ビールを飲んだらペストにならなかった

「黒死病」のはなしである。
漢字だと「やまいだれ」に「鼠」をいれる、適確な表現である。
この病気は、わが国では明治初期に小流行したが、ヨーロッパのような歴史的大流行が何度も発生することはなかった。

病原菌は、ネズミについた「ノミ」がもっている。
ネズミの繁殖力がわざわいして、ヒトがこの「ノミ」に吸血されたときに感染するのだが、その後、感染者の体液からも感染するから、看病するにも最大の注意を要する。

予防的薬剤は存在するが、いまだにワクチンはない。
よって、21世紀の現代でも、外国における流行はあり、致死率も高い(30~60%)。

下水道がヨーロッパに発達したのは、病原菌をもつネズミ対策だったことがしられている。
けれども、靴底がぶ厚い「ロンドンブーツ」や「イギリス紳士の傘」が、馬糞よけやオマルの汚物を窓から棄てるのをよけるためとかの説があるように、あんがいと「不潔」だったのだ。

だから、幕末にやってきた欧米人が、わが国の「清潔さ」に驚嘆したのであって、おそらくわが方はみな、どうしてそんなに褒められるのかわからなかったにちがいない。

あのシュリーマンは、「われわれヨーロッパ人がしらない文明国がある」と日本紹介記事を書いている。
もちろん、歴史学の大家トインビーは、世界の文明に「日本文明」というジャンルを独立して設けたことでもしられている。

人類史ということならば、ジャレド・ダイヤモンド『銃 病原菌 鉄』という本がミリオン・セラーになった。

 

アフリカ大陸からひろがったという人類は、東西・南北への移動をするが、南北よりも東西への移動が先立ったことが強調されている。
緯度がおなじ、ということが、どんなに生活に有利であったか。
けれども、そこに「病原菌」があるし、またヒトによって持ちこまれるのである。

南米を征服したスペイン人たちは、はたして「銃」だけで征服できたのではなかった。
ヨーロッパ大陸に住むかれらには、当然の免疫があったものが、南米のひとたちにはなかった。ために、かってに死んでいくようにみえただろう。

そのヨーロッパがペストによって、人口が全滅する地域も発生して、社会体制をも変えてしまった。
たとえば、「農奴」が全滅して、貴族の「荘園」が成立しなくなるとか、英国では小麦栽培から羊の放牧に転換するとかがあった。

カミュの『ペスト』や、村上陽一郎の『ペスト大流行』が、いまどきの読書に向いている。
人間社会が、あんまり「進化」していないことがよくわかる。

人類が「細菌」を発見したのは、17世紀だから、日本でいえば徳川幕府四代から五代のころになる。
そして、幕末の安政年間に、遠くパリでは、パスツールがアルコール発酵は細菌によることを発見した。

つまり、人類は、この「発見」まで、酒がどうしてできるのか?をしらなかった。
つくりかたはしっていても、なぜ?が不明だったのだ。

古代エジプトの埋葬品といえば、ツタンカーメン王の黄金の宝物が有名だが、カイロ博物館のコーナーには、地味に素焼きの瓶がふたつ展示されていて、ひとつが「ワイン」、ひとつが「ビール」である。
どちらも、当然に蒸発していたものの、瓶内側に残った「カス」の成分分析で証明されている。

カイロの街中の歩道に、以前はふつうにあった「底が円錐状の素焼きの瓶」と博物館のものは、おなじデザインで、倒れてしまう瓶に枠をはめて支えるのは、「澱」を沈めるためともいわれている。
歩道設置の瓶は、通行人が自由に飲んでいい「水」があったのだ。

通行人が、瓶の縁を金属カップでカンカンたたくと、おどろいたボウフラが沈むから、そのスキに水をとって飲んでいた。
わたしにはできない「技」であったが、素焼きなので蒸発熱を利用するから、えらく冷たい。生活の知恵である。

とすると、ツタンカーメン王も、あんがい冷えたビールを飲んでいたのだろう。
ただし、人類が現在の主流となったビールである「ピルスナー」を飲めるようになったのは、パスツール研究所にいたチェコ人の研究員がみつけた「ビール酵母」のおかげである。

このひとは、チェコに帰って、ビール工場をつくり、ここではじめて黄金色のビールができた。
それが、ドイツに伝わったのであるから、なんとたかだか180年ほどの歴史しかない。

では、ツタンカーメン王が飲んでいたビールとはなにか?
それは、「エール」に分類されるもので、イギリスのギネスが有名だ。
ピルスナーが下面発酵なのに対して、エールは上面発酵が特徴で、ベルギービールのほとんどが「エール」である。

ワインとビール。
どちらもヨーロッパを代表するアルコール飲料だけど、ブドウがとれる北限をはるかに越えるのもヨーロッパなので、北側ではビールがもっぱら製造されている。

さて、感染症となると、原因よりも結果の関連性から帰納して、ワインを飲んでも発症するが、ビールだと発症者がでないことに気づいたひとがいた。
ビールは、エールでも製造工程で、大麦麦芽を煮沸して麦汁をとらないといけないから「火入れ」されるどころか「煮る」のだ。

そんなわけで、ベルギーとオランダの修道院で、世界的に有名な「トラピスト・ビール」がつくられている。
「トラピスト」とは、「厳律シトー会」という修道会の名称で、日本では函館の「トラピスト・クッキー」が有名な土産物にもなっている。「厳律」なので、司教からの干渉を受けない特権をもつ。
なお、「トラピスチヌ」とは、本会の男子禁制女子修道院をさす。

はたして、コロナウィルスにも有効だといいのだが。

「統治能力」がうたがわれる時代

世界が「戦争」だといいだした。
もちろん、「新型コロナ・ウィルス禍」のことである。

発生源の国の、閉鎖された大都市で、とうとう新規の発症がなくなったと発表するあたり、みごとに「他人事」にすることができる思想が、他国のひとの神経を逆なでにする。
いったいどういう魂胆なのか?

こうした国を統治するひとたちと、仲よくしようというわが国の政治家の統治能力も、いっしょに疑われてきたから、方向としてはわるくない。

初動に失敗し、いまもヘンテコな「要請」をだしつづける政府に、野党がぜんぜん対抗できないこともみんなにしれて、自己防衛に走りすぎたら、マスクやトイレットペーパーがなくなった。
呆れるのは3月19日になって、「はじめて」国会内に与野党協議会が発足したことだ。この「遅さ」こそ、歴史にのこすに値する。

花粉の時期とかさなって、マスクはいまだに不足しているが、「紙類」については、ぼちぼち手に入るようになってきた。

紙類は、ほぼ国産であることがしれて、流通在庫も十分にあるとわかったら、こんどは売り場から購入するひとが他人からにらまれるはめになっている。
ところが、不足するマスクは、7割以上が輸入だとわかった。

わが国のものづくりは、とっくに外国依存していたと、十分気づかされる事態になった。
こんなものも外国製でないと、国内で作ったら採算にあわないのか。

マスクが詰まったコンテナが海を渡ってやってくるはずが、ご当地の事情から出荷できない。
だから、不足はつづくのだろうが、花粉症でないなら、マスクをつかわない生活をすればいいだけである。

わが国は、ビジネス・モデルの転換をしていたけれど、それが仇となったのが痛い。
けれども、感染症にふつうのマスクは役に立たないと決していわない政府が、もっと痛い。

フランスでもマスクがなくなったというのは、マクロン政権らしい無様である。
わが国政府と親和性があるのが、左翼政権ゆえである。

こんどはお彼岸の連休に、神戸と大阪の移動は避けよと、知事たちがいいだした。
この際、あおるだけあおったもん勝ちの作戦を、どこまでやるのかしらないが、原始人が政府をうごかしていることはまちがいない。

マスクではなく手袋の着用と、電車のつり革や手すり、エスカレーターの手すりにエレベーターのボタンをさわったら、必ず石鹸で手を洗えともいわない。

電車の中では、厚生省からいえといわれたといいながら、手指の消毒をしましょうと変な放送をしているけれど、駅のトイレに石鹸がないのはどういうことか?
言っていることとやっていることが分裂している。

消毒用のアルコールがなくなって、焼酎メーカーがアルコールを増産するというのに、もっとも身近で重要な石鹸がぜんぜん不足しない不思議がある。
もちろん、これは「いいこと」ではある。

スーパーマーケットでは、トイレの温風タオルの利用を停止したのはウィルスをまき散らさないためとわかるが、紙タオルを置かないままだから、自分のハンカチを使えということだろう。
レジ袋を有料化して大儲けしながら、この体たらくだ。

経営者に経営センスがないからこうなる。
きっと従業員も他人ごとにちがいない。自分ならこうしてほしい、という意見も提案もしないのは、風通しがわるい組織風土がそうさせる。
むかしなら、これ見よがしに紙タオルを準備して、他店とのちがいをアピールしたことだろう。

「紙」なら売るほどあると見せるのも、社会的責任の一種である。
確定申告をひと月伸ばす意味はどこかはしらないが、こうした店の努力を支持しないなら、顧問税理士の看板が泣く。
税理士会が、こぞって財務大臣だかに陳情ぐらいしたらどうか?

どうせ中央省庁の役人がきめたレジ袋有料化だから、儲けた分を今年だけははき出せと命じれば、いまの流通業界は額を床におしつけて承ることだろう。

最大手のコンビニのトイレでおどろいたのが、どこにもトイレットペーパーがなかったことである。
さいわいにして、このときは紙を要することではなかったが、緊急性が高い状態での使用なら、利用客はどうしたらよいものか?

記憶に残る「無惨」である。
すくなくても、もうこの店舗は利用したくない。なにがコンビニか?
もちろん、いっとき、利用客がトイレの紙を持ちだしたのだろう。
体のよい万引きである。

ふだんいばっている本部が、どんな改善指示をだしたのかも気になるところだ。
「24時間」が維持できない。
ならば、店舗ごと閉店するという選択は、店名のオリジナルに戻した店と色分けでもすればいい。
そうかんがえると、コンビニチェーンであっても、統治能力が問われている。

ようは、あんがい世界中で、組織の統治能力が緩んでしまっているのである。
ビジネスの世界で生きてきた、アメリカ大統領が頼りになるのは、統治能力が高いからである。

このひとの統治能力がないと言い張った、わがマスコミの見識のなさが、新聞社の経営を傾かせているのだから、やっぱり統治能力がないのである。

それにしても、感染症対策を「戦争」だと発言した、ドイツのメルケル首相は、とっくにレームダックのはずなのに、いつまでも健在なのは統治能力があるからなのか?それとも、わが国同様に、次がいないからだけなのか?

トイレがない家

流通が脆弱だっただけでなく、特定国での製造依存が脆弱だった。

そんなわけで、一般住宅用の設備機器が不足という事態になって、とうとう受注も止まりだしたという。
つまり、メーカーに申し込んでも受注してくれないから、納品もなにもあったもんじゃない。

がんばって、国内製造でふんばってた会社は供給ができるというけど、陶器製のトイレがない。
風呂桶がない。換気扇がない。エアコンがない。
部品がないから完成品がない。

自動車産業についで、すそ野が広いのが住宅産業である。
一軒の家は、さまざまな「部品」からできている。
むかしの家ならかんがえられない、設備機器が快適な住環境をつくっているから当然でもある。

いまようの「エコな家」とは、高密度・高断熱を旨とする。
これを、家の「基本性能」ともいうようになって、阪神淡路からの震災経験をふまえての法改正も何回かあったから、30年前の家といまとでは、まったくちがう性能の家が法律上でも建っている。

ヨーロッパを中心に、家の価値は数百年にわたって保たれるようになっていて、わが国の、建てた瞬間から減価がはじまるものとはちがうといわれてきたが、そのヨーロッパに学んだひとたちが、日本の気候風土にあわせた高品質住宅をつくりはじめている。

年間の光熱費が数万円で済む家などは、ちょっと前ならかんがえられなかったけど、いまではふつうに供給されている。
真夏、外気が35度を超えるのに、木造の家の中は25度をたもっているというような性能である。もちろん、冬もおなじ室温になる。

そのための断熱資材や高密度資材も、国産ではないことがある。
とくに窓のサッシは、残念ながら国産よりも外国製が優秀だという。
国産は外枠方式、外国製は内枠方式というちがいがあって、施工は困難だが、外壁を傷めず内側から交換できる外国製は、建物寿命にたいへん配慮されている。日本製が世界最高ではない事例のひとつだ。

本来ならば、こうした技術を利用した、モデル・ハウス的「旅館」があっていいのだが、設備投資をまともにできる経営状態ではなくなっている。これも外国人依存の負の効果だけではない。
それでも、旅館の経営者は、一般人の住宅がこういう性能になっていることを無視できないのは、お客様の家がそうなっているからだ。

いま、「端境期」といわれているのは、中古住宅取引における「建物の価値」をいくらに見積もるのか?がほとんどできていないためである。つまり、「目利き」なら、良質の中古物件を格安で購入できる可能性があるのだ。

しかし、中古住宅なら、やっぱり「リフォーム」が欠かせない。
新規に入居するなら、水回りは気になるところだ。
こうしたこともふくめて、今回のウィルス禍は、住宅の重要部品がなくなるという大問題になっている。

一戸建てであろうが、集合住宅であろうが、新築であろうがなかろうが、最後のパーツとなる「トイレの便器がない」状態なら、引っ越すこともままならない。

やさしいけれど、世間に興味がない行政のひとたちは、そんな事情はお構いなしに、「完成検査」をやってくれるという「特別な配慮」をしてくれる。
トイレがない家が、「完成」したと書類をくれるのだ。

すると、金融機関は住宅ローンを「実行」する。
新居に引っ越しても住めないから、賃貸に住んでいるなら退去もできないのに、従来の家賃とローンの二重払いがやってくる。
いまの家を売却して手放す予定だったなら、いきなり住む家を失うことになりかねない。これは、新規入居者がきまっていたら、賃貸でも退去期限までにでていかないといけないから、おなじである。

そんな状態になったら、「完成」していても、ローンが実行されてはこまる。
ところが、トイレの便器がない「だけ」で、建築費用の支払が全部実行されないと、工事を請け負った大工さんが、各種材料の代金も支払えなくなる。

あっとおどろく「連鎖」があるのだ。
だから、「すそ野が広い産業」だというのである。

元の原因は、製造業の国内空洞化にある。
しかし、いまさらこれをいっても、ないものはない。
いかなる「依存」状態だったか、いまさらながらにわかるけど、だからといって、開き直られてもこまる。

日本株へのてこ入れで、ハゲタカたちにみすみす資金を吸い取られるなら、こうしたひとたちの救済をかんがえたほうがよほどいい。
それは、本人たちだけでなく、日本経済のすそ野を守る意味もある。

放置すれば、施主と施工者との、信頼関係すら壊れてしまう問題だ。
はたして、残ったトイレの便器だけを設置するだけの仕事を、大工さんが積極的にやってくれることもないだろう。
何十年かのメンテナンスもかんがえたら、完成時のトラブルはえらく長引くはなしになってしまう。

あるはずのモノがないが転じて、おカネがないになって、互いの信頼関係が崩壊する。
この図式でなら、まずはおカネをもって一助とするしか、方法がない。

完成してないのに完成したことにするのなら、このくらいの配慮をするのが人間というものである。
政治が死ぬと、こういうことが頻発して、他人を信用できないことになる。それで、とうとう社会そのものが崩壊してしまうのだ。

モグラたたきゲームがはじまった。

居住用不動産見学ツアー

金融緩和をガンガンやっても、いっこうに経済がよくならない。
空き家がふえるばかりなのに、新築の住宅はもっとふえている。
なにをかくそう、担保がとれる住宅ローンしか安心の貸出先がないもんだから、緩和してあまったおカネは住宅投資だけにしか向かわないのだ。

けれども、35年ローンを組めるのは、正社員か公務員ぐらいになってしまって、並の職業人ならひるんでしまうような将来不安につつまれている。
政府の経済政策が、社会主義計画経済という「カス」だからである。
その不安が「少子」になってあらわれている。

コロナウィルス禍は、たんなる「引き金」で、経済悪化の「原因」ではない。
この国の経済悪化とは、無理クリに支えようと政府が自由経済を否定して、日銀にやらせたトンチンカンが日銀の経営を破たんさせようとしていることに象徴される。

むかしは、「協調介入」なる用語をもって、為替相場の維持に各国政府が中央銀行にやらせていたものだが、民間資金がまさる世の中になってから、為替介入はかえって「経済をゆがめる」ものと認識されて、もうできない。

仕方がないので、国内で「介入できる」株式相場をいじくって、株高というイリュージョンをつくりだしが、とうとう「タネ」がばれて、兆円単位の含み損があると、日銀総裁があっさりみとめたから、ヤクザの開き直りも青くなるほどの、わが国「エリート」の堕落をみた。

こんなレベルなら、日銀総裁は、小学生の子どもにもつとまるけれど、いまのひとは「財務官」という要職にもあったから、財務省のレベルもしれるという「被害」が発生している。
つまりは、わが国の「エリート」が、じつは役に立たないと自分たちから国民にしらせているのである。

そんなわけで、この国はとっくに「不動産バブル」状態になっている。
それが、こたびの「ウィルス禍」ではじけるなら、いったいどこまでの「下げ」となるのか?
株の次は、不動産と相場はきまっている。

安くなるからいい、とはいかないのは、ただでさえ日銀のマイナス金利政策で疲弊している民間金融機関の融資先が「なくなる」というパニックがはじまるからだ。
「貸してなんぼ」の貸金業が、貸出先をうしなえば、それは「業」として成立しないことを意味する。

つまり、メガからはじまって、地域の金融機関が消滅すれば、公共料金の支払いにだって苦慮することになるし、そもそも、国民経済の「血液」にあたるおカネがまわらないとなれば、それは経済の「死」をもまねく重大事である。

政府の失策によって殺される。
これはなにも「戦争」だけでなく、「経済政策」でも起こりうることを示してくれたことは、不幸中の幸いである。
次世代の日本人に、痛い教訓を残すことまちがいない。

山梨県の温泉からの帰り際、前から気になっていた「コモアしおつ」に立ち寄ってみた。
トンネルを越えると、そこは別世界のような住宅地で、珍しいほどに一区画が広く、首都圏ではかんがえられない70坪ほどが平均か。

山の上にあるというから、日本のマチュピチュとも表現されるらしいが、わたしにはヨルダン川の渓谷西岸の山上にあるイスラエル占領地にみえた。
35年ほど前、イスラエルを旅したとき、通りかかったクリーニング店のアラブ人親子が、日本人ならといって、占領地の住宅街を車で案内してくれた。

みごとな区画の一戸建てや低層階の集合住宅がならぶ街並みをみながら、中心にあるスーパーマーケットで、かれらもうれしそうに買いものをしていた。
アラブ人だから地域に入ることもゆるされない、ということはぜんぜんなかったし、検問すらなかった。

むしろこの親子は、アラブ人にユダヤ人のような計画性があれば、もっといい暮らしができるものなのに、とボヤいてみせながら、ユダヤ人の入植地は素晴らしいけど、日本人がつくる街はもっといいにちがいないといっていた。

ここは、JR中央線の四方津駅から、「コモアブリッジ」という長大なエスカレーターと傾斜エレベーターで直結されている。
ざっと1700軒がたつ街だけど、このインフラの整備と維持のために、どれほどの負担があるのか?

このブリッジ横に、スーパーマーケットと地元信金のATMがあったから、やっぱりヨルダン川西岸のイスラエル占領地と街の構造がそっくりだ。

居住時に百万円、月額6500円は、コモアブリッジ・CATV・自治会費だと案内にあった。
しかも、景観をまもるため、さまざまな「建築制限」も協定にあると書いてある。平成バブルの賜とはいうけれど、なるほど傷んだ家が一軒もなく、庭の手入れが行き届いているのは、ある意味日本らしくない住宅地だ。

この協定がもっと厳しくなればスイスのようになるだろうけど、緩くなれば自壊する。
すると、一時金は別として、月額では11百万円ほどしか集金してない。
これで、維持できるのか?おそらく、ギリギリの攻防が町内であるのだろう。

ほんとうは、「改札」を設けて、利用者から直接徴収したいのだろうけど、そうなると「鉄道法」に引っかかるのだろう。
運輸局への許可申請だけでも、気が遠くなる。
あれやこれやと条件をつけられて、いまよりずっとおおくの「無駄な支出」を強制されるから、やりたくてもできないのだろう。

国の全国一律行政が、特異な開発地の例外的住民生活を苦しめるのである。
しかし、地元選出の議員とて、中央官庁に手を出すのがリスクになる。
こうして、どうにもこうにもならないのが、わが国なのである。
アラブ人の親子を裏切るようで、申し訳ない。

見学をおえて、遅いお昼は厚木になった。
天気がいいので、飲食店周辺を散歩したら、地元不動産屋の窓に貼っている案内をみた。すると、お手軽な物件があった。
近所なので、歩いていくと、何カ所もミニ開発がおこなわれている。

ああ、これが今期バブルの最後なのかもしれない、とおもいつつ、あわてずにちょっと様子見が妥当なのだろうとかんがえた。

次の、二発目の「引き金」は、きっと東京オリンピックにかかわる、なんらかの決定になるかもしれない。

これも、「引き金」にすぎないのではあるけれど。

とにかく長生きしたい

漫然と生きていると、生きていること自体が目的になって、どんなふうに生きるのか?ということがないがしろになる。
それで、とにかく長生きしたい、ということになるから、けっきょくこれは、死への恐怖にほかならないので、既存宗教が無価値になったということでもある。

これまでの人生で、何回、臨終に立ち会ったか?といえば、祖母と父のときしかない。
急死した母の臨終には、出張中で立ち会えなかったし、枕元にいたはずの妹も、ちょっとはずした隙に逝ってしまったと泣いた。

そんなわけで、今年の春のお彼岸は、昨日の17日から、来週の23日までとなっている。
お彼岸前に桜が開花してしまったのは、はじめてかもしれない。
順番がちがうのは、いまどき人間活動のせいだということになりがちだけど、ほんとうのところはどうなのか?

専門家というひとたちが、かくも信用できない時代もない。

その「不安」が、世界的な「株安」になってあらわれている。
よくいえば、一般人の知識が専門家と大差ないということでもあるし、わるくいえば、専門家と称するひとの専門家にあるまじき発言の軽さが、一般人をして納得せしめることができない。

それが、判断の混乱をうんで、さらに別の専門家による情報過多が、とうとう「パニック状態」をつくってしまった。
もちろん、政府の発表も、いかにも「事務官」が書いた原稿を棒読みして、ぜんぜん説得力に欠けるから、トイレットペーパーがなくなるような不始末をおこすのである。

すなわち、テレビや新聞という既存メディアも、無価値になった。
正しさの基準を提供できないということは、購買価値がないと自主申告しているにひとしい。
紙がなくなるというデマを流したのは、ネット「だけ」ではなかった。

事後、このことを「放送倫理」として問題化することができるのか?

おそらく、「頬被り」をするのだろう。
いまの国内制度は、業界内部で議論する「内輪」のはなしになるからである。
すると、出てくるのは政府であって、もっとたちが悪いことになる。

「公正さ」とはなにか?
こうした議論から、国民も切り離されて、安逸な表層ばかりを追いかけることしかできない。
それが、今回、ブーメランとなって「パニック」をつくったのである。

おかげで、確定申告をゆっくりやることができる。
それに、ふだん予約がとれない宿も、かんたんに予約ができる。
移動は自家用車。
温泉にゆったり浸かれるのだ。

原油価格の急落で、ちょっとだけガソリン価格もゆるんできた。
いまどきは、公共交通機関の代表であるJRの電車賃が高いから、自動車移動の価値があるのだ。
どうしてこんなに高価なのか?

前にも書いたが、鉄道はエコじゃないからである。
線路の「保線」だけでも、たいへんな労力を要していることでわかるように、高速ではしる電車が安全に通れるようにつくるのも、おどろくほどのエネルギー・コストをつかっているのだ。

しかも、「安全」を「第一」とするので、各種緊急停止のためのシステムは、車両だけでなく線路にも配置されている。
これが、「お手軽」な利用ができる便利さと相反する設備投資である。

だから、車両あたりの利用密度を高めることが、維持するうえでも重要になる。
それで、人口がおおい都会は、どこの国でも鉄道がありがたがられるけれど、人口が散る地方での鉄道を維持することが困難になるのである。

わが国でも、地方にいけば、クルマがない生活はかんがえられない。
利用密度が得られない鉄道よりも、舗装するだけでよい道路の維持のほうが、エコだからである。
この「エコ」とは、エコノミーだけではなく、エコロジーでもあるのは、トータルでのエネルギー消費が鉄道よりもすくないからだ。

今回の「ウィルス禍」で、わが国の経済は急落しそうであるし、すでに急落している。
ファンダメンタルズでいえば、絶好調のはずのアメリカで株価が乱高下して、なんだかおかしいことになっている。

わが国は、消費増税後のファンダメンタルズは、最悪に近いし、まさかの「GDPが年率でマイナス二桁」になるやもしれないし、もうなっているかもしれない。

もはや日銀の手も尽きて、株を買うしかないという、内外の機関投資家たちの「餌食」になっている。
つまり、かれらはどんどん「空売り」して儲けるだろう。
こうしたひとたちを「ハゲタカ」というのである。

日本経済という「屍肉」をむさぼるのはいかがか?
けれども「スカベンジャー(清掃人)」でもある。
政府の経済政策が、あまりにも「カス」だから、これをむさぼって儲けることが、「カス」からの転換を促すからだ。

けれども、「とにかく長生きしたい」から、「カス」の政策をやりましたといって、みずから責任をとりたくないとかんがえる「カス」たちが支配している。

わたしたちは、これから酷い目にあうことが確定している。
それもこれも、こんなやつらにお任せしてしまった、じぶんたちのせいなのである。

合掌。

たまに「名作」にぶつかる

テレビを観なくなってひさしい。
ニュースも天気予報も一切観ないで、ちゃんと社会生活ができるから、受信機があるというだけで受信料を徴収するのは、「なくてはならないもの」に対する勘違いでしかない。

ものがない時代と情報もない時代の賜だった「放送」が、すっかりコモディティ化してしまったので、「受信料問題」という「問題」が、顕在化してきたのだ。
その意味で、制度も「古い」が、かんがえ方がもっと「古い」。

何回か書いたが、観るのは「YouTube」である。
こちらは、事実上の「アーカイブス」にもなっている。
いい悪いの議論はあるが、よく観る傾向をAIが判断して、そのひとが好みそうな動画ばかりを提案してくる。

それで、仕方ないから、なるべく興味がない動画も選ぶようにしている。
すると、なんだかいろんな動画を提案してきて、たまに「ヒット」するから、AIもまだまだのレベルなのだとわかるのである。

わが国を代表するゲーム機メーカーに成長した、もとは「花札」や「トランプ」をつくっていた会社がつくったゲーム機のために、不思議な「番組」もつくっていた。
このゲーム機は、動画を観ることができる機能があって、その機能紹介のために製作されたものだとわかった。

初代のゲーム機と後継機種は持っていたが、複雑化するゲーム内容についていけず、ぜんぜん興味をうしなってしまったから、いまどんなゲーム機がどうなっているのかをほとんどしらない。
スマホでゲームをしているひとをみると、その時間の読書をすすめたくなる悪い性分もある。

たとえ「サンプル動画」だとしても、あらためて検索したら、なかなかの話題になっていた。
10分ほどで短いけど、内容がよく吟味されている良質の「シリーズ」は、全部でたったの「15本」で終了している。

『修理 魅せます』

ナレーターは、石坂浩二による。
彼は、プラモデルのおそるべきファンだというから、この手の「番組」のナレーションは、楽しくて仕方なかったにちがいない。

「修理」という分野は、「ものづくり」とはちがうジャンルなのだとよくわかる。
しかも、それは、新製品をつくるよりよほど難易度が高い。
これを、15の製品で「魅せ」ている。

それは、出演する職人全員のもっとも重要視していることが、「依頼主の思い出」だからである。
かれらはものを修理しているのではない。依頼主の「こころを修復」している。
だから、かれらは、製造業ではなくて「感情産業」のひとたちなのだ。

日本がかつて世界を席巻した「テレビ受像機の製造」は、もはや壊滅的である。
いわば、当時のアメリカ人が味わった家電製造業の壊滅を、いま、われわれが追体験している。

失業はこまるけれども、アメリカ人はお構いなしに、日本製のテレビを購入したのは、安くて性能がよかったからである。
いま、われわれだって、安くて性能がよければ、日本製にこだわることはないとかんがえて、購買行動をしているのだ。

むしろ、あたかも「日本製のような」製品がおおくなって、なにがなんだかわからないから、いっそうこだわりがなくなっていく。
その代表がテレビ受像機である。
メーカー名が「ブランド」としてあつかわれるから、わが国伝統の電器メーカーがつくったものだとおもわせる「怪」がある。

4Kだろうが8Kだろうが、解像度が高くなっても、これにみあうコンテンツがない。
だから、買っても無駄だとおもうけど、どうしてみなさんがほしがるのか?

テレビを売りたかったら、その機能にみあった番組が放送されないと意味がないのである。
「日曜劇場」や「水戸黄門」を電器メーカーの提供でやっていたのは、このためでなかったか?

それで、ゲーム機メーカーが、驚きの番組をつくってしまったのだ。

しかし、この「シリーズ」は、できがよすぎた。
およそ、このシリーズを観て感激するひとたちなら、はたして最新のゲーム機を自宅に購入するのか?
いや、こうした番組に敏感なひとたちが、ゲーム機を購入すると意図したのか?

けれども、ゲーム機を購入しないと観られないのなら、やっぱり「順番」がちがう。
「おまけ」なのである。

すると、なんて贅沢な「おまけ」か?
儲かりすぎて税金をおさめるぐらいなら、思いっきり「無駄遣いしてやる」と意気込んだのかもしれない。
それで、業績にかげりがでたら、企画も中止になったのか?

それなりに製作されてからの年月がたっているけど、こんなシーリーズをつくったことに、とても好感がもてる。
このゲーム機メーカーを見直させられたのである。

ならば、今度はテレビ・メーカーが、後継番組の権利を得て、これぞという新シリーズをつくってほしい。
それが、最新の映像技術とどう結びつくのか?
ただ「きれい」な画面ではなく、ドキュメンタリー番組として成り立つ手本を示してほしい。

テレビを売りたいなら、ほしくなる番組がなければならない。

まさか、こんなことも、メーカーは忘れてしまったのか?

ダメ上司考

世の中の「組織」には、ダメ上司が「たくさんいる」とかんがえられる。
その理由はいたって単純で、業績が振るわない組織がたくさんあるからである。

人間というものは、「思考」する動物だから、その思考の奥にある「価値観」や「思想」といったものが、じつはかなりおおくの「行動」を支配している。
これが、本能で生きるだけの「動物」と、決定的にことなる点である。

そんな人間があつまってできるのが、「集団」である。
しかし、集団には、はっきりした「目的」がないという特徴がある。
たとえば、相撲の観戦だって、広い会場に集まったひとたちは、「観戦」するだけで、あとはとくになにか参加することがない。
たまに、座布団を投げることぐらいであるけど、これも全員の義務ではない。

プロ野球観戦がつまらなくなったのは、内野席であっても、なんだか「応援を強制させられる」ことがあるからである。
ここに座るのは、こちら側のチームのファンしかいないという発想がその場の周辺におよんで、おそろしく気分を害したことがある。

それから、あまりプロ野球をみなくなった。

こうした、ひとつの場にいるだけの状態を、「集団」というのだ。
だから、わが国の特徴といわれた、「集団主義」というのは、あんがいと「虚無的」で、なんだかわからないけどみんなでやる、というイメージがある。

これが、成功体験になったのは、「粗っぽい製品」や「一律のサービス」がゆるされた時代背景があったからではなかったか?
つまり、「不足」を前提としていたので、あまねく販売・普及させることに重点をおけば十分に業績があがったし、それ以上はコスト高になったのである。

そうなると、組織としては、集団を引っぱることができれば、中間管理職としては上出来である。
すなわち、職場の構成員たちの「成熟度」は問われないばかりか、むしろ、がむしゃらに命令に服従することがよしとされてきた。

しかし、規模の大小を問わず、現代の優良企業にみられる組織は、第一に職場の成熟度からしてぜんぜんちがう。
このときの「成熟度」とは、ベテランから新入社員まで、正社員からパート・アルバイトまで、じぶんたちのやるべきことを全員が理解している状態の有無をいう。

もちろん、「成熟している」状態とは、この理解度が「広く・深い」のである。
だから、このような組織での上司の役割とは、職場の構成員の邪魔をしないことであるし、積極的に彼らをフォローすることになる。

これが、その職場のパフォーマンスを最大にするからである。
つまり、優良企業の優秀さの本質である「生産性の高さ」は、ここに源泉があるのである。

最優秀な人材を結集しても失敗するのは、これができていないからで、最優秀ではないひとたちが、ときに大逆転の成果をだすのは、これができているからである。

すなわち、職場を成熟化させることができるかできないかは、企業の命運すら左右する重大な分岐点なのである。
会計でいう「損益分岐点」などは、たんなる現象にすぎないから、まったく比較にならない小事である。

では、新入社員やパート・アルバイトまで、どうやって短期間で「成熟させる」のか?
これが、上司の役割のもっとも重い仕事になるのだ。

上司の「できる」、「できない」、「ダメ」は、ここで決まる。

・職場を成熟化させることが「できる」。
・職場を成熟化させることが「できない」が、悪化もさせない。
・職場を成熟化させることができないばかりか「ダメ」にする。

「できない」なら、その上の上司や経営者が、「できる」ようにするように差し向ければよい。
けれども、「ダメ」ならば、即座に配置転換をさせなけれなならない。

これができないなら、それは「ダメ」なひとのせいではなく、その上の上司や経営者の責任である。
ところが、「ダメ」なひとがいる理由は、その上の上司や経営者も「ダメ」だからである。

このような職場にいたら、
若ければ、転職を視野にいれる。
転職ができないなら、業務改善をじぶんでしないといけない、と覚悟する。
という、二択になる。

放置すれば、最悪「倒産」という事態になって、職場ごとなくなるから、業務改善をする覚悟はそんなに「悲壮」ではなく、むしろ、結果が最悪でも、給料をもらいながら業務改善の実験ができるとかんがえれば、無理矢理の転職にも有利になる可能性だってある。

もはや、正職員であろうがなかろうが、関係ない。

ふつう、職務契約で、パートタイムやアルバイトには、職務範囲が定められているが、「ダメ」やその上の上司や経営者が、このことを忘却していることがある。

職業訓練も含めるとかんがえれば、あんがいとパートタイムであれ、アルバイトでも、かんがえによって「都合がよい」ことにもなる。

それにしても、「ダメ」を放置する「ダメ」が、目立つのである。

マスク高値販売禁止運動

トランプ大統領が、「国家非常事態宣言」をだし、WHOは、「パンデミックの中心がヨーロッパ」だといっている。
そのために、ギリシャではオリンピックの聖火リレーが中止され、フランスではエッフェル塔が閉鎖された。

わが国では、「私権を制限できる法律(改正新型インフルエンザ等対策特別措置法)」が国会を通過し、即日の14日に施行された。
この法律は、あの民主党政権のときに成立したから、安倍政権は民主党政権の延長にある。

私権制限については、首相の「緊急事態宣言」によって、「都道府県知事」に強い行政権限をもたせるという方式だ。つまり、知事に「ぶん投げ」をする。
ただし、「強制力」はない。

これは、都道府県に派遣されている「キャリア国家公務員=都道府県幹部」が、出身省庁との連絡役になって、事実上の「知事押し込め」をできるようにした、ということである。

警視庁を除けば、各道府県警察本部長や日銀支店長は、「本庁」の「課長」クラスだという事実が参考になる。
つまり、「支店入社」したら、けっして支店長にはなれない仕組みがある。

地方政府たる「都道府県庁」のなかに、「私権制限」をかんがえることができる部署など、ふだん存在しないし、これまでもなかった。
それが、「緊急事態」だから、すぐにできる、というのは、中央官庁からの命令を鵜呑みにするしかないではないか。
それと、「政令指定都市」はどうするのか?

ようは、官僚による「中央集権」の強化が、かくれた目的になっている。

つまり、いっそうの「政治の無力化」がはかられた。

政権党がどこであろうが、官僚支配は動じないばかりか、強化されるということなので、これを「火事場太り」というのである。
じつに「頭がいい」。
しかし、国民には「頭が痛い」はなしである。

「感染防止」という名目で、なんでもできる。

魔法の杖をもった官僚たちは、その悪知恵をどんなふうに振り回すのか?
もはや、政治家によるチェックは用をなさない。
ヒトラーが独裁を確立した、「全権委任法」は、ドイツ国会による全会一致だったから、ワイマール憲法の改正すらひつようとしなかった。

今回の法律も、「憲法論議」はいっさいない。
「緊急だから」憲法違反でもいい。
ならば、拉致被害者の救出がなぜできないのか?
本人や家族にとっては「緊急事態」のなにものでもない。

これを、ご都合主義という。

国会は、強制力をもたせないことで、「同調圧力」に期待したのか?
より、ずる賢いやりかたである。
国民を、精神的に追いつめる。

どうして、後付けでいいから「憲法との調整をはかること」を付帯事項にしないのか?
おそらく、憲法13条の「公共の福祉に反しないかぎり」があるからである。

この一文は、前から気になっていた「蛇足」である。
すなわち、「公共の福祉に反しないかぎり」という部分の「削除」こそ、議論の対象にしなければならないのだ。
これがために、拉致が個人のはなしにされて、「公共の福祉」ではないから国家が知らんぷりできるのである。

近代民主主義国家の「憲法」は、政府がきめるものではなく、国民が政府に突きつける「命令書」なのだ。
なのに、国民をないがしろにする憲法を、なぜに人権派だけでなく、国民がこぞって改正提案をしないのか?

不思議なことに、「強制力はない」といいながら、「刑罰」はある。
業者にたいして、必要な衣料品や食品などの「指定物資」を、知事が、売り渡し要請や収用、保管でき、なお、これら物資を隠したり廃棄したりすると、「6カ月以下の懲役」や「30万円以下の罰金」に処されるのだ。

「悪徳業者」を対象にするという、時代劇をみすぎて育った官僚の発想の源がよくわかる。
出でよ悪徳業者。

そんなわけで、「(ふつうの)マスク」である。
「医療用マスク」とはいわずに「マスク」といった場合の対象範囲はやたらとひろがる。
感染症対策に有効なのは、もちろん、「医療用マスク」で「ふつう」のではない。

けれども、巷間、ふつうのマスクが不足しているのは、花粉症と時期が一致したからもある。
花粉の大きさとウィルスの大きさは、はなしにならないくらいちがうから、ふつうのマスクでも花粉なら引っかかる。

それが、個人でも有料取引がはじまって、「高額」になっている。
「需要と供給」のバランスがそうさせる。
ネットではすでに、高額で購入したひとたちからの「怨嗟の声」があがっていて、ネット通販の会社に文句をいうひとが多数いる。

「値段」を「確認せず」に「ポチった」のが原因である。

個人間のネット取引でも、「高額」が問題になっている。
それで、ネットの運営サイトに、「マスク」の取引を中止せよという「書名運動」がネット上にでてきた。

「不織布」だか「紙製」だかはしらないが、一枚1000円はないだろう、と。
100枚で10万円。
ほしいひと、買える財力があるひとは買えばよい。

まさか、ペラペラなマスクが、こんなふうに「儲かる」対象になるとは思わなかったが、在庫をいっぱい持っていたひとがいるのだろう。

非合法な物資でなければ、なにを、どんな値段で提示しようが、自由である。
それを「買う」、「買わない」も自由である。

なにをもって、こんな署名運動をしているのか?
これぞ、「同調圧力」ではないか?
こういうひとたちにかぎって、「同調圧力はいけない」というのだ。

政府は、こういう「運動」がだいすきである。
こうして、私権が制限されるなら、やっぱり国民が阿呆だということになる。

パソコンメーカーからの電話

購入者への意見聴取というふれこみで、昨年秋に購入したパソコンのメーカーからの電話があった。

本音は、年度末決算の値引き販売の案内をしたかったらしい。
けれども、ついこの前に新品を購入したばかりなのだから、当分の間、購入予定はないと告げると、いろいろと遣い勝手の質問に切り替わった。

顧客への電話において、「販売」と「情報収集」という二つの目的をもたせるとは、「さすが」とおもった。
こういう「技」を、日本企業はできなくなっている。
「電話調査」という分野で一日の長がある、「外資ならでは」だとおもいながら、それに回答することにした。

ちなみに、「電話調査」で成功したのはアメリカだ。
アメリカ人の陽気さが、いきなりかかってくる他人からの電話でも、あんがい気まずくさせないのだ。
それで、紙を送りつけるアンケート調査より、電話調査の方が主流になった。

ただし、質問は「二問までが原則」だから、今回の電話も、このルールにしたがっているのである。
おそらく、初期のころ、三問も四問も質問して、さすがに怒りをかった経験があっての「ルール」になったはずだ。

アメリカ人の経験則なので、日本人に適用できるのか?ということは十分に検討されたはずでもある。
医薬品だと、アメリカ人の一回分の半分がおおよそ日本人向けになっているのは体格のちがいだが、生活習慣すなわち文化のちがいは、みえない分、難易度がたかい。

わが国の人的サービス業すなわち「接客業」で、この「難易度の高さ」が議論されない。
その「安易さ」が、収益や生産性の低さになってあらわれているのである。

「サービスの難易度」のことではない。
相手の文化や習慣についての研究のことである。

世界的にみて「貧乏国」だったわが国は、ヨーロッパ人からすれば、身分の差はあったけど、めったに所得の差があったようにはみえなかった。
それは、日露戦争勃発前の駐日フランス公使がのこした文章にもみられる。

高貴なる日本人が、ロシアという大国と戦ったら、滅亡してしまうだろうと嘆いたのである。
それは、国民全体が「高貴」であったが、国全体が「貧しい」からであった。

けれども、国民の側は視点がミクロになるので、フランス公使のようなマクロの比較対象をもっているわけではない。

そんななか、当時の「接客業」におけるサービスの「粒度」をかんがえると、だいたい「おなじ」すなわち「一律」なのである。
つまり、相手の身分によって一定の変化をさせれば、それでよかった。

かつての「文豪」たちの小説をそれぞれ読めば、主人公たちが接客業者にどう扱われたのか?がよくわかる。
つまり、ワンパターンなのである。

高度成長期の「一億総中流」時代こそ、もっとも「一律」が優先されて、全国の有名旅館やホテルも、だいたい「おなじ」なのであった。
これが、総崩れになったのは、直接的にはバブルの崩壊ではあったけど、その底辺には、高度成長の産物としての「多様化」があった。

それでいま、ようやく宿の形態も「多様化」してきてはいるが、むかしからの宿が、「多様化」の研究をしっかりしているといえるのか?
と問えば、なかなか「肯定」できないのである。
これが、衰退の主たる原因なのだ。

そんなわけで、購入したパソコンについての感想をきかれたので、大不満の「キーボード」について語ることにした。

「軽さ」を強調するのはいいが、「薄さ」はいかがか?
そのために、キーボードが貧弱になる。
これは、「入力機能」として致命的で、遣い勝手評価の8割ぐらいにあたらないか?と。

それがため、古いノート・パソコンをサブ・マシンとしていまでも愛用しているのは、頑丈なゆえに重いけど、キーボードの打ち心地について、他の追随をゆるさないからである。
しかも、このメーカーさえも、いまではこんな丁寧なキーボードを装備した機種を販売してはいない。

つまり、全メーカー全滅という状態になったので、快適なキーボードを持ち歩くことにした。
すると、ノート・パソコンのキーボードが不要になる。
しかし、タブレットPCのスペックにおける「貧弱」と、立てかけるときの不便は、がまんできない。

つまり、キーボード・レスだが、画面の角度調整ができて、二画面の携帯パソコンがほしいという意見をのべたのである。

どういうふうに、企画設計につながって、どういうふうに議論されて、それが採用あるいは却下されるのか、知る由もない。
けれども、日本メーカーのパソコンがたった数社で、事実上ほとんどなくなったいま、アメリカの老舗に期待したいのは本音である。

しかも、このメーカーは、「東京生産」をうたっていて、都下の工場で組み立てている。
日本人が働く場所があるから、いいたいことをいわせてもらった。

こんなことを、消費者がかんがえる時代になった。

ラッキーなコロナウィルス

政権の経済失策がチャラになる。
こんなラッキーは滅多にないから、とにかく「パニック状態を作ったもん勝ち」である。

競馬や相撲といった、政府が与えるどうでもいい娯楽からはじまって、民間の巨大遊園地や劇場を閉じさせ、あげくに野外の高校野球も中止させたら、とうとうオリンピックの「延期」までぶち上げた。
委員のだれが言ったかもわからないから、「アドバルーン」にちがいない。

政府に依存する国民は、江戸時代の町民よりも「劣化」して、集団心理をあおられたら、根拠があってもなくてもお構いなしに、もてる財力で「買い占める」ことで満足し、あおられた「不安」から、一杯飲み会から披露宴まで「自粛」している。

たまたまリスク・オフになっているニューヨークの株式市場が、「史上最大の下げ」をしたら、同じく「最大に下げ」たのは原油価格で、国民がなんだかわからないうちに、政府保有のマスクを供出するというニュースが追い打ちをかける。

不足するマスクを「政府が供出する」という無意味が、さらに政府の点数稼ぎになるのだが、これを「真顔」で政府発表するに至って、なお、国民が「歓迎する」のだから、もう二度と「大本営発表」をわらってはいけない。

しかも、半島の学校への配布が排除されたことの善し悪しを議論するのだから、暇人たちの楽園になったものだ。

半島のひとたちが、医療用でもなんでもないマスクをもらえないことに「差別」とかんがえることも、残念なことである。
そんなもんもらっても「予防」の「よ」の字にもならないと、「文明人の科学リテラシー」をたてにして「土人扱いするな」と拒否したら、どのくらいの衝撃を日本人にあたえることができたものか?

こんな大チャンスを自ら放棄したのは、どういうわけなのだろうか?
それとも、文明人の科学リテラシーを、われわれとおなじくやっぱり喪失してしまったのか?
もしや、国内テレビのワイドショーを観ているだけなのかもしれない。

いや、南の大統領は、マスクをした格好で写真を公開しているから、そのレベルだということか?
それにしても、残念なことである。

こんな「騒ぎ」のなか、今週あけ9日に、重大なニュースがあった。
それは、昨年増税された直後からの四半期における、年率換算のGDPが改定値として内閣府から発表されたのだ。
「マイナス7.1%」。

数字の「悪さ」にもおどろくが、理由にもっとおどろいた。
「民間設備投資の不足」
どうかんがえても、「消費増税」が原因だ。
よくも、民間のせいにできるものだと、その「いいまわしの妙」に悪意すら感じる。

それでじっさいは政府が「萎縮させた経済」を、ぜんぶ「ウィルスのせい」にして、アベノミクスの無意味を消し去ろうという魂胆がみえみえになってきた。

こんなデタラメな政府が、かつて日本に存在したか?とかんがえたら、もう思いつくのは近衛文麿内閣しかない。
安倍内閣が極左だというよりも、これを仕切る官僚たちの思想に呆れる。

科学も論理もまったくない、ただ支配欲だけがそこにある。
まったくもって、滅亡したソ連政府のやり方がそのままコピーされている。
ソ連研究者のベンチマークは、わが日本政府であることはまちがいない。

米ソ冷戦期、ソ連側は米軍の弱点を突く戦略を一度も採用しなかったことが明らかになった。
戦略を担当する官僚たちが、現場の声をことごとく無視したからである。
自分たちの「立場」を、国家目的よりも優先させる。
これこそが、「官僚」の「官僚」たる、行動様式なのである。

しかし、一方で、「原油価格の暴落」という大ラッキーも起きている。

減産を協議していた「OPEC+」が決裂したかとおもったら、なんとサウジアラビアが、一国だけ一転して「増産」を決めてしまった。

よほど、アメリカが「シェール・オイル」で石油純輸出国になったことの不安なのであろう。
中東から、アメリカ軍が撤退する恐怖は、サウジアラビアがつくってきた秩序の崩壊にみえるにちがいない。

ところが、こんな「価格」だと、アメリカのシェール・オイル会社の経営がもたない。
それが、株式市場や民間債券市場の「暴落」になると、もしやの「世界恐慌」になりかねない。

レバノン政府が債務不履行になったけど、まだまだ大丈夫。
けれども、12日には、あの「ドイツ銀行」が、「自社債券」の一部で、金利支払いを停止した。
「超弩級」の7000兆円ともいわれる、デリバティブをかかえるのがドイツ銀行問題だから、「いよいよ感」すらある。

それに、日本株の25%以上を日銀が保有するなか、東京市場の落ち込みは、「やばさ」を増していて、年金機構が投資する株式が、もしやの「損」をだす可能性まででてきてしまった。
それで、日銀が日本株の「買い増し」をやっている。

日銀が超過債務状態になっても、政府が資金提供するから大丈夫。
その政府は、ほんとうに大丈夫なのか?

中央銀行の「金融政策」が、なんと自国株の買い増し介入「しか」できないオプションのなさこそが、わが国経済政策のどん詰まりを世界に公表している。
これを、将棋やゲームなら「詰んだ」というのだ。

ああ、将来不安を消費税でまかなうはずではなかったのか?
それが、株式の下げによって「パー」である。
計画経済の計画が頓挫したときの無惨が、ひたひたとやってきている。

まさに、飢えたタコが自分の脚を喰らっている姿になった。

しかし、国民に「マスクを供与」するという政府は、どこまでも「優しく微笑んでくれている」ようにみせて、阿呆と化した国民をこれに「依存」するように仕向けるのだから、キリスト教をしっている欧米人なら「悪魔の所業」と見破るところだ。

しかし、わが国民は、健康のためなら死んでもいい。

こんな倒錯が、個人ではなく社会にひろがって、同調圧力やなんやというけれど、4月1日から施行の「改定健康増進法」は、ますます全体主義に社会をみちびく「標(しるべ)」になった。

もはやマスクをしないで電車に乗ることもはばかれる。

政府の役人たちは、パニックをつくって責任逃れにはしっているが、そのパニックだって「やりすぎ」たらコントロールを失う。

それがほんとうの「パニック」なのだ。
小さな気圧の変化が巨大台風になるように、集団心理がまとまってくると、強大な圧力が社会にうまれる。

それが心配だ。