ミリタリースカウト

英国の元気な小中学生のおもに男子が,課外授業として選択するのが「ミリタリースカウト」だ.
軟弱ものは「ボーイスカウト」に入って,女の子の「ガールスカウト」から分離された,男だけの世界にいくけれど,やんちゃ組から軽蔑の目でみられるそしりは免れないという.
それで,本当はボーイスカウトでジャンボリーを歌っていたいけど,見栄でミリタリースカウトに入るのが多数いるというから,子どもの世界ではある.

ミリタリースカウトの制服は,正規の英国陸軍が採用する迷彩服で,装備のほとんどが本物かその模倣品だ.
もちろん,銃はニセモノだが,案外強力な水鉄砲を携行する.
このなかに仕込む水は,蛍光特殊インキだというから,手が込んでいる.

週に二回の訓練日は,本物の英国陸軍軍曹が学校にやってきて,様々な訓練が実施される.
座学では,捕虜についての国際法も学ぶというから,ジュネーブ四条約が要求する,国民への教育義務に則している.

さらに,夏休みには二泊三日の森の中でのサバイバル訓練がある.
渡される食料は一日分なので,残りは自分たちで森の中から調達する.
そのため,事前に昆虫や小動物の処理方法と食しかたを学ぶし,水は携帯浄水器である「特殊な」ストローが支給される.
いざとなれば水たまりの水や,自分の尿を飲むことになるが,このストローをつかえば万全だという.

一日分の食料として支給されるものは,特殊な缶詰で,下痢防止の薬剤入りだ.
それで,上記の飲食をしても,死なない,ということになっている.
経験者のはなしによれば,この特殊缶詰をいつ食べるかのタイミングが重要で,やはり空腹から我慢できずに森のなかの生きものを食べた後にとっておくというが,たしかに下痢はしないらしい.
なお,特殊なストローは,いまだにどこが「特殊な」構造だったのかわからないという.

それで,かれらは森でなにをするのかといえば,事前に教えられた作戦どおりの行動を5・6人のグループが小隊となって活動しながら,別の小隊を敵と定めて会合すれば特殊インキの水鉄砲で交戦するという.
このインキは簡単に落ちないので,戦闘が終了すると死亡や負傷の度合いが「評価」されて,評価されたものはその場で離脱させられる.
だから,最後まで「無傷で生きのこった小隊」が,英雄として帰還するそうだ.

ものすごいことを小中学生が体験するが,プロの軍人が子どもにつけた発信器でちゃんと見守っているので,事故はないという.
こうした体験から,自分の才能に気づいて,本物の軍人を目指す子どももいるから,れっきとした採用プログラムにもなっている.

また,この体験でのエピソードは,参加した子どもたちの一生の思い出でもあり,語り草になるから,みっともないことはできないと,子どもながらに発憤する.
そうやって,この訓練を終えると,精悍さがくわわった子どもにかわるというから,親も積極的にミリタリースカウト入りをすすめるのだ.

現代の日本では,想像もできないことが,ユーラシア大陸の反対側の島国であたりまえとして実施されている.
1976年に放送された,「刑事コロンボ」の第四シーズン「祝砲の挽歌」の舞台は,私立の陸軍幼年学校という,これもわが国ではありえない舞台設定であった.

学校の「部活」が,教師の負担として話題になっているが,どうもはなしがちいさい.
設立も,校庭の面積や教室も,教科書も,授業も,ぜんぶ国が決めている.
この息苦しさが,どうにもおさまらない.
選択の自由を失った,国家統制の息苦しさである.

わが国の学校で,軍事教練がおこなわれたのは,大正時代になってからだ.
しかし,旧制中学でのことだったから,ほとんどが義務教育の尋常小学校を卒業すれば社会にでた時代なので,これはエリート教育の一環だった.
陸軍から将校が派遣されたが,一人で何校も受け持つから,あんがい「一期一会」的になって,恨みっこなしの鉄拳がとんだらしい.

「少国民」として,ナチス・ドイツにまねた国民学校では,さわりをおこなったが,うまくはいかなかった.
空襲で集団疎開が必要になったが,結局は親戚をたよる個別疎開のほうが一般的になって,クラスが崩壊する.
集団であろうが個別であろうが,疎開先がなく都会に残った子どものおおくが,空襲の被害をうけて,孤児にもなった.

私の母や叔母も,個別疎開したといっていたが,従兄弟たちからのイジメがひどく,とうとう一度も帰省しなかった.
イジメた側の小父さんたちは,なぜ母や叔母が遊びにこないのか?なんどもなんども口にしていたから,そういった意識がまるでなかったのだろう.

1990年に公開された,篠田三郎監督の映画「少年時代」は,井上陽水のテーマ曲でも有名だが,「少女時代」の母や叔母は,こんなもんじゃなかったと,一生恨み節を語っていた.
都会と田舎の軋轢は,戦後の集団就職を起点にしてはいない.

わたしは,横浜で生まれた「横浜市健民少年団」に,小学生で入っていた.
団の制服は,共通のシャツとベレー帽,それにネッカチーフで,シャツは自分で編んだロープで飾ったものだ.
それに,男子は紺の半ズボン,女子はおなじ紺のスカートだったが,これは「指導」だったと記憶している.

活動中,手旗信号やロープの結び方をやらされたが,自衛隊とは関係がない.
帰宅すると水兵だった父からの熱い指導で辟易した.それがこうじて,モールス信号まで覚えさせられそうになった.
週末,ボランティアとかの活動で街をあるくと,ボーイスカウトとよく間違えられたが,服装がぜんぜんちがうし,女子もいる.ここに,隊員としての「誇り」があった.

かつては全国組織にまでなったというが,ずいぶん縮小した.
発祥地の横浜すら全18区中4区だけだが,もしかしたら,これは、当時とかわっていないかもしれない.
「健民」であって「県民」でないのも,神奈川県をほとんど意識しない横浜人の特性か?

報道しない自由という自主検閲

「公正」をうたう報道機関が,公正な立場をすてた言い訳に「報道しない自由」という屁理屈をいいだした.
これを「自主検閲」だといって批判するひとがいないのは,そのひとの情報における抹殺をおそれるからだろう.まさに,「検閲」そのものの効果だ.

戦時中,日本軍による検閲はおこなわれていたが,その方法は稚拙であった.
まずい箇所を「伏せ字」という「白抜き」にしたから,読者はまわりの活字数を数えて,ことばの穴埋めパズルを楽しんだというはなしが残っている.

また,前線に駐留する部隊の兵士は,軍内郵便で家族と連絡していて,これも検閲の対象ではあったから,家族内での暗号がつかわれたという.しかし,これは、組織にいる人間が,たとえ家族でも秘密漏洩はこまるから,業務用電子メールは会社が勝手に読めるのと同じ理屈で,「酷い」ということにはならない.

とはいえ,ミッドウェー海戦を「勝った」と,大本営が発表しても,その後,制海権を失った日本軍から,家族宛の通信が途絶えたから,かなりの数の家族は「異変」を知っていたし,戦友の家族どうして連絡が途絶えたことを確認していたから,政府の発表がおかしいというはなしは,あんがい,誰もがしっていた.ただ,口にしなかったのである.

ところが,占領軍の検閲は巧妙で,伏せ字はいっさいつかわない.
むしろ,偽記事を報道としてどんどん流したから,偽記事しか見聞きできない人びとは,やがてこれを信じるようになるしかない.人間は情報を渇望するからである.
これこそが,情報統制の真の目的であって成果である「洗脳」なのである.

そこで,いまさかんに「報道」されている,日産のゴーン氏の一件について、私見を書いておこうとおもう.

最大の不思議は,逮捕理由である「有価証券報告書」の「虚偽記載」についての詳細な報道が,ほどんどない,ことだ.
それよりも,逮捕理由とは関係ない,彼の年収の多さや生活ぶりを詳細報道している.
つまり,国民の「卑屈な精神」を発揚させて,「金持ちは悪い奴」だというキャンペーンをやっているようにしか感じない.

「卑屈な精神」とは,いやしいこころ,のことだ.
成功した人物を尊敬するのではなく,うらやんで嫉妬したあげくにバッシングする,卑しさ.
これは,かつての共産革命家たちが叫んだ「自分の不幸の原因を他人の成功のせいにする」という,アジテーションにほかならない.

こんなものを「報道」と呼んでいいのか?
疑問におもうだけでなく,たいへんに危険だとおもう.
まさに,ジョージ・オーウェルが書いた全体主義の恐怖「1984年」にある,国民コントロールの手段としての「二分間憎悪」を,この日本でやっているからである.

 

彼の功績と報酬をてんびんにかければ,会社にとっての功績のおもみがまさるのは当然ではないか?
むしろ,その功績が大きすぎたために,いつの間にか「神」あつかいされてしまった.
それがこの「事件」の発端とすれば,彼の人格形成における教育や宗教などの背景はどうだったのか?に興味がわくところだが,いっさい「報道」されない.

おそらく,東洋哲学における「清貧思想」の重要性が前面に出ることを,報道機関の自主検閲で嫌ったからではないか?
それは,ふるい日本人の価値感でもあったからで,現代のかるい日本人に思い出させたくないのだろう.

ポップカルチャーで稼ぐしかない,いまのテレビ・マスコミ界は,すべて新聞社系列でもあるからだ.
各県に一社という「地方紙」体制すら,戦争準備の国家総動員法を発端とするから,いまだにわが国は戦時体制下にある.

 

野口悠紀夫「1940年体制」は,このブログで何度も紹介しているから,ややしつこいかもしれないが,現代を生きるわたしたちに必須の知識をあたえてくれるので,本嫌いなひとにでもお勧めしたい.
左は初版,右は増補版で,最終章が入れ替わっているから,どちらか一冊を読破してから,別の最終章だけを読めば「完璧」である.

さて,日産のゴーン氏の一件にもどろう.
逮捕後の社長による会見や,その後の「会長解任」をきめた取締役会決議などの報道に,フランスからの懐疑的な情報もくわわっている.

これらには,わたしが注目したい,そもそもの「有価証券報告書・虚偽記載」という問題の本質が,どこにもない.
すなわち,「有価証券報告書」という「公文書」で,長年にわたって虚偽が「できた」のはなぜか?である.

監査する公認会計士もそうだが,原案を書くのはふつう経理部だろう.
すると,経理部長はどこまで関与していたのか?
当然だが,取締役会はどこを読んでいたのか?あるいは,全員が読んでいなかった?

なんのことはない,組織的な「犯行」だったのではないか?
そうでなければ,できない.
会長職にあるゴーン氏が「有価証券報告書」をみずから執筆するはずもなく,もしそうだとしても,「虚偽」にだれも気がつかないはずはないだろう.

内部告発で司法取引したとはいえ,社長会見も,解任決議も,「自己保身」というキーワードしか浮かばない.
それに,「推定無罪」という指摘をしたのは,堀江貴文氏のツイッターだけなのも不思議だが,この国では「逮捕=有罪」という,世界常識とかけはなれた常識がある.
もしも(この国なら)万が一,「無罪」判決がでたらどうするのか?

工場の検査不正どころか,経営陣が腐っている,ということに衝撃をおぼえる.
「有罪」が判決として確定するまで,「謹慎処分」が妥当ではないか?
「保身」ゆえの強硬突破だったのだろうか?

「株式会社」の経営者なら,だれでも気がつくことだろうが,だれも口にしない国になっている.

「仰げば尊し」の否定の否定

かつて卒業式の定番ソングだったが,二番にある「身を立て 名をあげ やよ 励めよ」が,「立身出世主義」で「民主的でない」という理由から,この曲全体を歌わないか,二番を飛ばして歌うかすることもあったという.
海軍兵学校の卒業式で歌われた,別れの定番「蛍の光」も,一番だけで二番以降は歌われなくなった.

いまでは,多くの学校が古文調のこの歌ではなく,今様である歌謡曲のヒットソングを採用しているらしいから,まさに「歌は世につれ世は歌につれ」の感がある.
もっとも,唱歌の「故郷(ふるさと)」も,小学生には歌詞がむずかしいとして,おしえないということもあった.

往年の人気アニメ「魔法使いサリー」では,登場する少女たちが樋口一葉の文学にあこがれて,「たけくらべ」や「にごりえ」を読みふける場面があったけど,これとてもおなじ年齢のいまの少女たちを飛び越えて,母親たちにもありえないむずかしさであろう.
そうかんがえると,おそろしい勢いで日本語が退化しているのである.

わたしのかよった県立高校卒業式の記憶では,式次第にこの曲をいれようとした生徒側の希望を教師が拒否したため,式の途中でゲリラ的に歌い,これをあわてて阻止しようとした教師たちを目撃した想い出がある.
そんなことがあったので,国歌斉唱があったかどうかの記憶がない.

卒業式がせまった時期に,「仰げば尊し」を拒否する理由の説明が教師からあった.それは,「仰げば尊し」を歌ってもらえるような立派なことをしなかったからだ,という告白であった.
「さもありなん」とわたしは個人的におもったが,本人たちは「謙遜」していたのかもわからない.
しかし,生徒の卒業を目のまえにして「それはないだろう」である.

かんがえてみれば,高校教師は小学校とちがって専門の「師範学校」を出ているわけではなく,ふつうの大学でふつうに学問的専門教育を受けてきただけだ.しかも,なかみがほんとうに学問的だったのかも疑問だし,高校でそれをそのまま教えてもらってもこまる.

ようは,「おしえること」,「生徒の理解をえること」という教育の基本中の基本である方法を,ちゃんとならった「プロ」たちなのか?という自問にさえ,自信がないということだったのではないかと疑ったのだ.

なんという不幸,なんという低劣な学校にはいってしまったのだ!
これは,いまでは「製造物責任」が問われかねない教える側の品質劣化の告白である.

「仰げば尊し」が唱歌になったのは,1884年(明治17年)とある.
江戸期の教育がバリバリ残っていたころだから,歌詞の一部にある「立身出世主義」をのぞけば,爺婆の世代までときの「塾」や「寺子屋」における「師匠」や仲間たちをイメージできたことだろう.

その意味で,すぐれて巧妙に歌詞が作られている.
すくなくても,立身出世主義が民主主義とあわないという主張のトンチンカンに比べれば,国家の意思と伝統とを融合させつつ,じつは伝統を否定するという見事さに,明治人の力量を感じずにはいられない.しかも,その力量を発揮した人物たちは,どうかんがえても江戸期の教育世代なのである.

仰げば 尊し 我が師の恩
教(おしえ)の庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾(と)し この年月(としつき)
今こそ 別れめ いざさらば

互(たがい)に睦(むつみ)し 日ごろの恩
別(わか)るる後(のち)にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

現代は,科学技術のための教育と,日本における伝統的な人間教育との融合こそがもとめられている.
だから,江戸期までの「師匠」という存在がなくてはならないものなのだ.

残念ながら日本では,ちゃんとした大学にはいらないと,そういう意味での「学問」をすることができなくなった.
それで,大学の方もわかっていて,勉強法の教科書を用意した.
ここでいう「勉強法」とは,学問のための,という意味だから,受験勉強を乗り越えたものにあたえられるものだという認識がある.

スタートラインが大学に入ってから,というのが現代で,江戸期のほうは,だいたい5才や7才からだった.
そのかわり,寿命は倍以上になったから,やっとなんとかなっていた.

これからの時代は,戦後の一直線的な教育制度ではなく,選択が可能な明治期に用意された複線的教育制度と人間教育のハイブリッドが求められる.
政府のいう中高一貫校とは,直線的方法のさらなる推進だから,まるで方向がちがう.

そういう意味で,個々人と個々の教科ごとにあった勉強のやりかたを教えることが,最初に教師に求められるスキルなのである.
そうすれば,仰げば尊しを生徒も教師も,快く歌えることになるだろう.

いつも何度でも役所ってやつは

世界のどこにいっても,役所をほめるひとはあまりいない.
それは公務員をほめるひとがいないからだ.
そういうことで,「お役所仕事」というのは,ある意味で世界共通の人類がいだく,もしかしたら唯一の社会的共通認識かもしれない.ただし,日本人はそうはいってもなにかあると「国」や「自治体」に要望し「依存」しようとするから,どこか矛盾しているのだ.

そんな,われわれ日本国民が,とてつもないトラウマにいまだに支配されているのが「あの戦争」である.
それを「お役所仕事」という面から解析したのが,倉山満「お役所仕事の大東亜戦争」である.

これはおもしろい.
明治憲法で仕込んだ,ドイツ式の「分権」が,まさに国家をバラバラにして,制御不能に陥れたというはなしは聞くが,その「運用実態」がここまで再現されると,現代の経営不振の企業における統率のめちゃくちゃが嗤えない.

むしろ,国家の官僚も.企業内官僚も,あいかわらずなのだという,人間の性をつうじた組織運営の法則を確認できる.
そういう意味では,「日本式『科挙』」であるところの「公務員試験」や「外交官試験」の上級職を合格したひとたちの「行動学」としても読めるものになっているから,民間でも参考になる.

近代国家としての日本国の運営は,薩長閥という藩閥政治を起点にした,(下級)武士による軍事政権だった.それが,立身出世のための教育をつうじて,「学歴」によるあたらしい身分社会を模索した.
地方の農家の次男が「陸士合格」したら,別世界の人たちといきなり交流ができるようになったという手記もある.

すなわち,陸軍にしろ海軍にしろ,上級学校を卒業しなければ絶対になれない身分社会であったから,かれらは「軍人」という名の「官僚」だった.
つまり,文官でも武官でも,本質的には「お役人」であって,かれらが勤務する組織はすべて「お役所」になるのである.

明治憲法が不思議な憲法なのではなく,はるかむかしに律令国家であったときの日本的伝統として,「令外の官」があったように,憲法には一行一句も書いていない「元老」というひとたちが政府を仕切っていた.
いわゆる「維新の元勲」というひとたちで,このひとたちは「憲法の外」にいたのだ.

しかし,かれらをして不思議なのは,「元老」の再生産をいっさいしていないから,寿命がきたらいなくなる.
それで,最後の元老,西園寺公望が老齢で意欲をうしなうと,とたんにこの国の機構が総理というトップにまで「お役所仕事」に染め上がってしまうのだ.

「戦後」とておなじである.
むしろ,現代こそあの戦争直前のような「お役所仕事」がはびこっていないか?
しつこいが,公務員の世界だけでなく,企業内官僚の世界もである.

GHQによって,日本人の精神構造を改造する作戦として,「War Guilt Information Program」は,関野通夫によって米国公文書館で発掘されている.

 

まさに,国際法違反のとんでもない「作戦」が,占領という時代に実施されてしまった.
この作戦が,その後,イランやイラクなどの占領政策で,ほとんど役に立たないことを米軍は身にしみてしることになる.
なぜに,日本だけにかくも「有効」だったのか?
すでに,国民が「国家依存」をふつうにしていたからだろう.その他の国には「自己」があった.

しかし,深くかんがえなかった支配者によるご都合主義で,もう一つセットの教育プログラムが米軍によって日本に導入されて,これがその後の繁栄の決め手になっているから皮肉なものだ.
それが「MTP(マネジメント・トレーニング・プログラム)」と「TWI(トレーニング・ウィズイン・インダストリー)」である.

具体的には,米空軍立川基地で実施され普及したといわれているが,日本人基地従業員を大量採用したものの,烏合の衆のような状態で,これら従業員を教育し,さらに取引業者である各種メーカーにも導入をはかるため,マッカーサー指令になっているという.
それで,わが国製造業の大手はほぼ100%の導入となった.しらないのは,その他の産業である.

普及のための日本産業訓練協会が1955年(昭和30年)に設立された.
日本における製造業のおおくは,MTPの研修訓練を受講しないと管理職に昇格できないという共通点があって,製品の種類に関係なく「管理:マネジメント」の基礎をみっちり学んだという.
また,TWIは,現場責任者向けの訓練で,「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」という精神が貫かれていて,あの「トヨタ生産方式」の基礎になっている.

この本は,1978年(昭和53年)初版だが,いまでも新刊本が手にはいる,100版をかるくこえた超ロングセラーである.
あたかも「ノウハウ本」のようにもみえるが,わたしは「産業哲学」の名著,であるとおもう.その根幹をつらぬくかんがえ方こそ,TWIなのだ.

協会によると,MTPはオリジナル・テキストをもっているが,どういう経緯かTWIのほうのテキストは,厚労省管轄の社団法人雇用問題研究会になっていて,最新版が「平成元年」という.
つまり,30年間改訂されていない.
「予算がない」ということだが,どういうわけか?

日本語版よりあたらしい「中国語版」があるというので,調べたら,中国に無償で提供したというから不思議をこえた「お役所仕事」があった.

それではと,米国政府に問い合わせたら,「米軍が開発したプログラム」だから,「米国政府に権利がある」としたうえで,国民の税金でつくられたものだから,だれがコピーしようが勝手であるという返答だったという.

残念ながら,日本のお役所は,大元の権利すらわすれて,君臨することだけをかんがえているらしい.「他人のものは自分のもの,自分のものは自分のもの」.
やっぱり,倉山満氏がいうとおり,日本の敗戦状態はいまだに「お役所仕事」という一面をとっても,アメリカにはかなわない.

そうかんがえたら,日本の高級お役人様たちも,昨今の企業不祥事をおこした企業内官僚も,これらの訓練を受けていないだろう.
強制的に受講させるために,役所には「省令」を,企業には「就業規則」を早急に改正すべきだろう.

いまさらですがソ連邦という本

ベストセラーだというが,これは異色である.
なにがって,「表紙」がである.
なんだか今様の「萌え」た感じがするが,この表紙の絵,背景をよくみるとよくできている.
そして、内容も,「いまさら感」がたっぷりだけど,かなり専門的でしっかりしている.

ロシア語に翻訳すれば,けっこう売れそうだ.
東欧ではどうなのだろう?

「東西冷戦」という時代は,その思想対立から,日本語での知識には限界があった.
「賛美」か「恐怖」かという選択肢しかなかったからだ.
それに,かんじんの「ソ連」という国や「衛星国」といわれた東欧諸国も,かんたんに旅行できることはなかったし,くわしい暮らしぶりが直接レポートされることもなかった.

横浜の谷間にあったわが家は,なぜかAMラジオにモスクワ放送がよくはいった.
短波ラジオがはやって,よりハッキリしたモスクワ放送とBBCの日本語放送はよく聴いていた.
子ども心に,BBCの方が信用できたのはなぜだったかわからないが,ふだんからの情報量の差だったかもしれない.

冷戦が終結したのが1989年だから,日本の「平成」という元号と,たまたまかさなる.
つまり,いまから30年という一世代の年月を経て,「歴史になった」ということが,この本のしめす最大のメッセージではないかとおもわれる.

世界が冷戦の終結を肌で感じていたとき,わが国ではバブルがふくらんでいた.
国内の地価と株価の上昇に沸いて,冷戦ということの他人事が,文字どおりとなって,マネー・ゲームに狂想していたのだ.
このころの記憶があるのは,乳幼児ではないから,いまでは三十路もなかば以上のひとたちからになる.

すなわち,これよりも若い人たちにとっては,すでにバブル経済も,その崩壊も,同時にあった東西冷戦の終結も,ぜんぶ「歴史」になってしまっている.
これを,たまたま自分にあてはめれば,わたしに東京オリンピックの記憶がないのは,バブルをしらないギリギリ世代とおなじだからだ.

そのつぎの国家イベントだった,大阪万博は,小学校の高学年だったから,それなりに記憶しているし,その二年後の札幌オリンピックは鮮明だ.
スキージャンプでの金銀銅メダル独占は,おおくの少年を沸き立たせ,フィギュアスケートのまっ赤な衣装が印象的だったジャネット・リンの世紀の尻もちも,リアルにカラーテレビで観ていた.

「国威発揚」というのは,この時代は素直に受けとめられていたし,じっさいに東側は真剣にメダルの数をかぞえていた.
それでか,いまでもわが国はメダルの数にこだわっている.

歴史は資本主義から進歩して社会主義になるというのが「科学」とされていたから,進歩主義は社会主義の基盤になっている.
それをテーマにしたのが「大阪万博」だった.
この博覧会のテーマが「進歩と調和」だったのだ.

日本は,資本主義国のふりをした社会主義国である.
だから,「世界でもっとも成功した社会主義国」という表現は,けっしてジョークではない.
さいきんでは,中国がこの表現をつかっているが,その前に「日本を追い越して」がつくから,その本気さがわかる.

そうやってかんがえると,改革開放という政策は,表面的にも内面的にも日本を鏡にして実行したのではないかとおもえる.
表面的には資本主義,しかし,その実態は社会主義なのだから,わが国とおなじなのだ.

ただし,化学反応の順番が逆になっているようにみえる.
中国は,革命をつうじた共産党から資本主義に,わが国はやや複雑で,戦前の近衛新体制という社会主義から米軍の占領をつうじた資本主義をへて戦前回帰の社会主義化をはたした.

だから,こんどは中国のやり方にわが国が近づくようにならないと,バランスがとれない.
そういう意味で,いまわが国は自由を失う危機にあるのだ.

ちょうどいいタイミングで,中国が反面教師にしたソ連の解説がでた.
わが国も,ソ連を反面教師にして,ついでに中国も反面教師にしないと,おぞましい社会になりかねない.

本書のあとに,自由主義哲学の本が,秋の夜長の役だけでなく,わたしたちの人生や子孫たちの役に立つだろう.
まずは,フランクリン自伝で,いっとき正しきアメリカ人になってみるのはいかがだろうか?

終身雇用は強化されている

「日本独特」の働きかた,といえば「年功序列」と「終身雇用」がいわれてきたが,これに「企業内労働組合」をわすれてはいけない.
しかし,これら三つ「だけ」が,「日本独特」というものではない.

そもそも,「独特」というかぎり,それは「標準」との比較において,ということであるから,その「標準」をしらないと,はなしが「独特」になってしまう.
「標準」の働きかたは,やっぱり「欧米」ということになるが,「欧」はすでにややこしいので「米」にしぼるのがよいだろう.

しかし,「欧米」共通はまだあって,それは「労働市場」の存在をいう.
「日本独特」に,労働市場が存在しないことを昨年書いた
これは、かなり根本的に重要で,決定的なことなのであるが,専門家の指摘があまりないから不思議におもう.

しかし,国内の専門家は,「ないこと」を前提に,いろいろかんがえているのだとおもえば納得できる.
残念だが,いまさらここまでくると,「ない」ことが日本社会でふつうになっているから,それをボヤいてもせんないことだとして,一般に向かって指摘することすら退化したのだとかんがえるしかない.

けれども,わたしたちは「ないこと」をしらないままでは,なにがなんだかわからなくなることもある.
だから,「ないこと」を,まずしっていることが必要だ.

欧米で「労働市場」とは,労働者が自分の労働力を売っている,というかんがえを個々人が意識していて,その労働力を,経営者は適正価格で買っている,というかんがえをちゃんと意識しているということを前提にしている.
だから,なんとなく雇われているというひとはいない.

そして,労働を売る側の労働者は,自分で自分の労働の価値を計る方法をしっていて,経営者は,自分が欲しい労働力の質と価格を提示できて,これらの双方の情報が合致したときに,労働契約が結ばれることを「労働市場」という.

だから,おなじ労働力を提供しているのに,定年して雇用延長,という「だけ」のことで,年収が半減する,ということはありえない.
それに,年齢によらない業務の質であれば,そもそも同じ給与でも年齢によってことなるということもない.

たとえば,チェーン化された飲食店などでよくみかける募集ポスターに,初心者でも,「高校生」と「おとな」というだけで時給のちがいがあるのは変だ.もちろん,日本では若い高校生のほうが「安価」だが,仕事をはやくおぼえるという点からしたら,高校生のほうが「高価」なのではないか?ともおもえる.

したがって,経営者からみれば要求する業務の「完遂度」が,給与差になるのは当然だから,どうやってそれを計測するのかが,マネジメント上のテーマになる.
そこで,現場責任者にそれを業務として実行させるのが,経営者の役割になる.

すると,現場責任者は従業員の「業務完遂度」を測る方法をもっていなければならず,それを使えなければならない.
そして,複数店舗や複数の職場があれば,それぞれの現場責任者は,おなじ基準で評価できなければ不公平になってしまう.

だから,経営者は,公平に業務完遂度を測る方法を,現場責任者に提供して,公平さが担保されるよう訓練しなければならないのだ.
わが国では,あんがい,これをちゃんとやっている組織はすくないのは,労働市場がないからである.
欧米では,これができないと部下から突き上げられるし,人材が流出してしまうか応募がなくなる.

いい悪いという議論ではなく,こうなっている,ということでいえば,さらに,将来の経営者層になるひとには,就職の段階でその技能が問われ,それをもって本人のキャリア形成が計画される.
だから,現場責任者レベルにとどまる人は,自社の条件に不満があれば,べつの企業に転職して現場責任者をつとめるという人生になる.

一方で,経営者候補層も経営者もおなじだから,腰をすえた経営者は,転職されないための経営を強いられるし,場合によっては,同僚の転職をすすめることもある.
このことは、身分社会を予想させるものだが,労働市場がないわが国では,「学歴」があたらしい身分社会を形成したから,どちらにも身分社会は生まれるものだ.

こうした動きが,日本にないのは,労働市場がない,ことが大きな要因になっている.
もちろん,この「ないこと」が,もはや「日本文化」のレベルにまでなっているから,その他の文化と結びついて,もはや労働市場がないことを憂いてもしかたがなかった.

しかし,年金支給という別の社会条件から,「定年」そのものの延長が「法的」に検討されるようになってきたから,日本人の人生の老齢時代における「労働」が,強制力をもってもとめられてきている.

さらに,外国人労働力の「輸入」が本格的にはじまるという事態になって,どうやって労働市場が「ある」ひとたちに,「ない」ことを理解させるのか?
まちがいなく,「文化摩擦」になるのは,火を見るよりあきらかだ.
むしろ,すでに現状でも外国人労働者がたいそういて,日本人経営者による奴隷労働的なあつかいが問題になっている.

そして、10年期限だというけれど,そうはいかないのが外国人も「人間」だからで,人生の幸福追求の権利を剥奪することはできない.

すると,これまで存在しなかった,「労働市場」と「終身雇用強化」ということに,あらたに外国人という変数がくわわって,ノーコントロールになってしまう懸念がある.なぜなら,その外国人が「何人なのか?」ということが予想もつかないからである.
つまり,日本人と外国人という二項対立ではなく,日本人といろんな国のひとたち,になるからだ.

さすれば,いろんな国のひとたちだけで,企業内組合を結成するかもしれない.
もしかしたら,外国のスタンダードのように,職業別の組合になることもあるだろう.

一歩まちがえば「奴隷輸入」という外交問題にもなる.
混沌の時代がはじまることは,もはや避けようがない.

PCを使えないのは悪なのか?

財界歴代トップや国家の大臣が,PCを使えないときびしい批判にさらされている.
「それがどうした?」
とわたしはおもうのだが,読者諸氏にはいかがだろうか?

問題は,組織のトップがトップとしての役割を果たしているか?のほうがはるかに重い.
PCをつかいこなして,すばらしい表計算ソフトの使い手であっても,トップとして判断ができなければ何もしないこととおなじである.
電子メールもしかりだ.

しかも,電子メールであろうが電話であろうが,一歩まちがえば情報漏洩の危険にさらされているのは周知のとおりで,ましてやこれらの情報を積極的に盗もうとする集団が存在するのだから,重要な組織の重要な情報ほど,電子メールや電話の使用は危険である.
ドイツでは,ずいぶんまえにもっとも安全なのは「郵便」であるということになったこともある.

東西冷戦まっさかりのかつて,電子メールなぞおもいもよらない時代の郵便は,危険にさらされていて,デニム製の袋に封緘までする外交文書を運ぶことすら,中身の情報の安全は危うかった.
これらの原始的な方法が,その筋の「職人」の減少と退化から,現代ではかえって安全性がたかまっている.

ところで,その組織の存在理由が現実と合致しなければ,廃止するなりの方向の批判のほうが,よほど役に立つ.
役人は組織の改編まではやるが,失業をともなう廃止は絶対にしない.
そういう意味で,公務員にもスト権をみとめて,そのかわり民間と同様に「会社都合」でも解雇できるようにしたほうがよい.

安易なストライキは,住民からの強い反発をえるだろうし,それで住民が役所へのAI導入を希望するようになれば,世の中はすこしでも変わることだろう.
それに,人口減少下での公務員数の増加は,ありえないので,住民ひとりあたりの公務員数のランキングが今後話題になるはずだ.

役人はむかしからずる賢くて,姑息なことしかかんがえないという特性をもっている.
たとえば,「指定管理者」という制度がある.
いまでは,おおくの公共施設の運営が,これら「民間」の業者が請け負っている.
たとえば,公民館や図書館,体育館などの施設である.

しかし,よくかんがえると,こうした施設は以前,ぜんぶ公務員が働いていた.
それで,前述のように,公務員は解雇されない身分だから,指定管理者によって職場を追われたかつての職員である公務員たちは,どこにいったのか?という問題がある.

ここに,みごとな「パーキンソンの法則」が機能しているとかんたんに予想できる.
このことは、ちょうど一年前に書いたことだ.

あいかわらず,わが国で「パーキンソンの法則」はマイナーな知識だが,社会的常識になっている欧米では,かならず人びとのチェックがはいる項目になっている.

「役人の数は,仕事の量とは関係なくふえる」

しかし,欧米人の発想は,主語に対してもっと厳しい.
「役人の数」を,「企業内」に読み替えることも常識になっているのだ.
つまり,民間であれ企業内の事務官僚の数は,仕事の量とは関係なくふえる,という性質があるから,管理職(マネジャー)としての心得で,そうはさせない努力を経営者から要求されているし,管理職本人の意識も,パーキンソンの法則のようなバカげたことになれば,経費だけがふえて自分たちの給料の原資が減ってしまうと認識している.

それで,わたしも,外資系企業に入社したら,上司からパーキンソンの法則についてのレクチャーを受けて,社内でその傾向を見つけたら,積極的な注意喚起を遠慮なく発するように,と教育された.
もし,自分をふくめた上司が,その注意喚起を無視するようなことがあったら,すぐにコンプライアンス室に訴えてよい,との説明だった.

新卒採用がない会社だったから,日本的中途入社の新入社員しかいないのだが,新たなメンバーには以上の説明をかならずせよ,というのがマニュアル化されていた.
これは,日本企業とあきらかにスタンスがちがう.
「ハラスメント」が中心になっているのが日本企業だが,外資企業がもっとも警戒して自戒の対象にしているのが「パーキンソンの法則」なのである.

そういう目線でみれば,一見,PCなくして仕事が成立しない,という常識もおかしなものだとわかる.

国民から選出された議員が,国民を支配しようとする役人に睨みをきかせ,国民のためになる施策を指示する役割をもっているのにもかかわらず,なにを勘違いしたか,役人と一緒になって国民を縛る役割に権威者のよろこびすら感じているように見えるのは,あきらかに「裏切り行為」なのだが,それが「伝統」になっているのがわが国である.

ちゃんとした視点での批判を,報道機関という公益をになうひとたちに期待したいが,このひとたちがおそろしく「幼稚」だから,おかしな論点ばかりが目にはいる.
彼らは「記事」が商売ネタだから,その記事を買わないという拒否権発動こそが,意志表示になるはずだ.

あたらしい「最高級実務電卓」

2015年に,ほぼ3万円という価格設定の「最高級電卓」が発売された.
メーカーによると「電卓も『嗜好品』に」ということで,じっさいにずいぶん売れているらしい.
だから,部外者が云々するはなしではないのだが,電卓好きとしてコメントしておく.

パソコンなら,エントリーモデルの新品やリース落ちの中古が買える値段で,「電卓」を買うひとはどんな人たちなのだろうかとおもってちょっと調べたら,公認会計士や税理士といった「士業」の人たちは当然として,あんがい高級車のディーラーさんなど,高単価な物品を販売する会社のひとたちが,お客様に「見せる」ために購入しているということがわかった.

わたしも,そういう意味で客前の電卓を買い換えるように指導したことがある.
レジ横に置いて,割り勘計算などをするのにつかう電卓が,数百円のものだったからである.
もちろん,この電卓自体の機能に「否」はないけれど,「卑」があったからだ.
計算結果がおなじでも,あまりにもみすぼらしいものを使っているところを観られれば,お客側もぞんざいな扱いを受けていると感じるかもしれない.そうならこれは「大損」につながってしまう.

ところが,なぜか日本製の電卓は,どれもこれも「ビジネス仕様」のデザインで,おしゃれ感がまるでない.
電卓といえば「いかにも電卓」というデザインに統一されているようだ.
そこで,外国製のちょっとしたデザインの電卓を推薦した.

すると,やはり見ている人はいるもので,お店がおしゃれだと感じてもらえた,と早速の反応があった.
たかだか千円程度で,お客様に「いい印象」を抱いてもらえるなら,安い買い物である.
日本の電卓メーカーのセンスの無さが,外国製の電卓を買わせたのだ.

そうしてかんがえると,表題の「最高級」が,作り手にとっての価値感だとおもえてしまう.
もちろん,使い手のつかい勝手についての評価は高いのだが,あくまでも「ふつうの電卓」としての範囲を超えていない.
「売れている」ということから,否定をするのではなく,べつの概念による「最高級」があたらしく生まれてもいいのではないかとおもうのだ.

たとえば,ビジネスの場面なら,決定的に「ふつうの電卓」に欠けている機能は「年利」のための「べき乗」と「べき乗根」がある.
上述の「最高級電卓」には,「√キー」があるが,これだけでは不満が残るから,関数電卓がもう一台欲しくなる.

電卓メーカーからすれば,ふつうの電卓と関数電卓が売れるからそれでよいかもしれないが,利用者は,ずっと前からこまっている.
これに,「統計機能」がつけば,おおよその実務では間に合うから,かばんに一台いれればじゅうぶんだ.

欲をいえば,モード切替で式の入力ができて,それが電源のオン・オフでも消えないことが望ましい.
わたしにとっては,以上の電卓があたらしい「最高級実務電卓」である.

おそらく,こんなアイデアはとっくにメーカーはかんがえただろう.
しかし,せっかく作っても「売れない」可能性がたかい.
それで,これまで作らないできたから「売っていない」のだ.

なぜ断定できるかというと,おおくのひとが電卓の使い方をしらないし,なによりも,「利率の計算」や「統計計算」の『便利さ』をしらないからである.
だから,たんに四則演算のなかで,えんえんと足し算をして,さいごに割り算をするとか,メモリーどうしで足し算や引き算をする「だけ」で満足している.

そもそも,「√キー」がどうしてあるのかしらないから,使い方もしらないので押したことがない.
せいぜい,「√2」や「√5」などと押して,「ひとよひとよにひとみごろ」とか,「ふじさんろくおーむなく」とかの確認をするくらいかもしれない.

ということは,「教育」が必要だということである.
電卓の利用者を教育して,電卓が便利だと,購入候補者にこころから感じてもらうことなしに,わたしがかんがえる「あたらしい『最高級実務電卓』」は売れない.

わが国の数学教育は,算数教育からして先進国で唯一授業に電卓を「つかわない」ことを守っていることは何度かこのブログでも書いたが,利率の概念がわからなくて社会人生活ができるのか?
むかし,横須賀にいくと「自衛官専門」と大書した融資会社の看板をよく見たが,自衛官の専門教育のなかに「利子」がなかったので,実質「サラ金」にずいぶん借りてこまった人がおおかったと聞く.

統計は中学校からおしえることにはなったけど,おそらく無機質で抽象的なつまらない授業がおこなわれているにちがいない.
日本で統計は「三十年ぶり」のカリキュラム復活だったから,先生たちが「わからない」のである.自分がわからないものを,生徒がわかるようにおしえることは,できっこない.

こんな状態だから,電卓メーカーだけに「教育」を期待しても,普及はきびしい.
ならば,企業内研修でやろう!やるしかない!
のだが,その企業経営者が,研修を削減すべき「コスト」だと認識するようになった.
もちろん,かれら自身も「あたらしい『最高級実務電卓』」を欲しいとおもわない知識しかない可能性がある.

だから,「あたらしい『最高級実務電卓』」の発売と売れ行きは,あんがい社会のバロメーターになるだろう.
そういうわけで,とうぶんこの国で「あたらしい『最高級実務電卓』」が発売されることはない.

「依存」は教育される

教育史という分野がある.
さいきん,「日本国民をつくった教育」(沖田行司,ミネルヴァ書房,2017)という本をみつけた.
げにおそろしきは「教育」である.
子どもを人につくりあげるのだがら,時がたてば時代を築くことになる.

二部構成の本書は,第一部が江戸期を中心としていて,第二部の明治から現代への壮大なる伏線を描いている.
とかく,封建時代で厳しい身分制であったのだからと意識せずにいるが,たんに識字率が当時の世界最高だっことよりも,重大な思想的背景がある.

幕末から明治,明治と第一次大戦後の大正,そして,昭和の戦争と戦後といった時代区分ごとに,教育も変容していく.バブルの絶頂と崩壊からはじまる,平成時代も「ゆとり教育」という歴史がある.

しかして,明治の教育令による学校の誕生と,GHQの指令による今日の学校の姿には,とてつもない継続性と断絶が入り交じっている.しかし,そこにうっすらと江戸の思想がよこたわっているのだ.

本書は当然に子どもを対象にした教育の歴史なのだが,その当時の「社会」との関連がくわしい.それもあたりまえではあるが,社会の要請としての教育だからである.

この本にたどりついたのは,昨今の「まじめなはずの日本人」が連続しておかしているさまざまな不祥事の原因追及をしようとしたのが理由だ.
たとえば,自動車会社による検査不正.
社長が交代してもなお続けていた,ということの「重大さ」の原因である.

わたしは,思想,だという仮説をもっている.
ひとはかんがえる葦であるから,思想から行動がうまれる.
生まれてから経験がない子どもは,思想ではなく行動が先になるが,その結果の善し悪しを体験したり,周辺からの教育によって,徐々に思想が形成されるようになっている.

だから,社会人といわれるおとなは,思想からの行動ができるひとを指す.
年齢はじゅうぶん達しているが,行動がさきになるひとを,ふつう一人前のおとなとはみなさい.それで,たまに年齢に達していないのに思想から立派な行動するひとが出現すると,「天才」というのである.

江戸期には,そんな天才が出てくるからふしぎだった.
幕末でいえば,たとえば,年齢とは逆に亡くなった順で,橋本左内や横井小楠だ.
横井小楠は熊本藩士だったが追われて越前福井の松平春嶽にその才を買われた.
橋本左内は,その福井藩の天才的大秀才だから,この二人は松平春嶽という共通の上司がいた.それで,幕政改革のスタッフにまでなる.

共通点といえば,たいへん興味深い点で,当時の授業風景がある.
伊藤仁斎の古義堂,中江藤樹の藤樹書院,緒方洪庵の適塾,吉田松陰の松下村塾も,個々の机はあるが,黒板に向かっての一斉授業をしてはいない.
むしろ,学生が自主的に学ぶ「ゼミ」形式であって,教師はテーマをあたえてそれを学生自ら議論させる方法をとった.つまり,考えさせて学ぶ,というやりかただ.

他人から教わったことだけでは,けっして本人の血肉にはならない,という教育方針が一貫しており,それがそれぞれの年代がことなる「塾」で,共通のあたりまえだった.
これは,いま,企業の内部研修でもさかんな,ロジカル・シンキングそのものである.

しかし,彼らがもとめた学問の意味がいまとちがう.
それは,人としての正しい生き方の追求だったのだ.
職業に直接役に立つ,専門知識とは別の分野こそが「学問」だった.

明治の教育は,これを富国強兵実現のためという「国家目的」に改造した.
これが,形を変え品を変えて,いまにいたっている.
その本質が「立身出世」のための教育なのだ.

いかに生きるか?から,いかに上手に生きるかになったとき,だれもが国家が用意した教育制度=学制の支配下にはいる.
そして,その制度を支えたのが,学校だった.
だから,どの学校をでたか?によって,人間が評価されることになった.
なにを誰から学んだか?は,意味を失ってしまった.

こうして,人間がつくった「体制」という「制度」に依存することが教育になったのだ.

明治の爆発的経済拡大も,江戸時代の教育があってこそ,という皮肉のうえになりたっている.
企業内研修のありかたも,今後は,江戸を参考にするようになるだろう.

買ってくれたひとがみえない無念

製造業のおおくのひとたちは,自社製品の購入者を直接みることができない.
自社と購入者とのあいだに,流通業である商社や問屋が介在して,最後は小売店にいくからだ.
これは、すこしまえの自動車会社もおなじで,製造する「メーカー」と販売する「ディーラー」が別個の会社だったことからもわかる.

それで,おおくの製造業は「展示会」を開催して,消費者に直接アピールしたり,「モニター」をつのって,試作品のつかい勝手や評価を依頼して,最終的に「商品」とするかを決める.
これらの行動や活動には,多額の資金を要するのは,だれにでも想像がつく.
いいかえれば,製造業は,顧客へのアプローチにたいへんな「カネ」をかけているのだ.

ネット社会がこれを変えつつあるのは,工場直売を自社HPでやっていることがあるからだが,残念ながらそれでどんな顧客情報を得ているのか?となると,まだ弱いような気がする.
小売店で購入するのと,手順があまりかわらない.
すなわち,カネをかけて「顧客情報を得る」という手段にまで昇華させていないと感じるからである.

職人にスポットをあてた人気TV番組がある.
自分がつくった道具が本人がしらないうちに,海をわたり,その国を代表するような名人の職人が愛用している影像を作り手の職人にみせる,という趣向である.
そして,愛用している外国の職人から,感謝のメッセージ影像が贈られる.

これが一連のパターンになって,シリーズ化して放送されているが,いつ観ても何回観ても不思議なのは,作り手の職人が「実際に自分の道具がその道のプロの職人に使われているところを初めてみた」というお約束のコメントだ.

驚くほど使いやすいと絶賛される道具が,実際に使うプロの要望をリサーチせずにできるものなのか?という疑問だ.
すると,ここに流通からのフィードバックを予感するのである.
「こんな感想がきたよ」

あるいは,伝統的な製品であれば,数百年前の初代の周辺あたりの世代のひとたちが,自分で道具をつくって目的の製品をつくっていたかもしれない.それが,だんだん名人芸になって,他の職人からの依頼をうけているうちに,気がつけば道具づくりが専門の家業になっていたのかもしれない.

それで完成された形と製法が,そのまま何も変えずに作ること,に変容すれば,いつしかプロの職人が使っているところをみたことがなくても,十分なものができるのだろう.
その道具が単純な機能であればあるほど,その完成度はたかくなる可能性がある.
だから,外国の職人も,このまま変わらない製品を作りつづけてほしい,になるのだろう.

ひるがえって,人的なサービス業である宿泊業や飲食業は,かならずお客様と接するようになっているし,そうでなければ「業」として完結しない.
これは,製造業の常識,からすれば「垂涎の的」の状況だ.

ところが,「垂涎の的」になるべき「顧客情報」を,ほとんど利用していないという残念をとおりこした「無念」がある.
「無念」だから,念が無い.「念」とは思いである.
つまり,目のまえにいるお客様の情報を活用しようという,思いがない,ということだ.

これは再生のお手伝いをしていて,かならず遭遇する.
つまり,お客様を喜ばせたい,ではなく,自分たちを「利益」で喜ばせたい,という意味である.
衣の下の鎧ならまだましだが,鎧しかみえない.
それで,肝心のお客様が逃げてゆくから,経営が行き詰まるのは,物理法則とおなじである.

上述の人気TV番組を,観たことがないのか?それとも観ても製造業の他人事で,自社ならどうだ?という想像力もないのか?
あるいは,利用客をみたことがない,のに「凄い」と絶賛されるのを,ただ感心して観ているのか?
すくなくても,自社の実態をみようとしないことはおなじである.

目のまえにいるひとに関心がなくて,接客系の事業をやっているなら,とっくに業績もよくないはずだから,わるいことは言わない.
はやく廃業するか,べつの,目のまえにいるひとに関心があるひとに事業譲渡すべきである.

事業譲渡したらお金になった.
事業に無念なひとには,せめてそれで納得いただきたいものだと念を押したい.