生類憐みの令を笑えない

ばかな独裁者がばかな法律で国民を苦しめたとして,世界的に有名なのは五代将軍綱吉による「生類憐みの令」だ.
これを習うと,だれでもが愚か者「綱吉」の名前を覚え,独裁政治の怖さをしる.
そして,人間より「犬」や「蚊」までが大事にされた本末転倒の倒錯を笑うのだ.

しかし,バランスが崩れたひとには画期的な法律にみえて,動物愛護も極端にはしると「生類憐みの令」になりかねない.
それが「鯨類」保護の国際問題にもなるし,犬や猫の殺処分ゼロ運動にもなる.
そして、「保護」という概念が拡大に転じて,「地球環境『保護』」も極端にはしると,あたらしい生類憐みの令にもなる可能性がある.

ひとつひとつに異論があるわけではない.
ここでいいたいのは,バランスが崩れたひとたちが極端にはしることの恐怖である.
たとえば,犬や猫の殺処分ゼロをいえば,その数字の拾いかたではなしがおおきく変わる問題がある.

従来は,都道府県などの各自治体が,むかしは保健所,いまは動物愛護センターという施設で,大量の殺処分をおこなっていた.
とくに,街のペットショップで売れ残った「在庫」としての子犬や子ネコが,だんだん育って「子」でなくなってしまうと,こうした施設に運ばれて処分されていたことがある.

こうした「業者」の「業務用在庫」の持ち込みを,施設が受け入れ拒否できるように法律が改正されたら,より深刻な事態になっていまにいたっている.
つまり,ペット生体の「流通システム」という視点を考慮しての「法改正」ではなく,事象だけをみての改正だったから,急に処分場の入口が閉鎖された「だけ」という事態になった.

施設側は,もう「業務用在庫」の処分をしなくてよいから,正規の「殺処分数報告」では「激減」が記録されるのは当然である.それで,とにかく「ゼロ」ならよいのだ,になった.
しかし,物理的に業務用在庫が「減った」事実はないので,引き受け業というあたらしい業種が生まれて,対象となる生体自身の運命から「悲惨」がなくなることはないどころか,一生粗悪な環境に放置される「生き地獄」が出現した.

スーツを着た国会議員たちの「議員立法」だったというが,残念を通り越したお粗末である.
だから役人が起草すればいいと,いいたいのではない.
この国の国会議員は,立法府という権威をいいことに,ほとんどの法律は役人が起草することになってしまって,議員が起草するという本分を忘れたことを嘆くのである.
だから,この法改正を起草した議員たちには,はやく次の法改正での改善を強く期待したい.

先日は,これと反対の,役人による起草とおもわれるとんでもないニュースがあった.
「レジ袋の有料化」である.
環境保護が歪んでバランスが崩れたひとたちによる極端の極地だ.
この国を仕切る文系の高級官僚が,いよいよ「化学」という人類の知見を無視して,「独裁」にはしる例である.もはや「野蛮」の領域ではないか?

民間には残業を減らせと命令するが,もっともブラックなのは官庁の残業だろう.
高級官僚でも働き盛りは課長級であるのは,民間とかわらない.
男であろうが女であろうが,このクラスの官僚はまともに家に帰れない生活をしているからか,なぜか「レジ袋」だけが目の敵にされるのだ.
自分で買い物をしたことがないのだろう.

先月書いたが,野菜を買うとプラゴミがふえるのである.
レジ袋はすくなくても「ゴミ袋」というべつの使い途が用意されているが,野菜の包材はそのままゴミである.
つまり,日本で生活をしていればかならず疑問におもうのは,野菜の包材からでる山のようなプラゴミの方である.
だから,役人の,この生活臭のなさは異常である.

国民生活を苦しめる「政策」が,なぜか国民受けするのは,化学をわすれた「科学技術立国」の素顔になった.
まるで戦時中の標語が,ゾンビのように生き返って,「お国のためなら我慢する」が「環境のためなら我慢する」にすり替わっただけである.

江戸時代の将軍は,愚かさで歴史に名を残したが,ほんとうは将軍をささえる官僚機構が幕府にもあった.
しかし,封建制の専制政治ゆえ,歴史における愚かさの責任は,この将軍ひとりが背負うのだ.

すると,民主主義を標榜する現代にあって,化学を無視した国民生活を苦しめる法律が,将来どのように「愚か」であったかを,「犯人は誰?」に展開すれば,それは「日本国民である」という結論がかんたんに見出されることになる.

今さえよければそれでよい,とする刹那主義が,将来に責任があることをすっかり忘れているくせに,将来の地球環境のために「レジ袋を有料化」すれば問題が解決すると信じるのは「偽善」であり「詭弁」である.
流通業界に経費削減の儲けをつくって,税収をあげようとする姑息な手段にすぎないものを,「地球環境」などという大言壮語に惑わされるの愚でしかない.

あゝ,この国の凋落がとまらない.

いまさら「√」の発見的教授法

電卓についてまえにも何度か書いたが,講演会で横道にはなしがズレたときにする「√」の話題が,おもわぬ好評をいただくことがある.
日本の数学教育の「落とし穴」だと感じる瞬間でもある.
すでに世界の主流であるという「発見的教授法(heuristic method)」への「拒否」なのか「無知」なのかしらないが,純粋理論一辺倒で,それがどんなふうに実生活に役立っているかをおしえない.

わが国のこのやり口は,圧倒的に教師有利(生徒不利)のたちばを維持できるという点で,古来からの「諭して教える」という「教諭法」の漢字の意味をそのまま体現しているから,ある意味開き直ってもいる態度である.
先生たちの労働組合としては,この楽な方法を批判する気はないのかもしれない.

しかし,数学の抽象的論理を,さいしょからさいごまで「抽象」のままの解説で,子どもの頭脳に押し込もうとするから,たいがいの人数が理解不能になって,そのまま数学嫌いになってしまう.
だから,あえていえば不良品を大量生産するシステムになるから,これを批判反省して,世界は「発見的教授法」を採用したのだ.

日本の学校教育は,まさにTWI研修の精神に反しているということがわかる.
わが国の製造業では「常識」にあたるものが,サービス業に導入されず今日まで及んでいると書いたが,そのサービス業に「学校教育」という分野もふくまれることがよくわかる.

学校の先生のおおくが,新卒者採用だから,なるほど製造業での実務経験など期待する方がどうかしている.
そういうわけで,人的サービス業という分野に新卒者採用で就職すれば,理論の具体的利用方法をしらないままで幹部になるということが異常ではなくなるのである.

そこで,ビジネスにおける「√(平方根)」のはなしだが,その前にひとつ,道具についても触れておきたい.
「実務用電卓」といわれる「ふつうの電卓」には,二種類あるということだ.
「√」キーが「ある」ものと「ない」もの,である.

電気量販店の電卓コーナーに行くと,あろうことか「ない」ものを「経理用電卓」と表記していることがある.
「経営の理屈」をもって「経理」とすれば,まちがいなくこれは「誤記」である.
「√」キーが「ある」ものをかならず選択するのが,すくなくても経営幹部の幹部たるゆえんである.

ビジネスの場面で「√(平方根)」を必要とするのは,「年利」をかんがえるときになる.
たとえば,本年の数字と昨年の数字を比較して,その「伸び率」をしりたいときには,
本年の数字/昨年の数字-1
で計算する.このあとに100をかければ「%」表示になる.

では,本年の数字と一昨年の数字を比較したいときにはどうするのか?
本年の数字/一昨年の数字-1
では,年率の平均にはならないから,割り算部分を「√」のなかにいれて計算しなければならない.
これを「幾何平均」と呼んでいるが,呼称はこのさいどうでもよい.

世の中は「複利」でできている.
一昨年を計算のスタートにすれば,一昨年 → 昨年 → 本年,と数字はたどる.
だから,一昨年から昨年の伸びを踏み台にして,昨年から本年の数字ができている.
それで,この伸び率の平均がしりたいのだから「√」をつかうのだ.

かんたんにいえば,二年前の数字との比較だから「二乗・平方」の「根」がひつようになる.
実務での表など,よく目にする数字の書類には,一昨年の数字もよくあるから,気を利かせて幾何平均も表内にあればいいが,あんがいとないから,そのときにちょっと電卓で確認したくなる.
このとき「√」計算ができないと,お手上げなのだ.

「√」は,「二」乗をもとにするので,この例では「二」年前の数字につかう.
だから,2の二乗の4年前,2の三乗の8年前の数字なら,「√」キーを二回,三回とおせばこたえがでる.
しかし,そのほかの年数は計算できないから,自在に「累乗」と「累乗根」の計算ができる関数電卓の出番がここにでてくる.

関数電卓は専用の計算キーがたくさんあって,一瞬ひるむが,ビジネス場面で三角関数はつかわないから,目立つ位置にある「Sign」「Cosign」「Tangent」キーは,まず一生必要ない.
そういう意味で,ムダな機能に高いお金をはらうのはもったいない気もするけれど,「利率」にしてどうなの?という疑問をかんたんに解決してくれる文明の利器である.
ボケ防止に,あいた時間で三角関数の問題を解いてみるのも,一興ではあるから,まるでムダではないだろう.

スマホの無料アプリもあるけれど,やはりビジネスの場面では,押し間違えがない「実機」をつかいたいものだ.
ふつうの電卓なら「√」キーの「ある」もの.
関数電卓は,量販店なら980円で手にはいる時代に生きている.

私立医大の入試不正は不正か?

公正であるべき医大の入試に不正があったと騒ぎになっている.
しかし,そんなに大きな「事件」なのだろうか?

医大というところは,法科大学院と同様で,卒業時に「国家試験」がある.
つまり,医大卒業という学歴「だけ」では,社会的にも意味がない.
国家試験に合格しなければ医師になれないからだ.
これが,医大を他の一般大学と区別する重要な要素になっている.

さらに,問題が指摘されて「調査」対象としているのは「私立」ばかりである.
「私立」とはすなわち「私塾」であって,それが経営上,卒業生の関係者を優先して入学させるのはある意味当然ではないか?
むしろ,国公立に不正がないかを調べるべきで,調査対象の選択からしておかしくないかとおもう.

つまり,文部科学省という役所の,権力維持のためが第一優先事項としておこなわれているのではないか?
これに正義をふりかざして,一方的に「不正」だとまくしたてるのは,「私塾」を無視した事大主義である.

現役と一浪には加点があって,それ以外にはなかったことに,大学当局は問題意識がうすかったという.
その理由は,これまでの経験から,入学後の「伸びがちがう」ということがあって,教師の認識として合意があったのだろう.

ここで関係者がいいたい「伸び」とは,一般大学でいう成績ではなく,国家試験合格の水準に近づく,という意味でなければ辻褄があわないのだが,報道側はちゃんとここが理解できているのか不明だ.

あくまでも,国家試験合格の実績が大学側の「格付け」になるはずだ.
経験値から,「伸びがちがう」のであれば,問題意識がないこともうなづける.
すると,どこかで聞いたはなしをおもいだす.
自動車メーカーの「検査不正」のことだ.

たしかに,「不正」をそのまま擁護するつもりはないが,国内出荷分が完成検査対象で,輸出対象は完成検査を要しない,という二重のルールの存在が気になるのだ.
そして,糾弾されたメーカーは,30数年間も(ほとんど「不正」と気がつかず)「不正」をしていたのだから,ふつうにかんがえると,なんのことかわからない.

くわえて,こうした「不正」による事故も報告されていないとすると,国内には手厚く安全が保護されているが,外国分には手薄でよいという意味にもとれるから,一種の人種差別ではないか?
さらに,安全が手薄な輸出対象の国からこの件でのクレームがない.

大騒ぎして,メーカーを叱りつけているのは,その30数年間も「不正」に気づかなかった,国交省(旧運輸省)であるけれど,国民目線からすれば,第一に国交省の仕事がずさんであることが糾弾されねばならず,第二に,そんな「検査」がほんとうに必要なのか?ということだ.
外国政府がもとめない検査はやっぱり不要なのに,国内でその不要な手間が強制されつづければ,当然それはコストになって,結局は消費者が負担させられる.

私大医学部の入試「不正」と,自動車の完成検査「不正」の構図が,たいへんよく似ている.
私大を叱りつけようとする文科省の高級官僚が,自分の子息を無理クリ入学させたことから,国民目線をそらせようと躍起になっていることも,そっくりなのだ.

むしろ,これらの「不正」問題でわたしが興味あるのは,中身なのだ.
医大の「伸びがちがう」ということの中身である.
自動車会社なら,工程上の作り込みについての,前工程から後工程に引き渡すときの「検査」の中身である.

まえに書いた「TWI研修」の思想である,「相手が覚えていないのは自分が教えなかったのだ」に注目すれば,日本における医大の教師陣がこの思想をどうとらえているかを知りたい.
また,問題発覚すらなかった「TWI研修」の世界的権化である,トヨタ自動車と,問題が発覚した自動車会社のちがいを知りたい.

「TWI研修」は,アメリカ軍が日本の産業界に教えてくれたものだったが,そのアメリカに日本から逆輸入され,現在はとくに,医療分野での応用がめざましいという.
これを,日本の医療関係者がどのくらい知っているのか?ということなのだ.

実力がない者が,「不正」で入学したとしても,授業についていけなければ卒業できない.
だから,外国の「私立大学」は,人間関係と寄付金の多寡で入学が許可されるのは,むしろ「ふつう」のことではないか?
それで,本人がちゃんとがんばって勉強して単位をとれば,正々堂々と卒業できる.

くわえて,もしその学校に「TWI研修の精神」があれば,どうやったらわかるのか?を教師陣も研究するから,より,本人は卒業に近づける可能性がたかまる.
ましてや,国家試験を合格しなければならない医大なら,入学のことでいまやっている議論と,大学側の謝罪がほんとうに必要なのか,おおいに疑問なのである.

若者の減少もふくめた平時における強烈な人口減少という,人類史上経験のない事態にすでに突入しているわが国にあって,重要なのは病的に潔癖な「公正さ」をもとめることよりも,成果をだす仕組みを追求することだろう.

「職域奉公」という体質

戦中の昭和17年(1942年)にでた,橘樸「職域奉公論」によると,近衛文麿の大政翼賛会ができた当時にはやりだした用語であるという.
だから,ちょうど昭和15年(1940年)ごろにあたる.
国家総動員法ができたのは昭和13年(1938年)で,第一次近衛内閣のときだった.

すなわち,「職域奉公」とは,すべての職業が国家の戦争遂行という目的に協力することをいうから,これがわが国職業人の「道徳」になったのだった.

このころにつくられた「戦時体制」が,21世紀の今日にも連綿とつづいていることを告発したのが,野口悠紀夫「1940年体制」だった.
いまの戦後最長になりそうな総理がいう,「戦後レジームからの『脱却』」というフレーズが,じつは「戦後レジームへの『回帰』」だとわかる本だ.

もっといえば,戦後体制とはおどろいたことに,戦時体制の延長にすぎない.

 

この本は初版と増補版とがあって,初版+増補版最終章で全部読めるようになっている.最終章が差し替えられているので,増補版一冊だけでは漏れが生じるので注意したい.

さて,政府がすすめる「働きかた改革」に財界アンケートでも半数が「迷惑」と回答したのがニュースになった.
その「働きかた改革」の浅はかさとは,戦時体制としての「職域奉公」を,政府が押し進めたことを忘却しているからである.

ところが,民間は,それがすっかり道徳として「血肉」になってしまったから,両者のズレは二重らせん構造のようにからみあっている.

たとえば,わが国を代表する証券会社である野村證券の創業の精神には,「証券報国」,「職域奉公」がはっきりとうたわれている.
これを,現代風の「事業ドメイン(領域)」として解釈しているのは,必然であろう.
あえて意地悪くいえば,だからNOMURAはゴールドマンサックスのようになれない,のではないか.

ゴールドマンサックスは,その経営幹部が歴代,アメリカ連邦政府要人になるほどであるが,社が掲げるものに「証券報国」も「職域奉公」もあるはずがない.

この例からもわかるように,戦前からつづく伝統的なわが国の企業は,いちように「職域奉公」という思想をかかえたままでいる.
あたかも,それは日本人の宗教心のように,ふだんはほとんど意識することはない.しかし,ことなにかあるときに,忽然と信心深くなって,効きそうな神社仏閣にお参りするようなものだ.

組織では,「職域」が「聖域」になる.
だから,他部署の人間は,そこに足をふみいれることすら許されない.
これをパロったのが,2008年の映画「ハッピーフライト」における,航空会社の地上職が機内に入るシーンだった.

しかし,現実は,当事者間でけっして笑えない問題だ.
よしんばこれが,社内不正を調査する場面なら,おなじ社員同士が検察と容疑者のような関係になる.
だから,もし,事件が収束しても,部署間の軋轢はけっして緩むことはなく,それは個人間の恨み辛みになるものだ.

「第三者委員会」という調査機関による調査は事実上の経営放棄だとまえに書いたが,そうでもしないと上記の軋轢をマイルドにする方法がない.しかし,あくまで「マイルド」だ.
つまり,まじめな企業のまじめな部署ほど,「職域奉公」の意識が高く,自分たちの職場を「聖域化」させることで,一体感という精神の安定を得ようとするのである.

もちろん,ここにはもはや「お国のため」という意識はないだろうが,「会社のため」に変容しただけで,なにが会社の利益になるのかが不明なまま,経験と勘で「奉公」してしまう.
それででてくる職場の概念が,現状維持,なのである.
頑迷な「守旧派さがし」をしても,ピンとこないのは,こうした事情があるからだ.

むかしながらの方法を盲目的に維持する.
それがもっとも「間違いない」と信じることで,会社に貢献できると確信する.
こうして,職場の改善はすすまないから,生産性に変化はおきない.
むしろ,生産性に変化をおこさないことが,「聖域化」した職場をまもることになっている.

経営者は,それではこまる.
それで,改革に「聖域はない」といってはみるが,どうしたらよいのか打つ手がみえないから,もっともらしく「全社一律」という落としどころにおとす.
できもしないことをわかっていても命じるのが仕事と自己欺瞞して,結局できないのを部下のせいにする.

会社の利益とはどんなことで,職域奉公では達成できないとトップが説かないと,現場は理解できないことを理解できない.
しかし,そのためには,どんな仕組みが必要なのかをかんがえて,その仕組みを用意しなければならないから,現場にいうまえに経営者がやるべきことが山ほどある.

伝統的企業の従業員から昇格した経営者ほど,自身が職域奉公に染まっているのだと,最初に認識しないと,やるべきことも見えないで任期をおえるだろう.
それをまた,後任や後輩,あるいは新入社員が黙ってみているのである.

マニフェスト・デスティニー

訳せば「明白なる天命」という.
アメリカ人の西部開拓「正当化」の標語だった.
このことばで,「インディアン」の虐殺が正当化されたことは,歴史のしめすところである.
いま,「ネイティブ・アメリカン」と呼んだところで,かれらに土地を返還したことはいちどもない.

大西洋と欧州旧大陸には関与しないのが,「モンロー主義」でしられるアメリカの引きこもり政策だから,西海岸のその先における太平洋について,「モンロー主義」は対象範囲ではない.
それで,ハワイを落とし,フィリピンを落とした.

西へ西へ,とにかく西へ.
ベトナムをこえてイランからアラブ中東に向かって,アフリカのリビアにたどりついたとき,地球は丸いことに気がついたのか,ここでアメリカの西方移動の動きが止まった.
リビアの悲惨は,イタリアによる支配からはじまる.

この映画「砂漠のライオン」は,史実に基づいていて,ずいぶんと長い間イタリアで上映禁止になっていたから,観ておいて損はない.
イタリア人のなかに,ムッソリーニがどれほど残っているのかを聞いたら激怒するだろうが,戦勝国になった戦後も政治的判断が優先できる国であった証拠のひとつである.

あのカダフィー大佐がイタリア訪問したときに,史実だから主人公の写真を衣服につけ,主人公の子息を同伴したというエピソードまであるが,はたしてこの物語の主人公がカダフィーに与したかは疑問である.

そんなアメリカと正面から戦った「西方の国」は,「インディアン」をのぞけばこれまで日本だけだったが,ここにきて中華人民共和国と貿易戦争に突入している.
先月9月26日,ニューヨークにおいて安倍首相とトランプ大統領の首脳会談でだされた,7項目からなる日米共同声明の6番目には,日米が欧州も味方に巻きこんでこの貿易戦争に立ち向かうことがかいてある.

「第三国の非市場志向型の政策」というかきかたは,外交文書として直接名指しはしないものの,あきらからに国名が特定できるから,かなり踏み込んだものになっている.
過去,日米貿易戦争をしかけられたわが国からすれば,どんな方法が「痛い」のかを知っているから,今回ほぼ名指しされた国からすれば,かなり嫌な感じのはずである.

それでか,こまったときだけ擦りよる性格の彼の国が,やっぱり擦りよってきたのか,韓国済州島での国際観艦式に「旭日旗」問題で不参加としたわが国にあわせるように,理由不明なまま不参加とした.
まさかとおどろいたのは,韓国側だったろう.
あちらの外交部は,先月の日米共同声明を読んでいなかったのだろう.

弱小国として,外交の重要性は軍備以上であることは常識であるから,残念をとおりこした状態だといえるだろうが,それが「国民の要請だから」ということなら,だまって受けいれるしかない.

結局,アメリカは第二次大戦の日本との戦争理由になる,中国市場がほしいのにままならぬ,という状況がいまでも解決されないことにイラついている.
だから,その北に鎮座するロシアがじゃまで,価値感がことなる中共をいじめるのである.
この状況は,この150年間,おおきく変化していない.

変化したのは,唯一,わが国がしゃしゃり出ない,ということだ.
清国が中共になったのも変化に見えるが,軍閥という目線での変化はないからだ.
しかし,今回の共同声明では,ずる賢いことをアメリカに指南する役になったから,陰湿なわが国官僚にとっては,薄笑いと舌なめずリしたくなるようなステージが用意されたわけである.

おそらく,中国に入れ込んでいるドイツが,日米に反抗する素振りをみせるだろう.
ドイツ銀行の筆頭大株主は,中国企業だからだが,その中国企業の資金はアメリカに預けてある.
アメリカがこれの凍結をほのめかせば,ドイツは喉元のとげが抜けて万々歳なので,日米欧の連携が強化される素地はある.

これから年末にかけて,さまざまに入り組んだドラマが展開される.

デパートは本当に不要なのか?

国内だけでなく外国でも「デパート」という業態が,ネット通販におされて苦戦を強いられてひさしい.
ずいぶんまえから「斜陽産業」といわれてはきたが,ここにきて国内大手が地方都市の店舗閉鎖をあいついで発表し,「不要産業」とのレッテル化がすすんでいる.

本ブログでデパートを最初に書いたのは,昨年,旅館の売店との比較を論じたときである.
「欲しいものがない」という状態を共通とした.

それは,デパートが自分で商品を仕入れることを忘れて,売り場面積を売るという不動産業化した時点で,「デパート」というカンバンを自分たちで降ろしたことにはじまる.
これに,「消化仕入れ」という日本ローカルの商慣習が,デパートを仕入れ先支配の構図において,一方的有利な「商売」を可能にしたから,ちゃんとした競争にさらされなかった.

一時期,有利だと誰もが信じた商習慣が,市場の実態から遠ざかる原因となって,真綿のようにじっくりとやさしく時間をかけて首をしめつけられれば,確実に死ぬ,というおそろしさである.
まさに「ゆでがえる」.
デパートの凋落は,他業界の経営者に,大変貴重な教訓をあたえてくれるものだ.

国内大手の縮小均衡がどこまで続くのか?をかんがえると,意外な意思表明をしているのは最大手の「三越・伊勢丹」である.
他社が,従来のやりかたのまま縮小をつづけているのに対して,自社仕入れを増やす,という方針をあきらかにしているからだ.

これは、買い物客として期待したい.

そこで,「再生」という視点でもかんがえてみたい.
「万年赤字」という状態は,市場から遠ざかったことを意味する.
だから,経営理念というその企業の存在理由(最上位概念)にさかのぼって再考するのが「再生」のセオリーである.

なんのために百貨店は存在するのか?
生活者の豊かな生活を実現するための,物質面からの支援であったはずだ.
だから,ものがない時代,自動的にデパートは繁栄した.

それから,人々の所得がふえると,より質の高いものを「高価」という代償を負担して追求するひとと,コモディティ化した物品ですませるひととに分化して,圧倒的有利にたったのが総合スーパーだった.

ところが,高品質のものも,コモディティ化した物品も,その範囲が拡大して,ものがあふれる時代になると,「選択」という手段がとれるようになって,さらに,生活時間の拡大から,コンビニが成隆する.
ものだけでなく,時間も選択できるようになった.

そして,ネット通販という究極があらわれた.
物理的な商品展示スペースを必要とせず,あらゆるものが揃うようになったのだ.
しかし,ここにきて,その巨人であるアマゾン.コムが,リアル店舗を開店させている.
これはどういうことか?

リアル店舗での買い物とは,ネット注文である.
だから,リアルなこの空間は,人気商品の展示場なのだ.
その「人気商品」とは,ネット販売におけるデータから分析されたものだろう.
訪れた客は,現物をみて納得できれば「ポチッと」スマホから購入する.

すると,あらためて既存デパートの「自社仕入れ」とは,どうするのか?気になるところである.
もしかすると,階毎にちがう売り場になっている概念から変えるのか?
根本的見直しなら,そんなことが起きてもおかしくはない.
むしろ,生活シーンにあわせた高品質な提案があっていい.

もっとも,大型雑貨店という業態もすっかり定着しているから,その困難さをおもうとデパートの苦難はつづくだろう.

身も蓋もないはなしだが,わが家には思わぬ金額のデパート商品券があることに気づいた.
デパートがなくならないうちに,なにかと交換しなければとおもいついた.
それで,家内と何年かぶりにデパートに出かけた.

お目当てはハンディーなコーヒー・ミルである.
旅先や出張先の部屋で,くつろぎながらお気に入りのコーヒーを飲みたい,というのが当面の一致した要望だったからである.
それで,当然にネット検索し,事前知識をもって出かけたのである.

電車賃を払って,横浜を代表するデパートに向かった.
生活雑貨フロアーは,面積は広大だが種類がどこまでのバリエーションなのか?
たどり着いたコーナーには,5,6種類のコーヒー・ミルがあって,そのうちハンディーなタイプは2種類だった.

たったこれだけ?
事前知識が崩壊する.
もしかして他の場所にもあるかもしれないと,係のひとに聞いてみると,やはりこのコーナーだけだった.

結局,大型雑貨店に足が向いた.
エスカレーターからいきなり目に飛び込んだのは,ハンディーなコーヒー・ミルの納得の品揃えだった.
ここでは,デパート商品券がつかえない.しかたなく,現金での購入だ.

我が家のデパート商品券は,デパートという業態があるうちにつかいきれるのだろうか?
家内は,地下の食品売り場でつかう手があると冷静だった.

口に入るものではない.
なにかいいものはないのか?
デパートのバイヤーにエールを送りたい.

優秀な役人は火事場太りする

静岡県の銀行がしでかした「不正融資」問題に,金融庁というお役所が「(一部の業務に対して)業務停止命令」をだした.
「不正」をしていたやからが,創業家をふくめ多数排除されたものの,不正ができた土壌をキレイにするまで,不正に関係した仕事をしては「いけない」,と犬に命令するようなことがおきている.

たしかに,監督官庁の「行政」として,当然のことのようにみえる.
しかし,これとて釈然としないのは,不正をして「損をしたのは誰か?」ということをかんがえると,貸したカネが回収できなくなった銀行と,甘い見通し(ここにも不正がある)で借りたカネで事業をやって儲からなかったひとではないか?
銀行の損は預金者と株主という出資者に対してどう責任をとるのか?という問題であって,一方,不正で借りたひとの損は自分でなんとかするのが「おとなの社会の掟」である.

だから,銀行の損はやらかしたやからたちが,私財をもってその損害を賠償するのが筋だ.
つまりこれは,「民事事件」である.
それで,銀行という会社組織に対しての「不正行為」そのものは,「刑事事件」として罰するのが筋だ.
釈然としないのは,この「民事」と「刑事」がいまだに曖昧なままだからだ.

それに,当然だが、企業としての銀行に対する社会的責任も問われる.
一部の経済誌では,金融庁に廃業命令をだすように期待する記事まであるが,まったく見当違いもはなはだしい.
どうして,国家に依存するのか?

こういう記事が書ける記者の脳内構造が,政府を「御上」とみる前近代の価値感に犯されていると自己分析すべきだ.
預金者が預金を別の銀行に移したり,株主が株を売却したり,別の銀行が借入をしている取引先に営業をかけたりして,結果的に立ちゆかなくなって「破綻」すれば,それまでのはなしである.
自由主義における「市場」からの「制裁」,という機能を機能させずに,国家が制裁機能をもつほうが異常である.

つまり,利用者が自由に判断すればよくて,国家が決めることではない.
よしんば,この銀行だけに取付け騒ぎがおきても,それがわが国の金融システムに決定的ダメージをあたえることはない.
むしろ,こんなことで役人に万能な廃業の権限をあたえることが,わが国金融システムの健全性にきずをつけるだろう.

こんな「依存体質」が国民にあるから,金融庁という役人集団(長官も政治家ではなく役人である)が,やけに張り切って,この夏に代わったばかりの長官が,本件の「反省」の弁を述べた.
それはそうだろう,このひとの昇格まえは「検査局長」だったのだから,事前に「内部告発」が役所にもたらせれていたのにこれを活かせなったのは直接的な「落ち度」にちがいないからだ.

この銀行の不正が発覚したのは,ことしの年初だった.現長官にとって,アリバイはない.
マスコミはここにツッコミを入れて,いつもの「責任問題」にするのかとおもったら,あんがい「冷静」で,きもちが悪い.
長官を「泳がせ」て,より強力な金融機関支配をやらせようというのだろうか?

10月9日の報道によると長官の発言は,

何が金融庁に欠けていたのか,改めて体制を構築する.
第三者の目で取締役会の議論を確認し,経営者の目指す理念や戦略が営業の現場で生かされているかも検証していく.

である.

まさに余計なお世話だ,というよりも,企業のガバナンスそのものを信用しないという態度は,まったく資本主義の制度の無視ではないか.
金融庁のどこに,こんなことができる権限があるのか?
「欠けていた」ものが問題なのではなく,「有り余る権限」が問題なのだ.

株主から委嘱された個々の取締役と,その取締役で構成される取締役会の決定事項が,社内に浸透するかしないかは,取締役およびそれをささえる各種役職者の業務そのものである.
これでは,まるで「ゲシュタポ」ではないか?

  

金融は経済の要である.
これを自由に民間が経営するのが,資本主義の基本中の基本だが,国家がこれに介入し,役人が経営責任をとる仕組みもないまま,勝手に監視し,命令をくだすのが許されるというのは,資本主義の放棄である.

その証拠が,金融庁が銀行の監督官庁なのに,不正をみつけられず(ちゃんとタレコミがあったのに握りつぶして),その責任を一切とらないばかりか、担当責任者が昇格するのである。
まさに火事場の焼け太りではないか。
そして,責任回避のために企業を痛めつける構図は,原発事故の始末とまったくおなじである.

そして、資本主義を憎み、国家転覆による社会主義化・共産主義化をもくろむ左翼マスコミがこのお先棒をかつぐ姿は、絵にかいたようなグロテスクである。

内閣どころか、国の自由経済体制がひっくりかえるような無謀な論に、だれも反対しないのか?

こんな原理原則が平然と蹂躙されて、なにが景気対策で、なにが消費税問題なのか?
とうとう、政府が役人によってむき出しの社会主義(全体主義)経済体制への舵をきってしまった。
じつはこれとて,いまにはじまったことではない.

平成時代とは、将来、日本国が資本主義の矛盾という歴史的必然によって、流血革命をせずに「維新」という民族の歴史的知恵をもって社会主義を選択した、人類史上画期的な偉業をなしとげた、と絶賛されるのだろう。

ほんとうは、担保価値しか融資の判断にできない前資本の「質屋」を、近代的資本主義下の「銀行」と呼んでごまかしていたところに、マイナス金利という人類史上初めての「厄災」と呼んでもいい事態打破のために、無駄に貸し付けることを選択しただけのお粗末を、資本主義の矛盾、といって熱狂する奇人たちのファンタジーである。

そして、もちろん,わが国の金融機関を近代的銀行ではなく,「質屋」のまま進化させず固定させる方策を推進したのがノーパンしゃぶしゃぶにうつつをぬかした旧大蔵省銀行局であって,金融監督庁から今につづく金融庁そのものである.

この根底に,役人からみた愚かな国民がいるのである.能力がないから質屋のままでいろ.あとは,なんとかしてやるから,という発想だ.
だから,マスコミがいう,「護送船団方式」は放棄された,ことはなく,役人が面倒をみれなくなったら廃業させて,関与した役人たちに責任という被害がおよばないようにしただけである.

しかし、こんな歴史解釈もないままに、日本経済は二度と復活しない社会主義(全体主義)経済を選択してしまった。
どん底まで落ちて、その後,東欧自由革命のような変革が起きればいいが、その保証もいまはない。

陛下が退位をご希望されたのは、こんなこともあったのではないかと、畏れ多くも拝察するしかない。
次の時代の困難は,かつて経験のない過酷なものになるだろうことだけは確実性がたかまっている.

黒字企業には赤字がわからない

ちょっと贅沢なはなしだが,しっかり黒字をだしつづけている企業には,どうしたら会社が赤字になるのかわからない,ということがある.
赤字続きで,いつ資金が尽きるかの心配ばかりしている企業には,そんな黒字企業の「わからない」が,わからないにちがいない.

黒字企業にあるものが,赤字企業にはほとんどなく,赤字企業にあるものが黒字企業にはほとんどないから,どちらも相手が理解できないのである.

安定した黒字が続いていて,経営者の頭脳もクリアさが維持されているなら,なにをどうしたら赤字になるのか?見当もつかないだろう.
逆に,なにをしても儲かってしまう,とかんがえるにちがいないし,そんなことをウズウズとかんがえたら,もっと儲かる方法を思いつくだろう.

それは,ビジネスモデルがしっかり確立しているからでもあり,だからこそ,問題になりそうな点に早く気づき,予防の手当をたえずおこなうことが習慣になっているからである.
結論は,優れた経営者の存在,ではあるが,こういうひとたちは,アンテナが高く自社の内外の情報取得に長けていることに特徴がある.

では,なぜに自社の内外の情報取得が早く,中身も正確なのか?といえば,あたりまえだが,本人の人間性が良質だから,そして,目的をもって内外のひとと接しているからである.

外にあっては異業種交流の場でもある商工会をたとえにすれば,商工会のなかでの役職や活動にはあまり興味がなく,さまざまなひとたちからの「ためになる情報」をもとめて参加している姿がある.

内にあっては,従業員を大切にするのは文字どおりで,目標設定をおこたらないし,そのための教育研修もあたりまえとしているから信頼が厚い.こうして,現場の従業員からの提案などがふつうにあるから,正しい情報を早く得ることができて,悪い情報ほど,いち早く届くのはこのためである.

こうしてみると,めったなことで失敗しないようになっている.
いや,失敗しないように自社組織を造り込んでいる.
だから,どうやったら赤字になるのかわからないのである.

この真逆をいくのが万年赤字企業である.
ところが,鏡のように正反対ではない.
万年赤字企業の目標は,万年黒字企業になること,ではないからである.

では,どんな目標なのか?
第一が,存続.
第二が,黒字化(単年度)
である.

だから,黒字企業がやっている様々な「黒字の原因」になる行動や施策に深い興味がない.
「存続」という低いハードルで汲々としているから,そのはるか上のハードルが目に入らないのだ.
むしろ,走り高跳びと棒高跳びのような,別の競技に見えるだろう.

それで,黒字企業の姿には,投資した設備の違い,が目立って見えてしまって,あきらめる理由づくりに邁進するのだ.
従業員の評価まで,あちらは優秀,こちらは凡庸と決めつける.
経営者が凡庸なら,従業員も凡庸になる原理の存在をしらない.

夢も希望もないことをあえていえば,赤字企業の経営者には,真剣味や追いつめられているというリアル感が決定的に不足している.
だから,金融機関に呼ばれて「突然」融資の打ち切りを告げられて,はじめて気づくか,それが「突然」だとして,金融機関を逆恨みするかのどちらかになる.

しかし,テレビドラマではない現実世界では,はじめて気づこうが逆恨みしようが,会社が生き残れないことは確かである.
まさに,この期に及んで,ということになる.

これを,黒字企業の目からすれば,どうして「突然」なのかすら理解できないだろう.前兆となる数値は,いくらでも事前にあったはずである.
そうした警報に,なんの対処もしなかった,とすれば,もはや理解の外である.
ゲームのルールばかりか,ゲームのやり方すらしらないで人生をかけたゲームをやっている姿に,驚愕するしかない.

人口減少と,それにともなう人手不足は,こんご深刻になることはあっても軽減することはない.
だから,人手をぜったいに必要とする人的サービス業こそ,採用の応募がある会社にしなければ,時間の問題という運命がまっている.

そのためにも,第一目標が「存続」では,もはや存続を放棄したとみられてもしかたない.
「永続」という原点にたって練り直す必要があるのだが,すでに理解できないのかもしれない.
家族経営のばあい,これは一家で破綻することになるから,結末は悲惨につきる.

せめて,血縁者を別の職業につけるなどして,リスク分散をするのが得策というものだ.

「本質論」を軽視する安易さ

問題の本質を知ったところで何になるんだ?
やるべきは,とにかくいまここにある問題をなくすことだ.

よく耳にする話であって,論法でもある.
どこで耳にするのかといえば,破綻懸念先や破綻した企業のトップないし幹部の言動である.

不思議なことに,こうした企業では,その部下たちも,「おっしゃるとおり」とかんがえることである.
それは安易な発想ではありませんか?と質問すると,たいがいの従業員はキョトンとする.
それで,「えっ,どうしてですか?」というひとと,「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひととに分かれる.

「やっぱり,へんだなとはおもいますけど,,,」というひとがおおければ,現場中心で再生の可能性はある.
しかし,「えっ,どうしてですか?」というひとがおおいと,かなり手を焼くことが予想できるので,コンサルとしては引き受けに躊躇したくなる案件である.

問題の「根っこ」が,「本質」の本質である.
だから,根こそぎ治さないと,いつでも再発の可能性を意識しなければならず,再生プログラムにとって,おおきな「手戻り」が発生する原因にもなるのだ.

ひとは納得して行動したい,という欲求がつねにある動物で,強制を好まない.
納得がない,あまりに性急な行動を組織に強いると,「パワハラ」と指摘されかねないし,そうでなくても当初予定の結果がでにくい.
また,「卒業」して,外部コンサルがいなくなってから生じる,かずかずのトラブルに,「本質」から責めることが定着していないと,またおなじ結果になりかねない.

だから,「本質」をかんがえ,それから対処する,という手順の定着こそが,事業再生の最も重要な「本質」だといえる.
つまり,「根治」だ.

「目先の問題」とは,おおくは「問題の根」からでた「枝葉」にすぎない.
つまり,目先の問題をとにかくなくす努力とは,植木屋の刈り込み作業を意味する.
しかし,その枝葉が枯れていたり変色していれば,根や土に問題があると理解するのはプロの植木屋として当然のことである.

すなわち,目先の問題を刈り込み「だけ」で解決する努力とは,植木屋としても中途半端なはなしになるから,組織経営として成り立つものではない.
にもかかわらず,「本質」を軽視するのはどうしたことか?

ひとつは,解決までの時間と手間がかかると勝手に思い込んでしまうことだろう.
こうした発想をするひとは,過去の職業人生で,「本質的な解決」を経験したことがないか,その経験がすくない,あるいは,本質を見誤って見当違いをした不幸な経験を,いまだに「本質」からのアプローチだと信じてしまっていることがある.

「本質」をはやく見きわめて,解決策をさぐるという方法を,若いうちからやらされる企業組織で育つと,手戻りがないから根本治療なのに早く済むことをしる.
そして,同様の問題は発生しないから,組織の健全性も確保できるという,おおきなメリットをえる満足感も得ることができる.

このふたつを比較すれば,「本質論」を軽視する安易さとは,個人の資質のほかに,組織風土もおおきく関係することがわかる.
つまり,安易な組織には安易な発想をするひとが増殖するのである.
これは大切で重要な視点である.

だから,いまようのベンチャー企業を立ち上げる,正しく貪欲な経営者は,その年齢に関係なく「本質論」を重視する.
いい会社とそうでない会社を検討すれば,たちまちにこのポイントがあらわれるからである.
儲かる会社にするには,本質論を起業の最初から取り入れるから,業界でいえばIT企業の企業内研修が,本質の「抽出方法」に重点をおいているのは「ITだから」ではないことがわかる.

一方,宿泊業などの人的サービス業では,「接客」がとにかく重視される傾向が伝統としてあるから,「本質」よりも「その場の解決」が必要なのは理解できることだ.
しかし,「その場の解決」が無事終了した後に,「本質」がめったに議論されない.
こうして,受身だけの姿勢を貫いた結果,「本質」についての議論の方法すら不明になってしまうことがある.

とはいえ,それでも営業はできるから,「本質」を忘れたツケは,忘れたころにやってくる.
これが,「安易」でいられる理由である.
そして,問題の本質を追究せずに,世の中や景気のせい,あるいは意識的な訓練などさせたことがないほぼ素人の従業員たちのせいに「安易に」するのである.

バブル崩壊いらい競合会社のおおくが退場したから,いまなんとかなっている.
しかし,これからの人口減少による人手不足が巻き起こす,人件費増の必然に対応することは困難だ.
優秀な人材ほど,この問題の本質に安易な経営者より先に気づくから,けっして選ばれない職場になるだろう.

人手不足倒産とは,もはや他人事ではない.

旅館業後継者は理系が望ましい

「サービス工学」という学問分野がある.
文字どおり,サービスについて「工学」する学問であるから,実務の参考になる.

 

研究者ではなく,実務者としての「経験」をかんがえれば,従来,旅館業の後継者は大手ホテルへ率先して就職したものだ.
ところが,この作戦には落とし穴があって,分業化された大手ホテルでは,配属される部署によっては,将来の経営者としての経験としては不足になってしまうことがある.

もちろん,その大手ホテルすら,「経営者」不足に悩まされているから,社内昇格という日本的システムが十分機能しているとはいえない.
つまり,経営のプロを育てる,という意志と環境が脆弱なのではないかと疑われても仕方ないのが実態であろう.

問題は,修行の場としての就職先を選ぶまえに,「理系」であることが重要ではないかとかんがえる.
すなわち,「工学的」に発想する訓練の有無が,決定的に重要ではないかとおもうからだ.

むかし,生命保険と損害保険の壁が撤廃された直後のころ,巨大な契約をもっている生保に対して,損保のひとたちは畏れをもっていた.
ところが,誤解をおそれずにいえば,その感覚はあっという間に崩壊した.
「相互交流」とかいう流れで,生保のひとは損保を,損保のひとは生保を売る,という業務経験が原因だ.

おなじ「保険」ではあるが,テクニカルな分野での決定的ちがいがある.
それは,損保にある「事故査定」業務である.
いうまでもなく,交通事故や火災での「査定」は,保険金支払いに対しての根拠になる最重要事項である.

簡単にいえば,生保勧誘員の「保険のおばちゃん」に,これができないことが判明したのだ.
くわしくいえば,勉強についてこれないひとがおおかったのは,主婦兼業の限界といわれた.
また,生保のばあい,加入者の健康状態や,保険金支払いにかんしての実際の病状や死因について,医師という専門家がかならずかかわるため,自分で「査定」することはない.

それで,すっかり損保側が生保側をバカにしだしたのだ.
なぜ,いままで,生保と損保には「壁」があったのか?をかんがえると,「保険」という二文字は共通するが,「本質」という二文字がことなっていた.
もちろん,生保の業務が「ちょろい」といいたいのではないので念のため.

外食業界で,イタリアンレストランを全国展開している大手企業は,大卒新入社員の採用にあたって「理系」しか対象にしていない.
「大卒」という学歴のもつ「幹部候補」の意味合いが,はっきりしているから,けっして「兵隊」として社歴を積んでもらおうという意思もないだろう.

つまり,幹部ないしその候補者が,全員「理系」ということの意味をかんがえれば,自社ビジネスモデルの改善をふくめた業務の評価を,日常的に「数字」をつかっておこなっていると予想させるのだ.
そこには,「工学的アプローチ」があるとかんがえるのは自然である.

日本のホテル業界で,本格的に海外進出を果たしているのは,大手高級ホテルでは数社・数カ国という実績状態で,さいきん大手ビジネスホテルが積極的展開をはじめている.
これは,ビジネスモデルが比較的単純なため,「工学的アプローチ」にも余裕があるからだとかんがえられる.

「単純なビジネスモデル」は,重要な要素だ.
広く浅くに対して,狭く深く,が可能になる.
消費者がとっくに「本物志向」になっているから,広く浅くが通じにくくなった.
これが,国内高級ホテル苦戦の原因だとおもう.

従業員の「広く浅く」を,「本物」というキーワードで「狭く深く」させなければならないが,幹部ないしその候補者が,「広く浅く」だったから,なかなか変換ができないのだとかんがえられる.
このブログでも複数回指摘している,個人の価値感と企業組織のあるべき要請が混同されている証拠でもある.

こうした「転換」の困難にあえぐ高級ホテルに,旅館業の後継者を就職させる意味は薄いばかりか,本人の人生目標にたいして時間のムダでもある.
しかし,その前に,高校段階で「理系」を選択する素質がもとめられるという認識が重要だろう.
つまり,中学がことのほか重いということだ.

すると,間に合う間にあわないをこえて,いまの幹部ないしその候補者にたいする「再教育」という点で,「理系的発想」の訓練は必須であることに気づくだろう.
「理系的発想」とは,「ロジカル・シンキング」をいう.

「後継者」からみれば「先代」にあたる,いまの経営者が,自社内に理系的発想の「下地をつくる」ということが,未来の収穫をえるための条件になるのである.