日本語能力証明書の「偽造」

「資格」というのは信用をもってなりたつので、信用が毀損されることは「資格認定する側」からすれば死活問題である。

しかし、昨今、日本ではたらくことを希望する外国人には、日本語能力試験の認定書が「偽造」であっても欲しいという、つよい需要があるというから、これはこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、「認定書」へのつよい需要のことをさす。
それで、偽造した書類をつくって商売にしているのが、どうやら中国らしいから、これもこれで結構なことである。

もちろん「偽造」が結構なことではなく、需要があるところに目ざとく供給して商売にするということである。
これぞ「ビジネス」の鉄則であるからだ。

報道によると、偽造証明書を購入して逮捕・起訴されたひとの公判で、フェイスブックで偽造業者をみつけた、ということがわかった。
このときの言語が何語だったのか不明だが、もし日本語だったらたいした情報収集力であるし、中国の業者側もどうやって記述したのか?

自動翻訳だったのだろうか?
つかまったひとたちの東南アジア各国語での「販売」だとしても、それはそれで「手間」がかかっているはずだが、代金は1万円だったというから、はたしてこの金額で海外発送までして儲かるものか?

もちろん、この「代金1万円」をどうやって支払ったのか?という問題もある。
銀行からの送金なら、1万円の送金にそぐわない高額の手数料が請求されるから、おそらく別の方法だろう。

偽造側も日本円で支払われたものを、どうやって中国で受け取るのか?
まさかクレジットカードということもなかろう。

残念ながら、記事からはわからない。
わが国を代表する「経済紙」にしてこのていたらくである。
「経済」に特化できないなら、社名から「経済」を削除するか、いさぎよく看板をおろすべきだろう。

自国公用語の言語の能力が在留資格の取得に重要な意味をもつのは、世界的には共通事項だ。
英語が極端に苦手な日本では、とくに日本語がつうじないとはなしにならない。

それで、日本人の英語力を高めることよりも、日本にきてはたらきたい外国人の日本語力を高めるほうが手っ取り早いという具合になっている。

この日本人にとっての都合のよさは、残念ながら外国人にとっても重要で、雇用主の日本人と意思の疎通ができないと、たいへん残念なことがおきると予想できるからである。

ところが、こまったことに、日本語が世界的に難易度が高い言語のひとつとされている。
それは、日本語のルーツがいまだに不明なように、どの言語体系にも属さない「独自」さと「複雑」さから指摘されていることだ。

外国人に日本語をおしえて45年になる、日本語教育の先生にきいたはなしで驚いたのは、メソッドとしてはじめに「日本語文法」を半年間でおしえきる、ということだった。

それで、はじめて日本語をならう外国人に「理解できるのか?」と質問したら、「才能です」という回答だった。
先生は、たいへん優しいひとで、難解だが半年でマスターできないなら、別の道をえらばせたほうが本人のためだとおっしゃった。

ずるずると、若い本人の貴重な人生の時間を浪費させることは、教育者としてできない、と。
何年も、何回も、似たようなパターンを経験されて導き出した、きっぱりとした決心だ。

もちろん、何年も何回も、似たようなパターンで生徒がつまずく箇所も熟知しているから、年々と教授法も進化させているのだと先生はいう。
こんなに、外国人にわかりやすく工夫できるのは、先生が外国語の達人でもあるからだ。

イヤミでないのは、生徒のことをリスペクトしているからである。
「日本語だけ」が能力ではない。
才能を見切ったら、別のチャンスを見つけさせることも教師の役目だという。

そんなわけで、先生のもとで卒業できるのは入学者のわずか20%。
しかし、その20%のひとたちが、これぞという日本語力で人生を切り開いている。
これぞ、教師と生徒の並々ならぬ双方の努力の成果なのだ。

だから、先生は、日本における教育の「甘さ」を、厳しく指摘している。
安易な教師に安易な生徒ということではない。
先生からいわせれば、安易な教師でよしとする安易な社会だということだ。

製造物には製造物責任のための「PL保険」があるが、学校には製造物責任がないことをいいことに、安易をもってよしとする。

はたして、日本にきてはたらきたいという外国人に、丁寧かつ見切りをつけさせるような、経過責任のあるぶ厚い日本語教育をしているのだろうか?と問えば、寡聞にして聞いたことがない。

日本における英語教育とおなじに、生徒ができないのは教え方の無様を無視して「本人のせい」という、結果責任だけをおしつければ、うっかり「偽造」の発注もするだろう。

人手不足に悩む経営者も、外国の他人の子どもを酷使するのではなくて、その子の人生を預かるという気概なくして、継続的に応募もしてくれなくなるのだ。

せっかく日本にやってきて、「逮捕」され「起訴」されたら、国外退去にならずとも、日本人だって履歴書の提出がはばかれる。

外国人であろうが若者の夢をうばい、犯罪者を製造する国になってしまうことの反省だってあっていい。

これではまったく、日本における『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンだが、ぜんぜん救いがないから、もっと深刻で悲惨なのである。

アラブ人がもとめているもの

わたしがはじめて海外旅行をした先は、エジプトであった。
帰国後、ゆえあってそのエジプトで二年間ほど暮らすことになったのも、さいしょの旅行経験があってのことだったとおもう。
当時のカイロの喧噪が、急に懐かしくなった。

ときは、サダト大統領暗殺のあとで、ムバラク政権初期の「安定」した時代だった。

いまからすれば「観光立国」として絶対的人気がそれを裏づけていたから、外国人観光客が巻きこまれる「事件」といえば、スリか置き引きがほとんどだったが、たまに肌を露出した女性が襲われた。
しかし、「テロ」の恐怖は、この時期にはなかった。

日本をはじめとした「先進国」が、極度の「管理社会」ではないかとうたがうほどの「無秩序」にみえる「テキトーさ」がどこからくるのか?と問えば、かならずイスラム教のおしえにいきつくから、それはそれで筋がとおっていた。

なにしろ、憲法第一条でイスラム教を「国教」にさだめている国だ。
なので、役所の役人もイスラム教にしたがうのは当然だから、アラブの「I、B、M」の実用例をもっとも見聞きすることができるのが役所の窓口だった。

I:インシャラー:アッラーのおぼしめし⇒人間のせいではない
B:ボクラ:また明日⇒明日になればなんとかなる
M:マレーシュ:マ・アッラーフ・シュ⇒マ+~+シュで否定⇒ここにアッラーがいない⇒気にするな

外国人登録を自分でしに役所にいった。
職場ではエジプト人ボーイに代行させたらいいといわれたが、なにごとも経験が大切だ。

整列することができない国民性なので、窓口の人だかりが解消されることがない。
これは、映画にもなった1980年の大ベストセラー・サスペンス小説『針の目』で、作者の英国人ケン・フォレットが物語中「英国が支配したのにバスに乗るのにも列べない」と嘆いている。

 

待っていてもなんにもならないから、ひとを押しのけて役人に書類を提出し、受け取ればこっちのものである。どんなに時間がかかっても、順番どおりに処理してくれるはずだ。

ところが、3時の閉庁時間間近になっても呼ばれない。
どうしたかと、やっと人だかりが解消された窓口にいけば、「ボクラ」といわれた。ああそうですかとはいかないのは、ほんとうに明日の処理に回されるのではなく、「完全リセット」で申請からはじめないといけないからだ。

今日の未処理分の申請書類は廃棄される。
その理由は、「インシャラー」であり「マレーシュ」なのだ。
まことに便利な概念で、当人だけに都合がいいが、全員がこれをやるから「混沌」となる。
とはいえ、「郷に入っては郷に従う」のがルールだ。

しかたがないので、大声でさけびながら身もだえしたら、なんとかなった。こんなこと、日本の小劇団だってやらない演技だ。
まったくもって、「インシャラー」なのだ。
登録ができたと職場に帰って報告したら「まさか?たいしたもんだ」と、同僚のエジプト人にほめられた。

サダト暗殺の理由は、急速な「親米政策」だといわれている。
けれども、あとをついだムバラク政権も「親米」を貫いたのは、「親ソ」では国民が食えないからである。いま「親中」が進化しているのはこの点だからあなどれない。
それで、宿敵イスラエルと和平を結んだのが、のどに刺さった魚の骨のようなものだった。

ポーランドといえば「アウシュビッツ」が日本人観光客には目玉といわれていて、「人気」どころか「目的地」にもなっている。
ポーランド航空は、ワルシャワ=テルアビブ便をはじめとするイスラエル線を、地方空港からも飛ばしているのは、いまでもユダヤ人つながりが太いからである。

アウシュビッツに涙する日本人だが、これが「イスラエル」となると突如と無関心になる不思議があって、パレスチナの悲惨には反応しないのはどうしたわけか。

もしかしたら「複雑」をかんがえたくない、ということなのか?

あいかわらずアラブ人は「反米」をつらぬいているし、アラブと対峙するイランだって「反米」の権化となっている。
これに、敵の敵は味方という原理が作用するけど、「反米」で結束することがないのは、決定的に「宗教がちがう」からだ。

「スンニ派」と「シーア派」は、別の宗教だ。
日本の仏教における「派」とは、存立のレベルがことなる。

そんなわけで、われわれとも価値観がちがうのである。

戦後の日本人は、人類普遍の価値観を喪失し、経済的価値観だけで生きてきた。
アラブ人は、いまだに経済的価値観は二の次三の次なのである。

では、第一はなにかといえば、「自尊心」だ。
アラブ人の「自尊心」に、アメリカは無神経なちょっかいを出すからきらわれるのである。
それは、アメリカにも「自尊心」があるからである。

前にも書いた、アラブ人の自尊心がわかる映画『砂漠のライオン』の精神は、「実話」だからというだけでなく、本来は普遍的なものなのだ。

自尊心をなくせば、自由と民主主義も価値がなくなる。
自由と民主主義がなければ、経済的繁栄の価値どころか意味もなくなるのである。

こういう哲学を、アラブ人は一般人でももっていることを、われわれ日本人はしっていていい。

国民が望む「国に」わるいこと

今日は、78年前の大戦争開戦の一ヶ月前にあたる。

国民が望むことのなかに「国にとって」わるいことがある。
へたをすれば「滅亡」するかもしれないが、それでも国民が望めば、民主主義国家はイチかバチかの勝負をやらざるをえない。

これが、「大東亜戦争」であった。
もちろん、「大義」も「名分」もある。
「大義」とは、白人支配からのアジアの解放であり、「名分」は白人が構築したブロック経済に仲間はずれにされたことの自衛である。

大義もあって名分もあるのだから、われこそが「正義」となる。
後先かんがえずに、「正義」で猛進できる精神は、儒教からくる。
これぞ、徳川幕藩体制の亡霊であって、下級といえども「武士」によってできた明治政府にだって引き継がれたDNAである。

幕末の志士たちが読みふけった、会沢正志斎『新論』こそが、儒教(朱子学)からうまれたイデオロギーである。
そして、かれらは、じっさいに行動した実行者たちだった。
このひとたちがつくったのが、新政府である。

文明開化ばかりに目がいくけれど、ひとびとが新政府に違和感をおぼえつつしたがったのは、朱子学という地下水による。
初期の旧武士階級の「反乱」で、政府は朱子学を地下にながすが、幕藩体制下より飲み続けた一般人には、とっくに普及していた。

商家にみる階級(番頭、手代、丁稚、小僧など)は、身分制のように機能したし、もちろん主人は絶対である。
じっさいに、いまでも日本企業にはこの「伝統」がはびこっていて、小僧から番頭に昇格するばかりではなく、主人にもなれるけど、主人になってこの体制を破壊するのでなく維持につとめるという特性がある。

絶対支配の「特権階級」に昇格するための「努力」こそが、社内競争における唯一のインセンティブだからである。
すなわち、「経営者」になりたい、ことの意味が、矮小化してしまうのであって、経営したい、ではなく支配の特権階級になりたいのだ。

そんなわけで、朱子学の無意味を明治政府は大学教授にいわせることで、その価値を隠匿したが、民間にはしっかりと浸透していたから、「民主主義」が採用されると、朱子学による行動原理が社会を支配したのである。

だから、過去の経験をもって、戦後は朱子学による国民の行動を隠匿するために、「軍部」という「国民の敵」をつくりだしたのは、天才的な「すり替え」だ。

国民が敗戦までにあじわった悲惨をガマンできたのは、じぶんたちが望んだ戦争だったことをちゃんと記憶していたからだが、GHQによる「すり替え」をもっけの幸いとしたことで、責任をほおかむりできるラッキーとなったのだ。

国民はわるくない。
わるいのは戦争をあおった軍部のエリート軍人たちである。
だから、おなじ軍にいても、わるいのは兵隊ではない。

このことばの居心地のよさ。
おおくのひとが、居心地のよさの誘惑に「負け」てしまった。
じつは、このことこそがほんとうの「敗戦」なのである。

その証拠に、敗戦直後の論調には、国民努力が足りなかった、というものがある。
うらがえせば、言いだしっぺは「国民」だということだ。

しかし、あとだしじゃんけんならぬ、物量でかなうわけがない、とか、科学技術の彼我の差が大きすぎるとかが敗戦理由となって、こんな戦争をはじめたのは軍人があまりに愚かだったからだ、という「甘言」がでてくる。

国民は「知らされていなかった」という暴言すらあるのは、国民を徹底的にバカにしているのだけれど、居心地のよさをもとめる国民にとっては、悪魔ではなく天使のことばに聞こえるのだ。

たとえば、いまにつづく企業で、戦前にニューヨークに支店をもった中小企業がどれほどあったかすら無視しているし、そもそもアメリカへの日系移民12万人が強制収容所にいれられている。
平時、このひとたちからの情報が実家や友人になかったはずがない。

しかも、当時の日本には民主主義はなかった、という愚論がもっともらしく吹聴された。

斉藤隆夫による衆議院本会議における「反軍演説」は昭和15年。
これをもって議員除名処分をしたのも、議会の決定、すなわち国民が望んだのである。
齋藤の除名について、国民は反対の声をあげてはいない。

こうして、わが日本国民は、重大な自己責任から逃げたのである。

それが、なにがあっても戦争だけはいけない、という人類社会ではありえない価値観が「絶対」になってしまった理由である。

さらに、国民と政府が分断されたから、ひどいことを国民に強いた軍部の政府への意趣返しで、国からもらえるものは「奪う」まで自己のものにすることが「正義」になった。

年金をいつ、どのように「もらう」のかが、もっとも「得」で、それいがいは「損」になる、という概念も、民間の積立なら当然でも、賦課制の公的年金にあっては、個人の損得だけでいいのか?という問題が内在している。

けれども、「権利行使」なのだから、わかい現役世代の負担がどうなろうと知ったこっちゃないので、選挙のたびに「年金の充実」がもっとも重視される選択要件になってしまった。

つまり、国民が望んでいるのである。

軍部だからしっている彼我の差だから、ほんとうはやりたくない戦争を国民から無理強いされてしたように、ほんとうは「破たん」しているといえなくて、「安心」をいっていたら、千万単位で生活に足りないとわかったら、国民から「詐欺」とよばれるのである。

けっきょくのところ、「ポピュリズム」のいきつく先というのが結論なのか?
すると、もはや民主主義が「機能しない」国になったのではなく、民主主義を機能させてはいけない国になったのだ。

共産主義犠牲者のための国家の日

今日、11月7日の「この日」は、ドナルド・トランプ アメリカ合衆国大統領が定めた。
つまり、2017年の1月にトランプ政権が発足して10ヶ月にしてこの「国家の日」を制定したのである。

アジアの覇権どころか世界覇権をねらう国が標榜する「思想」に対して、強烈なアッピールをしたのである。
だから、さいきんの米中関係、ひいては米中経済戦争は、トランプ政権の発足で開始がきまっていたようなものだ。

この日の存在を地域分析者として、わが国で最初に気づいたのは河添恵子氏だというが、本人はそのまえに、ホワイトハウスのHPに掲示されているのを「観ただけ」だといっている。

ちなみに、いまも掲示されているのは、毎年この日がくるからである。
インターネットの技術のおかげで、われわれも自動翻訳の「日本語」で趣旨を読むことができる。

さてそれで、どうして11月7日なのか?といえば、1917年11月7日のロシア革命100周年に「ぶち当てる」ためである。

すなわち、ロシア革命への賛辞をおくるのではなく、人類における「暗黒時代の到来」を記念し、二度とこのような人的厄災を起こさせないという「自由」と「民主主義」の「日」としたのである。

これは、トランプ政権ましてや「共和党」としても、存続の意味そのものであって、もちろん、アメリカ合衆国の建国理由でもある価値観だ。

だから、旧西側陣営にしてアメリカの同盟国であるわが国政府がこの日を定めない理由を聞いてみたい。
旧東側陣営にして、いまはEU加盟、NATO加盟各国は、それぞれに同趣旨の記念日をもっている。

昨日書いたように、歴史は回転して繰り返す。

まさか、アメリカの民主党が「社会主義をめざす」ということが、どれほどの破壊力をもたらすものか?

社会主義とは、富の分配を「国家」が決める思想であり体制である。

社会主義者が資本主義をにくむのは、資本主義が自由主義とセットだからで、ほんとうは「自由主義をきらっている」のである。
ところが、「自由主義がいやだ」というと変なひとだとおもわれるから、「資本主義はいけない」ということにしている。

すると、なんだが「インテリ」にみえるから、これをパロって芸人が発言していたら、本人が「パロっている」のか「本気」なのかがわからなくってしまった。
こうして「お笑いなのにインテリ」というキャラができた。

「笑い」を哲学すれば、アリストテレスにたどりつく。
すると、「インテリ」でないと「笑い」はつくれないし、これを商売にできないのだとわかる。
中世の「道化」における「阿呆」は「演技」なのである。

官僚支配だからだれがやってもおなじ。
こうした風土が、お笑いタレントをふくめた芸能界からの「政治家」を産む。
経済成長著しく、ノー天気でいられた70年代に、知名度だけで議員にさせた無責任政党は、いまも政権与党である。

ただし、瓢箪から駒ということもある。
ドナルド・トランプ氏も、一時はテレビタレントだったし、相手のウクライナ大統領は、あまりの政治家による汚職蔓延をきらった国民が、ならばとコメディアンから選んだひとだ。

報道では、トランプ氏がウクライナ大統領を脅したことになっているが、ウクライナ大統領はトランプ・ファンだと告白し、プーチン氏に対抗している。

そんなわけで、てきとうな政治家をよいしょしたり、じぶんたちが気にくわないひとをこき下ろしたりしたりするのが、マスコミの「本分」になってしまった。

それでもアメリカのマスコミは、立ち位置を表明する。
にもかかわらず、大統領が名指しでマスコミを批判し、とうとう名指ししてホワイトハウスで購読契約をしている新聞社の契約解除を指示した理由は「フェイク(うそ)生産会社」だと断定したからだ。

こうした「ドタバタ」をやれるのがアメリカだ。

日本では、まずありえない。
首相官邸で購読している新聞を、首相が「とらない」と表明したら、大騒ぎになること確実だし、「独裁者」だと最大限の表現をして国民をあおるだろう。

放送局も、公共放送の民営化をもっともおそれるのが既存民放各社である。さほどに巨大化してしまった。
それでなお、すきなように放送できるのが「表現の自由」なのだから、国民はすきなように「洗脳」される。

その「洗脳」には、情報の「遮断」という方法がつかわれている。
かれらに「幸い」なるかな、日本人を日本語しかできないようにすることで、外国の情報を遮断できるのである。

だから、すこしでも日本人の英語力がたかまる可能性があれば、どんな難癖をつけてでも葬ることにいそしむ。
その犠牲者は、「受験生」という若年層である。
ましてや日本語表記の情報に、外国の事情をいれなければなおよい。

情報の「鎖国」である。

しかし、ネットをつかうとこれに穴があく。
そんなわけで、情報弱者を「いかに保持するか」が既存利得者たちの重要な戦略になる。

「情報リテラシー」は、じぶんでみがくしかないようにできているのは、このためである。

だから、そうさせないように「娯楽」をあたえる。
国家が国民に「パンとサーカス」をあたえれば、国民はたちまち「愚民化」し、国家がすきなようにコントロールできるようになる。

現代における「パン」とは、年金や社会保障、ばあいによっては職場まで与えられるし、「サーカス」とは、カジノをふくめた数々のギャンブルやビデオゲームなどの新種、それにテレビや映画などを主体にした旧式の「娯楽」の数々である。

もしや、わたしたちは危険にさらされていないか?をかんがえるのがわが国における「共産主義犠牲者のための国家の日」の意義だろう。

分裂するアメリカの恐怖

アメリカが「思想」で分断されてきている。
もはや「民主党」は社会主義をむきだしにして、かつてソ連と対峙した時代にはかんがえられない、自身の「ソ連化」を批判する者はいない。

一方の「共和党」は、「反グローバリズム」のトランプ政権によって、「金融資本主義」が押さえつけられ、製造業への回帰という一見「古風」な政策が推進されている。

どちらの側も、少数の富豪による「国富」をこえた「独占的支配」に対抗しているのである。
つまり、アメリカの矛盾は、あきらかに「富の分配」における不公平感是正に対する「手段」になって表面化している。

しかし、「手段の選択」には「思想」という要素が不可欠だから、「資本主義の必然的矛盾」だという、典型的かつ古典的な社会主義・共産主義思想にたてば、民主党の主張になることも「必然」なので、目指すは「ソ連化」になる。

対して、共和党は「資本主義」自体の問題ではなくて、「資本主義の運用の問題」という枠を設けているのである。
なかでも、金融資本家による支配について、つまり端的にいえば「ウォール街つぶし」こそが手段となっている。

この思想対立が、来年の大統領選挙にむけて熾烈化するのは必至だ。

かつて、「ソ連」を誕生させたのは、じつは金融資本家たちによる「支援」だったことは、歴史的事実としてしられている。
見返りは「隠れ蓑」という「場の提供」だった。

歴史は繰り返す。

いま、トランプ政権つぶしに奔走しているのは、弾圧の対象になっている金融資本家たちなのはあきらかで、かれらが民主党にかけより、アメリカの「ソ連化」を推進しているのである。
これを隠蔽するための「手段」が、民主党の中国批判なのである。

すると、かつての「中ソ対立」が、民主党によってすでにおこなわれていることになる。

さらに、不可思議なのがいま渦中の「トランプ弾劾」だ。
いわゆる「ウクライナ疑惑」のことだが、そもそも論でいえば、いちばんあやしいのは「バイデン元副大統領とその息子」による「ウクライナ『利権』」である。

民主党の次期大統領候補として、世論で最有力視されているのが「バイデン元副大統領」なのだから、問題をトランプにすり替えているようにみせながら、じつは民主党内における「バイデン失脚工作」ではないのか?ともかんがえられる。

候補者を選ぶという、わが国には存在しない方法の「予備選挙」で、党の代表者を決めるのだから、「本戦」まではえらく長丁場なのがアメリカ大統領選挙だ。
今回は、民主党内に「極左」の立候補予定者がいることに注目したい。

つまり、世論におもねることなく、党の思想によって候補者を選ぶなら、とっくに「バイデン」は本命ではない、ともいえる。
だから、ウクライナ疑惑は、バイデン降ろしの役に立つし、トランプ批判の世論も期待できるから、一石二鳥なのだ。

この「弾劾問題」は、以上のようにみれば、アメリカの分裂の深刻さが鮮明になることから、どんな結論になるのかによって、今後の世界史がきまるほどの威力がある。

われわれにとっても、「対岸の火事」ではすまされない。
おそらく、来年のアメリカ大統領選挙は、かつてないアメリカ社会の決定的分裂を世界にさらしながら、その余波が、われわれにとっては、「余波」どころではない「強烈な圧力」となってくるにちがいない。

それは、社会主義を達成したがゆえに「衰退確実」なわが国が、社会主義を棄ててプリミティブな資本主義を追求しながら、政治的には「帝国主義」むきだしの中国陣営に向かうのか?それとも、本家「ソ連」をめざす民主党政権のアメリカか、あるいは、古風な資本主義の共和党政権のアメリカかの選択を迫られるからである。

これは、どれをとっても「ベストがない」から、悪魔の選択にならざるをえない。

すくなくても、自民党安倍政権は、中国陣営に向かう選択を、現時点でしているから、アメリカ大統領選挙による「強烈な圧力」がくるまえに決着させておこうという魂胆なのだろう。

経済は中国に、防衛はアメリカにという「コウモリ君」になると決めた、という意味である。
なるほど、それで、香港問題にも台湾問題にも一切の発言をしない「無関心」でいられるのだ。

衰退がとまらないわが国は、どうやら世界第三位の地位から不況のドイツに抜かれて第四位になったようだ。
たった1ランクのダウンではない、とまらない落ち込みのスピードアップのはじまりにすぎない。

「コウモリ君」がどんな運命になるのかは、児童のほうがしっている。

トランプ政権は、中国と経済戦争をおこなっているというけれど、これには上述のように民主党も乗っているから事実上の「新冷戦」だ。
なのに、同盟国のわが国が「裏切っている」けどなにもいわないのはなぜか?

ふつうにかんがえれば「泳がしている」のか、あるいは、「呆れている」のかのどちらかで、「泳がしている」のなら「鉄槌」が、「呆れている」なら「絶交」がやってくる。

このままでは、どうにもならない不幸がわが国にやってくる。
最悪をかんがえないわるい癖がわが国エリートの伝統だから、そのときにどんな「パニック」を見せつけられても、国民の不幸が改善されることはない。

戦争の世紀だった20世紀よりも、真綿でくびをしめられる悲惨な世紀になりそうな気配がぷんぷんしている。

うまいバゲットをたべたい

「棒」のことである。
いまさらだが、食べられる「棒」とは、フランスパンのバゲット(60~80㎝)のことである。

生地に切れ目をいれて、焼き上がると堅く盛り上がるところを「クープ」という。
ものすごく堅いことがあって、歯が欠けそうになるし、ばあいによっては口内の薄皮がむける。

それで、「フランスパン」なのにやわらかい「ソフト・フランス」という名前の商品まである。
ただし、これはたいがい「ボソボソ」していて、あまり「うまい!」ということがない「もどき」である。

焼きたてを買ってきたのに、パン自体の水分でビニールの袋にいれたままだと湿気てしまって、やわらくなることがあるが、これは火で炙るともとにもどる。
紙袋がいちばんいいのに。

パン表面の皮のパリパリを「クラスト(甲羅)」といって、たべるときにはポロポロ落ちる。
木綿のテーブル・クロスがちゃんと敷いてある店なら、そのまま放置すべし。手でなでで、床下に落とすのはエチケットに反するからだ。

だから、食事がおわるとそれなりの店ならちりとり(「ラマス・ミエット」)ですくい取ってくれる。
ちゃんとしたパンなら、かならず「クラスト」が落ちるので、デザート前にテーブルの掃除をすることになっている。

むしろパンくずがテーブルに落ちる食べ方が正解であるし、たくさん落ちていればパンの焼き上がりがよかった証拠でもある。
サービス側は、そんなところも観察している。

ところで、フランスパンの代名詞といえば、「バゲット」のほかに「バタール(中間)」がある。
なにとの中間かといえば、「バゲット」と「ドゥ・リーブル」だ。

あたかも「バゲット」のほうが大きいとおもいきや、「ドゥ・リーブル」の「ドゥ」は「2」のことで、「リーブル」とは、重さの単位「ポンド(約500g)」のフランス語だから、なんと「1㎏」のパンになる。

さて、長い棒状のバゲットから、バタール、ドゥ・リーブルとすすむと、なにがどうちがうのか?

まずは、材料だが、これはぜんぶ一緒である。
なにをかくそう、「フランスパン」の王道であるこれらのパンは、「かたちがちがう」だけなのである。

「バタール」には「バター」がはいっているように勘違いしがちだけれど、フランスパンの生地にはバターも砂糖もいれない。
材料の多い順から、小麦粉、水、塩、イーストだけなのである。
このシンプルさが、かたちを変えるととてつもない難しさに変化する。

これは、なぜか木管楽器の「ファゴット」と「バソン」に似ている。
ドイツの合理性がつくる「ファゴット」は、その複雑な機構が演奏の困難さを解決すべく工夫した成果であるのに対して、「バソン」の単純な機構は、演奏者に高度な「技」を要求する。

音色もおおきくことなるが、カバーする音域がおなじだから、現代的な「ファゴット」が席巻し、もはや「バソン」は小数派になっている。
しかし、伝統的なフランス音楽には、「バソン」の低音が欠かせないという「こだわり」のファンがたくさんいる。

パリ・オペラ座の首席奏者がバソンからファゴットに鞍替えしたら、これが「センセーション」を巻きおこしたくらいの話題となった。
「オペラ座よおまえもか」。

そんなわけで、フランスパンの職人は、おなじ材料からいろんなかたちのパンを、おどろくほどの「技を駆使」して焼いている。

バゲットの形状は、じつは「皮」をたべるために細く長いのである。
だから、カリカリの香ばしさがもっとも重要な要素になる。
中間のバタールは、「皮」と「中身」の両方をたのしむためで、ドゥ・リーブルは、かなり「中身」が重視される。

日本人は、やわらかいパンがすきだ。
トーストした「食パン」の耳すらたべないひとがいる。

しかし、食パンの材料にはバターと砂糖が欠かせないので、フランスパンとは別物である。
さいきんはやりの「生食パン」というジャンルは、きわめて日本的だとおもわれる。

そもそも「トースト」してたべることが前提だったから、食パンの焼きたては水分がおおすぎて、「トースト」するとベシャベシャになるから、焼いた翌日のものがちょうどよかったし、パン職人はそうなるように焼いている。

これに対して、フランスパンは焼きたてでないとパリパリがなくなってしまうので、毎朝近所のパン屋に買いにいくひつようがある。
だから、「食パン」を「生」でたべるから「生食パン」といって、焼きたてを求めるのは、きわめて日本的だとおもわれるのだ。

ところで、パンも小麦粉が主たる材料だから、「粉もん」である。
麺類も「粉もん」なので、広い意味では仲間である。
日本蕎麦も中華麺も、うどんだって、打ち方よりもはるかに「粉の品質」で味がきまる。

さいきんは「国産小麦使用」という表示が目にはいるようになったが、誤解をおそれずにいえば「やる気のない農家」の典型的作物が「小麦」だったから、これはどうしたことかといぶかっている。

とつぜん、国産小麦の品質が外国産にくらべて「最高」になったとは、とうていおもえないからだ。
これはどこかの団体がやっている「キャンペーン」なのか?それとも、生産時と流通の「安全」をいいたいだけなのか?

売り切ればかりでなかなか購入できないけれど、徒歩でいける距離の住宅地に忽然としてパン屋があるのを発見した。
ここの「バゲット」の香ばしさは、そんじょそこらのものとはちがうとおもったら「フランス産小麦使用」とあって納得した。

やっぱり「国産小麦使用」という店はあやしいのである。
わざわざ、不味い小麦使用と書く店主の味覚をうたがうからである。

もちろん、品質と安全にこだわっている小数派の農家がいることを無視しているわけではないので、念のため。
こうした農家の並々ならぬ努力が、ただ「国産」ではわからないのである。

まさかの電波障害か相性か?

講演につかうプレゼンテーション用品として、主たる必需品はもはやパソコンという時代になったが、そのパソコンでつくったプレゼン画像の強調をする「指示棒」も、ずいぶん前からレーザー光線ポインターになってきてもいる。

ポインターには赤色レーザーと緑色レーザーの二種類が主流で、くわえて青色もあるけど、見やすい緑色レーザーが人気である。
ただし、発光機構が複雑になるため、緑色レーザーのポインターは高価で、かつ電池の消耗がはやいのが玉に瑕である。

とはいえ、やはり参加者にみやすいことが重要だから、わたしは緑色レーザーのポインターを愛用している。
なかでも、パソコンのプレゼンテーション・ソフトのページ送りなどを、ポインターで操作できる機能つきのものは、パソコンのボタン操作などを必要としないので重宝してきた。

先日、あたらしいパソコンのデビューもかねた講演で、このレーザーポインターが作動しないで困った。
自宅で実験したときにはいつものように作動したので安心したが、本番での突然の不調は、かつて電池切れの一回ぐらいで経験がない。

乾電池を買いに走ったことは前に書いた。
以来、乾電池の予備はカバンにかならず常備しているのだが、今回の不調は乾電池ではない。
新品だし、本体の電池表示も正常レベルだからだ。

どうしても作動しないので、この講演ではレーザー光線ポインター単体の機能だけで乗り切った。
「故障」の文字が頭をよぎるが、どうにも割り切れず帰宅した。

それで、これまでの古いパソコンで操作をこころみると、なんの問題もなく従来どおり作動する。
つまり、「故障」ではない。
ではなんなのか?

いろいろ調べたら、あたらしいパソコンにはUSB端子が3カ所あって、ぜんぶ「3.1規格」であり、左側が「タイプA」ひとつ、右側が「タイプC(サンダーボルト対応)」が二つとなっていて、もしかするとこれら端子からの「電波障害」ではないのか?という疑いがあることがわかった。

ネットでの対処方法に、ズバリ決定打がないのも不思議だが、さいしょに自宅で実験したときに作動した理由も不明だ。
しかし、この「事件」のあと、自宅でも作動しなくなった。

デジタル製品だから、条件がおなじならおなじことがおきるものだとかんがえると、さいしょに自宅で作動したことがとにかく腑に落ちない。

それにしても、ネットでこんなに「USB3.0」端子の電波障害が話題になっていることをしらなかった。
普及はしているが、旧「USB2.0」規格の端子と新「USB3.0」端子が混在したパソコンがいまでも販売されているのは、データ通信速度をひつようとしない、レーザー光線ポインターなどの機器に影響をあたえないためのメーカー「配慮」だとすれば腑に落ちる。

ポインターで操作できる機能は、2.4MHzの電波をつかってポインター端末とパソコンをつないでいる。
ところが、「USB3.0」端子や、この端子に接続した機器から、2.4MHzの電波帯にちかい有害電波(ノイズ)が発生しているのだと解説されているのだ。

さいきんのレーザー光線ポインターで、パソコンを操作できる機能つきでは、本体収納のUSBアンテナをつかわなくても、ブルートゥース接続もできる「デュアル接続」をうたう機種もあるが、ブルートゥースだって2.4MHzの電波帯なのだから意味があるのか?

ならばメーカーは「USB3.0」端子からのノイズについて明示すべきだし、対処法についての情報も事前に公開しなければ、消費者への「配慮」とはいえないのではないか?

そんなわけで、わたしのあたらしいパソコンには「USB3.1」のタイプA端子はひとつしかなく、レーザー光線ポインターもUSBのタイプA型になるから、直接端子に接続するのではなく、有害電波をシールドするケーブルの先に接続するのが「対処法」のようである。

しかも、そのケーブル長は有害電波の出力と距離との関係から、1m以上が推奨との情報をえたので、まずはケーブルを購入することにした。
電波の減衰は、距離の2乗に反比例するからである。

すると、こんどはシールドされたケーブルの選定が必要になる。
これだって目視してわかるものではないから、それとなく説明を読まなければならないし、残念ながら、100均で購入できるものではなく、ちゃんと電気屋さんにいかないと売っていないのだ。

それは、いわゆる「USB3.0対応(準拠)標準延長ケーブル」と商品表示されているものだった。
今回のトラブル一連の調査で、この表示の意味が理解できた。

ノイズが出る「USB3.0」のために、ケーブルの両端子とケーブル自体にも電波シールドをほどこした延長ケーブル、という商品である。

ここまでやっても「作動しない」から、とうとうメーカーに問い合わせれば、「パソコンとの相性です」が回答であった。

ウィンドウズ・パソコンなんてどれもおなじ、なのではない。

膨大な「組合せ」になると、その違いが不明になるということだ。

これこそ「AIの出番」かとおもうが、どうやって「学習」させるのかをかんがえたら、やっぱり「不可能」だろうから、「AI社会の怪しさ」しかみえてこないという顛末である。

「大局」をみずに「戦略」とは?

「軍事用語」をこの国ではどう扱うのか?
といえば、そもそも「軍事」をおしえる一般大学での授業がないし、「情報学科」はあっても「インテリジェンス」をおしえる学科もない。

「情報」といえばなぜか「コンピューター」や「IT系」ということになっている。
つまり、「ミクロ」のはなしばかりなのである。

ところが、「経済学部」や「経済学科」になると、「マクロ」が先行して「ミクロ」が軽視される傾向がある。
「マクロ経済」とは、国家単位で経済をみる学問で、「ミクロ経済」とは、一企業単位で経済をみる学問だ。

しかし、学問分野という「ミクロ」をやめてしまえば、学生がとる授業の幅はあんがいひろく、「歴史」だってある。
しかしながら、「俯瞰する」という態度がないから、専門となるとたちまち「ミクロ」になるのである。

「囲碁」や「将棋」というゲームは、ちいさな盤面内ではあるが、勝利のために「俯瞰する」という態度をひつようとするので、教養人や指導者にこのまれる。
「頭の体操」になるからだ。

ここでいう「頭の体操」とは、細かい手をかんがえること「ではなく」大局を思考する、すなわち「戦略」をかんがえることを意味する。

ビジネスにおいても「戦略」ということばは多用されるけれど、「戦略」とはなにか?を定義づけてつかっているひとはすくないものだ。
それで、「戦術」との区別が混乱するのである。

「戦」という字が共通なので、「戦略」も「戦術」も、どちらも元は「軍事用語」であるし、軍事用語として当然ながら「現役」である。

「戦略:strategy」、「戦術:tactics」。

物騒だが「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいに鈍感なのは、日本人いがいは未開人かもしれない。
すくなくても「核兵器」はいけないもの、という「観念」のもと、「戦略」だろうが「戦術」だろうがおなじく「いけない」という「条件反射」になってしまう。

問いの、「戦略核兵器」と「戦術核兵器」のちがいなにか?にこたえずに、「いけないもの」というのでは、採点すらできない。

ソ連がバンザイして終結した冷戦は、アメリカが仕掛けた「宇宙兵器」ともいわれているが、西ヨーロッパに配備した「中距離弾道ミサイル」が、じっさいにトドメを刺したのである。

これはなにか?をしらないヨーロッパ人はいないが、「中距離弾道ミサイル」とは「戦術核兵器」のことである。
これらのミサイルを、大量に配置するという「戦略」を、「ヨーロッパ核戦略」という。

有史以来、人類は「パワー」をもって相手を凌駕してきた。
だから、「パワーポリティクス」というのは、「本音」のことをいうのだが、あまりにも「露骨」なので、さいきんは「きれい事」を表明することで「本音」をかくすことが「常識」になっている。

だから、相手の「きれい事」を聴いて、それを信じるということほど「危険」で「愚か」なことはない。

たとえば、昨日は、東京オリンピックのマラソンや競歩の競技が札幌開催にきまった、というニュースがあった。
このニュースは、酷暑の中東でのレースが失敗におわったことで準備されていたことではないのか?
すなわち、「最悪」をかんがえるということの「戦略思考の放棄」が、現代日本人の指導層に「ふつう」にあることが、露骨にあらわれた「ニュース」なのであって、開催地の変更が「ニュース」なのではない。

また、米国在住の国際政治アナリスト伊藤貫氏による、オバマ大統領の氷のような思考と態度だって、日本人がしらないことだらけだ。
オバマ氏は、核兵器の1兆ドルをこえる大増産を指示しながら来日し、広島であろうことか「核廃絶」を訴えた。
これに日本人はこぞって「感動」したのである。
こんな茶番があるものか。「ナイーブな日本人」ではすまないバカにされようなのだ。

世界の大局をみる習慣がないことで、国民が「大恥」をかかされていることすら気づかない。
また、わが国マスコミは、視聴者に世界の大局を報じる気がない。
島国のなかで、ちまちま幸せにいればそれでいい。

これは、ヘンテコな一国平和主義である。

国籍が何人であろうが、腹黒いのが世界の常識であることを前提にすれば、「大局観」を得るための情報のとり方がある。
戦略は、その結果えられる思考展開のことだ。

腹黒い世の中で、戦略がなければ滅亡する。
個人も、企業も、国家も、これから逃れることはできない。

さぁどうする?が突きつけられている。

「段取り」が業務になる理由

職人の世界では「段取り」が大変重視されることは、よくしられている。
「準備」とか「始業前点検」とかともいわれるこがあるけれど、やはり「段取り」がもっともしっくりくることばである。

たとえば、なにかの材料を加工するとき、それが金属であろうと木材であろうと、加工するのだから「刃物」がひつようになる。
この刃物をつかって、切ったり削ったりして加工することが、製品作りでいうメインの仕事になるのだが、刃物の切れ味がなまってしまっては「仕事にならない」ことになる。

それで、名人は研ぎの時間を重視して、場合によっては日がな一日刃物を研いでいる。
使う時間よりも研ぎにかける時間のほうが長いかもしれない。
けれども、そこまでしないと「仕事にならない」のである。

いっけん、「刃物研ぎ」のほうが本業にもみえるがそうではない。
あくまでも、切れ味のさきにある「仕上がり」がほしいのである。
つまり、仕事の完成度を高めるためには、道具を整えることをしないとできないからやるのだ。

これを「目的合理性」という。

製品の完成イメージから逆引きして、なにをするかが決まる。
工程どおりに、なにをしたから、製品が完成するというレベルなのではないことに注意がいる。

これは、あんがい「武道」にもいえる。
初心者は、基本どおりの動きの訓練をひたすらくり返して、その「動き」をからだにおぼえさせる。

あんまり「ひたすらくり返す」から、飽きてくる。
それでも「ひたすらくり返す」ように、無理やり仕向けられるのでこれを「鍛錬」というのである。
「身体と心」の両方にストレスをかけさせるのは、これに耐えた先に開ける世界があることを指導者はしっているからである。

さいきんは、子どもが嫌がるからという理由で、ひたすらくり返さなくてもよくなった。
その先にある世界を、おとながしらないからだ。

武道の名人の、すごい演武をみれば、中級者なら「ひたすらくり返す」ことの意味を自分で習得する。
だから、自分から積極的に「ひたすらくり返す」ので、これを初心者が真似るようにできている。

人生が50年しかない時代にできたシステムである。

ところが、人生が100年の時代になったら、「ひたすらくり返す」ことが「無駄」におもえてきたから不思議である。

これは、ゴールがたくさんあって、どれをめざせばいいかがわからなくなったからである。
そんなわけで、「自分探し」を50歳になってもできるのである。

これは、企業だっておなじだ。
そんなゴールがわからないおとなたちの集団が、企業組織をつくっているからである。

それで、「定年」をすぎても「雇用延長」という不可思議な「制度」で、年金をもらえるまでの時間を、半減された年収でもガマンできるのは、「年金受給」が人生のゴールになった悲喜劇である。
だから、公的年金だけでは生活できない、というまっとうな情報に「耐性」がない。

おどろくべき「なまくら人生」ではなかったか?
いったいどんな「鍛錬」を社会生活でしてきたのかと聴いてみたい。
だから、「みなさまの」が枕詞だった公共放送が、幼児のようなキャラクターに「ぼーっと生きてんじゃねーよー」といわれても、ヘラヘラ笑っていられるのだろう。

もちろん、全部ではないだろうけれど、「なまくら人生」のひとたちは、職業人としても「なまくら」だったと想像できるのは、事務職にだって「段取り」はひつようだから、そうした「段取り」をしなくてよい業務経験とはなにか?が気になるのである。

「整理整頓」ができない。
家庭内のことではなく、業務でのことである。

整理とはなにか?
整理の「理」は、理科の理で、理屈の理だ。
つまり、目的合理性の「理」なのである。
したがって、目的に合致して「整える」ことになるので、かならず余分なものは「捨てる」ひつようが発生する。

業務で「整理」するとは、モノなら捨てることが起きるのだが、この対象は「社物」になる。
だから、捨てるための廃棄料金も予算化しておかないと、お金がなくて捨てられないことになるので、結局「整理」がいつまでたってもできない現象となる。

整頓とはなにか?
整頓の「頓」も、整えるという意味だから、「整整」ということになる。
これは、あらかじめ決めた場所に「整えて置く」ということになっている。

以上から、整理整頓は、あらかじめ「段取り」しておかないと、ぜったいにできない。
これには、宇宙の法則でもある「エントロピー」がはたらくからである。

なまくら人生を反省して、段取りをちゃんとしたいものである。
どちらさまも、まだ間に合う。

教育勅語を否定したら

否定するだけ否定したのはいいけれど、それに代わる「柱」をかんがえられなかったら、とうとう本体の「教育」が溶け出した。

予定どおりである。

みごとな「腐食」。
これまでいろいろペンキを塗ってはきたが、もう間に合わない。
そろそろ建て替えをしないといけないけれど、こんどは「国家百年の計」がわからなくなっていたことに気がついた。

これを「末期症状」という。

お正月、初詣でもっとも参拝客が賑わうのは「明治神宮」である。
もちろん、明治天皇と昭憲皇太后(~大正3年)をお祀りしているのだから、できたのは明治ではなく大正9年11月1日である。
ちょうどいまから99年前のことで、来年は百周年だ。

神社としては、あたらしい。
いまはファッションの街となった「表参道」だって、読んで字のごとく明治神宮参拝のための参道だ。

「天皇制」なることばも、あたらしくできた「左翼用語」だったものがふつうに浸透して、一般国民の脳を腐食させている。
「立憲」をなのる政党が野党第一党ということになってはいるが、このひとたちも「天皇制」といい、「立憲君主制」とは口が裂けてもいわないのである。

わざと「ねじれ」をつくっている。

「保守」を標榜していたはずの政権第一党も、いつのまにか左傾してしまったから、教育勅語にだって厳しい態度をとるのが「正式」になっている。

圧倒的多数で、なにを畏れているのか?
ひょっとして、政権第二党のことなのか?

明治神宮HPにある『教育勅語現代語訳』を以下に転載する。

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

これが、いま、日本国民がその題名「教育勅語」と聴いただけで拒絶反応し、忌み嫌うようになっている文章の全文である。

おそるべき「パブロフの犬」状態ではないか?

しかして、だれも『五箇条の御誓文』は批判しない。
いうとすれば、『御誓文』なのか『誓文』なのかの議論があって、後者を正規とする主張が、教育関係者のなかでは通っているらしい。

なにがあっても、皇室や天皇を見下したい。
それこそが、主権在民だということなのだろう。
そして、こんな程度の議論を延々とやるひとたちが「護憲」を叫びながら、第一条を無視して恥じないのである。

つまり、論理をよそおった「情緒の発散」であって、まさにひとつの「宗教」をなしている。

学校の不祥事はたいがいが生徒の非行だったものが、とうとう教師たちの不祥事となりはてた。
成長期の子どもたちの価値観を溶解する役目を、学校がおこなう倒錯が現実となった。

これは、「革命」である。

一昨日、27日投票の参議院埼玉補選の投票率は「20.81%」。
有権者の5人にひとりしか投票しないで、選挙が成立していいものか?「主権」を放棄しておいて何様か?
すくなくても、埼玉県人は、参議院での議論に文句をいってはならない。

さまざまな議論はあるものの、本来ならば「罰則つき義務投票制」を導入してもいいくらいだ。
これをやらない理由とはなにか?

適切な候補者がいないこと。
適切な政党が存在しないこと。

どうしてこうなったのか?をかんがえれば、国民の共通基盤をなす価値観が、教育勅語の否定によってなくなってしまったからである。
けっして、価値の多様化ではすまされない、ひととしての根幹が問われているのだ。

いまさら教育勅語を復活させることもできないのは、革命勢力の間違いない「成果」である。

わが国は左旋回しながら、落ちるところまで落ちるしかなく、とうとうそのルートにのって、落ちだしたのである。
この国は、物理法則が効く体制となった。