カリスマ講師は文科省のおかげ

わが国の省庁は,明治以来かわらずに一貫して現在までも,「産業優先」を政策コンセプトにしている.これは,本ブログでもくり返している.

このところ,大手予備校が中学・高校での出前授業を請け負っているというニュースを目にして,さもありなん,とおもったので書いておこうとおもう.

わが国には二種類の教育機関がある.
文科省の支配下にある教育機関と,そうでない教育機関である.
憲法89条は,私学助成金にかんする議論をよんでひさしいが,国の支配下であれば助成金の支出は合憲と解釈することを根拠に,いわゆる「学制」がさだめる「学校」は,「私立」であれ助成金を受けられるようになっている.

つまり,「私学」ゆえの特徴ある「建学の精神」も,国家から助成金を受領するという「アメ」をもって,学習指導要領などもふくめた,文科行政の支配下にはいるという「ムチ」でからめとられているのがわが国教育機関の現状なのである.
だから、国公立の大学と私大がおなじ土俵で評価されることに不思議はない.

ところが,アメリカでは,連邦を「国立」とすれば,12の「大学校」しかなく,7校が軍事,5校が非軍事とはいえ外交官養成,法施行養成,鉱山安全,FBI,消防という特殊性のある教育機関でしかない.それで,「州立」ということになるが,こちらもおおくが「職業訓練」を趣旨にしているから,日本の公立大学とは様相がちがう.

逆に,英国はほとんどの大学が「公立」なのが特徴だろう.しかし,「公立」といっても,日本のような形態ではなく,「基金」をもとにしているから,運営形態はまったくちがう.公的資金を一切得ず授業料だけで運営する大学を「私立」とするなら,1976年開学(マーガレット・サッチャー教育相)のバッキンガム大学が初になる.なお,女史は後にこの大学の総長もつとめている.

旧社会主義国ではどうか?ポーランドでは,すべての大学は国立で,私大はない.また,大学入学は基本的に「高校卒業資格」のうちの優秀者にあたえる「大学入学資格」によるから,学校間での「格差はない」という.それで,おおくが地元の大学に進学するが,なかには首都での生活をしてみたいという贅沢な希望で,ワルシャワ大学に入学するものもいる.教授陣も分散しているというから,教授が転勤すると,学生も住居移動することがある.国家の頭脳を育成しているという原則から,授業料は「無料」.そのかわり,1単位でも落とすと「放校処分」という厳しさであるから,そもそも「卒業」できる割合が極端にすくない.それに,どこの大学を出たか?という大学名における帰属意識が「まったくない」ので,貴重な「大卒という学歴だけ」で社会に通用するという.

さて,わが国の事情にもどると,文科省の教育行政のトンチンカンはむかしからではあるが,教育内容までの「指示・命令」は,国家主義の残滓ともいえるだろう.
さまざまな規制(物理的なものだけでも敷地面積・建物・教室空間の規定などなど)から,助成金なくしては運営が不可能なほどにしばりがあるので,江戸時代のような「寺子屋」を設立しても,「卒業資格」や「学位」を得ることはできない.もちろん,江戸時代には「学位」などなかったが,これは,むしろ,文科省支配下にするための規制であるとかんがえればわかりやすい.
ならば,ポーランド方式がなじむのでは?ともおもうが,「東大卒」をはじめとした「学校名」に強いこだわりと帰属意識があるし,単位をおとして「放校」ともなれば,「学生ストライキ」になると「教授陣」がおそれているらしいから,何をか言わんやである.

その文科省が打ち出したのが,小学校からの英語教育導入である.
すでに導入されてはいるが,2020年から「義務化」されることがきまっている.
それで,昨年17年度から,大学の教育課程の学生に「英検2級」(高校卒業レベル)取得を要請しているというトンチンカンぶりだ.
現状の日本の小学校教諭のほとんどが「英語ができない」ので,せめて新任教師はという窮余の策であるらしい.

こんな実態があるのに,なぜだか親からの不安の声が聞こえてこない.
国会をゆるがすべき問題は,「忖度」がどうのではなく,ほんとうに小学校から全国一律で英語教育ができるのか?というリアルな問題なのではないか?(英語教育の賛否ではなく,できるのか?という方法論だ)
中学入学前に「英語嫌い」をわざと量産する意図がある政策ではないか?つまり,鎖国化をうたがう.

小学生が相手なのだから,英検2級もあればダイジョウブ.
これに,英語が母国語の外国人の「補助員」を採用させれば,「生きた英語」をまなばせられる,と.
本気でかんがえているのだろうか?
これに,わが議員たちはみな賛同しているのだろう.

外国人に日本語を教える「日本語教師」には,「日本語教育メソッド」がある.
ただ日本人だというだけで,外国人に日本語を「プロ」として教えることはできない.だから,「日本語教育メソッド」を学んだひとが日本語教師になる.
これは,おもに「日本語文法」を,外国語の文法と比較して教えるという方法なのだ.
すると,英語を母国語とする外国人といえども,「日本語文法」を知らずして,ただ英語を話しても生徒には理解できないし,なぜ生徒が理解できないかを理解できないだろう.

注意したいのは,小学校・中学校の「国語」で習う「文法」(「学校文法」という)と,「日本語文法」は別物であることだ.
学校文法は,将来=高校での「古文」を習う準備としての「文法」なのだ.
しかも,学校文法を教える教師は「国文科卒」のはずだし,一方の「日本語文法」も「英文科」で主に教えているわけではないから,英語教師にもなじみがあやしい「教育の谷間」になっている.
この「違い」を知らないで,外国語である英語を子どもに教えるとどうなるのか?

外国人への日本語教育で著名な先生にうかがったはなしでは,日本人が外国語を不得意とする理由に,「日本語文法」をしらない,という問題があると指摘されたことだ.
日本語をあたかも外国語としてみる「日本語文法」を理解すれば,文法が厳密なおおくの欧米語の習得が楽になる,ともいわれる.

「不安」はつのるばかりだが,どうしたらよいかがわからなくなれば,だれかに「依存」したくなるのは人情である.
それで,文科省の教育行政支配の外にある「予備校」に目が行くのは自然のなりゆきだろう.
もはや「現場」からの要請で,予備校講師が教壇にたつのが常識になりつつある.

文科省は,はからずも少子で苦しむ「予備校業界」活性化の救世主になった.
すると,本業の「教諭」は,いったいなにをするひとになるのだろう?
まさか,講師選定の「入札条件」を書く「役人」になるしかないなら,銀行のリストラにつづく,教師の大量失業時代があんがいはやくやってくるのかもしれない.

ならば,予備校講師が学校を乗っ取れば,自治体に家賃をはらうことで,完全授業料運営の学校に変身できるかもしれない.
地域のおとながその気になれば,学校から文科省の影響を排除できる可能性がでてきた.
その原因を,文科省がつくったのだから,これを自業自得というのだろう.
しかし,これが学校間の「競争」になるから,いまより悪いことはないはずだ.

「英語」という「アリの一穴」が,文科行政ひいては教師の特殊な身分という岩盤を突き崩す破壊力をもっている.
「その他の教科」にもかならず波及するはずだから,これは「見もの」なのだが,その間の犠牲者は「子どもたち」である.なんとも切ないはなしだ.

経営が下手だという自覚

「経営者」という職業は,創業者とそうでないひとからなっている.
そうでないひとは,たいていサラリーマン経験者である.
それは,創業者の子孫でもそうであるが,ただし同期入社のひとたちよりもずっと速いスピードで「経営者」になる傾向がある.

経営は,神ならぬ人間のおこないだから,どこかで間違える可能性がある.だから,おおかたの組織は,間違えても修正できるようにつくられる.
ところが,経営が下手なひとがやると,間違いだらけなのに間違えていることに気がつかないようにしてしまう.
そして,ここが肝なのだが,自分が経営が下手だという自覚もない.

ブレーンを作る

経営がうまいひとには,たいていブレーンがいる.いなければ,座右の書がある.
これは,ナンバーツー「二番手」が要であることを意味する.
豊臣秀吉の出世物語は,初々しくも華やかであるが,晩年の悲惨は,弟秀長をうしなってからである.

中小企業だから,社内にひとがいない,と嘆く社長はおおい.
手前味噌だが,ならば外部コンサルを上手に使う手がある.
「外部」のメリットは,「内部」のひとには新鮮で,かつ,「他人」だからその分軽い.
「重い」はなしが軽くなるのだ.

予算制度を利用する

いま話題の「財務省」,かつての大蔵省が,「最強の官庁」といわれてきた理由は,「政府予算の編成権」にある.これは,いまでもおなじである.
役所は自分で稼ぐことがないから,予算の配分を得なければなにもできない.それで,大蔵省の予算担当(主計)官には,各省庁の局長級も頭が上がらないばかりか,「事業」の評価までされてしまう.そもそも,主計官は課長級だが,課長補佐級の主計官輔すら,担当省庁の活動を熟知しているのは,お金のうごきでなにをしているかがわかるからだ.

この制度を民間会社も真似て,企業内の「予算制度」ができた.
だから,企業内官僚には,最強の「予算担当者」が存在する.
かれらは,各部署のお金の使い方をしっているから,もっとも強力な牽制機関になりうる.
つまり,経営者には,みずからすすんで「予算策定に参画する」ことで,かなり正確な社内の状況を把握できるチャンスがあるのだが,「大臣」になってしまうことまで真似て,官僚丸投げを平気でするから,自社内でどんなことがおこなわれていて,どんな方向が望ましいのかも不明になるのだ.

読書が趣味という経営者が読む本

有名な企業の有名な経営者にはたいがい「座右の書」というものがある.
さいきんは,有名だが無能な経営者と,有名で有能な経営者の区別ができるようになってきた.
有名な経営者には,取材をつうじて「語録」というものが残るから,その後その会社がどうなったか?によっては,たいへん無意味な「語録」もある.これを反面教師にするというのは,あんがい有効だから,それはそれで後世の役に立っている.

座右の書のおおくが,有名な本であることがおおいし,また,難解でしられる本もある.
わたしは,名著とは,「むずかしいことをやさしく書いてある本」だと定義している.
その道をきわめた「当代一流」ほど,専門をやさしく解説できる技量をもっている.だから,エセ一流を見ぬくには,当人の代表的著作で判断できる.むずかしいことをむずかしく書くのは,だれにでもできるからだ.

経営の見通しをイメージできる良書

日本が世界に恥じるものはどんなものだろう?とかんがえたら,「英語」にいきついた.
かくも不得意な分野はほかにあるだろうか?
だれもが,あきらかに学校の英語教育は「失敗」あるいは「効果なし」とおもっているだろう.
外国人が,ほんの数年でかなりの日本語力を得るのに,われわれは,何年やっても成果がでない.
それで,おおくのできないひとは,すくないできるひとをみて,「語学の才能」がある,という.

まるで,ダメな会社がなにをやってもダメなようではないか?
ということは,どこかがおかしいのである.
どこかが間違っている,とかんがえるのがふつうだろう.
すくなくても,わたしたちは「日本語ができる」から,言語能力がゼロなのではない.

さいきんの「学習参考書」に良書がある.
たとえば中学英語の解説書のなかには,はるか遠くの大学受験もとおりすぎて,社会人になって英語を駆使できる状態から演繹して書かれているものがあるのだ.
だから,これまで教えてもらった説明とずいぶんちがうことが書いてある.しかも腑におちる.

「基礎は大切」だとだれもがいうが,「基礎」とはなにかを深くかんがえないと,あんがいと「歪んだ基礎をしっかりつくる」というおどろくべきムダな努力を強要されることになる.
まちがった基礎のうえに建てた建造物は,ざんねんながら価値がない.だから、取り壊しの対象になる.
建築の基礎は,完成から演繹してつくるものだということをわすれてはならない.

つまり,経営者は,将来像のイメージから演繹して現在の状態を改善することが仕事なのだ.
そのイメージができない,不得意だ,というひとは,わかりやすいと話題の中学英語の参考書をご覧になるとよいだろう.

悔しかったらがんばりなさい

英国元首相故マーガレット・サッチャー女史の発言として,いまだに賛否がいりまじっている「名言」である.
とくに,日本では,「冷酷だ」と不評である.

わたしの記憶では,首相就任後数々の政策(アンチ社会主義)を矢継ぎ早に打ち出しているなか,地方都市を訪問したさい,失業に苦しむ若者たちのデモ隊にむかって,「悔しかったら『勉強』しなさい」と言ったイメージがのこっている.「がんばりなさい」ではないのだ.
母親が息子を諭すという感覚と,首相になるまえの彼女の経歴が「教育相」だけだった,というふたつがかさなって記憶しているのだが,「記事」としての証拠がみつからないから不思議だ.

当時のイギリス経済は「英国病」とよばれ,西側先進国の「お荷物」になっていた.もちろん,「優等生」は,不思議と敗戦国の日本と西ドイツだった.
かつての「大英帝国」は,第一次大戦ごろにはすっかり老衰の域にあったから,第二次大戦ではもう瀕死の状態であるにもかかわらず,「チャーチルのはったり」が戦後あたかも影響力を発揮したように見せている.
子分のはずのアメリカから,戦費の借金返済を督促されると,もはやこれまで,というありさまだった.

ふりかえると,衰退がとまらない英国は,第一次大戦後からだんだんと「平等」という意識がたかくなって,「国家が富を配分する」という「本来の社会主義」を追求するようになる.これは,資本主義社会から社会主義社会に「発展する」とした,マルクスたちの「理論」がただしい,というふうにもみえたから,労働党だけでなく保守党も競って「社会主義政策」を打ち出した.
それが,「ゆりかごから墓場まで」といって有名になった.

そんな風潮にがまんできなくなったロンドン大のハイエクが,ヒトラーとの死闘中に書いたのが「隷従への道」(「隷属への道」もある)であった.

  

この本は,アメリカでリーダーズダイジェストの要約記事になって,爆発的に読まれた.もちろん,わが国では「敵国」でのはなしだから,この本の存在を一般人はしらなかった.
「アメリカ人」に大受けしたというリーダーズダイジェストの「隷従への道」を読んでみたいものだが,手にはいらない.

ところで,もう10年も前になるが,エコノミスト誌に「JAPAIN」という特集記事がでたのを覚えておられるだろうか?
「JAPAN」のあいだに「I」をいれて,「痛いニッポン」とした造語である.
当時,民主党の岩國哲人国際局長が,この記事に抗議し,「公式に謝罪を要求」したことも話題になった.英国側は,この抗議を「Joke」と受けとめたという噂もある.

政治家が外国(出版社)に,「公式に謝罪を要求する」という文化は,なにもわが国周辺国から,わが国がいつも言われているということではなさそうだ.
この「抗議」の根拠については,ご興味のある方はお調べになるもよろしいかとおもう.

わたしの興味は,かつて「英国病」と揶揄されたお国を代表する経済誌から,「日本病」と揶揄されてしまったことである.しかも,きっかり10年前だ.
ちなみに,日本ではマイナーだが,欧米ビジネス界では知らないものはいない「パーキンソンの法則」は,1958年に「ロンドン・エコノミスト誌」に発表された.ここでいう,「ロンドン・エコノミスト誌」とは,「JAPAIN」のエコノミスト誌(英字)のことである.

状況はかわったか?
たしかに変わった.10年前より,確実に悪化している.
もはや「JAPAIN」は,一般名詞化しているのではないか?

さいきんの日本の親は子どもに,「勉強しなさい」とはいわないそうだ.むしろ,「言ってはならない」らしい.
本人の「気づき」が大切だという.
「気づいた」ら,だまっていても勉強に励むようになって,難関校に合格できるそうだ.
結構なことである.

どうやったら「気づく」のだろうか?
まさか,それも本人任せなら,一生気づかないでおわってしまうかもしれない.
たしかに,子といえども他人の人生だから,親として子の人生に100%関与できないが,それはふつう「放置」といわないか.

日本はもっと「英国病」に学ぶべきである.
サッチャー女史が逝去したとき,英国でもサッチャー政策の後遺症による「恨み節のデモ」があったと報道された.
しかし,真っ向から対抗するはずの,労働党首でときの首相トニー・ブレア氏は,「サッチャー革命の基盤の上に現在の英国がある」と発言したのは注目であった.
国家負担で「ゆりかごから墓場まで」を追求しているのは,いまは日本だけだ.

やっぱり,「がんばりなさい」ではなく,「悔しかったら勉強しなさい」と言ったとおもう.

教師は競争にさらされるか?

医療の世界では,もうすっかりわすれさられようとしているのが,「パターナリズム」である.
つまり,医師が患者を上から目線で見下げ,患者はそんな医師に全幅の信頼をよせて不思議とおもわないことである.
「せんせい,おねげーしますだ.なんとか治してやっておくんなせー」
と,懇願する場面がそれだ.

もちろん,重篤な患者をかかえた家族からすれば,なんとかしてほしいと願うことにかわりはないが,きっちり病状の説明と治療方針についての説明がなされるから,納得できなければ「セカンドオピニオン」を求めることもいまではあたりまえである.
それだから,医師と患者の関係は,それぞれの「役割」がはっきりする時代になった.とくに,患者側においての「病人役割」ということも重視されている.

つまり,患者側に「降りたってきた」医師に対して,患者も,「自分の役割を果たす」ということだ.説明に納得すれば,きちんと投薬を飲むことからはじまって,まさに二人三脚での治療に応じる,ということでもある.

これにたいして,「学校現場」ではどうだろうか?
いまだに,教師の「パターナリズム」は健在ではないかとうたがう.
勉強がわからない生徒は,わからない本人がわるい.
おなじ授業をうけていて,できるものはちゃんとしているから,自分の授業方法は正しいのだ,と.

先週の4月17日,3年ぶりに文部科学省がおこなう全国学力テストが実施された.
この「テスト」の結果は,なぜか「生徒」の「学力の実態」だけの話題がおおい.どうして,「教師」の「成果」という目線がないのか?

進学のための「受験」というプロセスが,学校側による「選択」すなわち,生徒を選ぶのは学校側である,という基本的態度があるが,これをうたがう親もすくない.
しかし,「少子」という時代になって,この基本的態度のままでよいのだろうか?と,どこまで学校関係者はみているのだろうか?

じつは,親や本人から選ばれているのだ.
つまり、行動の順番は,その学校への入学を「志望」したから「受験」するのであって,そもそも「志望動機」が希薄になれば,だれも「受験」などしない.
すると,従来の,「いい学校」ということの定義「だけ」で,これからも大丈夫なのか?ということになる.

では,「受験」がない,いわゆる義務教育における公立学校はどうなるのか?
一部の自治体で,住居地域をこえて希望する学校への入学をみとめているところはあるものの,おおくのばあい,「選択の余地がない」のがふつうだろう.
つまり,これは「無競争」状態なのだといえる.

「学校」という単位で無競争であれば,さらにちいさい「校内」という単位での競争もあろうはずがない.
ここでいう「競争」の主語は,「教師側」のことであるから念のため.つまり,生徒本人や親から「教師が」選ばれるための「競争」がないということだ.だから,「テスト」は生徒を評価するもの「だけ」としかみなくてよい.教える側の能力は問われない.

これは,「予備校」や「学習塾」といった「民間」では,とっくに「ありえない」ことである.
すなわち,これら「民間」では,いかにして「成績」にたいして「成果」をだすか?がストレートに問われるから,「密度の濃い授業」でさえ,もはや「売り」にはならない.なぜなら,過当競争のなかで,「密度の濃い授業」は,あたりまえになってしまったからだ.
いまでは,「カリスマ講師」のライバル塾からの引き抜きにともなう高額取引が常識だが,公立学校における教師の引き抜きなどきいたことがない.

それで,できる子にとっては,「塾」が勉強の場所になり,「学校」は勉強の合間のレジャーランドになった.これを,競争がないことであぐらをかいた「関係者」というおとなたちが,かってに「ゆとり」重視としてしまった.
その結果が,「教育格差」である.

だから,ほんらいは,いかにして「学校」を競争させ,校内でも教師間でその「腕」を競わせるか?がテーマになるべきなのに,どういう論理か「教育の無償化」という,おどろくべきトンチンカンな議論をして,教育格差が生んだ「できない子ども」だったおとなをだまそうとしている.
しかし,これは教師の側にも都合がいいから,「教育関係者」で反対するものはいない.

これにたいして,この国の「財界」は,さらにおっとりしていて,「大学教育を充実させろ」と文科大臣に言ったというから,その鈍感ぶりにあきれる.
どういう人財がほしいのか?という,「企業は人なり」の構成要素にたいして,まったくの無頓着ではないか?
おそらく,このじいさんたちは,自社の採用を担当者に丸投げしているにちがいない.

企業も,採用にあたって「選ばれている」ということをわすれてしまったのだ.
すでに,労働条件の「事前提示」(採用にあたっての事前情報)が,1月からの改正職業安定法施行で実態として義務化されている.これで,応募者は事前に会社に問い合わせができるし,会社は答えなければならないから,ここで会社のほうが労働者からの選択の対象になるのだ.

おそらく,こんごは,この提示内容の充実がはかられるにちがいない.
金融商品を購入するとき,不動産は賃貸契約でも,たっぷりと「重要事項説明」をきかされる.それが,携帯電話の契約にまで拡大したのだ.
トンチンカンな「働きかた改革」という議論をしているが,「雇用契約」において,放置されることはないだろう.

もうはじまって,だれにも止められない人口減少時代,労働者から選ばれなければ企業は存続できず,生徒から選ばれなければ学校も存続できない.
地域に子どもがいないから廃校にする,ではなく,あの学校に行きたい,あの先生に教わりたい,にするのが,おとなのやるべきことだろう.

温泉の化学

「温泉宿の温泉知らず」
むかしからいわれているフレーズである.
現代において,これは「自社商品」にたいする決定的な「理解不足」になるから,経営に致命的なダメージをあたえて不思議ではない.

「温泉宿」や「天然温泉温浴施設」の業界団体が,スポンサーになってその「効果」にたいする「研究を支える」ほどの支援をしているはなしを聞かない.
また,「温泉税」を徴収する「自治体」という「地方政府」も,そのような研究にいかほどの支援をしているのだろうか?

たとえば,少子で生徒募集に窮した昨今の私大を,自治体が「公立大学」に経営変換させて生き残りをはかる事例がみられるが,「コンセプト」に乏しければ,自治体の財政負担が重くなるばかりで,経営変換の目的合理性を失うことは確実だろう.
本来,文科省の役割がどうあるべきかの議論が必要だが,文系ではなく理系重視,という方針からすれば,地方の元私大で理系のなかに,「温泉研究」があっていい.

テーマは,「温泉と健康」がのぞましいから,理系でも医系である.
西洋医学という主流医学は,「温泉療法」をどうみているのか?
ヨーロッパでは,入浴よりも「飲泉」が重要視されているらしいが,日本での伝わりかたはゆるやかな気がする.

温泉がややこしいのは,地下から湧いてくるからだ.
残念ながら,いまこの瞬間に地表にでた「温泉の湯」が,どのような経路でやってきたかを知る方法がない.
だから、基盤として地質学の知見が必要となるだろう.
これはある程度素人でも想像がつく.

たとえば,わたしの住む神奈川県には丹沢山があって,そのふもとには「強アルカリ性」の湯がでる温泉地がある一方,箱根には硫黄分が強い「火山性温泉」がある.丹沢山系を八王子当たりで地図を対象に折り込むと,笹子トンネルを抜けたあたりにある,山梨県の笛吹川沿いにも「強アルカリ性」の温泉郡がつづく.

伊豆半島を代表する,三島の「三嶋大社」は,そのむかし,「伊豆島」が本州と衝突してできた山々をまつっている.さらにそのまえには,「丹沢島」が衝突したというから,あんがい神奈川県の丹沢温泉と笛吹川温泉は兄弟筋にあたるのではないか?
じっさいに入浴すると,その類似性に気がつくし,温泉成分表の中身も似ているようにおもえる.

このブログでも書いたが,「ミネラル」とは,元素のなかから「水素」「酸素」「炭素」「窒素」の四元素を除いたものすべて,にあたる.
「温泉成分表」の「陽イオン」と「陰イオン」の表示から,温泉の効能も導き出すことができるから,中高の「化学」の授業で是非あつかってほしいものだ.

それで,大学では,造山運動と地質を背景にして,温泉成分の知見を健康に応用してもらいたい.
とくに,温泉のミネラルについては個人的にも興味がある.
入浴による皮膚からの吸収,飲泉による経口からの吸収が,どのような作用をするのか?
それが,健康医学的にどういう効果なのか?の実証研究である.

「ミネラル不足」という「現代の栄養失調」につて本ブログで書いたが,「キレる子ども」や「引きこもり」などの原因として,臨床から指摘されてきている.
また,外国の研究では,「認知症」「自閉症」への効果もあるという.

すると,「温泉」をたのしむ,というのは「レジャー」として捉えがちであるが,そうではなく,かなり「湯治」のイメージへとシフトするから,経営にこまった温泉宿などの,あらたな「本業」がみえてくる可能性があるとかんがえる.

現代の静かな「労働争議」

東京駅の自販機に「売切」ランプが続出している.その理由は,「労働争議」だ,という記事がある.
ツイッターでも,たくさんのリツイートがある(数日前で述べ800万人がみているという)から,そちらからご存じのかたもおおかろう.

いまどきの「労働争議」は,静かである.
むかしのは,「派手」だった.
しかし,上述のようにむかしにはなかったバーチャルな手段で,むかしとはちがう影響力を発揮している.
これを,会社側はどうみているのだろうか?と興味がわくが,あんがい「むかしながら」な反応らしい.

朝倉克己「近江絹糸『人権争議』はなぜ起きたか」(サンライズ出版,2012)という,当事者(新組合の組合長:当時)が書いた本をながめて,その会社側の対応ぶりを,冒頭の事例とくらべると,「進化」というイメージとはほどとおく,むしろ「退化」すらかんじてしまう.

ちなみに,近江絹糸の労働争議は,当時の「財界」も「恥じ」て,財界としても会社経営陣への圧力をかけたという事情まであるのだ.
三島由紀夫が,小説「絹と明察」に仕上げた,じつにおおきな「社会的事件」だった.

東京駅での労働争議は,ネット社会でのおおきな反応とはべつに,実社会での反応はおおきいといえるのだろうか?
記事は,実社会のひとたち向けだろうから,これから,というところなのだろう.
だが,伝える記事の内容は,おだやかではない会社側のかずかずの妨害行為である.

気になったのは,残業代の代わりなのか?面談を実施して根拠不明の金額が提示され,同意書をとるというが,「社長からの厚意」という説明もつくという点だ.
そもそも,会社から支給されるべきもので残業代などをふくむ「給与」は,「社長の厚意」で支払われるものではない.

この会社は,大手飲料メーカーの子会社とのことだから,きっと,「社長」は親会社からの出向者かなにかなのだろう.まず,「オーナー」ではなかろうから,サラリーマン社長であると想像できる.
すると,このひとは,親会社にもどると,またサラリーマンになるはずだ.しかし,そのまえに,これまでのサラリーマン人生で,給与は社長からもらっていると信じていたということになる.また,この会社の社長をとりまく幹部も,きっとそれをうたがわないひとたちなのだろう.

まったくのナンセンス集団が,経営幹部として存在していたものだ.
かれらは,近代資本主義社会に存在してはならない「中世封建社会」から,時空をこえて,まちがって今にやってきたひとたちである.
それは,「所有」と「占有」の区別ができない,ということで証明できる.

近代資本主義社会の根本をなす絶体のルールが,「所有権」は不可侵である,ということだ.
かんたんにいえば,自分のものと他人のものとの「区別ができる」ことである.
ここで,「占有」とは,他人のものをあたかも自分のもののように使っている状態をいう.しかし,いかに「占有」していても,それが「他人のもの」であることが変更される,つまり,自分のものになってしまう,ということはない.

ところが,中世封建社会では,この区別が曖昧なのだ.
武士に「本領安堵」のお墨付きをあたえるのが,武士政権たる「幕府」の存在意義である.
鎌倉幕府は,「貞永(御成敗)式目」において,所有権があるはずの土地を他人に二十年間以上占有されたら,所有権が移転する,ときめた.このルールは,いまだわが国の民法にて健在なのだ.
だから、わが国は,はたして近代資本主義社会なのかという疑問をはさむ余地がある.

しかし,たとえば「鑑定団」で,ただでもらったものに高額評価が出て,それを持主が売却し現金を得たところで,だれからも文句をいわれない.(税務は別だ)
これが,近世といわれる江戸時代でも,「殿から拝領した壺」を子孫が勝手に売却していたのがバレたら,もしかしたらおとがめになって,最悪,家が断絶させられるかもしれない.

もし,レンタカーを借りて,それがずっと借りっぱなしになっても,「借りている」のであって,「自分のもの」になったわけではない.
むかし,レンタルビデオを借りたものの,返却するのをすっかりわすれ,数十万円の請求を泣く泣く支払ったという事例がけっこうあった.

さて,本件にもどると,会社はだれのものか?という根幹に触れるのが,給与を「社長の厚意」とする発想にある.これでは,殿と家臣の関係になる.
近代資本主義社会での会社は,株主のもの(所有)である.
経営者は,株主から,経営という業務を託されているにすぎない.

だから,社長には会社の全資産を配分する権限があるようにみえるが,そうではない.社長は,会社を「占有」しているにすぎないから,もしおおきな資産配分の事案があれば,それは株主総会にはからなければならない.

労働者は,労働という商品を会社に売っていて,会社は,自社と雇用契約がある労働者から,労働という商品を買っている.このとき,「未払い」があるとしたら,それは会社の負債になる.
もちろん,労働という商品は,時間と質からできているから,あらかじめその料金はきまっている.

だから,労働者が「先に納品」してしまっも,成果とともに月末に給与が支払われるのはあっていい.つまり,前払いでなくてもよいのだ.
この論でいけば,「残業代」も,「先に納品」した,労働という商品になる.
だから,会社には支払義務が生じるのである.

もし,会社が残業代を支払いたくない,とするなら,「残業を発生させない」という指示をしなければならず,もちろん,それが合理的な指示であることが条件になる.つまり,働きかたと働かせ方の合理的な方法の提示である.
この事例の会社は,労働者の要求をみとめた労基署と,「見解がちがう」そうだから,まずは,業務上残業を合理的になくす方法を提示しなければならない.

戦後の(日本が途上国だった)高度成長期に「労働争議」となった経営者とおなじ発想で,今日もかくなる恥知らずな会社=経営者が存在することが,珍しいではすまされない「闇」である.
それにしても,「働きかた改革」が社会の話題になっているのに,「財界」の反応がみえてこない.
せめて,近江絹糸のときのようなリーダーシップを,財界もとるべきではないか.

一方で,こないだJR発足以来の「労使協調」がこわれた,JR東日本労組は,本件にどのような対応をしているのだろうか?
残念ながら,「記事」からはみえてこない.
鉄道の駅,というだけでなく,起きている現場が「東京駅」という「顔」なのだから,巨大労組が支援しないのか?という疑問である.

財界も,労働界も,この問題をどうするのか?
他人事でとおる話ではないはずだ.
また,労基署と「見解がちがう」で世の中とおるものなのか?もし,それが「とおる」なら,わが国は本格的に,「あたらしい中世」という時代区分で,世界経済から異質の存在になるだろう.

特許は役に立たない

ニュース記事で,特許取得件数や申請数が話題になることがある.
しかし,ほんとうに「特許」にはメリットがあるのだろうか?
最先端の技術にかぎっていえば,かなりの研究成果が「特許申請」をしていない.
そのかわり,「極秘」あつかいになっている.

特許を申請するには,その技術を図面等であきらかにしなければならないから,特許制度を悪用する不届き者にとっては,盗み放題になるという側面がある.
もちろん,このようなことにならないように,不正をしたものにはペナルティーが用意されているのだが,国境をこえて他国での「不正利用」となると,かんじんのペナルティーを要求することに多大なるコストを要して,泣き寝入りとなることがでてきた.

つまり,「特許制度」がグローバル化というなかで,崩れだしているのである.

いっぽう,「特許制度」そのものに反対の姿勢を表明したのがハイエク「個人主義と経済秩序」である.

「自由」を最上位の価値感とする彼には,「発明者を保護する」と称して,「発明」そのものを「国家管理」にしようとする「自由への侵害」とみえたのだった.

だれもが「特許制度」の有用性を認めていた時代の「異論」であったから,ハイエクの主張はみごとに無視されたが,上述のように,国境をこえて悪用されるようになった昨今,ハイエクの見直しがおこなわれだしている.
これに,「商標権」や「著作権」もくわわると,「知的財産権」というおおきなかたまりになってきて,その提示する問題はたいへんやっかいな様相をしめすから,なおさらハイエクが再読されるようになった.

残念ながら,飲食業では,「料理レシピ」は知的財産としてみとめられていないから,「著作権」の対象にならない.
実務では,「料理レシピ=作り方」が問題なのではなく,作り方にかんたんには表現できない「技術」が重視されるからだ.
つまり,料理人の「腕前」ということであって,それは,「無形文化財」という方向になる.

そのわりには,料理人の地位は高いとはいえまい.
これは,まだまだ社会が,料理人のすごさ,を認識していないということなのだろう.
かつてヨーロッパの宮廷では,使用人のトップが「料理長」だった.
あのモーツァルトやベートーベンも,宮廷おかかえの作曲家であり演奏家であったが,宮廷における音楽家の地位は,ほぼ最低クラスだった.
だから,食卓の音楽は,料理長が指示していたにちがいない.

国家が介入すると,まずは「資格制度」にてをだす.
すでに「調理師」は国家資格だから、この細分化がテーマになるはずだ.
「級」や「段」を設けるかもしれない.
さらに,栄養士との結合もありえる.
とにかく,人口が減少するから,そのうち「栄養士」だけでは生活がなりたたなくなるかもしれないからだ.

「自由主義」的な知的財産権の特許制度論があるなかで,無形文化財という分野の国家介入は,ずっと介入しやすい分野だろう.
ほんとうにちゃんとした料理が,これからも食べられるのか?

しかし,ファストフードやコンビニ・スーパーのお惣菜のなかにある「添加物」によって,味覚が破壊された現代人は,伝統的なダシにふくまれる「うまみ」を感じなくなるかもしれない.
すると,伝統的日本料理の分野で,政府がみとめる「有段者」の料理を,はたして「さすが」とみとめることができるのか?単に,権威主義によって,「おいしい」とことばにするしかないのか?ということがおきるかもしれない.

ましてや,幼少時から「添加物」で味覚が破壊されたひとばかりとなれば,料理人すら「味覚」があやしいということになる.
すると,味の調合はAIの役目になるのか?
それで.本格的料理が「まずい」とされたら,問題になるのはひとではなくAIの方だろうから,本格的料理の運命はもはや風前のともしび状態になる.

だから、「自分事」なのだ.
ぜんぜん別の問題のような,知的財産権の問題然り.
あんがいはやく,正念場がくるかもしれない.

「食育」は成功しているか?

喫煙禁止を家庭内に持ちこもうとする「健康増進法」と,それによる都道府県条例が話題になっている.
わたしは,10年前まで喫煙者であったから禁煙には賛成だが,国家権力や公権力が家庭内や個人の自由にまで侵入することについては,強い違和感をもっている.

役人のやることは縦割りで,しかもオリジナルをコピーする.
これで国会を通過しているのだから,おなじパターンなら反対できない,という論法だろう.
議員はそうした理屈によわいから,官庁ごとににたような法律がたくさんできる.
「食育基本法」というものもそのパターンだろう.

この国は,国民が国家に依存しているが,愚民化がうまく行きすぎて国家による統制が,あんがい困難になってしまうこともあるから皮肉なものだが,「愚民」というキーワードでかんがえれば,やはりほめられたことではない.
国がさまざまな「組織」や「資格」をつくって,「食育」を「国民運動」にする,
この「国民運動」という手法は,戦前・戦中のやりかただという認識をもつひつようがある.

「戦争反対」を強く主張するひとたちでも,「国民運動」には熱心なことがある.
どちらの行動も,どこまでかんがえて行動しているのか不明だが,「よいこと」におもえてしまうのが恐いことなのだ.
それは,古今東西,国家は「国民の善意」を利用するからだ.そして,国家権力を強化する.

小学校の給食で,いったいどういった「食育」がおこなわれているのか?と問えば,管理栄養士が組み立てた「献立」をもって,食べさせている,だけではないか?
その献立が月単位で一覧になっている「献立表」すら,親がどこまで読み込めているのか?
クラス担任の教諭とて,子どもたちと一緒に「食べる」というだけで,どのくらいの「説明」をしているのか?

つまりは,教室では「うまい」「まずい」だけが本音であって,まさか外国人が絶賛する「配膳」と「後片付け」をもって「食育」といっているなら,それこそ茶番である.
しかし,「親」世代も,給食世代だから,じつは「食育」世代なのだ.
「献立表」の記載が読み込めない,つまり,じぶんの子どもがどんなに考えられたメニューを食べているのかに興味がいかない親だから,給食の自己負担分すら支払わないのではないか?と想像するのだ.

中学や高校の「化学」で,生活のための「化学」を学ぶようになっていない.
「消化」というのは,完全に化学反応だから、そのもとになる「食物」や「食材」が,どんな組成で,それを「食べる」とはどういう意味なのか?
「女子高生」も卒業後10年もすれば「母」になる可能性がある.
「男子高生」も「父」になるが,「イクメン」などといっているわりに,子どもになにを食べさせるのか?ということの知識が,学校で教育されないのだ.

それなのに,「食育」といってはばからないのは,いったいどういう精神構造なのか?
「だから予算をつけなければならない」
これが,役人の発想になるのだが,自分事ではなくて他人ごとになっていることが問題なのだ.

「なにを食べるのか?」は自由である.
しかし,おとなとちがって,自分で選択することができない子どもに,「なにを食べさせるのか?」は,おとなの責任である.

休日の朝,ファストフード店にいけばよい.
離乳食レベルの赤ちゃんから小中高生が家族の朝食として,あるいは若いお父さんと来店している光景をみることができる.
こうした顧客層に対する,店員たちの献身的なサービスは,一見きもちのよいものなのだが,顧客が自分からすすんで購入した「食べ物の正体」をかんがえると,不気味なものがある.

人生の早いうちから,味を覚えさせろ!
さすれば,一生涯にわたっての顧客になる.
一回300円の購入でも,(週に何回)×(70年間)では,300万円をゆうに超える支出となる.

奇跡的に無能な経営者

デービッド・アトキンソンさんの単刀直入ないいかたは,もしかしたら日本人だったら「毒舌」でもすまされないかもしれない.
しかし,事実は事実としてみとめることも「大人」のうちである.
または,それが的を射るにあまりにも適切だから,ショックでぐうの音もでないが,しばらくすると怒りがこみあげてくる,というのも「無能」ゆえなのかもしれない.

経営者が無能でも業績がよい,なんてことはあるのか?
こたえは,ある,だ.

単純モデルでかんがえるのは,経済学の基本だ.
たとえば,リカードの比較優位説は,りんごとミカンの貿易モデルで証明できる.
だから,単純モデルで経営をかんがえたとき,経営者が無能なら,業績は悪化するのは当然だ.
しかし,単純モデルのまちがいも経済学はみつけだした.
これを,「合成の誤謬」という.

本来は,たとえば,インフレが多額のローンを持つ個人にはありがたい意味をあたえるが,社会全体では困りもの,というように説明されるものだ.
一企業として,経営者が無能でも,その社会や国がおかれた条件によって,経済成長することはありえる.

もちろん,ここに「優秀な官僚」もひつようない.むしろ,「官僚は無能」なのがふつうだから,このモデルに官僚のでばんは最初からないのだが,経済成長が官僚のおかげであるように仕向けた城山三郎のような作家が,「国家依存」というおそるべき勘違いを社会に埋め込んだ.この罪は相当に重い.

明治以来の日本経済は,資本蓄積がほとんどない状態からの出発をよぎなくされたから,世界を相手にした日本側の努力は,低賃金と長時間労働しかなかった.
つまり,低賃金で長時間労働をさせることが「経営」であったから,「経営者」は自社においていかに低賃金で長時間労働をさせることができるかをかんがえ,実行すればよかった.そして,いまとちがって,この時代は資本蓄積がないから,経営者は資本家たりえた.つまり,オーナー経営者の時代で,サラリーマン経営者の現代とはちがうことも注意したい.

「女工哀史」という有名な本がある.
おおくのひとが勘違いしている本でもある.それは,生糸の生産における女工たちが,いかに搾り取られたという酷い話だと思い込んでいるからだ.
たしかに,おおきなテーマはその通りなのだが,個別のはなしになると映画やテレビドラマのような「プロレタリア文学」の世界ではない.

世界遺産の「富岡製糸場」にも説明があるが,工場内には最新の医務室があり,そこには国籍をとわず,当時としては一流の医師や看護体制があった.
女工が病気になっては,生産量が減るからである.だから,健康管理にはたいへんな気をつかった.つくられた映像の強制労働的な表現は,作りばなしである.

また,近隣の村々から,女工を募集しなければならないから,強制労働のうわさがたてば,とたんに応募がなくなる.すくなくても,初期の製糸場では,後世の常識ではないことが常識だった.
成績優秀な女工には特別手当が支払われたから,ひとりの優秀な女工が成績をあげると,実家にはいまでいう「御殿」が建った.それほどの報酬が支給された.
これは,品質とスピードという競争の結果である.

しかし,これらの努力よりも,おおきな効果をかんたんに生むことが遙か遠い欧州で起きた.
それが,第一次大戦だった.
「大戦景気」という「努力」とは別の次元でおきたことで,奇跡的にうまくいく.
つくればその場から売れていく.夢のような事態であった.すなわち,バブルである.

このときの「景気」による資本蓄積が,重化学工業化を促進させ,「列強」としての格付けに貢献することになる.
大戦中の四年間で,わが国貿易額は4倍になった.年率にすれば,40%以上の成長率である.昭和の高度成長期でさえ10%超までだったのだから,その迫力はいまでは想像も困難だ.
都市労働者が吉原の郭から工場へかよった,という逸話は真実だった.

これを支えたのが,女工であった.
景気に目がくらんだ愚かな資本家=経営者は,とうとう女工を奴隷のように扱って,国内に結核蔓延の下地をつくった.農村の疲弊で,娘の口減らし先を選べなくなってもいた.

大正から昭和の初めは,大戦の終了と,関東大震災,それに,天保以来の大飢饉という「自助」ではどうにもならない三段波状攻撃を受けて,わが国は別の国になる.

「持たざる国」が,「持てる国」たちと同格の競争に負けまいと,「持てる国」を真似た国策を追求した.
このあたりの事情は,戦後GHQでわが国労働法の基礎をつくりにやってきた,ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡 日本』にくわしい.また,本書の冒頭にあるように,マッカーサーが日本語版を「発禁」にしたことでも有名になった本である.なぜに,発禁とされたのか?は読み進むとわかるだろう.

ちなみに,マッカーサーの副官でもあったウェデマイヤー将軍の,『第二次大戦に勝者なし』は,「勝者の目線」での分析でありながら,じつにむなしくせつないことが,淡々と綴られている.この本の出版が,原著の出版からいかほど「遅く」日本語となったのか?をかんがえることも,戦後日本の言語空間についてのひとつの思考実験になるだろう.

 

敗戦で丸裸になっても,朝鮮戦争と,東西冷戦という世界構造,それに安い石油がくわわった,三段波状の奇跡的ラッキーで,わが国経済は拡大の一途を辿る.これに,西ドイツ経済もおなじくするところが,「戦後世界経済」の肝ではないか?全体主義的敗戦国が,西側の「優等生」になる.
日独ともに,空襲で焼け野原になった工業地帯の復興は,最新設備の導入というラッキーをもたらし,空襲で焼けなかった戦勝国の設備より必然的に有利になってしまったのだ.

もちろん国がすすめた「傾斜生産方式」が,民間設備投資の自由を奪うじゃまをしたが,戦後の混乱が行政機能もマヒさせたから,傾斜生産方式が「打ち出される前」に,奇跡の準備はできていた.
このラッキーをいう専門家がすくないのは,商工省から通産省になった役所からの「配分」が減らされる恐怖からではないかと疑う.
戦後復興の栄光ある経済政策,傾斜生産方式をやりとげた通産省・経済官僚の勝利,とは,たんなる「神話」=「ファンタジー」である.

まさに,「奇跡」は,戦前という時代にも,戦後という時代にもやってきた.
その戦後の奇跡をつくった,東西冷戦も,安い石油もいまはない.のこるは,朝鮮戦争の残滓である.
西ドイツは「東」の負担を背負ってなお欧州をけん引しているから,なにごともなかったわが国の凋落こそが,真の「実力」となってあらわれている.

平成不況の真因は,バブル崩壊でもなんでもなく,「奇跡の時代のおわり」に対応できなかったことであろう.
しかし,いまだにおおくのひとが,あれは「奇跡」だったとおもっていない.
「勤勉」はなにも日本人の特許ではないが,世界で一番働いたのは日本人「だけ」だとうぬぼれた.この勘違いこそが現代の「奇跡」であり,「無能」の証拠である.

労働生産性が先進国でビリなのは,今に始まったことではなく,高度成長期すら,である.
たしかに当時の日本人もよく働いた.しかし,その働き方は,いまと同様「能」がなかったということだ.ムダによく働いた.
すなわち,これは「働かせ方」の無能がさせたのだ.

それを隠そうと厚化粧で誤魔化したのが,官僚の「優秀」さと勤労者の「勤勉」というからくり方便で,数えるほどしかいない「名経営者」が華を添えた.
そうやって,勤労者は,よいしょされてコロッとだまされて久しい.

実力をとわれる時代になったがゆえに,低賃金で長時間労働という,この国のなりわいである本当の顔がおもてにでてきた.
それを,「優秀な政府・官僚」が法律でなんとかしようとするのは愚かであるとだれもいわない.
そこで,英国人のアトキンソンさんが登場した.

これは「奇跡」なのだろうか?

人生のバランスシート

「幸福」をいかに計測するか?という問題は,ひとの「心もち」次第だから,じつはうまくはかれない.
おなじひとでも,あるときは「幸福」で,あるときは「幸福でない」とかんじるだろうし,その度合いが「浅い」ときと「深い」ときがあって,組みあわせは無限だし,いちいち記録できないから,なにげなく生きていれば気にしたりなどしない.

ブータン王国が,GDPでは世界最貧国レベルにあるにもかかわらず,国民幸福度では世界最高だったときが生前退位した前国王の時代にあった.
いまでは,ブータン本はたくさんあるが,その前国王が国王として来日し,話題となったのは昭和天皇の御大葬だったから,もう30年も前になるが,地方自治体の公立図書館として最大級クラスの横浜市立図書館で3冊しかなかった,と記憶している.

どうして覚えているかというと,そのとき,わたしが勤務していたホテルに国王陛下一行が滞在しており,接遇担当していていたのが,わたしの敬愛する先輩で,もう故人となったその先輩から直接ご一行の興味深いエピソードを聞くことができた.それで,どんな国なのかと図書館にいって「ブータン」で検索したことがあるからだ.

ご一行は,公式行事がないときも,旺盛なパワーで日本をリサーチしていた.
ある日,国王から直々に,「日本の通勤風景を観察せよ」というご下命が出て,おつきのひとを先輩が案内して,東京駅丸の内口に立ったことがあった.ちょうど,中央郵便局あたりだという.
そこで,3時間以上「観察」していたというから,その熱心さにもおどろく.

ホテルに戻り,国王に報告するから一緒に謁見することになったそうだ.
「だれもがこわいかおをして,無言であるいており,たくさんの靴音だけが聞こえる不気味さだ」と報告すると,直接の会話をゆるされた先輩に国王が,「おまえは幸せか?」と突然質問され,即答できずにこまったといっていた.

たしかに,外国の国家元首からいきなりそんな質問をあびたら,かんたんに「わたしは幸せです」とこたえられるものか?かといって「不幸です」ともいえない.だから,英語が達者だった先輩でも,返答に窮して背中に汗がながれるのを感じたとはなしてくれた.それで,「おまえは幸せか?」とわたしに質問するから,わたしも相手が国王でなくても「なるほどこたえられない」ことをしった.ふだん,かんがえたことがない質問だからだ.
そんな質問をする国王がいる国はどんな国なのかと、図書館に行ったのだ.

国連がしらべたという「国民幸福度」で,日本は世界の中位よりやや上ぐらいで,GDPがおおいからといって,その割には日本人は幸福ではない,ということが話題になったことがある.
どんな調査をしたのかという問題は話題にならず,なんとなくわかったような調査結果を,もっともらしく報道していたから,おぼえているひともおおいだろう.

当時のブータン王国は農業国家で,食料自給率は100%をこえていたから,「飢えることはない」という前提があった.自給自足の生活にちかいから,だれもが「貧乏」だということで,羨望の先がない.それが,「幸福感」を生みだしていたろうから,江戸時代の日本に似ている.
しかも,70年代まで,「鎖国」していた.

じつはみんなあまり幸福ではない,ということで妙な安心感をえる.
これが,日本人なのだ.
それは,江戸時代の感覚が,いまだにのこっているのではないか?ともおもえる.
そこで,よくいわれるのが.「臨終」にあたっての「幸福感」である.

どんなに貧乏でも,お金持ちでも,臨終のときにめぐる感覚を「バランスシート」にすると,ほとんどのひとの「バランス」は一致する(=つまり帳尻はあう)という説がある.
だれがどうやってしらべたのかしらないが,一種の「願望」という「観念」であろう.

ヒマラヤの高度差を利用して,ダムをつくらずに小川にも小型発電機をおいて,ほとんど工業がないから,あまった電気を周辺国に売電して外貨を得ているのがいまのブータンだ.
これを,「持続可能社会」とか「再生エネルギー」とかいうのは勝手だが,ブータン人の研究は,後進性を逆手にとって,先進国の失敗の研究を怠らないところにある.

たとえば,日本の植林の失敗(杉ばかりを植えた)から,ヒマラヤの生態学研究で得た,多様な植物を植林することを学び実行している.

だから,かれらは「観念」で生きてはいない.
「リアリティ」を理解したうえで,「観念」に還元しているのだ.それでも,豊かさをしったブータン人は,もう過去にはもどれない.かれらの国の問題はあんがい深刻だろう.バランスシートがバランスしなくなったからだ.

ここが,日本とちがう.いまの日本人には「観念」の目線しかない.
いまの日本人にはバランスシート(複眼でみる)という感覚がないのではないか?
つまり,これは「人生の『単式簿記』」である.
だから,「損益計算書」だけの人生になる.
それが,国家の経営にも,企業の経営にも反映される.

残念なことだ.