば、これらの譜系とはまったく関係ない、むしろ真逆の「真性・共産主義者」を指すから、「用語」としてはあまりつかってはいけない。

また、「保守主義」と「自由主義」も概念がことなるので、いっしょにはつかえない。
楠茂樹・楠美佐子『ハイエク -保守主義との決別-』(中公選書、2013年)にくわしい。

「保守合同」が1955年になされたときの「保守」とは、吉田茂の「自由党」と、吉田に追い出された鳩山一郎が、吉田と折のあわない岸信介とで「日本民主党」をつくって対立したが、社会党の左右合同に触発されて一緒になったという、政治哲学とは無縁の合体経緯であった。

社会主義に親和性が強かった岸が、社会党に入党しなかったのはなぜだかしらないが、自民党の「党綱領」をみれば、「進歩主義」をうたうこの政党が「社会主義政党」であることを自称していることに気づくだろう。

そういう意味で,自民党の正体は、まったく日本的な(英国や米国とはちがう)、自由主義と社会主義がまざりこんだ得体の知れない政党なのである。この得体の知れない政治集団を、「保守」と呼んだことに、わが国の政治的混乱が用意されていた。

碩学、小室直樹が、これを「鵺(ぬえ)的」と表現した理由である。
「鵺」とは、わが国最強の伝説的「妖怪」をさす。

自民党の幹事長経験者の小沢一郎氏が、なんども政党を統合したり分裂させたりする原理は、保守合同のいかがわしさを、いかがわしいとはせずに、できあがったそれを原点としていられるからだろう。

いまだに、心底、もっとも根源的な自民党員であるのだとかんがえればつじつまが合う。
本人にも、支持者にも、悲劇的な発想の持ち主だとわかる。

一方、あまりにも小数だが野党第一党ということになっている「『立憲』民主党」というのは、上述した正統保守の譜系からなる「立憲主義」とは縁もゆかりもないことは、共産党のなかの保守派とおなじであるから注意がいる。

つまり、「枕詞」としての「立憲」だという意味で、ちょっとだけ古典文学の伝統をかすっているだけであるから、なんてことはない「民主党」のままなのである。
この遊び心を理解できず、政権党だった民主党が解体されたのは、ブラックジョークとしかおもえない。

以上から、現在の安倍内閣をみれば、おそらく自民党の歴代内閣でもっとも「左派」、すなわち「社会主義」を標榜している政権であることが理解できる。
田中角栄内閣の「社会主義性」の、進化し、かつ、純化した結晶のようなものである。

それは、国家が富の配分をきめることに注力する経済政策にしっかりあらわれていて、「福祉元年」を高らかにうたった角栄節の洗煉されたすがたなのだ。

それに、流動化する東アジア情勢をみれば、国防にも手をつけざるをえないのは当然だから、これをもって「右傾化」というのは、たんに中国に隷従したいことの裏返しにすぎない。まさに、それが「右傾化」という上述した意味不明の「用語」をちゃんと使用していることに注意されたい。

そんなわけで、かつての全共闘の闘士だったお年寄りたちが、「安倍政治を許さない」のは、かれらの主張のほとんどが「保守党」によってかなえられてしまっていることへの「憎悪」と、共産中国へ隷従せよと叫んでいるのだとしかおもえてならない。

消費増税を「やらない」といって「やった」民主党政権だったから、ことし予定されている消費税増税に反対できないのは、「民主党」のままである「立憲民主党」としては、律儀なことである。
両院とも「予算委員会」で、野党質問に一言もない不思議のこたえだろう。

「増税分」が、予算にはいっている「予算案」の検討なのに、これを質問しない,という点で、「党利党略的」すぎる。
しかし、夏の参院選まえに、増税やめたといって自民党が勝利するシナリオに、すでに加担しているとうたがっている。

つまり、社会主義・共産主義を標榜する「野党」が、社会主義の自民党政権の政策に丸呑みされて、真っ向対立しようにも、爪先のひっかかりすら存在しない状態に業を煮やして、なんとか対立しているようにみせようと、スキャンダルに議論をむけるしかなくなったというお粗末になっている。

安倍首相がきらわれるわけは、このように「近親憎悪」というメカニズムによる。
東アジア近隣諸国も、同様の憎悪をしていることだろう。

そんな首相をトップにして、絶対多数を選挙でえているのに、なにもできない政権党は、いったいなにをしたいのか?と問えば、保守合同前からのほんらいの「自由主義」政策を実行する気などぜんぜんなく、むしろ「日本民主党」的になっているのは、岸信介の孫としてはあっぱれなことだろう。

そういう目でみれば、安倍氏の「民主党」と、枝野氏の「民主党」が、内ゲバをしているのである。
これに、マンガしかみない吉田茂の孫が、脳天気にもまったく気づいている風情もない絶望がある。

国民の不幸はとめどもなくつづくようになっている。

野党の反対で「なにもできない」のは大嘘で、ほんとうは「なにもしたくない」のだ。
これぞ、「安定は希望です」とした、もうひとつの連立与党のご意向でもあるのだろう。

ため息。

安くしないと売れない

日本がいまだに「先進国」といえるのか?といえば、2008年通常国会における大田弘子経済財政政策担当大臣の「経済演説」で、「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれるような状況ではなくなってしまった」と認めたのは、歴史の転換点であった。

それでも、いまだ、先進国クラブである「OECD」のメンバーには一応とどまっているのだとかんがえた方がいい。
つまり、建前上は先進国だが、実態は「ふつうの国」になって、もう10年以上が経過しているということを、ちゃんとしっていた方がいいという意味だ。

それに、デフレ脱却をするために白川総裁を事実上更迭して、あたらしく日銀総裁になった黒田氏は、「2%のインフレ目標」を異次元政策で達成するといい放ったが、とうとうさいきん、あきらめたようである。
ならば、みずから辞任するのかと思いきや、ほかにやるべき手段をわかるひとがいないからではなく、だれも引き受けないから続行するしかないのだろう。

なんだか、颯爽と現れた天下の財務省「財務官」が、いまは焦燥して目の下のクマがめだつようになったようにみえる。
それは、インフレ目標が達成されれば、金利が上昇してたっぷり買い込んだ国債価格が暴落してしまうし、すでに日本株の5%ほどを保有するのが日銀だから、それをきっかけにした信用不安から株価暴落ともなれば、なんと前代未聞の「日銀が倒産」の危機をむかえる構造になっている。

だから、金解禁に邁進して昭和恐慌をひきおこした汚名をいまだに払拭できない井上準之助のように、末代までの恥辱をかぶる総裁にだれもなりたくないだろう。

日本経済は、「日銀天狗」という大天狗さまが一本歯の超高下駄をはかしてくれているが、その下駄の歯が折れたら大崩壊がやってくるようなおそるべき脆弱性があるのである。

日本銀行の資産は、昨年でわが国のGDPをこえてしまっているのだ。
じっさいに、日銀はじぶんで決めた方策で、インフレ目標を「達成してはいけない」状況をつくってしまった。

まさに、「八方ふさがり」なのだ。
これにくわえて、さいしょから現在まで一貫して「出口戦略」がまったくない。

真珠湾攻撃と構図がおなじなのである。
はじめたものの、終わり方をかんがえないのは、歴史に学ぶ謙虚な姿勢がないからだ。

黒田氏は3月4日の参議院予算委員会の答弁で、金融仲介機能の低下や金融システムの不安定化に関して、先行きの動向に十分注意していくと述べている。
精いっぱいの「他人ごと」にしてみせたものの、背中には大量の冷や汗がながれていただろうと推察するが、同情はできない。

金融仲介機能の低下、とは、おカネがまわらないという意味である。
つまり、経済の血液といわれるおカネがまわらないとは、たんに血行不良というものではなく、深刻な「貧血」になっているから、突然卒倒してもおかしくない。

それを、民間に「資金需要がない」と民間のせいにしてうそぶくが、そんなことはない。
内部留保を溜めこむのは、将来があぶないと予想しているからで、その元凶は政府の経済政策そのものからのリスクであるのに、しらないふりをするたちの悪さだ。

税引後利益が内部留保にまわるのに、内部留保はけしからんから課税せよ、とは、むちゃくちゃな二重課税のはなしだと気がつかない国会議員は、次期選挙でちゃんと落選してもらわないといけない。
マスコミは、こうした人物のリストをつくって報道する義務がある。

需要があっても借りられない。
不動産担保を要求しながら、静岡県の銀行不祥事で、全国に不動産「事業用」に貸し出すなというマッチポンプをやったから、おカネの行き場所が「個人用住宅」だけになってしまった。
人口が減少して、世帯数も減っている。

にもかかわらず、ついに、新築戸数が、世帯数をこえてしまった。
いったい誰が購入し、誰が住むのかしらないが、つくるだけつくる、という無責任が、将来の廃墟を建設している。
これは、すでに、「住宅を建てるだけ『バブル』」になっているということだ。

それではこまるから、移民を受け入れるはなしになって、日本の大学を卒業した留学生が国内企業に就職したなら、本国から家族も呼んで永久に日本に住める「告示」を改正するという。
「告示」をだすのは役人なので、国会議員も介入できない、と青山繁晴参院議員がネットニュースで暴露した。

金融機関は国内に投資先が「ない」から、資金を海外資産にかえていて、それが円安原因になっている。
生活者にとってみれば、原油や食料品など輸入物価が下落する「円高」がむしろ望ましいのにだ。

原発を稼働させたい希望から、もう稼働したものとして、輸出中心の経済なら望ましい円安を誘導するのは、3.11前からの「惰性」でしかない。

ほんらい、新規事業に挑戦したくても、金融庁のあらっぽい一括した管理で、それぞれの金融機関の機能に差がなくなった。
メガバンク、地銀、第二地銀、信用金庫、信用組合、どちらをみても特徴がなくて、顧客のビジネスをみきわめる能力もない。
これに、恣意的な政策投資銀行や機構が、さらなる余計なお世話をするという、政府のでしゃばりが経済を機能させない。

まさに、未来の人類のための痛い教訓になる「政府の失敗」の教科書のためにやっているとしかおもえない。
しかし、そんな教科書は、20世紀の終わりのソ連崩壊でだれでもしっていることだから、たんなる二番煎じにすぎない。

経済学は科学なのか?という批判があるなかで、もちろんマルクス経済学は文学かつ宗教学だったけれど、日本の政策に利用されている経済学も、データをつかわないという点において、いかがわしいものだ。
本来は、日銀や金融庁が主役なのではなくて、規制改革会議が主役にならなければならないのに、あいかわらず地味な脇役になっている。

そんなわけでわが国は、魅力に乏しいので、外国資本も流入しないから、海外からの直接投資(対内直接投資)が他国に比べて極端にすくない国になっている。
かつて、英国を復活させたサッチャー氏が、強力なリーダーシップで当時好調だった日本企業からの投資をあおいだのと対照的である。

これは、投資をしてもリターンがすくないと判断されているからだ。
このリスクは、ジャパン・プレミアムとなってはねかえる。
邦銀によるドル調達にかかわる金利に上乗せ分(プレミアム)がつくことをいう。

お金持ちの外国人が訪日してくれればいいが、そうはいかないとすると、「高級」を柱とするサービス業が疲弊する。
それが、「安くしないと売れない」になってしまうのだ。
これを「デフレ」と呼ぶのか?

「デフレ」とは、ものに対しての貨幣価値が高くなること=価格下落のことをいい、それは、個別の物価・価格「ではなく」、全体を総合した物価・価格の下落を指す。
高級旅館が安くなったのと、石油価格や電気代や水道代が値上がりするのを「総合して」どうか?だということに注意しないといけない。

だから、あの旅館が安くなったのは、デフレだ、といういい方はちがう。

あえていえば、外国人であろうが日本人であろうが、日本に投資すれば儲かる、という、そういう「政策」がもとめられている。

そんなわけで、日銀の黒田総裁だけではなく、彼に命じたひとがいる。

あしたは、それを書いておこうとおもう。

太陽が弱っている

黒点がたくさんあると、それは、活発な活動の証拠となっている。
ところが、先月の2月、太陽の黒点が観測されたのは二回だけで、10年ぶりのすくなさになったという。
太陽の活動は11年周期といわれているから、これから一年はもっと弱くなるかもしれない。

わたしたちが住む地球は、太陽系第三惑星という位置で、第八惑星の海王星にくらべれば、おそろしく太陽に近い。
そうはいっても、光の速度で8分ほどもかかるというから、わたしたちは現実の8分前の太陽光線をあびていきている。

ふだん意識していないが、太陽からの恩恵はまさに「お天道さま」にふさわしく、はかりしれない。
植物が光合成で育ったものを、動物は食糧とするから、その動物をたべることも、太陽があってこそである。

エネルギーだって、なにも「太陽光発電」だけではない。
雨が降るのも風が吹くのも、太陽からのエネルギーあってこそだから、水力だろうが風力だろうが,広い意味では「太陽発電」になっている。
もちろん、古代の植物が炭化したのが石炭であり石油だから、なんのことはないぜんぶ「太陽発電」の範囲から、はみだしてはいない。

火星への移住という壮大な計画のために、巨大な温室で植物をそだてる実験をした。
「温室」にしたのは、地球環境から切り離すためであった。

それで、いろんな条件をかえてみたところ、二酸化炭素濃度を現在の数倍にしたら成長が促進されることがわかった。
これには、植物の種類で結果がことなるので、すべての植物にいえることではないが、地球上で大部分をしめる26万種の植物は、いまよりも濃い二酸化炭素濃度が好ましいのである。

ということで、農業分野では、ビニールハウス内の二酸化炭素濃度をあげる「二酸化炭素『肥料』」があたえられて、生産性に貢献している。
わかりやすい例では、メロンやイチゴといった園芸作物に応用されている。
つまり、糖度があがって甘くなるから高価な取引価格になるのである。

火星には大気がないから、人工的につくる環境下では、むだなく食糧の自給を実現しないと、とうてい「移住」などできない。
しかし、地球よりも太陽から遠い分、エネルギー確保のほうが深刻になるのである。

地球にはなしをもどすと、ロンドンのテムズ川が凍結して、ひとびとがスケートを楽しむ絵画がのこっているように、17世紀からの小氷河期では世界各地で飢饉が発生している。
これが原因で、他国に攻め入ることもあったから、太陽活動は地上に物騒な問題を引き起こす。

田家康『気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年-』(日本経済新聞出版社、2013年)には、日本の事情が解説されている。おなじ著者の世界史版や文明史もある。

  

自然を崇拝してきた日本人だったが、どういうわけかいまは、自然を支配できると思いあがっている。
そのはじまりは、日本庭園にあるのではないかとうたがう。

西洋の庭園は、植物を幾何学的に刈り込んでみせ、支配力を露骨にみせつけているが、あたかもそこが大自然のなせる芸術的ワザであると仕立てる日本庭園こそ、じつは高度な「仕事」になっている。
その究極は、島根県安来市にある「足立美術館」だろう。

人工的につくっておきながら、みるひとにそれを感じさせないばかりか、最初からそこに存在していたようにみせるのである。
これを商業的に成功させたのは、熊本県の黒川温泉である。
「雑木林」という変哲もないとかんがえられていた「すがたかたち」を、意識的にとりいれて造園したら、「本物の自然」になったのである。

自由に自然をつくれるという技術が、人間は自然を支配できるに転換して、それが地球規模でコントロールできるという「誇大妄想」になったのだろう。

自由に自然をつくれるという技術には、科学的根拠がある。
だから「技術」なのであるが、「誇大妄想」になったら科学的根拠をうしなう。

地球環境に絶大な影響をあたえているのは、惑星としての地球自身の活動と、それを支配する太陽なのである。
人類はいま降っている雨も、いま吹いている風も、コントロールすることすらできない。

太陽活動が弱まることは、他人ごとどころではない。
まんべんなく、かならず影響してくることである。

「お天道さま」を甘く見てはいけないのである。